戦国時代の九州を語る上で、高橋紹運(じょううん)と立花宗茂(むねしげ)の親子は、その武勇と義烈さにおいて特筆すべき存在である。父・紹運は、島津氏の圧倒的な大軍を前に岩屋城で玉砕し、「乱世の華」と称えられた悲劇の英雄であった 1 。一方、兄・宗茂は、豊臣秀吉から「西国無双」と激賞された戦術の天才であり、その生涯は数々の武功で彩られている 4 。
この二人の偉大な人物の影に隠れ、その生涯がしばしば過小評価されてきたのが、紹運の次男にして宗茂の実弟、高橋統増(たかはし むねます)、後の立花直次(たちばな なおつぐ)である。彼の名は、父や兄の華々しい物語の中で、脇役として語られることが多い 7 。しかし、その生涯を丹念に追うとき、我々は単なる「弟」ではない、一人の独立した武将としての苦悩、決断、そして武勇の姿を目の当たりにする。本報告書は、高橋統増の生涯を、彼自身の視点から再構築し、その決断の背景にある心理的・政治的圧力を分析することで、彼が忠義、生存、そして徳川の世における新秩序の創出というテーマをいかに体現したかを明らかにし、その歴史的評価を再検討することを目的とする。
高橋統増は、元亀3年(1572年)、豊後大友氏の重臣・高橋紹運(鎮種)とその正室・宋雲院(そううんいん)の次男として誕生した 9 。幼名は千若丸(ちわかまる)と伝わる 7 。父・紹運は、大友家の三老の一人に数えられた吉弘鑑理(よしひろ あきまさ)の次男であり、統増は九州における名門武家の血を引いていた 12 。
大友氏の家臣として、統増は主君である大友義統(おおとも よしむね)から偏諱(へんき、主君の名前の一字を賜ること)を受け、「高橋統増」と名乗った 10 。これは、彼が大友家の支配体制に組み込まれた一員であることを示すものであった。
統増の運命が大きく転換したのは、天正9年(1581年)のことである。当時、子に恵まれなかった大友家の宿老・立花道雪(たちばな どうせつ)が、その武勇と器量を見込み、統増の兄・統虎(後の宗茂)を養嗣子として迎え入れたいと紹運に懇願した。統虎は道雪の一人娘・誾千代(ぎんちよ)と婚姻し、名門立花家を継ぐこととなった 12 。
この養子縁組は、大友家全体の戦略上は大きな利益をもたらしたが、当時9歳の統増にとっては、自身の立場を根底から変える出来事であった。彼は次男という立場から、突如として高橋家の家督を継ぐべき嫡男へと押し上げられたのである 10 。
天正14年(1586年)、九州統一を目指す薩摩の島津氏が、大軍を率いて大友領の筑前国へ侵攻を開始した 14 。この未曾有の国難に対し、父・紹運は驚くべき決断を下す。彼は、防御に不向きな支城・岩屋城にわずか763名の兵と共に立てこもり、5万ともいわれる島津の大軍を迎え撃つことを選んだのである 13 。紹運の目的は勝利ではなく、豊臣秀吉の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ、島津軍の戦力を削ぐための壮絶な遅滞戦術であった 14 。
半月に及ぶ攻防の末、同年7月27日、紹運と城兵は全員玉砕した。しかし、その戦いぶりは島津軍に数千人の死傷者を出し、その後の進軍計画に大きな打撃を与えた 17 。この「岩屋城の戦い」は、戦国史上最も壮烈な籠城戦の一つとして、また紹運の忠義を象徴する戦いとして後世に語り継がれることになる。
父が岩屋城で死闘を繰り広げる間、15歳になったばかりの統増は、高橋家の本城である宝満山城(ほうまんざんじょう)の守将という重責を担っていた 10 。この城には、母・宋雲院をはじめとする女性や子供といった非戦闘員が多数籠っており、その命は若き統増の双肩にかかっていた 10 。
さらに状況を複雑にしたのは、彼の妻・加袮姫(かねひめ)が、筑紫広門(つくし ひろかど)の娘であったことである 7 。この時、義父である広門はすでに島津軍の捕虜となっており、宝満山城内にいた筑紫氏の家臣たちは動揺し、その士気と忠誠心は著しく低下していた 7 。
父の壮絶な死とは対照的に、統増が下した宝満山城の開城という決断は、しばしば否定的に評価されがちである。しかし、その背景を深く考察すると、15歳の若き将としての現実的かつ責任感に満ちた判断が見えてくる。紹運が率いたのは、死を覚悟した精鋭の武士団であった。対して、統増が守る城には、信頼性の低い同盟兵に加え、何より守るべき多くの非戦闘員が存在した 7 。この状況で玉砕を選ぶことは、無意味な殺戮に他ならなかった。彼の決断は、人命を最大限に尊重する、若年にしては極めて成熟した指導者のそれであったと言える。後年、彼が父と共に死ねなかったことを生涯悔やんだと伝えられるのは 7 、臆病さからではなく、あまりにも偉大な父が遺した「美しき死」という、超えることのできない手本がもたらした強烈な心理的重圧の表れであったと考えられる。この経験こそが、後の彼の武功への渇望を駆り立てる原動力となったのである。
統増の生涯は、主君や政治体制の変転に伴い、幾度もの改名を経験した。その変遷は、彼のアイデンティティが時代の大きなうねりの中でいかに形成されていったかを物語っている。
時期 |
姓 |
諱 |
通称・官位 |
主な出来事 |
元亀3年 (1572) |
高橋 |
千若丸 |
幼名 |
誕生 10 |
天正年間 |
高橋 |
統増 |
少輔太郎、弥七郎 |
大友義統より偏諱を賜う 10 |
天正17年 (1589) |
高橋 |
統増 |
従五位下・民部少輔 |
豊臣政権下で叙任 10 |
文禄年間 |
高橋 |
宗一 |
主膳正 |
文禄の役の頃に改名 10 |
文禄年間 |
高橋 |
重種 |
主膳正 |
大友氏改易後に改名 10 |
慶長19年 (1614) |
立花 |
直次 |
主膳正 |
徳川家旗本となり改姓・改名 10 |
岩屋城を陥落させた島津軍は、次いで宝満山城に迫った。圧倒的な兵力差、そして城内の動揺を鑑み、統増は城兵の助命を条件とした降伏勧告を受け入れる。この時、家臣団は統増夫妻を兄・宗茂の立花城へ無事に送り届けることを追加条件として交渉したが、島津側はこの約束を反故にした。城を出た統増は、妻や母・宋雲院と共に捕虜の身となってしまったのである 7 。薩摩へ連行される道中、高橋家の家臣・今村五郎兵衛が、憤りのあまり飛び立った雉子を大太刀で一刀両断にしたという逸話は、高橋家中の無念さを物語っている 7 。
統増の雌伏の時は、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州平定によって終わりを告げる。豊臣軍の先鋒を務めた兄・宗茂は、破竹の勢いで薩摩まで進軍し、祁答院(けどういん)に幽閉されていた統増と母・宋雲院を救出した 19 。実力で弟を救い出した兄に対し、統増が抱いた尊敬と感謝の念は、その後の二人の固い絆の礎となった 7 。
九州平定後、秀吉は「国割り」を実施した。天正15年6月25日、兄・宗茂はこれまでの戦功を激賞され、筑後国柳川に13万2千石を与えられ、大友氏の家臣という立場から独立した豊臣直轄の大名へと取り立てられた 21 。
これと同時に、統増もまた筑後国三池郡に1万8千石を与えられ、兄とは別の独立した大名となった 3 。当初は江之浦城を居城とし、後に内山城へと移った 3 。この時、統増自身には捕虜となっていた以外に特筆すべき武功はなかった。この破格の待遇は、ひとえに父・紹運が岩屋城で見せた「義戦の功績」を秀吉が高く評価した結果であった 3 。天下人秀吉は、忠義の武将の遺児を厚遇することで、その死に報いるとともに、全国の諸大名に対して「忠節は必ず報われる」という強力な政治的メッセージを発信したのである。三池藩の誕生は、まさに父・紹運の壮絶な犠牲の上に成り立っていた。
大名となった統増に、自らの武勇を示す最初の機会がすぐに訪れた。同年、肥後国で新領主・佐々成政の失政に対して大規模な国人一揆が勃発すると、兄・宗茂が鎮圧のために派遣された。統増もこれに従い、騎馬鉄砲隊を率いて出陣した 24 。彼はこの戦いで目覚ましい活躍を見せ、特に一揆の中心人物の一人であった有働志摩守(うどう しまのかみ)を討ち取る戦功を挙げた 24 。ある記録では、一日に13度の合戦に及び、7つの砦を陥落させたとされ、その勇猛さは父や兄に劣らないものであった 7 。この戦いは、彼が父から受け継いだ武勇の血を証明し、高橋家の嫡男としての評価を確立する重要な一歩となった。
文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を開始すると、統増も兄・宗茂と共に渡海した。彼は800の兵を率い、小早川隆景が指揮する第六番隊に所属した。兄・宗茂も2500の兵と共に同じ部隊に編入されており、兄弟は再び同じ戦場で戦うこととなった 23 。
文禄2年(1593年)1月、平壌で明軍に敗れた日本軍は、首都・漢城(現在のソウル)で戦線の立て直しを図っていた。軍議では石田三成らが籠城策を主張する中、宗茂や小早川隆景は積極的な迎撃戦を主張し、これが採用された 27 。
そして、宗茂と統増の兄弟が、この決戦の先鋒という最も名誉ある役目を任されたのである 28 。1月26日、漢城郊外の碧蹄館(へきていかん)において、宗茂率いる約3000の先鋒隊(統増の部隊を含む)は、李如松率いる数万の明軍と激突した。数で劣る立花・高橋勢は一時は壊滅の危機に瀕したが、宗茂と統増は巧みな側面攻撃を敢行し、明軍の陣形を突き崩した 10 。この一撃が戦況を好転させ、日本軍の歴史的大勝利の口火を切った。この戦いにより、「立花勢」の武名は日本全土、そして明国にまで轟くこととなった。
この朝鮮での戦役において、統増の兄・宗茂への深い敬愛と忠誠心を示す逸話が残されている。ある時、「宗茂が明軍の捕虜となった」という誤報が陣中に流れた。これを聞いた統増は、自らが守るべき城から即座に700の手勢を引き連れ、兄の救出のために駆けつけた。結果的に誤報であったが、弟の迅速果断な行動と揺るぎない勇気に対し、宗茂は大いに感心したという 7 。
この逸話は、二人が単なる兄弟や主従という関係を超え、互いを深く信頼し合う軍事的なパートナーであったことを示している。天才的な戦術家である兄と、その意図を汲んで最前線で勇猛に戦う弟。この兄弟の連携こそが、立花・高橋軍を比類なき精鋭部隊たらしめていた。後年、宗茂が「世に主膳(統増の通称)ほど大剛の者なし」と評した言葉は 7 、単なる身内への賛辞ではなく、幾多の死線を共に越えてきた弟の武勇に対する偽らざる評価であった。
統増の活躍は碧蹄館に留まらない。彼は第一次・第二次蔚山城の戦い、第二次晋州城合戦、加徳島の戦い、そして慶長の役の最終局面である露梁海戦に至るまで、主要な合戦のほとんどに参加している 10 。これらの絶え間ない参陣は、彼が単なる「宗茂の弟」ではなく、豊臣軍の中でも屈指の経験と実力を備えた一人の武将として認められていたことの証左である。
慶長5年(1600年)、徳川家康率いる東軍と、石田三成を中心とする西軍との対立が天下分け目の戦いへと発展すると、宗茂と統増は迷わず西軍に加わった。その理由は、三成個人への支持というよりも、彼らを一介の大友家臣から独立大名へと取り立ててくれた豊臣秀吉への揺るぎない恩義にあった 4 。
西軍に与した立花・高橋勢は、毛利元康らと共に、東軍に寝返った京極高次が守る近江国・大津城の攻略を命じられた 33 。9月7日に始まった攻城戦において、精鋭として知られる立花勢はその勇名を遺憾なく発揮する。激しい鉄砲射撃に加え、長等山から大砲を撃ち込み、城の天守に命中させるなど、猛攻を仕掛けた 35 。
粘り強い抵抗を見せた京極高次も、ついに9月14日に降伏を決意。翌15日、大津城は開城した 34 。しかし、皮肉にもこの日は、美濃国関ヶ原で東西両軍の主力決戦が行われた日であった。大津城攻略に時間を要したため、立花・高橋勢を含む1万5千の西軍部隊は、天下分け目の決戦に参陣することができなかったのである 33 。
関ヶ原での西軍壊滅の報を受け、宗茂と統増は大坂城へ退き、宗茂は西軍総大将の毛利輝元に徹底抗戦を説いたが、輝元はこれを受け入れなかった 33 。やむなく兄弟はそれぞれの領国である柳川と三池へ帰還する。しかし、九州はすでに東軍方となった加藤清正や鍋島直茂らの軍勢によって包囲されていた 32 。宗茂は柳川城で籠城戦の末、家臣と領民の命を救うために開城を決断した 38 。
西軍に与した結果、宗茂と統増は共に領地を没収(改易)され、大名の地位を失い浪人の身となった 9 。この時、統増は出家して宗卜道白(そうぼくどうはく)と号した 10 。
西軍に属したにもかかわらず、立花兄弟の武名は徳川家康やその子・秀忠も高く評価していた。家康は彼らの器量を惜しみ、やがて両名を召し抱えることになる 10 。慶長18年(1613年)、統増は家康への拝謁を許され、翌慶長19年(1614年)には徳川家の直参である旗本として、常陸国柿岡(現在の茨城県石岡市)に5000石の知行を与えられ、武家社会への復帰を果たした 9 。
この徳川家への仕官を機に、彼はその名を大きく変える。父祖伝来の「高橋」の姓を捨て、兄と同じ「立花」を名乗り、諱も「統増」やその後の「宗一」「重種」から「直次」へと改めた 10 。
この改姓・改名は、極めて象徴的な意味を持つ。高橋の姓は、もはや過去の勢力となった大友家との主従関係や、岩屋城での悲劇的な歴史と結びついていた。一方で、立花の名は、兄・宗茂の徳川政権下での見事な復活により、新しい時代の成功と結びついていた。直次はこの改名によって、旧時代の権力構造との決別を宣言し、兄が切り拓いた成功の道に自らの家系を合流させたのである。これは、立花一族のアイデンティティを最も有望な旗印の下に統合し、徳川の治世において第二の立花家を確立するための、深慮遠謀に基づく戦略的決断であった。
旗本・立花直次として、彼は大坂冬の陣・夏の陣の両方に徳川方として参陣した 10 。慶長20年(1615年)の夏の陣における最終決戦「天王寺・岡山の戦い」では、将軍・徳川秀忠の旗本隊に属し、その護衛にあたった 41 。豊臣方の毛利勝永隊の猛攻により秀忠の本陣が危機に陥った際、直次はこれを防ぎ戦い、将軍の危機を救うという大きな戦功を挙げた 10 。この功績は、彼の徳川家における評価を決定的なものとした。
直次は単なる戦場の将にとどまらず、求道的な武術家でもあった。彼は将軍家剣術指南役であった柳生宗矩(やぎゅう むねのり)に師事し、柳生新陰流の奥義を学んだ 10 。そして、その技をさらに探求し、自ら「新陰治源流(しんかげじげんりゅう)」という一流派を開くに至った 10 。これは、彼が武術を単なる戦いの道具としてではなく、生涯を懸けた修養の道として捉えていたことを示している。
元和3年(1617年)7月19日、立花直次は江戸下谷の屋敷にてその生涯を閉じた 9 。享年46 7 。法名は「大通院殿玉峯道白大居士(だいつういんでんぎょくほうどうはくだいこじ)」と贈られた 10 。
立花直次は5000石の旗本としてその生涯を終えたが、彼が徳川家のために尽くした忠勤と、立花一族が持つ高い名声は、その子孫に大きな遺産を残した。直次の死から4年後の元和7年(1621年)、長男の立花種次(たねつぐ)は5000石を加増され、合計1万石の大名となり、かつての所領であった筑後国三池への移封が認められた。ここに筑後三池藩が正式に成立したのである 10 。
これにより、種次が初代「藩主」であるものの、その礎を築いた父・直次こそが三池藩の「藩祖」として尊崇されることとなった 7 。直次の徳川への忠誠が、息子の代での大名復帰を可能にしたのである。
三池藩は兄・宗茂が治める柳川藩の支藩ではなく、独立した藩であったが 49 、両家の関係は極めて密接であった。宗茂は甥である種次の後見人を務め、その治世を支えた 51 。さらに、実子のいなかった宗茂は、直次の四男・忠茂(ただしげ)を養子に迎え、柳川藩の後継者とした 7 。この養子縁組により、二人の兄弟の血と遺産は、柳川・三池の両藩を通じて未来永劫にわたり交わることとなった。
三池藩はその後、18世紀に一時的に陸奥国下手渡(しもてど)へ移封されるなど複雑な歴史を辿るが、幕末に再び三池へ復帰した 20 。最後の藩主となった立花種恭(たねゆき)は、幕末に老中格を務め、明治維新後には学習院の初代院長に就任するなど、激動の時代に重要な役割を果たした 53 。
三池立花家の血筋は、驚くべき形で現代日本へと繋がっている。最後の藩主・種恭の兄である立花種道(たねみち)の曾孫・夏子が、筑豊の炭鉱王・麻生太吉の息子に嫁いだ 56 。その子孫が、第92代内閣総理大臣を務めた麻生太郎氏である 39 。
この事実は、一見すると歴史の脇役に見える人物が、いかに永続的な影響を残しうるかを示す力強い証左である。父・紹運は壮絶な死を遂げ、兄・宗茂は不世出の武将として名を馳せた。しかし、結果として日本の最高権力者へと繋がる血脈を遺したのは、偉大な父兄の影で苦悩しつつも、激動の時代を生き抜き、適応し、着実に家名を存続させた弟・直次の家系であった。これは、華々しい武勇伝だけでなく、生存と適応、そして安定した藩の創設という行為が、時としてより永続的な王朝の遺産を築き上げることを示唆している。
立花直次は、その死後、故郷である三池の地で篤く敬われている。現在の福岡県大牟田市に鎮座する三笠神社では、父・紹運、母・宋雲院と共に祭神として祀られている 7 。直次には「玉峯霊神(たまみねれいじん)」という神号が贈られ 10 、江戸時代後期に始まったこの信仰は、三池の民が藩祖に対して抱き続けた深い尊敬の念の表れである。
高橋統増(立花直次)の生涯は、偉大な父と兄という巨人の影の下で、苦闘と適応を続けた一生であった。彼は父の死のトラウマ、捕虜となる屈辱、異国での戦いの危険、そして領地没収という苦難を乗り越えた。その過程で、彼は父の記憶、兄の指導、そして新たな主君である徳川家に対して、一貫して揺るぎない忠誠を示した。その武勇は、当代随一の武将と謳われた兄・宗茂自身が賞賛してやまないものであった。
彼は戦国から江戸へと移行する時代の荒波を巧みに乗りこなし、自らの家系の存続と繁栄を確かなものにした。一人の武将として、指導者として、そして現代にまで繋がる藩の創設者として、高橋統増(立花直次)は、単なる「影」ではなく、自らの力で運命を切り拓いた、時代の重要な人物として再評価されるべきである。