春日虎綱、一般には高坂昌信の名で広く知られるこの人物は、戦国時代の甲斐武田氏において、武田信玄・勝頼の二代にわたり重臣として仕えた重要な武将である 1 。彼の生涯は、武田氏の勢力拡大期からその終焉に至るまでの激動の時代と深く結びついている。虎綱は、単なる武将としての顔だけでなく、信濃国境の要衝である海津城の城代としての行政手腕、そして武田氏の軍学や歴史を伝える上で欠くことのできない史料『甲陽軍鑑』との深い関わりなど、多岐にわたる側面を持つ 1 。
彼の評価は、武田四天王の一人に数えられるほどの武勇と、「逃げ弾正」と称された慎重な戦術眼、さらには『甲陽軍鑑』の口述者とされることから、後世に武田氏の姿を伝える語り部としての役割も担っている点で、他の多くの戦国武将とは一線を画す。この報告書では、春日虎綱の出自から武田家への仕官、武勲、信玄死後の動向、そして『甲陽軍鑑』との関連性、さらには彼の人となりや後世の評価に至るまでを、現存する史料や研究に基づいて詳細に検討し、その歴史的意義を明らかにすることを目的とする。彼の存在は、武田氏の盛衰を理解する上で不可欠であり、その多面的な活動は戦国時代の武将のあり方を考察する上で貴重な事例を提供する。
春日虎綱は、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(現在の山梨県笛吹市石和町)に生まれたとされる 1 。父は春日大隅といい、百姓であったとも、あるいは土豪であったとも伝えられている 1 。幼名は春日源五郎といった 1 。
『甲陽軍鑑』によれば、天文11年(1542年)に父・大隅が死去した後、姉夫婦との遺産相続を巡る訴訟に敗れ、身寄りを失うという苦難を経験した 1 。しかし、その後、武田晴信(後の信玄)に見出され、近習として召し抱えられたという 1 。この出自からの立身は、当時の武田氏における人材登用の柔軟性を示唆している。戦国時代は身分制度が強固であったが、虎綱が譜代家老衆の一角を占めるに至った事実は 1 、信玄が家柄だけでなく実力や忠誠心を重視して家臣を登用した可能性を物語る。このような能力主義的な側面が、武田軍団の強さの一因であったとも考えられ、虎綱のキャリアはその好例と言えるだろう。
信玄の近習として武田家に仕え始めた虎綱は、当初は使番などの役職を務めた 1 。その後、天文21年(1552年)には100騎持ちの足軽大将となり、春日弾正忠を名乗ったとされる 1 。この昇進は、虎綱が信玄の信頼を着実に得ていったことを示している。
虎綱と信玄の関係については、特筆すべき説が存在する。天文15年(1546年)の日付を持つ武田晴信の誓詞(東京大学史料編纂所蔵文書)が、「春日源助」(虎綱の若い頃の名とされる)に宛てられたものであり、晴信と虎綱の衆道(同性愛)関係を示すものと長らく解釈されてきた 1 。この文書には、晴信が源助以外の者に心を移したことはなく、もし嘘であれば神罰を受けるという内容が記されている 5 。
しかし、この解釈は近年の研究によって見直しが進んでいる。特に、誓詞の宛名にある「春日」の姓が、後世に書き加えられた可能性が指摘されているのである 1 。これが事実であれば、この文書が虎綱に宛てられたものであるという前提が崩れ、信玄と虎綱の間に衆道関係があったとする直接的な証拠としての価値は揺らぐことになる。この問題は、歴史史料の解釈がいかに新たな研究手法や史料批判によって変化しうるかを示す一例である。かつては衆道関係が虎綱の初期の出世に影響したと見る向きもあったが、この説の信憑性が低下したことで、彼の昇進はより純粋にその能力や忠勤によるものと評価される余地が大きくなったと言える。
以下に、春日虎綱(高坂昌信)の生涯における主要な姓名と称号の変遷をまとめる。
表1:春日虎綱(高坂昌信)の姓名と称号の変遷
時期 |
姓名・称号 |
典拠 |
備考 |
幼名 |
春日源五郎 (かすが げんごろう) |
1 |
|
初期の名 |
春日源助 (かすが げんすけ) |
1 |
天文15年武田晴信誓詞の宛名とされるが異説あり |
実名 |
春日虎綱 (かすが とらつな) |
1 |
本来の姓名 |
官途名 (前期) |
弾正左衛門尉 (だんじょうさえもんのじょう) |
1 |
永禄2年(1559年)まで |
官途名 (後期) |
弾正忠 (だんじょうのちゅう) |
1 |
永禄2年(1559年)以降 |
改姓・改名 |
高坂 (香坂) 昌信 (こうさか (こうさか) まさのぶ) |
1 |
弘治2年(1556年)頃~永禄9年(1566年)頃。香坂氏継承、海津城代就任に伴う。昌信は出家名との説も 5 。 |
復姓 |
春日虎綱 (かすが とらつな) |
1 |
永禄9年(1566年)9月以降 |
通称 |
逃げ弾正 (にげだんじょう) |
5 |
その戦術眼から |
この表は、虎綱の生涯における地位や役割の変化を、姓名の変遷を通じて概観する助けとなる。戦国武将が改名することは珍しくなく、それぞれの名乗りが彼のキャリアにおける特定の時期や出来事と結びついていることがわかる。
春日虎綱は、武田信玄配下の最も優れた武将の一人として、「武田四天王」に数えられている 1 。この称号は、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊といった武田家を代表する猛将たちと肩を並べるものであり、虎綱の武家としての高い評価を物語っている。
虎綱の武勲の中でも特に名高いのが、越後の上杉謙信との間で繰り広げられた川中島の戦いにおける活躍である。彼はこれらの戦役に深く関与し、特に永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いでは、最前線基地である海津城の城代として、また信玄が考案したとされる「啄木鳥戦法」において別働隊を率いるなど、戦局の鍵を握る重要な役割を担った 1 。上杉軍の予期せぬ奇襲により武田本隊は苦戦を強いられたものの、虎綱は海津城を守り抜いたと伝えられる 3 。この功績により、信玄から「昌信」の名を賜ったとも言われている 3 。
元亀3年(1572年)の三方ヶ原の戦いにおいても、虎綱は武田軍の主将の一人として参戦し、徳川家康を破る大勝利に貢献した 1 。『甲陽軍鑑』には、この戦いの後、信玄から賞賛の言葉を受けたと記されている 3 。これらの主要な合戦以外にも、虎綱は信玄の主要な戦いの多くに参加し 1 、西上野(群馬県)侵攻や箕輪城攻略などでも武功を挙げたとされる 9 。
以下に、高坂昌信が参戦した主要な合戦とその役割をまとめる。
表2:主要参戦合戦一覧と高坂昌信の役割
合戦名 |
年号(西暦) |
高坂昌信の主な役割 |
結果・意義 |
典拠 |
小岩岳城攻め (こいわだけじょうぜめ) |
天文21年 (1552) |
足軽大将として100騎を率いる |
攻略成功、武功 |
1 |
川中島の戦い (かわなかじまのたたかい) (全般) |
天文22年~ (1553-) |
海津城代、最前線指揮 |
武田軍の信濃北部における拠点維持 |
1 |
第四次川中島の戦い |
永禄4年 (1561) |
海津城防衛、啄木鳥戦法別働隊指揮 |
海津城死守、武田軍主力は苦戦するも決定的な敗北は回避 |
1 |
西上野侵攻 (にしこうずけしんこう) (箕輪城攻略 (みのわじょうこうりゃく)) |
永禄9年頃 (c. 1566) |
参戦 |
箕輪城攻略成功 |
9 |
三方ヶ原の戦い (みかたがはらのたたかい) |
元亀3年 (1572) |
主要武将として参戦、敗走する徳川軍の追撃に反対 |
武田軍大勝 |
1 |
春日虎綱の軍歴において、信濃国北部の要衝である海津城(後の松代城)の城代としての役割は極めて重要である 1 。海津城は、武田氏の対上杉謙信戦略における最前線基地であり、その守将を任されたことは、信玄からの厚い信頼を物語っている 1 。虎綱は、この地で「川中島衆」と呼ばれる北信濃の国人衆を統率し、上杉氏の侵攻に備えた 1 。
城代としての虎綱は、単に軍事的な防衛責任者であっただけでなく、広範な権限を有していた。史料によれば、北信濃地域の軍事指揮権に加え、現地の武士たちへの所領配分(奉者としての役割)、さらには竹木伐採の許可権や、裁判における意見上申権まで持っていたことが確認されている 12 。これは、虎綱が実質的に北信濃における武田氏の代官、あるいは方面司令官としての役割を担っていたことを示しており、戦国時代の城主の職責が軍事のみならず、行政、司法、資源管理にまで及んでいたことを示す好例である。虎綱が長年にわたりこの重責を果たし得たのは、彼の軍事的才能に加え、統治能力や交渉術にも長けていたからであろう。
彼はまた、海津城の防備強化にも尽力し、千曲川や周囲の山々といった自然地形を巧みに利用した堅固な防御態勢を築いたとされる 3 。『甲陽軍鑑』を基にしたと思われる記述では、城内の兵士たちの士気を高めるための訓練や、領民の生活を守るための備蓄、治水対策などにも心を配ったとされている 3 。これらの記述は、理想化された側面を含む可能性はあるものの、虎綱が単なる戦闘指揮官ではなく、地域全体の安定と繁栄に責任を持つ領主としての意識を持っていたことを示唆している。
春日虎綱を語る上で欠かせないのが、「逃げ弾正」という異名である 5 。この呼称は、一見すると臆病な印象を与えるかもしれないが、実際には彼の慎重かつ合理的な戦術眼を称賛する意味合いで用いられることが多い 6 。虎綱は、冷静沈着に戦況を分析し、無謀な戦いを避け、兵力の温存を重視したと伝えられている 6 。また、撤退戦の指揮にも長けていたとされる 13 。
この「逃げ弾正」の戦術哲学を象徴する逸話として、三方ヶ原の戦い後の軍議が挙げられる。武田軍が大勝を収めた後、多くの将が敗走する徳川軍の追撃を主張する中、虎綱はただ一人これに反対し、深追いは無益であると進言したという 6 。この判断は、目先の戦果に囚われず、大局的な視点から兵力の消耗を避けるという、彼の慎重な姿勢をよく表している。
「三十六計逃げるにしかず」という故事があるが、これは単なる逃走を勧めるものではなく、不利な状況では一時的に退いて再起を図るという高度な戦略思想である 14 。虎綱の「逃げ弾正」という評価は、まさにこの思想を体現していたと言える。戦国時代において、勇猛果敢な突撃だけでなく、適切な退却判断や兵力温存もまた、優れた将帥の条件であった。虎綱の戦術は、武田軍団の長期的な戦闘能力維持に貢献したと考えられ、信玄のような戦略眼に優れた主君から高く評価された理由の一つであろう。彼の戦い方は、単なる武勇に頼るのではなく、知略と計算に基づいた、より洗練された戦争術であったと言える。
元亀4年(1573年)の武田信玄の死後も、春日虎綱は引き続き武田勝頼に仕え、主に海津城代として対上杉氏の抑えという重要な任務を継続した 1 。この事実は、新当主勝頼の下でも虎綱の戦略的価値が認識されていたことを示している。
天正3年(1575年)に武田家にとって破滅的な敗北となった長篠の戦いにおいて、虎綱は参陣していない 1 。その理由は、依然として上杉謙信の動向を警戒し、北信濃の守りを固めるという海津城代としての任務を優先したためであった 1 。この戦いで、虎綱の嫡男である高坂昌澄が戦死するという悲劇に見舞われている 1 。
虎綱の長篠不参加は、武田家の戦略的配置の難しさを浮き彫りにする。南からは織田・徳川連合軍、北からは上杉軍という二正面作戦を強いられる中で、経験豊富な宿将である虎綱を北の守りに専念させざるを得なかったことは、武田軍の人的資源の限界を示唆しているとも言える。結果として、武田家は長篠で多くの有力武将を失い、虎綱のような宿将の経験と判断力が最も必要とされたであろう戦場に彼がいなかったことは、武田家にとって大きな痛手となった。これは、個々の戦略的判断が正しくとも、全体の戦局が不利に傾くことがあるという、戦争の非情な側面を物語っている。
長篠の戦いで大敗を喫した後、信濃駒場で勝頼を出迎えた虎綱は、武田家再興のために五カ条の献策を行ったと『甲陽軍鑑』は伝えている 1 。その内容は、第一に相模国の北条氏との同盟強化、第二に戦死した内藤昌豊、山県昌景、馬場信春らの子弟を勝頼の近習に取り立て家臣団を再編すること、そして第三に、長篠の戦いでの責任を問い、戦場を離脱したとされる親族衆の穴山信君と武田信豊に切腹を申し付けることなどであったとされる 1 。
この献策が史実であるかについては、研究者の間でも議論があり、特に『甲陽軍鑑』の記述に依存する部分が大きいため、慎重な検討が必要である 1 。しかし、仮にこのような厳しい内容を含む献策が行われたとすれば、それは当時の武田家中の危機感と、虎綱のような宿老が抱いていたであろう勝頼政権への懸念を反映している可能性がある。
『甲陽軍鑑』によれば、勝頼期には跡部勝資や長坂光堅といった側近が台頭し、虎綱ら信玄以来の老臣は疎んじられる傾向にあったという 1 。この「五カ条の献策」、特に親族への厳しい処分要求は、旧臣と新興勢力との間の緊張関係を象徴しているとも解釈できる。信玄という絶対的な指導者を失った後、武田家内部で主導権争いや路線対立が生じていたことは想像に難くない。長篠の敗戦は、そうした内部の亀裂をさらに深めた可能性があり、虎綱の献策(その真偽はともかくとして)は、武田家の再建策を巡る深刻な意見対立の一端を示しているのかもしれない。このような状況下で、経験豊富な宿老たちの意見が十分に活かされなかったとすれば、それは武田家のさらなる衰退を招く一因となったであろう。
長篠の戦い後も、春日虎綱は武田家のために活動を続けた。天正6年(1578年)、上杉謙信が死去し、上杉家で家督争いである「御館の乱」が発生すると、虎綱は武田信豊と共に上杉景勝方との外交交渉を担当し、武田氏と上杉氏の間の同盟、いわゆる甲越同盟の締結に尽力した 1 。これは、長年の宿敵であった上杉氏との和睦という、武田家の外交政策における大きな転換点であり、虎綱が晩年においても重要な役割を担っていたことを示している。
しかし、この甲越同盟締結に向けた交渉の最中、虎綱の史料上の記録は途絶える。天正6年6月8日付の上杉景勝書状を最後にその名は見えなくなり、同月12日付の武田信豊書状では信豊が単独で交渉に当たっていることから、この間に虎綱に何らかの異変があったと考えられる 1 。高野山成慶院『武田家過去帳』によれば、虎綱は天正6年(1578年)6月14日に海津城にて病死したとされ、この説が最も有力視されている 1 。享年52であった。外交という国家の存亡に関わる任務の途上での死は、彼の武田家への忠誠を最後まで貫いた生涯を象徴しているかのようである。
春日虎綱の歴史的評価を考える上で、『甲陽軍鑑』との関わりは避けて通れない。『甲陽軍鑑』は、武田信玄・勝頼二代にわたる事績、信玄の言行や軍略、武田家の法制や家臣団の逸話などを集大成した軍学書であり、江戸時代を通じて武士の教養書として広く読まれた 4 。
伝統的に、この『甲陽軍鑑』は、高坂昌信(春日虎綱)が自身の見聞や信玄からの教えを、甥の春日惣次郎や家臣の大蔵彦十郎らに口述筆記させたものが元になったとされている 4 。その目的は、信玄の遺訓を後世に伝え、勝頼の治世の助けとすることにあったという 4 。
その後、武田氏滅亡を経て、この口述記録は様々な人の手を経る。最終的に、徳川家康に仕えた軍学者・小幡景憲がこれらの原書を入手し、整理・編纂して現在の形に近いものにしたと考えられている 4 。景憲は『甲陽軍鑑』を中核に据えて甲州流軍学を創始し、その普及に努めた 19 。
『甲陽軍鑑』は、長らく武田氏研究の基本史料とされてきた一方で、その史料的価値については激しい論争の的となってきた。江戸時代から既に、記述内容の誤りや矛盾点が指摘されることもあったが、特に明治時代以降、実証主義的な歴史学が主流になると、年紀の誤り、合戦記述の不正確さ、登場人物の信憑性などが問題視され、『甲陽軍鑑』は小幡景憲による創作、あるいは大幅な加筆がなされた「偽書」であるという評価が支配的となった 19 。山本勘助の存在なども、『甲陽軍鑑』の創作と見なされることが多かった 21 。
しかし、1990年代以降、国語学者の酒井憲二氏らによる文献学的・書誌学的研究が進展し、『甲陽軍鑑』の再評価が著しく進んだ 15 。酒井氏は、現存する多数の写本・版本を比較検討し、その成立過程を詳細に分析した結果、『甲陽軍鑑』の基幹部分は高坂昌信の口述に由来する可能性が高く、その文体も室町末期から戦国期にかけての口語りの特徴を色濃く残していると指摘した 22 。小幡景憲の役割は、新たな創作や大幅な改変というよりは、既存の記録を忠実に書写し、整理した編纂者としての側面が強いとされたのである 22 。
この再評価により、『甲陽軍鑑』は、記述の細部に誤りや記憶違い、後代の加筆を含む可能性はあるものの、戦国時代の武田氏の軍事思想、家臣団の気風、武家故実、さらには一人の武将(高坂昌信)の視点から見た歴史認識を伝える貴重な史料として、再び注目されるようになった 19 。ただし、依然として史料批判は不可欠であり、特に勝頼期に関する記述には、旧臣の立場からの偏りが含まれている可能性も指摘されている 4 。
『甲陽軍鑑』は、武田氏の歴史を完璧に再現する鏡ではないかもしれないが、当時の武士の精神性や価値観、そして高坂昌信という人物を通じて武田の歴史がどのように記憶され、語り継がれようとしたのかを映し出す貴重なレンズであると言える。虎綱がその成立に深く関わったとされる以上、『甲陽軍鑑』を理解することは、彼自身の歴史的役割を理解する上で不可欠なのである。
春日虎綱の人柄は、史料や逸話を通じて多角的に浮かび上がってくる。まず、武田信玄・勝頼の二代にわたり忠誠を尽くした点は特筆される 3 。特に、信玄への敬慕の念は深く、『甲陽軍鑑』の口述が信玄の教えを後世に伝えるためであったとされることからも、その忠臣ぶりが窺える 9 。
戦場においては、「逃げ弾正」の異名が示す通り、冷静沈着で分析的な判断力を持ち、無謀な戦いを避ける慎重さがあったと評される 6 。情報を徹底的に収集し、状況を的確に把握した上で行動する知将であった。
また、武勇だけでなく、文事にも通じていたとされる。『甲陽軍鑑』のような大部の著作の口述に関わったとされること自体が、彼の知的水準の高さを示唆している。ある史料では、当時の武士としては珍しく読み書き算盤に長けていたとも記されている 9 。若い頃には容姿端麗であったという伝承もある 9 。
海津城代としての統治ぶりを伝える(おそらくは脚色を含む)記述からは、兵士の士気向上や城の防備だけでなく、領民の生活安定にも配慮する為政者としての一面も見て取れる 3 。これらの要素は、虎綱が単なる勇猛な武将ではなく、知勇兼備で、かつ人間的な深みも備えた人物であったことを示している。
春日虎綱は、主君である武田信玄から絶大な信頼を得ていた。国境の最重要拠点である海津城の守将を長年にわたり任され、主要な合戦で作戦の一翼を担ったことがその証左である 1 。武田四天王の一人に数えられること自体が、同時代における彼の武将としての高い評価を物語っている 1 。ある文献では、「名将の下に弱卒なし」という言葉を体現する、信玄配下の第一の将であったと称賛されている 9 。また、「不死身の武将」として敵方からも恐れられたという記述もある 9 。
後世における虎綱の評価は、『甲陽軍鑑』との関連によって大きく増幅されたと言える。この軍学書が江戸時代を通じて武家の教科書的な存在となったことで、その口述者とされる虎綱は、武田流軍学の体現者、あるいは信玄の知恵袋のような賢将としてのイメージを強く印象付けられることになった 19 。彼の名は、単なる戦場での功績以上に、『甲陽軍鑑』という影響力のある書物を通じて、武田氏の栄光と戦略思想を象徴する存在として記憶されることになったのである。これは、歴史上の人物の評価が、その実像だけでなく、後世に編まれた物語や記録によっていかに形成されていくかを示す好例と言えるだろう。
墓所
春日虎綱は、遺言により信濃国豊栄の明徳寺(長野県長野市松代町豊栄)に葬られた 6。この明徳寺は、虎綱自身が再興したと伝えられている寺院である 16。
子孫
虎綱には複数の子がいた。嫡男の高坂昌澄は、天正3年(1575年)の長篠の戦いで戦死した 1。家督は次男の信達(春日昌元とも)が継ぎ、海津城代も務めた 1。しかし、武田氏滅亡後の天正10年(1582年)、信達は真田昌幸や北条氏直らとの内通を疑われ、仕えていた上杉景勝によって誅殺された。これにより高坂氏の嫡流は断絶したとされる 1。他に昌定(源三郎)という息子もいたことが記録されている 1。近世には、甲府の町年寄であった山本金右衛門家(春日昌預)が虎綱の子孫を称していたという記録もある 1。
肖像画
春日虎綱の肖像画として最もよく知られているのは、江戸時代以降に制作された「武田二十四将図」の中に描かれたものである 23。これらの図は、武田神社 23、山梨県立博物館 28、高野山成慶院 28 などに所蔵されている。ただし、二十四将図は、歴史的事実に基づく構成というよりは、後世の顕彰や物語化の中で形成されたものであり、描かれる武将の選定や容貌も様々である。個別の肖像画については、中津市歴史博物館所蔵とされるものなどが存在する可能性が示唆されているが 33、その詳細や同時代性については不明な点が多い 34。
辞世の句
春日虎綱の辞世の句については、現時点までの調査では確認されていない 35。
春日虎綱(高坂昌信)は、戦国時代の武田氏において、武勇と知略を兼ね備えた傑出した武将であった。武田四天王の一人としての赫々たる武勲、特に川中島の戦いや三方ヶ原の戦いにおける活躍、そして「逃げ弾正」と称された慎重かつ合理的な戦術眼は、彼を信玄配下の名将たらしめた。さらに、信濃北部の要衝・海津城代としての長期にわたる統治は、軍事指揮官としてだけでなく、広範な行政能力をも有していたことを示している。
信玄亡き後、勝頼の時代においても、対上杉の最前線を守り、晩年には甲越同盟の締結に尽力するなど、武田家への忠誠を貫いた。彼の生涯は、武田氏の興隆から衰退に至る激動の時代を体現していると言える。
虎綱の歴史的意義を一層高めているのは、『甲陽軍鑑』との深い関わりである。この書物の口述者とされることで、彼は単なる武将を超え、武田氏の軍学や歴史、そして信玄の思想を後世に伝える語り部としての役割を担うことになった。たとえ『甲陽軍鑑』の史料的価値に議論があるとしても、虎綱がその成立に何らかの形で関与した可能性は高く、この書物を抜きにして彼の全体像を語ることはできない。
春日虎綱の生涯は、戦国武将の多様な側面――勇猛な戦士、冷静な戦略家、有能な行政官、そして歴史の証言者――を我々に示してくれる。彼の名は、武田氏の歴史を語る上で、そして戦国時代という時代を理解する上で、今後も記憶され続けるであろう。彼の功績と遺した史料(『甲陽軍鑑』)は、後世の研究者にとって尽きることのない探求の対象であり続ける。