龍造寺政家は「肥前の熊」隆信の嫡男。父の死後、鍋島直茂が実権を掌握。秀吉の介入で幼い息子高房が当主となるも、高房は絶望し自害。政家も死去し龍造寺宗家は断絶、鍋島氏が佐賀藩主となった。
戦国時代の九州、そこは群雄が割拠し、絶え間ない興亡が繰り広げられる動乱の地であった。その中にあって、一代で肥前国(現在の佐賀県・長崎県の一部)を席巻し、大友氏、島津氏と並び九州三大勢力の一角にまでその名を轟かせたのが、「肥前の熊」と畏怖された龍造寺隆信である 1 。彼の武威は凄まじく、その版図は一時期、肥前、筑前、筑後、肥後、豊前に及び、壱岐・対馬の二島をも従える広大なもので、「五州二島の太守」と称されるほどの権勢を誇った 3 。
しかし、その栄華は磐石ではなかった。隆信の支配は、卓越した軍事力と、時には非情なまでの謀略によって成り立っていた。かつて龍造寺家が窮地に陥った際に保護を受けた恩義ある筑後の蒲池氏を謀殺し、その一族を根絶やしにするなど、彼の冷酷な手法は多くの国人衆の恨みを買い、その支配体制には常に離反の火種が燻っていたのである 4 。この強烈な個性を持つ父が築き上げた、巨大であるが故に脆く、栄光と怨嗟が渦巻く権力構造こそ、その嫡男が否応なく背負うことになる宿命であった。
弘治2年(1556年)、この龍造寺家の権勢がまさに頂点に達しようとする中、龍造寺政家は隆信の嫡男として生を受けた 6 。幼名を長法師丸といい、父は隆信、母は一門である龍造寺家門の娘であった 6 。彼の誕生は、龍造寺家の未来を約束する吉報として迎えられたに違いない。だが、彼が相続することになるのは、輝かしい栄光だけではなかった。父が残した数々の軋轢と、巨大すぎる権力の重圧という「負の遺産」をも、彼は生まれながらにして継承する運命にあったのである。偉大すぎる父の存在は、政家の生涯に深く、そして時に残酷な影を落とし続けることになる。
龍造寺政家の青年期は、偉大なる父・隆信の巨大な存在感の下で、自らの主体性を発揮する機会に恵まれないまま過ぎていった。永禄4年(1561年)、政家は元服を迎える。この時、彼は当時九州最大の勢力を誇った豊後の大友義鎮(宗麟)から偏諱(名前の一字を賜ること)を受け、「鎮賢(しげとも)」と名乗った 8 。これは、龍造寺家がなおも大友氏に対して形式的な従属関係にあったことを示すものであり、独立した戦国大名としての地位が未だ盤石ではなかったことを物語っている。その後、彼は名を久家、そして政家へと改めていくことになる 6 。
天正6年(1578年)、政家は父・隆信から家督を譲られた 3 。しかし、これはあくまで形式上のことであった。隆信は隠居の身となりながらも、政治・軍事における一切の実権をその手に握り続けたのである 7 。政家は龍造寺家の当主という地位にありながら、その実態は父の意のままに動く名代に過ぎず、自らの意志で領国を動かす権限を持たなかった。この経験は、彼が当主としての主体性や指導力を涵養する機会を逸する一因となった。
政家の正室には、肥前の有力国人である有馬義貞の娘が迎えられた 8 。これは、龍造寺家の支配体制に有馬氏を組み込み、肥前国内の安定を図るための典型的な政略結婚であった。しかし、この婚姻関係は後に政家を苦しい立場へと追い込むことになる。
天正12年(1584年)、正室の兄にあたる有馬晴信が、南九州で勢力を急拡大させていた島津氏と結び、龍造寺氏に反旗を翻した。激怒した隆信は、当主である政家に有馬氏の討伐を厳命した。しかし、討伐対象は自らの妻の生家である。この血縁関係が政家の決断を鈍らせ、彼は出陣に対して消極的な姿勢を見せた 9 。業を煮やした隆信は、自ら大軍を率いて有馬氏の討伐に向かうことを決断し、政家には本拠地である佐賀城の留守を命じた 8 。当主として最初の大きな試練であったこの局面で、政家は主体的な軍事行動を起こすことができなかった。そして、この彼の逡巡が、結果として父・隆信を死地へと向かわせる遠因となったのである。
龍造寺政家の生涯と龍造寺家の運命を理解する上で、彼を取り巻く人物たちの関係性を把握することは極めて重要である。以下の表は、本報告書で中心的な役割を果たす人物とその関係をまとめたものである。
人物名 |
生没年 |
政家との関係 |
主要な役割・行動 |
龍造寺 政家 |
1556-1607 |
本人 |
龍造寺家20代当主。父の死後、実権を鍋島直茂に委ね、龍造寺宗家最後の当主となる。 |
龍造寺 隆信 |
1529-1584 |
父 |
「肥前の熊」。一代で龍造寺家の最大版図を築く。沖田畷の戦いで戦死。 |
鍋島 直茂 |
1538-1618 |
家臣・義理の叔父 |
隆信の義弟。隆信の死後、龍造寺家の実権を掌握し、佐賀藩の藩祖となる。 |
龍造寺 高房 |
1586-1607 |
四男 |
政家の隠居後、幼くして家督を継ぐ。名目上の当主であることに絶望し、悲劇的な最期を遂げる。 |
有馬 義貞の娘 |
不明 |
正室 |
有馬氏との同盟のために政家に嫁ぐ。彼女の存在が、有馬氏討伐における政家の行動を制約した。 |
豊臣 秀吉 |
1537-1598 |
天下人(主君) |
九州平定後、龍造寺家の所領を安堵するも、実質的に鍋島直茂に国政を委任させ、権力移譲を決定づけた。 |
この相関図が示すように、政家の生涯は、父・隆信、家臣・鍋島直茂、そして息子・高房という三世代にわたる龍造寺家の Männer と、天下人・豊臣秀吉という外部の強大な権力によって、複雑に織りなされていた。彼の人生は、これらの人物たちが織りなす権力闘争と人間関係の渦の中で、常に受動的な立場を強いられ続けることになる。
天正12年(1584年)3月24日、島原半島・沖田畷。龍造寺隆信率いる大軍は、数で劣る島津家久・有馬晴信の連合軍を侮り、隘路へと深入りした。これが命取りであった。巧みな伏兵戦術の前に龍造寺軍は混乱に陥り、総大将である隆信自身が討ち死にするという壊滅的な敗北を喫した 4 。この「沖田畷の戦い」は、龍造寺家の運命を根底から覆す激震となった。
この一戦で龍造寺家が失ったものは、隆信という絶対的な指導者だけではなかった。成松信勝、百武賢兼、円城寺信胤、江里口信常といった、後に「龍造寺四天王」と称される猛将たちをはじめ、鍋島直茂の実弟である龍造寺康房など、家中の中核を担う多くの重臣たちが隆信と運命を共にしたのである 12 。『九州治乱記』によれば、この戦いでの戦死者は二百三十余名に上ったとされ、龍造寺家の軍事的中枢は事実上崩壊した。これにより、隆信個人の武威とカリスマに依存していた龍造寺家の権力基盤に、巨大な空白が生じた。
絶対的な支柱を失った龍造寺家は、深刻な混乱に陥った。名目上の当主である政家は、祖母であり隆信の母である慶誾尼と共に国政を執ろうとしたが、人心の動揺を抑えることはできなかった 9 。家中の危機感は日増しに高まり、この未曾有の国難を乗り越えるべく、一門・宿老たちの衆議一決により、筑後柳川の守りに就いていた重臣・鍋島直茂が呼び戻されることとなった 9 。
鍋島直茂は、単なる一介の家臣ではなかった。彼の父・鍋島清房が隆信の母・慶誾尼を継室に迎えたことにより、直茂は隆信の義弟という極めて近しい関係にあった 13 。それ以上に、彼は龍造寺家の躍進を軍事・内政の両面で支え続けた、比類なき能力の持ち主であった 15 。今山の戦いにおける奇跡的な夜襲の成功など、その武功は枚挙に暇がなく、家中からの信望も篤かった。この危機的状況において、崩壊した権力構造を再建し、家中を統率しうる人物は、もはや彼をおいて他にはいなかったのである。佐賀に帰還した直茂は、すぐさま戦後処理と領国経営に着手し、事実上の最高権力者として龍造寺家の舵取りを担い始めた。
沖田畷の勝利によって、九州の勢力図は一変した。勢いに乗る島津氏は、九州統一の野望を胸に、破竹の勢いで北上を開始する 2 。これまで龍造寺氏の威光に服していた肥前・筑後の国人衆は、主を失った龍造寺家を見限り、雪崩を打って島津氏へと寝返った 12 。急速に孤立を深めていく龍造寺家に、もはや島津氏の強大な軍事力に抗う術は残されていなかった。当主・政家は、鍋島直茂ら重臣の判断に従い、島津氏に降伏。龍造寺家は、かつての宿敵の支配下に組み込まれるという屈辱的な選択を余儀なくされたのである 7 。
この一連の出来事は、龍造寺家の権力構造における決定的な転換点であった。隆信の死によって生じた権力の真空は、政家ではなく、家中の要請を受けた鍋島直茂によって埋められた。それは簒奪というよりも、崩壊した国家の再建に等しい行為であった。この時点で、龍造寺家の当主は政家でありながら、その存亡は直茂の双肩にかかるという、主従が逆転した「ねじれ構造」が、誰の目にも明らかな形で確立されたのである。
沖田畷の戦い以降、島津氏の勢力は九州のほぼ全域を覆い尽くし、その覇権は目前に迫っていた。この状況を座視しなかったのが、天下統一を目前にした豊臣秀吉であった。天正15年(1587年)、秀吉は20万とも27万ともいわれる空前の大軍を動員し、九州平定に乗り出した 2 。
この天下人の介入は、龍造寺家にとって大きな転機となった。先見の明に長けた鍋島直茂は、早くから秀吉と誼を通じており、中央の動向を注視していた 17 。秀吉の大軍が九州に上陸すると、龍造寺家は直茂の主導のもと、いち早く豊臣方に恭順の意を示し、島津氏討伐軍の先鋒として参陣した 9 。この迅速な対応が、龍造寺家の存続を決定づけることになる。
秀吉の圧倒的な軍事力の前に、島津氏は降伏。九州は平定された。戦後処理において、龍造寺家は肥前7郡、実に30万9902石に及ぶ広大な旧領を安堵された 9 。しかし、その安堵の実態は、極めて異例なものであった。
秀吉から発給された所領安堵の朱印状の宛名は、当主である龍造寺政家ではなかった。記されていたのは、当時わずか2歳であった政家の嫡男・長法師丸(後の高房、通称は藤八郎)の名だったのである 9 。これは、秀吉が政家を大名当主としての器量に欠けると判断し、事実上その存在を黙殺したことを意味する。そして、幼い当主の後見人として、実質的な領国支配を鍋島直茂に委ねるという秀吉の明確な意思表示であった。
この方針を裏付けるように、鍋島直茂とその子・勝茂には、龍造寺家の知行とは別に、合計4万4500石もの所領が与えられた 9 。これにより、鍋島氏が龍造寺家中において別格の地位にあることが、天下人の権威によって公式に認められたのである。沖田畷以降、事実上のものであった鍋島直茂の支配体制は、秀吉という中央権力によって追認され、制度として固定化されるに至った。
秀吉の政家に対する不信感を決定づける出来事が起こる。九州平定後、隣国・肥後で国人一揆が勃発した際、秀吉は周辺大名に鎮定のための出兵を命じた。しかし、政家はこの命令に応じなかったとされる 9 。この不手際を、鍋島直茂が秀吉に懸命に弁明することで事なきを得たが、この一件は秀吉に「政家に国政を任せることはできない」と確信させた可能性が高い。
天正18年(1590年)、政家は「病弱」を理由として、秀吉から隠居を命じられた 21 。これにより、家督は幼い高房が継承し、領国の統治、すなわち国政の一切は、公式に鍋島直茂が代行することが秀吉によって承認された 7 。龍造寺家の「家督(名)」と「領国支配権(実)」が、天下人の公認のもとで完全に分離されるという、前代未聞の二重統治体制がここに確立したのである。
政家の「病」が、統治不能なほどの重病であったかを示す具体的な記録は乏しい。むしろ、この「病」は、秀吉と直茂が龍造寺家の支配権を円滑に移行させるための、極めて政治的な口実であったと見るべきであろう。当主を強制的に排除するのではなく、「病気による隠居」という体裁を整えることは、家中の無用な混乱を避け、権力移譲を正当化する上で最も穏便な方策であった。政家自身も、天下人の命令に抗う術はなく、この決定を受け入れざるを得なかった。かくして、龍造寺家から鍋島家への権力移譲は、中央権力の介入と承認という「合法的」な手続きを経て、決定的な段階へと進んだのである。
天正14年(1586年)に生まれた龍造寺高房は、父・政家が秀吉の命により隠居した天正18年(1590年)、わずか5歳で龍造寺家の家督を相続した 26 。しかし、それは名ばかりの当主職であった。肥前佐賀の領国支配の現実は、豊臣政権、そしてその後の徳川幕府の公認のもと、重臣である鍋島直茂とその子・勝茂が完全に掌握していた 26 。
成長するにつれ、高房は自らが置かれた矛盾した立場を深く認識するようになる。彼は龍造寺家の正統な当主であり、名目上の「主君」であったが、実権はすべて鍋島氏に握られ、自らの意志で家臣一人を動かすことさえままならなかった。この「家督」と「支配権」が分離した歪な二重統治体制は、青年へと成長した高房の自尊心を深く傷つけ、彼の精神に深刻な圧迫を加え続けた。幕府に対して実権を龍造寺家に戻すよう訴え出たこともあったが、その願いが聞き入れられることはなかったという 29 。
慶長12年(1607年)3月、江戸桜田屋敷にて、高房の鬱屈した絶望は、ついに悲劇的な形で爆発する。当時22歳であった高房は、突如として正室を刺殺し、その刃で自らも腹を切り、自害を図るという惨劇を引き起こしたのである 26 。
彼の正室は、鍋島直茂の養女(重臣・鍋島茂里の長女)であった 26 。この婚姻は、龍造寺家と鍋島家の関係を繋ぎ、同時に鍋島氏が高房を監視するための政略的な意味合いを持っていた。高房にとって、妻の存在は自らを縛り付ける鍋島支配の象徴そのものであったのかもしれない。彼女を殺害するという凶行は、単なる家庭内の不和に起因するものではなく、自らの無力な立場に対する、そして鍋島氏の支配そのものに対する、最後の絶望的な抗議行動であったと解釈できる。
高房は一命を取り留めたものの、この時の傷がもととなり、同年9月6日、失意のうちに江戸でその短い生涯を閉じた 23 。
高房の凶行の報は、佐賀にいた鍋島直茂を激怒させた。直茂は、隠居の身であった政家に対し、後に「お恨み状」と称されることになる痛烈な詰問状を送りつけた 23 。
この書状の中で直茂は、隆信亡き後の龍造寺家をいかに自分が命懸けで支えてきたかを切々と訴え、その恩義を仇で返すような高房の所業は言語道断であると厳しく糾弾した。そして、罪のない妻を殺害するという非道な行為によって、高房は家臣団からの信望を完全に失い、龍造寺家の存続はもはや絶望的になったと断じている 23 。この「お恨み状」は、単なる怒りの表明に留まらない。それは、もはや鍋島家が龍造寺家を主君として遇する必要はないという、事実上の決別宣言であった。高房の悲劇的な死は、龍造寺家の名目上の権威さえも完全に失墜させ、主家交代への最後の扉を開くことになったのである。
愛息・高房が江戸で起こした惨劇と、それに続く非業の死は、隠居生活を送っていた龍造寺政家に計り知れない衝撃と失意をもたらした。鍋島直茂からの厳しい「お恨み状」を受け、自らの家の行く末に絶望した政家は、高房の死からわずか1ヶ月後の慶長12年(1607年)10月2日、まるで後を追うかのようにこの世を去った 6 。享年52。この父子の相次ぐ死によって、かつて九州に覇を唱えた戦国大名・龍造寺家の宗家は、事実上断絶した。
龍造寺宗家の家督が空位となったことで、肥前佐賀の領主権の帰属は、徳川幕府にとっても喫緊の課題となった。幕府の意向を受け、龍造寺隆信の弟である多久長信や須古信周、一門の諫早家晴といった龍造寺一門の重鎮たちが江戸に召集され、後継者問題について協議が行われた 31 。
その席で、龍造寺一門は衆議一決の上、幕府に対して一つの結論を申し出た。それは、これまでの鍋島直茂・勝茂父子の功績と、すでに領国を安定的に治めている実績を認め、鍋島勝茂に龍造寺家の家督を継承させるというものであった 33 。これは、もはや鍋島氏の統治以外に領国の安定と存続はあり得ないという、龍造寺一門による現実的かつ最終的な判断であった。この「禅譲」の申し出は、鍋島氏による権力継承にこの上ない正当性を与えることになった。
この一門の合意を受け、徳川幕府は鍋島勝茂を正式に肥前35万7千石の領主として公認した 28 。ここに、名実ともに鍋島氏を藩主とする佐賀藩が成立したのである。慶長18年(1613年)には、幕府より勝茂に対して領地安堵の朱印状が改めて発給され、鍋島家の藩主としての地位は法的に完全に確立された 28 。
龍造寺宗家は断絶したが、その血脈が完全に途絶えたわけではなかった。
この龍造寺家から鍋島家への劇的な権力交代劇は、後世、庶民の間で一つの有名な怪談を生み出す母体となった。それが「鍋島化け猫騒動」である 36 。物語は、鍋島藩主によって無念の死を遂げた龍造寺家の者の怨念が、その飼い猫に乗り移り、化け猫となって鍋島家に祟りをなすという筋書きで、江戸時代を通じて歌舞伎や講談の人気演目となった 38 。これはもちろん創作であるが、その背景には、主家を凌駕した家臣への複雑な感情や、高房の悲劇に象徴される龍造寺家の無念といった、公式の歴史には記されない人々の記憶が色濃く反映されていると言えよう 38 。
龍造寺政家の生涯を振り返るとき、彼は歴史の表舞台で華々しい活躍を見せた人物ではない。むしろ、その生涯は偉大な父・隆信の死、傑出した家臣・鍋島直茂の台頭、そして天下人・豊臣秀吉の介入という、自らの力では抗い難い巨大な奔流に翻弄され続けたものであった。彼を、父のような武将としての器量に欠けた「無力な当主」と評価することは容易い。しかし、その評価はあまりに一面的であろう。
彼の人生は、時代の大きな転換点に、没落しゆく名家の当主として生まれた者の悲劇そのものであった。戦国乱世の価値観が通用しなくなり、中央集権的な近世の秩序が形成されていく過程で、龍造寺家は旧時代の象徴として解体されていく運命にあった。政家は、その歴史の必然ともいえるプロセスを、当主という最も象徴的な立場で、ただ静かに見届ける役割を担わされたのである。
しかし、彼のその受動的な姿勢が、逆説的に領国と家臣団を救ったという見方も可能である。もし政家が、父・隆信のような気性で鍋島直茂と真っ向から対立していたならば、龍造寺家は深刻な内乱に陥り、豊臣政権によって容赦なく取り潰されていた可能性が高い。彼の「何もしなかった」こと、あるいは「何もできなかった」ことが、結果として龍造寺家の旧臣たちが鍋島藩士として生き残り、その領国が「佐賀藩」という新たな形で存続する道を開いたとも言えるのである。
残された逸話は、彼の人物像を垣間見せる。九州平定の折、豊臣秀吉との碁の対局に敗れた後、秀吉が帰る際の挨拶も忘れ、盤面を見つめて敗因を考え込んでいたという話がある 8 。これは、彼が現実の権力闘争よりも、盤上の論理のような静謐な世界に心を寄せる、内向的な文化人であったことを示唆している。また、文書に用いる印章を、相手の身分に応じて朱印と黒印で明確に使い分けていたことも知られており、当主としての権威や秩序に対して、彼なりに繊細な感覚を持っていたことが窺える 8 。
龍造寺政家は、戦国という時代が生んだ最後の当主の一人であり、近世という新たな時代の到来を、その身をもって体現した象徴的な人物であった。個人の武勇が全てを決定した父・隆信の時代は終わり、中央権力への恭順と、安定した統治能力を持つ鍋島直茂の時代が始まった。政家は、その二つの時代の狭間で、自らの家が歴史の舞台から静かに退場していく様を見届け、そして歴史の中に消えていった。彼の生涯は、華々しい成功譚ではないかもしれないが、時代の転換期に生きた人間の苦悩と悲哀を、静かに、そして深く我々に語りかけている。