最終更新日 2025-06-07

飯田興秀

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戦国武将飯田興秀に関する調査報告

1. はじめに

本報告書の目的は、戦国時代の武将、飯田興秀(いいだ おきひで)の生涯と事績について、現存する史料に基づき多角的に検証し、その歴史的意義を明らかにすることである。飯田興秀は、周防の戦国大名大内氏の家臣として、特に九州方面の統治や外交、さらには大内氏内部の政変において重要な役割を果たした人物として注目される。本報告書では、彼の出自から最期、そして後世への影響に至るまでを詳細に追う。

飯田興秀は、大内氏の権勢とその衰退、そして毛利氏の台頭という、中国・九州地方における戦国時代の大きな権力構造の変化の渦中にいた人物である。彼の動向は、単なる一個人の事績に留まらず、当時の武家社会のあり方や、主家と家臣の関係性、さらには地域支配の実態を考察する上で重要な示唆を与える。

2. 飯田興秀の出自と大内氏への仕官

2.1. 生誕と飯田氏の背景

飯田興秀は、永正3年(1506年)に飯田弘秀の子として誕生した 1 。その官途名は弥五郎、後に大炊助、石見守を称したとされる 1 。特に「石見守」の称は、軍記物語である『陰徳太平記』においても「飯田石見守興秀」として確認でき 2 、彼がある程度の地位にあったことを示唆している。

飯田氏の出自に関しては、一説に建久3年(1192年)に土岐頼房の子・重房が豊前国安心院永池村(現在の宇佐市安心院町)に移り住み、その地名を姓としたのが始まりであるとされる 1 。この情報が興秀の直接の家系を示すものか、あるいは同姓の別系統の可能性も考慮する必要がある。例えば、毛利氏家臣の飯田氏については、信濃国飯田荘を領した飯田義基を祖とし、その曾孫・飯田師貞の代に毛利時親に従って安芸国に下向したと伝えられ、毛利水軍を率いた飯田義武の系統とは異なるとされている 3 。大内氏に仕えた興秀の系統が、これらのいずれかと関連があるのか、あるいは独自の系譜を持つのかは、現時点の資料からは断定が難しい。しかし、興秀が九州方面、特に豊前での活動に深く関与している点を鑑みれば、豊前国安心院に由来を持つ飯田氏の系統である可能性は検討に値する。もしそうであれば、大内氏の九州支配において、現地の事情に明るい人材として重用された背景が考えられる。

2.2. 大内義興・義隆への臣従

興秀は、大内氏の当主であった大内義興から偏諱(「興」の字)を受けていることから、義興の代から長く大内氏に仕えていたことが明らかである 1 。主君から一字を賜ることは、家臣にとって名誉であり、主君との強い結びつきを示す。これは、興秀が早くからその能力を認められ、信頼を得ていたことの証左と言えよう。享禄元年(1528年)に義興が没した後は、その後を継いだ大内義隆に仕えた 1

2.3. 武将・奉行としての器量

飯田興秀は、弓の腕に長けていたと記録されており 1 、これは武将としての基本的な武芸の素養が高かったことを示している。しかし、彼の能力は武勇に留まらなかった。奉行としての手腕にも優れ、九州地方の軍権を任されたと伝えられている 1 。これは、単なる武人としてだけでなく、統治や行政に関する能力も高く評価されていたことを示唆する。

その活躍と能力が認められ、天文19年(1550年)7月17日には従五位下に叙任されている 1 。従五位下は、大内家の家臣団の中でも相当高い地位であり、彼が大内氏政権の中枢近くで重きをなしていたことを物語る。義興からの偏諱、そして義隆の代における九州の軍権掌握や従五位下への叙任という経歴は、興秀が単なる世襲の家臣というだけでなく、その実力と経験によって大内氏の九州支配に不可欠な人材へと地位を高めていった過程をうかがわせる。

表1:飯田興秀 関連年表

年代

出来事

典拠

永正3年(1506年)

飯田弘秀の子として誕生。

1

(義興期)

大内義興に仕え、偏諱(「興」の字)を受ける。

1

享禄元年(1528年)

大内義隆に仕える。

1

天文4年(1535年)

御笠郡代として岩屋城にて籠手田定経に故実を伝授。

4

(特定年不明)

博多代官、豊前寺社奉行に任じられ、九州地方の軍権を掌握。

1

天文19年(1550年)

7月17日、従五位下に叙任。

1

天文20年(1551年)

大寧寺の変。陶隆房に味方し、大内義隆自害に関与。大友晴英(後の大内義長)を擁立。

1

天文22年(1553年)

大内義長より嫡男が偏諱(「長」の字)を受け長秀と名乗る。

1

弘治3年(1557年)

死去。

1

この年表は、飯田興秀の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。これにより、彼の経歴の変遷と、彼が生きた時代の大きな流れを概観することができる。特に、大内氏内部での地位の上昇、大寧寺の変という大きな転換点、そして最期に至るまでの流れが明確になり、後続の各節で詳述される個々の事績が、彼の人生全体の中でどのような位置づけにあるのかを理解する一助となるであろう。

3. 大内氏家臣としての活動

飯田興秀は、大内氏の家臣として多岐にわたる分野でその能力を発揮した。特に九州方面における彼の活動は、大内氏の領国経営と深く結びついている。

3.1. 博多代官としての職務と九州支配への関与

興秀は、大内義興の時代から博多代官を務めていたとされる 1 。博多は当時、大陸や朝鮮半島との交易で栄える国際貿易港であり、経済的にも戦略的にも極めて重要な拠点であった。その代官を任されるということは、興秀が経済や交易に関する実務能力に長けていただけでなく、大内氏当主から厚い信頼を得ていたことを物語る。さらに、九州地方の軍権を任されたとの記述 1 と合わせると、興秀が大内氏の九州支配において、文武両面にわたる中心人物の一人であった可能性が極めて高い。

3.2. 豊前寺社奉行としての活動

興秀の活動は商業都市博多に留まらず、豊前国においても及んでいる。『豊前平野文書』には、彼が豊前寺社奉行としての役割を果たしていたことを示唆する記録が見られる 1 。『豊前平野文書』の関連情報には、「飯田興」「飯田興秀」「飯田長秀」といった名前が頻出語句として挙げられており 5 、この史料が興秀およびその一族の豊前における具体的な活動を記録している可能性が高い。寺社奉行は、領国内の寺社勢力との関係調整や宗教政策を担当する重要な役職であり、興秀が単なる武官としてだけでなく、領国経営における多岐にわたる分野でその手腕を発揮していたことを裏付ける。

3.3. 御笠郡代及び岩屋城督としての役割

さらに、興秀は筑前国御笠郡の郡代も務めていた。16世紀前半頃、彼はこの職にあり、太宰府天満宮との連絡・交渉役も担っていたとされる 6 。そして、天文4年(1535年)には、平戸の籠手田定経が飯田興秀から岩屋城において故実の伝授を受けたと記録されており、この時、興秀は御笠郡代であると同時に岩屋城を預かる城督(城代)を兼ねていたことがわかる 4 。岩屋城は、四王寺山の中腹に築かれた山城であり、大友氏との国境に近い筑前支配の軍事的な要衝であった 7 。興秀がこの城の責任者であったことは、大内氏の対大友氏戦略上、あるいは筑前支配における最前線の防衛を任されていたことを意味する。

博多代官(経済・外交)、豊前寺社奉行(宗教・民政)、御笠郡代・岩屋城督(軍事・太宰府関連)という複数の役職を歴任した事実は、飯田興秀が大内氏の九州支配において、経済、軍事、宗教、地域行政といった広範な分野で中心的な役割を担っていたことを明確に示している。これは、彼が特定の専門分野に特化した官僚ではなく、広範な統治能力を持つ総合的な実務家、あるいは複数の専門性を兼ね備えた稀有な人材であった可能性を示唆する。

3.4. 博多善導寺との関わり

飯田興秀の具体的な職務遂行の一端を示す史料として、博多の善導寺との関わりを伝えるものがある。九州大学附属図書館所蔵の史料によれば、大内氏の奉行人が博多善導寺(久留米市の著名な大本山善導寺とは別の、博多に存在した同名寺院か、その管轄下にあった施設の可能性が考えられる)への諸人の寄宿を停止する旨の確認を飯田興秀に伝達し、興秀がその内容を遵行したことが記されている 9

具体的には、当時の筑前守護代であった杉武連が善導寺への寄宿を企てた際に、善導寺側がこれを大内氏に愁訴した。その結果、大内氏奉行人連署の奉書が杉武連と飯田興秀の両名に出され、諸人の寄宿を停止するよう命じられたという 9 。この一件は、飯田興秀が大内氏本拠(山口)の意向を受けて、博多の有力寺社に関する具体的な指示を実行する立場にあったことを示す貴重な記録である。大内氏の中央の奉行人グループと、現地の実行責任者である興秀との間に明確な指示系統が存在したことを示しており、興秀が中央の決定を現地で確実に実行する、いわば方面軍の司令官兼行政官のような重責を担っていたと推測できる。彼の九州における広範な権限は、大内氏当主からの直接的かつ厚い信頼の現れと言えるだろう。

また、御笠郡代として太宰府天満宮との交渉役を務め、岩屋城で故実を伝授したという事実は、彼の職務が単なる武力行使や行政手続きに留まらず、文化的な側面をも含んでいたことを示している。これは、戦国時代の武将が、地域の有力者(この場合は太宰府天満宮のような宗教的権威)との関係構築や、家臣への教育・指導において、文化的素養を有効に活用していた実例と見ることができる。

4. 大寧寺の変と飯田興秀

天文20年(1551年)、大内氏の歴史を大きく揺るがす事件が発生する。重臣・陶隆房(後の晴賢)による主君・大内義隆への謀反、いわゆる大寧寺の変である。この政変において、飯田興秀は重要な役割を演じた。

4.1. 陶隆房(晴賢)の謀反への加担

大寧寺の変に際し、飯田興秀は陶隆房方に味方した 1 。大内義隆の治世末期には、文治派の重用などにより、武断派の陶隆房らを中心に不満が高まっていたとされる 10 。興秀が陶方に与した具体的な理由は史料に明記されていないものの、彼自身も武断派に近い立場であったか、あるいは大内氏内部の力関係の変化を敏感に察知し、時流に乗る形で自身の勢力維持・拡大を図った可能性が考えられる。いずれにせよ、九州方面の軍権を掌握していた興秀の加担は、陶隆房にとって計り知れない力となったことは想像に難くない。彼のこの戦略的判断は、単なる個人的な選択を超え、大内氏の権力構造を根底から揺るがすものであり、義隆方の急速な弱体化を招き、変の成功を決定づける一因となった可能性が高い。

4.2. 大内義隆の最期への関与

飯田興秀を含む陶方の蜂起の結果、長年仕えた主君であった大内義隆は長門国の大寧寺で自害に追い込まれた 1 。この行動は、戦国時代の武将が直面する厳しい現実と、主家内部における対立の深刻さを如実に示している。後世の儒教的倫理観からは主君殺しと非難される可能性もあるが、戦国時代の「下剋上」の風潮や、家臣が主家や自身の家の存続のために最善と信じる道を選ぶという現実を考慮すると、彼の行動を一概に断罪することは難しい。むしろ、当時の武士の行動原理や価値観を理解する上での重要な事例と言える。

4.3. 大内義長(大友晴英)の擁立

大内義隆の自害後、飯田興秀らは、義隆の養子であった大友晴英(おおとも はるひで)を大内氏の新しい当主として擁立した 1 。大友晴英は、豊後国の大名・大友義鑑の次男であり、義隆の姉婿の子という血縁関係にあった 11 。この擁立劇の背景には、大内氏と隣国の大友氏との関係修復や、陶隆房を中心とする新政権の正統性を内外に示すという戦略的な狙いがあったと考えられる。

そして天文22年(1553年)、大友晴英が元服し、室町幕府第13代将軍・足利義輝(当時は義藤)から一字を賜り「大内義長」と改名すると、飯田興秀の嫡男もまた、この新しい主君・義長から偏諱(「長」の字)を賜り、「長秀」と名乗っている 1 。これは、興秀が大内新体制においてもその功績を認められ、重用されたことを示す明確な証拠である。義長の擁立に功があった興秀は、新政権下でもその地位を維持し、嫡男が偏諱を受けるなど厚遇された。これは、陶隆房(晴賢)が興秀の実力を引き続き高く評価し、政権の安定のためには彼の協力が不可欠であると認識していたことを示唆している。また、義長が大友氏出身であることから、興秀の立場は、大内氏と大友氏との間のパイプ役としての新たな意味合いを持つようになった可能性も考えられ、これは後の彼の子孫が大友氏に仕える伏線ともなり得る。

5. 飯田興秀の最期

大内氏の重臣として権勢を振るった飯田興秀であるが、その最期についてはいくつかの説があり、判然としない部分が多い。

5.1. 弘治3年(1557年)の死

興秀は弘治3年(1557年)に死去したとされている 1 。しかし、その具体的な死因については不明である 1 。この時期は、大内氏にとってまさに激動の時代であった。

5.2. 毛利氏による防長経略との関連

興秀が死去した弘治3年(1557年)は、奇しくも毛利元就による防長経略(周防・長門両国の攻略)が本格化し、主君・大内義長が毛利氏に攻め滅ぼされた年でもある 1 。弘治元年(1555年)の厳島の戦いで陶晴賢が毛利元就に敗死した後、毛利氏の攻勢は大内領深くに及び、大内氏の命運は風前の灯火であった。このため、飯田興秀がこの防長経略の戦いの中で、主家と運命を共にした可能性が指摘されている 1

5.3. 大友氏領内での死去の可能性

一方で、異なる可能性も示唆されている。興秀の二人の子、長秀(後の鎮敦)と義忠は、興秀が死去する前年の弘治2年(1556年)には、大内義長の兄にあたる豊後の大友義鎮(後の宗麟)を頼ってその家臣となっている 1 。もし興秀が晩年、息子たちと行動を共にしていたとすれば、大友氏の領内(豊後国など)で病死、あるいはその他の理由で亡くなった可能性も否定できない 1

5.4. 且山城における動向と内藤隆世との関係

興秀の最期を考える上で注目されるのが、大内義長が毛利氏に追われて且山城(勝山城、現在の山口県下関市)に籠城した際の記録である。関連史料によれば、この時、飯田興秀は仁保隆慰と共に大内義長の命を受け、義長と対立状態にあった重臣・内藤隆世の陣営(古熊の西方寺)へ赴き、和睦を説得しようと試みている 13 。同史料には「三月三日、興秀等が来て和睦の相談をしたが、隆(世)…」とあり、この時点(おそらく弘治3年3月)では興秀は生存し、義長の側近として活動していたことが確認できる。

そして、同史料は「四月二日、隆世は且山城で死に、その翌日、義長は長福寺で死んだ」と記している 13 。内藤隆世と大内義長の最期は弘治3年4月の出来事であり、興秀の死が同年であることから、これらの出来事と密接に関連している可能性は非常に高い。興秀が防長経略の最終局面まで義長と行動を共にし、その中で戦死したか、あるいは義長の死を見届けた直後に亡くなったというシナリオも十分に考えられる。大寧寺の変では義隆を裏切る形となった興秀だが、義長に対しては最後まで忠誠を尽くしたと解釈することも可能であり、戦国武将の忠誠心が必ずしも最初の主君に固定されるものではなく、時々の状況や擁立した主君との関係性によって変化しうることを示している。

興秀の死因や正確な死没地が不明であることは、大内氏滅亡という戦国末期の混乱した状況を象徴している。主家が滅亡する過程で、多くの家臣が流浪したり、戦死したり、あるいは新たな主君を求めて離散しており、個々の武将の最期が詳細に記録されないケースは少なくない。興秀もその一人であった可能性が高い。

5.5. 墓所について

飯田興秀の明確な墓所の所在を示す情報は、現時点の調査資料からは見当たらない。例えば、 18 は豊前市の求菩提に関するものであり、 12 は大友宗麟の墓所について述べており、興秀とは直接関係がない。また、 19 で言及されている岩屋城の墓は、後の時代の城主・高橋紹運のものである 7

興秀の死に先立ち、息子たちが大友氏に仕官している点は、大内氏の将来を見限り、飯田家の存続のために新たな活路を求めた戦略的な動きと見ることができる。これは戦国時代の武家が、主家の盛衰を見極めながら、一族の血脈を保つために行った現実的な対応の一例である。興秀自身がこの動きを承認、あるいは指示した可能性も考えられ、彼の先見性や家に対する責任感を示すものかもしれない。

6. 飯田興秀の子孫

飯田興秀の死後、彼の子たちは新たな主君に仕えることで家名を繋いだ。その動向は、戦国時代の武家の流転と存続戦略を如実に示している。

6.1. 嫡男・飯田長秀(後の鎮敦)

興秀の嫡男は、当初、大内義長から偏諱を受け「長秀」(ながひで)と名乗っていた 1 。しかし、大内氏の勢力が衰退し、父・興秀が死去する前年の弘治2年(1556年)頃には、大内義長の兄である豊後の大友義鎮(おおとも よししげ、後の宗麟)に仕えることとなった。その際、新たな主君である義鎮から偏諱(「鎮」の字)を賜り、「鎮敦」(しげあつ)と改名した 1 。主君の変更に伴う改名は、新たな主君への忠誠を内外に示す当時の慣習であり、鎮敦が大友氏の家臣として正式に受け入れられたことを物語る。旧主(大内義長)から受けた「長」の字を捨て、新主への忠誠を明確に示すこの行為は、名前(特に偏諱)が戦国時代の武士にとって、自身のアイデンティティと主君との結びつきを示す重要な要素であったことを示している。

6.2. 次男・飯田義忠

鎮敦の弟である飯田義忠(いいだ よしただ)も、兄と共に大友義鎮に仕えた 12 。義忠は、特に義鎮の義兄にあたる重臣・田原親賢(たわら ちかかた)に属して活躍したと伝えられている 12 。彼が名乗った「義」の字は、大内義長または大友義鎮から賜ったものではないかと推測されている 14

興秀の子たちが、大内氏滅亡後にその旧敵対勢力の一つであった大友氏に仕えたという事実は、戦国時代の武家の主従関係がいかに流動的であったかを示す典型例である。特に、大内義長が大友氏出身であったという縁が、彼らの仕官をいくらか容易にした可能性は否定できない。また、義忠が田原親賢という大友宗麟の重臣かつ縁戚の人物に属したことは、単に大友家に仕えるだけでなく、その中核に近い部分で活動する機会を得たことを示唆しており、縁故関係が戦国武将のキャリア形成において重要な役割を果たしたことを裏付けている。

兄弟が揃って大友氏に仕えたことは、一見するとリスクを集中させるようにも見えるが、当時の大友氏は九州最大の勢力の一つであり、最も有望な仕官先と判断した結果であろう。あるいは、父・興秀が晩年に大友氏との関係を(例えば大内義長を通じて)深めていた何らかの伏線があり、その繋がりを頼ったのかもしれない。いずれにせよ、これは飯田家という「家」を存続させるための、当時の武士としては合理的な選択であったと言える。

7. 文化人としての一面

飯田興秀は、武勇や行政手腕に優れた武将であっただけでなく、文化的な素養も兼ね備えていた人物であったことが史料からうかがえる。

7.1. 太宰府天満宮における連歌活動

福岡県関連の史料によれば、飯田興秀は文化人としての側面も持ち、太宰府天満宮で催されていた月次連歌(つきなみれんが)において、毎月の担当者を定める役割を担い、自らもその連歌会に参加していたと記されている 6 。太宰府天満宮は、学問・文芸の神として知られる菅原道真を祀っており、古来より文化的活動の中心地の一つであった 15 。戦国時代の武将がこのような場で連歌に参加することは、自身の教養の高さを示すと共に、地域の文化人や宗教勢力との交流を深め、関係を円滑にするという実利的な意味合いも持っていたと考えられる。

7.2. 岩屋城における故実の伝授

さらに、天文4年(1535年)には、平戸の領主であった籠手田定経(こてだ さだつね)が、飯田興秀から岩屋城において故実(武家の礼法や有職故実など)の伝授を受けたと記録されている(『聞書秘説』) 4 。これは、興秀が武家社会における伝統的な知識や礼儀作法にも通暁しており、それを他者に教授する立場にあったことを示す貴重な記録である。武将としての武勇や行政能力だけでなく、教育者・指導者としての一面も持ち合わせていたことがうかがえる。

興秀の連歌への参加や故実の伝授といった文化的活動は、戦国武将が単に武力を行使するだけでなく、教養や文化的活動を通じて地域社会に影響力を及ぼし、支配の正当性を高めたり、円滑な統治に繋げようとしていた可能性を示唆する。特に太宰府天満宮のような宗教的・文化的権威のある場所での活動は、自身の文化的ステータスを高め、地域の名士たちとのネットワークを構築する上で有効であったと考えられる。

大内氏は、京都の文化を積極的に導入し、本拠地である山口を中心に高度な文化(いわゆる大内文化)を花開かせたことで知られている。興秀が連歌や故実に通じていた背景には、こうした大内氏の文化的土壌の影響があった可能性が高い。彼の文化人としての一面は、大内氏家臣団の層の厚さと、武辺一辺倒ではない多様な人材が活躍していたことを示す一例と言えるだろう。また、興秀が籠手田定経に故実を伝授したことは、単なる教育活動に留まらず、大内氏の勢力圏に属する(あるいは影響下にある)武将に対して、大内氏流の秩序や価値観を浸透させるという政治的・社会的な意図があった可能性も考えられる。故実の共有は、主家を中心とした一定の行動規範や共通認識を形成し、家臣団や同盟勢力の結束を強化する役割も果たし得たのである。

8. 史料における飯田興秀

飯田興秀に関する情報は、いくつかの種類の史料に見出すことができる。これらを検討することで、彼の人物像や活動をより深く理解することが可能となる。

8.1. 『豊前平野文書』における記述

前述の通り、『豊前平野文書』には飯田興秀の名前が見え、特に豊前寺社奉行としての活動などが記録されていると推測される 1 。この史料群は、現存していれば一次史料に近い古文書であり、興秀の具体的な行政活動や九州における大内氏の支配の実態を知る上で非常に重要な価値を持つ。

8.2. 『陰徳太平記』における記述

江戸時代に成立した軍記物語である『陰徳太平記』には、「飯田石見守興秀」としてその名が登場する 2 。具体的には、大内義隆が出陣する際の供奉家臣団の一覧の中にその名が確認できる 2 。『陰徳太平記』は、物語的な脚色が含まれる可能性があり、史料としての取り扱いには慎重な批判が必要であるが、当時の武将の一般的なイメージや、飯田興秀がある程度の知名度を持っていたことを示す参考にはなる。例えば、同書が熊谷信直について「器量骨柄世に勝れ、智勇才力人に超えたれば」と記しているように 16 、武将の人物評を記す傾向があることがわかる。

8.3. 米原正義氏による研究

近年の学術研究においても、飯田興秀は注目されている。歴史学者の米原正義氏は、大内氏の文芸活動を解明する研究の中で、家臣である飯田興秀について言及している 17 。これらの情報は、岸田裕之氏の研究プロジェクトに関する報告書の中で、米原氏の研究が先行研究として取り上げられている形で示されている。具体的には、大内氏が所蔵した武家故実書の研究に関連して、飯田興秀がその利用者、あるいは伝承に関わった人物として注目されているようである。

専門の研究者によって飯田興秀が研究対象とされているという事実は、彼が歴史学的に見て単なる一武将に留まらない、注目すべき人物であることを示している。特に武家故実との関連で研究されている点は、彼の文化人としての一面や、大内氏の文化的活動における役割を学術的に裏付けるものである。

『豊前平野文書』のような古文書からは行政官としての実務的な興秀像が、『陰徳太平記』のような軍記物語からは大内氏の重臣としての武将像が、そして米原氏らによる研究からは故実に通じた文化人としての一面が浮かび上がる。これらの異なる種類の史料を組み合わせることによって、飯田興秀という人物の多面的な姿をより立体的に理解することができる。彼の活動は、大内氏の武家故実の継承や実践といった、より専門的な歴史研究のテーマとも関連しているのである。

しかしながら、現存する史料だけでは、飯田興秀の生涯の全てが明らかになるわけではない。特に大寧寺の変における具体的な動機や、その最期の詳細など、不明な点も多く残されている。『豊前平野文書』の詳細な分析や、その他の未発見・未調査の地方史料の発掘・研究が進むことにより、将来的に新たな興秀像が明らかになる可能性も残されていると言えよう。

9. 結論

飯田興秀は、戦国時代に大内氏の重臣として活躍した武将であり、その生涯は当時の政治的・社会的変動を色濃く反映している。

まず、興秀は大内義興・義隆の二代にわたり大内氏に仕え、特に九州方面の統治において博多代官、豊前寺社奉行、御笠郡代兼岩屋城督といった要職を歴任した。これにより、軍事、行政、経済、外交といった多岐にわたる分野でその卓越した手腕を発揮し、大内氏の九州支配を支える中心人物の一人であったことが確認できる。

天文20年(1551年)に勃発した大寧寺の変においては、陶隆房(晴賢)に与し、主君大内義隆を死に追い込み、大友晴英(後の大内義長)を新たな当主として擁立するなど、大内氏の運命を左右する極めて重要な役割を果たした。この行動は、戦国時代の武将が直面した厳しい選択と、主家内部における権力闘争の現実を如実に物語っている。

弘治3年(1557年)、毛利氏による防長経略の最中に死去したとされるが、その死因や正確な場所については不明な点が多い。最期まで大内義長と行動を共にしていた可能性も史料から示唆されており、彼の最期は大内氏滅亡という歴史的転換点と深く結びついている。

また、興秀は武人・行政官としての側面だけでなく、太宰府天満宮での連歌会への参加や、岩屋城での故実の伝授といった記録から、文化的な素養も持ち合わせていたことがうかがえる。これは、京都文化の影響を強く受けた大内文化の土壌で育まれた家臣の一人としての特徴を示すものであり、彼の多面性を際立たせている。

その子孫は、大内氏滅亡後、父祖の築いた縁故を頼って豊後の大友氏に仕え、家名を後世に繋いだ。これは、主家の盛衰が激しい戦国時代において、武家が如何にして一族の存続を図ったかを示す一例と言える。

飯田興秀の名は、『豊前平野文書』や『陰徳太平記』といった史料に記され、さらには米原正義氏らによる学術的研究の対象ともなっている。これらの事実は、彼が戦国時代の地方支配の実態や武家社会のあり様を理解する上で、決して無視できない重要な存在であることを示している。

総括すると、飯田興秀の生涯は、戦国時代における有能な家臣が、主家の盛衰という大きな時代のうねりの中で、いかにして自身の能力を発揮し、時には非情とも言える決断を下しながらも、家名を保とうとしたかを示す縮図であると言える。彼の軍事・行政・文化にまたがる多面的な活動は、戦国武将のイメージを単なる武勇や権謀術数だけに限定せず、行政官、文化人といった側面からも総合的に捉えることの重要性を示唆している。彼の存在と活動は、大内氏の九州支配の実態、大寧寺の変後の大内氏の動向、そして大内氏滅亡に至る過程を具体的に考察する上で、貴重かつ興味深い事例を提供するものである。

引用文献

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  4. 戦国時代の大宰府と山城 https://cdn.sitekitt.com/kotodazaifu/files/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E5%A4%A7%E5%AE%B0%E5%BA%9C%E3%81%A8%E5%B1%B1%E5%9F%8E.pdf
  5. 豊前平野文書 - Google Books https://books.google.com/books/about/%E8%B1%8A%E5%89%8D%E5%B9%B3%E9%87%8E%E6%96%87%E6%9B%B8.html?id=KQeoAAAAIAAJ
  6. 令和の都太宰府ゆかりの人々 https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/23045.pdf
  7. 岩屋城跡 - 福岡県太宰府市公式ホームページ https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/kanko/12002.html
  8. 岩屋城の見所と写真・400人城主の評価(福岡県太宰府市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/487/
  9. 大内氏の博多支配機構 - 九州大学 https://api.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/2230665/p001.pdf
  10. 大内義隆 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%9A%86
  11. 大内義長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E7%BE%A9%E9%95%B7
  12. 大友義鎮 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AE
  13. 内藤氏 藤原道長の子孫・大内氏重臣の家なのに毛利家臣に - 周防山口館 https://suoyamaguchi-palace.com/naito-family/
  14. 大友義鎭とは? わかりやすく解説 - Weblio国語辞典 https://www.weblio.jp/content/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%BE%A9%E9%8E%AD
  15. 5月31日「笠着連歌」のお誘い|おしらせ - 太宰府天満宮 https://www.dazaifutenmangu.or.jp/archives/1756
  16. 熊谷信直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E4%BF%A1%E7%9B%B4
  17. 18520499 研究成果報告書 - KAKEN https://kaken.nii.ac.jp/file/KAKENHI-PROJECT-18520499/18520499seika.pdf
  18. 求菩提 - 集落データベース https://fromvillage.org/articles/kubote
  19. 公文書館だより1から10(PDF:1.3MB) - 太宰府市 https://www.city.dazaifu.lg.jp/uploaded/attachment/4124.pdf