本報告書は、戦国時代の能登国にその名を刻んだ武将、飯川光誠(いがわ みつのぶ)の生涯と、彼が深く関与した能登畠山氏の動向について、現存する史料に基づき詳細に考証することを目的とする。能登畠山氏は、室町幕府において管領家の一つである畠山氏の分国として能登に勢力を張り、守護大名としての権勢を誇った。しかし、その治世後半は、守護権力の弱体化と家臣団の台頭、そしてそれに伴う絶え間ない内部抗争に揺れ動いた時代であった。本報告では、飯川光誠という一人の武将の軌跡を丹念に追うことを通じて、戦国期における守護大名家の実態と、その激動の時代に生きた武士たちの姿を浮き彫りにすることを目指す。
能登畠山氏は、七尾城(現在の石川県七尾市)を本拠とし、能登一国を支配した守護大名である。しかし、戦国時代中期以降、特に七代当主畠山義総の死後は、守護の権威は次第に形骸化し、「畠山七人衆」に代表される遊佐氏、温井氏、長氏などの有力家臣が国政を左右する状況が生まれていた 1 。このような主家の権力が不安定な状況下で、飯川光誠は九代当主畠山義綱の近臣として台頭し、能登の政治・軍事両面において重要な役割を担った人物として注目される。彼の活動は、能登畠山氏の権力構造の変化と深く結びついており、その興亡を理解する上で欠かせない存在と言える。
飯川光誠に関する史料は、残念ながら断片的であり、特にその出自や晩年については不明な点が多い。同時代の他の著名な武将と比較しても、彼個人の詳細な記録は限られている。これは、能登畠山氏そのものが中央の歴史から見れば一地方勢力であり、また、その後の能登が前田氏の支配下に入ったことなども影響していると考えられる。本報告では、現存する数少ない史料、例えば『永光寺文書』などの古文書や、後世の編纂物に含まれる記述を慎重に吟味し、信頼性の高い情報を基に考察を進める。また、諸説ある点についてはそれらを提示し、一方的な断定を避け、多角的な視点から飯川光誠の実像に迫ることを試みる。
西暦 |
和暦 |
飯川光誠の行動・役職 |
畠山氏当主 |
関連事項(内乱、政変、外交等) |
典拠史料(主なもの) |
不明 |
不明 |
生誕 |
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9 |
1547年 |
天文16年 |
畠山義続の被官として、笠松新介の羽咋郡押水における戦功を賞す |
畠山義続 |
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10 |
1551年 |
天文20年 |
(畠山義続隠居、義綱が家督継承) |
畠山義綱 |
能登天文の内乱(前年)の影響 |
3 |
1555年 |
弘治元年 |
畠山義綱と共に温井総貞(紹春)を暗殺。弘治の内乱勃発。 |
畠山義綱 |
弘治の内乱(~永禄3年頃) |
3 |
弘治年間 |
弘治年間 |
弘治の内乱において義綱方として長続連、遊佐続光らと共に戦う |
畠山義綱 |
温井氏、三宅氏、加賀一向一揆などと交戦 |
7 |
永禄3年頃 |
永禄3年頃 |
弘治の内乱鎮圧 |
畠山義綱 |
|
7 |
永禄年間 |
永禄年間 |
「第二次七人衆」の一員となる(江曽山城主) |
畠山義綱 |
義綱政権下で権力集中を図る |
6 |
1566年 |
永禄9年 |
永禄九年の政変。遊佐続光、長続連、八代俊盛らにより、畠山義綱・義続と共に能登を追放される。 |
畠山義綱 |
畠山義慶が擁立される。近江坂本へ亡命。 |
2 |
1568年 |
永禄11年 |
畠山義綱、六角氏・上杉氏・神保氏の協力を得て能登奪回を試みるも失敗。光誠もこれに従ったと推測される。 |
(義綱亡命中) |
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2 |
元亀~天正 |
元亀~天正年間 |
近江坂本にて畠山義綱に近侍し、能登入国を画策。 |
(義綱亡命中) |
『永光寺文書』に活動の痕跡か。 |
9 |
不明 |
不明 |
(畠山義慶に再仕官したとの説あり) |
(畠山義慶) |
説の根拠は『永光寺文書』とされるが詳細は不明。 |
9 |
不明 |
不明 |
死没 |
|
没年、没地共に不明。 |
9 |
飯川光誠の理解を深めるためには、まず彼が属した飯川氏そのものと、その本拠地について考察する必要がある。
能登国鹿島郡には、古く「飯川保(いがわのほ)」と呼ばれる荘園が存在したことが知られている 4 。この飯川保は、現在の石川県七尾市飯川町周辺に比定されており、地名としても「飯川」が残っている。七尾市飯川町には飯川神社が現存し、古くからの地域信仰の中心であったことが窺える 5 。 4 の記述によれば、平安時代にはこの飯川保を在地領主としての飯川氏が領有していたという説があり、これが事実であれば、飯川氏は能登国内において長い歴史を持つ一族であった可能性が考えられる。戦国時代に活躍した飯川光誠も、この飯川保に由来する飯川氏の系譜に連なる人物と見なすのが自然であろう。
飯川氏は、江曽山城(えそやまじょう、曽物を山城(そ物をやまじょう)とも)を居城としていたとされる 6 。この城は、現在の七尾市江曽町にあったと推測されており、「七日城(なのかじょう)」という別名でも呼ばれていた 8 。伝承によれば、江曽山城は物見砦を含む五つの砦から構成される山城であったといい 8 、能登畠山氏の本拠である七尾城の支城の一つとして、あるいは飯川氏独自の拠点として機能していたと考えられる。
飯川氏が平安時代から続く可能性のある在地領主であり、江曽山城という具体的な拠点を有していたという事実は、飯川光誠が単に畠山氏に仕える一代の被官というだけでなく、能登国内に一定の勢力基盤を持つ土豪的性格を帯びた家系の出身であったことを強く示唆している。戦国時代において、守護大名が領国を統治する上で、こうした在地領主層の支持や協力は不可欠であった。飯川氏のような存在が、能登畠山氏の家臣団の中で一定の地位を占め、やがて光誠のような人物が中枢で活躍するに至った背景には、こうした在地性が深く関わっていたと推察される。
飯川光誠が歴史の表舞台に登場するのは、戦国時代も中盤に差し掛かった頃である。
飯川光誠の通称は新次郎と伝えられている 9 。また、若狭守(わかさのかみ)、大炊助(おおいのすけ)、主計助(かずえのすけ)といった官途名を名乗ったとされる 9 。これらの官途は、当時の武士が自らの格式を示すために称したものであり、実際に朝廷から正式に任官されたものか、あるいは主君である畠山氏から許されたものかは判然としない場合が多いが、彼が畠山家中である程度の地位にあったことを示している。後年、光誠は出家し、若狭入道宗玄(わかさにゅうどうそうげん)と号した 9 。
飯川光誠の正確な生年および没年は、残念ながら史料上明らかではない 9 。彼が歴史の記録に初めてその名を見せるのは、能登畠山氏八代当主・畠山義続の被官としてである。天文十六年(1547年)閏七月七日付の文書(『笠松文書』)によれば、飯川光誠は、羽咋郡押水(おしみず、現在の石川県宝達志水町押水)における笠松新介(かさまつしんすけ)の戦功を賞している 10 。この時、光誠は主君である畠山義続の意を受け、その代理として軍功を認定し、賞する立場にあったことがわかる。
この事実は、天文十六年の時点で、飯川光誠が既に成人し、畠山氏の家臣として活動しており、かつ軍事に関する一定の権限と主君からの信頼を得ていたことを示している。彼のその後の活躍期間を考慮すると、この頃には既に相応の年齢に達し、武将としてのキャリアを本格的に開始していたと推測される。若年より畠山氏に仕え、徐々にその才覚を現し、信頼を積み重ねていった過程が想像される。
飯川光誠の生涯は、能登畠山氏内部の激しい権力闘争と分かち難く結びついている。特に、畠山義続・義綱父子の時代における彼の動向は、能登の政治状況を理解する上で極めて重要である。
前述の通り、飯川光誠は史料上の初見において畠山義続の被官として登場する 10 。義続は、能登畠山氏が戦国大名として存続していく上で困難な舵取りを迫られた当主であり、その治世下で光誠は家臣として活動を開始した。
畠山義続の子である九代当主・畠山義綱の代になると、飯川光誠はさらに重用されるようになる 9 。その背景として注目されるのが、光誠が義綱の守役(もりやく)であったとする説である 7 。守役とは、主君の幼少期における養育係であり、傅役(もりやく)とも称される。単に武芸や学問を教授するだけでなく、主君の人格形成にも大きな影響を与える立場であり、主君との間に極めて個人的かつ強固な信頼関係が築かれることが多い。もし飯川光誠が畠山義綱の守役であったとすれば、それは彼のその後の政治的台頭にとって決定的な要因となった可能性が高い。義綱が父・義続から実権を掌握し、自らの政治を行おうとする際に、幼少期から最も身近に仕え、信頼を寄せる光誠を腹心として重用したのは、極めて自然な成り行きであったと考えられる。この守役という関係性が、後の弘治の内乱や永禄九年の政変といった重要な局面における光誠の行動原理を理解する鍵となるかもしれない。
畠山義総の死後、能登畠山氏では家臣団の力が強大化し、守護の権力は著しく弱体化していた。この状況を打破しようとする動きが、弘治の内乱という形で表面化する。
七代当主・畠山義総の時代に最盛期を迎えた能登畠山氏であったが、義総の死後、家中では遊佐氏、温井氏、長氏といった有力な世襲重臣たちが「畠山七人衆」と呼ばれる合議制に近い形で国政を主導するようになった 1 。これにより、八代当主・義続、九代当主・義綱の権力は大きく制約され、時には傀儡に近い状態に置かれることもあった。大名としての主体的な意思決定が困難となり、領国経営にも支障をきたす状況が続いていた。
このような状況を打破し、大名権力の回復を目指したのが、畠山義綱とその父・義続であった。弘治元年(1555年)、義綱父子は、畠山七人衆の中でも特に強大な権勢を誇り、大名権力を蔑ろにする傾向が強かった温井駿河守総貞(ぬくい するがのかみ ふささだ、紹春(じょうしゅん)とも)を誅殺するという強硬手段に打って出た 3 。この温井総貞暗殺の実行において、飯川光誠が中心的な役割を担った、あるいは深く関与したとされている。これは、単なる個人的な確執から生じた事件ではなく、失墜した大名権力を回復し、家中における主導権を奪還しようとする義綱・光誠ラインによるクーデター的行為であったと解釈できる。この行動は、一時的に大名側の権力強化に繋がる可能性を秘めていたが、同時に他の重臣層との間に深刻な亀裂を生じさせ、より大きな混乱を引き起こす火種ともなった。
温井総貞の暗殺は、予想通り能登国内に激震を走らせた。温井氏の一族や与党は直ちに反旗を翻し、同じく七人衆の一角であった三宅氏などもこれに同調、さらには国外の勢力である加賀一向一揆も温井方に加担し、能登全土を巻き込む大規模な内乱へと発展した。これが「弘治の内乱」である 3 。
この危機に際し、飯川光誠は畠山義綱方の中心武将として奮戦した。同じく義綱を支持した重臣には、長続連(ちょう つぐつら)や、当初は温井氏と対立していた遊佐続光(ゆさ つぐみつ)なども名を連ねている 7 。数年にわたる激しい戦闘が繰り広げられたが、義綱・光誠方の奮闘により、永禄三年(1560年)頃までには反乱軍の勢力は駆逐され、内乱は鎮圧されるに至った 7 。この内乱の過程で、義綱方は士気を高め、一時的にではあるが大名による専制的な支配体制を確立したとも評価されている 3 。
弘治の内乱の鎮圧後、能登畠山氏の権力構造は再編されることとなった。その中で、飯川光誠は、新たに編成された畠山家の重臣会議ともいうべき「第二次七人衆」の一員として名を連ねている 6 。この第二次七人衆には、光誠の他に、遊佐続光、長続連、神保総誠(じんぼう ふさのぶ)、三宅総広(みやけ ふさひろ)、三宅綱賢(みやけ つなかた)、遊佐宗円(ゆさ そうえん)といった顔ぶれが見られる 6 。
飯川光誠がこの一員に加えられたことは、弘治の内乱における彼の軍功と、何よりも主君・畠山義綱からの絶大な信任を背景として、彼が名実ともに畠山家中枢の意思決定に関与する立場になったことを明確に示している。しかしながら、「七人衆」という枠組み自体が、元来、大名権力と重臣連合政治との間の微妙なバランスの上に成り立つものであり、その構成員が変化したとしても、新たな権力闘争の火種を内包するものであったことは想像に難くない。事実、この新たな体制もまた、長続きはしなかったのである。
弘治の内乱(1555年~1560年頃)
勢力区分 |
主要人物 |
背景・立場など |
備考 |
畠山義綱方 |
畠山義綱 |
能登畠山氏当主。大名権力の回復を目指す。 |
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飯川光誠 |
義綱の近臣。温井総貞暗殺に関与。 |
江曽山城主 |
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長続連 |
重臣。当初は義綱を支持。 |
穴水城主 |
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遊佐続光 |
重臣。当初は義綱を支持。 |
府中館主 |
温井総貞方 (反乱軍) |
温井総貞(紹春) |
畠山七人衆筆頭格。義綱により暗殺される。 |
天堂城主 |
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温井続宗 |
総貞の子。父の仇討ちのため挙兵。 |
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三宅総広 |
重臣。温井氏に同調。 |
崎山城主 |
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(加賀一向一揆) |
温井方に加勢。 |
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永禄九年の政変(1566年)
勢力区分 |
主要人物 |
背景・立場など |
結果 |
畠山義綱・ 飯川光誠方 |
畠山義綱 |
当主。近臣登用による権力集中を図る。 |
能登追放 |
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飯川光誠 |
義綱の側近。政権の中枢を担う。 |
能登追放 |
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畠山義続 |
義綱の父。 |
能登追放 |
遊佐続光・ 長続連方 (クーデター側) |
遊佐続光 |
重臣。義綱・光誠の権力集中に反発。 |
実権掌握 |
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長続連 |
重臣。義綱・光誠の権力集中に反発。 |
実権掌握 |
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八代俊盛 |
重臣。義綱・光誠の権力集中に反発。 |
実権掌握 |
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(畠山義慶) |
義綱の嫡子。クーデター側により新当主として擁立される(傀儡)。 |
当主就任 |
弘治の内乱を乗り越え、一時的に権力を回復したかに見えた畠山義綱と飯川光誠であったが、その強引とも言える権力集中策は、やがて他の有力重臣たちとの間に深刻な亀裂を生じさせ、新たな政変を引き起こすことになる。
弘治の内乱後、畠山義綱は飯川光誠ら自派の近臣を積極的に登用し、大名による直接的な領国支配、すなわち大名親政の確立を目指した 7 。これは、長年にわたり畠山七人衆などの重臣層によって運営されてきた能登の国政を、大名のもとに一元化しようとする試みであった。しかし、この動きは、これまで畠山家中で大きな影響力を保持してきた遊佐続光、長続連、八代俊盛(やしろ としもり)といった他の有力重臣たちにとっては、自らの権益と発言力の低下を意味するものであり、強い警戒感と反発を招く結果となった 7 。
特に、遊佐続光は、弘治の内乱においては義綱方として戦ったものの、元々畠山家中における外交の取次役などを担い、国内外に広い人脈と影響力を有する人物であった 13 。彼にとって、飯川光誠のような、いわば新興勢力が主君の寵愛を背景に急速に台頭し、国政の中枢を担う状況は容認しがたいものであったと考えられる。 13 の記述によれば、遊佐続光は次第に畠山義綱や飯川光誠との間に軋轢を生じさせていったとされており、この対立は単なる個人的な感情のもつれというよりも、能登畠山家内部における旧来の権力構造(重臣合議制)と、大名親政を目指す新しい動きとの間の構造的な衝突であったと理解できる。
このような緊張関係が高まる中、永禄九年(1566年)、ついに遊佐続光、長続連、そして八代俊盛らはクーデターを決行する 2 。彼らは共謀して兵を動かし、能登守護であった畠山義綱、その父で前当主の畠山義続(当時は徳祐(とくゆう)と号して入道していた)、そして義綱政権の中核を担っていた飯川光誠らを、能登国から追放したのである。これが「永禄九年の政変」と呼ばれる事件である。この政変により、飯川光誠は長年仕えた能登の地を追われることとなった。
能登を追われた畠山義綱、義続、そして飯川光誠ら一行は、近江国(現在の滋賀県)へと逃れた 2 。亡命先として近江が選ばれたのには明確な理由があった。畠山義綱の正室は、近江守護であった六角左京大夫義賢(ろっかく さきょうのだいぶ よしかた)の娘だったのである 15 。この姻戚関係を頼り、一行は六角氏の勢力圏であった坂本(現在の滋賀県大津市坂本)に身を寄せた。戦国時代において、有力大名との縁戚関係は、こうした失脚時の亡命先の確保や、再起のための支援獲得において極めて重要な意味を持った。
しかしながら、この時期の六角氏もまた、決して安泰ではなかった。永禄六年(1563年)には観音寺騒動というお家騒動を経験し 17 、永禄十年(1567年)には家臣団との力関係を示す「六角氏式目」が制定されるなど 20 、その権力基盤は揺らいでいた。そのため、畠山義綱らに対する支援も限定的であった可能性が考えられる。
一方、能登国では、遊佐続光、長続連らが中心となり、追放した畠山義綱の嫡子である畠山義慶(よしよし、当時はまだ元服前で幼名の次郎を名乗っていた)を新たな当主として擁立した 2 。しかし、幼い義慶に実権はなく、実質的には遊佐氏や長氏ら重臣たちによる傀儡政権であった。これにより、能登畠山氏の国政は再び重臣たちの合議によって運営されることとなり、飯川光誠らが目指した大名親政の試みは頓挫した。
永禄九年の政変により能登を追われた飯川光誠は、主君・畠山義綱と共に近江へ亡命し、雌伏の時を過ごすことになる。しかし、彼らは能登への復帰を諦めたわけではなかった。
近江国坂本において、飯川光誠は引き続き畠山義綱に近侍し、その側を離れなかったと伝えられている 9 。 7 の記述には、やや誇張が含まれている可能性もあるが、「飯川光誠(江曽山城)を守護代にして亡命政権を開く」とあり、名目上であったとしても、亡命中の義綱政権において光誠が依然として重要な地位を占めていたことが窺える。これは、義綱の光誠に対する信頼がいかに厚かったかを示すものであろう。
元亀年間(1570年~1573年)から天正年間(1573年~1592年)にかけて、畠山義綱と飯川光誠は、能登への帰国と実権回復を目指して様々な画策を行ったとされる 9 。この動きの痕跡は、羽咋郡にある永光寺(ようこうじ)に伝わる古文書群、いわゆる『永光寺文書』の中にも見られるという 9 。具体的には、永禄十一年(1568年)、義綱は縁戚関係にあった六角氏や、当時越中で勢力を拡大していた上杉氏、さらには神保氏といった外部勢力の協力を得て、能登奪回のための軍事行動を起こしたが、これは失敗に終わっている 2 。
『永光寺文書』には、飯川若狭入道宗玄(光誠の出家後の名)から永光寺の侍者禅師に宛てた書状などが含まれているとされ 10 、これらの文書は、亡命中の光誠が能登国内の有力な寺社勢力と連絡を取り続け、情報収集や帰国への布石を打っていた可能性を示唆している。永光寺は能登国内でも特に格式の高い寺院の一つであり、こうした寺社を通じて国内の情勢を探り、あるいは旧知の勢力に働きかけ、影響力を行使しようとしたのかもしれない。これは、単に受動的な亡命生活を送っていたのではなく、能登への帰還を目指した具体的な活動があったことを裏付けるものと言える。
しかしながら、畠山義綱と飯川光誠によるこれらの能登回復計画は、度重なる試みにもかかわらず、最終的に実現することはなかった 2 。能登国内では遊佐氏らによる支配体制が固まりつつあり、また、六角氏の没落や上杉氏の関心の変化など、外部環境も彼らにとって好転しなかった。
能登回復の夢が絶たれた後、飯川光誠がどのような生涯を送ったのかについては、史料が乏しく、いくつかの説が伝えられているものの、確たるものはない。
一部の記述、特にWikipedia日本語版 9 では、『永光寺文書』を根拠として、「のちに光誠は能登に帰国して畠山義慶に仕えたという」とされている。畠山義慶は、永禄九年の政変で光誠らを追放した遊佐続光らが擁立した当主である。もしこの説が事実であるとすれば、かつて自らを追放した勢力が立てた主君に仕えるという、大きな政治的転身を意味する。
しかし、この「義慶への再仕官説」にはいくつかの疑問点が存在する。例えば、 23 の記述では、飯川光誠は「最後まで追放された畠山義綱に仕えていました。有能でしたし忠臣ですね」と評価されており、義綱への忠節を貫いた人物として描かれている。もし光誠が義慶に仕えたのであれば、それはどのような経緯によるものだったのか、そしてそれまで仕えていた義綱との関係はどうなったのか、といった点が明らかになる必要がある。『永光寺文書』の具体的な内容を詳細に検証し、その記述が何を意味するのかを慎重に解釈する必要があるだろう。「仕えたという」という伝聞形の表現である点も注意を要する。主君を追放した勢力が擁立した新しい幼君に、追放された側の中心人物が、よほど特殊な事情がない限り、再仕官するということは考えにくい。何らかの戦略的な判断があったのか、あるいは情報自体に誤解や誤伝が含まれている可能性も否定できない。
前述の 23 に見られるように、飯川光誠は最後まで主君・畠山義綱に忠義を尽くしたという評価も根強く存在する。この場合、光誠は能登へ帰国することなく、近江あるいはその他の亡命先で、義綱と共にその生涯を終えた可能性が考えられる。畠山義綱自身も、能登への復帰は果たせず、最期は近江の余呉(よご、現在の滋賀県長浜市余呉町)で没したと伝えられている 3 。
結局のところ、飯川光誠の確実な没年や没地は、現在のところ不明である 9 。彼の最期を伝える信頼性の高い史料は見つかっていない。
飯川光誠の最期を考察する上で注意すべき点として、同時代の能登畠山家の他の家臣、特に長続連の最期と混同しないようにする必要がある。長続連は、天正五年(1577年)の上杉謙信による七尾城攻撃の際、城内で上杉方に内応した同僚の遊佐続光によって謀殺されたとされている 22 。これは飯川光誠の最期とは異なる。
飯川光誠の最期が歴史の闇に包まれているという事実は、戦国時代の混乱期において、一度中央の権力闘争から脱落した武将の末路を追うことの困難さを象徴している。有力な庇護者を失い、あるいは再起の機会を得られなかった多くの武将たちが、歴史の記録から静かに姿を消していったように、飯川光誠もまた、その一人であったのかもしれない。
飯川光誠の生涯を振り返るとき、彼をどのように評価し、歴史の中にどう位置づけるべきかという問題が浮かび上がる。
飯川光誠の人物像については、二つの側面から評価が試みられることが多い。
一つは、主君・畠山義綱に対する忠臣としての側面である。弘治の内乱において、義綱の権力回復のために温井総貞暗殺という危険な任務を遂行し、その後の内乱鎮圧にも尽力したことは、義綱への強い忠誠心の発露と見ることができる 7 。さらに、永禄九年の政変で義綱と共に能登を追われた後も、近江で近侍し続け、能登回復を画策したとされる行動 9 は、単なる主従関係を超えた深い信頼と忠節の証と解釈できる。 23 で「有能でしたし忠臣ですね」と評されているのは、こうした点を指しているのだろう。
もう一つは、彼自身もまた能登の権力構造の中で自らの影響力を拡大しようとした、戦国武将としての現実的な側面である。温井総貞の暗殺は、義綱の意向を受けたものであったとしても、結果として光誠自身の政治的発言力を高めることに繋がった。弘治の内乱後、第二次七人衆の一員となり 6 、義綱政権下で主導的な立場を担ったことは 7 、彼が単に主君の命令に従うだけの存在ではなく、自らも権力の中枢で活動することを志向した人物であったことを示している。
飯川光誠の評価は、これら二つの側面を併せ持って考えるべきであろう。「忠臣」という言葉だけで彼の全てを捉えることはできず、戦国武将特有のリアリズムと、主君・畠山義綱との間に育まれた個人的な信頼関係が複雑に絡み合っていたと見るのが妥当である。彼の行動は、畠山義綱という主君の権力回復・強化という目標と、飯川光誠自身の政治的立場の向上という目標が、不可分に結びついていた結果として現れたものと解釈できる。戦国時代においては、主君の勢力拡大が自身の勢力拡大に繋がり、その逆もまた真実であった。
飯川光誠の台頭と、それに続く失脚は、戦国中後期の能登畠山氏内部における権力闘争の様相を象徴的に示している。それは、守護大名としての権威を回復し、大名親政を目指そうとする勢力(畠山義綱と飯川光誠ら近臣)と、長年にわたり国政を主導してきた旧来の重臣連合政治(遊佐氏、長氏らを中心とする勢力)を維持しようとする勢力との間の、抜き差しならない闘争であった。
飯川光誠の存在と活動は、一時的にではあるが大名権力を強化する方向に作用した。しかし、その手法が急進的であったためか、あるいは他の重臣たちの既得権益を脅かすものであったためか、結果としてより深刻な内部対立を激化させ、永禄九年の政変という形で畠山氏のさらなる弱体化を招く一因となった可能性も否定できない。
能登畠山氏の歴史は、室町時代から続く守護大名体制が、戦国時代という激動期においてどのように変質し、あるいは内部から崩壊していったかの一つの典型的な事例を示していると言える。飯川光誠の生涯は、その過渡期における家臣の動向と、主家との関係性の複雑さ、そして権力闘争の非情さを具体的に示す事例として、歴史的な重要性を持つ。
主君・畠山義綱と共に能登を追われた後の飯川光誠の人生は、いかに一個人が有能であり、忠誠心に篤かったとしても、強力な後ろ盾を失い、時代の大きな趨勢に抗うことの難しさを示しているとも言える。永禄九年の政変以降、能登国内では遊佐氏らによる支配が確立し、また、中央では織田信長が急速に台頭し、隣国の越後では上杉謙信が強大な勢力を誇っていた。このような状況下で、亡命した畠山義綱と飯川光誠が能登への復帰を果たすことは極めて困難であった。
彼らの能登回復計画が頓挫した背景には、能登国内の情勢だけでなく、こうした中央や近隣の有力大名の動向が大きく影響していた。飯川光誠の物語は、戦国時代における個人の能力や忠誠心だけではどうにもならない、より大きな政治的・軍事的構造変革の波に翻弄される人々の姿を映し出している。能登という一地方の出来事もまた、決して中央の政局と無縁ではいられなかったのである。彼の生涯は、戦国という時代の厳しさと、その中で生きる武将たちの悲哀を物語っている。
飯川光誠は、戦国時代の能登国において、主君である能登畠山氏九代当主・畠山義綱を熱心に支え、一時的には家中の権勢を掌握し、内政・軍事の両面で重要な役割を果たした武将であった。彼は、守護権力の回復を目指す義綱の腹心として、弘治の内乱においては温井総貞の暗殺に関与し、その後の内乱鎮圧にも貢献した。しかし、その急速な台頭と権力集中は、遊佐続光や長続連といった他の有力重臣たちとの間に深刻な対立を生み、結果として永禄九年の政変を引き起こし、主君・義綱と共に能登を追放されるという悲運に見舞われた。近江へ亡命した後も、義綱に近侍し能登への帰国と実権回復を画策したが、その夢は叶うことなく、その後の消息は詳らかではない。
飯川光誠の生涯は、戦国期における守護大名家の内情、特に主君と家臣団との間の権力闘争の熾烈さ、そして一度権力の中枢から離れた武将が再起することの困難さを如実に物語っている。彼は、能登畠山氏という一地方勢力の中での出来事に関わった人物ではあるが、その活動は戦国時代という大きな時代の潮流の中で捉える必要がある。確実な史料の乏しさから、その全貌を詳細に解明することは容易ではないものの、断片的な記録から垣間見えるその活動は、能登畠山氏の歴史、ひいては戦国時代史における守護大名体制の変容を理解する上で、示唆に富む一つの事例と言えよう。
飯川光誠に関する研究は、依然として多くの課題を残している。特に、彼の後半生や、畠山義慶への再仕官説の真偽については、その根拠とされる『永光寺文書』をはじめとする現存する可能性のある一次史料の更なる調査・分析が不可欠である。また、能登畠山氏の他の家臣や、関連する周辺地域の史料との比較検討を通じて、飯川光誠が生きた時代の能登の実像がより具体的に明らかになることが期待される。今後の研究の進展により、この戦国能登の知られざる武将の姿が、より鮮明に歴史の中に描き出されることを願うものである。