最終更新日 2025-07-20

鳥居忠政

徳川の忠臣・鳥居元忠の子、鳥居忠政の生涯と藩政 ― 父の遺光と統治者としての実像

序論:父・元忠の影と統治者・忠政

鳥居忠政の名は、歴史上、常にその偉大な父、鳥居元忠の存在と分かち難く結びついている。父・元忠は、徳川家康への絶対的な忠誠を貫き、関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城の戦いにおいて、玉砕を覚悟で城を枕に討死した「三河武士の鑑」として、その名を不朽のものとした 1 。元忠の壮絶な死は、徳川の天下統一に貢献しただけでなく、鳥居家に譜代大名としての栄光と、後世にまで語り継がれる「忠臣」という誉れをもたらした。しかし、その強烈な光は、家督を継いだ息子・忠政の生涯に長大な影を落とし、彼の業績を覆い隠してきた側面は否めない。

本報告書は、鳥居忠政を単に「忠臣・元忠の子」という一面的な評価から解き放ち、彼自身の足跡を丹念に追うことを目的とする。忠政の生涯は、戦乱の時代から泰平の世へと移行する徳川幕府初期の動乱と安定化の過程と軌を一にする。彼は、父とは異なり、戦場での武功ではなく、磐城平、そして山形という二つの大藩における大規模な「統治」という形で、徳川家への忠誠を体現した。その治績は、城郭や用水路という具体的な形で現代にまで残り、彼が卓越した行政官であったことを雄弁に物語っている 3 。本報告では、忠政の生い立ちから家督相続の経緯、二つの藩における藩政の具体的な内容、そしてその人物像と歴史的意義を多角的に分析し、父の遺産をいかに受け継ぎ、自らの統治者としての大事業を成し遂げたのか、その実像に迫る。

【表1:鳥居忠政 略年表】

年代(西暦/和暦)

年齢

出来事

石高・役職

1566年(永禄9年)

1歳

三河国渡村にて鳥居元忠の次男として誕生 5

1584年(天正12年)

19歳

小牧・長久手の戦いに従軍し、初陣を飾る 5

1586年(天正14年)

21歳

徳川家康の上洛に随行。従五位下・左京亮に叙任される 5

左京亮

1600年(慶長5年)

35歳

父・元忠が伏見城で戦死。長兄・康忠が早世していたため家督を相続。関ヶ原の戦いでは江戸城留守居役を務める 6

下総矢作藩主 4万石

1602年(慶長7年)

37歳

父の戦功により、陸奥磐城平へ加増転封となる 7

陸奥磐城平藩主 10万石

1603年(慶長8年)

38歳

磐城平城の築城と城下町整備を開始する 9

1608年(慶長13年)

43歳

磐城平藩領内で総検地を実施したとされる 7

1611年(慶長16年)

46歳

磐城平に父・元忠の菩提寺として長源寺を建立 6

1614-15年(慶長19-20年)

49-50歳

大坂冬の陣・夏の陣において、再び江戸城留守居役を務める 7

1622年(元和8年)

57歳

最上氏改易に伴い、出羽山形へ加増転封。「東北の押さえ」を担う 7

出羽山形藩主 22万石

1623年(元和9年)

58歳

山形藩領内で「左京縄」と呼ばれる厳格な検地を開始 12

1624年(寛永元年)

59歳

馬見ヶ崎川の治水工事と「山形五堰」の開削を行う 14

1626年(寛永3年)

61歳

2万石を加増される 7

出羽山形藩主 24万石

1628年(寛永5年)

63歳

9月5日、山形にて死去 5

第一章:生い立ちと家督相続の経緯

鳥居家の出自と徳川家への奉公

鳥居忠政の生涯を理解する上で、彼が背負った鳥居家の歴史と、徳川家に対する絶対的な忠誠の伝統を抜きにしては語れない。鳥居氏は、『寛政重修諸家譜』によれば、紀伊国熊野権現の神官を務めた鈴木氏の一族を祖に持つとされる 16 。戦国時代には三河国の土豪として、徳川家康の祖父・松平清康の代から松平氏に仕えた、譜代中の譜代の家臣であった 16

特に忠政の祖父・鳥居忠吉は、家康が幼くして今川氏の人質として駿府に送られた際、主君不在の岡崎城を守り、今川氏の目を盗んで倹約に励み、密かに財を蓄えた。そして、桶狭間の戦いを経て家康が岡崎に帰還した際、その蓄財をそっくり献上し、独立間もない家康の財政基盤を支えたという逸話は名高い 1 。この忠吉の忠勤は、徳川家における鳥居家の信頼を絶対的なものにした。父・元忠もまた、幼少期から家康の側に仕え、人質生活を共にし、家康の初陣から数々の合戦に付き従い、その生涯を主君への奉公に捧げた 1

このように、忠政が相続したのは、単なる家禄や家臣団だけではなかった。それは、祖父と父が二代にわたって築き上げた、徳川家からの絶大な信頼と、「鳥居家ならば裏切らない」という評価、すなわち「忠誠」という名の無形の、しかし何物にも代えがたい政治的資産であった。彼の生涯における栄達や、後に鳥居家が危機に陥った際に幾度も救われた背景には、常にこの父祖の功績が存在していたのである 8

忠政の誕生と家督相続

鳥居忠政は、永禄9年(1566年)、徳川家譜代の重臣・鳥居元忠の次男として、三河国渡村(現在の愛知県岡崎市)で生を受けた 5 。幼名は松千代、後に新太郎と称した 6 。母は形原松平家の当主・松平家広の娘であり、この縁により忠政は後の二代将軍・徳川秀忠と又従兄弟の関係にあたり、徳川宗家との血縁的な近さも有していた 6

青年期の忠政は、父・元忠と共に徳川家康に仕え、武将としての道を歩み始める。天正12年(1584年)、19歳の時には小牧・長久手の戦いに従軍し、初陣を飾った 5 。天正14年(1586年)、家康が豊臣秀吉に臣従して上洛した際にはこれに随行し、朝廷より従五位下・左京亮に叙任されている 5

本来、次男である忠政は鳥居家の家督を継ぐ立場ではなかった。しかし、長兄であった康忠が早世したため、忠政が嫡子として家を継ぐこととなった 6 。この兄の早世が、彼の運命を大きく変える最初の転機であった。

また、豊臣政権下においては、徳川家の有力家臣として秀吉からも注目される存在であった。彼の叙任は秀吉の執奏によるものであり、豊臣姓を授けられている 7 。さらに、秀吉の直接の命令によって、豊臣系大名である滝川雄利の養女(実父は生駒家長)を正室として迎えた 6 。これは、秀吉が徳川家臣団を自らの影響下に置こうとする全国支配戦略の一環であり、忠政がその対象となるほど重要な人物と見なされていたことを示している。

第二章:天下分け目の大戦と江戸城留守居役

慶長5年(1600年)、徳川家康が会津の上杉景勝討伐に向かうと、天下の情勢はにわかに緊迫する。この時、家康は二つの重要な拠点の守りを、鳥居父子に託した。父・元忠には、西軍の挙兵を予期し、その進軍を食い止めるための最前線の「捨て石」として伏見城の守備を命じた 1 。一方、息子である忠政に与えられた任務は、徳川の本拠地であり、関東・東北支配の拠点である江戸城の「留守居役」であった 6

この「留守居役」は、単なる城の番人ではない。将軍不在の江戸城における最高責任者として、城内の全般的な管理はもちろん、諸門の厳重な警備、武器・兵糧の管理、そして男子禁制である大奥の監督に至るまで、その職務は多岐にわたった 24 。さらに重要なのは、その政治的・軍事的役割である。江戸城留守居役は、関東から東北にかけて配置された諸大名の動静を監視し、彼らとの連絡役を務め、万一の裏切りに備えるという、極めて高度な政治判断と統率力が求められる重職であった 26

父・元忠が戦場で命を賭して忠誠を示すという、戦国武将としての伝統的な役割を全うしたのに対し、忠政は後方における安定的な統治と危機管理という、新しい時代の統治者に求められる役割を担った。この父子の対照的な任務は、個々の資質の違い以上に、時代が求める家臣像の変化を象徴している。戦国乱世を勝ち抜くためには、元忠のような自己犠牲を厭わない猛将が必要であった。しかし、広大な領土を統治する安定した幕藩体制を築くためには、忠政のような政務能力に長けた行政官が不可欠となる。家康が、忠臣中の忠臣である元忠の死を覚悟の上で、その息子・忠政に本拠地江戸の守りを託したという事実は、忠政に対する絶大な信頼の証左であると同時に、徳川政権が求める人材が「武」一辺倒から、統治能力を重視する「文武」へと移行していく過渡期の様相を明確に示している。忠政は、慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂冬の陣・夏の陣においても、同様に江戸城留守居役という重責を果たし、家康・秀忠の天下統一事業を後方から支え続けたのである 7

第三章:磐城平藩主時代 ― 藩体制の礎を築く (1602-1622年)

父の功績による大抜擢と藩の創設

関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、伏見城で壮絶な討死を遂げた鳥居元忠の功績は最大限に評価された。その恩賞として、家督を継いだ忠政は慶長7年(1602年)、それまでの下総矢作4万石から、陸奥磐城平10万石へと大幅な加増転封を命じられた 6 。これは、鳥居家が一大名として飛躍する大きな一歩であった。

入封にあたり、忠政はまず旧領主であった岩城氏の威光を払拭し、この地が完全に徳川の支配下に入ったことを内外に示す必要があった。その象徴的な行動が、地名の変更である。彼は、関ヶ原の戦いで西軍に与した岩城氏を想起させる「岩城」の表記を忌避し、新たに「磐城」の字を当て、「磐城平」と改称した 3 。これは、過去の支配体制との決別を宣言する、新領主としての強い意志の表れであった。

磐城平城の築城と近世的城下町の整備

忠政の磐城平における最大の功績は、新たな藩庁となる磐城平城の築城と、それに伴う大規模な城下町の建設である。慶長8年(1603年)に開始されたこの大事業は、12年の歳月をかけて完成したと伝えられる 9

彼は、岩城氏の居城であった大館城の東に新たな城を構想し、高台にあった多数の寺社を移転させてその跡地を城郭に組み込むなど、大規模な都市計画を断行した 3 。そして、城を中心として、武家屋敷、町人町、寺町を明確に区分けして配置する、近世的な階層別居住区を導入した 32 。これは、中世的な都市構造から脱却し、支配者の権威と機能性を重視した新しい時代の都市を創造する試みであった。この城下町整備において、治水のために「丹後」という翁を人柱にしたという伝説が残り、その場所は今日でも「丹後沢」という地名で語り継がれている 3

藩政の確立と高久騒動

藩主として、忠政は領国経営の基盤固めにも着手した。史料は断片的であるが、慶長13年(1608年)には領内の総検地を実施し、新田開発を奨励するなど、藩の財政基盤確立に努めたとされる 7 。また、父への追慕の念も篤く、慶長16年(1611年)には父・元忠の菩提を弔うため、その戒名から名付けた長源寺を建立した 6 。この寺には家康・秀忠父子から香花料として寺領100石が寄進されており、鳥居家が幕府からいかに特別な扱いを受けていたかがうかがえる 6

しかし、忠政の統治は平穏なだけではなかった。元和8年(1622年)、彼が出羽山形へ転封となる直前、藩内では「高久騒動」と呼ばれる大規模な農民一揆が勃発した 9 。これは、厳しい税の取り立てを行っていた山目付の菅波弥蔵に対し、転封を知った領民たちが積年の恨みを晴らそうと報復を企てたことに端を発する 9 。家老の高須弥助が弥蔵の身柄引き渡しを拒否して逃亡させたため、怒った農民たちは弥蔵の一味と見なした者たちの家を襲撃した 9

この騒動に対し、忠政の対応は断固たるものであった。彼は兵を率いて参加者を捕縛し、首謀者ら48名を処刑、梟首するという厳しい措置で鎮圧した 9 。磐城平における忠政の統治は、城郭建設のような創造的な側面と、領民の抵抗を容赦なく弾圧する抑圧的な側面を併せ持っていた。これは、新たな支配体制を確立しようとする新領主が、その権威を揺るがす行為を一切許さないという、彼のリアリストとしての一面を物語っている。この「アメとムチ」を使い分ける統治スタイルは、彼の為政者としての基本姿勢であり、後の山形藩政にも通底することになる。

第四章:出羽山形藩主時代 ― 東北の鎮守としての藩政 (1622-1628年)

東北の要衝へ ― 「押さえ」としての大名

元和8年(1622年)、東北の雄であった57万石の大大名・最上氏が、家督相続を巡るお家騒動(最上騒動)を理由に幕府から改易を命じられるという、一大事件が起こった 11 。この権力の空白は、東北地方の政治バランスを大きく揺るがすものであり、幕府は事態の収拾と新たな支配体制の構築を急いだ。

この重大な局面において、幕府が白羽の矢を立てたのが鳥居忠政であった。彼は磐城平12万石から、倍増となる出羽山形22万石(後に2万石加増され、最終的に24万石)の領主として、この要衝の地へ送り込まれた 7 。この配置は単なる栄転ではない。その背後には、仙台62万石の伊達政宗や久保田20万石の佐竹義宣といった、潜在的な脅威となりうる巨大外様大名を間近で監視・牽制するという、極めて重要な戦略的意図があった 37 。忠政は、徳川の天下を盤石にするための「東北の押さえ」という国家的使命を帯びて、山形の地に入ったのである。

第一節:大規模な領国経営

忠政は、幕府から与えられた重責を果たすべく、山形において壮大な領国経営を展開する。それは、父・元忠が命を賭して城を守ることで示した忠誠を、息子である忠政が、領国を強固にし、幕府の政策目的を完璧に遂行するという、統治者としての能力で示す試みであった。

山形城の大規模改修

忠政は入封後、ただちに藩庁である山形城の大規模な改修に着手した。最上義光が築いた城郭を基礎としながらも、本丸や二の丸の城門を堅固な石垣造りの枡形門に改築し、土塁を拡張するなど、近世城郭としての防御機能を飛躍的に向上させた 4 。発掘調査によれば、現存する山形城の石垣の多くはこの鳥居氏時代に築かれたものとされ、その縄張りは江戸城の城門にも匹敵する規模を誇ったという 42 。この大改修は、山形城を単なる藩庁から、東北における幕府の軍事拠点へと変貌させるための、明確な意図を持った事業であった。

治水・利水事業「山形五堰」

忠政の治績の中でも、後世に最も大きな影響を与えたのが、大規模な治水事業である。当時、山形城下は、城の北側を流れる馬見ヶ崎川の氾濫に度々悩まされていた。寛永元年(1624年)、忠政はこの川の流路を北へ約1キロメートル迂回させるという、盃山を切り崩すほどの大工事を断行した 4

さらに彼は、この工事によって生じた旧河道などを巧みに利用し、馬見ヶ崎川から5つの取水口を設けて城下町全体に用水を供給する、一大かんがいシステム「山形五堰」を創設した 14 。この五堰は、城の堀を満たすだけでなく、城下の生活用水や農業用水を安定的に供給し、その後の山形の発展の礎となった。この歴史的偉業は、築造から400年近くを経た現代においても高く評価され、2023年には世界かんがい施設遺産に登録されている 14

産業振興とインフラ整備

忠政は、軍事・土木事業だけでなく、領内の経済基盤の強化にも目を向けた。堤防や宿駅制度を整備して物流を円滑にし、山形特産の紅花の市を開設するなど、産業の振興にも力を注いだ 12 。これらの政策は、藩の財政を豊かにし、国力を高めることを目的としていた。

第二節:「左京縄」― 厳格な検地とその評価

大規模な藩政を遂行するためには、強固な財政基盤が不可欠であった。忠政は山形入封の翌年である元和9年(1623年)から、領内全域にわたる総検地を開始した 13 。この検地は極めて厳格に行われたことで知られ、その測量に用いられた縄は、農民たちから忠政の官途名「左京亮」にちなんで、畏怖と怨嗟を込めて「左京縄」と呼ばれ、長く語り継がれた 12

鳥居氏の検地が厳格であったとされる理由は、その課税基準にあった。最上氏の時代には年貢の対象外とされていた焼畑(「カノ畑」)なども新たに課税対象に加え 48 、年貢率も42.5%という高い水準に設定したのである 49 。これは、藩の財政収入を最大化し、安定させるための断固たる措置であった。しかし、領民にとっては大きな負担増となり、彼の治世に対する怨嗟の声が後々まで残る一因となった 13

忠政の山形における藩政は、まさに「忠誠の具現化」であった。彼は、領民からの評判をある程度犠牲にしてでも、幕府から与えられた「東北の押さえ」という使命を全うするために、軍事力の強化(城郭改修)と財政基盤の確立(厳格な検地)を最優先で実行した。その統治は、父・元忠とは全く異なる形ではあったが、徳川幕府の支配体制を盤石にするという目的において、紛れもなく忠臣のそれであったと言えよう。

【表2:磐城平・山形両藩における治績比較表】

藩政項目

陸奥磐城平藩(10万石→12万石)

出羽山形藩(22万石→24万石)

城郭・城下町整備

・磐城平城の新規築城 3

・階層別の近世的城下町を建設 32

・山形城の大規模改修(石垣化、枡形門) 4

・東北の軍事拠点として機能を強化 43

治水・土地開発

・新田開発を奨励 7

・人柱伝説が残る治水工事(丹後沢) 3

・馬見ヶ崎川の大規模な流路変更 45

・「山形五堰」の開削による利水システム構築 14

経済政策

・領内総検地を実施(1608年) 7

・特産品である紅花の市を開設 12

・宿駅制度の整備 12

領民との関係(事件)

・転封時に「高久騒動」が勃発 9

・騒動を武力で鎮圧し、多数を処刑 9

・「左京縄」と呼ばれる厳格な検地を実施 13

・高い年貢率で、後世まで農民に記憶される 13

第五章:人物像の再構築と歴史的評価

鳥居忠政の人物像を語る上で、父・元忠との比較は避けられない。元忠には、家康との個人的な絆を示す逸話が数多く残されている 1 。主君の足を自らの体で温めた話や、伏見城での最後の別れの場面など、彼の人間的な温かさや情の深さを感じさせるエピソードは、彼を「情」の武将として印象付けている。

対照的に、忠政に関する個人的な逸話は極めて乏しい。彼の人物像は、彼が実行した「政策」そのものから浮かび上がってくる。磐城平城の建設、山形城の大改修、山形五堰の開削といった巨大なインフラ事業を次々と断行した事実からは、彼が壮大なビジョンとそれを実現する強力な実行力を持った、極めて有能な行政官であったことがわかる。一方で、高久騒動の厳しい鎮圧や、「左京縄」に象徴される過酷な検地は、目的のためには非情な手段も辞さない、冷徹なリアリストとしての一面を映し出す。立石寺の山林を城の普請のために大量に伐採したという伝承も 12 、彼の強引で合理主義的な統治スタイルを裏付けているのかもしれない。彼は感情よりも合理性と結果を最優先する、実務家タイプの統治者であったと推察される。

為政者としての忠政には、明確な功罪がある。彼の「功」は、磐城平と山形の地に、後世まで形として残る社会基盤を築いたことである。特に山形五堰は、地域の発展に永続的な貢献をした不朽の功績と言える 15 。しかし、その「罪」として、支配を確立する過程で領民に大きな犠牲を強いた事実もまた、歴史から消すことはできない 9

忠政は、徳川創業期の武功の時代から、安定統治が求められる守成の時代への移行期を生きた「二代目」大名であった。彼に求められたのは、戦場での華々しい活躍ではなく、地道で、時には非情さが要求される統治行政であった。彼はその役割を完璧に理解し、幕府の期待を超える成果を出すことで、新たな時代の要請に応えた。彼の生涯は、徳川幕府の盤石な支配体制が、元忠のような武将の犠牲の上に、そして忠政のような統治者の冷徹な実務能力によって築かれていったことを示している。

第六章:晩年と鳥居家のその後

山形での死と鳥居家最大の危機

「東北の押さえ」として山形藩の経営に心血を注いだ鳥居忠政は、寛永5年(1628年)9月5日、その地で63年の生涯を閉じた 5 。法号は英山全雄大居士 6 。墓所は、藩主として亡くなった山形の長源寺と、鳥居家が江戸における菩提寺として開基した江岸寺(東京都文京区)に現存している 6

忠政の死後、鳥居家は最大の危機を迎える。家督を継いだ長男の忠恒は、もともと病弱であったとされ 22 、父の死からわずか8年後の寛永13年(1636年)、世継ぎのないまま死去してしまった。当時、幕府は末期養子(当主の死に際の養子縁組)を厳しく禁じており、鳥居家も例外ではなかった。これにより、24万石の大藩であった山形藩は改易、所領は全て没収という最も厳しい処分を受けることになったのである 21 。一説には、忠政の代から続いていた井伊家(大老・井伊直孝)との確執が、この厳しい処分に影響したとも言われている 54

父の遺光、再び

まさに家名断絶の窮地に立たされた鳥居家を救ったのは、またしても父・元忠が遺した功績であった。幕府は、「三河武士の鑑」とまで称された元忠の忠節に鑑み、その家系を絶やすことは忍びないと判断した。そして、特別の計らいとして、忠政の三男であり忠恒の弟にあたる鳥居忠春に、新たに信濃高遠藩3万2千石を与え、家名の存続を許可したのである 21 。24万石から3万石へと大幅な減封ではあったが、元忠の忠死が、死後36年を経てもなお、その子孫を救う絶大な力を持っていたことを示す出来事であった。

その後の鳥居家

しかし、鳥居家の苦難はこれで終わりではなかった。高遠藩を継いだ後の当主・鳥居忠則の代には、家臣が江戸警備中に不祥事を起こした監督不行き届きを問われ、忠則が自害するという事件が発生し、再び改易の憂き目に遭う 20 。この時も「忠臣の家をお取り潰しにはできない」という幕府の温情により、能登下村1万石の大名として存続が許された 20

その後、鳥居家は近江水口藩を経て、下野壬生藩3万石の藩主として定着し、幕末維新を迎える 8 。明治維新後には華族令により子爵に列せられ、その家系は現代まで続いている 16 。幾度もの危機を乗り越え、鳥居家が存続し得た根源には、常に初代・元忠の揺るぎない忠誠の記憶があったのである。

結論:受け継がれる忠誠の形

鳥居忠政の生涯は、偉大な父・元忠が遺した「忠誠」という無形の遺産を、全く異なる形で、しかし同じように強固に体現し、次代へと繋いだものであった。

父・元忠の忠誠が、伏見城の炎の中で「死」をもって示された、劇的で英雄的なものであったのに対し、息子・忠政の忠誠は、城を築き、川の流れを変え、藩の財政を確立するという、地道で実務的な「統治」という行為を通じて示された。彼の治世は、領民にとっては時に過酷なものであったかもしれないが、その一つ一つの政策は、徳川幕府の支配体制を盤石にするという、より大きな目的のために行われたものであった。

彼は、戦乱の終焉と近世的統治体制の確立という、時代の大きな転換点において、幕府が求める「統治者」としての役割を見事に果たした。特に、最上氏改易後の東北の安定化という国家的プロジェクトを、大規模なインフラ整備と強固な財政基盤の確立によって成功させた功績は、父の武功に勝るとも劣らない、歴史的な意義を持つ。

鳥居忠政は、その偉大すぎる父の影に隠れ、これまで十分に光が当てられてこなかった。しかし、その実像は、感情に流されることなく、与えられた使命を合理性と実行力で完遂する、江戸幕府初期の支配体制を支えた極めて有能かつ重要な為政者として再評価されるべきである。父が遺したものが「血染めの畳」と「忠臣の伝説」であったとすれば、息子・忠政が遺したものは、今なお山形の地を潤す用水路や、城郭の堅固な石垣という、確かな形として我々の前に存在しているのである。

引用文献

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  5. 鳥居忠政- 維基百科,自由的百科全書 https://zh.wikipedia.org/zh-tw/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%BF%A0%E6%94%BF
  6. 鳥居忠政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%BF%A0%E6%94%BF
  7. 鳥居忠政(とりいただまさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%BF%A0%E6%94%BF-1095600
  8. 鳥居家のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/family/93/
  9. 第2章 領主の変遷と主な出来事 https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1646901654494/files/2.pdf
  10. 鳥居忠政(とりい・ただまさ) 1566~1628 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/ToriiTadamasa.html
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  12. 鳥居忠政の紹介 - 大坂の陣絵巻 https://tikugo.com/osaka/busho/torii/b-torii-tada.html
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  14. 市長のやまがた自慢 - マイ広報紙 https://mykoho.jp/article/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%20%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E5%B8%82/%E5%BA%83%E5%A0%B1%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%8C%E3%81%9F-%E4%BB%A4%E5%92%8C6%E5%B9%B44%E6%9C%881%E6%97%A5%E5%8F%B7/%E5%B8%82%E9%95%B7%E3%81%AE%E3%82%84%E3%81%BE%E3%81%8C%E3%81%9F%E8%87%AA%E6%85%A2-2/
  15. 市長のやまがた自慢「祝・世界かんがい施設遺産登録決定!」 - 山形市役所 https://www.city.yamagata-yamagata.lg.jp/shiseijoho/shicho/1006787/1013536.html
  16. 鳥居氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E6%B0%8F
  17. 「鳥居元忠」"三河武士の鑑" と称された忠臣の実像に迫る! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/556
  18. 松平家筆頭家老・鳥居忠吉が辿った生涯|倹約作戦で三河を守った長老【日本史人物伝】 https://serai.jp/hobby/1108987
  19. 鳥居甲斐守 - 大河ドラマ+時代劇 登場人物配役事典 https://haiyaku.web.fc2.com/torii.html
  20. 鳥居元忠の忠義は江戸時代の鳥居家を何度も救った! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2268
  21. 信州高遠鳥居家供養塔 https://gururinkansai.com/shinshutoriikekuyoto.html
  22. 鳥居元忠の子孫を追ってみた - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=MxXpLMMpPjc&pp=ygUNI-mzpeWxheW_oOW6gw%3D%3D
  23. 鳥居元忠、1800人で4万の軍を凌いだ苛烈な13日 関ヶ原の戦い前哨戦で命を賭して時を稼いだ忠臣 - 東洋経済オンライン https://toyokeizai.net/articles/-/710910?display=b
  24. 江戸幕府役職事典 http://kitabatake.world.coocan.jp/edojob2.html
  25. 江戸幕府老中支配の要職 https://wako226.exblog.jp/241094708/
  26. 大名とは 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/daimyo-toha/
  27. 留守居(るすい) | 時代劇用語指南 | 情報・知識&オピニオン imidas - イミダス https://imidas.jp/jidaigeki/detail/L-57-239-08-04-G252.html
  28. 平城山地区防災計画 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/chikubousai/chikubo/chikubo/pdf/04_001.pdf
  29. 平城跡本丸の発掘調査 - 公益財団法人いわき市教育文化事業団 http://www.iwaki-ec.or.jp/maibun/bunkazainews/81.pdf
  30. 時を紡ぐ歴史と文化 - いわき市観光サイト https://kankou-iwaki.or.jp/feature/tradition/top
  31. 第6章 磐城平城の絵図と土地利用 https://www.city.iwaki.lg.jp/www/contents/1646901654494/files/6.pdf
  32. 磐城平城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E5%9F%8E%E5%B9%B3%E5%9F%8E
  33. 「鳥居氏」に関する資料の探し方 - いわき市立図書館 https://library.city.iwaki.fukushima.jp/manage/contents/upload/00001_20130603_0003.pdf
  34. 高久騒動と参院選挙|参兎須(サントス) - note https://note.com/suzukisantos/n/n8ea034a20129
  35. 最上氏- 维基百科,自由的百科全书 https://zh.wikipedia.org/zh-cn/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E6%B0%8F
  36. 最上家の武将たち:戦国観光やまがた情報局|山形おきたま観光協議会 https://sengoku.oki-tama.jp/?p=log&l=149233
  37. 鉄舟が影響を与えた人物 天田愚庵編・・・その六 http://bushido-kyoffice.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-a79d.html
  38. 3.江戸幕府における譜代大名の役割 - 攻城団ブログ https://kojodan.jp/blog/entry/2020/05/13/110000
  39. それからの山形藩/第3回 鳥居忠政の山形入部 - 山形コミュニティ新聞WEB版 https://www.yamacomi.com/serial_column/serial_column-19623/
  40. 山形城 やまがたじょう - 奥羽古城散策 http://www.ne.jp/asahi/saso/sai/castle/yamagata/yamagatajo/yamagatajoh.html
  41. 山形県 - 特選 日本の城100選(全国の100名城) - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/yamagata/yamagata-jo/
  42. 山形城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E5%9F%8E
  43. お城の現場より~発掘・復元の最前線 【山形城】本丸跡に埋まっていた最上氏時代の大量の金箔瓦 https://shirobito.jp/article/478
  44. 放送大学 地域貢献への取り組み 山形学習センター https://www.ouj.ac.jp/pj/sc/2014/yamagata.html
  45. 第1編 山形の自然と歴史的環境 https://suidou.yamagata.yamagata.jp/uploaded/attachment/2947.pdf
  46. 春の馬見ヶ崎川 - 山形市上下水道部 https://suidou.yamagata.yamagata.jp/uploaded/attachment/1231.pdf
  47. 山形城下めぐり:三重の堀と土塁を残す山形城跡と商人町・寺町が一体となる城下町 https://www.usagitabi.com/yamagata-yonezawa.html
  48. 近世出羽国における焼畑の検地・経営・農法 - 歴史地理学会 | http://hist-geo.jp/img/archive/223_001.pdf
  49. 山形大学歴史・地理・人類学論集 https://yamagata.repo.nii.ac.jp/record/1644/files/hgca_12-00130037.pdf
  50. 徳川家康に尽くした鳥居元忠。波乱の人生を解説 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/214749/
  51. 鳥居左京亮忠政の墓(長源寺) - 観光データベース - 山形市観光協会 公式ウェブサイト WEB山形十二花月 https://www.kankou.yamagata.yamagata.jp/db/cgi-bin/search/search.cgi?panel=detail&d01=101235487113444&c=10
  52. 江岸寺 クチコミ・アクセス・営業時間 - 大塚・巣鴨・駒込 観光 - フォートラベル https://4travel.jp/dm_shisetsu/11584193
  53. 歴史・人物伝~大河コラム:大河ドラマ「どうする家康」鳥居元忠の忠義は鳥居家も救った - note https://note.com/mykeloz/n/n2b036f425bb3
  54. 鳥居忠恒 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%BF%A0%E6%81%92