最終更新日 2025-06-10

鵜殿長照

「鵜殿長照」の画像

鵜殿長照:今川家への忠誠と戦国乱世の悲運

序章:鵜殿長照とは

本稿では、戦国時代の三河国における今川氏配下の有力国人領主、鵜殿長照(うどの ながてる)について詳述する。彼の生涯は、主家である今川家の盛衰と、後の天下人、徳川家康となる松平元康の台頭という、日本史における大きな転換点と深く結びついている。特に、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦い以降の彼の選択、そしてその結果として生じた上ノ郷城(かみのごうじょう)の戦いと、歴史的に名高い人質交換へと繋がる一連の出来事は、戦国時代の過酷な現実と武士の生き様を浮き彫りにする。

鵜殿長照は、今川義元が討死した後も今川氏に仕え続けたことから「忠義の人」という印象が持たれる一方 1 、父・鵜殿長持の死後、そして今川義元の横死という激動の中で、極めて危うい立場に置かれた武将であった 2 。彼の選択は、単に一個人の運命に留まらず、徳川家康の初期の戦略にも影響を与えた。長照の生涯と彼を巡る出来事は、戦国時代の地方領主が直面した忠誠と存亡のジレンマを象徴しており、また、彼の死と息子たちの捕縛が、家康の家族奪還という歴史的転換点を引き起こした点で、単なる脇役以上の存在として評価されるべきであろう。

以下に、鵜殿長照に関連する主要な出来事を年表形式で示す。

表1:鵜殿長照 関連年表

年代

出来事

典拠

生誕

不明

3

弘治3年(1557年)

父・鵜殿長持没。長照、家督を継ぎ上ノ郷城主となる(推定)

4

永禄3年(1560年)

桶狭間の戦い。今川義元討死。

6

永禄5年2月4日(1562年3月8日)

上ノ郷城の戦い。鵜殿長照討死。

3

永禄5年(1562年)

上ノ郷城落城後、長照の子・氏長、氏次と、松平元康の妻子との間で人質交換が行われる。

5

この年表からも明らかなように、長照が家督を継いでからその最期までは約5年という短い期間であり、その間に主家・今川家の屋台骨が揺らぐという激動の時代であった。このような不安定な政治状況下で、彼は迅速かつ困難な判断を迫られ続けたことが推察される。

第一部:鵜殿長照の出自と一族

鵜殿長照の生涯と選択を理解するためには、まず彼の一族、特に父・鵜殿長持と今川家との関係、そして長照自身の家族構成について把握する必要がある。

1. 父・鵜殿長持と今川家における立場

鵜殿長照の父、鵜殿長持(うどの ながもち)は、永正10年(1513年)に生まれ、弘治3年9月11日(1557年10月13日)に没した戦国時代の武将である 4 。彼は駿河の戦国大名である今川義元とその子・氏真に仕え、その所領は「三州西郡一万石」と称されるほど広大であったと伝えられている 4 。この石高の正確性については議論の余地があるものの、鵜殿氏が三河において相当な勢力を有する大身であったことを示唆している。

特筆すべきは、長持が今川義元の妹(あるいは姉)を室に迎えたとされる点である 4 。これにより、鵜殿氏は今川家と極めて強い姻戚関係で結ばれることとなり、今川家中における鵜殿氏の地位を一層強固なものにした。この血縁関係は、後の長照の行動原理を理解する上で極めて重要な背景となる。

また、長持は文化人としての一面も持ち合わせており、連歌師の宗長や宗牧といった当代一流の文化人とも親交があった 4 。さらに、鵜殿氏は東海地方における法華宗の有力な後援者であり、長持自身も天文21年(1552年)に遠江国本興寺の仏殿修復に際して多額の寄進を行い、その棟札には長持の名が筆頭に挙げられている 4 。これは、鵜殿氏が領国において単に軍事的な支配者であっただけでなく、経済力と文化的影響力をも行使し、地域社会の安定と発展に寄与していたことを示している。このような宗教的パトロネージは、戦国武将が領国を統治する上での多面的な役割を反映するものである。

2. 鵜殿長照の基本情報

鵜殿長照の生年は不明であるが、没年は永禄5年2月4日(1562年3月8日)と記録されている 3 。通称は藤太郎、あるいは長助とも伝えられるが確証はなく、戒名は竺仙(じくせん)である 3

父は前述の鵜殿長持。母については、今川義元の妹、すなわち今川氏親の娘であったとする説が有力である 3 。これが事実であれば、長照は今川氏真と従兄弟の関係にあたり 5 、今川家への忠誠心は、主従関係のみならず、濃厚な血縁によっても支えられていたと考えられる。この強固な血縁こそが、桶狭間の戦い以降、多くの三河国衆が松平(徳川)方に靡く中で、長照が今川方にとどまる大きな要因となったと推測される。それは単なる主君への忠義心という観念的なものに留まらず、鵜殿家自身の存立基盤そのものが今川家との関係性に深く依存していたためであり、ある意味では「逃れられない」状況が彼を悲劇的な結末へと導いた可能性も否定できない。

長照の兄弟には藤九郎、長忠がおり、姉妹には松平伊忠室、そして諸説あるがお田鶴の方(おたづのかた)などがいたとされる 3 。これらの兄弟姉妹の存在は、鵜殿氏の婚姻政策や他の在地領主との関係性を考察する上で重要な手がかりとなる。

子には氏長(うじなが)と氏次(うじつぐ)がおり、彼らは後に松平元康の妻子との人質交換の対象となる運命を辿る 3

以下に、鵜殿家の主要な人物関係を示す。

表2:鵜殿家 主要人物関係図

Mermaidによる家系図

graph TD A[今川氏親] --> B(今川義元) A --> C{今川義元の妹?}; D[鵜殿長持] -- 妻 --> C; D --> E[鵜殿長照]; C -.-> E; B --> F[今川氏真]; E -. 従兄弟?.-> F; E -- 主君 --> B; E -- 主君 --> F; E --> G[鵜殿藤九郎]; E --> H[鵜殿長忠]; E --> I[松平伊忠室]; E --> J[お田鶴の方?]; E --> K[鵜殿氏長]; E --> L[鵜殿氏次]; subgraph 鵜殿家 D E G H I J K L end subgraph 今川家 A B C F end

(注:上図は主な関係性を示したものであり、全ての縁戚関係を網羅するものではありません。特に長照の母と義元の関係は「?」付きで示しています。)

この関係図からも、鵜殿長照が今川家と深い血縁関係にあった可能性が窺え、彼の政治的立場や行動選択に大きな影響を与えたと考えられる。

第二部:上ノ郷城主としての鵜殿長照

鵜殿長照は、父・長持の死後、その本拠地である上ノ郷城の城主となった。彼の城主としての動向は、桶狭間の戦いを境に大きく変容する。

1. 上ノ郷城の戦略的重要性

上ノ郷城は、現在の愛知県蒲郡市神ノ郷町に位置し、標高約52メートルの独立した丘陵上に築かれた平山城であった 7 。城の正確な築城時期は明らかではないが、鵜殿氏初代の鵜殿長善から長将、長持、そして長照に至る四代にわたる居城と伝えられている 7 。このことは、上ノ郷城が鵜殿氏の三河における勢力基盤の中核を成していたことを示している。

城の立地は戦略的に極めて優れており、山頂の主郭からは眼下に蒲郡市街と三河湾を一望できた 7 。これは、海上交通の監視や、東西を結ぶ交通路の抑えとして重要な意味を持っていた。桶狭間の戦い以前、上ノ郷城は今川氏の勢力範囲の西端近くに位置し、西三河の諸勢力、特に後の松平氏(徳川氏)に対する前線基地としての役割を担っていたと考えられる。平時には鵜殿氏の勢力基盤として機能したこの城も、時代の変化とともにその戦略的意味合いを大きく変えることになる。

2. 桶狭間の戦い以前の動向

鵜殿長照は、弘治3年(1557年)に父・長持が没した後、家督を相続し上ノ郷城主となった 5 。今川義元体制下において、彼は一定の評価を受けていた武将であったと推察される。その証左の一つとして、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いの前哨戦において、松平元康(後の徳川家康)が兵糧入れを敢行したことで知られる大高城の守備を任され、籠城していたという記録がある 1 。これは、長照が今川義元から軍事的な信頼を得て、重要な拠点防衛の任に就いていたことを示している。

しかし、大高城での籠城戦は過酷なものであったらしく、元康による兵糧入れによって窮地を脱した後、守備担当を元康と交代させられたとされる 3 。そして、運命の桶狭間の戦いで主君・今川義元が織田信長によって討たれるという衝撃的な報に接すると、長照は元康よりも先に三河の本領である上ノ郷城へと退却したと伝えられている 3 。この行動は、主君の突然の死という未曾有の非常事態における、国人領主としての自領防衛を最優先する判断と、自己保存の本能が働いた結果と解釈できよう。この大高城での経験は、長照にとって松平元康の能力や織田勢の脅威を間近で感じる機会であったはずだが、その後の彼の選択は、必ずしもその経験を活かしたものとはならなかった。

3. 桶狭間の戦い後の苦境と今川氏への忠誠

永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いで総大将・今川義元が討死すると、東海地方に覇を唱えた今川氏の権勢は急速に陰りを見せ、特に三河国における支配力は著しく弱体化した 2 。この機を捉え、長年今川氏の人質となっていた松平元康は岡崎城に帰還し、今川氏からの独立を宣言。岡崎を拠点に三河統一へと本格的に動き出す。

元康の独立に伴い、三河国内の多くの国人領主たちは、雪崩を打つように松平氏に服属していった 6 。しかし、そのような状況下にあっても、鵜殿長照は今川氏への忠誠を堅持し続けた 5 。この選択の背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、前述の通り、長照の母が今川義元の妹(あるいは姉)であった場合、彼は今川氏真と従兄弟という極めて近しい血縁関係にあったこと 5 。第二に、父祖代々今川氏に重用されてきたという恩義。そして第三に、松平氏と同様に、長照の家族が今川氏の本拠地である駿府に半ば人質として留め置かれていた可能性である 5 。これらの要因が複雑に絡み合い、長照に今川方からの離反という選択肢を許さなかったのかもしれない。彼の「忠義」は、単なる美徳としてだけでなく、今川家との深い血縁関係、父祖からの主従関係、そして駿府にいるであろう家族の安全といった、極めて現実的な要因に裏打ちされていたと考えるべきであろう。

結果として、鵜殿長照の上ノ郷城は、急速に松平元康の勢力圏へと塗り替えられていく三河国内において、今川方の孤塁として取り残される形となった 5 。かつては今川氏の西三河進出の拠点であった上ノ郷城は、今や松平方と今川方の勢力境界の最前線という、極めて危険な場所へと変貌したのである。この状況は、まさに「どうする鵜殿長照!?」 5 と叫びたくなるような、彼の苦しい立場を的確に示している。もし彼が松平方に転じていれば、上ノ郷城は徳川の東三河進出の拠点となり得たかもしれないが、彼の選択は異なる未来をもたらした。

第三部:上ノ郷城の戦い

桶狭間の戦い後、今川氏への忠誠を貫いた鵜殿長照と、三河統一を目指す松平元康との衝突は避けられないものとなった。その帰結が、永禄5年(1562年)の上ノ郷城の戦いである。

1. 戦いの背景:松平元康の三河統一と孤立する鵜殿長照

桶狭間の戦いを経て今川氏から独立した松平元康は、岡崎城を拠点として西三河の平定を進め、次いで東三河へとその勢力を拡大しようとしていた。その過程で、依然として今川方に与し、元康の支配に抵抗する勢力は、三河統一の障害として排除する必要があった 6

鵜殿長照は、今川義元の近親者(母が義元の妹であれば甥、あるいは義元の妹婿の子)であり、今川氏の衰退が明らかになる中でも頑なに今川方としての立場を崩さなかった。そのため、彼が城主を務める上ノ郷城は、松平氏の勢力圏内に楔を打ち込む形で孤立する今川方の拠点となった 6 。これは元康にとって、自領内に存在する敵対勢力であり、戦略上、見過ごすことのできない存在であった。

さらに、鵜殿一族内部でも対応が分かれていた可能性が示唆されている。長照の兄弟や叔父などが既に松平元康に従属していたという記録もあり 5 、これが事実であれば、長照の孤立感は一層深かったと考えられる。周囲の状況が刻一刻と変化する中で、長照は旧主への忠義と一族の存亡という重圧に挟まれていた。

2. 戦闘の勃発と経緯(永禄5年/1562年)

永禄5年(1562年)2月、松平元康は満を持して上ノ郷城への攻撃を開始した 6 。この攻撃には、元康の実母・於大の方の再婚相手である久松俊勝や、松井忠次といった松平家の重臣たちが加わっていたとされる 11

上ノ郷城は天然の要害に築かれた堅城であり、鵜殿長照以下の城兵もよく守り、松平勢は容易には攻略できなかった 6 。力攻めだけでは早期の陥落が難しいと判断した元康は、奇策を用いることを決断する。それは、伊賀と並び称される忍術集団、甲賀流忍者(甲賀衆)を動員し、城内に潜入させて混乱を引き起こすというものであった 6 。この作戦の指揮を執ったのは、伴与七郎(とも よしちろう)ら甲賀の者たちであったと伝えられている 6 。一部では服部半蔵の関与も語られるが、通説では伴与七郎の働きが大きいとされる 12

『烈祖成績』などの記録によれば、甲賀衆は夜陰に乗じて城内に侵入し、各所に火を放った。この火災は城内に大きな混乱を引き起こし、一部では「城内から造反者が出たのではないか」という誤解や疑心暗鬼を生じさせ、守備側の士気を著しく低下させたとされる 6 。物理的な破壊だけでなく、情報操作や心理的動揺を誘うこの戦術は、城内の結束を内部から崩壊させることを狙った高度なものであり、戦国時代の合戦における忍者の役割の多様性を示す好例と言える。

3. 鵜殿長照の最期と落城

城内が放火による火災とそれに伴う混乱状態に陥った機を逃さず、松平勢は総攻撃を仕掛けた。守備側の統制が乱れる中、奮戦した鵜殿長照であったが、衆寡敵せず、ついに討死を遂げた 6 。一部の創作物、例えばNHK大河ドラマ『どうする家康』では、追い詰められた長照が自害する描写がなされたが 11 、史料的には討死したとするのが一般的である。

『烈祖成績』には、混乱の中で城から落ち延びようとした長照を、甲賀衆の伴与七郎(伴与七郎資定)が討ち取ったと記されている 6 。また、長照の最期に関しては、上ノ郷城からやや離れた「鵜殿坂」と呼ばれる場所で追手に追いつかれ、一騎討ちの末に討たれた、あるいはそこで自害したという伝承も地元には残っている 8 。この坂は「腹切り坂」とも呼ばれ、「坂で転ぶとその怪我は治らない」といった言い伝えも残り 12 、討死した城主への地域住民の畏敬や同情、あるいはその場所の持つ悲劇性が象徴的に語り継がれていることを示している。

長照の討死により上ノ郷城は陥落し、彼の二人の息子、氏長と氏次は松平軍に捕らえられた 5 。この兄弟を捕縛したのは、甲賀衆の一人、伴伯耆守資綱(とも ほうきのかみ すけつな)であったとされている 6 。松平元康が上ノ郷城を攻撃した直接の理由は、三河統一の障害となる今川方勢力の排除であったが、同時に長照の息子たちを生け捕りにし、今川方に人質として留め置かれている自身の妻子との交換材料とするという、より大きな戦略的目的も当初から視野に入れていた可能性が高い 10 。長照の死と息子たちの捕縛は、この元康の冷徹なまでの戦略の前提条件の一つであったと言えるだろう。

第四部:人質交換の経緯と歴史的意義

上ノ郷城の戦いは鵜殿長照の死という悲劇的な結末を迎えたが、その結果として捕虜となった長照の子らは、戦国史に残る重要な人質交換の駒となる。

1. 捕虜となった鵜殿氏長・氏次

上ノ郷城の落城に伴い、鵜殿長照の嫡男・氏長と次男・氏次は、松平元康軍によって捕縛された 5 。当時の彼らの年齢は、まだ十代前半、中学生くらいであったと推定されている 5 。幼くして父を失い、敵軍の捕虜となった兄弟の身柄は、松平元康にとって、長年の懸案であった自身の家族奪還のための、またとない交渉材料となった。

2. 人質交換の交渉

松平元康は、捕らえた鵜殿氏長・氏次の兄弟の身柄と引き換えに、今川氏の本拠地である駿府に人質として留め置かれていた自身の正室・瀬名姫(築山殿)、嫡男・竹千代(後の松平信康)、そして長女・亀姫の返還を、今川氏の当主である今川氏真に要求した 3 。この人質交換の交渉は、元康の重臣である石川数正が担当したとされ、その外交手腕が高く評価されている 11 。数正は困難な交渉を見事にまとめ上げ、元康の信頼を一層厚くしたと言われる。

ただし、この人質交換の対象については、近年の研究で異説も提示されている。通説では元康の妻子全員がこの時に交換されたとされるが、 19 の資料では、この時に奪還されたのは嫡男の竹千代(信康)のみであり、正室の瀬名姫と長女の亀姫は、それよりも早い段階で岡崎に移っていた可能性が指摘されている。本稿では、広く知られている通説(妻子全員交換)を主軸としつつも、このような異説の存在にも触れることで、歴史解釈の多様性を示すこととしたい。

3. 今川氏真の決断と交換成立

今川氏真にとって、鵜殿兄弟は単なる家臣の子弟ではなかった。鵜殿長照の母が今川氏の出身であった場合、氏長・氏次兄弟は氏真の従甥(いとこおい)、すなわち近しい親族にあたる。そのため、彼らを見捨てることは、人道的にも、また今川家の権威保持の観点からも困難な判断であったとされる 6

桶狭間の戦い以降、今川家からは有力な家臣の離反が相次ぎ、氏真の求心力は著しく低下していた 11 。このような状況下で、血縁の深い鵜殿兄弟を見殺しにすることは、さらなる家臣団の動揺を招き、今川家の威信を地に墜とすことになりかねなかった。氏真は、松平元康の要求を呑むという屈辱的な選択を迫られたが、最終的には親族の救出を優先し、人質交換に応じることを決断した。

結果として交渉は成立し、永禄5年(1562年)、上ノ郷城落城後まもなく、鵜殿氏長・氏次兄弟と、松平元康の妻子(あるいは嫡男・信康)との間で人質交換が無事に行われた 5 。この交換は、戦国時代の政略における人質の重要性と、武家の存続を巡る非情な駆け引きを象徴する出来事であった。

4. 人質交換の歴史的意義

この人質交換は、松平元康(後の徳川家康)にとって、その後の飛躍に向けた極めて重要な転換点となった。妻子を岡崎城に迎えることができたことで(あるいは少なくとも嫡男を取り戻せたことで)、精神的な安定を得るとともに、後顧の憂いを断ち、三河統一事業、さらには織田信長との同盟締結といった次なる戦略展開に集中できる体制を整えることができたからである。

一方、今川氏にとっては、この人質交換はさらなる権威失墜を象徴する出来事であったと言える。かつては従属させていた松平氏の要求を呑み、有力な人質を手放したことは、今川家の弱体化を内外に示す結果となった。鵜殿長照の死と、その子らが関わったこの人質交換は、戦国時代の勢力図が大きく塗り替えられていく過程における、一つの象徴的なエピソードとして記憶されるべきであろう。歴史記述の動態性という観点から見れば、鵜殿長照の物語は、この有名な人質交換の「きっかけ」として、よりドラマチックに語られる傾向があったのかもしれない。

第五部:鵜殿長照の子らのその後

父・長照の死と人質交換という劇的な経験を経た鵜殿氏長と氏次は、その後、それぞれ異なる道を歩むことになる。

1. 鵜殿氏長(うじなが)の生涯

人質交換によって今川方に戻った鵜殿氏長であったが、その後の今川家は坂道を転げ落ちるように衰退していく。永禄11年(1568年)、武田信玄の駿河侵攻によって今川氏は本拠地である駿河を失い、事実上滅亡する。この激動の中で、氏長はかつての父の敵であった徳川家康に臣従する道を選んだ 5 。父・長照が最後まで今川家に忠誠を尽くしたことを考えると、その子が仇敵である家康に仕えるという選択は、戦国乱世の非情さと、家名を存続させるための苦渋の決断であったことが窺える。

徳川家臣となった氏長は、姉川の戦い、長篠の戦い、高天神城攻略戦(光明城攻めとあるが、文脈から高天神城関連の戦いか)などに従軍し、武功を重ねたようである 5 。天正19年(1591年)、徳川家康の関東移封に従い、武蔵国で1,700石の所領を与えられた 5 。文禄2年(1593年)には従五位下・諸大夫に叙せられ、石見守を称した 5

その後も、慶長10年(1605年)の福正院(家康養女、池田利隆室)の輿入れや、慶長14年(1609年)の保寿院(家康養女、細川忠利室)の輿入れに供奉するなど、徳川家中で一定の役割を果たした 18 。また、京極高次死後の小浜藩に派遣され、藩政の監察を行うなど、吏僚としての能力も発揮したようである 18 。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では使番として戦列に加わった 18

寛永元年(1624年)、氏長は76歳でその生涯を閉じた。家督は養子の氏信が継いだ 5 。父の悲劇的な死を乗り越え、新たな主君のもとで天寿を全うした氏長の生涯は、戦国時代から江戸初期にかけての武士の流動性と、能力や状況に応じた適応の重要性を示している。家康側も、かつての敵の子であっても有用な人材は登用するという、実利的な側面を持っていたことが窺える。

2. 鵜殿氏次(うじつぐ)の生涯

兄・氏長と同様に人質交換で今川方に戻った氏次もまた、今川家の没落という厳しい現実に直面する。しかし、その後の彼の歩みは、兄とは異なるものであった。

永禄11年(1568年)に今川氏が駿河を失った後、兄・氏長は徳川氏に臣従したが、氏次の動向はしばらくの間、史料からは判然としない。天正18年(1590年)頃には「落魄」、すなわち落ちぶれた状態にあったとされ、この頃に従兄弟にあたる松平家忠(深溝松平家、家康の譜代家臣)に仕えることになった 17 。兄が徳川本家に仕えたのに対し、弟は譜代大名の一家臣という立場であり、兄弟間で境遇に差が生じていたことがわかる。

氏次の最期は壮絶なものであった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦として知られる伏見城の戦いにおいて、主君・松平家忠は伏見城の守将の一人として籠城した。氏次も家忠に従って西軍の大軍と戦い、奮戦の末、家忠らと共に討死を遂げた 17 。兄・氏長が徳川家で比較的安定した地位を築き天寿を全うしたのに対し、弟・氏次は一時困窮し、最終的には戦場で命を散らすという対照的な生涯であった。これは、同じ出自を持ちながらも、個人の選択、運、そして仕える主君によって武士の運命が大きく左右される戦国時代の厳しさと多様性を示している。

鵜殿長照の子らが辿った異なる運命は、戦国時代において個人の人生が、血縁、地縁、主君との関係、そして自身の能力といった複数の要素によって複雑に織りなされていたことを物語っている。

第六部:鵜殿長照の歴史的評価と人物像

鵜殿長照は、戦国史の表舞台で華々しい活躍を見せた武将ではない。しかし、彼の生き様、特に今川家への忠誠と、その結果として引き起こされた出来事は、歴史に特異な足跡を残している。

1. 今川家への忠義

鵜殿長照を語る上で最も頻繁に言及されるのは、今川家への揺るぎない忠誠心であろう。桶狭間の戦いで今川義元が討たれ、今川氏の勢力が急速に衰退し、三河の国人領主たちが次々と松平元康(徳川家康)に鞍替えしていく中にあって、長照は最後まで今川氏真に忠義を尽くした 1

この忠誠心の源泉としては、父祖代々今川氏に仕えてきたという恩顧関係に加え、長照自身が今川氏真の従兄弟にあたる可能性など、今川家との深い血縁関係が挙げられる 5 8 は「義元亡き後も、変わらず今川氏に忠義を尽くしました」と記し、 1 も「“忠義の人”という印象」に触れている。

しかし、この「忠義」は、戦国乱世という現実主義が支配する時代においては、必ずしも最善の選択とは言えなかった。結果として、この忠義が松平元康との対立を不可避なものとし、自身の死と上ノ郷城の落城、そして一族の危機を招いたとも評価できる。彼の生き様は、儒教的価値観からは美徳とされる「忠義」が、時代の変化に対応できない場合には悲劇的な結果をもたらし得ることを示している。彼の「忠義」は、今川家との深い血縁や恩顧に根差すものであり、個人的な選択の自由度は極めて低かった可能性も考慮すべきである。

2. 武将としての能力

鵜殿長照の武将としての具体的な戦功や戦略に関する史料は限定的であり、その能力を正確に評価することは難しい。しかし、桶狭間の戦いの前哨戦において大高城の守備を任されていたこと 1 は、今川義元から一定の軍事的能力を評価されていたことを示唆している。

また、上ノ郷城の戦いにおいては、松平元康率いる大軍に対し、甲賀忍者の奇策が用いられるまで持ちこたえており 6 、城の守りが堅固であったこと、そして城主として将兵をよく統率していたことが窺える。

一方で、戦略的な大局観という点では、今川氏の衰退と松平氏の台頭という時代の大きな流れを読み切れず、旧主への忠誠を優先した結果、滅亡に至ったという見方も可能である。彼の選択は、個人的な情誼や家の伝統を重んじるものであったかもしれないが、戦国武将に求められる冷徹な状況判断や柔軟性に欠けていたと評される余地もある。

3. 後世への影響と伝承

鵜殿長照自身の名は、戦国史の主要な出来事を動かしたわけではないかもしれない。しかし、彼の死と息子たちの捕縛が、徳川家康の妻子奪還という有名な人質交換の直接的なきっかけを作った人物として、歴史に記憶されている。この一点において、彼は家康の初期のキャリアにおける重要なエピソードに深く関わっている。

また、討死の地とされる「鵜殿坂」の伝承 8 は、地域において彼の悲劇的な最期が単なる歴史的事実としてではなく、感情を伴う物語として語り継がれていることを示している。NHK大河ドラマ『どうする家康』をはじめとする近年の歴史ドラマでも、鵜殿長照と上ノ郷城の戦い、そして人質交換の逸話が取り上げられており 11 、現代においてもその名が知られる機会がある。ただし、これらの創作物における描写は、史実とは異なる脚色が加えられている場合がある点には留意が必要である(例えば、 11 における長照の自害描写など)。

鵜殿長照は、徳川家康や今川氏真といった戦国史の主要人物の物語において、重要な転換点を引き起こす「触媒」としての役割を果たしたと言えるだろう。彼自身の主体的な行動の結果が、意図せずしてより大きな歴史の歯車を動かした。彼の存在と行動がなければ、家康の家族の運命は変わり、その後の歴史展開も異なるものになっていたかもしれない。このように、歴史上の「脇役」とされる人物の行動が持つ波及効果を考察することは、歴史の多層的な理解に繋がる。

結論

鵜殿長照の生涯は、戦国乱世という激動の時代に翻弄された一地方領主の悲劇を凝縮している。今川家の有力被官として、父祖伝来の地である三河国上ノ郷を治めた彼は、主君・今川義元の桶狭間での討死という未曾有の事態に直面し、苦渋の選択を迫られた。多くの同輩が新興勢力である松平元康に靡く中、長照は今川家への忠誠を貫き通したが、その結果、上ノ郷城の戦いで元康軍の前に敗れ、その生涯を閉じた。

彼の死は、しかし、歴史的に重要な人質交換へと繋がった。捕虜となった長照の二人の息子、氏長と氏次は、元康の妻子との交換材料となり、この人質交換の成功は、後の徳川家康の飛躍にとって大きな意味を持つものであった。長照の選択は、戦国武将が直面した「忠義」と「家名の存続」という二律背反の問いを現代に投げかける。彼の行動は、血縁、恩義、そして時代の潮流といった複雑な要因が絡み合った結果であり、その悲劇的な結末は、時代の転換期における地方領主の困難な立場を象徴していると言えよう。

鵜殿長照自身は、歴史の表舞台で大きな成功を収めたわけではない。しかし、彼の存在と行動が、徳川家康の初期のキャリアにおける重要なエピソードの引き金となった点において、また、戦国時代の武士の生き様の一典型を示している点において、戦国史における特異な位置を占める人物として評価されるべきである。

本稿で用いた史料には限りがあり、特に長照個人の内面や詳細な領国経営の実態については不明な点も多い。鵜殿氏と地域社会との具体的な関わりや、同時代の他の今川家臣との比較研究などを通じて、鵜殿長照という人物、そして彼が生きた時代への理解をさらに深めることが、今後の課題として残されている。

引用文献

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  2. 鵜殿長持・長照 | 歴史 - みかわこまち https://mikawa-komachi.jp/history/udononagamochi.html
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  8. 家康と激戦を繰り広げる知将・鵜殿長照が辿った生涯|今川氏に忠義を尽した武将【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1110876/2
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  10. 「上ノ郷城の戦い」と地形・地質【合戦場の地形&地質vol.2-1】 - note https://note.com/yurukutanosimu/n/n820220ced3cd
  11. 石川数正による人質交換は偶然の産物だった? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/25813
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  13. 鵜殿長照 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/90030/
  14. 瀬名と子供たちの人質交換はあったのか?(「どうする家康」20) https://wheatbaku.exblog.jp/32896214/
  15. 石川数正 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89469/
  16. ドラマ日記『どうする家康』&『ブラッシュアップライフ』(第6話)|あく - note https://note.com/akunohana/n/n9d315da88991
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  19. NHK大河ドラマは史実とはあまりに違う…最新研究でわかった徳川家康と正妻・築山殿の本当の夫婦関係 「瀬名奪還作戦」は現実にはなかった (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/68571?page=2