最終更新日 2025-07-19

龍造寺家兼

龍造寺家兼は93年の生涯で、田手畷の戦いで勝利し龍造寺氏の基盤を築いた。一族を失う悲劇を乗り越え、90歳で再起し仇敵を討つ。曾孫・隆信に家督を託し、中興の祖となった。

龍造寺家兼 ―「肥前の熊」の礎を築いた不屈の老将、その九十三年の生涯―

序章:龍造寺氏中興の祖、家兼の実像

戦国の世は、下剋上と絶え間ない争乱に彩られる一方で、驚異的な生命力と不屈の精神をもって時代を駆け抜けた武将たちを生み出した。その中でも、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の龍造寺家兼(りゅうぞうじ いえかね)は、特筆すべき存在である。享徳3年(1454年)に生を受け、天文15年(1546年)に没するまで、実に93年という長寿を全うした 1 。この生涯は、当時の武将としては異例の長さであるだけでなく、その軌跡もまた波乱万丈に満ちていた。

家兼は、主家である少弐氏の忠実な家臣として武功を重ね、一時はその勢威を九州に轟かせた。しかし、同僚の謀略によって二人の息子と四人の孫を含む一族の主力をことごとく失い、90歳を超えた老躯で流浪の身となるという、筆舌に尽くしがたい悲劇に見舞われる。だが、彼の物語はここで終わらない。絶望の淵から一年も経たぬうちに、彼は奇跡的な再起を果たし、仇敵を討ち滅ぼして龍造寺家を再興させたのである。

彼の生涯は、単なる一個人の武勇伝に留まらない。後に「肥前の熊」と恐れられ、「五州二島の太守」と称されるまでに龍造寺氏を隆盛させた曾孫・龍造寺隆信 3 。その礎を築いたのが、まさしく家兼であった。一度は壊滅した家を立て直し、次代を担う傑出した後継者を見出し、その未来を託した家兼は、龍造寺氏「中興の祖」として評価されるべき人物である 1

本報告書は、龍造寺家兼の93年の生涯を「台頭」「栄光」「悲劇」「復活」「継承」という五つの段階に分け、その知られざる実像に迫るものである。彼の行動を、当時の北九州を巡る大内氏、大友氏、少弐氏の力学の中に位置づけ、主君、宿敵、盟友、そして後継者との人間関係を深く分析することで、一人の武将が戦国の世にいかにして立ち向かい、その遺志を未来へと繋いだのかを明らかにする。

第一章:水ヶ江龍造寺家の興隆と家兼の台頭(1454年~1530年)

龍造寺家兼が歴史の表舞台に登場するまでの道のりは、彼個人の資質のみならず、龍造寺一門が置かれた内部的状況と、主家・少弐氏を取り巻く外部環境が複雑に絡み合った結果であった。分家の五男という決して恵まれてはいない出自から、いかにして彼は一門、ひいては少弐家中の実力者へと上り詰めたのか。その過程を追う。

龍造寺氏の出自と構造

龍造寺氏の祖は、平安時代中期の貴族・藤原秀郷の流れを汲むとされる高木氏の一族に遡る 6 。肥前国佐賀郡小津東郷龍造寺村(現在の佐賀市中心部)を拠点としたことから、龍造寺の姓を名乗るようになった 7 。鎌倉時代から室町時代にかけては、肥前の有力国人として千葉氏に、その後、肥前守護となった少弐氏に従属していた 7

家兼が生まれた15世紀中頃、龍造寺氏は二つの系統に分かれていた。一つは嫡流である「村中龍造寺家」、もう一つが家兼の父である第13代当主・龍造寺康家が隠居所として水ヶ江に館を構えたことに始まる庶流の「水ヶ江龍造寺家」である 6 。家兼は康家の五男として生まれ、この水ヶ江龍造寺家を継承した 2

家中の実権掌握と主家の衰退

家兼が頭角を現した背景には、二つの大きな要因があった。第一に、龍造寺氏内部における権力の空白である。本家である村中龍造寺家は、当主の相次ぐ早逝や内紛によって著しく弱体化していた 7 。この状況下で、一門の長老格となった家兼は、その「器量が大きく賢い」と評される人物像をもって 7 、衰退した本家を補佐する形で一門全体の実権を徐々に掌握していった 2 。これにより彼は、単なる分家の当主から龍造寺一門を統率する指導者へと変貌を遂げたのである。

第二の要因は、主家・少弐氏の置かれた危機的な状況であった。鎌倉時代以来の名門である少弐氏は、周防国(現在の山口県)を本拠とする大大名・大内氏の執拗な侵攻に晒され、存亡の危機にあった 11 。大内義興によって少弐政資が自刃に追い込まれるなど、その勢力は衰退の一途を辿っていた 12 。この主家の弱体化は、逆説的に、龍造寺氏のような有力な国人領主の価値を高める結果となった。対大内氏戦線を維持するために、少弐氏は家兼ら実力ある家臣に頼らざるを得なかったのである。

このように、龍造寺一門の内部事情と、少弐氏を取り巻く外部環境という二つの潮流が、家兼を時代の表舞台へと押し上げた。自身の能力と時代の要請が合致したことで、彼は少弐氏の筆頭家臣の地位にまで上り詰め、やがてその名を九州全土に轟かせることになる 7

第二章:田手畷の合戦 ― 老将の名を天下に轟かせた奇跡的勝利(1530年)

享禄3年(1530年)8月、龍造寺家兼の名を不朽のものとする戦いが起こる。田手畷(たでなわて)の合戦である。この一戦は、単なる軍事的勝利に留まらず、その後の龍造寺氏の運命、そして後の佐賀藩へと続く鍋島氏との関係を決定づける、まさに戦略的転換点であった。

合戦の背景と経過

この年、西国随一の実力者であった大内義隆は、長年の宿敵である少弐氏の息の根を止めるべく、筑前守護代の杉興運(すぎ おきかず)に大軍を預け、肥前へと侵攻させた 2 。大内軍の兵力は圧倒的であり、少弐方の諸将の中には裏切る者も現れ、本拠地である勢福寺城(現在の佐賀県神埼市)深くまで攻め込まれた少弐資元は、絶体絶命の危機に瀕していた 12

この窮地に際し、資元は家兼に救援を要請。家兼は資元の子・松法師丸(後の少弐冬尚)を保護しつつ、大内軍との決戦に臨んだ 2 。決戦の地となった田手畷は、筑後川の支流が流れる湿地帯であり、大軍の展開には不向きな地形であった。家兼はこの地理的条件を最大限に活用した戦術を立てたと考えられる。

戦況は当初、兵力で劣る少弐方に不利に進んだ 15 。しかし、戦いの趨勢を一変させたのが、家兼の麾下にあった鍋島清久・清房父子、そして野田清孝らが率いた奇襲部隊の活躍であった 16 。彼らは、見る者を威圧する「赤熊(しゃぐま)」の面を被り、敵の意表を突いて大内軍の本陣に猛然と突撃した 15 。この奇襲によって大内軍は混乱に陥り、総大将の杉興運は敗走。大内方の有力武将も多数討ち取られ、少弐方は奇跡的とも言える大勝利を収めたのである 15

勝利がもたらした三つの果実

この時、家兼は実に76歳。老将がもたらした劇的な勝利は、彼の武名を九州一円に轟かせ、龍造寺氏の存在感を飛躍的に高めた 20 。この勝利は、龍造寺氏に三つの大きな果実をもたらした。

第一に、龍造寺氏の経済的・軍事的基盤の大幅な強化である。戦後、主君・資元は家兼の功を大いに賞し、佐賀郡の肥沃な土地である河副荘一千町を恩賞として与えた 2 。これは、龍造寺氏が単なる国人から、より大きな力を持つ領主へと脱皮する上で決定的な意味を持った。

第二に、後の龍造寺氏を支えることになる鍋島氏との同盟関係の確立である。家兼は、この戦いにおける最大の功労者である鍋島清房の働きを高く評価し、自らの孫娘(長男・家純の娘)を清房に嫁がせた 19 。この婚姻により、龍造寺氏と鍋島氏は単なる主従を超えた強固な姻戚関係で結ばれた。そして、この清房夫妻の間に、後に龍造寺氏の実権を握り、佐賀藩祖となる鍋島直茂が誕生することになるのである 19

第三に、家兼個人の政治的影響力の増大である。この勝利により、彼は少弐家中において絶対的な権威を確立し、その後の龍造寺氏の運命を自らの手で切り開いていくことになる。田手畷の合戦は、まさに龍造寺氏の、そして鍋島氏の、90年以上にわたる物語の序章を飾る一戦であったと位置づけられる。

第三章:栄華と軋轢 ― 主家を凌ぐ勢力への道(1531年~1544年)

田手畷の勝利は、龍造寺家兼を栄光の頂点へと導いた。しかし、その栄華は同時に、主家である少弐氏との間に深刻な軋轢を生む種子を内包していた。家臣でありながら主家を凌駕するほどの勢力を持つに至った家兼の動向は、必然的に旧来の秩序を重んじる勢力との対立を招き、やがて来る悲劇の伏線となっていく。

権勢の拡大と外交舞台での活躍

田手畷の合戦後、家兼の政治的影響力は肥前一国に留まらなくなった。天文3年(1534年)、宿敵であったはずの大内義隆から、少弐資元との和議を斡旋してほしいとの要請を受けるに至る 2 。これは、家兼がもはや単なる一介の家臣ではなく、大名間の調停役を担いうる独立した勢力として認識されていたことを示している。家兼はこの要請に応じ、両者の和議を成立させた。

しかし、この外交的成功が、皮肉にも主家との関係に影を落とす。翌天文5年(1536年)、大内義隆は和議を一方的に破棄し、重臣の陶興房(すえ おきふさ)を派遣して再び少弐資元を攻撃。追い詰められた資元は自刃し、少弐氏はまたも当主を失う 2 。この時、家兼が積極的な救援を行わなかった、あるいはできなかったことから、少弐家の家臣団からは「大内と通じ、主君を見殺しにした」という激しい非難を浴びることになった 2 。これが、後の宿敵となる馬場頼周らとの対立の直接的な発端となる。

それでも家兼の勢威は衰えず、天文7年(1538年)には出家して「剛忠(ごうちゅう)」と号し、家督を次男の家門に譲ったが、依然として一門の実権は掌握し続けた 2 。嫡男の家純や次男の家門らを通じて周辺の有力豪族と次々に婚姻関係を結び、龍造寺一門は肥前国内に一大勢力圏を築き上げた。その威勢は、もはや主君である少弐氏を凌ぐほどであったと伝えられる 21

馬場頼周との構造的対立

家兼の台頭を、苦々しい思いで見つめる人物がいた。少弐氏一門であり、譜代の重臣であった馬場頼周(ばば よりちか)である 28 。頼周にとって、家臣である龍造寺氏が主家を凌ぐ力を持つことは、秩序の崩壊であり、許容しがたい事態であった。彼は、家兼が資元を見殺しにしたという疑念を抱き、これを口実に龍造寺氏の排除を画策し始める 28

この両者の対立は、単なる個人的な嫉妬や確執に起因するものではない。それは、衰退していく主家(少弐氏)の権威を回復し、旧来の秩序を守ろうとする譜代の勢力(馬場頼周)と、実力でのし上がり、新たな秩序を構築しようとする新興勢力(龍造寺家兼)との間の、避けられない構造的な権力闘争であった。家兼の行動は、龍造寺家の利益を最大化するという観点からは合理的であったが、少弐氏の家臣という立場からは明らかに逸脱していた。大名間の和議を斡旋するなどの振る舞いは、もはや家臣の分を超えている。頼周から見れば、家兼は主家の権威を簒奪しようとする「逆臣」そのものであった。この視座に立つとき、頼周が後に実行する過酷な粛清は、彼なりの歪んだ忠義心に根差した、過激な「清君側(主君の側近の奸臣を討つこと)」の試みであったと解釈できる。この深刻な対立構造が、次章で描かれる未曾有の悲劇を準備したのである。

第四章:一族誅殺の悲劇 ― 馬場頼周の謀略(1544年~1545年)

天文13年(1544年)末、龍造寺氏の栄華は突如として暗転する。主家・少弐氏内での権勢を妬んだ馬場頼周が、周到に練り上げた謀略の罠を仕掛けたのである。この謀略により、龍造寺一門は壊滅的な打撃を受け、家兼は人生最大の悲劇に見舞われることとなった。

偽りの軍令と戦力の分断

謀略は、巧妙な偽装工作から始まった。馬場頼周は主君・少弐冬尚を動かし、肥前南部の有馬晴純らが謀反を企てたという偽の情報を流させ、龍造寺氏にその討伐を命じた 30 。これは、龍造寺氏の強力な軍事力を一箇所に集中させず、各地に分散させて各個撃破することを狙った、極めて悪質な離間の計であった 2

当時91歳となっていた家兼は、自らの出陣はかなわぬとして、一門の主力をこの偽りの討伐戦へと派遣した。九州大学に所蔵される史料によれば、その陣容は、一門の盛家らを上松浦へ、嫡男・家純と孫の周家(隆信の父)らを多久へ、そして次男・家門らを永島へと、三方面に分かれて進攻させるというものであった 31 。龍造寺氏の精鋭たちは、主君の命令と信じて疑わず、頼周が仕掛けた罠の中へと進んでいった。

偽りの和議と一族の最期

分散させられた龍造寺軍は、各地で待ち構えていた少弐・有馬方の軍勢によって次々と打ち破られ、多くの将兵が討死した 2 。そして天文14年(1545年)1月、頼周は謀略の最終段階へと移行する。佐賀城に籠る家兼に対し、和議を勧告したのである 2

事態を誤解によるものと考えたか、あるいは他に選択肢がなかったか、家兼はこの和議勧告を受け入れた。そして謝罪の使者として、生き残っていた息子や孫たちを少弐冬尚のもとへ派遣した。しかし、これもまた頼周の罠であった。使者として赴いた家兼の嫡男・家純、次男・家門、そして孫の周家、純家、家泰、頼純らは、頼周の手によって騙し討ちに遭い、ことごとく殺害されてしまったのである 2

この一連の謀略により、龍造寺家は後継者と目される男子のほとんどを失った。90歳を超えた高齢であった家兼(剛忠)のみが、厳しい追及を免れて辛うじて生き延びたが、もはや肥前に留まることはできなかった。彼は、燃え落ちる自らの栄華を背に、筑後国(現在の福岡県南部)の柳川城主・蒲池鑑盛(かまち あきもり)を頼って、僅かな供回りと共に落ち延びていった 2

この悲劇の甚大さを具体的に示すため、主要な犠牲者を以下に記す。

氏名

家兼との続柄

当時の役割・立場

最期

龍造寺家純

長男

水ヶ江龍造寺家当主名代、一門の重鎮

馬場頼周の謀略により殺害 2

龍造寺家門

次男

水ヶ江龍造寺家当主(名目上)

馬場頼周の謀略により殺害 2

龍造寺周家

孫(家純の子)

龍造寺隆信の実父

馬場頼周の謀略により殺害 2

龍造寺純家

孫(家純の子)

一門の有力武将

馬場頼周の謀略により殺害 2

龍造寺家泰

一門の有力武将

馬場頼周の謀略により殺害 30

龍造寺頼純

一門の有力武将

馬場頼周の謀略により殺害 8

この表が示す通り、龍造寺氏の後継者層は文字通り根絶やしにされた。この絶望的な状況が、次章で描かれる家兼の不屈の闘志と、曾孫・隆信を後継者に指名せざるを得なかった歴史の必然性を、より一層際立たせるのである。

第五章:九十三歳の再起 ― 不屈の復讐戦(1545年~1546年)

一族のほとんどを失い、90歳を超えた老体で故郷を追われた龍造寺家兼。その物語は、常人であれば絶望のうちに終わっていたであろう。しかし、彼の不屈の精神は、ここから戦国史上でも稀に見る復活劇を演じる。この再起は、家兼個人の執念だけでなく、彼が過去に築き上げてきた「人間関係」という無形の資産によって成し遂げられたものであった。

筑後での雌伏と蒲池鑑盛の恩義

筑後柳川へと逃れた家兼を温かく迎え入れたのが、柳川城主の蒲池鑑盛であった 35 。鑑盛は、失意の底にあった老将に対し、衣食住の全てにわたって手厚い保護を与え、その再起を物心両面から支援した 36 。この鑑盛の義侠心に満ちた行動がなければ、家兼の復活はあり得なかったであろう。この時の大恩は、家兼と、後に同じく蒲池氏に庇護されることになる曾孫・隆信の胸に深く刻まれたはずであった。しかし、この恩義が後に隆信によって仇で返されるという形で、龍造寺氏の歴史に非情な悲劇として記録されることになるのは、戦国の世の無常を象徴している 36

鍋島清房の奔走と勢力の再結集

一方、龍造寺氏の本拠地である肥前では、家臣の鍋島清房が家兼復帰のために奔走していた 2 。彼は、馬場頼周の支配を潔しとしない龍造寺の残党や旧臣たちを密かに糾合し、反撃の機会を窺っていた。田手畷の合戦以来、家兼の孫娘を娶り、一門同様の強い絆で結ばれていた清房の忠義が、この最大の危機において真価を発揮したのである。彼が築いた肥前国内の地盤と、鑑盛による筑後からの支援。この二つの力が合わさった時、奇跡の反攻が始まった。

挙兵と復讐の完遂

天文15年(1546年)、家兼は蒲池氏の援助を受け、93歳にして再起の兵を挙げた 10 。この挙兵に、待ち構えていた鍋島清房らが呼応。龍造寺・鍋島連合軍は瞬く間に勢いを盛り返し、かつての居城であった水ヶ江城を奪回した 2

仇敵・馬場頼周は子の政員と共に防戦に努めたが、勢いに乗る家兼の軍の前に敗走。追い詰められた頼周は、社家の芋釜に身を隠したところを捕らえられ、ついに討ち取られた 2 。ここに、家兼の壮絶な復讐劇は完遂されたのである。

興味深いことに、頼周父子の首は家兼によって丁重に葬られたと伝えられている 28 。これは、頼周の子・政員の妻が家兼の孫娘であったという、敵味方に分かれても断ち切れない血の繋がりが背景にあったとされる 39 。憎しみと情が交錯するこの逸話は、家兼という人物の複雑な内面を垣間見せる。彼の再起は、個人の驚異的な精神力に加え、蒲池鑑盛との信頼関係、そして鍋島清房との戦友としての絆という、長年かけて築き上げた人間関係という財産があってこそ可能となったのである。

終章:遺志の継承と後世への評価

馬場頼周を討ち、見事に家を再興した龍造寺家兼であったが、彼の時間は残り僅かであった。復讐を遂げた直後、彼は自らの死期を悟り、龍造寺氏の未来を託すための最後の、そして最も重要な決断を下す。それは、戦国時代においても極めて異例な、曾祖父から曾孫への家督継承であった。

曾孫・隆信への継承

息子も孫も、後継者たるべき男子を謀略によって根こそぎ失った家兼が、白羽の矢を立てたのは、仏門に入っていた曾孫の円月であった 2 。家兼は、この若き僧の中に、常人ならざる器量を見出していた。『九州治乱記』などの軍記物によれば、家兼は円月のことを「気宇広大の質」であり 41 、「人間が大きく大志を持っている」と評し 8 、「龍造寺家を繁栄に導く者は円月しかいない」と断言したという 41

家兼の遺言により、円月は還俗して「龍造寺胤信(たねのぶ)」と名乗り、水ヶ江龍造寺家の家督を継承した 2 。これが、後に大内義隆から一字を拝領して「隆信」と改名し、「肥前の熊」と恐れられることになる武将の誕生であった 4 。この曾祖父から曾孫への直接的な家督継承は、一族誅殺という悲劇がいかに深刻であったか、そして家兼の人物眼がいかに確かであったかを物語っている 4

家兼の死と遺産

天文15年(1546年)3月10日、後事を隆信に託した家兼は、その波乱に満ちた93年の生涯に幕を閉じた 1 。法名は剛忠浄金居士 2 。彼の死後、曾孫の隆信はその期待に応え、主家であった少弐氏を滅ぼし、大大名である大友氏を破り、龍造寺氏を島津氏と並び称される九州三強の一角へと押し上げていく 4 。家兼が遺した最大の遺産は、再興された龍造寺家そのものと、隆信という傑出した後継者、そして龍造寺氏を最後まで支え続けることになる鍋島氏との強固な同盟関係であった。

歴史的評価

龍造寺家兼の生涯は、戦国武将の典型的な姿と、悲劇の英雄という二つの側面を併せ持つ。彼は智勇に優れ 46 、時に老獪な外交手腕を発揮し、主家の衰退に乗じて自らの勢力を拡大した。一方で、謀略によって全てを失いながらも、90歳を超えてなお戦場に立ち、執念で家を再興した不屈の精神の持ち主でもあった。

彼の生涯を俯瞰するとき、そこには戦国武将の価値観の変遷が体現されている。若き日の家兼は、自らの「個人の能力」で一門の頂点に立った。中期の彼は、息子や孫たちとの婚姻政策を通じて「血縁と家」の力で勢力を拡大しようとした。しかし、その血縁者たちが皆殺しにされる悲劇を経て、彼が最後に頼ったのは、血筋の近さ以上に、曾孫・隆信が持つ「個人の器量」であった。この最後の選択こそが、龍造寺氏の未来を切り開き、彼の最大の功績となった。龍造寺家兼の93年の生涯は、何を次代に託すべきかという普遍的な問いに対する、一人の老将の壮絶な答えそのものであったと言えよう。

引用文献

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  39. 馬場頼周 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%AC%E5%A0%B4%E9%A0%BC%E5%91%A8
  40. 何度も家臣に裏切られつづけた悲惨な戦国大名「龍造寺隆信」の残念すぎる最期【前編】 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/225998
  41. 龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ) 1529~1584 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/RyuuzoujiTakanobu.html
  42. なんと90歳を超えて合戦へ! 戦国時代のご長寿武将「龍造寺家兼」のお家再興ドラマ【後編】 https://mag.japaaan.com/archives/233621/2
  43. 龍造寺家兼の墓 - M-NETWORK http://m-network.com/sengoku/haka/iekane450h.html
  44. 九州三国志 ~九州の戦国時代~ https://kamurai.itspy.com/nobunaga/9syu3gokusi.htm
  45. 北部九州戦国史 (戦国時代) - 福岡史伝 https://www.2810w.com/archives/4795
  46. カードリスト/他家/他122龍造寺家兼 - 戦国大戦あっとwiki - atwiki(アットウィキ) https://w.atwiki.jp/sengokutaisenark/pages/1387.html