最終更新日 2025-06-27

高屋良栄

「高屋良栄」の画像

丹後一色氏の落日と忠臣の生涯 ― 高屋駿河守良栄の実像

序章:丹後国人、高屋良栄という存在

本報告書の主題と意義

本報告書は、日本の歴史上、最も激しい社会変動期の一つであった戦国時代の末期、丹後国(現在の京都府北部)に生きた一人の武将、高屋駿河守良栄(たかや するがのかみ よししげ/りょうえい)の生涯を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。高屋良栄、後に出家して良閑(りょうかん)あるいは良栄入道と号したこの人物は、織田信長の天下統一事業の波に呑まれ滅亡した名門守護大名・一色氏の忠臣として、その最期まで運命を共にした。彼の生涯は、中央の巨大な権力によって地方の旧勢力が淘汰されていく時代の悲劇と、それに殉じた武士の生き様を象徴する事例である。その実像に迫ることは、戦国末期から近世初頭にかけての丹後国の政治史、ひいては日本社会の変容を微視的な視点から理解する上で、極めて重要な意味を持つ。

史料における高屋良栄

高屋良栄の名は、主に江戸時代に編纂された丹後の地誌である『丹哥府志』や、それを基にした『丹後国竹野郡誌』といった文献に、比較的詳細な記述として残されている 1 。これらの史料は、彼を一色義道、そしてその子である義俊(義定)・義清の三代にわたって忠節を尽くした老臣として描き、その壮絶な最期を伝えている。しかし、これらの記録は良栄の死から100年以上を経て編纂されたものであり、その記述には編纂者の意図や後世の潤色が加わっている可能性を否定できない。したがって、本報告書では、これらの後世の編纂史料を基軸としつつも、関連する軍記物や一次史料に近い文献を相互に比較検討し、その記述の信憑性を慎重に吟味しながら、可能な限り客観的な人物像を再構築することを目指す。

本報告書が解き明かす問い

本報告書は、以下の問いを解明することを通じて、高屋良栄の実像に迫る。

第一に、高屋良栄は、主家である一色氏が滅亡に至る過程において、具体的にどのような役割を果たしたのか。

第二に、彼の最期の戦いとなった下岡城の攻防戦の実態は、どのようなものであったのか。

そして第三に、彼の死後、高屋一族の血脈はどうなったのか。特に、彼の孫が歴史の編纂に関わったという事実は、何を物語るのか。

この最後の問いこそが、本報告書の射程を単なる一武将の伝記から、より広範な歴史的考察へと引き上げる鍵となる。高屋良栄の物語は、天正十年(1582年)の討死という悲劇で完結しない。彼の孫にあたる高屋新左衛門が、泰平の世となった江戸時代に宮津藩主・永井氏に仕え、さらに自らの一族の歴史を含む地誌『増補丹後府志』の編纂に関与したという事実が記録されている 1 。これは、武力によって自己の存在を証明した戦国武将の子孫が、平和な江戸時代において「文」の力、すなわち記録と記憶の継承によって一族のアイデンティティと名誉を再構築しようとした過程を示す、極めて象徴的な事例である。祖父が「武」の力で守ろうとした家の歴史を、孫が「文」の力で後世に遺そうとしたのである。我々が今日、高屋良栄という一地方武将の生涯を比較的詳細に知ることができるのは、この孫の尽力に負うところが大きいのかもしれない。したがって、良栄の生涯を追うことは、単に一人の忠臣の物語を辿るだけでなく、戦国から近世へと移行する社会の中で、ある一族が如何にしてその記憶と誇りを継承していったかという、より大きな歴史のダイナミズムを解明することに繋がるのである。

本報告の理解を助けるため、まず関連年表と主要登場人物の一覧を以下に示す。

表1:高屋良栄 関連年表

年代

丹後国の出来事(一色氏・細川氏の動向)

高屋良栄の動向

関連人物

天正6年 (1578)

細川藤孝・明智光秀ら織田軍が丹後侵攻を開始 2

一色義道の老臣として仕える 1

一色義道、細川藤孝、明智光秀

天正7年 (1579)

一色義道、建部山城を追われ、中山城にて自害 3

主君・義道の死を悼み、剃髪して「良栄入道」と号す 1

一色義道、沼田幸兵衛

天正7年-9年

一色義定(義俊)、弓木城に籠城し織田軍に抵抗 2

義定を補佐し、「軍功多し」と記録される 1

一色義定(義俊)、稲富祐直

天正8年 (1580)

細川氏と一色氏が和睦。義定は藤孝の娘を娶る 3

-

一色義定、細川藤孝

天正10年 (1582) 6月

本能寺の変。織田信長死去。

-

織田信長、明智光秀

天正10年 (1582) 9月

細川忠興、一色義定を宮津城で謀殺 2

-

一色義定、細川忠興

天正10年 (1582) 9月

一色義清、弓木城で挙兵するも討死。一色宗家滅亡 5

下岡城に籠城し、一色方残党の中心となる 8

一色義清

天正10年 (1582)

細川興元軍が下岡城を攻撃。良栄は父子共に討死 1

下岡城にて討死。

細川興元、高屋遠江守

江戸時代前期

孫の高屋新左衛門が宮津藩主・永井尚長に仕える 1

-

高屋新左衛門、永井尚長

江戸時代中期

高屋新左衛門、『増補丹後府志』の編纂に関わる 1

-

高屋新左衛門

表2:主要登場人物一覧

氏名(官途名、別名)

所属

高屋良栄との関係

主要な役割

高屋 駿河守 良栄 (良閑、良栄入道)

一色方

本報告書の主人公

一色氏三代に仕えた忠臣。下岡城主 1

高屋 遠江守

一色方

良栄の嫡男

父と共に下岡城で討死 1

高屋 治部左衛門

一色方

良栄の弟

兄と共に下岡城に籠城したとされる 9

高屋 新左衛門

(江戸時代)宮津藩士

良栄の孫

永井家に仕え、『増補丹後府志』の編纂に関わる 1

一色 義道

一色方

主君

丹後守護。細川軍の侵攻を受け自害 4

一色 義定 (義俊、満信、五郎)

一色方

主君

義道の子。弓木城で抵抗後、細川忠興に謀殺される 3

一色 義清

一色方

主君

義道の弟、または義定の叔父。義定死後に挙兵するも討死 5

細川 藤孝 (幽斎)

細川方

敵将

織田信長の命で丹後を侵攻した総大将 11

細川 忠興

細川方

敵将

藤孝の嫡男。一色義定を謀殺 2

細川 興元

細川方

敵将(直接の相手)

藤孝の次男。下岡城を攻め、良栄を討ち取る 1

永井 信濃守 尚長

(江戸時代)宮津藩主

孫の主君

高屋新左衛門が仕えた宮津藩主 1

第一章:戦国期丹後国の動乱と守護大名一色氏

一色氏の権勢と衰退

高屋良栄がその生涯を捧げた主家・一色氏は、清和源氏足利氏の流れを汲む名門武家である。室町幕府の開府と共に頭角を現し、幕府の軍事・警察権を司る侍所所司(長官)に任じられる四つの家柄「四職」の筆頭として、中央政界で重きをなした 11 。一色氏は丹後国のほか、若狭国や三河国などの守護職を歴任し、特に丹後国においては、明徳三年(1392年)の明徳の乱の功績により一色満範が守護となって以降、戦国時代に至るまでその地位を世襲し、盤石な支配体制を築いていた 16

しかし、応仁の乱を経て戦国時代に突入すると、室町幕府の権威は失墜し、全国的に下剋上の風潮が蔓延する。丹後国もその例外ではなく、守護である一色氏の支配力にも次第に陰りが見え始める。守護代であった延永氏や、国内の有力国人衆が自立傾向を強め、一色氏の統制は徐々に困難になっていった。それでもなお、高屋良栄の主君・一色義道が家督を継いだ頃までは、丹後国主としての権威を辛うじて保っていたのである 11

織田信長の脅威と丹後侵攻の序曲

戦国乱世の最終局面において、尾張から興った織田信長が「天下布武」を掲げて急速に勢力を拡大し、日本の政治地図を塗り替え始めた。天正元年(1573年)、信長は対立を深めていた室町幕府第15代将軍・足利義昭を京から追放し、室町幕府は事実上滅亡する。

この出来事が、丹後国主・一色氏の運命を決定づけた。一色氏は代々足利将軍家に仕える重臣であり、義道もまた、信長包囲網を形成した義昭方に与していた 16 。信長にとって、旧体制の象徴である足利将軍家に連なる一色氏のような名門守護大名は、自らの新しい秩序を構築する上で排除すべき存在であった。

信長は、丹波国の平定を腹心の明智光秀に命じると同時に、かつて足利義昭に仕えていた細川藤孝を味方に引き入れ、丹後方面の攻略を委ねた。天正六年(1578年)頃から、光秀と藤孝による丹波・丹後への本格的な軍事侵攻が開始される 2 。西には旧来の宿敵である毛利氏、南には破竹の勢いの織田氏という二大勢力に挟まれ、さらに織田の先兵が国境に迫るという、一色氏とそれに仕える高屋良栄にとって、まさに絶体絶命の状況が生まれつつあった。

良栄の主君・一色義道

高屋良栄が「老臣」として仕えた主君・一色義道は、この未曾有の国難に直面した悲運の当主であった 1 。彼は、伝統的な守護大名としての誇りと、押し寄せる時代の大きなうねりとの間で、苦渋の決断を迫られ続けることになる。家臣団の中には、旧来の秩序にしがみつく者もいれば、新たな覇者である織田氏に活路を見出そうと内応を画策する者も現れ、一色家中の結束は揺らいでいた。このような混乱の中、高屋良栄は一貫して主君・義道に忠誠を誓い、その命運を共にすることになるのである。

第二章:主君・一色義道への忠節 ― 老臣・高屋駿河守の時代

高屋駿河守良栄の登場

史料に高屋良栄が明確に登場するのは、彼が「一色義道の老臣」として、丹後国の動乱の渦中にいた時代である 1 。高屋氏は一色氏の譜代の家臣であったと推測され、良栄自身は駿河守の官途名を名乗っていた。彼の本拠地は、丹後国竹野郡に位置する下岡城(現在の京都府京丹後市網野町下岡)であったと伝えられている 1

下岡城は、高天山から東に派生した丘陵上に築かれた山城であり、その遺構からは主郭を取り囲むように配置された曲輪や、防御施設である堀切、竪堀などが確認できる 8 。この城は、日本海沿岸の交通路と内陸部を結ぶ要衝に位置しており、良栄が単なる一城主ではなく、一色氏の支配領域において軍事的・経済的に重要な役割を担う「陣代」として、地域の統治を任されていたことを示唆している 1

丹後侵攻の激化と義道の敗走

天正六年(1578年)、織田信長の命を受けた細川藤孝・忠興父子と、彼らを支援する明智光秀の軍勢による本格的な丹後侵攻が開始された 2 。織田軍の圧倒的な軍事力の前に、丹後国内の国人衆は次々と戦意を喪失し、ある者は降伏し、またある者は積極的に織田方に寝返った 11 。これにより、一色氏の支配体制は根底から崩壊し、義道は孤立無援の状態に追い込まれていく。

天正七年(1579年)、ついに一色氏の丹後における本拠地であった建部山城(舞鶴市)が織田軍の猛攻の前に陥落 16 。当主・一色義道は、残された僅かな手勢を率いて城を脱出し、再起を図るべく、西隣の但馬国を支配する山名氏のもとへ落ち延びようと試みた 4

中山城の悲劇と良栄の出家

敗走の途中、義道はひとまずの安息の地を求め、家臣である中山城主・沼田幸兵衛を頼った 4 。中山城(舞鶴市)は、由良川を望む交通の要衝にあり、守るに易く攻めるに難い堅城であった 20 。しかし、義道の期待は無惨に裏切られる。城主の沼田幸兵衛は、すでに織田方に内応しており、主君を城内に迎え入れた後、にわかに反旗を翻したのである 4

行き場を失った義道は、もはやこれまでと覚悟を決め、中山城下、あるいは由良川のほとりで自害して果てたと伝えられる 4 。主君が信頼していた家臣の裏切りによって非業の死を遂げるという、武士にとってこれ以上ない屈辱的な最期であった。

この主君の訃報に接した高屋良栄の行動は、彼の人物像を何よりも雄弁に物語っている。『丹哥府志』は、「於是高屋駿河守剃髪して良栄入道と號す(ここにおいて たかやするがのかみ ていはつして りょうえいにゅうどうと ごうす)」と記している 1 。彼は主君の死を悼み、その菩提を弔うために仏門に入ったのである。

この良栄の出家は、単なる隠居や世捨てを意味するものではなかった。むしろそれは、俗世における官位や名誉を捨て、一色家の再興という、より純粋で強固な目的のために残りの生涯を捧げるという決意表明であったと解釈できる。戦国時代において、武将の出家はしばしば政治的・軍事的な敗北と引退を意味したが、良栄の場合は全く逆であった。彼は「良栄入道」となった後、義道の子らを補佐し、なおも「軍功多し」と記録されているのである 1 。これは、彼の出家が戦闘行為からの引退ではなく、むしろ新たな段階への移行であったことを示している。世俗的な野心を捨て、「忠義」と「弔い」という精神的な支柱を掲げて戦う「入道」の姿は、主君を失い動揺する一色家の残党にとって、私心なき忠誠の象徴として映り、彼らの結束を促す大きな力となったに違いない。

第三章:主家再興への道 ― 義俊・義清二代への奉公

弓木城の抵抗と一色義定(義俊)

父・義道の非業の死の後、その子である一色義定(史料によっては義俊、満信、五郎とも記される 3 )が、一色家の家督と再興の望みを継いだ。彼は、一色氏の残党を率いて、丹後半島の付け根に位置する弓木城(与謝野町)に籠城し、織田・細川軍への徹底抗戦の構えを見せた 2

弓木城は、本来、一色氏の家臣で鉄砲術の流派「稲富流」の祖として知られる稲富祐直(いなとみ すけなお)の居城であった 5 。稲富氏の率いる鉄砲隊の存在と、城そのものの堅固な守りによって、細川軍は攻城に手こずり、多大な損害を被った 5 。この弓木城での一連の戦いにおいて、高屋良栄入道は、若き当主・義定を補佐する老練な武将として、その存在感を発揮した。『丹哥府志』が記す「又義俊義清の二代に仕へて軍功多し」という一節は、まさにこの時期の彼の活躍を指すものと考えられる 1 。具体的な戦功は記録に残されていないものの、精神的支柱として、また実戦経験豊かな指揮官として、兵の士気を鼓舞し、戦術を指導するなど、籠城戦の維持に不可欠な役割を果たしたことは想像に難くない。

偽りの和睦と本能寺の変

弓木城を力攻めで落とすことが困難であると判断した細川藤孝は、武力による制圧から政略による切り崩しへと方針を転換する。彼は、当時、織田家中で丹波・丹後方面の司令官であった明智光秀の仲介を通じて、一色義定に和睦を提案した 3 。その条件は、藤孝の娘・伊也(いね)を義定の正室として嫁がせるというものであった 2 。これにより、丹後国は一色氏と細川氏によって事実上分割統治されることになり、天正八年(1580年)、つかの間の平和が訪れた。義定は弓木城を本拠とし、丹後北半国の領主として織田政権下に組み込まれることとなった 2

しかし、この和睦は、細川氏にとって時間を稼ぐための偽りの策に過ぎなかった。天正十年(1582年)六月二日、京の本能寺において、明智光秀が主君・織田信長を討つという日本史上最大の下剋上、「本能寺の変」が勃発する 26 。この事件は、丹後の政治情勢を根底から覆し、一色氏の運命にとどめを刺すことになった。

一色氏の滅亡

主君・信長を討った光秀は、与力であった細川藤孝・忠興父子に味方になるよう再三にわたり書状を送るが、細川父子はこれを拒絶。剃髪して信長への弔意を示し、羽柴秀吉に与することを表明した 26 。一方、一色義定は、和睦の仲介者であり、織田政権下での直接の上司でもあった光秀に味方したとされる 6

光秀が山崎の戦いで秀吉に敗れ去ると、義定の立場は決定的に悪化した。天正十年九月、細川忠興は、もはや用済みとなった義理の弟、一色義定を「祝宴」と称して宮津城に誘い出し、その場で謀殺するという凶刃に及んだ 2

当主をだまし討ちで失った一色家では、義定の叔父(あるいは義道の弟)にあたる一色義清が跡を継ぎ、弓木城で最後の抵抗を試みた 5 。しかし、もはや勢いを失った一色軍に勝ち目はなく、義清は城から打って出て細川軍の本陣に突撃し、壮絶な討死を遂げた 5 。ここに、丹後国を二百年にわたって支配した守護大名・一色氏は、歴史の表舞台から完全に姿を消したのである。

第四章:下岡城の攻防と高屋一族の最期

一色残党掃討戦

一色義定の謀殺と弓木城の制圧によって、一色氏の組織的な抵抗力はほぼ失われた。しかし、細川氏による丹後支配を完璧なものとするためには、なおも国内に点在する一色方の残党勢力を一掃する必要があった。その最大の標的となったのが、一色家への忠義を貫く老臣・高屋良栄入道が籠る下岡城であった。

攻撃軍の大将・細川興元

下岡城攻略の指揮を執ったのは、細川藤孝の次男であり、忠興の弟にあたる細川興元であった 1 。興元は、永禄九年(1566年)に生まれ、天正五年(1577年)の大和国片岡城攻めでは、兄・忠興と共に一番槍の武功を挙げるなど、智勇兼備の父兄に劣らぬ武将であった 14 。丹後平定後は、兄・忠興が宮津を中心とする南半国を、興元が峰山(嶺山)を中心とする北半国を治めることになり、彼にとってこの戦いは、自らの領国となる地域の旧勢力を排除し、支配権を確立するための総仕上げともいえる重要な戦いであった 14 。『丹後国竹野郡誌』は、この時、興元が率いた兵力を六千と記している 1

下岡城の籠城戦

一方、下岡城には、滅びゆく主家と運命を共にすることを覚悟した者たちが集結していた。城主である高屋良栄入道を中心に、その嫡男・高屋遠江守、弟の治部左衛門といった高屋一族 1 。さらに、近隣の城から駆けつけた、木津城主・赤尾但馬守、高橋城主・今井能世次郎(観世次郎)といった、最後まで一色氏に忠誠を誓った武将たちも籠城に加わった 8 。彼らは、圧倒的な兵力差を前にしてもはや勝ち目がないことを知りながらも、武士としての意地と誇りをかけて、最後の戦いに臨んだのである。

この戦いは、単なる残党狩りではなかった。それは、一色氏への忠義を貫く「旧体制の象徴」である高屋良栄の死と、細川氏による丹後支配という「新体制の完成」が交差する、時代の転換点を象徴する戦いであった。良栄にとっては主家への「殉死」であり、興元にとっては丹後という新たな領国経営の「始点」となる、極めて象徴的な攻防戦であった。

壮絶な最期

天正十年(1582年)、細川興元率いる大軍に包囲された下岡城で、壮絶な攻防戦が繰り広げられた。籠城側の兵力はわずかであったが、城の地形と防御施設を利して奮戦したとみられる。しかし、圧倒的な兵力差はいかんともしがたく、城はついに陥落の時を迎える。

その最期について、『丹哥府志』は「天正十年弓木落城の日、吉岡桜井の二人と同じく討死す」と簡潔に記す 1 。この「弓木落城の日」という表現は、良栄の戦死が、一色義清が討たれた弓木城の最終的な陥落とほぼ同時期、すなわち一色氏残党掃討戦の最終局面で行われたことを示唆している。また、『丹後国竹野郡誌』は、より具体的に「城遂に陥り父子共に討死して一色氏残党の最後を飾る」と記し、良栄が嫡男・遠江守と共に討死したことを伝えている 1

高屋良栄は、主君・義道の死に際して仏門に入り、その子や一族を支え続け、最後は自らの居城で一族郎党と共に玉砕するという、まさに戦国武将の「忠義」をその生涯をもって体現したのである。彼の死によって、丹後における一色氏への組織的な抵抗は完全に終焉を迎え、細川氏による新たな支配の時代が幕を開けた。なお、この戦いで討死した高屋良栄らの位牌が、舞鶴市の桂林寺にあるという伝承も残されているが、その真偽は定かではない 1 。桂林寺は細川家と縁の深い寺院であり 28 、もし事実であれば、敵将であった細川氏が、その忠義に感じて菩提を弔った可能性も考えられるが、憶測の域を出ない。

第五章:後日譚 ― 高屋氏の血脈と記憶の継承

生き延びた血脈

下岡城で高屋良栄とその嫡男が討死にし、一族は滅亡したかに見えた。しかし、その血脈は細々と、しかし確かに未来へと繋がれていた。史料は、良栄の孫にあたる人物が、この戦乱を生き延びていたことを伝えている。彼の名は、高屋新左衛門といった 1 。彼がどのようにして難を逃れたのか、その詳細は不明であるが、一族の再興という重い使命を背負って、新たな時代を生きることになる。

宮津藩主・永井信濃守への仕官

時代は移り、戦乱の世は終わりを告げ、徳川家康による江戸幕府が開かれ、日本は泰平の世を迎えた。高屋新左衛門は、この新たな時代に適応し、武士としての道を歩んだ。彼は、江戸時代前期に丹後宮津藩の藩主であった永井信濃守尚長(ながい しなののかみ なおなが)に仕官し、二百五十石の知行を得るに至ったのである 1

この主君・永井尚長は、丹後宮津藩主・永井尚征の子として生まれ、延宝二年(1674年)に家督を継いだ人物である 15 。彼は幕府の奏者番を務めるなど将来を嘱望されたが、延宝八年(1680年)、江戸増上寺で行われた四代将軍・徳川家綱の法要の席で、些細なことから志摩鳥羽藩主・内藤忠勝に刺殺されるという事件に巻き込まれ、永井宗家は改易の憂き目に遭う 15 。新左衛門が仕えたのは、この悲劇的な最期を遂げた藩主の治世下であった。

『増補丹後府志』編纂への関与

高屋新左衛門の生涯において、特筆すべきは彼の文化的な功績である。『丹後国竹野郡誌』に引用された『一色軍記』の付記には、彼について「丹後増補府志撰者の内なり」という、極めて重要な記述が見られる 1 。これは、新左衛門が『増補丹後府志』の編纂者の一人であったことを意味する。

『丹哥府志』は、宮津藩の儒学者であった小林玄章とその子・之保、孫・之原の三代が、宝暦十三年(1763年)から天保十二年(1841年)という長年にわたって編纂した、丹後国の総合的な地誌である 33 。『増補丹後府志』は、この『丹哥府志』をさらに補訂・増補したものであったと考えられる 35 。新左衛門が関わったのは、この藩の公式な歴史・地理編纂事業であった。

この事実は、単なる一藩士の経歴に留まらない、深い意味を持っている。戦国の世に「武」の力で滅んだ一族の名誉を、泰平の世に「文」の力で回復しようとする、子孫による壮大な追悼事業であったと解釈できるからである。祖父・高屋良栄は、一色氏への忠義を貫き、壮絶な討死を遂げた。しかし、歴史は常に勝者によって語られる。一色氏を滅ぼした細川氏の視点から見れば、良栄は最後まで抵抗を続けた「賊」に過ぎない。

孫である新左衛門は、平和な江戸時代に、藩の公式な歴史書を編纂するという立場を得た。この立場は、彼にとって、自らの祖父・良栄の忠臣としての生涯や、下岡城での悲劇的な最期を、個人的な家伝としてではなく、客観的な事実として公的な地誌に書き残す絶好の機会であった。我々が今日、高屋良栄という一地方武将の忠義と悲劇について比較的詳しく知ることができるのは、この高屋新左衛門の尽力によって、その事績が地誌の中に確固として刻まれたからに他ならない。これは、武士の「家」の存続が、もはや武力や所領の大きさだけでなく、その家の由緒や歴史といった「記憶の継承」によっても担保されるようになった、近世という時代の特質を如実に示している。

その後の高屋家

高屋新左衛門の主家であった永井家は、前述の通り当主・尚長の刃傷事件によって改易となった。主家を失った後、新左衛門の子は武士の身分を離れ、宮津の職人町に移り住み、高橋立閑(たかはし りゅうかん)と名乗る医師になったと伝えられている 1 。これは、武士という身分制度が固定化された江戸時代において、一度没落した家が、専門技術職である医師として新たな道を切り開き、近世の町人社会の中でたくましく生き抜いていった姿を示している。剣を置き、薬箱を手に取った高屋氏の子孫は、新たな形で人々に尽くす道を選んだのである。

結論:滅びゆく主家と運命を共にした武将の生涯

高屋駿河守良栄は、室町時代から二百年にわたり丹後国を支配した名門守護大名・一色氏が、織田信長という新たな時代の巨大な力の前に滅び去るという、歴史の大きな転換点に生きた武将であった。彼は、主君・一色義道が家臣の裏切りによって非業の死を遂げると、その菩提を弔うべく出家し、その後も義道の子である義定・義清を支え続けた。そして最後は、細川氏による丹後平定の総仕上げともいえる戦いにおいて、自らの居城・下岡城で一族と共に討死するという、戦国武将の「忠義」という倫理観をその生涯をもって体現した人物であった。

しかし、高屋良栄の物語は、天正十年の彼の死をもって終わりとはならない。むしろ、その物語の真の価値は、彼の死後にこそ見出される。戦乱を生き延びた孫の高屋新左衛門が、泰平の世となった江戸時代に、藩の公式な地誌編纂事業に携わったことにより、高屋良栄という一人の忠臣の存在は、単なる口伝や伝説ではなく、後世に伝わる公的な記録の中に確固として刻まれたのである。これは、戦国の記憶が近世の「歴史」へと昇華されていく過程を示す、稀有にして感動的な事例と言えよう。祖父が武力で守ろうとした家の名誉を、孫が筆の力で永遠のものとしたのである。

高屋良栄という一人の地方武将の生涯を丹念に追うことは、我々に多くのことを示唆してくれる。それは、戦国乱世の非情さ、主君への忠義という武士の美学、そして何よりも、戦国から近世へと社会が大きく移行する中で、人々が如何にして自らの一族の歴史とアイデンティティを未来へ繋ごうとしたかという、普遍的なテーマである。彼の存在は、丹後地方史における一挿話に留まらず、日本の歴史の大きなうねりを、一人の人間の生き様を通して理解するための、極めて貴重な窓となっている。

引用文献

  1. 下岡(京丹後市網野町) - 丹後の地名 https://tangonotimei.com/doc/tango/ktngc/simooka.html
  2. 弓木城跡 | 与謝野日々是 与謝野町観光協会 https://yosano-kankou.net/kankou/%E5%BC%93%E6%9C%A8%E5%9F%8E/
  3. 一色義定(いっしき よしさだ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A-1054769
  4. 一色義道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E9%81%93
  5. 弓木城 - 丹後守護一色氏 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chugoku/yumiki.j/yumiki.j.html
  6. 一色義定 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E7%BE%A9%E5%AE%9A
  7. 弓木城~一色氏最期の城 | 古都の礎 https://ameblo.jp/rrerr/entry-12745943791.html
  8. 丹後 下岡城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/tango/shimooka-jyo/
  9. 第247話丹後始末 - 魔法武士・種子島時堯(克全) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054892330192/episodes/1177354054917623823
  10. 第64話丹後騒乱 - 女将軍 井伊直虎(克全) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054892330764/episodes/1177354054893661648
  11. 一色氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%89%B2%E6%B0%8F
  12. 丹後の守護一色義俊の謀殺は密かに進められていった - 宮津へようこそ https://www.3780session.com/miyazuiltushikiujibousatu
  13. 宮津へようこそ、宮津にもあった戦国時代 https://www.3780session.com/miyazurekishi
  14. 細川興元 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E8%88%88%E5%85%83
  15. 永井尚長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%95%E5%B0%9A%E9%95%B7
  16. 建部山城~一色氏の詰城 | 古都の礎 https://ameblo.jp/rrerr/entry-12745931231.html
  17. 下岡城 /城跡巡り備忘録 京都府 http://466-bun.com/f10/f-k4085shimooka.html
  18. <下岡城は丹後北部の要だった> KTR 網野駅 https://www.city.kyotango.lg.jp/material/files/group/13/a_shimooka260805.pdf
  19. 第427回:[丹後]中山城(一色義道が裏切りにあったとされる) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-456.html
  20. 中山城 http://a011w.broada.jp/oshironiikou/shirobetu%20nakayama.htm
  21. 舞鶴の山城97 中山城 https://marumaru.kpu-his.jp/column/2023/04/1885
  22. 宮津へようこそ、丹後の守護一色氏 https://www.3780session.com/miyazuiltushikiuji
  23. 1578 丹後攻略: WTFM 風林火山教科文組織 https://wtfm.exblog.jp/17441166/
  24. 丹後 弓木城 丹後守護・一色氏の滅亡を見届けた城 | 久太郎の戦国城めぐり http://kyubay46.blog.fc2.com/blog-entry-165.html
  25. 弓木城 - 天橋立のお土産・観光情報満載 橋立あるっく https://www.hashidate-alook.com/profile.php?id=1404643393
  26. 本能寺の変の明智光秀と細川藤孝 玉の三戸野への幽閉と小侍徒のこと - note https://note.com/shigetaka_takada/n/nd89c6b34105f
  27. 第430回:弓木城(一色氏が最後の抵抗を試みた稲富氏の居城) https://tkonish2.blog.fc2.com/blog-entry-459.html
  28. 桂林寺 | 舞鶴観光ネット https://maizuru-kanko.net/archives/sightseeing/3496
  29. 舞鶴市にある丹後有数の歴史を誇る禅寺「桂林寺」 https://nankaiiyan-info.com/keirinji/
  30. 桂林寺 (舞鶴市) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E6%9E%97%E5%AF%BA_(%E8%88%9E%E9%B6%B4%E5%B8%82)
  31. 永井家 - 水野日向守のページ http://himuka.blue.coocan.jp/daimyou/nagai.htm
  32. H304 永井尚征 - 系図 https://www.his-trip.info/keizu/h304.html
  33. デジタルミュージアムC47丹哥府志の原本 - 京丹後市 https://www.city.kyotango.lg.jp/top/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/3/1/3/2920.html
  34. 丹哥府志 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E5%93%A5%E5%BA%9C%E5%BF%97
  35. 長岡(京丹後市峰山町) - 丹後の地名 https://tangonotimei.com/doc/tango/ktngc/nagaoka.html