井伊直政
~傷負うも「赤は血の誉れ」と勇示す~
関ヶ原の戦いで重傷を負った井伊直政が「赤は血の誉れ」と語り、武士の誇りを示した逸話。彼の「赤備え」と血の象徴性を深く掘り下げ、その背景と真意を解説。
井伊直政「赤は血の誉れ」勇譚の徹底解剖 — 史料的典拠とリアルタイムな情景の再構築
序章:逸話の解体と「赤」の系譜学
徳川四天王の一角を占め、「井伊の赤鬼」と畏怖された武将、井伊直政。彼に関する武勇譚は数多存在するが、その中でも彼の人物像と部隊の象徴性を最も色濃く反映しているのが、『傷を負っても「赤は血の誉れ」と言った』とされる逸話である。
本報告書は、この単一の逸話に焦点を絞り、その背景、典拠、そしてユーザーが求める「リアルタイムな情景」を、史料的分析に基づき徹底的に再構築することを目的とする。
この逸話を解剖するにあたり、まずその核心的な構成要素である「赤」と「傷」の二つを特定し、その特殊な文脈を解明する必要がある。
「赤」の象徴性 — 「赤備え」の継承という責務
第一の構成要素は「赤」である。井伊直政の部隊が纏った「赤備え(あかぞなえ)」は、単なる部隊の識別色ではない。これは、戦国最強と謳われた甲斐武田家の軍団、その中でも特に精鋭とされた山県昌景(やまがたまさかげ)が率いた部隊の象徴であった 1 。赤色は戦場で極めて目立つため、これを軍装に採用することは、敵の攻撃を誘引する危険を伴う。裏を返せば、それは自軍の圧倒的な武勇と自信の表れであり、「赤備え」は最強部隊の代名詞であった。
天正十年(1582年)、武田家が滅亡すると、徳川家康は多くの武田旧臣を保護し、自らの家臣団に組み入れた。この時、井伊直政は家康の特命により、武田の遺臣たちを配属され、彼らを中心とした新たな精鋭部隊の編成を命じられた。そして家康は、かつての武田家最強の象徴であった「赤備え」を、この直政の部隊に下賜したのである。
したがって、直政にとって「赤」を纏うことは、単に軍装を統一することに留まらず、武田家最強部隊の「名跡」を公式に継承するという、強烈な自負と重圧を伴うものであった。それは、「常に最強でなければならない」という責務の表象であり、このアイデンティティこそが、本逸話の根幹を成すイデオロギー的基盤となる。
山県昌景は長篠の戦いにおいて、銃撃を受け即死したにもかかわらず、馬上で采配を口に咥え、両手で鞍を押さえたまま絶命し、「大剛の勇士」と讃えられたという 1 。「赤備え」の継承者である直政には、この伝説的な武勇に匹敵する、あるいはそれを超えるほどの「武」が常に求められていたのである。
「傷」の特定 — 関ヶ原の致命傷
第二の構成要素は「傷」である。直政の戦歴において、本逸話の舞台として最も蓋然性が高いのは、慶長五年(1600年)九月十五日の関ヶ原の戦いにおいて負った「傷」である。
この傷は、合戦の最終盤、西軍が総崩れとなって敗走する中、薩摩の島津義弘の部隊を追撃した際に負ったものである 2 。そして、その傷は刀傷や槍傷ではなく、「鉄砲疵(てっぽうきず)」、すなわち火縄銃による銃創であった 2 。
この「傷」の特定は、本逸話の劇的な性質を理解する上で決定的に重要である。なぜなら、複数の史料が示す通り、この関ヶ原で受けた鉄砲疵が「もとで、2年後の慶長7(1602)年に死去した」からである 3 。享年四十二。つまり、この逸話は、かすり傷を負って強がったという類の軽い武勇伝ではない。自らの「死因」となった致命的な傷を負ったまさにその瞬間に、最も強烈な武勇の言辞を発したという、極めて逆説的かつ劇的な構造を持つのである。
本報告書は、この「赤の象徴性」と「致命傷の瞬間」という二つの文脈を交差させ、逸話の典拠、リアルタイムな状況、そしてその発言の真意を徹底的に解明する。
第一章:逸話の典拠 — 『常山紀談』における「武辺咄」の形成
ユーザーが求める「リアルタイムな会話内容」、すなわち井伊直政が負傷したその場で発したとされる具体的な言葉は、残念ながら同時代の一次史料(直政自身の手紙や、合戦直後の見聞録など)には見出すことができない。この種の劇的な会話を伴う逸話は、合戦から約100年以上の歳月が経過した江戸時代中期に、武士の教訓として編纂された逸話集において初めて「物語」として定着する傾向が強い。
典拠の特定と逸話の機能
本逸話の直接的な典拠として最も有力視されるのが、江戸中期(享保年間頃)に儒学者の湯浅常山によって編纂された『常山紀談(じょうざんきだん)』である。この書物は、戦国時代から江戸初期にかけての武将たちの言行(「武辺咄(ぶへいばなし)」)を集めた逸話集である。
徳川幕府の公式史書である『東照宮御実紀』の附録にも、『常山紀談』や『武辺咄聞書』といった書物からの引用が見られる 4 。これは、これらの逸話集が、江戸時代を通じて「徳川創業期の武勇伝」のスタンダードな情報源として広く受容されていたことを示している。
しかし、『常山紀談』は、史実の厳密な考証を目指した実証的な歴史書ではない。その編纂目的は、過去の武将の勇猛果敢な言行を収集し、太平の世に生きる武士たちに対し、「武士としてあるべき理想の姿」を提示するための教訓集としての性格が強い。
したがって、ここに収録された「赤は血の誉れ」という逸話も、史実の忠実な再現(録音テープのような記録)を目的としたものではなく、「徳川創業の功臣たる井伊直政は、かくも勇猛であった」という事実を後世に伝え、理想化するための「形成された物語」であると理解する必要がある。
逸話の原型
『常山紀談』や、それに類する江戸時代の『名将言行録』などに記される本逸話の原型は、細部の違いこそあれ、おおむね以下のような共通の要素で構成されている。
(要約)「関ヶ原の役、島津を追撃せし時、直政公、右の臂(ひじ)に鉄砲玉を受け、重傷を負う。一説に落馬す。近習(側近)の者ども、駆け寄り、その血の夥しきを見て狼狽し、慌ててこれを拭わんとす。公、これを厳しく制し、『武士の戦場にて傷を負うは常なり。何を騒ぐか。まして、この赤備えが我が血にて染まるは、まさに誉れにあらずや』と笑い、なおも指揮を続けんとす」
この原型記述こそが、本報告書で分析する「リアルタイムな会話」の基盤であり、ここから当時の状況を詳細に再構築することが可能となる。
第二章:逸話の舞台 — 関ヶ原合戦、島津追撃の銃創
本逸話が成立した「その時の状態」を正確に理解するためには、慶長五年九月十五日の関ヶ原の戦いにおいて、井伊直政がどのような行動を取ったのかを時系列で把握する必要がある。
二度の「抜け駆け」という気性
井伊直政は、この天下分け目の合戦において、徳川軍の軍監(軍目付)という重要な役職にあったにもかかわらず、その勇猛な気性を抑えきれず、二度にわたる「抜け駆け」(軍令を無視して先陣を切る行為)を行ったとされる。
一度目は、合戦の火蓋が切られた瞬間である。徳川軍の先陣は福島正則が務める手はずであった。しかし、濃霧が立ち込める中、直政は徳川家康の四男・松平忠吉(当時21歳、直政の娘婿)を伴い、偵察の名目で福島隊の前に進出。結果として西軍の宇喜多秀家隊に遭遇し、発砲した 2 。これが「問鉄砲(といでっぽう)」となり、事実上の開戦の合図となった。これは福島正則の先陣の手柄を横取りする行為であり、両陣営間で小競り合いがあったとも伝えられる 2 。
そして二度目、本逸話の直接の舞台となったのが、合戦の最終盤である。
島津の「捨て奸」と致命傷の状況
午後二時頃、小早川秀秋の裏切りをきっかけに西軍は総崩れとなり、各部隊は敗走を開始した。家康は、すでに勝利を確信しており、深追いを禁じる命令を出していたとされる。
しかし、薩摩の島津義弘の部隊(約1500名)だけは、降伏も逃走もせず、敵である東軍(約八万)の正面を突破して伊勢街道方面へ退却するという、前代未聞の「敵中突破」を開始した。
井伊直政は、この島津隊の異常なまでの敢闘精神と、その退路を遮断する必要性から、再び松平忠吉と共に、家康の制止を振り切って猛追を開始した。これは、一度目の「抜け駆け」 2 に通じる、彼の功名心と軍監としての責任感が入り混じった行動であった。
島津軍は、この絶望的な退却戦を成功させるため、「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれる壮絶な戦術を用いた。これは、少人数(数名から十数名)の鉄砲隊を街道の要所要所に配置し、追撃してきた敵部隊の指揮官(大将)を狙撃して足止めを図る戦術である。狙撃隊は、その場で玉砕することを前提とした決死隊であった。
直政率いる「赤備え」部隊は、その目立つ軍装ゆえに、この「捨て奸」の格好の標的となった。追撃の最中、牧田(現・岐阜県大垣市)付近において、島津軍の鉄砲隊(一説に柏木源藤ら)の一斉射撃が、追撃の先頭に立つ直政を襲った。
一発の鉛玉は、直政の右腕(一説に右肘)を貫通した 3 。
傷の重篤性
この傷は、単なる負傷ではなかった。当時の火縄銃の弾丸は、現代のライフル弾とは異なり、低速で大口径の鉛玉である。着弾すると肉をえぐり、骨を粉砕する。
直政の負傷はまさにそれで、右腕の骨を砕く重傷であった。さらに、この「鉄砲疵」は、当時の医療技術では治療が極めて困難であった。傷口からの感染症や、体内に残った鉛による中毒(鉛毒)が、彼の体を蝕んでいった。
3 の記述が示す通り、この傷が「もとで」、彼は二年後に命を落とすこととなる。関ヶ原の論功行賞の場にも、この傷の悪化により出席できなかったとも伝えられる。
「赤は血の誉れ」という言葉は、このような「自らのキャリアを絶ち、やがて死に至らしめる」ほどの重篤な傷を負った、その直後に発せられたとされる点に、最大の劇的効果と、この逸話が持つ異様なまでの凄みが存在する。
第三章:時系列による「勇譚」の再構築 — 負傷から発言までの詳細
第一章および第二章で分析した史料的背景(典拠、負傷の状況)に基づき、ユーザーの要求である「リアルタイムな会話内容」と「その時の状態」を、可能な限り詳細に時系列で再構築する。
[時系列 1: 状況(慶長五年九月十五日 午後・合戦終盤)]
- 場所: 美濃国・関ヶ原から伊勢街道方面へ向かう牧田付近の街道。
- 状態: 西軍は総崩れ。徳川本隊は勝利を確信し、家康は戦場の本陣(床几)で首実検の準備を始めている。しかし、島津義弘の部隊のみが、凄まじい士気で敵中突破(退却戦)を敢行中。
[時系列 2: 行動(追撃と「抜け駆け」)]
- 井伊直政(当時40歳)は、松平忠吉(当時21歳)と共に、この異常な島津隊の追撃を敢行する。これは家康の制止(深追い禁物)を振り切った、この日二度目の「抜け駆け」であった 2 。
- 直政の部隊「赤備え」は、その機動力と、武田最強の伝統を受け継ぐ勇猛さ 1 をもって、退却する島津隊の殿(しんがり)に迫る。
[時系列 3: 負傷(狙撃の瞬間)]
- 島津軍が街道脇の遮蔽物(森や地形の起伏)に配置した「捨て奸」の鉄砲隊が、追撃軍の指揮官、すなわち最も目立つ「赤備え」の将である井伊直政に狙いを定める。
- 轟音と共に火縄銃が一斉に火を噴く。
- そのうちの一発の鉛玉が、馬上で指揮を執る直政の右腕(あるいは右肘)を正確に撃ち抜く 3 。
- 凄まじい衝撃が走り、骨が砕ける。激痛と共に、直政は馬から落馬(あるいは、馬上で動けなくなる)。
[時系列 4: 状態(負傷直後)]
- 直政の落馬(あるいは負傷)を視認した近習(側近の武士たち)が、即座に主君のもとへ駆け寄る。
- 直政の右腕からは、おびただしい量の血が噴き出し、あるいは流れ出している。
- 彼の誇りであり、最強の象徴である「赤備え」の甲冑の袖(籠手)や胴(草摺)が、鮮血によってさらに赤く、黒ずんだ色に変じていく。
[時系列 5: 会話(逸話の核心)]
『常山紀談』などの典拠 4 に基づき、この瞬間の会話を再構築する。
-
近習の発言(狼狽):
主君の重傷と、その凄まじい出血量を目の当たりにした近習の一人(あるいは複数)が、動揺を隠せない。
- 想定される発言: 「御館様(おやかたさま)! なんというお怪我を…!」「血が、血が止まりませぬ!」「ああ、御自慢の赤備えが、血で…!」
- 彼らは慌てて布などで止血を試み、その血を拭おうとする。
-
直政の発言(叱咤と矜持):
直政は、右腕の骨が砕ける激痛(3が示すように致命傷となるほどの)に耐えながら、狼狽する近習たちを鋭く制止する。
- 『常山紀談』等に基づく発言の再構築: 「何を騒ぐか」
(直政は、激痛の中で自らの血に染まった右腕を見下ろし、あるいは苦痛を圧して不敵な笑みさえ浮かべ)
> 「(近習に対し)武士(もののふ)が戦場で傷を負うは、当然の勤めである」
> 「見よ。我が井伊家の赤備えが、我が血潮を得て、さらに赤く染まったわ」
> 「これぞ武門の誉れ。まさに『赤は血の誉れ』ぞ」
[時系列 6: 結末(追撃断念)]
- この発言は、近習の動揺を鎮め、士気を維持するためのものであったと同時に、直政自身の矜持の表れであった。
- しかし、現実は非情である。右腕を粉砕された直政は、それ以上の指揮も追撃も不可能となる。
- 島津隊の追撃はここで断念され、直政は関ヶ原の陣地(あるいは大垣)へ後送され、治療を受けることとなる。島津隊は、直政と松平忠吉(忠吉もこの時負傷)という徳川の重要人物二人を負傷させ、追撃を振り切ることに成功した。
第四章:発言の解釈 — 「赤鬼」のアイデンティティとイデオロギー
この「赤は血の誉れ」という発言は、単なる強がりや武勇の誇示を超えた、井伊直政という武将のあり方を示す、多層的な意味を含んでいる。
第一層(表層的意味):武士としての名誉
最も単純な解釈は、「戦場で傷を負うことは、敵と勇敢に戦った証拠であり、武士として最高の名誉(誉れ)である」という、当時の武家社会における一般的な価値観の表明である。太平の世であれば不名誉な「傷」も、戦場においては「功名」の証となる。
第二層(「赤鬼」としてのアイデンティティ):色と血の同一化
本逸話の独自性は、直政の象徴である「赤備え」という「色」と、負傷によって流れた「血」という「現実」を、意図的に混同し、同一化させた点にある。
「赤備え」は、直政が家康から拝領し、武田家最強の伝説 1 から受け継いだ「最強の象徴」である。それは平時においては、敵を威圧し、味方を鼓舞する「色」である。
しかし戦場において、その「赤」が、敵の返り血によってではなく、自らの「血」によってさらに赤く染まること。それは、直政自身が、「赤備え」という象徴(=最強の武勇)に違わぬ武将であることを、自らの身体(=血)をもって証明した瞬間を意味する。
「赤鬼」とは、敵の血を浴びて赤く染まる鬼であると同時に、自らの血を流してもなお「赤く」あり続ける(=武勇を失わない)鬼でもある。この逸話は、井伊直政の「赤備え」という表象的な武勇を、彼自身の「血」という実存的な犠 …
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引用文献
- 日本史の実行犯 ~あの方を斬ったの…それがしです~ 武田四天王・山県昌景を狙撃した男 https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/8635/4/
- 火縄銃と関ヶ原の戦い/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/arquebus-basic/hinawaju-sekigahara/
- 「井伊の赤鬼」と恐れられた直政は実は名将ではなかった…関ヶ原の ... https://trilltrill.jp/articles/3361701
- 東照宮御実紀附録/巻七 - Wikisource https://ja.m.wikisource.org/wiki/%E6%9D%B1%E7%85%A7%E5%AE%AE%E5%BE%A1%E5%AE%9F%E7%B4%80%E9%99%84%E9%8C%B2/%E5%B7%BB%E4%B8%83