日本の戦国時代史において、武田信玄と上杉謙信という二人の巨星の存在はあまりにも大きい。彼らが繰り広げた十数年にわたる「川中島の戦い」は、戦国時代を象徴する合戦として数多の物語や研究の対象となってきた。しかし、この壮大な歴史劇の影で、その直接的な引き金を引いた極めて重要な人物の存在が見過ごされがちである。その人物こそ、本報告書が主題とする北信濃の国人領主、高梨政頼(たかなし まさより)である 1 。
高梨政頼は、単に上杉謙信に与した一武将ではない。彼は、信濃北部の善光寺平を中心とする地政学的な要衝を支配し、独自の勢力を誇った独立領主であった。彼の存亡をかけた苦闘が、結果として信濃一国を巡る地域紛争を、甲斐と越後という二大戦国大名の全面衝突へと発展させたのである。彼の存在なくして、川中島の戦いが歴史に名高い形で展開することはなかったと言っても過言ではない。
本報告書は、高梨政頼を戦国史の主役の一人として再評価し、彼とその一族の軌跡を徹底的に解明することを目的とする。高梨氏の出自と北信濃における勢力基盤の確立から、祖父・政盛が築いた全盛期、そして政頼自身が直面した武田信玄の侵攻という未曾有の危機、さらには独立領主としての地位を失い、上杉家の家臣として生き残りを図るまでの全過程を、多角的な視点から詳細に分析する。政頼の物語は、戦国時代という巨大な変革の波の中で、伝統的な在地領主であった「国人」が、いかにして自立を失い、より強大な「戦国大名」の権力構造に組み込まれていったかという、時代の本質を映し出す貴重なケーススタディでもある。本稿を通じて、これまで断片的にしか語られてこなかった北信濃の雄、高梨政頼の実像に迫りたい。
高梨政頼の人物像を理解するためには、まず彼が背負っていた一族の歴史と、その勢力基盤を把握することが不可欠である。高梨氏は、一朝一夕に現れた土豪ではなく、信濃国に深く根を張った名門武士団であり、政頼の時代に至るまでには、幾多の動乱を乗り越え、確固たる地位を築き上げていた。
高梨氏の出自は、信濃における古くからの名族、清和源氏井上氏に遡るとされる 3 。『尊卑分脈』などの系図によれば、源満仲の子孫である源頼季が信濃国高井郡井上(現在の長野県須坂市井上)に土着し、その孫である盛光が高梨郷(現在の須坂市高梨)に居住したことから「高梨」を称したのが始まりと伝えられている 5 。この由緒ある家系は、高梨氏が北信濃の武士団の中で正統性と権威を持つ存在であったことを示している。
一族は早くから歴史の表舞台で活躍しており、平安時代末期の源平合戦(治承・寿永の乱)においては、高梨忠直が木曽義仲の配下として名を馳せ、義仲四天王の一人に数えられたことは特筆に値する 3 。これは、高梨氏が単なる地方の武力勢力に留まらず、中央の政治動乱にも積極的に関与する気概と実力を有していた証左である。
時代は下り、南北朝の動乱期には、高梨経頼が一族の総領として軍事的に活躍した。彼は足利尊氏方に属し、観応の擾乱においては野辺宮原や米子城で直義方と戦うなど、時代の潮流を的確に読み、一族の存続と勢力拡大を図った 5 。こうした数々の試練を乗り越える中で、高梨氏は着実にその地歩を固め、戦国時代へと繋がる基盤を築いていったのである。
高梨一族の歴史において、最大の隆盛を誇ったのが、政頼の祖父である高梨政盛の時代であった 4 。政盛は傑出した武将であり、巧みな外交戦略によって高梨氏を北信濃随一の勢力へと押し上げた。その戦略の核となったのが、隣国・越後の守護代であった長尾為景(上杉謙信の父)との強固な同盟関係である。
高梨氏と長尾氏は、政盛の娘が長尾能景(為景の父)に嫁ぎ、さらにその間に生まれた娘が政盛の孫である政頼に嫁ぐという、二重の姻戚関係で結ばれていた 10 。この深い血縁関係は、単なる名目上のものではなく、具体的な軍事行動となって現れた。永正4年(1507年)に長尾為景が主君である越後守護・上杉房能に対して反乱を起こした「永正の乱」において、政盛は為景に与して出兵し、房能を自刃に追い込んだ 11 。さらに永正7年(1510年)、房能の兄である関東管領・上杉顕定が雪辱を期して越後に侵攻した際には、政盛は再び為景と共に長森原の戦いで顕定軍を破り、顕定本人を討ち取るという大功を挙げた 4 。
この一連の軍事介入は、高梨氏の軍事力が越後の政治情勢をも左右するほどの重要な存在であったことを明確に示している。この長尾氏との強固な同盟関係は、高梨氏に全盛期をもたらす一方で、その運命を越後の動向と不可分に結びつけることにもなった。この関係こそが、後に政頼が武田信玄の脅威に直面した際、上杉謙信に助けを求める決定的な伏線となるのである。
高梨氏の勢力拡大は、その本拠地の変遷にも明確に見て取れる。一族の発祥の地は須坂市高梨周辺とされているが 3 、その勢力が伸長するにつれて、より戦略的に重要な地へと拠点を移していった。
室町時代には、まず本拠地を上高井郡小布施町六川付近へと北進させた 4 。そして、全盛期を築いた政盛の代に、長年の宿敵であった中野氏を滅ぼし、善光寺平北部の要衝である中野(現在の中野市)を完全に掌握した 4 。ここに政盛が築き始め、政頼の代に完成したとされるのが、国史跡にも指定されている「高梨氏館」である 9 。この北進戦略は、善光寺平北部の豊かな穀倉地帯の支配権を確立すると同時に、同盟者である越後長尾氏との連携をより円滑にするという、極めて合理的なものであった。
政頼の時代、高梨氏の勢力圏は高井郡・水内郡の広範囲に及び 3 、北信濃において村上氏と覇を競う一大勢力として君臨していた 14 。しかし、この長尾氏との強固な同盟は、諸刃の剣でもあった。越後守護代であった長尾氏を支持することは、越後守護・上杉定実を支持する他の信濃国人衆、すなわち島津氏や井上氏、須田氏らとの対立を必然的に生み出した 9 。この政治的孤立が、後に武田信玄の侵攻に際して、高梨氏が頼れる在地勢力が限られるという脆弱性につながっていく。祖父・政盛が勢力拡大のために用いた戦略が、孫・政頼の代には、その自立性を脅かす要因へと変質していったのである。
祖父・政盛が築いた栄光の時代を経て、高梨政頼が歴史の表舞台に登場したとき、北信濃の情勢はすでに新たな動乱の兆しを見せていた。彼は、一族の遺産を継承しつつも、内外からの絶え間ない圧力に晒され、困難な舵取りを要求されることになる。
高梨政頼は、高梨澄頼の子として永正5年(1508年)頃に誕生したと推定される 10 。彼が家督を相続した時期の父・澄頼の代には、祖父・政盛が築いた盤石な体制に陰りが見え始めていた。越後国内における長尾為景と守護・上杉定実の対立が、国境を越えて北信濃にも波及。為景方であった高梨氏は、上杉方に付いた近隣の島津氏、井上氏、須田氏らとの対立を深め、さらに南からは村上氏の圧迫を受けるなど、政治的に孤立した状況に陥っていた 8 。
このような困難な状況は、若き政頼にも直接的な試練を与えた。大永4年(1524年)、彼は一時的に領国を追われるという屈辱を味わっている 9 。この経験は、彼に国人領主として生き抜くことの厳しさを痛感させ、後の巧みな政治判断の礎となったのかもしれない。
しかし、政頼は逆境に屈しなかった。一族の伝統的な同盟者である越後の長尾為景からの強力な援助を背景に、彼は着実に勢力を回復させていく。敵対勢力との和解や討伐を進め、享禄3年(1530年)には為景の要請に応じて越後三分一原に出陣し、上条上杉氏の反乱鎮圧に貢献するなど、軍事的な実績も積み重ねていった 9 。こうして彼は、父の代に揺らいだ高梨氏の権威を再び確立し、来るべき更なる動乱の時代に備えたのである。
高梨政頼の人物像を語る上で、彼が単なる武辺一辺倒の武将ではなかった点は極めて重要である。彼は高い文化教養と、それを支える豊かな経済力を兼ね備えた文化人としての一面を持っていた。その最も顕著な証拠が、彼が朝廷から賜った官位である。
史料によれば、政頼は天文6年(1537年)に従四位下に叙せられ、さらに天文13年(1544年)には、禁裏(天皇の御所)の修理費用として金五千疋を献上した功績により、従四位上(じゅしいのじょう)という破格の官位に昇進している 9 。従四位上は、地方の国人領主としては異例の高位であり、これは高梨氏が善光寺平の豊かな経済基盤(米、麻、楮などの特産品)を背景に莫大な財力を有していたこと、そしてその財力を通じて京都の朝廷や公家社会とも直接的な繋がりを維持していたことを示している。
この文化的・経済的な実力は、後に本拠地である高梨氏館跡から発見された、京風の洗練された枯山水庭園の存在とも見事に符合する 19 。武力だけでなく、文化や権威といった「ソフトパワー」をも駆使して自らの地位を高めようとする政頼の姿は、戦国時代の国人領主の多様な生存戦略を我々に教えてくれる。この高い官位は、単なる名誉ではなく、村上氏や、後に信濃守護を称する武田信玄といった周辺の競合勢力に対し、自らの正統性と権威を誇示するための重要な政治的ツールであった。伝統的な権威が揺らぐ戦国時代にあって、彼は武力と権威の両輪によって一族の存続を図ろうとしたのである。
高梨政頼の生涯は、戦国時代の北信濃の動乱を体現するものであった。彼の行動を時系列で追うことで、その激動の人生をより深く理解することができる。
年代(西暦) |
元号 |
年齢(数え) |
主要な出来事 |
典拠 |
1508年 |
永正5年 |
1歳 |
誕生(推定)。 |
10 |
1524年 |
大永4年 |
17歳 |
一時的に領国を追われる。 |
9 |
1530年 |
享禄3年 |
23歳 |
長尾為景に従い、越後三分一原に出陣。 |
9 |
1537年 |
天文6年 |
30歳 |
2月17日、従四位下に叙せられる。 |
9 |
1544年 |
天文13年 |
37歳 |
7月22日、禁裏御所修理費用献上の功により従四位上に昇叙。 |
9 |
1550年頃 |
天文19年頃 |
43歳 |
武田氏の侵攻に対し、宿敵・村上義清と和睦し共同戦線を張る。 |
10 |
1553年 |
天文22年 |
46歳 |
村上義清が越後へ敗走。政頼ら北信国衆が長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請し、川中島合戦が勃発。 |
22 |
1557年 |
弘治3年 |
50歳 |
2月、武田軍が葛山城を攻略。高梨氏の本拠地・中野に脅威が迫る。 |
9 |
1559年 |
永禄2年 |
52歳 |
3月、武田方の高坂昌信により高梨氏館が陥落。飯山城へ後退を余儀なくされる。 |
9 |
1561年 |
永禄4年 |
54歳 |
9月、第四次川中島の戦いに上杉軍の先陣として参陣。子の秀政・頼親らと共に奮戦する。 |
9 |
1576年 |
天正4年 |
69歳 |
死没(諸説あり)。 |
9 |
天文年間に入り、甲斐国を統一した武田晴信(後の信玄)が信濃への侵攻を開始すると、北信濃の政治情勢は一変する。高梨政頼は、この未曾有の軍事的圧力に対し、一族の存亡を賭けた長い戦いに身を投じることとなった。
当初、武田氏の脅威に直面した政頼は、国人領主として極めて現実的な選択をした。すなわち、長年にわたり善光寺平の覇権を争ってきた宿敵、葛尾城主・村上義清と和睦し、対武田の共同防衛戦線を構築したのである 9 。この北信濃連合軍は、天文19年(1550年)の砥石城の戦い(砥石崩れ)などで武田軍を二度にわたり撃退し、信玄に苦杯を嘗めさせるなど、初期においては大きな成果を上げた 9 。
しかし、この連合は長くは続かなかった。武田方の巧みな調略により、村上氏配下の屋代氏らが離反。天文22年(1553年)、村上義清はついに本拠地である葛尾城を維持できず、越後へと敗走した 9 。北信濃における最大の防波堤が失われたことで、高梨政頼は武田信玄の強大な軍事力と単独で対峙せざるを得ない状況に追い込まれた。
もはや自領の兵力だけでは抗しきれないと判断した政頼は、井上氏、島津氏といった他の北信濃国衆と共に、最後の頼みの綱である越後の長尾景虎(上杉謙信)に救援を要請した。この決断が、以後12年余にわたって繰り広げられる「川中島の戦い」の直接的な引き金となったのである 10 。政頼個人の、そして高梨一族の存亡をかけた戦いは、ここに甲越二大勢力の代理戦争という様相を呈し、日本戦国史に残る壮大なドラマの幕を開けた。
景虎の出兵によって一時的に武田軍の進撃は食い止められたものの、信玄は北信濃の完全制圧に向けた圧力を緩めなかった。弘治3年(1557年)、武田軍は冬季の積雪で上杉軍の救援が困難な時期を狙い、上杉方の重要拠点であった水内郡葛山城を攻略した 9 。これにより、高梨氏の本拠地である中野は、武田方の前線から至近距離となり、直接的な脅威に晒されることになった。さらに悪いことに、中野北部の志久見郷を領有する市河氏が武田方に寝返ったため、政頼は南北から挟撃されるという絶体絶命の危機に陥った(第三次川中島の戦い) 9 。
そして永禄2年(1559年)3月、高梨氏にとって決定的な悲劇が訪れる。武田方の川中島における拠点・海津城(後の松代城)の城代であった猛将・高坂昌信(春日虎綱)が、高梨氏館に総攻撃をかけたのである 8 。高梨氏の栄華と権威の象徴であったこの壮麗な館も、武田軍の猛攻の前についに陥落した。
本拠地・中野を失った政頼は、一族を率いて信越国境に近い飯山城への後退を余儀なくされた 9 。飯山城は、千曲川を天然の外堀とする堅固な平山城であり、越後への玄関口を押さえる戦略的要衝であった 33 。上杉謙信はこの城の重要性を深く認識しており、対武田の最前線基地として改修を加えていた。
この飯山城への後退は、高梨氏の歴史における重大な転換点であった。それは、独立した国人領主としての地位を事実上放棄し、上杉氏の完全な庇護下に入り、その軍事指揮系統に組み込まれることを意味したからである。政頼は飯山城の大将として、引き続き武田軍への抵抗を続けたが 33 、その立場はもはや上杉家の信濃方面軍を構成する一部将に過ぎなかった。北信濃の豊かな穀倉地帯は武田の手に落ち、政頼は故郷を遠く望む国境の城で、旧領回復の機会を待つ身となったのである。この一連の出来事は、高梨政頼が置かれた地政学的な罠を浮き彫りにする。彼の領地は豊かな経済基盤であると同時に、甲越という二大膨張勢力の衝突コース上に位置する戦略的負債でもあった。彼の行動は、個人的な野心よりも、巨大な勢力に挟まれた小領主が生き残るための必死の反応であり、その運命は個人の能力を超えた、時代の構造によって決定づけられたと言える。
失地回復の悲願を胸に、政頼は最後の戦いに挑む。永禄4年(1561年)9月、戦国史上最も熾烈な野戦の一つとして知られる第四次川中島の戦いが勃発した。この決戦において、高梨政頼は子の高梨秀政・頼親ら一族郎党を率い、上杉軍の先陣という最も名誉ある、そして最も危険な役割を担って奮戦した 9 。
この戦いは、上杉謙信が武田信玄の「啄木鳥の戦法」を見破り、手薄になった武田本陣を八幡原で急襲するという劇的な展開を見せた。高梨勢の奮戦もあり、上杉軍は武田信玄の弟・信繁や軍師・山本勘助といった多くの有力武将を討ち取るという大きな戦果を挙げた。しかし、妻女山から戻った武田別働隊の到着により戦況は膠着し、上杉軍もまた大きな損害を被った。
戦術的には上杉方が優勢な場面もあったものの、戦略的には両者共に決定的な勝利を得るには至らず、戦いは引き分けに終わった。そして、この戦いの結果、高梨政頼の最大の目的であった旧領・中野の回復は、ついに成ることはなかった 9 。この戦いが、政頼が故郷の土を踏むための最後の、そして叶わぬ挑戦となったのである。
川中島合戦は一度の決戦ではなく、十数年にわたる一連の軍事衝突であった。その複雑な流れの中で、高梨政頼が果たした役割は極めて大きい。以下の表は、各合戦における政頼の具体的な動向をまとめたものである。
合戦 |
年月 |
武田方の動き |
上杉方の動き |
高梨政頼の役割・動向 |
典拠 |
第一次 |
天文22年 (1553) |
村上義清を追放し、北信へ進出。 |
村上・高梨らの要請で出陣。 |
村上義清らと共に上杉景虎に救援を要請。合戦の直接的な引き金となる。 |
22 |
第二次 |
弘治元年 (1555) |
旭山城を拠点に善光寺平を窺う。 |
善光寺横山城に入り、旭山城を攻撃。 |
再び景虎に救援を要請し、出陣を促す。対陣の当事者の一人。 |
22 |
第三次 |
弘治3年 (1557) |
葛山城を攻略し、高梨氏館に迫る。 |
雪解け後に出陣し、武田方諸城を攻撃。 |
本拠地を脅かされ、飯山城にて景虎を頼る。挟撃の危機に瀕する。 |
9 |
(館の陥落) |
永禄2年 (1559) |
高坂昌信が高梨氏館を攻略。 |
- |
本拠地を失い、飯山城へ完全に後退。独立領主としての地位を喪失。 |
9 |
第四次 |
永禄4年 (1561) |
妻女山の上杉軍を奇襲(啄木鳥戦法)。 |
奇襲を見抜き、八幡原で武田本隊を急襲。 |
子の秀政・頼親らと共に上杉軍の先陣として奮戦するも、旧領回復はならず。 |
9 |
第五次 |
永禄7年 (1564) |
塩崎城で対陣し、決戦を避ける。 |
川中島に出陣するも、対陣に終始。 |
飯山城の守備に専念。上杉軍の信濃における拠点防衛を担う。 |
24 |
高梨氏が北信濃に築いた勢力は、軍事的なものだけに留まらなかった。彼らが残した居館跡や、地域に伝わる伝説は、一族が持っていた高い文化水準と、地域社会における影響力の大きさを今に伝えている。
高梨政頼の祖父・政盛が築城を始め、政頼の代に完成したとされる本拠地「高梨氏館」(別名:中野城、高梨小館)は、北信濃を代表する中世の館跡として、国の史跡に指定されている 8 。この館は、単なる軍事拠点ではなく、高梨氏の政治的・文化的な中心地であった。
館跡は、東西約130メートル、南北約100メートルに及ぶ広大な方形の区画を持ち、その四方は堅固な土塁と空堀によって守られている 13 。昭和61年(1986年)から平成4年(1992年)にかけて行われた詳細な発掘調査では、門跡1棟、礎石を用いた格式の高い建物跡5棟、掘立柱の建物跡7棟などが検出され、往時の壮麗な姿が明らかにされた 19 。
これらの遺構の中でも特に学術的価値が高いのが、館の南東隅から発見された庭園の跡である。この庭園は、3個の立石で構成された滝口、川原石を巧みに配した洲浜(すはま)状の意匠、そして池の中央に置かれた3個の岩が形成する中島など、洗練された設計思想が見て取れる 19 。給排水に関する明確な遺構が確認されなかったことから、水を実際に用いず石と砂で山水の風景を表現する「枯山水」様式の庭園であったと推定されている 19 。これは長野県内の方形館跡では唯一の発見例であり、高梨氏が京都の最新の文化様式を積極的に取り入れるだけの財力と文化的ネットワークを有していたことを示す動かぬ証拠である 19 。この庭園は、単なる慰安の場ではなく、来訪する客人に一族の権威と文化的な高みを見せつけるための、計算された権力装置でもあった。それは、朝廷への献金によって高い官位を得た政頼の政治戦略とも軌を一にするものであり、高梨氏が武力と文化の両面から自らの支配を正当化しようとしていたことを物語っている。
高梨氏が地域社会に与えた影響の大きさは、彼らの本拠地周辺に今なお語り継がれる「黒姫伝説」からも窺い知ることができる 9 。
この伝説にはいくつかのバリエーションが存在するが、その大筋は、高梨家の美しき姫君「黒姫」に、近くの池に住む竜もしくは大蛇が恋をするというものである。恋が成就しなかった竜は、怒り、洪水や雷雨を引き起こして高梨氏に災いをもたらす、という筋書きが一般的である 40 。
物語の中で、ヒロインである黒姫は、高梨政頼の妹として登場することもあれば 9 、父である政盛の娘として語られることもある 40 。どちらの説が正しいかを特定することは困難であるが、重要なのは、高梨一族が地域の神話的伝承の中心に位置づけられるほど、地元の人々にとって馴染み深く、象徴的な存在であったという事実である。この伝説は、高梨氏が単なる支配者ではなく、地域の自然や信仰とも深く結びついた、記憶されるべき一族であったことを示している。
高梨政頼の死後、北信濃の情勢はさらに激動の度を増す。織田信長の台頭、武田氏の滅亡、そして本能寺の変。目まぐるしく変わる時代の奔流の中で、高梨一族は独立領主としての道を完全に断たれ、上杉家の家臣として新たな生き残りの道を探ることになる。
政頼を中心とした一族の動向を理解するため、主要な関係者を以下に整理する。この複雑な人間関係、特に婚姻関係が、後の高梨氏や周辺勢力の運命に大きな影響を与えた。
関係 |
人物名 |
概要 |
典拠 |
祖父 |
高梨政盛 |
高梨氏全盛期を築いた当主。長尾為景の姻族として越後の動乱に介入。 |
4 |
父 |
高梨澄頼 |
政盛の子。政頼の父。長尾能景の娘を妻とする。 |
9 |
本人 |
高梨政頼 |
本報告書の主題。上杉謙信の叔父にあたり、武田信玄と激しく戦った。 |
9 |
姉妹 |
於フ子 |
信濃の有力国人、村上義清の側室となる。 |
9 |
姉妹 |
黒姫 |
地元に伝わる「黒姫伝説」のヒロイン(諸説あり)。 |
9 |
子 |
高梨秀政 |
嫡男か。第四次川中島合戦で父と共に先陣を務め奮戦。 |
9 |
子 |
高梨頼親 |
秀政の弟。家督を継ぎ、上杉景勝に従って米沢藩士となる。高梨氏存続の鍵を握る。 |
15 |
子 |
高梨頼治 |
政頼の子。 |
15 |
子 |
高梨頼包 |
政頼の次男か。一族が越後へ逃れた際、真田家を頼り武田家に臣従したとの説がある。 |
46 |
娘 |
於北 |
真田幸隆の嫡男・信綱の正室となる。高梨氏と真田氏の重要な結びつきを示す。 |
9 |
子? |
高梨内記 |
真田信繁(幸村)の側近。政頼の子とする説があるが、近年の研究では信憑性は低いとされる。 |
9 |
孫 |
高梨頼清 |
頼親の子。父と共に米沢藩に移り、藩士として家を継ぐ。 |
15 |
高梨政頼の最期は、多くの謎に包まれている。彼の晩年の動向を記した確実な史料は乏しく、その没年についても複数の説が存在する。一般的には天正4年(1576年)に亡くなったとする説が知られているが 9 、一方で、第四次川中島の戦い(永禄4年、1561年)の直後、あるいはそれ以前に既に亡くなっていたとする説も根強く存在する 9 。
この情報の錯綜は、高梨氏が独立した国人領主としての地位を失い、巨大な上杉家の家臣団の中に埋没していったことの現れとも解釈できる。一族の当主個人の動向が、もはや大名の家臣の一人としてしか記録されなくなり、その結果として史料が散逸した可能性が高い。北信濃の雄として名を馳せた政頼の最期が、歴史の霧の中に消えていったことは、戦国時代における国人領主の悲哀を象徴しているかのようである。
政頼の死後、高梨氏の家督は子の高梨頼親が継承したと見られる 8 。彼が当主となった時代、日本の中央情勢は激変期を迎えていた。天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって高梨氏の宿敵であった武田氏が滅亡。しかし、その直後に本能寺の変で信長が横死すると、主を失った旧武田領(甲斐・信濃・上野)を巡って、上杉・徳川・北条の三大大名が覇権を争う「天正壬午の乱」が勃発した。
この混乱の中、上杉景勝は機敏に動き、武田・織田の支配から解放された北信濃四郡を電光石火の速さで制圧した 15 。この上杉氏による北信濃支配の確立に伴い、長年上杉家臣として忠誠を尽くしてきた高梨頼親は、ついに悲願であった旧領・中野郷への復帰を果たした 8 。父・政頼が失って以来、約23年ぶりの故郷への帰還であった。
しかし、頼親が故郷の土を踏むことができたのは、束の間のことであった。天正壬午の乱から16年後の慶長3年(1598年)、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉の命令により、上杉景勝は越後から会津120万石へと大規模な国替え(転封)を命じられた。この時、すでに上杉家の家臣団に完全に組み込まれていた高梨頼親も、主君・景勝に従い、再び故郷・信濃の地を離れ、会津へと移住した 5 。
さらにその2年後、関ヶ原の戦いで西軍に与した上杉家は、徳川家康によって会津から出羽米沢30万石(後に財政難などから15万石に減封)へと再び転封させられる。高梨氏もまた、この上杉家の流転に従い、最終的に米沢の地に落ち着くこととなった 5 。
米沢藩において、高梨氏は一度改易されるという危機に見舞われたが、寛永元年(1624年)に名誉を回復され、再び上杉家に召し抱えられた 45 。史料によれば、この時500石の知行を与えられている 5 。以後、高梨一族は米沢藩の上級武士である「侍組」の一員として、明治維新に至るまでその家名を保ち続けた 15 。独立領主としての地位と故郷を失った代償として、彼らは大名の家臣となることで一族の存続を確保したのである。これは、戦国乱世を生き抜いた多くの国人領主が辿った典型的な道筋であり、高梨氏の物語は、滅亡ではなく存続を選んだ者の、成功と喪失の歴史と言える。
高梨氏の歴史を語る上で、もう一つの興味深い論点が、信濃の雄・真田氏との関係である。特に、真田信繁(幸村)の側近として、大坂の陣で最後まで付き従った「高梨内記」という人物の存在は、多くの歴史ファンの関心を集めてきた 48 。
江戸時代末期に松代藩で編纂された史料には、この内記を政頼の子、あるいは子孫とする記述が見られる 9 。しかし、この説には同時代の確実な史料的裏付けがなく、近年の専門的な研究では、その信憑性は低いと見なされているのが実情である 9 。
ただし、高梨氏と真田氏が全く無関係であったわけではない。確実な事実として、高梨政頼の娘である於北(おきた)が、真田幸隆の嫡男であり、信繁の伯父にあたる真田信綱の正室として嫁いでいる 9 。この婚姻関係は、当時北信濃で勢力を二分していた高梨氏と、武田家の先鋒として勢力を伸ばしていた真田氏との間の、政治的な結びつきを示す重要な証拠である。この確固たる姻戚関係があったからこそ、後世に「高梨内記は政頼の子孫である」という、よりドラマチックな説が生まれたと考えるのが自然であろう。高梨内記の正確な出自は不明ながらも、高梨一族と真田氏の間に何らかの人的交流があった可能性は十分に考えられる。
高梨政頼の生涯は、戦国時代という巨大な地殻変動期において、その狭間に立たされた地方領主の運命を鮮やかに映し出している。彼は、清和源氏の名門という由緒ある出自と、善光寺平の豊かな経済力、そして京の都にも通じる高い文化性を背景に、一時は北信濃に覇を唱えるほどの勢力を誇った。しかし、武田信玄と上杉謙信という、時代の流れを体現する二大勢力の膨張圧力の前では、一個人の才覚や一族の伝統的な力だけでは抗うことができなかった。
彼の人生は、選択と喪失の連続であった。宿敵・村上義清と手を結び、武田の侵攻に抵抗するという現実的な選択。その防衛線が破綻したのち、一族の存亡を賭けて越後の上杉謙信に救援を求めるという苦渋の選択。そして、本拠地・中野を失い、独立領主としての誇りを捨てて上杉家の庇護下に入るという、生き残りのための最後の選択。これらの選択は、彼から故郷と自立を奪ったが、同時に高梨一族を歴史の舞台から完全に消滅させるという最悪の結末から救った。
結果として、高梨氏は上杉家の家臣団に組み込まれ、会津、そして米沢へと主君と運命を共にし、近世を通じて武士としての家名を保ち続けた。これは、戦国乱世における一つの「生存戦略」の成功例と言えるだろう。
今日、長野県中野市に残る国史跡・高梨氏館跡は、在りし日の高梨氏の栄華を静かに物語っている。その堅固な土塁と堀、そして京風の洗練された庭園跡は、武力と文化を兼ね備えた一人の国人領主が、激動の時代をいかに生き、そして翻弄されていったかを、我々に力強く語りかけている。高梨政頼は、信玄や謙信のような時代の創造者ではなかったかもしれない。しかし、彼は自らの領地と一族を守るために最後まで戦い抜いた、紛れもない戦国時代の当事者であり、その栄光と苦闘の軌跡は、記憶され、語り継がれるべき価値を持つものである。