最終更新日 2025-07-20

龍造寺胤久

龍造寺胤久は肥前の龍造寺氏17代当主。叔父家兼の実権下で傀儡的存在だったが、泰長院を建立。その血筋は孫の隆信に繋がり、龍造寺氏飛躍の礎となった。

龍造寺胤久 ― 肥前の熊の祖父、傀儡として生きた宗家当主の実像

序論:龍造寺胤久という存在

戦国時代の九州、肥前国(現在の佐賀県)にその名を刻んだ龍造寺氏。その歴史において、後に「肥前の熊」と恐れられ、大友氏、島津氏と並び「九州三強」の一角をなすまでに勢力を拡大した龍造寺隆信は、戦国大名として広く知られている 1 。しかし、その隆信の祖父にあたり、龍造寺氏の宗家第17代当主という公式な地位にあった人物、龍造寺胤久(りゅうぞうじ たねひさ)の生涯については、これまで十分に光が当てられてきたとは言い難い 3

胤久の生涯は、一門の最長老であり分家の当主であった叔父・龍造寺家兼の強大な影響下にあり、「傀儡に近い存在であった」というのが通説である 4 。宗家の当主でありながら、その実権は叔父に掌握され、歴史の表舞台で主体的な役割を果たすことは少なかった。彼の名は、龍造寺氏が関わった重要な合戦の総大将として記録に残りながらも、その功績が彼自身に帰せられることはほとんどない。

しかし、胤久を単なる無力な傀儡として片付けることは、彼が生きた時代の複雑な権力構造と、龍造寺氏の歴史における連続性を見誤る可能性がある。本報告書は、龍造寺胤久という人物の生涯を徹底的に調査し、彼が置かれた状況、一族内の力学、そして彼が果たした役割を多角的に分析するものである。宗家と分家の対立という構造的な問題を抱えた一族の中で、彼が「当主」として存在したことの意味、そして彼の血脈が後の龍造寺氏の飛躍に如何に繋がっていったのかを史料に基づき深く掘り下げることで、歴史の連鎖の中に埋もれた一人の武将の実像を明らかにすることを目的とする。

第一章:龍造寺氏の系譜と胤久の出自

龍造寺胤久の生涯を理解するためには、まず彼が属した龍造寺一族の歴史的背景と、その内部に存在した構造的な問題を把握することが不可欠である。胤久が直面した困難の多くは、彼が家督を継承する以前から一族に深く根差していた。

龍造寺氏の起源と勢力基盤

龍造寺氏は、藤原姓を称する一族で、その出自については藤原秀郷流、高木氏流など諸説あるが、いずれにせよ藤原氏の一門とされている 6 。彼らは肥前国佐賀郡龍造寺村(現在の佐賀市城内周辺)を本拠地とする国人領主として、鎌倉時代からその地で勢力を培ってきた 8

室町時代に入ると、龍造寺氏は当初、九州探題であった渋川氏に、後には肥前の守護であった少弐氏の被官、すなわち家臣として活動した 6 。特に、西国の雄である大内氏が九州への影響力を強めると、龍造寺氏は主家である少弐氏の主力部隊として、大内氏との間で繰り広げられた数々の戦いに身を投じた 6 。この少弐氏との主従関係は、長きにわたり龍造寺氏の対外的な立場と行動を規定する重要な要素であった。

宗家と分家の分裂

龍造寺氏の歴史における大きな転換点となったのが、宗家と分家の分裂である。明応元年(1492年)頃、第14代当主であった龍造寺康家は、家督を次男の家和(いえかず)に譲り、自らは五男の家兼(いえかね)と共に新たに水ヶ江(みずがえ)に館を築いて隠居した 6 。これにより、家和を当主とする「村中龍造寺家」(宗家)と、家兼を中心とする「水ヶ江龍造寺家」(分家)という、二つの権力中枢が形成されることとなった 6

宗家は古くからの拠点である佐賀城(村中城)を、分家は新たに築かれた水ヶ江城を本拠とし、物理的にも二つの家が並立する体制が生まれた 11 。この分裂は、単なる庶流の創設とは異なり、前当主である康家が分家側に付いたことから、水ヶ江龍造寺家は当初から宗家と比肩しうる重みを持っていた。この二頭体制は、平時においては一族の防備を固める効果もあったが、外部からの圧力や世代交代といった変動期においては、必ず権力闘争の火種となる構造的な脆弱性を内包していた。胤久の治世は、まさにこの構造的矛盾が顕在化する時代であったと言える。

胤久の誕生と家族

龍造寺胤久は、明応九年(1500年)、村中龍造寺家の当主であり、龍造寺氏第15代当主とされる龍造寺家和の子として生を受けた 4 。通称は新次郎と伝わる 4

彼は家和の次男であり、本来であれば家督を継承する立場にはなかった 4 。家督は兄である胤和(たねかず)が継ぐはずであったが、この胤和が早世したことにより、胤久の運命は大きく変わることになる 4 。胤久は、一族が抱える構造的な問題と、兄の死という偶然の出来事が交差する中で、龍造寺宗家の当主として歴史の舞台に登場することになるのである。


表1:龍造寺氏主要人物関係図(胤久の時代)

家系

世代

人物名

続柄・備考

(宗家)村中龍造寺家

14代

龍造寺康家

家和・家兼の父。家兼と共に水ヶ江へ。

15代

龍造寺家和

康家の次男。宗家を継承。 胤久 の父 13

16代

龍造寺胤和

家和の長男。早世 4

17代

龍造寺胤久

家和の次男。兄の死により家督継承 4

慶誾尼

胤久 の娘。周家の妻、隆信の母 15

18代

龍造寺胤栄

胤久 の嫡男。

(分家)水ヶ江龍造寺家

14代

龍造寺康家

(同上)

(分家祖)

龍造寺家兼

康家の五男。分家を興し、実権を掌握 17

龍造寺家純

家兼の嫡男。馬場頼周により殺害される 17

龍造寺周家

家純の子。慶誾尼の夫、隆信の父 15

龍造寺隆信

周家の子。 胤久 の孫。後の龍造寺氏20代当主 1


第二章:家督相続の経緯と当時の権力構造

龍造寺胤久が宗家の当主となった経緯は、彼の置かれた立場と当時の権力構造を象徴している。それは、実力よりも形式と血筋が重んじられた結果であり、その背後には分家の実力者である叔父・家兼の政治的計算が透けて見える。

異例の家督相続

胤久の家督相続は、二重の意味で異例であった。第一に、彼は次男であり、本来の継承者ではなかった点である。兄・胤和が父・家和の死後、家督を継いだものの、間もなく早世したため、弟である胤久にその座が巡ってきた 4 。兄の死という偶然の出来事が、彼の人生を大きく左右した。

第二に、その相続の形式である。胤久は、兄・胤和の未亡人、すなわち義姉を娶るという形で家督を継承した 4 。この女性は、龍造寺一門である龍造寺胤家の娘・賀昌院であった 4 。このような婚姻形態は、前当主の正統な血縁と権威を継承することで、次男であった胤久の相続の正当性を補強し、内外に示すための政治的な意味合いが強かったと考えられる。自身の権力基盤が盤石でなかったからこそ、こうした形式的な手続きが不可欠だったのである。

偏諱の拝領とその意義

胤久の立場をさらに物語るのが、彼の名前そのものである。彼は、当時の肥前における有力な国人領主であった九州千葉氏の当主・千葉胤勝から「胤」の一字を賜り、「胤久」と名乗った 4 。主君や地域の有力者から名前の一字(偏諱)を拝領することは、その人物の権威に服属し、庇護下にあることを示す当時の慣習であった。

この事実は、龍造寺氏が依然として独立した戦国大名ではなく、周辺の有力者の権威を必要とする一国人に過ぎなかったことを示唆している。特に、主家である少弐氏の勢力が大内氏の圧迫によって衰退する中で、同じく少弐氏の重臣であった千葉氏との連携を強化し、その権威を借りることで自らの立場を安定させようとする意図があったと見られる。胤久個人の権威が、外部の力によって補完されなければならなかった状況がここにも表れている。

所領安堵の背景

ご依頼者が事前に把握されていた情報にある、千葉胤勝や大友義鑑からの所領安堵についても、この文脈で理解する必要がある。これらの所領安堵は、胤久個人の武功や政治的手腕に対する報酬というよりも、龍造寺氏という一族、そしてその実質的な指導者であった龍造寺家兼が、周辺勢力との複雑な外交関係の中で獲得した成果と見るのが妥当である。

特に大友氏との関係は、この時期の九州の勢力図を反映して流動的であった。龍造寺氏は、大内氏に対抗するために大友氏に接近することもあれば、状況次第では敵対することもあった 6 。胤久の名で発給された所領安堵状が存在したとしても、それは宗家当主という公式な立場に基づく形式的なものであり、その背後にある交渉や軍事行動を主導していたのは、叔父・家兼であった可能性が極めて高い。胤久の家督相続は、実力によって勝ち取られたものではなく、血筋という「正統性」と、婚姻や偏諱といった「形式」を整えることで、かろうじて成り立っていた。これは裏を返せば、実力者である家兼が、自らが表に立つことなく一族を統制するために、形式的な「正統な当主」を必要としていたことの証左に他ならない。

第三章:実力者・龍造寺家兼と「傀儡の当主」

龍造寺胤久の治世を語る上で、叔父であり水ヶ江龍造寺家の当主である龍造寺家兼の存在を抜きにしては成立しない。胤久が「傀儡の当主」と評されるのは、この家兼との圧倒的な力関係に起因する。宗家の「権威」と分家の「実力」という歪な二頭体制は、この時代に頂点を迎えた。

水ヶ江龍造寺家の実力者・家兼

龍造寺家兼は、分家の当主という立場にありながら、智勇に優れた傑物であった 18 。一門の最長老として、その経験と実績から家中において絶大な発言力と影響力を保持していた 4 。彼は、兄・家和の死後、そしてその子である胤和、胤久の代にかけて、弱体化した宗家を後見・補佐するという名目のもと、事実上、龍造寺氏全体の家政と軍事における実権を完全に掌握していた 17

家兼の指導力は、主家である少弐氏からも高く評価され、対大内氏戦線において龍造寺氏は不可欠な戦力と見なされていた。その功績のほとんどは、家兼とその配下の者たちによってもたらされたものであり、龍造寺氏の家臣や周辺の国人たちも、宗家当主の胤久ではなく、水ヶ江の家兼を事実上の指導者として認識していたと考えられる。

傀儡としての胤久

複数の史料が、胤久は家兼の「傀儡に近い存在であった」と一致して記述している 4 。これは、単なる比喩ではなく、政治の実態を的確に表した評価であった。当主の名で発給されるべき知行安堵状や感状、他勢力との外交交渉、そして軍事行動の最終決定権といった、当主が本来持つべき権限はすべて家兼の手にあった。胤久の役割は、家兼が決定した方針を、宗家当主の名において追認し、公式化するための「機関」に過ぎなかった。彼は、一族の公式な「顔」としての役割に限定され、その意志が家中の決定に反映されることはなかったと推測される。

二頭体制の力学と「傀儡」の政治的機能

では、なぜ圧倒的な実力を持つ家兼は、自らが当主とならず、胤久を傀儡として立てる必要があったのか。これは、戦国時代における極めて巧妙な政治的判断の結果であった。室町幕府の将軍とそれを擁立した管領家の関係に見られるように、実力者が形式上の主君を傀儡とすることは、当時の政治力学において珍しいことではなかった 24

家兼が宗家を乗っ取るという直接的な下剋上を避けた背景には、龍造寺氏が置かれた不安定な立場がある。彼らは依然として少弐氏の家臣であり、その少弐氏自体も大内氏の脅威に常に晒されていた。このような状況で、一族内の完全な分裂や内紛を誘発するような直接的な権力奪取は、共倒れを招きかねない危険な選択であった。

そこで、家兼は胤久という「正統な当主」を立てることを選んだ。胤久の存在は、家兼にとって極めて重要な政治的資産であった。対外的には「龍造寺宗家当主・胤久」の名を用いることで、主家である少弐氏や他の国人たちとの交渉を円滑に進めることができる。また、一族内部に対しては、宗家の血筋を尊重しているという姿勢を示すことで、家臣団の無用な反発や離反を防ぐことができた。胤久という存在は、家兼の野心と一族存続という現実的な要請を両立させるための、巧みな「緩衝材」であり、その行動を正当化するための「大義名分」そのものであった。胤久の傀儡としての役割は、単に無力であったというだけでなく、龍造寺氏という組織が戦国の荒波を乗り切るための、一つの政治的機能を有していたのである。

第四章:享禄・天文年間の動乱と胤久の役割

龍造寺胤久の治世は、九州北部の覇権を巡る大内氏と少弐氏の抗争が激化した時代と重なる。この動乱期において、龍造寺氏は少弐方の中核として重要な戦いに参加した。その中で最も特筆すべきが「田手畷(たでなわて)の戦い」である。この戦いにおける胤久の立場は、彼の「傀儡の当主」としての役割を具体的に示す象徴的な事例と言える。

田手畷の戦い(享禄三年、1530年)

享禄三年(1530年)、周防の大内義隆は、長年の宿敵である少弐資元を滅ぼすべく、重臣の杉興運を大将とする大軍を肥前に侵攻させた 10 。主家である少弐氏の危機に際し、その筆頭家臣であった龍造寺氏は、一族を挙げてこれを迎え撃つことになった。この戦いは、佐賀平野の湿地帯である田手畷で行われた 26

複数の史料によれば、この戦いにおいて龍造寺軍の総大将は、宗家当主である龍造寺胤久であったとされている 4 。これは、彼が公式な当主として、一族を率いて出陣するという対外的な義務を果たしたことを示している。しかし、戦いの実態は、名目上の総大将である胤久の意図とは別のところで動いていた。

兵力で圧倒的に劣勢だった少弐・龍造寺連合軍は、当初、敗色が濃厚であった 26 。この絶望的な状況を覆したのが、叔父・龍造寺家兼の卓越した戦術と、その指揮下で動いた家臣たちの奮戦であった。家兼は湿地帯の地形を巧みに利用した奇策を立て、その実行部隊として、家兼の娘婿である鍋島清房とその父・清久が率いる一隊が重要な役割を果たした 17 。彼らは、兜に赤熊(しゃぐま)の飾りをつけて敵味方を識別し、大内軍の側面に猛烈な奇襲を仕掛けた 14 。この予期せぬ攻撃に大内軍は混乱に陥り、総崩れとなって敗走した。

この田手畷の戦いの勝利により、龍造寺氏の名声、とりわけ家兼の武名は九州一円に轟くこととなった 17 。しかし、その輝かしい戦功が、総大将であった胤久個人のものとして語られることはない。この戦いは、当時の権力の実態を如実に物語っている。当時の武家社会において、軍功は権力の源泉であり、名声や発言力を得るための最大の手段であった。その勝利の果実が、名目上の総大将である胤久ではなく、実質的な指揮官であった家兼とその配下の者たちに独占されたという事実は、権力が完全に家兼の手にあったことを何よりも雄弁に示している。胤久は、一族の存亡をかけた戦いの勝利の栄誉すら享受できない、名実ともに「お飾り」の当主であったことが、この戦いを通じて明確に裏付けられるのである。

第五章:当主としての治績と文化的側面

軍事や外交といった政治の表舞台で、叔父・家兼の影に隠れがちであった龍造寺胤久。しかし、彼の治世において、当主として主体的に行ったと見られる数少ない活動が存在する。それは、寺院の建立という文化的・宗教的な事業である。この活動は、実権なき当主が自らの存在意義を示そうとした痕跡として、注目に値する。

泰長院の建立(天文五年、1536年)

胤久の治績として最も明確に記録されているのが、天文五年(1536年)の泰長院(たいちょういん)の建立である 28 。この寺は、胤久によって曹洞宗の寺院として創建され、当初は龍造寺氏の居城である佐賀城内に置かれていたと伝えられる 30 。後に慶長年間(1596年~1614年)の佐賀城改築に伴い、現在の佐賀市与賀町に移転し、現在は臨済宗南禅寺派に属している 28

この泰長院建立は、胤久が自らの名で行った、記録上最も大規模な事業である。政治的・軍事的な実権をほとんど持たない中で、なぜ彼はこのような事業を行ったのか。その動機については、いくつかの解釈が可能である。

一つは、政治的な自己主張の試みという解釈である。古来、為政者にとって寺社の建立や保護(パトロネージ)は、自らの権威と財力を内外に示すための重要な手段であった。実権を叔父に握られている胤久が、当主として許された範囲の中で、自らの権威を少しでも示し、歴史に名を残そうとした、ささやかながらも明確な意志の表れと見ることもできる。

もう一つは、個人的な信仰心の発露という解釈である。主家と大内氏との絶え間ない戦乱、そして一族内部に漂う緊張関係。こうした不安定な世情の中で、仏教に深く帰依し、一族の安寧や戦没者の追善、そして自身の菩提を弔うことを目的としていた可能性も十分に考えられる。彼の戒名が「泰長院殿長雲道久」であることからも 4 、この寺院が彼にとって特別な意味を持っていたことがうかがえる。この建立は、彼の無力さの証明であると同時に、一人の人間としての矜持や信仰心の痕跡と捉えることができるだろう。

その他の文書の可能性

佐賀県立図書館には、県の重要文化財に指定されている「龍造寺家文書」が所蔵されており、南北朝時代から戦国時代にかけての貴重な古文書が多数含まれている 31 。この中には、胤久が当主として発給した文書が含まれている可能性がある。彼が称した官位である「民部大輔」や「大和守」の名で記された寄進状や所領安堵状などが発見されれば、これまで不明瞭であった彼の統治の実態や、当主としての具体的な活動を知る上で、極めて重要な一次史料となる 4 。現存する資料からはその具体的な内容は確認できないが 33 、今後の研究によって、胤久の新たな側面が明らかになることが期待される。

第六章:その死と、龍造寺氏の未来への架け橋

龍造寺胤久の生涯は、天文八年(1539年)に終わりを告げる。しかし、彼の死は龍造寺氏の歴史における一つの区切りであると同時に、一族が新たな動乱期へと突入し、そして最終的に孫である隆信の時代へと繋がっていく重要な転換点でもあった。胤久自身の意図とは無関係に、彼の血脈は龍造寺氏の未来を繋ぐ不可欠な「架け橋」となったのである。

逝去と宗家の継承

龍造寺胤久は、天文八年八月三日(1539年9月15日)に死去した 3 。享年は40(数え年)であった。彼の墓所は、後に龍造寺氏代々の菩提寺となる佐賀の高伝寺に置かれている 4

胤久の死後、村中龍造寺家の家督は、嫡男である龍造寺胤栄(たねみつ)が継承した 6 。しかし、胤栄もまた若く、依然として大叔父である水ヶ江の家兼が後見人として実権を握り続けるという、これまでの権力構造に変化はなかった。胤久という宗家当主の存在が、一族の歪なバランスをかろうじて保つ「重し」として機能していた側面があったとすれば、その死はこのバランスを崩壊させる序曲となった。

胤久の死後、顕在化する危機

胤久の死から6年後の天文十四年(1545年)、龍造寺氏を未曾有の危機が襲う。龍造寺氏、特に水ヶ江家兼一派の権勢が日に日に強まることに強い警戒心を抱いていた主家・少弐氏の重臣・馬場頼周が、龍造寺一族の粛清を画策したのである 17

馬場頼周は、巧みな謀略によって家兼とその主力部隊を領外の戦いにおびき出し、その隙に佐賀を攻撃した 17 。この謀略により、水ヶ江龍造寺家の後継者であった家兼の子・家純や家門、そして孫の周家、純家といった一族の主だった者たちが次々と殺害されるという、壊滅的な打撃を受けた 15 。御年90歳を超えていた家兼自身は、かろうじて筑後国の蒲池鑑盛のもとへ逃れたが、龍造寺氏の勢力は一時的に瓦解した 17

血脈の継承者、慶誾尼と隆信

この馬場頼周による大粛清事件は、龍造寺氏の歴史における最大の悲劇の一つであるが、同時に次代の英雄を生み出すきっかけともなった。この時、殺害された龍造寺周家の妻こそ、他ならぬ龍造寺胤久の娘・慶誾尼(けいぎんに)であった 15 。そして、慶誾尼と周家の間に生まれていた嫡男こそが、当時まだ幼く、出家して円月と名乗っていた、後の龍造寺隆信なのである 1

つまり、隆信は父方から水ヶ江龍造寺家の血を、そして母・慶誾尼を通じて村中龍造寺家当主・胤久の血を引く、両家の血脈を統合する存在であった。夫を失った慶誾尼は、後に龍造寺氏の再興に尽力した重臣・鍋島清房に再嫁するという、驚くべき政治的決断を下す 2 。これにより、息子の隆信と、鍋島清房の子である鍋島直茂(後の佐賀藩祖)は、従兄弟であると同時に義理の兄弟という極めて強固な関係で結ばれることになった。

家兼の死後、還俗して水ヶ江龍造寺家を継いだ隆信は、やがて宗家の胤栄も死去すると、その未亡人を娶って村中龍造寺家の家督をも継承する 6 。この時、隆信が両家を統合する正統性の根拠の一つとなったのが、母・慶誾尼を通じて宗家当主・胤久の直系の血を引いているという事実であった。胤久は、彼自身の業績によってではなく、その「血」を通じて、分裂していた龍造寺氏が一つにまとまり、戦国大名として飛躍するための、不可欠な「結節点」としての歴史的役割を担ったのである。

結論:歴史における龍造寺胤久の評価

龍造寺胤久の生涯を総括すると、彼が戦国武将として強力な指導力を発揮し、時代を動かした人物ではなかったことは明らかである。その治世は、叔父である龍造寺家兼の強大な権力の下での「過渡期」であり、彼自身は実権なき「傀儡の当主」として、歴史の表舞台の中央に立つことはなかった。

しかし、彼を単に「無力」「無能」と断じるのは、あまりに一面的であろう。彼の存在は、当時の龍造寺氏が置かれた複雑な状況において、重要な政治的機能を果たしていた。実力者である家兼が、あえて宗家を滅ぼさず胤久を当主として立て続けたのは、胤久が持つ「宗家の正統な血筋」という権威が必要不可欠だったからに他ならない。胤久の存在は、一族の致命的な分裂を回避し、家兼の事実上の支配を円滑に進めるための「大義名分」として機能した。彼の治世は、戦国時代における「権威」と「実力」の乖離と、両者の複雑な相互依存関係を体現した、極めて興味深い事例である。

そして何よりも、胤久の歴史的意義は、彼自身の意図を超えたところで、その血脈が未来へと繋がった点にある。彼の娘・慶誾尼から生まれた孫・龍造寺隆信が、村中・水ヶ江両家の血を引く者として、分裂した一族を統合し、龍造寺氏を九州三強の一角にまで押し上げる。胤久の血筋は、隆信の家督継承における正統性の礎となり、龍造寺氏が戦国大名として飛躍するための揺るぎない基盤を提供した。

最終的に、龍造寺胤久は、自らが時代の主役となることはなかったが、激動の時代に翻弄されながらも、一族の存続と未来の繁栄に不可欠な「環」として、歴史の連鎖の中に確かな足跡を残した人物と評価することができる。彼の生涯は、華々しい武功や権力闘争の陰で、血筋と権威が果たした静かな、しかし決定的な役割を我々に示している。

引用文献

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  2. 龍造寺隆信は何をした人?「肥前の熊と恐れられ大躍進したが哀れな最後を遂げた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/takanobu-ryuzoji
  3. 龍造寺家のページ・家臣一覧とコラム - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/tag/group-ryuzoji
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  33. News お知らせ - 佐賀県立図書館データベース https://www.sagalibdb.jp/news/
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  35. 龍造寺氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E6%B0%8F
  36. 北部九州戦国(年表) - 福岡史伝 https://www.2810w.com/%E5%8C%97%E9%83%A8%E4%B9%9D%E5%B7%9E%E6%88%A6%E5%9B%BD%EF%BC%88%E5%B9%B4%E8%A1%A8%EF%BC%89
  37. 龍造寺隆信 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/ryuzoji-takanobu/
  38. 千葉介胤連 - 千葉氏の一族 https://chibasi.net/kyushu27.htm
  39. 『信長の野望天翔記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/tenshoukidata.cgi?equal1=5D00
  40. 龍造寺隆信(1/2)肥前の熊と呼ばれた男 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/594/