戦国時代の駿河国に、ひときわ強い光芒を放った女性がいた。今川氏親の正室にして、氏輝・義元の母、そして氏真の祖母である寿桂尼その人である。夫の死後、若年の嫡男を補佐して領国経営の舵を取り、その後の義元、氏真の代に至るまで今川家の政治に深く関与し続けた彼女は、後世「女戦国大名」あるいは「尼御台」と称され、その才覚と影響力が語り継がれてきた 1 。
しかし、この「女戦国大名」という呼称は、彼女の存在の特異性を捉える一方で、その権力の性質をややもすれば誤解させる側面も持つ。彼女は恒久的な君主として君臨したわけではない。本報告書は、こうした通俗的なイメージを超克し、近年の歴史研究、とりわけ黒田基樹氏らが提唱する「おんな家長」および「家妻(いえつま)」という学術的視座から寿桂尼の実像に迫ることを目的とする 3 。彼女の生涯は、単なる一個人の物語ではなく、戦国時代という特異な社会構造の中で、女性がいかにして政治的中枢に関与し得たか、またその権力基盤と限界は何であったかを解明するための絶好の事例である。
寿桂尼の歴史上の特異性は、単に政治に関わったという事実以上に、二つの点に集約される。第一に、彼女が自身の印判を用いて公式な政治文書(朱印状)を発給したという「権限の可視化」である 4 。これは他の大名の妻にはほとんど見られない行為であり、彼女の権力が単なる内々の助言にとどまらず、公的な統治行為として行使されていたことを物語る 2 。第二に、その「影響力の持続性」である。彼女の政治への関与は、夫の死後の一時的な後見にとどまらず、息子・義元が壮健な当主として今川家の最盛期を築いた時代でさえも、外交や内政に隠然たる力を持ち続けた 1 。
本報告書は、この「権限の可視化」と「影響力の持続性」を軸に、寿桂尼の約80年にわたる生涯を丹念に追い、彼女が今川家の興隆から滅亡までを貫く一本の軸として、いかにして時代と対峙したかを明らかにしていく。
寿桂尼は、その出自からして非凡であった。彼女は藤原北家勧修寺流の名門公家、中御門家の出身であり、父は権大納言の要職にあった中御門宣胤である 1 。当時の公家社会は、応仁・文明の乱(1467-1477年)以降、地方の荘園からの収入が途絶え、経済的に著しく困窮していた。しかし、その文化的権威は未だ健在であった。父・宣胤は、そうした荒廃した朝廷にあって、当代随一の知識人であった一条兼良に師事し、有職故実(朝廷の儀式や典礼)の復興に尽力した、当代を代表する文化人・知識人であった 12 。和歌や書にも巧みであったと伝えられる宣胤の薫陶を受けた寿桂尼は、幼少期から高度な教養を身につけていたと推察される。この文化的背景は、後に彼女が政治の舞台で発揮する知性と判断力の素地を形成したと考えられる 7 。
寿桂尼が駿河の戦国大名・今川氏親に嫁いだのは、永正2年(1505年)頃、彼女が20歳前後の時であったとされる 1 。この婚姻は、当時の時代背景を色濃く反映した政略結婚であった。経済的に困窮する公家は、地方の有力大名と縁組を結ぶことで経済的支援を確保し、一方で大名側は、京都の文化的権威と朝廷への繋がりを手にすることで、自らの支配の正統性を高め、箔を付けるという相互の利害が一致したのである 13 。
今川氏親自身も和歌や連歌を嗜むなど、京文化への憧憬が強い人物であった 15 。また、彼の父・義忠の代から今川家は京との結びつきを重視しており、この婚姻は、今川家の本拠地・駿府を「小京都」として発展させようとする氏親の政策を象徴する出来事であった 15 。実際に、氏親から父・宣胤へは金品が贈られ、宣胤からは返礼として古典の書物が贈られるなど、両家の間には密接な交流があった 13 。
この婚姻が今川家にもたらしたものは、単なる文化的な権威の獲得にとどまらなかった。それは、京都の公家社会全体に直結する強力な人脈ネットワークという、目に見えない「外交的資産」の獲得を意味した。寿桂尼の父・宣胤は朝廷復興の中心人物であり、彼女の弟・宣秀も後に駿河を訪れ歓待を受けている 12 。このパイプは、後に寿桂尼が他大名との婚姻外交を斡旋する際に絶大な力を発揮することになる。彼女は今川家に嫁いだ時点で、すでに将来の外交顧問としてのポテンシャルを秘めていたのである。
寿桂尼が駿府に嫁いだ当初、今川家にはすでに強大な影響力を持つ女性がいた。夫・氏親の母であり、かの北条早雲(伊勢盛時)の姉にあたる北川殿である 15 。近年の研究では、戦国大名家において、当主である「家長」と対をなし、家の奥向き(家政、子女の養育、婚姻など)を統括する存在として「家妻(いえつま)」の役割が重要視されている 4 。北川殿は、まさにこの「家妻」として今川家に君臨していた。彼女は、夫・義忠が戦死した後の家督争いに際し、弟・早雲の武力を巧みに利用して息子の氏親を当主に据えるなど、卓越した政治手腕の持ち主であった 9 。
寿桂尼は、この強力な姑の下で、まず今川家の正室としての地位を固めていった。やがて彼女が氏輝をはじめとする子供たちを出産し、北川殿が政治の第一線から引退するのに伴い、寿桂尼がその「家妻」としての役割と権威を正式に継承したと考えられる 4 。北川殿という先達の存在は、寿桂尼にとって、戦国大名の妻として、また家の政治に関わる者としての生き方を学ぶ上で、この上ない手本となったであろう。
「家妻」となった寿桂尼は、今川家の血脈を繋ぐという最も重要な役割を果たした。夫・氏親との間には、嫡男・氏輝、次男・彦五郎、そして後の当主となる義元らをもうけた 1 。ただし、義元の生母については、寿桂尼ではなく側室であったとする異説も存在し、今後の研究が待たれる点である 1 。
彼女が産んだ子女は、今川家の外交戦略において極めて重要な駒となった。特に娘たちの政略結婚は、周辺勢力との関係を安定させる上で不可欠であった。長女は三河の吉良義堯に嫁ぎ、遠江平定後の吉良氏との和睦を固めた 1 。そして、何よりも重要なのが、三女・瑞渓院を相模の戦国大名・北条氏康に嫁がせたことである 21 。この婚姻は、北条早雲の代から続く今川・北条両家の同盟関係(駿相同盟)を、血の絆でさらに強固にするものであった。この瑞渓院と氏康の間に生まれたのが、後の北条家当主・氏政である 21 。この血縁関係は、後の甲相駿三国同盟の基盤となり、今川家の外交戦略の根幹を成すことになった 23 。
表1:今川家及び関連人物系図(簡略版)
家 |
人物名 |
寿桂尼との関係 |
備考 |
中御門家 |
中御門宣胤 |
父 |
権大納言。当代一流の文化人。 |
今川家 |
寿桂尼 |
本人 |
今川氏親の正室。 |
|
今川氏親 |
夫 |
今川家9代当主。 |
|
北川殿 |
姑 |
氏親の母。北条早雲の姉。 |
|
今川氏輝 |
長男 |
今川家10代当主。 |
|
今川彦五郎 |
次男 |
氏輝と同日に死去。 |
|
今川義元 |
三男(五男説あり) |
今川家11代当主。桶狭間で戦死。 |
|
今川氏真 |
孫 |
今川家12代当主。義元の子。 |
|
瑞渓院 |
娘 |
北条氏康の正室。 |
|
吉良義堯室 |
娘 |
|
北条家 |
北条氏康 |
娘婿 |
北条家3代当主。瑞渓院の夫。 |
|
北条氏政 |
孫(外孫) |
北条家4代当主。氏康と瑞渓院の子。 |
|
早川殿 |
孫嫁 |
氏康の娘。今川氏真の正室。 |
武田家 |
武田信玄 |
― |
甲斐の戦国大名。義元の妻は信玄の姉。 |
|
武田義信 |
孫の婿 |
信玄の嫡男。義元の娘(嶺松院)の夫。 |
注:子女の数や生母については諸説あるため、主要な人物に絞って記載。
今川氏親は晩年、中風を患い、長年にわたって病床に伏すことが多くなった 15 。この間、寿桂尼は夫に代わって事実上の政務を補佐し、領国経営に関与していたと伝えられる 8 。彼女の政治への関与を象徴する出来事が、戦国時代の分国法(大名が領国統治のために定めた法律)の代表例として名高い『今川仮名目録』の制定である。
この法典は、氏親の死のわずか2ヶ月前である大永6年(1526年)4月に制定された 15 。このタイミングと、氏親がすでに病で政務を執れる状態ではなかった可能性から、歴史学者の間では寿桂尼の関与を巡って議論が交わされてきた。黒沢脩氏や黒田基樹氏は、その内容が仮名交じり文で書かれていることや、氏親の病状から、寿桂尼がその側近らと共に起草の中心となり、氏親の名で公布したのではないかと推測している 1 。一方で、有光友学氏は、他の分国法にも仮名交じり文の例は多く、それだけを根拠に寿桂尼の関与を断定はできないと反論している 1 。
結論は出ていないものの、死期を悟った氏親が、最も信頼するパートナーであった寿桂尼の協力を得て、後継者である氏輝の治世の指針となる法典を遺そうとしたと考えるのは自然な推論であろう。少なくとも、彼女がこの画期的な法典の制定に何らかの形で関与し、その内容を深く理解していたことは、その後の彼女の政治行動からも明らかである。
大永6年(1526年)6月、今川氏親が死去すると、嫡男の氏輝がわずか14歳で家督を相続した 1 。当主が若年であることに加え、病弱であったとも伝えられる氏輝に代わり 4 、母である寿桂尼が後見人として今川家の実権を掌握することになる 9 。ここから、彼女の「おんな家長」としての本格的な活動が開始される。
寿桂尼の政治権力を最も明確に物語るのが、彼女自身の印判を用いて発給された数々の公文書(朱印状)の存在である。彼女が使用した印判には「歸(とつぐ)」の一文字が刻まれていた 8 。この印判は、彼女が今川家に嫁ぐ際に父・宣胤から与えられたものと伝えられている 1 。
近年の研究により、寿桂尼が発給した朱印状は25通確認されており、そのうちの実に13通が、氏輝の後見時代である大永6年(1526年)から天文3年(1534年)までの間に集中している 1 。これらの文書の内容は、家臣の所領を安堵するもの、諸役(税)を免除するもの、寺社へ土地を寄進するものなど、多岐にわたる 2 。これらはまさしく、領国の最高権力者である大名当主が行う政務そのものであった。
さらに注目すべきは、寿桂尼が朱印状を発給している期間、当主である氏輝自身が発給した文書は一切見つかっていないという事実である 4 。これは、彼女の政治活動が単なる当主の「補佐」ではなく、氏輝が政務を執れない期間における完全な「代行」であったことを雄弁に物語っている。彼女は、今川家の公式な統治者として、領国経営の全権を担っていたのである。
戦国時代において、当主の死や幼少、病気などを理由に、その母や妻が一時的に家政を取り仕切る例は、寿桂尼の他にも散見される 5 。しかし、寿桂尼のように、自身の名の入った独自の印判を作成し、体系的かつ継続的に公文書を発給し続けた例は、他国にはほとんど見られない極めて稀なケースである 2 。これは、彼女の「おんな家長」としての役割が、いかに公的で、その権威がいかに強固なものであったかを示している。
この異例の権力行使が家臣団に広く受け入れられた背景には、複数の要因が考えられる。第一に、彼女が正室であり、次期当主の母であるという血統上の「正統性」。第二に、姑・北川殿から継承した「家妻」としての権威。そして第三に、彼女自身が持つ卓越した政治的能力と、それを支える公家出身としての高い教養があったからに他ならない 7 。
この統治を象徴する印判「歸」は、単なる署名の代わりではなかった。この一文字には、彼女の巧みな政治的センスが凝縮されている。文字通り「嫁ぐ」を意味するこの印は、第一に、彼女の権力の源泉が「中御門家から今川家に嫁いだ正室」という正統な立場に由来することを示す「正統性の象徴」であった。そして同時に、第二に、彼女の統治が権力の簒奪ではなく、あくまで今川家に嫁いだ者としての責任を果たす「奉公」であることを内外に宣言する「政治的表明」でもあった。家臣団の反発を抑え、女性による権力代行を円滑に進めるための、計算され尽くしたプロパガンダであったと言えるだろう。
「おんな家長」として若き当主・氏輝を支え、安定した治世を築いた寿桂尼であったが、天文5年(1536年)3月、今川家は未曾有の危機に見舞われる。当主の今川氏輝と、そのすぐ下の弟である彦五郎が、同じ日に揃って急死するという奇怪な事件が発生したのである 27 。
この不可解な死の真相は、今なお歴史の謎に包まれている。疫病が流行したという説、あるいは家督を巡る陰謀による毒殺説などが唱えられているが、確たる証拠はない 27 。いずれにせよ、嫡子のいなかった氏輝の死により、今川家は後継者不在という断崖絶壁に立たされた。家督を継ぐ資格を持つのは、氏親の残された息子たち、すなわち寿桂尼の子で仏門に入っていた栴岳承芳(せんがくしょうほう)と、側室の子である玄広恵探(げんこうえたん)の二人であった 2 。
この国家存亡の機に際し、寿桂尼は断固たる決断を下す。彼女は、駿河国富士郡の善得寺で禅僧となっていた我が子・栴岳承芳を呼び戻し、還俗させて家督を継がせる道を選んだ 2 。この栴岳承芳こそ、後の今川義元である。
正室の子である義元を擁立することは、血筋の正統性という観点から見れば、ごく自然な選択であった。また、寿桂尼は義元の幼少期から、その教育係として傑出した禅僧・太原雪斎を付けており、早くからその器量を見抜き、万一の事態に備えていた可能性も高い 2 。一部には、寿桂尼が武田氏との関係を巡って義元と対立し、当初は恵探を支持したという異説も存在するが 10 、彼女が最終的に義元擁立で家中をまとめたことは疑いようがない。
しかし、この決定に異を唱える勢力が現れる。玄広恵探の母方の一族である福島氏ら、恵探を支持する家臣たちが、遠江国を中心に兵を挙げたのである。彼らは花倉城に立てこもり、今川家を二分する内乱、世に言う「花倉の乱」が勃発した 2 。
この危機に際し、寿桂尼は再びその卓越した政治手腕を発揮する。彼女は軍師・太原雪斎と緊密に連携し、内乱を力で制圧するだけでなく、外交によって勝利を確実なものにした。その切り札となったのが、娘・瑞渓院の嫁ぎ先である相模の北条氏であった。寿桂尼は北条氏綱に協力を要請し、その援軍を取り付けることに成功する 2 。この迅速かつ的確な外交工作が功を奏し、恵探方は孤立。乱はわずか2週間ほどで鎮圧され、玄広恵探は自害に追い込まれた 27 。こうして、寿桂尼の主導のもと、今川義元は名実ともに今川家の当主としての地位を確立したのである。
この花倉の乱における寿桂尼の対応は、かつて彼女の姑・北川殿が、夫の死後に弟・北条早雲の武力を借りて息子・氏親を当主に据えた故事と、その構図が驚くほど酷似している 9 。これは単なる偶然ではない。寿桂尼が、今川家の「家妻」として、先代から家の危機管理のノウハウを学び、継承し、それを非常事態において的確に実践した結果と見るべきであろう。そこには、彼女個人の才覚だけでなく、今川家の女性当主代行者に受け継がれる「政治的伝統」とも言うべきものの存在が垣間見える。
花倉の乱を乗り越え、今川義元の治世が始まると、今川家は軍師・太原雪斎の活躍もあり、領国を三河にまで拡大し、その勢力は絶頂期を迎える 9 。この安定期において、寿桂尼が「おんな家長」として表立って朱印状を発給することはなくなった。しかし、彼女は今川家の「大方殿」として、政治の舞台裏で隠然たる影響力を保持し続けた 30 。
その影響力が最も発揮されたのが、婚姻を通じた外交分野であった。特筆すべきは、甲斐の武田信玄(当時は晴信)の正室に、名門公家である三条家の娘(三条の方)を迎える縁談を斡旋したとされる点である 30 。この婚姻は、武田と今川の同盟関係(甲駿同盟)を盤石にする上で極めて重要な意味を持った。寿桂尼が、自身の出自である京都の公家社会との強固なパイプを外交カードとして駆使し、今川家の安泰に貢献したことを示す好例である。
義元の治世を支えた二人の巨星が、寿桂尼と太原雪斎であった。雪斎は義元の師であり、内政・軍事・外交のあらゆる面で義元を補佐した天才軍師である 9 。寿桂尼と雪斎は、それぞれが「家の内(奥向き・婚姻外交)」と「家の外(政務・軍事)」を分担しつつ、義元を支える両輪として緊密に連携していたと推測される。寿桂尼が築いた外交上の布石を、雪斎が実務として動かすという、絶妙な役割分担があったと考えられる。
寿桂尼の外交努力の集大成とも言えるのが、天文23年(1554年)に成立した、今川・北条・武田の三国間に結ばれた攻守同盟、すなわち「甲相駿三国同盟」である 21 。この同盟は、東国情勢に未曾有の安定をもたらし、今川義元が後顧の憂いなく西方の尾張へ進軍することを可能にした。
この歴史的な大同盟の根幹をなしていたのは、幾重にも張り巡らされた婚姻関係であった。
この複雑な姻戚ネットワークを俯瞰すると、その中心に常に寿桂尼とその子女、そして孫たちが位置していることがわかる。彼女が同盟の全てを設計した「グランドデザイナー」とまでは言えないかもしれない。しかし、信玄・義元・氏康という男性当主たちの政治的決断を支え、同盟を血の絆で結びつける上で、彼女が不可欠な「結節点」であったことは疑いようがない。甲相駿三国同盟は、戦国大名たちの冷徹な政治判断の産物であると同時に、寿桂尼という一人の女性が、自身の子供や孫を通じて数十年にわたり紡いできた「家族の輪」が、国家間の大同盟へと昇華した結果でもあった。彼女は、女性的な役割と見なされがちな「婚姻」を、最高度の「外交戦略」へと高めたのである。
永禄3年(1560年)5月、今川家の運命を根底から覆す事件が起きる。尾張への大軍を進めた今川義元が、桶狭間の地で織田信長の奇襲を受け、討死したのである 2 。”海道一の弓取り”と謳われた当主の突然の死は、今川家に計り知れない衝撃と混乱をもたらした。
家督を継いだのは、義元の嫡男であり寿桂尼の孫にあたる今川氏真であった。しかし、当時22歳と若く、和歌や蹴鞠には通じていたものの、父のような政治的・軍事的器量には乏しいと見なされていた 30 。この危機的状況に際し、すでに70歳を超えていた老齢の寿桂尼は、三度、政治の表舞台に立つことを余儀なくされる。彼女は若き当主・氏真の後見人として、混乱する家臣団をまとめ、崩壊寸前の領国を支えるべく、最後の奉公を開始した 32 。
義元という絶対的なカリスマを失った今川家の求心力は、急速に低下していった。これを好機と見た三河の松平元康(後の徳川家康)は、今川家から独立し、織田信長と同盟を結ぶ 32 。さらに遠江では、井伊氏や飯尾氏といった有力な国人衆の離反が相次ぎ(遠州忩劇)、領国は内部から崩壊を始めた 37 。
寿桂尼は氏真を補佐し、活発に文書を発給するなどして家臣団の引き締めを図ったが 38 、一度流れ出した衰退の奔流を食い止めることはできなかった。彼女が存命であった間は、なんとか駿河・遠江の支配を維持していたものの、その権威にも陰りが見え始めていた。
永禄11年(1568年)3月14日、寿桂尼は、今川家の行く末を深く案じながら、駿府の今川館でその波乱の生涯を閉じた。婚姻の時期からの逆算で、享年は80代中頃であったと推定される 1 。
彼女の死は、単なる一人の老女の死ではなかった。それは、かろうじて今川家を支えていた最後の支柱が折れたことを意味した。特に、甲斐の武田信玄にとって、寿桂尼の死は決定的な意味を持った。桶狭間以降の8年間、信玄が今川領への本格的な侵攻をためらっていた背景には、三国同盟の生き証人であり、その信義を体現する寿桂尼の存在があったからに他ならない。彼女の存在そのものが、信玄に対する強力な「外交的抑止力」として機能していたのである。
その最後の防波堤が失われた今、信玄にためらいはなかった。彼は寿桂尼の死を待っていたかのように、同年12月、三国同盟を一方的に破棄し、大軍を率いて駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻) 1 。氏真はなすすべもなく駿府を追われ、戦国大名としての今川家は、ここに事実上の滅亡を迎える。寿桂尼の死は、まさしく今川家終焉の序曲であった。
寿桂尼は死に際し、「我が死後は、今川館の鬼門(東北)の方角に葬り、死してなお今川の家を守護たらん」と遺言したと伝えられる 1 。その遺言通り、彼女の墓所は、自らが開基した駿府の龍雲寺に築かれた。この遺言は、公家の姫として駿河に嫁いで以来、生涯をかけて守り抜こうとした「今川の家」に対する、彼女の究極の帰属意識と執念の表れであった。
寿桂尼は、その劇的な生涯と卓越した政治手腕から、長らく「女戦国大名」として語られてきた。この呼称は、彼女の存在感を的確に捉える一方で、彼女が恒久的な君主であったかのような誤解を生む可能性もはらんでいる 3 。
近年の歴史学の進展は、彼女の役割をより精緻に分析するための新たな視座を提供した。それが「おんな家長」という概念である 4 。この言葉は、寿桂尼が「家長の不在や機能不全という非常時において、その権限を代行する者」であったという実態を、より正確に捉えるものである。彼女は、あくまで今川家の正統な家長(夫・氏親、息子・氏輝、孫・氏真)の存在を前提とし、その権力を補完・代行する形で統治を行った。
寿桂尼の目覚ましい活躍は、厳格な家父長制社会の中にあっても、戦国時代という特殊な状況下では、女性が家の存続のために最高度の政治的役割を担うことが可能であったことを証明している 7 。戦国時代は、室町幕府のような上位権力による統制が弱まり、各大名家が自力で領国を維持しなければならない「独立王国」の様相を呈していた。このような時代であったからこそ、家長の危機に際して、血縁と正統性を持つ「家妻」が家臣団をまとめ、家長権を代行するという、柔軟な統治形態が許容されたのである 19 。
しかし、その権力には明確な限界も存在した。それは、あくまで男性家長の存在を前提とした、一時的かつ代行的なものであった 3 。彼女が自ら新たな王朝を築いたり、家長の意向を覆して独自の政策を断行したりすることはなかった。彼女の行動原理は、常に「今川の家」の存続と安泰にあり、その枠を超えることはなかったのである。
寿桂尼の生涯は、まさに戦国大名今川家の興亡そのものであった。京の公家の姫として駿河に嫁ぎ、夫・氏親の治世を支えて戦国大名としての礎を築き、息子・氏輝の後見として領国を治め、義元の代には今川家の栄華を舞台裏から演出し、そして孫・氏真の代でその没落を見届け、自らの死がその引き金を引くという、約半世紀以上にわたる壮大な歴史の目撃者であり、また当事者であった 1 。
彼女の類稀なる政治的手腕、外交における先見性、そして何よりも自らが帰属した「家」への献身は、男性中心に語られがちな戦国史において、特異な光芒を放ち続けている。寿桂尼は、戦乱の世を生き抜いた単なる一人の女性ではない。彼女は、時代が要請した「おんな家長」という役割を完璧に演じきった、稀代の政治家であった。
西暦 (年) |
和暦 |
寿桂尼の推定年齢 |
寿桂尼・今川家の動向 |
関連する他家・国内外の動向 |
1486頃 |
文明18頃 |
0歳 |
誕生(推定)。父は中御門宣胤。 |
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1505頃 |
永正2頃 |
20歳頃 |
今川氏親に嫁ぎ、駿府へ下向。 |
|
1513 |
永正10 |
28歳頃 |
長男・氏輝を出産。 |
|
1519 |
永正16 |
34歳頃 |
三男(五男説)・義元を出産。 |
|
1526 |
大永6 |
41歳頃 |
4月、『今川仮名目録』制定に関与か。6月、夫・氏親が死去。14歳の氏輝が家督相続。寿桂尼は後見人となり、「歸」の印判で政務を代行(「おんな家長」となる)。 |
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1535頃 |
天文4頃 |
50歳頃 |
娘・瑞渓院が北条氏康に嫁ぐ。 |
|
1536 |
天文5 |
51歳頃 |
3月、当主・氏輝と弟・彦五郎が同日急死。家督争い「花倉の乱」勃発。寿桂尼は義元を擁立し、北条氏の援軍を得て勝利。11代当主・義元が誕生。 |
武田信虎が今川家との同盟を強化(河東一乱の遠因)。 |
1537 |
天文6 |
52歳頃 |
寿桂尼の斡旋により、武田晴信(信玄)が三条家の娘を正室に迎える。 |
|
1554 |
天文23 |
69歳頃 |
甲相駿三国同盟が成立。寿桂尼の築いた姻戚関係が同盟の基盤となる。孫の氏真が北条氏康の娘・早川殿と結婚。 |
|
1555 |
弘治元 |
70歳頃 |
軍師・太原雪斎が死去。 |
|
1560 |
永禄3 |
75歳頃 |
5月、桶狭間の戦いで息子・義元が織田信長に討たれる。孫・氏真が家督相続。寿桂尼は再び後見役として政治の表舞台に立つ。 |
松平元康(徳川家康)が岡崎城で自立。 |
1568 |
永禄11 |
83歳頃 |
3月14日、駿府の今川館にて死去。龍雲寺に埋葬される。 |
12月、寿桂尼の死を受け、武田信玄が駿河侵攻を開始。戦国大名今川家が事実上滅亡する。 |
1590 |
天正18 |
― |
娘・瑞渓院が小田原征伐の最中に死去。 |
豊臣秀吉が小田原城を包囲。北条氏が滅亡。 |
1615 |
元和元 |
― |
孫・今川氏真が江戸で死去。享年78。 |
大坂夏の陣。豊臣氏滅亡。 |