最終更新日 2025-06-19

黒岩種直

「黒岩種直」の画像

戦国武将・黒岩種直の生涯 ―忠義と存続の狭間で生きた一族の記録―

序章:土佐の風雲と黒岩一族

1-1. 群雄割拠の地、土佐

16世紀半ばの土佐国(現在の高知県)は、中央の権威が及ばぬ群雄割拠の時代であった。国内は「土佐七雄」と称される国人領主たちによって分割統治され、中でも東部の安芸郡を本拠とする安芸氏と、公家大名として西部の幡多郡に君臨する一条氏が二大勢力として対峙していた 1 。この七雄に加え、彼らに与する中小の豪族が複雑に絡み合い、土佐の地は絶え間ない緊張と抗争の舞台となっていたのである。

1-2. 長宗我部氏の台頭

この混沌の中から、やがて土佐を統一する勢力が現れる。長宗我部氏である。かつては本山氏らによって本拠の岡豊城を追われ、一時滅亡の憂き目に遭うも、土佐一条氏の庇護を受けて再興を果たした 2 。その当主となった長宗我部元親は、幼少期にはその物静かな性格から「姫若子(ひめわこ)」と揶揄されたが、永禄3年(1560年)の初陣を機にその武才を開花させ、「鬼若子(おにわこ)」と畏怖される存在へと変貌を遂げる 3 。元親は「一領具足」と呼ばれる半農半兵の戦闘集団を巧みに動員し、破竹の勢いで土佐統一へと乗り出していった。

1-3. 歴史の舞台へ

本報告書が光を当てる黒岩一族は、この激動の時代、土佐東部の雄・安芸国虎に仕える重臣として歴史の表舞台に登場する 6 。彼らの物語は、単に一武家の興亡に留まらない。それは、滅びゆく旧勢力への「忠義」と、新たな覇者の下での「家の存続」という、戦国乱世における武士の二つの相克する価値観を体現するものであった。本稿では、黒岩種直とその一族の視点から、土佐の戦国史を深く読み解いていく。

【表1:黒岩一族と関連人物】

本報告で言及する主要な登場人物の関係性を以下に整理する。

人物名

立場・役割

主要な行動・逸話

主な情報源

安芸 国虎

土佐七雄の一人。安芸城主。

長宗我部元親に敗れ自刃。

『土佐物語』、浄貞寺記録 8

黒岩 越前守

安芸国虎の筆頭家老。種直の父。

主家滅亡後、元親の誘いを断り殉死。

『土佐物語』、浄貞寺記録 8

黒岩 種直

本報告書の主人公。越前の子。

父の仇である元親に仕え、中富川合戦で戦死。

『土佐物語』、各種系図 6

長宗我部 元親

土佐の戦国大名。「土佐の出来人」。

土佐を統一。種直の主君となる。

『元親記』、『土佐物語』、各種一次史料 5

黒岩 玄蕃

種直の子。

中富川合戦で父の仇を討ち、首を奪還。

『土佐物語』 6

黒岩 治部左衛門

種直の子。

「矢違えの法」を体得したとされる武人。

『土佐物語』 6

第一部:忠臣・黒岩越前の生涯と安芸氏の滅亡

2-1. 安芸家の重鎮、黒岩越前

黒岩越前守は、安芸国虎の家臣団において「御一門筆頭」「筆頭家老格」と称されるほどの重鎮であった 6 。彼は有沢石見守と並び、安芸家中を支える二本の柱と見なされていた 12 。その剛勇は広く知られていたが、単なる武辺者ではなかった。長宗我部元親の勢力が拡大し、安芸氏との力関係が逆転していく様を冷静に分析し、主君・国虎に対しては無謀な抗戦を諫め、和議を結ぶよう進言したとされる 1 。この逸話は、彼が血気にはやるだけでなく、自家の置かれた状況を客観的に把握できる現実的な政治感覚を併せ持っていたことを示唆している。

2-2. 安芸城の落日

しかし、国虎は名門としての誇りから元親の軍門に降ることを良しとせず、両者の対立は決定的となる 8 。永禄12年(1569年)、元親はついに大軍を率いて安芸城に攻め寄せた。安芸方は籠城して奮戦するも、譜代の家臣であった横山紀伊守らが元親に内応し、城内に手引きしたことで戦況は一変する 2 。井戸に毒を投げ込まれるなど内部から崩壊し、もはやこれまでと覚悟を決めた国虎は、妻子を実家の一条家へ逃がした後、菩提寺である浄貞寺にて自刃。これにより、土佐東部に勢力を誇った安芸氏は滅亡した 8

2-3. 殉死という名の忠義

主家の滅亡という悲劇の中で、黒岩越前の忠義は一層際立つことになる。彼は主君の自刃後、その夫人を土佐西部の幡多郡中村(現在の四万十市)にある実家の一条家まで無事に送り届けるという大任を果たした 1 。この功績と彼の武名を高く評価した一条家、そして土佐統一を目前にした長宗我部元親からも、仕官の誘いがあったと伝えられる 8

しかし、越前はこれらすべての誘いを固辞した。元親に対しては「主君の七日の法要を済ませてから参ります」と丁重に返答したのみで、その言葉通り法要を終えると、再び安芸の浄貞寺へと戻り、主君・国虎の墓前で静かに自刃して果てた 9 。永禄12年8月17日のことであった。

この越前の行動は、単なる死ではない。それは、滅びゆく主君と運命を共にすることこそが家臣としての本分であるとする、旧来の武士の価値観、すなわち「滅びの美学」を極限まで体現したものであった。彼の選択は、新たな秩序に適応して家名を存続させることよりも、主従関係における「義」と「名誉」を貫くことを優先した、武士としての自己完結的な死であったと言える。この壮絶な最期は、特に武士の理想像が儒教的倫理観と共に語られるようになった江戸時代において、忠臣の鑑として『土佐物語』などで語り継がれる格好の題材となったのである。現在も安芸市の浄貞寺には、国虎の墓を守るように、有沢石見と黒岩越前の墓が寄り添って建てられている 8

第二部:仇敵への臣従 ― 黒岩種直の決断

3-1. 遺された者の選択

父・越前が主君への忠義を殉死という形で全うした一方で、その息子である黒岩種直は全く異なる道を選ぶことになる。主家は滅亡し、父は仇敵の前で壮絶な死を遂げた。この絶望的な状況下で、種直にはいくつかの選択肢があった。父と同じく元親への仕官を拒み浪人となるか、あるいは他国へ脱出して再起を図るか。しかし、彼が選んだのは、父の仇であり、旧主家を滅ぼした張本人である長宗我部元親に仕えるという、最も過酷とも思える道であった 6

3-2. なぜ元親に仕えたのか―存続のための現実主義

種直のこの決断は、一見すると父の生き様を裏切る不忠のようにも映る。しかし、戦国乱世の価値観に照らし合わせると、その背景にはより深く、現実的な論理が浮かび上がる。

第一に、武士にとって「家の存続」は、主君への忠義と並ぶ、あるいは時にそれを上回るほどの至上命題であった 16 。父・越前が個人の「義」を貫いて死を選んだのに対し、息子・種直は一族の血脈を未来へ繋ぐという、家長としての責務を優先したと考えられる。父が果たせなかった「家の存続」という役目を、息子が現実的な手段で果たそうとしたのである。これは、旧来の主従関係に殉じる「滅びの美学」に対し、新たな秩序に適応することで「家」を守るという「存続の現実主義(リアリズム)」の選択であった。

第二に、この決断は種直側からの一方的なものではなく、長宗我部元親側の積極的な戦略の結果でもあった。元親は「土佐の出来人」と称されるように、単なる武力制圧に頼る征服者ではなかった。彼は婚姻や養子縁組を巧みに利用すると同時に、滅ぼした敵の旧臣を弾圧するのではなく、自らの支配体制に組み込むことで領国の安定化を図るという、卓越した領国経営術を持っていた 11 。安芸氏滅亡後、元親はその旧臣たちの多くに土地を与えて「郷士」とし、自らの家臣団に組み入れた 14 。これは、旧領の安定化と、特に「一領具足」として知られる土佐の屈強な兵士たちを自軍の戦力として確保するという、極めて合理的な懐柔策であった。

黒岩家もこの対象となり、比較的早い段階で「百人衆」と呼ばれる郷士に取り立てられたとされる 14 。これは元親が、殉死した越前の忠義や、黒岩一族が安芸家中で占めていた高い家格と武勇を評価し、味方につける価値を認めていたことの証左であろう。したがって、種直の仕官は、彼の現実的な判断と、元親の計算された統治戦略とが合致した結果と見るのが妥当である。

3-3. 長宗我部家臣団の一員として

通称を「掃部(かもん)」と名乗った種直は 6 、こうして父の仇の家臣となった。彼が長宗我部家中で具体的にどのような役職に就き、いかなる働きをしたかを直接示す史料は乏しい。しかし、旧安芸家の筆頭家老の嫡男という出自を考えれば、他の元国人領主やその重臣たちと同様に、一定の敬意をもって遇されたと推測される。元親は、旧敵であっても能力や家柄を認めれば重用する度量を持っており、種直もまた、長宗我部氏の四国統一戦において、その一翼を担う武将として期待されていたことは想像に難くない。

第三部:阿波に散る ― 中富川の戦いと種直の最期

4-1. 四国統一の天王山、中富川合戦

黒岩種直の武士としての生涯は、長宗我部元親の四国統一事業における最大の決戦、中富川の戦いでクライマックスを迎える。天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が斃れると、これまで信長の圧力に晒されていた元親にとって、四国全土を掌握する絶好の好機が訪れた。元親は阿波国(現在の徳島県)への大動員を号令し、同年8月、阿波の覇権をめぐって三好氏の残存勢力である十河存保との決戦に臨んだ 21

この戦いにおいて、元親は家老衆の慎重な長期戦案を退け、一領具足たちが主張した短期決戦案を採用したという逸話が残っている 21 。長宗我部軍は総勢2万3千、対する十河軍は5千と、兵力では元親が圧倒的に優位にあった。長宗我部軍は勝瑞城を目指して進軍し、中富川を挟んで両軍は対峙した。

4-2. 黒岩種直、壮絶なる戦死

合戦の火蓋が切られたのは、天正10年8月28日。黒岩種直も長宗我部軍の一員としてこの決戦に参加していた。江戸中期の軍記物語『土佐物語』巻第十三「中富川合戦の事」は、彼の最期を劇的に描いている。

それによれば、種直は奮戦して敵一人を槍で突き、その首を討ち取る武功を挙げた。しかし、その直後、自らの主君を討たれたことに逆上した敵の郎党が背後から忍び寄り、種直の両膝を斬り落とした。うつ伏せに倒れたところを、種直は首をかき切られ、壮絶な戦死を遂げたとされる 6

この種直の死に様は、父・越前の殉死とは異なる形で、武士の理想的な最期として「物語化」されている側面が強い。敵を討ち取りながらも力尽きるという展開は、軍記物語における英雄の死の典型的なパターンであり、史実としての戦闘経過とは別に、彼の長宗我部家への忠勤を証明し、一族の名誉を高めるための物語的装置として機能したと考えられる。仇である元親に仕え、その元親のために命を散らすという皮肉な運命は、彼の生涯をより一層ドラマティックなものとして後世に伝えたのである。

第四部:受け継がれる魂 ― 種直の子らと黒岩一族のその後

黒岩種直の死は、一族の物語の終わりではなかった。彼の魂と武勇は、息子たちへと確かに受け継がれ、その逸話もまた『土佐物語』によって語り継がれていく。

5-1. 父の首を取り戻せ―黒岩玄蕃の武勇伝

『土佐物語』は、種直の死の直後の出来事として、その子・黒岩玄蕃の武勇伝を記している。父・種直の首が敵の郎党によって持ち去られようとするのを、長宗我部方の武士・中内木工右衛門が目撃し、玄蕃に急を知らせた。父の仇討ちに燃える玄蕃はすぐさま駆けつけ、敵の郎党に斬りかかった。郎党は慌てて種直の首と自らの主君の首を投げ捨てて応戦するも、玄蕃の勢いは凄まじく、左肩から右乳までを深く斬りつけられ、討ち取られた。玄蕃は、父・種直の首と敵二人の首、合わせて三つの首を手に、自陣へと帰還したという 6 。この逸話は、武士道における「孝」と「武」を体現した物語として、一族の名誉をさらに高める役割を果たした。

5-2. 矢をも弾く武人―黒岩治部左衛門の伝説

種直には、玄蕃の他にもう一人、治部左衛門という息子がいた。彼に関する逸話は、中富川の戦いより前の天正3年(1575年)の海部合戦を舞台として『土佐物語』巻第十に記されている。それによれば、治部左衛門は「矢違えの法」なる不可思議な術を体得しており、敵が放つ弓矢も鉄砲も彼には当たらなかったという。周囲の者は当初、彼の言葉を戯言と聞き流していたが、この合戦で彼が矢弾をものともせず槍働きで活躍する姿を目の当たりにし、その術が真実であることを信じるようになったと伝えられる 6 。この伝説的な記述は、黒岩一族が単なる武勇だけでなく、どこか神秘的な力をも備えた一族として認識されていたことを示唆している。

5-3. 郷士としての存続と明治の末裔

黒岩一族の歴史は、戦国時代の終焉と共に途絶えることはなかった。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで長宗我部氏が改易され、山内一豊が新たな土佐国主として入国すると、土佐の社会構造は大きく変化する。山内氏は、旧長宗我部家臣団の抵抗を抑え、新たな支配体制を確立するため、彼らの一部を「郷士」として取り立て、在地での一定の特権を認める懐柔策を用いた 20

黒岩一族もこの郷士として存続し、江戸時代を通じて土佐の安芸郡に根を下ろし続けた 14 。このことは、種直が父の仇に仕えるという苦渋の決断を下したことが、結果的に一族を近世へと繋ぐ礎となったことを意味する。

そして、この血脈は近代日本において、再び歴史の表舞台に姿を現す。明治時代にジャーナリスト、翻案小説家として一世を風靡した黒岩涙香(本名・周六)は、この土佐郷士・黒岩家の末裔である 10 。涙香の養父・直方は勤王の志士であり、涙香自身も先祖である「黒岩越前」の生き様を強く意識していた可能性が指摘されている 14 。戦国武士の家系が、江戸時代の郷士という身分を経て、近代日本の知識人へと繋がっていくこの軌跡は、土佐という一地域の権力構造の変遷と社会階層のダイナミズムを、一つの家系を通して体現する貴重なミクロヒストリーと言えよう。

結論:『土佐物語』と史実の狭間で―黒岩一族が語るもの

本報告は、戦国武将・黒岩種直という一人の人物を軸に、その父・越前から子孫に至るまでの一族の軌跡を多角的に検証した。その過程で明らかになったのは、彼らの物語が、史実の断片と後世の「物語」とが複雑に織りなすタペストリーであるという事実である。

父・黒岩越前の壮絶な殉死は、滅びゆく主家と運命を共にする旧来の「滅びの忠義」を象徴していた。対照的に、息子・種直が父の仇である長宗我部元親に仕えた決断は、新たな時代の秩序に適応し、一族の血脈を未来へ繋ぐための「存続の忠義」であった。この選択は、個人の資質の違いに留まらず、国人領主が解体され、より強力な戦国大名へと権力が集約されていく時代の大きな転換点を反映している。また、この仕官は元親の側から見れば、旧敵対勢力を巧みに支配体制に組み込む、卓越した領国経営術の成功例でもあった。

種直の最期やその息子たちの武勇伝は、その多くが江戸時代中期の軍記物語『土佐物語』に依拠している。これらの英雄譚は、史実を伝える貴重な情報源であると同時に、当時の武士階級に求められた理想像(忠義、武勇、孝心)を投影し、教訓として語り継ぐための文学的脚色が施された「物語られた歴史」としての側面を持つ。史実としての黒岩一族と、物語としての黒岩一族を区別して捉える視点は、歴史をより深く理解する上で不可欠である。

そして、種直の決断によって存続した黒岩家は、山内藩政下で郷士として生き抜き、近代にはジャーナリスト・黒岩涙香を輩出した。この一族の長い軌跡は、戦国、近世、近代という時代の大きなうねりを、土佐という地域社会がいかに経験してきたかを物語る生きた証言となっている。

結論として、黒岩種直の生涯を徹底的に追うことは、単に一武将の伝記をなぞる作業に終わらない。それは、史料の断片と向き合い、その背後にある人々の動機、時代の価値観、そして物語が生まれる力学を読み解く営みである。黒岩一族の物語は、歴史とは確定した事実の集積であると同時に、後世の我々が史料と対話し、そこに意味を見出していく不断の探求の過程そのものであることを、力強く示している。

引用文献

  1. 安芸国虎 / 黒岩越前守 / 有沢岩見守 の墓(高知県) | いるかも 山城 - 平山城 https://jh.irukamo.com/akikunitora_kuroiwaechizennnokami_arisawaiwaminokami/
  2. 長宗我部元親と土佐の戦国時代・土佐の七雄 - 高知県 https://www.pref.kochi.lg.jp/doc/kanko-chosogabe-shichiyu/
  3. 【長宗我部元親・前編】土佐平定を経て、四国統一に迫った前半生ー逸話とゆかりの城で知る!戦国武将 https://shirobito.jp/article/1562
  4. 長宗我部元親の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/8098/
  5. 名君から愚将へと転落した四国の雄・長宗我部元親 - note https://note.com/zuiisyou/n/n0c3425d7ce4f
  6. 黒岩種直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E7%A8%AE%E7%9B%B4
  7. 高知県のご先祖調べ https://www.kakeisi.com/survey/survey_kochi.html
  8. 合戦ウォーク、元親、国虎、穴内城趾〔3560〕2013 ... - ひまわり乳業 https://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=3560
  9. 黒岩越前(くろいわ えちぜん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E8%B6%8A%E5%89%8D-1072706
  10. 土佐の片岡一族 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/kataoka1.htm
  11. 長宗我部元親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%AE%97%E6%88%91%E9%83%A8%E5%85%83%E8%A6%AA
  12. 有沢重親 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%B2%A2%E9%87%8D%E8%A6%AA
  13. 安芸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E8%8A%B8%E6%B0%8F
  14. 「黒岩大」とは誰なのか : 「涙香伝」のた めに - 法政大学 学術機関 ... https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00021177/60-4oku.pdf
  15. 観光スポット検索 | 高知県観光情報Webサイト「こうち旅ネット」 https://kochi-tabi.jp/search_spot.html
  16. 【ビジネスの極意】麒麟はこない!? なぜ織田信長に憧れる社長は一流になれないのか? https://serai.jp/business/1016785
  17. 於万の方(長勝院) 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46512/
  18. 長宗我部の儚い夢~長宗我部三代記 – Guidoor Media https://www.guidoor.jp/media/dream-of-chosokabe/
  19. 四国の覇者 長宗我部元親 - OKB総研 https://www.okb-kri.jp/wp-content/uploads/2019/03/165-rekishi.pdf
  20. 土佐藩における野中兼山の藩政改革 - 山口県大学共同リポジトリ https://ypir.lib.yamaguchi-u.ac.jp/sc/1675/files/140644
  21. 中富川の戦いとは - わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%B8%AD%E5%AF%8C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  22. 中富川の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AF%8C%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  23. ︸さ羅鐘講論鰭鞭面輔馨凝群議蘇擢α纏議鞭難響嚢蟹 - Kyoto University Research Information Repository https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249651/1/shirin_045_4_512.pdf
  24. 鬼を書いた男 ~マムシの周六 - note https://note.com/hisutojio/n/n2fac4bd05a2b
  25. 黒岩涙香 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E5%B2%A9%E6%B6%99%E9%A6%99