英勝院(お梶の方)は徳川家康の側室。家康を支え、水戸徳川家始祖・頼房の養母となる。家康没後は英勝寺を建立し、幕府安定に貢献。
本報告書は、徳川家康の側室として知られる英勝院(えいしょういん)、通称お梶(かじ)の方、あるいはお勝(かち)の方の生涯を、現存する史料や伝承に基づき徹底的に掘り下げることを目的とします。その錯綜した出自、家康の寵愛の背景、単なる側室の枠を超えた政治的役割、そして水戸徳川家の「国母」とも言うべき後世への影響を、多角的に分析・考察します。
天正6年(1578年)に生まれ、寛永19年(1642年)に65歳で没するまで、彼女は戦国の終焉と江戸幕府の確立という激動の時代を生き抜きました 1 。多くの側室がいた家康の後半生において、ひときわ深い寵愛を受けた女性として知られますが、その実像は単なる寵姫に留まりません。聡明な側近として、また幕府の安定に寄与した重要な人物として、彼女は歴史の舞台で特異な光を放っています。しかし、その出自には複数の説が存在するなど多くの謎に包まれており、本報告書ではこれらの謎の解明に挑み、その知られざる実像に迫ります。
英勝院の出自は、彼女の人物像を理解する上で最初の、そして最大の謎です。記録は錯綜し、二つの主要な説が並立しています。
最も広く知られている説は、彼女が江戸城を築いた太田道灌(おおたどうかん)の子孫、武蔵太田氏の当主であった太田康資(おおたやすすけ)を父とし、北条氏康の養女(江戸城代・遠山綱景の娘)・法性院(ほっしょういん)を母とするものです 2 。この説は、天正18年(1590年)に家康が関東へ入府した際、旧来の関東名家の血を引く者を積極的に登用したという政策とよく整合します 6 。家康にとって、関東の英雄である太田道灌の血を引くお梶を召し抱えることは、人心掌握の観点からも大きな政治的意味合いを持っていたと考えられます。
一方で、利用者様がご存知の「江戸但馬守の娘」という説も、古くから存在します。これは常陸国水戸城主であった江戸但馬守重通(えどたじまのかみしげみち)の実の娘として生まれ、後に何らかの事情で太田康資の養女になったとするものです 4 。江戸時代に編纂された『武徳編年集成』や、大奥の女性たちの伝記をまとめた『玉輿記(たまのこしき)』といった書物にも、この説が記されています 7 。
お梶の方の出自に関する記録がなぜこれほどまでに錯綜するのか。その背景には、彼女の父とされる二人の武将、太田康資と江戸重通が共にたどった没落の運命と、両家の複雑な姻戚関係が深く関わっています。
太田康資は、当初後北条氏の重臣として江戸城代を務めるなど厚遇されていましたが、待遇への不満から安房の里見氏に通じ、北条氏を裏切りました。しかし、国府台合戦で敗北し、所領を失い不遇のうちに亡くなっています 5 。一方の江戸重通も、常陸水戸を拠点とする有力な国人領主でしたが、豊臣秀吉の小田原征伐に際して参陣が遅れたことを理由に、佐竹義宣によって水戸城を追われ、姻戚関係にあった結城氏を頼った後に亡くなりました 11 。
このように、お梶が家康に見出された天正18年(1590年)の時点で、彼女の父とされる人物はいずれも政治的に没落、あるいは極めて不安定な立場にありました。戦国時代の武家社会では、政治的状況に応じて養子縁組は頻繁に行われます。お梶が徳川家で絶大な権勢を誇るようになると、その出自をより輝かしいものにするため、あるいは政治的に無難な形にするために、記録が整理・改変された可能性が考えられます。特に、関東の英雄である太田道灌の血筋に直接結びつけることは、彼女の権威を高める上で効果的であったでしょう。この政治的背景と、没落した両家の複雑な関係性が、記録の錯綜を生んだ根本的な原因であると推察されます。
武蔵太田氏は、桓武平氏秩父氏の流れを汲む名門です 14 。室町時代中期、扇谷上杉家の家宰であった太田道灌が江戸城を築城したことでその名を不朽のものとしました 16 。道灌の死後も一族は武蔵国の有力な国人として存続し、お梶の父とされる太田康資の代には後北条氏に仕え、江戸城代を務めるなど重用されました。しかし、前述の通り康資が北条氏を離反したことで、一族は没落の道をたどりました 5 。
常陸江戸氏は、藤原秀郷流那珂氏を祖とする一族です 17 。南北朝時代に足利尊氏に従って功を立て、常陸国那珂郡江戸郷を領したことから江戸氏を称するようになりました 17 。室町時代には水戸城を拠点として常陸国中部に勢力を拡大し、戦国時代には守護・佐竹氏と時に争い、時に従属しながらその勢力を保ちました。しかし、天正18年(1590年)、江戸重通の代に佐竹義宣によって本拠地である水戸城を追われ、大名としての歴史に幕を下ろしました 13 。
出自に関する諸説の比較 |
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説 |
太田康資 実女説 |
父親とされる人物 |
太田康資 |
母親とされる人物 |
法性院(遠山綱景の娘) |
主な根拠史料・伝承 |
『藩翰譜』など |
背景・考察 |
家康の関東名家取り込み政策と整合性が高い。太田道灌の血筋という権威付け。 |
出自の謎とは裏腹に、お梶の方が徳川家康から絶大な信頼と寵愛を受けていたことは、数多くの逸話が証明しています。彼女は単に美しい側室ではなく、家康の心を捉える知性と、天下人の側近くで仕えるに足る器量を兼ね備えていました。
お梶の方が家康の目に留まったのは、天正18年(1590年)、家康が秀吉の命により関東へ移封された直後のことでした。当時13歳だった彼女は、家康に召し出されて仕えることになります 2 。この時、家康は48歳。実に36歳もの年齢差がありました 2 。晩年の家康が、若く聡明な女性を好んだことの証左とも言えるでしょう。
お梶の生涯で特に不可解なのが、一度家康の元を離れ、家臣に嫁いだという逸話です。彼女は家康の命により、側近で勘定頭などを務めた松平正綱(まつだいらまさつな)に嫁ぎます。しかし、わずか1ヶ月ほどで再び家康の元へ呼び戻されるという、異例の展開をたどりました 2 。
この不可解な離縁と復帰の理由については、複数の説が伝えられています。
一つは、家康の子をなかなか身ごもらないため家臣に下賜されたものの、その直後に懐妊が発覚したため呼び戻されたという「懐妊説」です 2。
もう一つは、老齢の家康が、若く美しいお梶の将来を案じ、信頼する家臣に託そうとしたものの、当のお梶が夫となった正綱に一切身を許さなかったため、その貞節と家康への忠誠心に感じ入って呼び戻したという「家康の配慮と彼女の貞節説」です 2。
さらに、名家の血を引く彼女自身が、一大名の妻で終わることを良しとせず、自らの意志で家康の元へ馬を駆って戻ってきたという、彼女の激しい気性を示す逸話も残されています 6。
当時の慣習として、主君が一度寵愛した女性を家臣に与えることは珍しくありませんでしたが 2 、それが覆されることは極めて稀でした。懐妊説は、後に市姫を出産する慶長12年(1607年)までかなりの年月が空いていることから、時期的に整合性が取りにくい面があります。むしろ、家康の配慮があったにせよ、最終的にこの異例の復帰を実現させたのは、お梶自身の「正綱に身を許さない」という強い意志と行動であった可能性が高いと考えられます。この一連の出来事は、二人の関係が単なる主従や寵愛といった言葉だけでは説明できない、互いの意志を尊重し合う特別な信頼関係に基づいていたことを強く示唆しています。
お梶の方が家康から深く信頼された理由は、その類稀なる聡明さにありました。
彼女の聡明さを最も雄弁に物語るのが、有名な「塩の問答」です。この逸話は、幕府の公式史書『徳川実紀』の編纂資料ともなった家康の言行録『故老諸談(ころうしょだん)』に記されており、信憑性の高いものと見なされています 2 。
ある時、家康が家臣たちと歓談中に「この世で最も美味いものは何か」と尋ねました。家臣たちが様々な珍味や料理の名を挙げる中、家康はお梶にも同じ問いを投げかけます。彼女は臆することなく、「塩にございます。どのような料理も、塩がなければ味を調えることはできませぬ」と答えました。さらに家康が「では、最も不味いものは何か」と重ねて問うと、彼女は間髪入れずに「それもまた塩にございます。いかに美味しい料理でも、塩を入れ過ぎれば食べられたものではございません」と答えたといいます 22。
物事の本質を的確に捉え、その両義性まで見抜いたこの答えに、家康は深く感嘆し、「男に生まれていれば、良き大将になったであろうに」と嘆息したと伝えられています 22。
お梶の異例さは、戦場にまで及んでいました。関ヶ原の戦いや大坂の陣といった天下分け目の決戦に、彼女は男装して馬に乗り、家康に随行したと伝えられています 2 。これは、奥向きの差配や交渉事で活躍した阿茶局など、ごく一部の側室にしか見られない特別な待遇であり、家康の彼女に対する絶対的な信頼と、彼女自身が武芸の心得もあった可能性を示唆しています 6 。
特に、関ヶ原の戦いで徳川方が勝利を収めた後、家康はその戦勝を記念して、彼女の名を「お梶」から「お勝」に改めさせたとされます 2。これは、彼女が家康にとって単なる側室ではなく、勝利をもたらす幸運の女神、まさに「勝利の女神」として認識されていたことの証です。
お梶は聡明であると同時に、大変な倹約家でもあり、その価値観は同じく倹約家として知られた家康と一致していました 6 。その揺るぎない信頼から、家康は彼女に駿府城の奥向きの一切、さらには金蔵の管理まで任せていたとされます 6 。これは、彼女が側室という立場にありながら、事実上、家康の秘書官、あるいは財務官僚としての重責を担っていたことを意味しており、その能力と忠誠心がいかに高く評価されていたかを物語っています。
聡明な側近として家康を支えたお梶でしたが、一人の女性として、母として、そして養母としての一面も持っていました。
慶長12年(1607年)、お梶は30歳にして待望の子を授かります。家康にとっては最後の子となった五女・市姫(いちひめ)です 22 。家康は信長の妹で絶世の美女と謳われたお市の方にあやかって命名したとされ、その喜びようが窺えます。市姫は仙台藩主・伊達政宗の嫡男・忠宗と婚約しますが、野苺を摘んでいる際に毒虫に刺されたことが原因で、わずか4歳でこの世を去ってしまいました 31 。
唯一の実子を失い、悲しみにくれるお梶を不憫に思った家康は、彼女に新たな役割を与えます。それは、御三家の一つ、水戸徳川家の始祖となる十一男・徳川頼房(とくがわよりふさ)の養育でした 22 。
この養母指名は、単なる慰めの措置ではありませんでした。頼房の生母であるお万の方(養珠院)は、熱心な日蓮宗の信者で、家康と宗論をめぐって対立した逸話が残るほど意志の強い女性でした 35。家康は、将来御三家筆頭として幕府を支える重要な息子に、自らの価値観(質実剛健、倹約、実利主義など)を確実に継承させたいと考えたのでしょう。そのために、最も信頼でき、思想的にも近いお梶にその教育を託したのです。この戦略的な人事は、お梶に水戸徳川家の「国母」としての確固たる地位を与え、彼女の後半生と水戸家の歴史を強く結びつける礎となりました。
お梶の養育の任は頼房だけに留まりませんでした。家康の次男・結城秀康の次男である松平忠昌(後の福井藩主)や、家康の次女・督姫と池田輝政の間に生まれた外孫・振姫(後に市姫に代わって伊達忠宗に嫁ぐ)の養育も担いました 31 。これにより、彼女の影響力は徳川一門の隅々にまで及び、その存在感を一層大きなものにしていきました。
家康の死は、お梶の人生に大きな転機をもたらしましたが、彼女の影響力が衰えることはありませんでした。むしろ、養母として、そして幕府の長老として、新たな形でその存在感を発揮していくことになります。
元和2年(1616年)に家康が駿府城で亡くなると、お梶は髪を下ろして仏門に入り、「英勝院」と号しました。江戸城内の田安にある比丘尼屋敷に移り住み、静かな余生を送るかに見えましたが、二代将軍・秀忠、三代将軍・家光からも引き続き篤い庇護を受け、幕府内で重きをなしました 2 。
家康没後の大奥において、英勝院は将軍家光の乳母である春日局と並び、女性としては最高位の地位を占めていました 4 。その序列を示す逸話として、「婚姻の際の駕籠の順序は英勝院が春日局より先であった」と伝えられています 4 。この話の直接的な一次史料は確認されていませんが、家康の側室であり水戸徳川家の養母という出自を持つ英勝院が、単なる乳母上がりの春日局よりも格式において上位と見なされていたことを示す伝承として重要です。
さらに、彼女の政治的影響力を物語るのが、家光の将軍継承問題への関与です。秀忠夫妻が利発な次男・忠長を寵愛し、後継者問題が燻っていた際、春日局が家光の世継ぎを確固たるものにするため、大御所家康に直訴しようと駿府へ赴きました。その際、英勝院が春日局と家康の面会を仲介し、家光の将軍継承を助けたという話が伝えられています 4 。この逸話の真偽は定かではありませんが、彼女がそのような国家の重大事に関与したと語り継がれること自体が、当時の人々が彼女に見ていた影響力の大きさを反映していると言えるでしょう。
英勝院の後半生における最大の事業は、自らの菩提寺となる英勝寺の建立でした。
寛永11年(1634年)、英勝院は将軍家光から、彼女の先祖である太田道灌の屋敷跡と伝えられる鎌倉扇ガ谷(おうぎがやつ)の広大な土地を賜ります 16 。彼女はこの地に、自らの菩提を弔い、徳川家の安泰を祈るための寺院を建立しました。これが現在も鎌倉唯一の尼寺として知られる東光山英勝寺です。
英勝院は、寺を創建するにあたり、養子である水戸藩主・徳川頼房の娘、小良姫(当時7歳)を迎え、玉峯清因(ぎょくほうせいいん)と名付けて初代住持(開山)としました 32 。この時から、英勝寺の住持は代々水戸徳川家の姫君が務めるという慣例が生まれました。そのため、英勝寺は「水戸御殿」あるいは「水戸の尼寺」とも呼ばれ、鎌倉における水戸徳川家の権威と格式を象徴する重要な拠点となったのです 16 。
英勝寺の運営を支えるため、将軍家光は寛永14年(1637年)と19年の二度にわたり、相模国三浦郡池子村(現在の神奈川県逗子市池子)に420石の寺領を寄進しました 16 。これにより英勝寺は安定した経済的基盤を確立し、その格式を維持することが可能となりました。
英勝院が水戸徳川家に与えた影響は、計り知れないものがありました。彼女はまさに水戸家の「国母」として、その歴史の重要な節目に深く関わっています。
その最も劇的な逸話が、頼房の長男・松平頼重(後の高松藩祖)の命を救った一件です。頼重が生まれた際、頼房は兄である尾張・紀伊の両徳川家にまだ嫡男が誕生していなかったことを遠慮し、生まれた子を堕胎させようとしました。この危機を知った英勝院は、頼房を強く説得し、頼重を無事に誕生させたと伝えられています 31 。
この英勝院の介入がなければ、高松松平家の歴史は始まらなかったでしょう。さらにこの出来事は、日本の思想史にも間接的な影響を及ぼしたと考えられます。頼重の弟である徳川光圀(水戸黄門)は、兄がいるにもかかわらず自分が水戸藩の世継ぎとなったことに生涯うしろめたさを感じていました。この儒教的な名分論への葛藤が、彼に歴史における正統性や名分を深く探求させ、一大編纂事業である『大日本史』に着手させる一つの大きな動機になったとされています。もし英勝院が頼重を救っていなければ、光圀のこの葛藤は生まれず、『大日本史』の性格も異なっていたかもしれません。英勝院の一つの行動が、結果的に日本の歴史学の大きな流れにまで影響を与えたと見ることもできるのです。
水戸家は、英勝院から受けた恩義を決して忘れませんでした。寛永19年(1642年)に英勝院が亡くなると、その一周忌に向けて、養子・頼房は仏殿を壮麗に改築し、鐘楼などを寄進しました。命を救われた頼重は山門を、そして光圀は英勝院の位牌を祀る祠堂や墓塔を建立しました 16 。英勝寺の主要な建造物の多くが、水戸家の人々による報恩の念の結晶として建てられたのです。これは、彼らの絆の深さを物語る、何より雄弁な物的証拠と言えるでしょう。
英勝寺の主要建造物と水戸徳川家関係者の寄進一覧 |
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建造物(文化財指定) |
建立・寄進者 |
仏殿(国指定重要文化財) |
徳川頼房 |
山門(国指定重要文化財) |
松平頼重 |
鐘楼(国指定重要文化財) |
徳川頼房 |
祠堂・祠堂門(国指定重要文化財) |
徳川光圀 |
墓塔 |
徳川光圀 |
英勝院お梶の方は、徳川家康の数多いる側室の中でも、際立った個性と影響力を持った女性でした。彼女の生涯は、戦国乱世の終焉から徳川幕府の盤石化へと至る時代の転換点を、女性の立場から鮮やかに映し出しています。
彼女は家康の寵愛を一身に受けただけでなく、その類稀なる聡明さと実務能力によって、政治・経済の両面で重要な役割を果たしました。「塩の問答」に見られる機知、戦場に随行するほどの胆力、そして駿府城の財政を預かるほどの信頼。これらは、彼女が単なる寵姫ではなく、家康にとって最も信頼できる「女性側近」であったことを示しています。彼女は、戦国から江戸へと移行する徳川政権の草創期において、奥から天下を支えた重要な人物として再評価されるべきでしょう。
彼女の墓所は、自らが建立した鎌倉の英勝寺に加え、静岡県三島市にある日蓮宗の本山・妙法華寺にも存在します 31 。妙法華寺は、水戸頼房の生母であるお万の方(養珠院)も再興に尽力した寺院であり、英勝院の父祖とされる太田氏が代々信仰した日蓮宗とも縁が深い場所です 35 。鎌倉と三島、二つの地に墓所が営まれている事実は、彼女が徳川家の一員として、特に水戸家の「国母」としての役割を全うすると同時に、生涯を通じて自らの出自である太田家とその信仰への深い思いを抱き続け、両家の菩提を弔おうとした、その篤い心情を物語っているかのようです。
英勝院お梶の方は、その華やかな逸話の数々の裏で、徳川政権初期の安定化、とりわけ御三家筆頭である水戸徳川家の基盤確立に、計り知れない貢献を果たしました。彼女の生涯を丹念に追うことは、徳川の天下統一という壮大な事業を、これまで光の当たりにくかった女性の視点から、より深く、より立体的に理解することに繋がるのです。彼女の知性と意志の強さは、時代を動かす力が男性だけのものではなかったことを、静かに、しかし力強く後世に伝えています。