伏姫は『南総里見八犬伝』の聖女。父の約束のため犬と暮らし、自害で八犬士を生む。儒教・仏教・神道が融合した存在で、時代と共に多様に解釈される。
曲亭馬琴が28年の歳月を費やして完成させた江戸時代の伝奇小説の金字塔、『南総里見八犬伝』。その壮大な物語は、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八徳を宿す八犬士の活躍を中心に展開される 1 。しかし、この物語の全ての因縁と奇跡が、一人の女性、伏姫の悲劇的な生涯と崇高な自己犠牲から発しているという事実は、作品を深く理解する上で不可欠な視点である。彼女は単に物語の発端を飾る登場人物ではなく、全106冊に及ぶ物語の倫理的・思想的な支柱であり、八犬士の活躍を運命づける根源的な存在に他ならない 2 。
この伏姫の重要性を見抜いたのが、明治期の批評家、北村透谷であった。彼は、伏姫の物語こそが作品の核心であるとし、「伏姫の中に八犬伝あるなり、伏姫の後の諸巻は俗を喜ばすべき侠勇談あるのみ」と断じた 5 。この評価は、伏姫の物語が単なる序章ではなく、作品の「脳髄」とも言うべき哲学的深度を内包していることを示唆している。透谷のこの鋭い指摘は、本報告書における分析の重要な視座となる。
本報告書は、伏姫の生涯をその誕生から悲劇的な死、そして神格化に至るまで丹念に追う。同時に、彼女の人物像を形成する儒教や仏教といった思想的背景、史実上のモデルとされる人物との関連性、さらには後世の多様なメディアにおける受容と変遷を解き明かすことを目的とする。これにより、伏姫というキャラクターが持つ多層的な深みと、日本文学史における不朽の価値を明らかにしたい。
伏姫は、室町時代の嘉吉2年(1442年)、安房国滝田城の城主である里見義実と、その正室・五十子(いさらご)の間に生まれた 5 。夏の最も暑い時期である「三伏」の頃に生まれたことから、「伏姫」と名付けられたと物語は記す 5 。しかし、作者である曲亭馬琴は、この名前に単なる季節的由来以上の深い意味を込めている。
物語が進む中で、彼女の名「伏」の字が、「人」偏に「犬」と書くことから、「人にして犬に従う」という運命を暗示する「名詮自性(めいせんじしょう)」であることが明らかにされる 5 。これは、言葉そのものに霊的な力が宿り、名付けられた者の本質や運命を規定するという、言霊信仰にも通じる思想である。馬琴は物語の冒頭で、主人公のその後の数奇な運命を、その名のうちに巧みに織り込んでいる。この設定は、物語全体を貫く因果応報の理と、言葉が持つ神秘的な力を示す重要な伏線として機能している。
伏姫の幼少期は、その特異な宿命を予感させるものであった。彼女は三歳になっても一切言葉を発さず、泣きも笑いもしなかったという 5 。常ならざるこの状態は、彼女が単なる武家の姫ではなく、後に大きな運命を背負う聖性の器であることを象徴している。
娘の将来を深く憂えた母・五十子は、神仏にすがることを決意する。彼女は、当時敵対関係にあった安西氏の領内にあるにもかかわらず、房総半島西南の霊場、洲崎明神への参籠を強行する 9 。この地は、日本の山岳信仰と仏教が融合した修験道の開祖、役行者(えんのぎょうじゃ)が霊験を現したとされる場所であった 9 。
七日七晩の熱心な祈願を終えた帰り道、五十子と伏姫の前に仙人のような白髪の老翁、すなわち役行者の化身が現れる。仙翁は伏姫に一つの水晶の数珠を授けた 9 。この数珠は人間の煩悩の数と同じ百八つの玉でできており、中でも八つの大きな親玉には、儒教の徳目である「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八文字がほの白く浮かび上がっていた 5 。この神秘的な数珠を首にかけられた瞬間、伏姫は初めて「おかあさま」と声を発し、以降は健やかで美しい姫へと成長していく 9 。
この一連の出来事は、伏姫の聖性が生まれつきのものではなく、後天的に付与されたものであることを示している。人間である母の深い愛情と祈りが、神仏習合的な存在である役行者の介入を招き、その結果として伏姫は覚醒する。授けられた数珠が、仏教(百八煩悩)と儒教(八徳)の思想を融合させた霊的な道具である点は極めて象徴的である。神道、仏教、儒教という三大思想が交差するこの一点において、伏姫は物語の奇跡性を担う巫女的な存在へと昇華され、作品全体の思想的基盤がこの時点で確立されるのである。
伏姫が16歳となった長禄元年(1457年)の秋、里見領は未曾有の危機に瀕していた。飢饉に乗じて、隣国館山の領主・安西景連が二千余騎を率いて侵攻し、里見義実の居城である滝田城を包囲したのである 5 。城内の兵糧は尽き、兵士たちは馬肉や死人の肉を食らうほどの惨状を呈し、落城は時間の問題であった 11 。
家臣たちとの最後の水杯の席で、絶望の淵に立たされた城主・里見義実は、半ば自暴自棄になり、戯れ言を口にする。「この中に、敵将・安西景連の首を獲って参る者はあるか。もしそれが叶うならば、望みのままに褒美を取らせよう。わしの娘、伏姫を妻に与えてもよいぞ」 2 。この君主としてあるまじき軽率な一言が、後に取り返しのつかない運命の歯車を回し始めることになる。
義実のこの言葉に、人間ではない一つの存在が反応した。里見家の飼い犬であり、体に八つの牡丹のような斑紋を持つことから「八房(やつふさ)」と名付けられた神犬である 14 。八房は人語を解する不思議な能力を持っており、義実の言葉を聞くや、疾風の如く城を飛び出し、単身で敵の本陣に乗り込んだ。そして夜が明ける頃、見事に安西景連の首をくわえて城に帰還したのである 2 。
主を失った安西軍は混乱し、里見軍はこれを好機と見て打って出て勝利を収めた。戦後、義実は八房を功労者として称え、山海の珍味や金銀を与えようとするが、八房はそれらに一切目もくれなかった。ただ静かに伏姫を見つめ、義実が口にした約束の履行、すなわち伏姫を自らの妻として迎えることだけを、無言のうちに、しかし執拗に要求し続けた 4 。
畜生に娘を嫁がせるなど前代未聞であり、義実は戯れ言であったとして約束を反故にしようと考える 9 。しかし、この父の翻意に対し、娘である伏姫が進み出て、凛とした態度で父を諫めた。「父上、たとえ相手が犬であっても、一度君主として口にした約束を違えることは、武士の道に悖ります。信賞必罰の義が守られなければ、家臣の心は離れ、国は終には滅びましょう」と 5 。
そして彼女は、里見家の安泰と君主の信義を守るため、自らが犠牲となることを決意する。白装束に身を包み、母から受け継いだ法華経と役行者から授かった数珠を手に、八房の背に乗り、民家から離れた富山(とやま)の洞窟へとその身を隠すことを選んだのである 4 。
伏姫のこの行動は、単なる悲劇的な運命への服従ではない。それは、個人の幸福よりも公の秩序を優先する、極めて能動的な倫理的決断であった。そこには、父の過ちを正し、君主としてあるべき姿に導こうとする高次の「孝」と「忠」の精神が見られる。また、人倫に悖る約束であっても、一度公にされた以上は守られるべきだとする厳格な「義」の観念も貫かれている。この決断によって、伏姫は単なる「可憐な姫」から、国家の倫理を一身に背負う「聖女」へとその存在意義を変貌させ、彼女の物語に深い悲劇性を与えるのである。
伏姫と八房の生活は、安房国の名山である富山の中腹に位置する洞窟、後に「伏姫籠穴(ふせひめろうけつ)」と呼ばれる場所で始まった 10 。俗世から隔絶されたこの地で、伏姫は八房に対して厳格な一線を画した。彼女は八房に、「夫婦の契りは結ぶが、それは義理の上でのこと。人畜の境を忘れて獣欲に駆られるようなことがあれば、この懐剣で自らの命を絶つ」と固く諭した 7 。
八房はこの誓いを理解し、伏姫を守り、食料となる木の実を運ぶなど、忠実な伴侶として仕えた。一方、伏姫は一心不乱に法華経を読誦する日々を送る 9 。この読経の功徳は、八房に憑いていた怨霊、すなわちかつて里見義実に滅ぼされた玉梓の怨念を浄化し、その獣性を鎮めていった 2 。伏姫の清らかな仏性が、八房の魔性を解き放ったのである。
富山での生活が一年ほど経ったある日、伏姫の前に再び神秘的な存在が現れる。牛に乗り笛を吹く仙童、これもまた役行者の化身であった。仙童は伏姫に驚くべき神託を告げる。「姫の読経の功徳によって、八房を縛っていた玉梓の怨念は完全に消え去った。しかし、その浄化された八房の『気』に感じ入り、姫は子種を宿したのである」と 2 。
この懐妊は、物理的な肉体関係によるものではなく、「物類相感(ぶつるいそうかん)」という思想に基づいている 7 。これは、直接的な接触がなくとも、万物は互いに「気」という媒体を通じて感応し合い、影響を及ぼし合うという、江戸時代の自然哲学や宇宙観を色濃く反映した概念である。馬琴はこの超自然的な懐妊を、当時の知識人には受け入れ可能な論理で説明しようと試みた。伏姫は、水面に映った自らの顔が一瞬犬に見えるという幻覚を体験しており、月の障りも止まっていたことから、この神託を受け入れざるを得なかった 7 。
身に覚えのない懐妊を深く恥じた伏姫は、死を決意する。その折しも、姫の許嫁であり、里見家の忠臣であった金碗大輔孝徳(かなまりだいすけたかのり)が、姫を救出すべく富山へと分け入ってきた 12 。大輔は、伏姫が犬の子を身籠ったと誤解し、その元凶である八房を鉄砲で撃ち殺してしまう 2 。
しかし、八房を撃った弾は、その体を貫通して伏姫の体にも当たってしまった。致命傷を負いながらも一度は蘇生した伏姫は、自らの潔白を証明するため、駆けつけた父・義実と許嫁・大輔の前で、懐にしていた懐剣を抜き、己の腹を真一文字にかき切った 4 。その胎内には、犬の子など存在しなかった。純潔を証した伏姫は、安堵の表情を浮かべて17歳の短い生涯を閉じた 5 。
その瞬間、伏姫の傷口から一筋の白く輝く気(白気)が立ち上り、彼女が首にかけていた数珠を空高くへと運び去った。そして、天上で数珠の糸が切れ、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字が刻まれた八つの大玉が、まばゆい光を放ちながら関八州の各地へと飛散していった 1 。これが、後に里見家を救うことになる八犬士誕生の瞬間であった。
この一連の出来事は、馬琴の極めて観念的な思想を体現している。スキャンダラスな「犬との婚姻」という設定を用いながらも、馬琴は伏姫の貞節を徹底して守り、「物類相感」という理屈でその懐妊を精神的な現象へと昇華させた。最終的に伏姫の胎内から生まれるのは、肉体を持つ子供ではなく、儒教の徳性そのものが結晶化した「霊玉」である。伏姫の死は、単なる悲劇ではなく、八犬士という理想の武士団をこの世に生み出すための、崇高なる創造行為であったと解釈できる。
その壮絶な死をもって八犬士誕生の礎となった伏姫は、物語から退場するわけではない。彼女は死後、「伏姫神(ふせひめがみ)」として神格化され、物語の終盤に至るまで、八犬士と里見家を守護し続ける霊的な存在となる 2 。
伏姫神は、八犬士にとって血の繋がった実母ではないが、彼らの霊的な根源であり、その誕生を司った象徴的な「母」である。八犬士が持つ霊玉は、元は伏姫が身につけていた数珠の一部であり、彼女の徳と気が分かち与えられたものである。そのため、犬士たちが困難に直面し、その運命の糸が交錯する時、伏姫神は常に彼らの背後にあり、その行く末を見守り、導くのである。
伏姫神の加護は、夢枕に立つ神託や、人知を超えた奇跡といった形で具体的に描かれる 5 。その介入は、犬士たちが自力では乗り越えがたい危機に際して、特に顕著に現れる。
これらのエピソードから浮かび上がるのは、伏姫神が単なる守護神ではなく、慈悲深く子(犬士)の成長を見守り、危機に際しては直接手を差し伸べて救済する「慈母」としての姿である。生前の彼女が儒教的な自己犠牲を体現した聖女であったとすれば、神格化された彼女は、仏教における観音菩薩のような、慈悲と救済を司る存在へとその神性を拡張させている。伏姫神の存在は、物語に多層的な宗教思想を統合し、深みを与える上で極めて重要な役割を果たしているのである。
伏姫の行動原理は、徹頭徹尾、儒教的な徳目に貫かれている。特に、江戸時代の武家社会で重視された朱子学の価値観が色濃く反映されている 20 。彼女の悲劇的な生涯は、これらの徳目を人間として可能な極限まで追求した結果として描かれる。
父・義実の軽率な約束に対し、君主の信義を重んじて自ら犠牲になる姿は、「忠」と「信」の現れである。父の過ちを諫めつつも、その決定に従うことで家名を保とうとする態度は、高次の「孝」の実践と言える 15 。また、八房と富山に籠もりながらも肉体の交わりを拒み、自害によって純潔を証明した最期は、武家の女性に求められた「貞節」の究極的な発露である 23 。伏姫は、これらの徳目を一身に背負い、その理念のために命を捧げた、まさに儒教的理想の化身として造形されている。
一方で、伏姫の物語は儒教思想のみで完結するものではない。そこには仏教や神道、特に修験道に由来する思想が複雑に織り込まれている 25 。物語の根底には、善行には良い結果が、悪行には悪い結果がもたらされるという「因果応報」や、善を勧め悪を懲らしめる「勧善懲悪」といった、民衆に広く浸透していた仏教的な世界観が流れている 21 。
伏姫が八房の魔性を浄化するために用いたのが「法華経」の読誦であったこと、彼女の死後にその魂が八犬士を救済する慈母神となったことは、仏教的な救済思想の現れである。さらに、彼女に神秘的な力を与えたのが修験道の開祖・役行者であったことは、日本古来の山岳信仰や神道的な要素が物語に深みを与えていることを示している 10 。馬琴は、これらの異なる思想体系を巧みに融合させ、伏姫というキャラクターに多層的な神聖性を付与することに成功したのである。
伏姫、そして『八犬伝』全体に対する評価は、時代と共に大きく揺れ動いてきた。特に明治期、日本の文学が近代化へと向かう中で、伏姫像は二人の代表的な批評家によって対照的な評価を受けることになった。
一人は、近代文学の父とも呼ばれる坪内逍遥である。彼はその著書『小説神髄』の中で、『八犬伝』を旧時代の戯作文学の代表として厳しく批判した。逍遥は、物語が「勧善懲悪」の教訓に縛られすぎており、登場する八犬士たちは「仁義八行の化物にて決して人間とはいひ難かり」と断じた 4 。この写実主義的な観点からすれば、伏姫もまた、人間的な葛藤や弱さを持たない、超人的な徳の化身に過ぎず、近代小説が描くべき「人情」に欠ける存在と見なされた。
これに対し、全く異なる評価を下したのが、ロマン主義文学を主導した北村透谷である。彼は評論『厭世詩家と女性』などで、日本の古典文学が精神的な愛や女性の純潔性を十分に描いてこなかったと嘆き、その中で伏姫を例外的な存在として激賞した 5 。透谷は、伏姫が八房に肉体を許さず、しかし慈悲をもってその魂を成仏へと導いた描写に、西洋文学に見られるような精神的な愛(プラトニック・ラブ)と、崇高な女性の聖性を見出した 27 。彼にとって、伏姫の物語は、八犬士の武勇伝よりも遥かに高尚な精神的価値を持つ、作品の「脳髄」であった 7 。
逍遥と透谷のこの対照的な評価は、江戸の戯作から近代文学へと移行する時代における、二つの根本的に異なる文学観の衝突を象徴している。逍遥が文学に求めたのは、人間のありのままの姿を描く「写実主義」であったのに対し、透谷が求めたのは、人間の内面や理想を追求する「理想主義」であった。伏姫という、人間を超えた理念を体現するキャラクターは、この二つの新しい価値基準を測るリトマス試験紙のような役割を果たしたと言えるだろう。
伏姫という類稀なるキャラクターは、完全に馬琴の空想の産物ではない。その創作の核には、戦国時代に実在した一人の女性、里見種姫(さとみたねひめ)の生涯があったとされている 28 。
種姫は、安房里見氏第六代当主・里見義堯の長女として天文10年(1541年)に生まれた 30 。彼女は正木信茂に嫁ぐが、1564年、夫は北条軍との戦いで討ち死にしてしまう。若くして未亡人となった種姫は、夫の菩提を弔うため、出家して宝林寺という寺を創建した。そして、その生涯を、愛犬と共に寺の裏山にあった洞窟で過ごしたと伝えられている 28 。この、戦乱の世にあって深い信仰心を持ち、俗世を離れて静かに生きた種姫の姿が、馬琴の創作意欲を大いに刺激したと考えられている。
しかし、馬琴は史実をそのまま物語にしたわけではない。彼は種姫の生涯という核を用いながら、それを壮大な伝奇物語へと大胆に昇華させた。以下の表は、史実の種姫と、物語上の伏姫の比較である。
表1:伏姫と里見種姫の比較
項目 |
伏姫(『南総里見八犬伝』) |
里見種姫(史実) |
典拠 |
生没年 |
嘉吉2年(1442)~長禄2年(1458) |
天文10年(1541)~天正17年(1589) |
5 |
父親 |
里見義実 |
里見義堯 |
5 |
夫 |
(許嫁は金碗大輔) |
正木信茂 |
12 |
犬との関係 |
飼犬・八房と富山に籠る |
愛犬と共に洞窟で過ごす |
9 |
山に籠った理由 |
父の約束を果たすため(公の信義) |
夫・信茂の菩提を弔うため(私的な追悼) |
5 |
結末 |
自害し、神となる(物語の創造) |
尼として生涯を終える(個人の救済) |
5 |
この比較から明らかなように、馬琴は種姫の「個人的な悲劇と信仰」という史実を、伏姫の「公的な義務と宇宙的な因果応報」の物語へと見事に変換している。種姫の「夫への追悼」は、伏姫の「君父への自己犠牲」に、種姫の「愛犬」は、伏姫の「運命の相手・八房」に、そして種姫の「敬虔な信仰」は、伏姫の「奇跡を起こす聖性」へと、それぞれ物語的なスケールで増幅されている。この創作の過程は、歴史的事実が壮大なフィクションへと変容するダイナミズムを如実に示している。
『南総里見八犬伝』は、作者である曲亭馬琴の後半生そのものであった。文化11年(1814年)に執筆を開始し、完成したのは天保13年(1842年)、実に28年もの歳月を要した 4 。晩年には両目の視力を完全に失うという困難に見舞われたが、息子の妻であるお路の口述筆記という助けを得て、この超大作を完結させたのである 4 。
この執念ともいえる創作活動の背景には、馬琴の強い思想があったとされる。物語の舞台として、かつて江戸幕府を開いた徳川家と敵対した安房里見氏を選び、その繁栄と活躍を華々しく描いた点には、体制に対する作者の密かな反骨精神が込められていたという説がある 33 。この視点に立つならば、里見家の危難を救い、その後の繁栄の礎を築いた伏姫の自己犠牲は、単なる物語上の悲劇に留まらず、作者の思想が投影された、より大きな象徴的意味を持つ行為として解釈することが可能となる。
『南総里見八犬伝』とそのヒロインである伏姫の物語は、発表から200年以上が経過した現代に至るまで、様々なメディアで繰り返し翻案・再創造され、日本の大衆文化に計り知れない影響を与え続けてきた。その過程で、伏姫の人物像もまた、時代ごとの価値観を反映して大きく変容していく。
『八犬伝』は、その人気から早くに歌舞伎の演目として取り上げられた 1 。歌舞伎では、物語の全てを上演することは稀で、特定の場面が見せ場として演じられることが多い。特に、八犬士の犬塚信乃と犬飼現八が、互いの素性を知らずに高楼の屋根上で大立廻りを演じる「芳流閣屋上の場」は、そのスペクタクルな演出で人気を博し、繰り返し上演されてきた 1 。
こうした上演形態では、物語の発端である伏姫の悲劇は、口上で語られる背景説明に留まるか、あるいは省略されることも少なくない。しかし、物語全体を上演する「通し狂言」の際には、伏姫と八房、そして金碗大輔が織りなす悲劇が、壮大な物語の重要な起点として描かれる 36 。
映像メディアの時代になると、伏姫像はより大胆な再解釈を受けることになる。
現代においても、『八犬伝』は数えきれないほどの小説や漫画のインスピレーションの源泉となっている 49 。これらの翻案作品において、伏姫の物語は、作者のテーマに応じて実に多様な形で変奏される。
例えば、島崎藤村の小説『嵐』では、伏姫の物語は神聖受胎ではなく「獣姦」のモチーフとして引用され、登場人物の倒錯した心理を描くために用いられる 50 。また、津島佑子の短編「伏姫」では、未婚のまま父の違う二人の子を育てるヒロインの姿が、伏姫の物語と重ね合わされる 50 。
これらの事例が示すように、後世の翻案作品における伏姫像の変容は、日本社会における女性観や家族観の変遷を映し出す鏡の役割を果たしている。原作における「儒教的価値観に殉じた聖女」という像は、主体性を持って恋をし戦う「ロマンスのヒロイン」へ、さらには現代社会の多様な生き方や葛藤を象徴する「メタファー」へと、解体され、再構築されてきた。伏姫はもはや古典の中に留まる存在ではなく、現代の創作者たちが自らのテーマを語るための、強力な文化的アイコンとして機能し続けているのである。
本報告書を通じて多角的に分析してきたように、曲亭馬琴が生み出した伏姫という人物は、単一のイメージに収斂される単純なキャラクターではない。彼女は、儒教的な徳目を極限まで体現し、そのために命を捧げた**「悲劇の聖女」 である。同時に、死して後は神となり、自らが産み落とした八犬士たちを慈悲深く見守り、導く 「慈母神」 でもある。その創造の背景には、里見種姫という実在の女性の生涯があり、彼女は史実から生まれた 「創作の結晶」 と言える。そして何より、江戸時代から現代に至るまで、数多の翻案作品の中でその姿を変え続け、それぞれの時代の価値観を映し出してきた 「文化の鏡」**としての側面を持つ。
彼女の物語は、信義、自己犠牲、純潔、慈悲といった、時代を超えて人々の心を打つ普遍的なテーマを内包している。その倫理的な葛藤の深さと悲劇性のゆえに、200年以上にわたって読者や創作者たちの想像力を刺激し続けてきた。かつて坪内逍遥が批判した「人間味のなさ」は、見方を変えれば、彼女が人間という存在を超えた「理念」や「神話」そのものを体現していることの証左に他ならない。
明治の批評家、北村透谷は喝破した。「伏姫の中に八犬伝あるなり」。まさしく、この長大な物語に不滅の魂を吹き込み、その根源で輝き続ける存在、それこそが伏姫なのである。彼女は、日本文学が生んだ最も崇高で、最も悲劇的な、永遠のヒロインと言えるだろう。