龍造寺周家は「肥前の熊」隆信の実父。馬場頼周の謀略で祇園原にて殺害された。この悲劇は隆信の復讐心を育み、後の龍造寺氏の九州統一への道を拓く原点となった。
龍造寺周家(りゅうぞうじ ちかいえ、または、かねいえ)は、戦国時代の肥前国(現在の佐賀県・長崎県の一部)に生きた武将である。彼の名は、後に「肥前の熊」と恐れられ、九州三強の一角にまで勢力を拡大した龍造寺隆信の実父として、歴史に刻まれている 1 。しかし、周家自身の生涯は、息子の輝かしい栄光とは対照的に、権力闘争の渦中で散った悲劇的なものであった。彼の生涯を理解するためには、まず彼が置かれた複雑な血縁関係と、当時の肥前国を覆っていた激動の時代背景を把握することが不可欠である。
龍造寺周家は、永正元年(1504年)、龍造寺氏の庶流である水ヶ江龍造寺(みずがえりゅうぞうじ)家の龍造寺家純(いえすみ)の長男として、水ヶ江城で生を受けた 1 。通称は六郎次郎と伝わる 1 。
周家が生まれた水ヶ江城は、彼の曽祖父にあたる龍造寺康家が文明年間(1469年~1487年)に隠居用の館として築いたのが始まりである 4 。その後、祖父である龍造寺家兼(いえかね)の代に、大内氏や大友氏といった周辺勢力の脅威に対抗するため、濠を巡らせた城塞へと改修された 4 。この城は現在の佐賀市中の館町に位置し、後に息子・隆信が生まれた地としても知られている 4 。
周家の家系における立場は、やや複雑であった。実父の家純は病身を理由に家督を固辞したため、水ヶ江龍造寺家の家督は家純の弟、すなわち周家の叔父にあたる龍造寺家門(いえかど)が継承した 3 。そして周家は、その叔父・家門の養子となり、水ヶ江龍造寺家の次期当主という立場にあったと考えられている 1 。この養子縁組は、病弱な父に代わり、一族の将来を担う者としての期待が周家に寄せられていたことを示唆している。
龍造寺氏は、その出自を藤原氏と称し、鎌倉時代から肥前に根を張る在地領主であった 13 。周家が生きた戦国期、龍造寺氏は、かつて九州北部に覇を唱えた名門・少弐(しょうに)氏の被官、すなわち家臣という立場にあった 13 。しかし、主家である少弐氏は、西国の雄・大内氏の絶え間ない圧迫によって衰退の一途を辿っていた 15 。龍造寺氏は、この衰えゆく主家と強大な外部勢力との間で、巧みな舵取りを迫られる有力な国人領主だったのである。
特に周家の祖父・家兼は、その卓越した武略と政治力で龍造寺氏の勢力を飛躍的に増大させ、「龍造寺氏中興の祖」と称されるほどの人物であった 3 。彼の活躍は、主家である少弐氏を支える一方で、その功績が大きすぎるがゆえに、少弐家中の他の重臣たちとの間に深刻な軋轢を生む原因ともなっていた。
龍造寺周家を取り巻く人物は、肥前の歴史を大きく動かすことになる者たちばかりであった。彼らの関係性を理解することは、周家の悲劇の核心に迫る上で不可欠である。
周家が置かれた立場は、単なる一武将という言葉では言い表せない。彼は、「衰退する主家(少弐氏)」と「台頭する被官(龍造寺氏)」という主従間の緊張、そして龍造寺氏内部における「本家(村中)」と「実力を持つ分家(水ヶ江)」という二重の権力構造の歪みが集中する、極めて不安定な結節点に立たされていた。水ヶ江龍造寺家は、祖父・家兼の武功により、本家である村中龍造寺家を凌ぐ実権を握りつつあり 5 、その勢力伸長が主家である少弐氏の他の重臣から強い警戒と嫉妬を招いていた 16 。周家は、水ヶ江龍造寺家の次期当主として、一族の栄光と、それに伴う内外の軋轢を一身に背負う運命にあったのである。彼の悲劇は、個人の不運としてのみならず、この構造的矛盾が臨界点に達し、破綻した結果として捉える必要がある。
カテゴリ |
人物名(よみ) |
生没年 |
周家との関係 |
事件における役割・略歴 |
水ヶ江龍造寺家 |
龍造寺 周家 (りゅうぞうじ ちかいえ) |
1504-1545 |
本人 |
龍造寺隆信の実父。馬場頼周らの謀略により、祇園原にて殺害される。 |
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龍造寺 家兼(いえかね) |
1454-1546 |
祖父 |
龍造寺氏中興の祖。粛清事件後、筑後に亡命し、復讐を果たして隆信に家督を託す。 |
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龍造寺 家純(いえずみ) |
?-1545 |
父 |
家兼の長男。病身。粛清事件で、川上与止日女神社にて殺害される。 |
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龍造寺 家門(いえかど) |
?-1545 |
叔父・養父 |
家純の弟で水ヶ江家当主。周家を養子とする。粛清事件で殺害される。 |
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慶誾尼(けいぎんに) |
1509-1600 |
妻 |
隆信の母。周家死後、鍋島清房の継室となる。 |
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龍造寺 隆信(たかのぶ) |
1529-1584 |
嫡男 |
周家の死後、家督を継ぎ戦国大名となる。「肥前の熊」。 |
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龍造寺 頼純(よりずみ) |
?-1545 |
弟 |
周家と共に祇園原にて殺害される。 |
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龍造寺 純家(すみいえ) |
?-1545 |
弟 |
父・家純と共に川上与止日女神社にて殺害される。 |
村中龍造寺家 |
龍造寺 胤和(たねかず) |
?-1520 |
岳父 |
龍造寺本家16代当主。慶誾尼の父。周家の事件以前に早世。 |
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龍造寺 胤栄(たねみつ) |
?-1548 |
義理の従兄弟 |
隆信が家督を継ぐ直前の龍造寺本家当主。彼の死により隆信が本家を継承。 |
少弐氏・馬場氏 |
少弐 冬尚(しょうに ふゆひさ) |
?-1559 |
主君 |
少弐氏17代当主。龍造寺氏粛清を黙認。後に隆信に滅ぼされる。 |
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馬場 頼周(ばば よりちか) |
?-1546 |
主家の重臣 |
龍造寺氏粛清の首謀者。龍造寺氏の台頭を憎み、謀略を巡らす。後に家兼に討たれる。 |
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神代 勝利(くましろ かつとし) |
1511-1565 |
主家の重臣 |
馬場頼周に与し、龍造寺一門の殺害に直接関与。後に隆信と激しく争う。 |
その他肥前国衆 |
有馬 晴純(ありま はるずみ) |
1500-1566 |
肥前の国人 |
龍造寺氏粛清において、馬場頼周に与したとされる。 |
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後藤 純明(ごとう すみあき) |
?-1557 |
肥前の国人 |
龍造寺氏粛清において、馬場頼周に与したとされる。 |
支援者 |
蒲池 鑑盛(かまち あきもり) |
1520-1578 |
筑後の大名 |
亡命した家兼と隆信を保護し、再起を支援した大恩人。 |
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鍋島 清房(なべしま きよふさ) |
1513-1580 |
家臣 |
龍造寺家の重臣。家兼の復帰に尽力。周家の妻・慶誾尼を継室に迎える。 |
天文14年(1545年)に起きた龍造寺一族の大量粛清は、突発的な事件ではなかった。それは、長年にわたって肥前国の水面下で進行していた権力闘争が、ついに臨界点に達した結果であった。本章では、その悲劇に至るまでの政治的力学と、主要人物たちの思惑を解き明かす。
龍造寺氏、とりわけ水ヶ江龍造寺家を率いる龍造寺家兼の存在感が、主家である少弐家中で無視できないものとなった決定的な出来事が、享禄3年(1530年)の田手畷の合戦である。この戦いで家兼は、周防の大大名・大内義隆が派遣した杉興運(すぎ おきかず)率いる大軍に対し、鍋島清久(後の清房の父)らの活躍もあって奇策を用い、これを撃退するという大金星を挙げた 3 。この勝利により、龍造寺氏の名声は肥前一帯に轟き、少弐氏における家兼の発言力は飛躍的に増大した。
しかし、この武功が皮肉にも亀裂の始まりとなる。天文3年(1534年)、家兼は主君・少弐資元(すけもと)と大内義隆との間の和議を斡旋するが、大内氏はこれを一方的に反故にし、天文5年(1536年)には再び肥前に侵攻、資元を多久の梶峰城にて自刃に追い込んだ 16 。この結果に対し、少弐家臣団の一部、特に譜代の重臣たちは、家兼が裏で大内氏と通じていたのではないかという強い疑念を抱くようになった 16 。彼らの目には、龍造寺氏の台頭そのものが、主家をないがしろにする不遜な動きと映ったのである。
この反龍造寺感情の中心にいたのが、少弐氏の重臣・馬場頼周であった。頼周は少弐氏の一門の出自であり、肥前国綾部城(現在の佐賀県みやき町)を本拠とする譜代の宿老である 17 。綾部城はかつて九州探題府が置かれたこともある交通・戦略上の要衝であり、頼周の少弐家中における地位の高さを示している 32 。
史料からうかがえる頼周の人物像は、良くも悪くも「主家への忠誠心」に凝り固まった武将である。彼は少弐資元の死後、その遺児である冬尚を盛り立て、少弐氏の勢力回復に心血を注いだ 17 。その忠誠心は苛烈なまでに純粋であり、大内氏に与したと見なした自身の岳父・筑紫満門(つくし みつかど)ですら、偽って城に招き入れて謀殺するほどであった 17 。
このような頼周にとって、実力で主家を凌駕し、あまつさえ大内氏との通謀まで疑われる龍造寺家兼の存在は、断じて許容できるものではなかった。彼の胸中には、主家を脅かす者への強い憎悪と、自らの地位を脅かされかねないという危機感、そして功績を重ねる家兼への嫉妬が渦巻いていた 28 。軍記物である『九州治乱記』には、後に討ち取った龍造寺一門の首級を頼周が踏みつけたと記されており、その憎悪の深さを物語っている 17 。
天文13年(1544年)、龍造寺一門が西肥前の経略(勢力拡大)のために軍事行動を起こすと、頼周はこの隙を好機と捉え、長年温めてきた龍造寺氏排除の謀略を実行に移す 17 。
この計画は、頼周の独断によるものではなかった。彼は、龍造寺氏の急成長を快く思わない肥前国内の他の国人領主たちと周到に連携し、対龍造寺包囲網を形成した。史料には、高来(たかき)郡の有馬晴純、杵島(きしま)郡の後藤純明、そして山内(さんない)地方の神代勝利といった、肥前の有力者たちがこの謀議に加わっていたことが記録されている 17 。
頼周の策略は巧妙であった。彼は少弐冬尚の名で偽りの軍令を発し、家兼の軍勢を各地に分散出動させた。これにより龍造寺氏の戦力を分断し、各個撃破することで、本拠地である水ヶ江城を孤立無援の状態に追い込んだのである 16 。
この一連の動きは、単なる少弐家中の内紛という枠を超えている。これは、肥前国という地域全体のパワーバランスをめぐる、より大きなスケールの紛争であった。龍造寺氏の勢力拡大は、西肥前に領地を持つ有馬氏や後藤氏、神代氏にとって、自領の権益を脅かす直接的な脅威であった。馬場頼周の「主家への忠誠」という動機と、他の国衆の「自領防衛」という現実的な利害が見事に一致したのである。頼周は、この共通の危機感を巧みに利用して、龍造-寺氏を社会的に、そして物理的に抹殺するための包囲網を築き上げた。龍造寺周家とその一族は、この地政学的な対立の最初の、そして最大の犠牲者となる運命にあった。
天文14年(1545年)1月、馬場頼周によって周到に仕掛けられた罠は、ついに龍造寺一族に牙を剥いた。本章では、軍記物や現地の伝承を基に、事件当日の龍造寺一門の動きを時系列で再構築し、龍造寺周家の最期の瞬間に焦点を当てる。
頼周らの軍勢によって本拠地・水ヶ江城を包囲され、進退窮まった龍造寺家兼は、頼周からの和議の勧告を受け入れざるを得なかった。天文14年1月、家兼は城を開け渡し、わずかな供回りと共に、かねてより親交のあった筑後国柳川城主・蒲池鑑盛のもとへ落ち延びていった 16 。
しかし、この和議は龍造寺一門を根絶やしにするための非情な謀略であった。頼周は、残された龍造寺一門に対し、巧みに二つの別々の行動を取るよう命じ、彼らを分断した 10 。
第一陣は、周家の父・龍造寺家純、叔父で水ヶ江家当主の家門、そして周家の弟・純家らであった。彼らは「筑後国へ退去する」という名目で移動させられた。しかし、その道中である1月23日の夜、宿所としていた川上与止日女神社(現在の佐賀市大和町)の境内で、馬場頼周の子・政員や神代勝利の軍勢に急襲された。不意を突かれた家純らは抵抗もむなしく、その場で全員が討死、あるいは自刃したと伝えられる 10 。
第二陣が、龍造寺周家、その弟・頼純、そして叔父・家門の子で義弟にあたる家泰(いやす)らであった。彼らには、「今回の騒動について主君・少弐冬尚へ直接謝罪せよ」との命令が下された。一行は、冬尚の居城である勢福寺城(現在の佐賀県神埼市)へ、「謝罪の使者」として向かうことになったのである 1 。
周家ら一行の運命は、翌日に尽きた。彼らの足取りと最期の場所は、比較的詳細に伝わっている。
この周家の死は、戦場での名誉ある戦死とは全く異なる、政治的謀略の犠牲者としての「暗殺」であった。当時の武家社会において、使者を攻撃することは重大な信義則違反と見なされる行為である。頼周があえてその禁忌を犯したことは、彼の龍造寺氏に対する憎悪の深さと、一族を完全に抹殺しようとする非情な意志を物語っている。頼周にとって、もはや龍造寺氏は対等な武家ではなく、主家を脅かす「逆賊」であり、逆賊を討つことに信義則は適用されないという論理が働いていたのであろう。そして、生き残らせれば必ずや復讐されるという恐怖も、この非情な決断を後押ししたに違いない。
祇園原で討ち取られた周家、家泰、頼純の三将の遺体は、龍造寺氏と縁のあった和泉村の足庵の住持によって密かに引き取られ、その庵に葬られたと伝えられる 18 。後に息子の隆信が勢力を回復すると、父・周家らの遺骨を円藏院に、家泰を乾亭院に改葬したという 18 。
また、この一連の粛清事件で命を落とした一族の菩提を弔うため、曽祖父の家兼が佐賀市本庄町に高伝寺を建立した 18 。この寺は、龍造寺家の悲劇を今に伝える場所となっている。
父や一族が謀略によって無残に殺害されたという事実は、当時16歳であった息子の隆信の心に、消えることのない深いトラウマと燃えるような復讐心を刻み込んだはずである。後に「肥前の熊」とまで呼ばれる隆信の、時に冷酷・非情と評される行動原理の原点は、この祇園原の悲劇にあると言っても過言ではない。周家の無念の死は、息子の隆信の人間形成に、決定的かつ不可逆的な影響を与えたのである。
日付(西暦1545年) |
場所 |
出来事 |
関連人物(龍造寺側) |
関連人物(馬場・神代側) |
1月下旬 |
佐嘉・水ヶ江城 |
馬場頼周の謀略により城を包囲される。偽りの和議を受け入れ開城。 |
龍造寺家兼 |
馬場頼周 |
1月下旬 |
肥前国~筑後国 |
家兼、筑後柳川城主・蒲池鑑盛を頼り亡命。 |
龍造寺家兼、龍造寺隆信 |
- |
1月23日夜 |
川上与止日女神社 |
筑後へ向かう名目で移動中、宿営地を襲撃され、全員討死。 |
龍造寺家純(父)、家門(叔父・養父)、純家(弟)ら |
馬場政員(頼周の子)、神代勝利 |
1月23日 |
和泉村・玉泉坊 |
謝罪使として勢福寺城へ向かう途中、一泊する。 |
龍造寺周家 、頼純(弟)、家泰(義弟) |
- |
1月24日早朝 |
神埼郡・祇園原 |
勢福寺城へ向かう道中、伏兵に襲撃され、全員討死。 |
龍造寺周家 、頼純(弟)、家泰(義弟) |
馬場頼周の配下、神代勝利 |
龍造寺周家をはじめとする一門の主だった男子が、謀略によって一挙に命を奪われたことは、龍造寺氏にとって壊滅的な打撃であった。しかし、歴史の皮肉というべきか、この悲劇こそが、龍造寺氏が旧来の枠組みを破壊し、肥前一国を支配する戦国大名へと飛躍する「触媒」となった。一人の武将の死が、いかにして新たな時代の幕開けを告げたのか、その歴史的帰結を分析する。
一族の主力を失い、残されたのは90歳を超える老将・龍造寺家兼と、まだ元服前の16歳の曾孫・長法師丸(後の隆信)だけであった 24 。二人は命からがら筑後国へ逃れ、柳川城主・蒲池鑑盛の庇護下に入った 16 。
蒲池鑑盛は、この失意の祖父と曾孫を手厚くもてなし、再起のための兵糧や衣服など、物心両面にわたる支援を惜しまなかった 51 。この鑑盛の温情がなければ、龍造寺氏の再興はあり得なかったと言っても過言ではない。一方、佐賀の旧領では、家臣の鍋島清房らが密かに家兼の帰還を画策し、反撃の機会を窺っていた 3 。
天文15年(1546年)、亡命から約1年後、家兼は蒲池氏の援助を受けてついに挙兵する。鍋島氏ら旧臣の呼応も得て、破竹の勢いで本拠地・水ヶ江城を奪還。そして同年4月、宿敵・馬場頼周を討ち果たし、一族の無念を晴らした 16 。
しかし、復讐を遂げた家兼の命運も尽きようとしていた。同年、自らの死期を悟った家兼は、仏門に入っていた曾孫の長法師丸を呼び戻して還俗させ、「龍造寺胤信(たねのぶ)」と名乗らせた。そして、水ヶ江龍造寺家の家督を継がせるよう遺言し、93年の波乱に満ちた生涯を閉じた 3 。
ここに、戦国時代においても極めて異例な「曾祖父から曾孫へ」という家督継承が実現した。それは、周家をはじめ、家純、家門、頼純、純家といった、家兼と隆信の間にいた中間世代の男子が、天文14年の粛清事件で全員死亡したことによって、必然的にもたらされた結果であった。
龍造寺周家の死は、結果として三つの大きな歴史的潮流を生み出した。
第一に、 龍造寺氏の戦国大名化 である。家督を継いだ隆信は、父・周家の悲劇をバネにするかのように、驚異的な才覚を発揮して勢力を拡大。天文17年(1548年)には、当主が病死した龍造寺本家(村中龍造寺氏)の家督をも継承し、龍造寺氏を完全に統一した 24 。そして永禄2年(1559年)、かつての主君であり、父の死を黙認した少弐冬尚を勢福寺城に攻め滅ぼし、名実ともに下剋上を完成させた 53 。周家の死は、龍造寺氏を長年縛り付けていた少弐氏という軛(くびき)から解き放ち、自立した戦国大名へと飛躍させる直接的なきっかけとなったのである。
第二に、 家臣団の変質と鍋島氏の台頭 である。一門衆の多くを失ったことで、隆信は血縁者以外の譜代家臣、特に復讐戦で多大な功績を挙げた鍋島氏を重用せざるを得なくなった 54 。隆信の母・慶誾尼が鍋島清房に再嫁したことも、両家の結びつきを強固なものにした。この権力構造の変化は、後の鍋島直茂による龍造寺氏の実権掌握と、江戸時代の佐賀藩成立へと繋がる、遠大なる伏線となった。
第三に、 肥前国衆との新たな対立 である。かつて馬場頼周に与して龍造寺氏を粛清しようとした神代氏や有馬氏は、今度は肥前の新たな覇者として君臨する龍造寺隆信と直接対峙することになった。周家の死から始まった紛争の火種は、その後数十年にわたって燃え続け、天正12年(1584年)の沖田畷の戦いにおける隆信自身の死に至るまで、肥前国内の熾烈な抗争へと発展していくのである 22 。
このように、龍造寺周家の死という「血の代償」は、龍造寺氏の権力構造をリセットし、隆信というカリスマ的指導者を歴史の表舞台に登場させ、旧来の主従関係を清算するという、三つの大きな歴史的効果をもたらした。周家の死は、意図せずして龍造寺氏の「創造的破壊」を促したのである。もし周家が生きて順当に家督を継いでいれば、龍造寺氏は少弐氏の有力家臣という立場に留まり、隆信のような急進的な覇権主義は生まれなかったかもしれない。周家は、その存在によってではなく、その「不在」によって、肥前の歴史を大きく動かしたと言えるだろう。
本報告を通じて、龍造寺周家の生涯とその死が持つ歴史的意義を多角的に検証してきた。最後に、一人の武将の死が、いかにして時代の転換点となり得たのかを総括し、彼の歴史的評価を試みたい。
龍造寺周家自身に、特筆すべき武功や政治的功績を伝える史料は乏しい。彼は、龍造寺氏を中興した偉大な祖父・家兼と、後に「肥前の熊」として九州に名を轟かせる傑出した息子・隆信という、二人の巨星の間に挟まれた、いわば過渡期の人物であった。彼の生涯は、自らの才覚で歴史を切り拓くというよりは、時代の大きなうねりの中に翻弄されたものであったと言えよう。
しかし、彼の存在そのものが、当時の龍造寺家が抱える構造的矛盾の象徴であったことは見逃せない。主家を凌駕する実力を持つ分家、その中で複雑な家督継承の過程を経て次期当主と目された立場。彼の悲劇的な死は、これらの矛盾が限界に達し、破綻した必然的な結果であり、決して単なる偶然の出来事ではなかった。
龍造寺周家の死の歴史的意義は、彼自身の功績にあるのではなく、彼の「死」がもたらした結果にある。彼の死は、肥前国における権力の空白を生み出し、その空白を埋める形で龍造寺隆信という新たな才能を歴史の表舞台に押し上げた。父と一門の無念の死は、隆信に強烈な動機を与え、彼を旧来の秩序を破壊する冷徹な覇者へと変貌させた。
もし周家が生きていたら、という仮定を考えることで、その意義はより鮮明になる。周家が穏当に家督を継いでいた場合、老獪な馬場頼周や他の国衆との政治的駆け引きを乗り切り、一族を維持できたかは定かではない。仮に維持できたとしても、父祖の路線を継承し、少弐氏の有力家臣という立場に留まり、隆信のような急進的な下剋上は起こさなかった可能性が高い。
したがって、龍造寺周家は、彼自身の意志や能力とは無関係に、その「死」そのものが歴史の重要な転換点として機能した、極めて稀有な事例であると結論づけられる。彼の死は、龍造寺氏が戦国大名として飛翔するための、そして肥前の歴史が新たな段階へ移行するための、避けては通れない峻厳な道筋であったのかもしれない。龍造寺周家は、自らの悲劇的な最期をもって、図らずも次代の扉を開いた人物として、歴史の中に記憶されるべきであろう。