最終更新日 2025-07-02

鳥居成次

鳥居成次 ― 「忠臣の遺産」と近世武士の栄光と悲劇

序論:鳥居元忠の「遺産」と成次の宿命

日本の戦国時代から江戸時代初期にかけての歴史を語る上で、「忠義」という価値観は武士の精神性を象徴する重要な概念である。その体現者として、徳川家康の天下取りを語る際に欠かすことのできない人物が、「三河武士の鑑」と称された鳥居元忠である 1 。元忠は、家康が今川家の人質であった幼少期から側近くに仕え、生涯を主君への奉公に捧げた無二の忠臣であった 2 。その忠誠心は、父・忠吉から受け継いだ「君、君たらずとも、臣、臣たれ(主君が主君としての道を踏み外しても、家臣は家臣としての道を決して違えてはならない)」という家訓に集約されている 2

元忠の生涯のクライマックスは、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの前哨戦、伏見城の戦いである。家康は、石田三成ら西軍の挙兵を予期し、彼らの足を止めるための「捨て石」として、最も信頼する元忠に伏見城の守りを託した 2 。元忠はこの役目を甘受し、わずか1800余の兵で4万ともいわれる西軍の大軍を相手に10日以上にわたって城を死守し、壮絶な討死を遂げた 2 。この元忠の自己犠牲は、家康が関ヶ原で勝利を収めるための貴重な時間を稼ぎ、徳川の天下統一の礎となったのである 5

本報告書の主題である鳥居成次(とりい なりつぐ)は、この「忠臣中の忠臣」と謳われた元忠の三男として生を受けた人物である 6 。彼の生涯は、父が命と引き換えに残した絶大な功績、すなわち輝かしい「遺産」と共に始まった。成次のキャリア初期の成功、例えば独立した大名としての取り立てなどは、間違いなくこの父の遺功に大きく依存していた 7 。鳥居家が後年、危機に瀕した際にも、常に「元忠の勲功に免じて」という理由で救済されており、元忠の威光がいかに絶大であったかが窺える 8

しかし、この「遺産」は単なる栄誉ではなかった。それは同時に、常に偉大な父と比較され、父に恥じぬ行動を求められるという、生涯にわたる重圧でもあった。本報告書は、鳥居成次の生涯を、この父の「遺産」という光と影の両側面から捉え直すことを目的とする。彼が如何にして父の威光を自らの力に変え、大名としての地位を確立したのか。そして、その父の威光と彼自身の優れた資質をもってしても抗うことのできなかった、江戸時代初期の厳格な政治の奔流に如何に飲み込まれていったのか。その栄光と悲劇の軌跡を詳細に分析・解明していく。

表1:鳥居成次 関連年表

年代(西暦)

出来事

元亀元年(1570)

鳥居元忠の三男として三河国で誕生 6

慶長5年(1600)

関ヶ原の戦い 。父・元忠が伏見城で討死 10 。成次は本戦に従軍し武功を挙げる 7 。戦後、捕縛された石田三成の身柄を預かる 11

慶長6年(1601)

父の遺功により、甲斐国郡内領1万8千石を与えられ、 谷村藩主 となる 7

慶長8年(1603)

従五位下土佐守に叙任される 11

慶長19年(1614)

天下普請として高田城の築城に参加 7

元和元年(1615)

大坂夏の陣 に従軍し、天王寺・岡山の戦いで武功を挙げる 7 。北口本宮冨士浅間神社の本殿を造営 12

元和2年(1616)

徳川秀忠の命により、 徳川忠長の付家老 に就任 7

寛永元年(1624)

主君・忠長の加増に伴い、3万5千石に加増される 7

寛永8年(1631)

6月18日、死去。享年62 6 。主君・忠長は不行跡により甲府へ蟄居を命じられる 15

寛永9年(1632)

嫡男・忠房が、主君・忠長の改易に連座して改易される 15

第一章:鳥居家の血脈と成次の出自

鳥居成次の生涯を理解するためには、まず彼が属した鳥居家という家門の性格と、その中での彼の位置付けを把握する必要がある。鳥居家は、徳川家康の祖父・松平清康の代から仕える譜代の名門であり、その忠誠心は徳川家中で広く知られていた 2

徳川譜代の名門・鳥居家の系譜

成次は、元亀元年(1570年)、鳥居元忠の三男として生まれた 6 。母は形原松平家広の娘であり、この母方の血筋を辿ると、成次は二代将軍・徳川秀忠の又従兄弟にあたるという、将軍家とも浅からぬ縁戚関係にあった 18

父・元忠には正室と側室の間に多くの子女がいた。長兄の康忠は早くに亡くなり 19 、家督は次兄の忠政が継承した 20 。成次は正室の子としては三番目の男子であり、家督を継ぐ立場にはなかった 18

表2:鳥居氏 略系図(元忠とその子らを中心に)

- 鳥居元忠
├─ 正室(松平家広の娘)
│   ├─ 康忠(長男、早世)
│   ├─ **忠政**(次男、宗家家督)→ 山形藩主家
│   └─ **成次**(三男、分家創設)→ 谷村藩主、のち旗本家
└─ 側室(馬場信春の娘)
├─ 忠勝(四男)
├─ 忠頼(五男)
└─ 忠昌(六男)

兄弟間のキャリアパスの相違と成次の立場

戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会において、家督を継承できない次男以下の男子の進路は多様であった。他家への養子、宗家の家臣となる道、あるいは自らの武功によって分家を立てる道などである。成次が選択したのは、最後の道であった。

兄・忠政は、父・元忠の死後、鳥居家の家督を継承した。関ヶ原の戦いでは江戸城の留守居役という重要な役目を務め 20 、戦後、父・元忠の絶大な功績を理由に、下総矢作4万石から陸奥磐城平10万石、さらには出羽山形22万石へと、破格の加増転封を重ねて大々名の地位を築いた 8 。磐城平城の築城など、領国経営においてもその手腕を発揮している 22

一方、三男である成次は、兄とは異なる道を歩む。彼もまた父の遺功によって大名に取り立てられたが、それは宗家とは別の家、すなわち分家を創設するという形であった 7 。この事実は、成次のキャリアが兄・忠政とは異なる形で幕府政治と深く関わっていくことを示唆している。

成次が独立した大名として分家を立てることができた背景には、単なる恩賞以上の意味合いを見出すことができる。徳川家康にとって、元忠のような絶対的な忠臣の血筋を厚遇し、複数の家系として存続させることは、他の譜代大名に対する「忠誠の模範」を示すという重要な政治的意図があったと考えられる。つまり、成次の分家創設は、鳥居家への恩賞であると同時に、徳川幕府が最も重視する価値観、すなわち「忠義」を可視化し、その支配イデオロギーを強化するための政治的装置としての側面を持っていた。成次の存在そのものが、幕府の理想とする家臣像を体現する象徴として期待されていたのである。彼は、家督相続者ではないという立場でありながら、父が残した最大の「政治的資本」を背景に、独立大名という恵まれたスタートを切ることになった。

第二章:関ヶ原の戦いと「武士の器量」

鳥居成次の名を一躍天下に知らしめたのは、関ヶ原の戦いにおける彼の武功と、その後の逸話である。父の威光という「遺産」を背負うだけでなく、彼自身の武人としての能力と、新しい時代に求められる為政者としての器量を示したのがこの時期であった。

関ヶ原合戦における武功

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、成次は徳川家康率いる東軍に加わり、本戦に参陣した。この戦いで彼は自ら敵の首級を挙げるなど、具体的な戦功を立てている 7 。これは、彼のキャリアにおいて極めて重要な意味を持つ。父・元忠が伏見城で壮絶な死を遂げた直後であり、その息子として、父に劣らぬ武勇を示すことは、徳川家中の期待に応えることであった。この戦功により、彼は単なる「忠臣の息子」ではなく、自らの力で功績を立てられる有能な武将であることを証明したのである。

父の仇・石田三成との対峙 ― 逸話の詳説

関ヶ原の戦後処理において、成次の人間的器量と政治的感覚が試される出来事が起こる。西軍の首魁であった石田三成が捕縛され、その身柄の処遇が問題となった際、家康は驚くべき采配を振るった。伏見城で父を攻め殺した張本人である三成を、あろうことかその息子である成次に預けたのである 6

この時の家康の意図は複雑であった。『寛政重修諸家譜』などの記録によれば、家康は成次に対し「殺しさえしなければ、何をしてもよい」と述べ、私的な報復を容認するかのような態度を示したとされる 24 。これは、父の仇という最も感情的になりうる状況下で、成次がどのような行動を取るかを見極めようとする、一種の「試験」であったと考えられる。戦国の遺風が色濃く残る当時、私怨による報復は必ずしも否定されるものではなかった。

しかし、成次の対応は家康や周囲の予想を遥かに超えるものであった。彼は父の仇である三成に対し、憎悪や怨嗟の念を一切見せることなく、むしろ新しい衣服を与え、食事を手厚く供するなど、丁重にもてなしたのである 11 。この予期せぬ厚遇に、三成は感涙にむせんだと伝えられている 24

逸話の分析 ― 私怨の超克と「公儀」の意識

数日後、成次の振る舞いを伝え聞いた家康は、彼を召してその真意を問いただした。「父の仇を手厚くもてなすとは、いかなる了見か」という家康の問いに対し、成次は理路整然と答えた。

「確かに父は治部少輔(三成)らと戦い、命を落としました。しかしそれは、あくまで主君の命を全うした結果であり、武門の習い。三成個人に私的な恨みはございません。むしろ石田治部は、天下を乱した『天下の御敵』、すなわち公の罪人です。私の小さな怨みをもって裁くべき対象ではございません。その身柄は、より相応の方がお預かりになるべきかと存じます」 24

この返答は、家康を深く感心させた。成次の言葉は、戦国時代的な「私闘」や「私怨」の論理から、江戸幕府がこれから築こうとする「公儀(こうぎ)」、すなわち公権力による秩序と法の論理へと、価値観が移行しつつあることを完璧に理解している証左であった。彼は、個人的な復讐心という「私」よりも、徳川家が創設する新しい天下の秩序、すなわち「公」を優先する姿勢を明確に示したのである。

この一件は、成次の評価を決定づけた。家康は、彼が新しい時代の為政者に不可欠な資質、すなわち「私怨の抑制」と「公儀の尊重」を兼ね備えた人物であると確信した。成次は、家康が仕掛けた高度な政治的試験に、100点満点の回答で応えたのである。この出来事により、成次は単なる武勇に優れた武将ではなく、次代を担うに足る政治的感覚と器量を持った人物として、家康や幕府中枢に強く印象付けられた。これが、後の付家老という重職への抜擢に繋がる、決定的な伏線となったことは想像に難くない。

第三章:甲斐国谷村藩主としての治績

関ヶ原での武功と石田三成への対応でその器量を示した成次は、その功績をもって大名へと取り立てられる。彼の藩主としての統治は、軍役や普請といった幕府への奉公と、領内の安定化を目指す内政の両面にわたっていた。

谷村藩の立藩と領国経営

慶長6年(1601年)、成次は父・元忠の伏見城での戦功により、甲斐国郡内地方に1万8千石の所領を与えられ、谷村城(現在の山梨県都留市)を居城とする谷村藩の初代藩主となった 7 。この地は、かつて父・元忠も一時的に領有した因縁の土地であった 7 。慶長8年(1603年)に家康の九男・徳川義直が甲府城主となると、形式上はその支配下に組み込まれたが、実質的には半独立的な領国経営を継続した 7

藩主としての成次は、幕府が課す様々な公務を忠実に果たした。慶長19年(1614年)には、幕府が全国の大名に命じた天下普請の一環として、越後高田城の築城に参加した 7 。これは伊達政宗や上杉景勝といった有力大名も動員された大事業であり、谷村藩にとっても大きな経済的負担であった。

さらに、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、二代将軍・徳川秀忠の軍勢に属して出陣。豊臣方との最終決戦となった天王寺・岡山の戦いでは、最前線で奮戦し、敵兵の首を28も挙げるという目覚ましい武功を立てた 7 。しかしその一方で、この激戦で家臣18名を失うという大きな犠牲も払っており、戦の過酷さを物語っている 7

領内の寺社政策と統治

軍役や普請といった武家としての務めを果たす一方で、成次は領内の安定化にも意を注いだ。特に注目されるのが、彼の積極的な寺社保護政策である。

成次が治めた甲斐郡内地方は、古くから富士山信仰の中心地の一つであった。彼はこの地域の宗教的権威を巧みに利用し、自らの支配の正当性を高めようとした。慶長6年(1601年)には保福寺に寺領を寄進 7 。慶長12年(1607年)には、火災で焼失した河口浅間神社(山梨県富士河口湖町)の社殿を見事に再建した 7

彼の寺社政策の集大成ともいえるのが、元和元年(1615年)、大坂夏の陣で武功を挙げた同年に着手した、北口本宮冨士浅間神社(山梨県富士吉田市)の本殿造営である 7 。この時に建てられた本殿は、安土桃山時代の華麗な様式を今に伝える貴重な建造物として、国の重要文化財に指定されている 13

成次が富士山信仰に直結するこれらの重要社寺の保護・再建に力を入れたのは、単なる信仰心からだけではなかったと考えられる。新領主である彼が、在地社会に深く根差した最も強力な精神的シンボルである富士山信仰の庇護者(パトロン)となることは、在地勢力との融和を図り、自らの統治を円滑に進めるための高度な統治戦略であった。武力や法による支配だけでなく、文化・宗教的権威を利用して領国を安定させるという「ソフトパワー」の活用は、成次が単なる武人ではなく、優れた政治感覚を持つ領主であったことを示している。

第四章:駿河大納言付家老という栄誉と苦悩

谷村藩主として着実に実績を積んだ成次に、彼のキャリアの頂点ともいえる栄誉がもたらされる。しかし、その栄誉ある地位は、皮肉にも彼を破滅へと導く悲劇の序曲となった。

付家老就任の経緯

元和2年(1616年)、成次は二代将軍・徳川秀忠直々の命令により、秀忠の次男であり家康の孫にあたる徳川忠長(駿河大納言)の付家老(つけがろう)に任命された 7

付家老とは、徳川御三家や将軍家の子弟が治める親藩に、幕府から直接派遣される後見役兼家老のことである。その役割は、若年の藩主を補佐して藩政を安定させることにあるが、同時に、藩主が幕府に反抗的な態度を取らないよう監視するという、幕府中枢の意向を代弁する監督役としての側面も持っていた 25 。これは、藩主の家臣(陪臣)でありながら、将軍直属の目付役でもあるという二重の性格を持つ、極めて重要かつデリケートな役職であった。

栄誉と加増

この付家老への抜擢は、成次の能力と忠誠心が幕府中枢から絶大な信頼を得ていたことの証左である。特に関ヶ原の戦い後、石田三成に対して見せた「公儀」を重んじる姿勢は、幕府が次世代の指導者に求める理想像と合致していた。幕府は、成次のその資質に期待し、将来有望視される将軍の子・忠長を正しく導く「重石」としての役割を託したのである。

この栄誉に伴い、成次の地位も向上した。寛永元年(1624年)、主君である忠長の所領が甲斐・駿河など50万石に加増されると、それに伴い成次自身の所領も加増され、合計3万5千石を領する大名となった 7

中央政局の渦中へ

しかし、この栄誉ある地位は、成次を徳川将軍家内部の深刻な政争の渦中へと引きずり込むことになった。彼の主君となった忠長は、幼少期から聡明であったとされる一方、兄である三代将軍・徳川家光との間には根深い確執が存在したと伝えられている 17 。この兄弟間の不和は、成立間もない徳川幕府の安定を根底から揺るがしかねない、極めて危険な火種であった。

この状況下で、成次は極めて困難な立場に置かれた。付家老として、主君・忠長に忠誠を尽くし、その意向に沿って行動するのは当然の務めである。しかし同時に、幕府(将軍家光)への忠誠も絶対的な義務であった。もし忠長が兄・家光と対立するような行動に出た場合、成次は二人の主君の間で板挟みとなり、引き裂かれる運命にあった。

付家老という職は、主君が順調であれば自らも栄達できるが、ひとたび主君が幕府と対立すれば、その監督責任を問われ、真っ先に連座させられるという、極めて高いリスクを伴う「諸刃の剣」であった。成次のキャリアの頂点であったこの付家老就任は、結果として、彼の人生を破滅へと向かわせる致命的な転換点となってしまったのである。

第五章:主君の改易と鳥居家の蹉跌

付家老という栄誉ある地位は、鳥居成次の生涯に最大の悲劇をもたらした。彼の忠誠心や政治手腕では抗うことのできない、徳川将軍家内部の力学が、彼とその一族の運命を翻弄したのである。

「駿河大納言事件」と忠長の改易

成次の主君・徳川忠長は、成長するにつれてその言動に常軌を逸したものが目立つようになった。祖父・家康が元服した神聖な地である浅間神社において、害獣駆除を名目に多数の猿を殺戮する「猿狩り」を行ったり、些細な理由で家臣を手討ちにしたりするなど、その乱行はエスカレートしていった 16

父・秀忠や兄・家光は、酒井忠世ら重臣を再三派遣して忠長の更生を促したが、彼の素行は改まらなかった 27 。ついに寛永8年(1631年)、忠長は不行跡を理由に甲府への蟄居を命じられる 15 。翌寛永9年(1632年)には全ての領地を没収されて改易となり、上野国高崎へ配流された後、寛永10年(1633年)に自刃を命じられた。享年28であった 28 。この一連の事件は「駿河大納言事件」として知られている。

成次の失脚と死

主君である忠長の失脚は、付家老であった成次の運命を決定づけた。藩主の不行跡は、それを諌め、正しく導くべき付家老の責任不行き届きと見なされる。成次は忠長の蟄居が命じられると同時に、その監督責任を問われて失脚した 7

そして、寛永8年(1631年)6月18日、主君・忠長の改易が現実のものとなりつつあった混乱の最中、成次はこの世を去った。享年62 6 。その死因は病死とされているが、自らのキャリアが完全に断たれ、築き上げてきたもの全てが崩れ去ろうとする中での死が、深い失意のうちにあったことは想像に難くない。

成次流鳥居家のその後

悲劇は成次一代では終わらなかった。彼の跡を継いだ長男の鳥居忠房も、主君・忠長の改易に連座する形で所領をすべて没収され、大名の地位を剥奪された 17 。忠房の身柄は、本家である山形藩主で従兄弟にあたる鳥居忠恒のもとへ預けられることとなった 11

後に忠房は赦免されたものの、大名家としての復帰は許されなかった。家督は弟の忠春が継ぎ、成次の家系は3000石の旗本としてかろうじて存続することになった 21 。かつて3万5千石を領した大名家は、幕府の直臣へとその地位を大きく落とし、再出発を余儀なくされたのである。

成次の悲劇は、彼個人の能力や忠誠心の欠如に起因するものではない。それは、近世初期の幕藩体制が内包していた「付家老」という制度の構造的欠陥に根差す面が大きい。付家老は、自らの意思や能力とは無関係に、主君の運命と一蓮托生であり、コントロール不可能な主君の行動一つで家門そのものが破滅するリスクを常に抱えていた。

父・元忠が貫いた「忠」は、主君・家康個人に対する一途で絶対的な忠誠であり、伏見城での死によってそれは完結し、美化された。それは戦国的な主従関係の理想形であった。一方、成次に求められた「忠」は、より複雑で相克するものであった。直接の主君である忠長への忠誠と、幕府(将軍家光)という最高権力への忠誠という、二重の忠誠義務である。この二つの「忠」が対立した時、成次はどちらか一方を選ぶことができず、その狭間で引き裂かれた。彼の生涯は、純粋な個人への忠誠が尊ばれた戦国時代から、より複雑で官僚的な「公儀」への忠誠が求められる江戸時代へと移行する過渡期において、その矛盾に翻弄されたエリート武士の悲劇を象徴している。

結論:鳥居成次という武将の再評価

鳥居成次の生涯は、父・鳥居元忠という偉大な存在の影に隠れ、また、石田三成との逸話や主君・徳川忠長の改易に連座した悲劇的な結末といった、断片的なエピソードによって語られることが多い。しかし、彼の生涯を多角的に検証すると、より複雑で奥行きのある人物像が浮かび上がってくる。

成次の前半生は、父が残した輝かしい「遺産」を最大限に活用し、自らの道を切り開いた成功の物語であった。関ヶ原の戦いでは武将としての武勇を示し、戦後の石田三成への対応では、戦国的な私怨を超克し、近世的な「公儀」の理念を体現する卓越した器量を見せつけた。これにより幕府中枢の信頼を勝ち取り、谷村藩主として、また徳川忠長の付家老として、キャリアの頂点を極めた。藩主としても、軍役や普請といった幕府への奉公をこなしつつ、富士山信仰を利用した領国経営を行うなど、優れた統治能力を発揮した。

しかし、彼の後半生は、その栄光が一転して悲劇へと変わる過程を辿る。付家老という名誉ある職務は、彼を徳川将軍家の内部対立という、一個人の力では到底抗うことのできない巨大な政治の渦へと巻き込んだ。彼の有能さや忠誠心も、主君・忠長と将軍・家光との深刻な確執の前には無力であった。結果として、彼は主君の改易に連座して全てを失い、失意のうちに生涯を閉じた。

このことから、鳥居成次は単に「忠臣・元忠の善良な息子」あるいは「不運な武将」という一面的な評価に留まるべきではない。彼は、戦国武将としての武勇、近世大名としての行政手腕、そして新しい時代が求める政治思想を深く理解する洞察力を兼ね備えた、極めて有能な人物であった。彼の悲劇は、個人の資質の問題ではなく、江戸時代初期の武家社会が抱える構造的な厳しさと非情さ、特に「付家老」という制度の矛盾によってもたらされたものである。

鳥居成次の生涯は、戦国的な価値観(個人への絶対的忠誠)から近世的な価値観(公儀や秩序の尊重)へと社会が大きく移行する過渡期を生きた、一人のエリート武士の栄光と蹉跌の軌跡である。彼の人生を深く考察することは、徳川幕府という巨大な権力機構が確立されていく過程で、武士たちが直面した忠誠心のあり方の変質、そしてそれに伴う苦悩と適応の様相を理解する上で、極めて貴重な歴史的事例と言えるだろう。

引用文献

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  2. 鳥居元忠 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89468/
  3. 徳川忠義の武将、鳥居元忠の魅力。 | 兵庫県香住・柴山|水産加工会社今西食品 https://www.ima-syoku.com/2023/09/25/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BF%A0%E7%BE%A9%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%B0%86%E3%80%81%E9%B3%A5%E5%B1%85%E5%85%83%E5%BF%A0%E3%81%AE%E9%AD%85%E5%8A%9B%E3%80%82/
  4. 鳥居元忠は何をした人?「関ヶ原前夜、三河武士の意地を抱いて伏見城に散った」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/mototada-torii
  5. 城に眠る伝説と謎 【伏見城】 壮絶!血染めの天井板に隠された京都・伏見城の悲劇! https://shirobito.jp/article/315
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  9. 信州高遠鳥居家供養塔 https://gururinkansai.com/shinshutoriikekuyoto.html
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  13. 由緒 - 北口本宮冨士浅間神社 https://www.sengenjinja.jp/yuisho/index.html
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  27. 徳川忠長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7
  28. 19204-0 山梨県都留市(谷村) | 地域の歴史秘話を求めて~日本全国探訪記~ http://miyaketomoya.blog.fc2.com/blog-entry-720.html
  29. 徳川忠長(トクガワタダナガ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E9%95%B7-104693
  30. 鳥居元忠の子孫を追ってみた - YouTube https://m.youtube.com/watch?v=MxXpLMMpPjc&pp=ygUNI-mzpeWxheW_oOW6gw%3D%3D