本報告書は、戦国時代の伊勢国にその名を刻んだ一人の武将、鹿伏兎定秀(かぶと さだひで)、法名を宗心(そうしん)に焦点を当てるものです 1 。彼は、織田信長による天下統一という時代の激流の中で、一族の運命を左右する重大な決断を下し、悲劇的な最期を遂げました。
定秀が生きた時代、彼が本拠とした北伊勢地域は、近江の六角氏や南伊勢の北畠氏といった大勢力の狭間に位置し、関氏を中心とする国人領主たちが複雑な力関係の中にありました 3 。本報告書は、このような緊迫した情勢下における地方豪族の存亡の軌跡を、鹿伏兎氏の歴史を通して描き出すことを目的とします。
この報告書の核心的な問いは、「なぜ鹿伏兎定秀は、一族が織田信長に服属した後であったにもかかわらず、元亀元年(1570年)の姉川の戦いにおいて、信長に敵対する浅井長政方に馳せ参じ、その命を落としたのか」という点にあります。史料にはその動機が明記されておらず、謎に満ちた行動として知られています 6 。この問いを解明するため、定秀個人の生涯のみならず、彼が属した鹿伏兎一族の出自から滅亡に至るまでの全容、そして関連する歴史的事件との関わりを、現存する史料に基づき多角的に探求します。
鹿伏兎氏の宗家である伊勢関氏は、桓武平氏の流れを汲むとされる名門の一族です 8 。その起源は鎌倉時代に遡り、北条氏の被官であった関実忠が、伊勢国鈴鹿郡関谷の地頭職を得て「関」を称したことに始まるとされています 8 。一族は亀山城を拠点として勢力を拡大し、北伊勢における有力な国人領主としての地位を築き上げました 8 。
関氏の勢力拡大において決定的な転機となったのが、14世紀中頃、6代当主とされる関盛政による領地の分与です。盛政は、長男・盛澄を神戸(かんべ)、次男・盛門を国府(こう)、三男・盛繁に本家である亀山を継がせ、四男・盛宗を鹿伏兎(かぶと)、五男・政実を峯(みね)に配しました 6 。これにより、五つの分家が連携して北伊勢を支配する、いわゆる「関五家」体制が確立されます 3 。鹿伏兎氏は、この時、四男・盛宗が伊賀国との国境に近い要衝、鹿伏兎谷を領したことにその歴史が始まります 6 。
この一族ネットワークによる地域支配は、関氏の強さの源泉でした。単独の城主の力に頼るのではなく、五つの分家がそれぞれ城を構え、戦略的に連携することで、広域にわたる防衛・統治システムを構築していたのです。特に鹿伏兎氏は、伊賀との境界線を守るという地政学的に極めて重要な役割を担っていました 15 。定秀の行動原理を理解する上では、彼がこの一族全体の力学の中に位置する一員であったことを念頭に置く必要があります。
鹿伏兎氏の本拠地は、現在の三重県亀山市加太市場に位置する鹿伏兎城です。この城は牛谷山の山頂に築かれた山城で、別名を加太城、あるいは牛谷城とも呼ばれました 6 。さらに、天文11年(1542年)に定秀の父である鹿伏兎定長が、時の将軍・足利義晴に白鷹を献上したことから、「白鷹城」という雅な異名でも知られています 6 。現在、城跡は三重県の史跡に指定されており、往時を偲ばせる石垣や土塁、井戸などの遺構が残されています 20 。また、山の麓にある神福寺は鹿伏兎一族の菩提寺とされ、今も累代の墓碑が静かに佇んでいます 20 。
表1:関氏・鹿伏兎氏 関連略式系図
家系 |
人物 |
関氏祖 |
関盛政(関氏6代) |
関五家 |
長男:神戸盛澄(神戸氏祖) → … → 神戸友盛(具盛)次男:国府盛門(国府氏祖)三男:関盛繁(亀山関氏・本家) → … → 関盛信 四男:鹿伏兎盛宗(鹿伏兎氏祖) → … → 定好 → 定長 五男:峯政実(峯氏祖) |
鹿伏兎定長の家系 |
父:鹿伏兎定長子: 鹿伏兎定秀(宗心) 、 鹿伏兎定義 、鹿伏兎定保弟(定長の):坂定住孫(定秀の子):鹿伏兎盛氏、鹿伏兎四郎(六郎) |
(出典: 2 に基づき作成)
織田信長が伊勢にその勢力を伸ばす以前、鹿伏兎氏を含む関一族は、地理的にも政治的にも近江国の六角氏と深い関係にありました。本家当主の関盛信や、分家の中でも特に有力であった神戸友盛(具盛)は、六角氏の重臣であった日野城主・蒲生定秀の娘をそれぞれ妻として迎えることで、強固な姻戚関係を築いていました 3 。この事実は、彼らが単なる同盟関係を超え、運命共同体ともいえる強い結びつきを持っていたことを示唆しています。
この「近江志向」とも言うべき外交方針は、彼らの行動原理を理解する上で極めて重要です。六角氏の庇護下で地域の安定を享受していた彼らにとって、尾張から突如として現れた新興勢力である織田信長は、既存の秩序を破壊する侵略者以外の何物でもありませんでした。
定秀の父・鹿伏兎定長の代、永禄10年(1567年)に信長が第一次北伊勢侵攻を開始すると、定長は本家である関氏と共に織田軍に抵抗の姿勢を見せます 6 。これは、六角氏との同盟関係に基づいた、当然の軍事行動であったと考えられます。定秀もまた、父の世代から受け継がれたこの価値観を共有し、信長に対して強い警戒心を抱いていた可能性は高いでしょう。後の定秀の不可解な行動は、こうした信長侵攻以前からの、近江との強固な結びつきという文脈の中に位置づけることで、その背景がおぼろげながら見えてくるのです。
永禄11年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たす過程で、第二次北伊勢侵攻を敢行します。圧倒的な軍事力の前に、前年には抵抗を示した関一族も、今回は抗戦を断念せざるを得ませんでした 6 。
和睦の条件として、信長の三男であった三七丸(後の織田信孝)が、関一族の中でも有力であった神戸友盛の養子として送り込まれました 3 。これにより、関氏はその独立性を失い、事実上、織田家の支配体制下に組み込まれることになります。鹿伏兎氏も宗家や神戸氏の決定に従い、信長の麾下に入りました 6 。
しかし、この服属は対等な同盟関係ではなく、一方的な支配構造への編入に他なりませんでした。信長は、和睦後も北伊勢の国人たちを完全には信用していませんでした。その証左に、元亀2年(1571年)には養父である神戸友盛を 30 、さらに元亀4年(1573年)には宗家当主の関盛信を、信孝との不和などを理由に近江日野城へ幽閉するという強硬手段に打って出ます 12 。彼らの旧領は没収され、信孝の所領へと組み込まれました 34 。
一族の当主が相次いでその地位を追われるという屈辱的な処遇は、信長が彼らを独立した領主としてではなく、自らの支配体制における潜在的な障害と見なしていたことを明確に示しています。このような状況は、一族の誇りを重んじる武士たちの間に、信長・信孝親子に対する根強い不満と反感を鬱積させる土壌となったと考えられます。鹿伏兎定秀が後に取る行動は、こうした一族全体の不満を代弁したものであった可能性を否定できません。
元亀元年(1570年)6月、織田信長は長年の宿敵であった越前の朝倉義景を討つべく出陣します。しかし、その道中、妹・お市の方を嫁がせ同盟関係にあった北近江の浅井長政が、突如として信長に反旗を翻しました。これにより信長は挟撃の危機に陥り、辛くも京へ撤退します(金ヶ崎の退き口)。体勢を立て直した信長は、徳川家康と共に浅井・朝倉連合軍を討つべく再び出陣し、両軍は姉川の河原で対峙することとなりました 35 。
この天下の趨勢を左右する大一番において、鹿伏兎定秀は驚くべき行動に出ます。織田方として参陣するのが当然の立場でありながら、彼は一族から離れ、単身で浅井・朝倉連合軍に加わったのです。史料にその明確な動機は記されていませんが、これまでの経緯から、いくつかの複合的な要因が推察されます。第一に、旧主筋にあたる六角氏への義理立て。第二に、前述した信長の強権的な支配と一族への冷遇に対する個人的な反発。そして第三に、浅井・朝倉方が勝利し、信長包囲網が成功することに一族の未来を賭けた、戦略的な判断です。
定秀は、自らの居城である鹿伏兎城の守りを叔父の坂定住と弟の定義に託すと、覚悟を決めて浅井氏の本拠・小谷城に入城しました 1 。そして、元亀元年6月28日の姉川での本戦、あるいはその後の小谷城をめぐる攻防戦において、織田方の勇将・佐々成政や、徳川方の重臣・酒井忠次らの部隊と刃を交え、奮戦の末に討死を遂げたと伝えられています 1 。
この定秀の行動は、一族の総意ではなく、彼個人の強い意志に基づくものであったと考えられます。居城の守りを固めた上で、敵の中枢である小谷城に身を投じている点から、これが単なる戦への参加ではなく、自らの政治的立場を明確にするための、後戻りのできない決断であったことが窺えます。この存亡を賭けた大きな「賭け」に敗れたことが、定秀個人の悲劇に留まらず、その後の鹿伏兎一族の苦難に満ちた道のりの始まりとなったのです。
当主・定秀の死は、鹿伏兎氏をさらなる苦境へと追い込みました。家督は定秀の子である盛氏(史料によっては四郎六郎とも 23 )が継承したとみられますが、その前途は多難でした 6 。
天正2年(1574年)、織田信長は長年にわたり抵抗を続けていた伊勢長島の一向一揆に対し、総力を挙げた殲滅戦を開始します 39 。この戦いにおける鹿伏兎氏の動向について、史料には重大な矛盾が存在します。
一つは、定秀の遺志を継ぎ、反織田の旗幟を鮮明にしたとする説です。複数の城郭関連資料には、定秀の子・盛氏が「長島一向一揆に参加し、弟とともに戦死した」と記されています 6 。これは、父の反骨精神を受け継ぎ、信長への抵抗を続けた結果の悲劇と解釈できます。
もう一つは、これとは全く逆の説です。軍記物である『勢州軍記』によれば、鹿伏兎四郎六郎(定秀の子)は、主君である織田信孝に従って長島攻めに従軍し、織田方として討死したとされています 23 。しかし、驚くべきことに、その忠死にもかかわらず、信孝はこれを理由に鹿伏兎家の領地を没収、あるいは大幅に削減するという非情な処分を下したというのです 23 。
この二つの説は正反対の内容ですが、どちらが真実であったとしても、鹿伏兎氏が過酷な運命を辿ったことに変わりはありません。一揆に加担したのであれば一族ぐるみの反逆者として、信孝に従軍したのであれば忠誠を尽くしても報われない存在として、いずれにせよ彼らは断崖絶壁に立たされていました。この矛盾した伝承そのものが、信長政権下における地方豪族の立場の不安定さと、忠誠という概念がいかに流動的で、時の権力者の都合によって左右されるものであったかを雄弁に物語っています。特に『勢州軍記』の記述は、父・定秀の「前科」を持つ鹿伏兎家が、信孝にとって信頼のおけない存在であり、その勢力を削ぐ格好の口実とされた可能性を示唆しており、戦国時代の主従関係の冷徹な現実を浮き彫りにしています。
兄・定秀とその子らが相次いで世を去った後、一族の命運は定秀の弟・鹿伏兎定義(さだよし)の双肩にかかることになりました 6 。彼は、兄とは異なる形で一族の存続を図ろうとします。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が横死すると、堺に滞在していた徳川家康は命からがら本国三河への脱出を開始します。世に言う「神君伊賀越え」です。この時、伊賀の険しい山道を越えて伊勢国へと入った家康一行を、鹿伏兎定義が出迎え、自領である鹿伏兎から亀山まで護送したと伝えられています 6 。『石川忠総留書』などの史料によれば、家康一行が鹿伏兎の地を通過したことは確実視されており、定義がこの歴史的な逃避行に助力したことは、信長亡き後の新たな権力者候補である家康との関係を築こうとした、先見性のある行動だったと評価できます 40 。
しかし、その後の情勢は定義の思惑通りには進みませんでした。信長の後継者の座を巡り、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化。天正11年(1583年)、両者は賤ヶ岳で雌雄を決することになります。この時、定義は究極の選択を迫られました。新興勢力の秀吉に付くか、それとも旧主である織田信孝(柴田勝家方)に与するか。定義が選んだのは後者でした。彼は、信孝の与力である滝川一益の陣営に属し、秀吉と敵対する道を選びます 6 。
この決断が、鹿伏兎氏の運命にとどめを刺しました。賤ヶ岳での本戦に先立ち、秀吉方の織田信雄軍が北伊勢に侵攻。信孝方に与した鹿伏兎城は真っ先に攻撃目標となり、激しい攻防の末に落城しました 6 。城主・定義は京へ逃れたとされますが、これにより国人領主としての鹿伏兎氏は事実上滅亡し、その本拠であった鹿伏兎城も廃城となったのです 6 。
定義の行動は、一族存続のための必死の選択の連続でした。家康への助力は混乱期における「保険」であり、その後の信孝への味方は、信長の息子という「正統性」と旧主への「義理」を重んじた結果でしょう。しかし、時代の流れは秀吉にありました。鹿伏兎氏の滅亡は、定秀の代から続いた、激動の情勢の中で生き残りを賭けた一連の政治的選択が、ことごとく裏目に出た悲劇的な結末であったと言えます。
鹿伏兎氏は、伊勢関氏一門として北伊勢に確固たる地位を築きながらも、織田信長の登場という時代の大きなうねりの中に飲み込まれていきました。定秀の姉川での死、その子らの長島での死、そして定義の賤ヶ岳での敗北と、わずか13年という短い期間に一族は滅亡への坂道を転げ落ちていきました。彼らの歴史は、戦国時代における地方豪族の栄光と悲劇、そして存亡を賭けた選択の連続を凝縮した、一つの典型例と言えるでしょう。
本報告書の中心人物である鹿伏兎定秀は、歴史の表舞台で華々しく活躍した英雄ではありません。しかし、巨大な権力に対し、自らが信じる義理や武士としての矜持に従って抗った一人の武将として、記憶されるべき人物です。彼の行動は、結果として一族をさらなる苦境に陥れましたが、それは同時に、理不尽な力にただ屈するだけではない、戦国武士の意地を示したものであったとも評価できます。
鹿伏兎一族の栄枯盛衰を今に伝える鹿伏兎城跡は、三重県史跡としてその姿を留め 16 、麓の神福寺には一族の墓碑が静かに佇んでいます 20 。これらの史跡は、歴史の波間に消えていった一豪族が確かにこの地に生きた証として、我々に多くを語りかけてくれる貴重な遺産です。
表2:鹿伏兎氏の興亡年表(永禄10年~天正11年)
年代(西暦) |
主要な歴史的事件 |
鹿伏兎氏当主 |
鹿伏兎氏の動向と結果 |
典拠 |
永禄10年(1567) |
織田信長、第一次北伊勢侵攻 |
定長 |
本家・関氏と共に織田軍に抵抗。 |
6 |
永禄11年(1568) |
第二次北伊勢侵攻、信孝の神戸家養子入り |
定長/定秀 |
一族と共に織田氏に服属。 |
3 |
元亀元年(1570) |
姉川の戦い |
定秀(宗心) |
浅井方に加わり、小谷城周辺で討死。 |
1 |
天正2年(1574) |
長島一向一揆(第三次) |
盛氏 |
【説A】一揆に参加し戦死。 【説B】信孝に従軍し戦死。領地は削減。 |
6 |
天正10年(1582) |
本能寺の変、神君伊賀越え |
定義 |
徳川家康の伊賀越えを助力。 |
6 |
天正11年(1583) |
賤ヶ岳の戦い |
定義 |
織田信孝方に与し、羽柴・信雄軍に鹿伏兎城を攻められ落城。一族は滅亡。 |
6 |