麻生家信は筑前国の戦国武将。家督争いに敗れるも岡城を築き吉木麻生氏の祖となる。文化人でもあったが、子孫の代で大内・大友氏の争いに巻き込まれ、吉木麻生氏は滅亡した。
本報告書の主題である麻生家信(あそう いえのぶ)は、15世紀後半の筑前国にその足跡を遺した戦国武将である。史料によっては、その名は「家信」とも「家延」とも表記されるが、両者は同一人物を指すとの見方が有力である 1 。例えば、複数の城郭関連資料や歴史記録において「麻生遠江守家延(家信とも)」といった併記が見られ、官途名である兵部大輔(ひょうぶのたいふ)も共通して言及されている 2 。本報告では、これらの通説に基づき、利用者の照会にもある「麻生家信」を主たる表記とし、必要に応じて「家延」を併記する。その没年は明応5年11月11日(西暦1496年12月16日)と伝えられている 1 。
家信が生きた15世紀後半から16世紀初頭にかけての北九州は、応仁・文明の乱(1467年-1477年)を契機として室町幕府の権威が大きく揺らぎ、地方勢力が自立と抗争を深める激動の時代であった。この地では、周防国を本拠に西国一の大名として君臨する大内氏、古くから筑前に根を張る名族・少弐氏、そして東の豊後国から勢力を急拡大させる大友氏といった大勢力が、互いに覇権をめぐって熾烈な争いを繰り広げていた。
このような情勢下で、筑前国遠賀郡(現在の福岡県遠賀郡、北九州市周辺)を本拠とした麻生氏は、下野国(現在の栃木県)の有力御家人・宇都宮氏の庶流という由緒ある家格を有していた 5 。さらに彼らは、室町幕府の将軍に直属する武士団である「奉公衆」という特殊な地位を保持していた 6 。この地位は、守護大名の支配を受けないという特権を意味する一方で、現実的には在地で圧倒的な軍事力と政治力を持つ大内氏の強い影響下に置かれるという、二重の主従関係ともいえる複雑な立場に麻生氏を立たせていた。この構造的な矛盾こそが、後に家信の人生を大きく揺るがすことになる家督争いの遠因となる。
本報告書の目的は、利用者から提示された「異母弟・弘家との家督争い」という断片的な情報に留まらず、麻生家信という一人の国人領主の生涯を多角的に検証することにある。具体的には、①一族の出自と発展、②家督争いの構造的要因と詳細な経緯、③大大名の思惑が絡んだ抗争の実態、④争いの後の後半生と新たな領地経営、⑤武将としてだけではない文化人としての側面、そして⑥彼が興した分家のその後の運命までを徹底的に掘り下げ、戦国時代という過渡期を生きた国人領主の生存戦略とその悲哀を浮き彫りにすることを目指すものである。
筑前麻生氏の起源は、遠く関東の下野国に本拠を置いた名門武家・宇都宮氏に遡る 5 。鎌倉時代初期、源頼朝による平家討伐後、平家の没官領(没収された所領)となった筑前国遠賀川流域の山鹿荘に、宇都宮氏の一族が地頭代として下向したのがその始まりである 6 。『筑前国続風土記』などによれば、建久5年(1194年)、宇都宮重業が花尾城を築いたとの伝承も残る 9 。
当初、彼らは所領の名から「山鹿氏」を称していた。しかし、その庶流の一派が、山鹿荘内にあった「麻生荘」(現在の北九州市八幡東区から戸畑区周辺と推定される)を本拠としたことから、地名に因んで「麻生氏」を名乗るようになった 5 。14世紀の南北朝時代の動乱の中で、惣領家であった山鹿氏は次第に衰退し、代わって庶子家であった麻生氏が歴史の表舞台に登場し、一族の主流を占めるに至った 5 。
室町時代に入ると、麻生氏は将軍家に直接仕えるエリート武士団である「奉公衆」に列せられた 6 。これは、守護の支配を受けず、幕府の権威を背景に在地での独立性を保つための強力な法的根拠であった。記録によれば、彼らは将軍足利義尚の上洛・近江出陣にも従軍するなど、奉公衆として京都での軍役も果たしている 6 。
しかし、その一方で、地理的に近接し、北九州一帯に強大な影響力を行使する周防の大内氏との関係を無視することは不可能であった。特に、鎌倉以来の九州の有力者である少弐氏と、幕府の九州探題職を背景に勢力を伸ばす大内氏との間の長期にわたる抗争において、麻生氏は幕府・探題方、すなわち大内氏の陣営に与して各地を転戦した 6 。この過程を通じて、麻生氏は次第に大内氏の指揮下に入るようになり、実質的な被官(家臣)としての性格を強めていったのである 7 。
この「幕府奉公衆」と「大内氏被官」という二重の立場は、麻生氏の存立基盤であると同時に、深刻な脆弱性を内包していた。一見すると、幕府の権威と大内氏の実利の両方を得られる有利な立場に見える。しかし、その実態は、二つの異なる権力構造の狭間で常にバランスを取らなければならない、極めて不安定なものであった。応仁の乱などを経て中央の幕府の権威が失墜し、地方の大内氏の力が相対的に増大するにつれて、この二重性は一族内部の路線対立の火種へと変わっていった。すなわち、一族内に、旧来の権威である幕府との繋がりを重視する勢力と、現実的な地域支配者である大内氏との関係を最優先する勢力が生まれ、潜在的な対立構造が形成されたのである。後述する家信と叔父・弘家の家督争いは、単なる親族間の個人的な対立に留まらず、この構造的な脆弱性が、家督相続という一族の根幹を揺るがす問題に際して顕在化したものと解釈することができる。
麻生氏内部に存在した構造的な脆弱性は、15世紀半ば、惣領家の断絶という危機に直面して、ついに表面化する。麻生家信の父の世代に起こった悲劇が、長期にわたる内訌の引き金となった。
図1:麻生氏主要人物関係図(家督争い関連)
世代 |
人物名 |
続柄・備考 |
祖父 |
麻生義助 |
弘家の父 |
父の世代 |
麻生家春 |
惣領。家信の父。永享8年頃、少弐氏との合戦で戦死 2 。 |
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麻生弘家 |
家春の弟(家信の叔父)。後に家督を継承 15 。 |
家信の世代 |
麻生家慶 |
家春の嫡男。家信の兄。父と共に戦死 2 。 |
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麻生家信(家延) |
本報告書の主題。家春の子。兵部大輔 1 。 |
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麻生弘国 |
弘家の子。父と共に家信に追放される 15 。 |
子の世代 |
麻生隆守 |
家信の嫡男。岡城主。大内義隆より偏諱 1 。 |
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麻生鎮里 |
家信の子。花尾城主。大友義鎮より偏諱 1 。 |
内訌の直接的な発端は、永享八年(1436年)頃に起こった。当時、麻生氏の惣領であった 麻生家春 (家信の父)と、その嫡男で家信の兄にあたる 家慶 が、大内氏と少弐氏との合戦において大内方として出陣し、父子ともに戦死するという悲劇に見舞われたのである 2 。さらに、家慶の嫡子であった又光丸も早世したとされ、これにより麻生氏の惣領家は正嫡の血筋が断絶するという未曾有の危機に陥った 15 。
この異常事態を収拾するため、永享十年(1438年)九月、室町幕府将軍・足利義教による裁定が下された。その内容は、戦死した家春の弟、すなわち家信にとっては叔父にあたる 麻生弘家 に家督を継がせるというものであった 2 。この裁定は、表向きは幕府の命令という形をとっていたが、その背後には当時、北九州における影響力を決定的にしつつあった大内氏の強い意向が働いていたことは疑いがない 1 。大内氏としては、自らの指揮下で戦死した家春・家慶父子の後継として、より従順で統制しやすい人物を据えたいという思惑があったと考えられる。
しかし、戦死した前当主・家春の遺児である家信は、この幕府と大内氏主導の裁定を到底受け入れることができなかった 1 。惣領家の正統な血を引く自身を差し置いて、傍流である叔父が家督を継ぐという決定に対し、強い不満と抵抗の意志を抱いたのは自然なことであった。
数十年にわたる雌伏の時を経て、家信はついに実力行使に出る。応仁の乱の最中である文明二年(1470年)六月、家信は一族や被官を味方に引き入れ、挙兵した。この時、大内氏の当主である大内政弘は西軍の主力として京都に在陣しており、その不在を好機と見たのである。家信はさらに、政弘に反旗を翻した政弘の伯父・大内教幸(道頓)とも連携し、叔父・弘家とその子・弘国を本拠地から追放することに成功した 2 。
所領を追われた弘家父子は、京都の大内政弘を頼った。やがて応仁の乱が終息し、文明九年(1477年)に政弘が本国に帰還すると、事態は急変する。政弘は翌文明十年(1478年)、留守中に乱れた領国を再統一すべく豊前・筑前に大軍を率いて出兵し、その矛先を家信に向けた。家信が籠城する麻生氏代々の本拠・ 花尾城 (現在の北九州市八幡西区花尾山)は、問田弘衡らが率いる3万ともいわれる大内軍によって完全に包囲された 2 。
圧倒的な兵力差にもかかわらず、家信の抵抗は凄まじかった。彼は200余名の寡兵を率いて激しく防戦し、西国最強と謳われた大内軍を相手に、実に3年間も花尾城を守り抜いたと伝えられている 1 。この長期にわたる籠城戦は、家信の武将としての並外れた気骨と統率力、そして花尾城が天然の要害に築かれた極めて堅固な山城であったことを雄弁に物語っている 20 。
長期にわたる攻防の末、攻めあぐねた大内政弘は、武力による攻略から調停による解決へと方針を転換した。家信もまた、これ以上の抵抗は不可能と判断し、和睦勧告を受け入れた。
文明十年(1478年)十月、大内氏の調停によって成立した和睦の条件は、以下の通りであった 2 。
この和睦により、約8年間にわたる麻生氏の内訌は一応の終結を見た。家信は惣領の座を失ったが、完全に没落したわけではなく、新たな所領を得て分家を立てることを認められたのである。しかし、この一連の出来事を通じて、麻生氏の内政に大内氏が深く介入した事実は覆い隠しようがなかった。家督争いの裁定者として振る舞った大内氏に対し、惣領家となった弘家はもちろん、分家を立てた家信もまた、その権威に逆らうことはできなくなった。この花尾城合戦を境に、麻生氏は名実ともに大内氏の被官としての道を歩むことが決定づけられたのである 6 。
家督争いに敗れ、本拠地・花尾城を去った麻生家信であったが、その後の人生は決して不遇なものではなかった。彼は和睦によって得た新天地で新たな領主としての道を歩み始め、武将としてだけでなく、文化人としての一面も開花させることになる。
和睦条件に基づき、家信は遠賀川西岸の吉木の地へ移った。そして、文明年間(1469年~1487年)の終わり頃、この地に新たな居城として 岡城 (おかじょう、別名:腰山城、城の越城)を築いた 23 。これにより、家信は麻生氏本家から分かれた「
吉木麻生氏 」の祖となったのである。
岡城が築かれたのは、現在の福岡県遠賀郡岡垣町吉木に位置する、標高約40メートルの独立した丘陵の上であった 18 。城の構造は、山頂に本丸を置き、北側の尾根筋に二の丸、三の丸を階段状に配置し、南側には複数の堀切を設けて防御を固める典型的な中世の山城であった 24 。石垣は多用されなかったようだが、曲輪や土塁、堀切といった遺構が現在も良好な状態で残されている 18 。
家信が支配した所領は「岡千町」とも伝承され、遠賀川以西の28ヶ村に及んだといい、吉木麻生氏は遠賀郡西部に一定の勢力を持つ新たな国人領主として再出発を果たした 4 。
家信は、武勇に優れただけの武辺者ではなかった。彼が当代一流の文化人たちと交流を持っていたことを示す興味深い記録が残されている。
文明十二年(1480年)、室町時代を代表する連歌師・ 宗祇 が九州を旅した際、その帰路に芦屋津(現在の福岡県遠賀郡芦屋町)に立ち寄った。その時の紀行文『筑紫道記』には、宗祇が「麻生兵部大輔」なる人物から手厚い歓待を受けたことが記されている。この「兵部大輔」という官途名は家信(家延)のものと一致しており、この人物こそ家信本人であると比定されている 2 。また、同じく著名な連歌師であった猪苗代兼載の連歌集『園塵』にも「麻生兵部大輔」が芦屋で句を詠んだとの記述があり、家信が連歌という高度な文化活動に親しんでいたことがうかがえる 2 。
戦国時代の武将にとって、連歌のような文化活動は単なる個人的な趣味や教養に留まるものではなかった。それは、自らの権威を高め、人脈を形成し、情報を収集するための極めて重要な社会的・政治的行為であった。宗祇のような全国的に名声の高い文化人は、諸国の大名や有力国人の間を旅して回るため、彼ら自身が各地の最新情報や人的ネットワークを持つ、非常に価値の高い存在だったのである。
家督争いに敗れ、惣領の座を失った家信にとって、こうした文化的な活動は特に重要な意味を持っていたと考えられる。一流の文化人を歓待し、連歌会を催すことは、彼が中央の洗練された文化に通じた格の高い領主であることを周囲に示威する絶好の機会であった。それは、失われた政治的影響力を補い、新たな領地である吉木での統治を円滑に進めるための、武力によらない「ソフトパワー」として機能した可能性がある。この事実は、家信が単に武力に頼るだけでなく、文化の力をも巧みに利用して自らの地位を確立しようとした、知略に長けた人物であったことを示唆している。
麻生家信が築いた吉木麻生氏は、彼の子の代で北九州の勢力図の激変に直面し、悲劇的な結末を迎えることとなる。一族の分裂と滅亡の過程は、戦国時代における中小国人の宿命を象徴している。
表2:麻生家信および吉木麻生氏関連年表
西暦(和暦) |
出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1436年頃(永享8年頃) |
麻生家春・家慶父子が少弐氏との合戦で戦死。 |
麻生家春、家慶 |
2 |
1438年(永享10年) |
幕府の裁定により、麻生弘家が家督を継承。 |
麻生弘家 |
15 |
1470年(文明2年) |
麻生家信が挙兵し、弘家父子を追放。内訌が本格化。 |
麻生家信、弘家 |
2 |
1478年(文明10年) |
大内政弘が花尾城を包囲(花尾城合戦)。和睦が成立し、家信は岡城へ移る。 |
麻生家信、大内政弘 |
2 |
1480年(文明12年) |
連歌師・宗祇が芦屋で家信の歓待を受ける。 |
麻生家信、宗祇 |
2 |
1496年(明応5年) |
11月11日、麻生家信が死去。 |
麻生家信 |
1 |
1546年(天文15年) |
大友宗麟の命を受けた瓜生貞延が岡城を攻撃。城は落城し、麻生隆守は自害。吉木麻生氏が滅亡。 |
麻生隆守、瓜生貞延 |
24 |
1586年(天正14年) |
豊臣秀吉の九州平定の際、宗像氏の攻撃により岡城は廃城となる。 |
|
26 |
家信には、 隆守 (たかもり)と 鎮里 (しげさと)という二人の子がいたことが確認されている 1 。この兄弟の名前にこそ、吉木麻生氏が置かれた複雑で困難な立場、そして一族を待ち受ける悲劇的な運命が刻まれている。
嫡男の隆守は、父・家信の跡を継いで岡城主となった。彼の「隆」の一字は、当時の大内氏当主であった 大内義隆 から与えられたもの(偏諱)である 1 。これは、家信亡き後も吉木麻生氏が大内氏の勢力圏下にあり、その従属関係を継続していたことを明確に示している。
一方で、弟の鎮里は、豊後の戦国大名・ 大友義鎮 (よししげ、後の宗麟)から「鎮」の一字を賜っている 1 。彼は後に麻生氏本家の居城であった花尾城の城主となっているが、その立場は大友氏に従属するものであった 30 。
戦国時代において、主君から名前の一字を賜う「偏諱」は、単なる名付け以上の、極めて重い政治的な意味を持つ行為であった。それは主君に対する絶対的な忠誠の証であり、両者の強固な主従関係を内外に示すものであった 31 。隆守と鎮里の兄弟が、それぞれ対立する二大勢力である大内氏と大友氏から偏諱を受けていたという事実は、当時の北九州の政治情勢の激変と、それに翻弄される麻生一族の分裂を象徴している。
このねじれ構造が生まれた背景には、天文二十年(1551年)に大内義隆が家臣の陶晴賢に討たれた「大寧寺の変」がある。この事件を境に、北九州の覇権は大内氏から大友氏へと大きく傾いた。このパワーバランスの激変の中で、麻生一族は、ある者は旧主である大内氏(およびその後継勢力である毛利氏)への忠誠を貫き、またある者は新たな覇者である大友氏に乗り換えるという、苦渋の選択を迫られた。その結果、隆守と鎮里の兄弟は、名実ともに敵対する陣営の代表者となり、かつて家信と弘家が争った一族内の対立が、今度は大内・大友という巨大勢力の代理戦争という、より大規模で悲惨な形で再燃することになったのである。
天文十五年(1546年)、北九州への勢力拡大を推し進める大友宗麟は、ついに岡城の攻略に乗り出した。宗麟は家臣の 瓜生貞延 (うりう さだのぶ)に軍勢を預け、岡城へ差し向けた 24 。
この時、城主であったのは家信の嫡男・ 麻生隆守 であった。隆守にとって不運だったのは、この攻撃に、すで大友方についていた麻生氏本家(帆柱山城)も加わっていたとされることである 29 。同族が敵味方に分かれ、血で血を洗う凄惨な戦いが岡城を舞台に繰り広げられた。岡城の近くを流れる川が、この時の戦いで流れた血によって赤く染まったことから「血垂川」と呼ばれるようになったという逸話も残っている 34 。
隆守は奮戦したものの、衆寡敵せず、ついに岡城は落城した。隆守は城を枕に討死したとも、あるいは城を脱出して内海(現在の遠賀郡芦屋町)の海蔵寺にて自刃したとも伝えられている 4 。いずれにせよ、彼の死によって、麻生家信が一代で築き上げた吉木麻生氏の系統は、わずか三代、約70年で完全に滅亡した。
その後、岡城は勝利した瓜生貞延が城主となり、大友氏の属城となった 28 。しかしその岡城も、天正十四年(1586年)、豊臣秀吉による九州平定の過程で、地元の宗像氏の攻撃を受けて落城、そのまま廃城となり、その歴史的役割を終えた 26 。
麻生家信の生涯を総括すると、彼は戦国時代という激動の時代に翻弄されながらも、したたかに、そして気骨を持って生き抜いた一人の国人領主の姿が浮かび上がってくる。
第一に、 抵抗の武将として の評価である。家信は、自らが惣領家の正統な後継者であるとの信念に基づき、西国随一の大勢力であった大内氏を相手に数年間も徹底抗戦を続けた。これは単なる個人的な野心や私憤からくる行動ではなく、幕府奉公衆としての矜持と、国人領主としての自立性を守ろうとする強い意志の表れであったと評価できる。
第二に、 分家の祖として の評価である。家督争いに敗れた後、彼は決して歴史の闇に消えたわけではなかった。大内氏との和睦という現実的な選択を通じて新たな所領を確保し、そこに岡城を築いて分家「吉木麻生氏」の祖となった。これは、敗者が必ずしも滅亡するわけではない、戦国時代の柔軟かつ複雑な政治力学を示す好例である。
第三に、 文化人として の評価である。当代随一の連歌師・宗祇らとの交流は、彼が武力一辺倒の粗野な武将ではなく、中央の文化にも通じた教養と、それを政治的に活用するセンスを兼ね備えた人物であったことを物語っている。
麻生家信の生涯は、幕府の権威が失墜し、守護大名が戦国大名へと変貌していく過渡期において、その狭間に置かれた国人領主がいかにして自立を保ち、生き残りを図ったかを示す、極めて貴重なケーススタディである。彼の抵抗、和睦、そして分家の創設という一連の行動は、戦国の世を生き抜くための現実的で粘り強い戦略であった。その子孫の代で、より大きな大名間の争いに巻き込まれ、同族相食む形で滅亡に至るという結末は、中小国人領主が持つ構造的な限界と、時代の奔流には抗いがたい悲哀を色濃く映し出している。彼の人生を丹念に追うことは、戦国史を著名な大名中心の視点からだけでなく、よりミクロで多様な在地領主の視点から深く理解するために、不可欠な作業といえよう。