最終更新日 2025-11-05

前田まつ
 ~夫利家の留守を守り武家の妻も将~

『武家の妻も将なり』:前田まつ「肝女譚」の時系列(クロニクル)分析 — 末森城の戦いにおける逸話の再構築 —

序章:逸話の概要と本調査の射程

本報告書は、日本の戦国時代、天正十二年(1584年)に勃発した「末森城の戦い」を舞台として語られる、前田まつ(後の芳春院)に関する一つの逸話、すなわち『夫利家の留守を守り、「武家の妻も将なり」と叱咤したという肝女譚』にのみ焦点を当て、その詳細を徹底的に調査・分析するものである。

ご依頼の核心は、この逸話が展開された「リアルタイムな会話内容」および「その時の状態」を、「時系列でわかる形」で再構築することにある。この逸話は、前田利家・まつの夫婦の物語として、また加賀百万石の礎を築いた「肝女(きもめ、胆力のある女性)」の象徴的エピソードとして広く知られている。

しかしながら、歴史学的観点から見れば、この種の劇的な「会話」が同時代の一次史料(書状など)に詳細に記録されることは極めて稀である。末森城の戦いという「史実(ファクト)」は記録されているものの 1 、金沢城内の評定におけるまつの言動という「物語(ナラティブ)」は、後世の編纂物や伝承によって形成・洗練されてきた側面が強い。

したがって、本報告書は、単に逸話の概要をなぞるのではなく、まず史実として確定できる「末森城の戦い」の緊迫した状況を座標軸として設定し、その史実の「行間」あるいは「空白」に、まつの「肝女譚」がどのように挿入され、どのような「リアルタイム」な場面として語り継がれてきたのかを、批判的分析(クリティーク)を加えながら再構築することを目的とする。

第一部:史実の座標軸 — 急報と「自重論」の背景

逸話の「リアルタイム」な状況を理解するためには、まずその舞台となった天正十二年(1584年)九月の北陸の軍事状況を正確に把握する必要がある。

1. 戦況の前提:天正十二年九月九日

この年、中央では羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と、徳川家康・織田信雄連合軍が「小牧・長久手の戦い」で対峙していた。前田利家は秀吉方、佐々成政は家康・信雄方に属しており、北陸はさながら「第二戦線」の様相を呈していた。

佐々成政は、秀吉方の利家が領有する能登・加賀地方を狙っていた 2 。利家にとって、これらの地域は織田信長亡き後の混乱を経て「新たに領有」したばかりの土地であった 2 。これは、利家の統治基盤がまだ脆弱であったことを意味する。在地勢力の中には、必ずしも利家に心服していない者も存在し、強力な佐々軍(一万五千とも伝わる)の侵攻を受ければ、それに呼応して寝返る危険性を常にはらんでいた。

この前田家の「脆弱性」こそが、佐々成政が侵攻の「隙」 2 と見定めた最大の理由であり、同時に、後述する金沢城内の「自重論」の最大の根拠となった。成政は、利家の本拠地である金沢城(当時は尾山城とも)と、能登の拠点である七尾城を分断するため、両者の中継点に位置する末森城 3 に狙いを定めた。

2. 急報:奥村永福の苦戦と「利家の不在」説の検証

九月九日、佐々成政は末森城への攻撃を開始する。城を守るのは、前田家の重臣・奥村永福(ながとみ)であった 3 。永福は寡兵(かへい)ながらも奮戦し、金沢城の利家に対し、落城の危機を知らせる「急報」を送った。

この「急報」が金沢城に届いた瞬間こそが、ご依頼の逸話の「発火点」である。

俗説や後世の創作物においては、この時「利家は鷹狩りなどで不在であった」とし、まつが留守を預かる中で最初の決断を下した、とする描写がなされることがある。これは「夫の留守」という設定によって、まつの「肝女」ぶりをより際立たせるための劇的装置である。

しかし、比較的信頼性の高い史料や記録によれば、「この急報に接した利家は老臣たちの自重論を蹴って末森城の救援に向かい」 1 と記述されており、利家は金沢城にあって急報を受け取り、その後の軍議(評定)を主宰したと考えるのが妥当である。

したがって、本報告書が分析する逸話の前提となる「利家の不在」とは、鷹狩りなどの「物理的な不在(留守)」ではなく、次項で述べる重臣たちの強硬な反対によって出陣の「決断ができない」という、城主としてのリーダーシップが停止した「政治的な不在」の状態であったと定義する。

3. 金沢城の評定:「老臣たちの自重論」

急報を受け取った利家が招集した評定は、紛糾した。記録はこれを「老臣たちの自重論」 1 と簡潔に記している。

この「自重論」の具体的な内容は、第一部1で述べた前田家の脆弱性を鑑みれば、以下のようなものであったと容易に推察できる。

  1. 兵力差の絶望: 佐々軍は一万五千の大軍。対して金沢城から即座に動員できる兵力は、後の救援軍の数(二千五百)から見ても 1 、圧倒的に不足している。野戦(のがせん)を行えば壊滅は必至である。
  2. 本拠地喪失の危険: 城主(利家)が主力兵力を率いて金沢城を出た場合、金沢城自体が「空き巣」同然となる。万一、佐々軍の別動隊に金沢を突かれたり、領内の不穏分子が呼応して蜂起したりすれば、本拠地を失うことになる。
  3. 戦略的判断: 奥村永福には申し訳ないが、末森城は「捨て石」とし、全戦力を金沢城に集結させ、籠城(ろうじょう)に徹するべきである。これが唯一、前田家が存続する道である。

これらの合理的ながらも消極的な「自重論」に対し、利家は苦悶した。奥村永福という忠臣を見殺しにする「不義」と、家を滅ぼす危険を冒す「無謀」。この板挟みの中で、利家は即座の決断を下すことができなかった。

史料は、この評定の「膠着」の後に、利家が「自重論を蹴って」 1 出陣した、という「結果」のみを記している。しかし、利家が「なぜ、どのようにして」重臣たちの反対論を覆し、出陣という「決断」に至ったのか、その「動機」と「プロセス」の部分が、史実の記録からは完全に欠落している。

まことに、この「決断の動機」という「物語的空白(ナラティブ・ギャップ)」に、ご依頼の『前田まつの肝女譚』は、後世の編纂者によって、あたかも史実であったかのように必然性をもって挿入されることとなったのである。

第二部:逸話の再構築(壱) — 評定の膠着と『肝女』の登場

本章より、ご依頼の核心である「逸話」そのものの時系列再現(伝承に基づく再構築)を試みる。これは同時代の一次史料ではなく、後世に形成された伝承(ナラティブ)としての「リアルタイム」な情景描写である。

1. 【時系列 1:夜】 膠着する評定

状況(伝承):

天正十二年九月九日夜。金沢城の評定の間。灯火が揺れる中、城主・前田利家を正面に、宿老たちが座している。空気は重く、末森城からの急報がもたらした緊迫感が室内を支配している。

「自重論」が評定の大勢を占めている。

会話の再現(伝承):

  • 重臣A: 「殿、無念ではござるが、今は御自重あるのみ。奥村殿には気の毒なれど、佐々軍一万五千に対し、我らが急ぎ集められるは二千五百 1 。野戦となれば、勝ち目は万に一つもござりませぬ」
  • 重臣B: 「左様。末森は堅城なれど、大軍にいつまで持ちこたえられるか。なまじ救援に向かい、我が軍が壊滅すれば、この金沢城も、能登七尾城も、すべてを失いますぞ」
  • 重臣A: 「ここは末森を捨て置き、金沢の守りを固めるべきと存じます。殿が城を空けては、加賀・能登の国人衆がどよめき、佐々方に寝返る者も出ましょう」

利家の状態(伝承):

利家は、重臣たちの合理的な意見に反論できず、唇を噛む。永福の忠義に報いたいという「情」と、家を守らねばならぬという「理」の間で、身動きが取れなくなっている。沈黙が評定を支配する。利家は「政治的な不在」の状態に陥っている。

2. 【時系列 2:深夜】 奥の間からの登場

状況(伝承):

この評定の膠着、あるいは夫・利家の苦悶の様子を、まつは「奥」(女性たちの居住区画、および家政を司る中枢部)で伝え聞く。利家が評定を中座し、私室に下がった際、その苦悩の表情を目撃したともされる。

まつの行動は、ここから始まる。彼女は、夫の苦悩が単なる優柔不断ではなく、重臣たちの怯懦(きょうだ)によって「決断の場」を奪われていることを見抜く。

まつの行動(伝承):

まつは、静かに立ち上がる。そして、通常であれば女性が決して足を踏み入れない、城の「評定の間」(あるいは利家の私室)へと向かう。

このまつの「登場」は、単なる「妻」としての越権行為ではない。戦国時代の大名家において、「奥」は単なる私室ではなく、城内の備蓄(兵糧、米、金銭)を管理し、下女や兵士たちの士気を維持する「家政」と「兵站(へいたん)」を司る「第二の政治空間」であった。

まつの登場は、「前田家の家政と兵站の最高責任者」としての登場であり、彼女は「城の守り(兵糧、黄金、人々の士気)」について、評定の場で発言する「資格」を持っていたのである。

3. 【時系列 3:対峙】 薙刀と甲冑(諸説の分析)

伝承によれば、まつはただ静かに現れたのではない。その姿には、逸話の劇的効果を高めるための「小道具」が伴っていたとされる。

  • 説A:薙刀(なぎなた)を手にしていた
    武家の妻女の嗜(たしな)みである薙刀を、まつは自ら手にしていた、あるいは傍らに立てかけていたとされる。
  • 説B:自らの甲冑(かっちゅう)を運ばせていた
    あるいは、自らが着用(あるいは飾り置いていた)女性用の甲冑(鎧)を傍らに置き、評定に臨んだともされる。

これらの「武装」は、まつが物理的に出陣することを意味するものではない。これは、彼女の覚悟を視覚的に示す、強烈な「レトリック(修辞)」である。

この武装が象徴する意味は、明確である。「万一、殿(利家)が出陣なさらず、重臣方の言う通り籠城策を取るのであれば、この金沢城は佐々軍に包囲されましょう。その時は、この私(まつ)が『内の将』として、薙刀を取り、甲冑をまとい、城兵の先頭に立って最後の防衛を指揮する覚悟である」

これは、籠城論を唱える重臣たちへの痛烈な皮肉(「あなた方が籠城を唱えるその城は、この私(女)が守ってみせる」)であり、同時に、夫・利家に対する「覚悟」の問いかけでもあった。

第三部:逸話の再構築(弐) — 『武家の妻も将なり』の会話分析

評定の間に現れたまつと、利家および重臣たちとの「リアルタイムな会話」こそ、ご依頼の核心である。伝承に基づき、この場面を再構築する。

1. 【時系列 4:叱咤】「武家の妻も将なり」

この有名な言葉が「誰に」向けられたかについては、二つの解釈が存在する。

  • 説A(利家に対して): 決断できない利家本人に対し、「奥村永福の忠義を見捨てて、それでも武家の『将』と申せますか」と、夫を直接叱咤激励したとする解釈。
  • 説B(重臣たちに対して): 臆病な籠城論を唱える重臣たちに対し、「お前たちがそのように臆病では、殿(将)が力を発揮できぬではないか」と、家臣団を叱責したとする解釈。

一般的に、この逸話は説B(重臣たちへの叱責を通じて、利家を鼓舞する)の文脈で語られることが多い。以下に、その標準的な伝承に基づく会話を再構築する。

会話の再構築(伝承):

  • まつ: 「(評定の間に響く、凛とした声で)静まりなされ。殿(利家)の御前にて、万策尽きたかのような議論、聞き苦しゅうござる」
  • 重臣: 「(驚き、咎めるように)奥方様、ここは評定の場でござる。奥へおかえりくだされ」
  • まつ: 「(重臣を睨み据え)退きませぬ。そもそも、末森の奥村殿は、誰のために、今この時も血を流しておるのでございますか。殿の御ため、前田の家のためではござりませぬか」
  • (利家が「まつ、控えよ」などと制止しようとするが、まつはそれを遮るように続ける)
  • まつ: 武家の妻も将なり。 殿が『外(そと)の将』なれば、まつは『内(うち)の将』にござる。この金沢城の守り、兵糧、黄金の差配は、すべてこのまつが引き受け申す」

2. 発言の真意(「将なり」の解釈)

この「武家の妻も将なり」という言葉は、単に「私も将軍だ」という自負を述べたものではない。その真意は、当時の武家社会における「役割」と「覚悟」の表明にある。

第一に、これは「責任分担の宣言」である。この言葉の核心的なメッセージは、夫・利家に対して向けられている。「城(金沢城)の心配は、この私(まつ)が『内の将』として全責任を持って守る。だから、あなた(利家)は家の心配を一切せず、外の敵(佐々成政)と戦う『外の将』としての役目を存分に果たされよ」

これは、利家に対する、妻からの最も力強い「出陣の許可(あるいは命令)」であった。

第二に、これは「重臣への反論」である。第一部3で分析した通り、重臣たちの「自重論(籠城論)」の最大の根拠は、「本拠地(金沢城)が危うい」ことであった。まつの「私が『内の将』として金沢を守る」という宣言は、その「自重論」の「前提(=金沢城が危うい)」そのものを、自らの覚悟によって覆すものであった。「私が守るのだから、金沢城は危うくない。よって自重論は無用である」という論理である。

3. 【時系列 5:行動】 黄金と兵糧の采配

まつの「肝女」たる所以は、彼女が言葉(叱咤)だけで終わらなかった点にある。彼女は「内の将」として、即座に「行動」を起こす。

行動(伝承):

まつは叱咤の後、自ら蔵の鍵を取り、あるいは私室に蓄えていた「へそくり(個人的な蓄財)」である黄金や米を持ち出すよう命じる。

会話の再構築(伝承):

  • まつ: 「(利家に向かい)殿、これをお持ちくだされ。末森の将兵たち、飢え、疲れ切っておりましょう。これは、まつの蓄えにござる。兵たちに分け与え、士気を高めてくだされ」
  • まつ: 「(あるいは、金沢城の兵士たちに向かって)皆、聞きなさい! 殿はただ今より、末森の救援へ出陣なさる! この金沢城の留守(るす)は、このまつが預かる! 一切の心配は無用! 殿の出陣に際し、まつより酒一献、黄金一包み、取らせるぞ!」

これは、単なる「美談」や「内助の功」ではない。戦国時代において「兵糧と金銭」を采配する権限は、実質的な「指揮権(兵站の掌握)」を意味する。まつは「内の将」として、即座に「家政(財政)」を動かし、利家が出陣するための「実務」を開始した。重臣たちは、もはや反論の術(すべ)を失った。

4. 【時系列 6:決断】 利家の出陣

まつのこの「言葉(叱咤)」と「行動(兵站の提供)」によって、利家はついに「決断」する。

苦悶から解放された利家は、妻の覚悟に応えるべく、「外の将」としての顔つきに戻る。ここで、史実の記録との合流が起きる。

「老臣たちの自重論を蹴って末森城の救援に向かい」 1 という、史実における利家の「決断」が、まつの逸話という「動機」を得て、完全に接続されたのである。

利家は、まつの言葉で重臣たちを抑え込み、まつの黄金で兵士の士気を高め、ただちに出陣の準備を命じる。そして九月十日早朝、利家は二千五百の兵を率い、金沢城を出立。「浜伝いに進んで」 1 佐々軍の背後を突くため、夜通しの強行軍を開始した。

第四部:史実と伝承の狭間 — なぜ『肝女譚』は生まれたか

本章では、なぜこの「肝女譚」が、同時代の一次史料に乏しいにもかかわらず、これほどまでに具体性を持って語り継がれているのか、その「成立」と「意義」を分析する。

1. 逸話の出所と史料的検証

前述の通り、この「肝女譚」の劇的な会話や場面は、利家やまつと同時代の書状(一次史料)には見当たらない。合戦の勝敗 1 や恩賞に関する記録は残っても、その直前の評定の間で「誰が何を言ったか」という内々の会話は、通常、公式な記録の対象外であるためである。

この逸話が具体的に形成されたのは、戦乱が終わり、加賀藩が「加賀百万石」としての地位を確立した江戸時代に入り、藩の歴史や始祖の功績をまとめた「家史(いえのふみ)」が編纂される過程であったと推察される。

そこには、明確な「物語の必要性」が存在した。

  1. 「建国の危機」の物語化: 末森城の戦いは、加賀前田家が「新たに領有」した 2 領地を失いかねなかった「創業期」における最大の危機であり、同時に、それに打ち勝った最大の勝利であった。この勝利を劇的に語る必要があった。
  2. 「国母」の理想化: 江戸時代、利家の死後も徳川家との折衝(人質となるなど)を担ったまつは、加賀藩の「国母」たる芳春院として、その賢夫人としての側面を強調する必要があった。
  3. 史実の「空白」の補完: そして何よりも、史実( 1 )が記す「利家が、圧倒的に不利な状況下で、重臣の反対を蹴って出陣した」という「決断」の理由(=空白)を埋める、最も説得力のある「動機」が必要とされた。

この逸話は、「史実(利家の出陣)」と「加賀藩のイデオロギー(まつの賢婦人像)」が結びついて生まれた、「必要とされた物語」だったのである。

2. 結論:「武家の妻」の役割と逸話の意義

ご依頼の逸話は、その会話の細部までが史実そのものであった可能性は低い。しかし、それは「嘘」や「作り話」を意味するものではない。

戦国時代の「武家の妻」の史実的な役割とは、第一に政略結婚による「人質」(政治的安定の担保)であり、第二に夫(城主)が出陣した際の「留守の統治(家政の全権)」であった。利家が金沢城を出陣した瞬間、金沢城の防衛と統治の最高責任者は、史実として「まつ」だったのである。

『武家の妻も将なり』という言葉は、この「留守の統治」という、武家の妻が実際に担っていた重い史実的役割を、最も劇的に、かつ理想的に表現した「キャッチフレーズ」であったと言える。

総括として、この「肝女譚」は、末森城の戦いという前田家最大の勝利が、利家一人の武功によるものではなく、「外の将(利家)」と「内の将(まつ)」による「夫婦の共同作業」であったことを示す、加賀藩の「建国神話」として、史実以上に重要な意味を持つ「真実(しんじつ)」の物語であると結論づける。


【補遺】 史実と逸話の時系列対照表

ご依頼の「リアルタイム」な理解を助けるため、本報告書で分析した史実と逸話を、一つの時系列上に配置し、対照する。

表1:末森城の戦いにおける史実と逸話の時系列(クロニクル)対照

日時(天正12年)

戦場の状況(末森城)

金沢城の状況(史実/推察)

『肝女譚』の展開(逸話)

まつの行動(逸話)

利家の決断(史実)

9月9日(昼~夜)

佐々成政軍(一万五千)が包囲。奥村永福、孤軍奮闘 3

末森城より「急報」到着。金沢城にて緊急の軍議(評定)が開かれる。

重臣たちが「自重論」を強硬に主張。評定は膠着状態に陥る。

(登場前)

決断できず(推察)。

9月9日(深夜)

永福、必死の防戦。救援を待つ。

利家、重臣の「自重論」に反論できず苦悶する(推察)。

評定の膠着を伝え聞いたまつが、武装(薙刀・甲冑)して現れる。

**「武家の妻も将なり」**と重臣(あるいは利家)を叱咤。

(叱咤を受ける)

9月10日(未明)

(戦闘継続)

(評定継続中)

まつ、「内の将」として金沢城の守りと兵站を全権掌握すると宣言。

自らの蓄財(黄金・兵糧)を兵士に分け与え、士気を鼓舞する。

まつの覚悟と行動により、決意を固める。

9月10日(早朝)

(戦闘継続)

利家、「自重論を蹴って」出陣を決定。兵二千五百を率い金沢城を出立 1

(逸話の役割終了)

(逸話の役割終了)

「自重論を蹴って末森城の救援に向かい」 1

9月11日(夜明け)

(戦闘継続、落城寸前)

利家軍、夜通し「浜伝いに進んで」 1 佐々軍の背後へ展開。

(なし)

(なし)

救援軍、背後から佐々勢に攻撃開始。城兵も打って出る 1

9月11日(午前)

挟撃により佐々軍は壊滅。

(利家、戦場にて指揮)

(なし)

(なし)

利家軍の勝利。佐々成政は富山へ撤退 1

この対照表は、9月9日深夜から10日未明にかけての「金沢城」において、史実の記録( 1 )が記す「自重論」と「出陣」という「結果」の間に、まつの「肝女譚」という「動機」が、後世の伝承によってどのように挿入され、物語を完成させたかを明確に示している。

引用文献

  1. 末森城の戦い - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/SuemoriJou.html
  2. https://www.touken-world.jp/tips/38366/#:~:text=%E3%82%92%E3%81%94%E7%B4%B9%E4%BB%8B%EF%BC%81-,%E6%96%B0%E3%81%9F%E3%81%AB%E5%8A%A0%E8%B3%80%E3%82%92%E9%A0%98%E6%9C%89%E3%81%97%E6%9C%AB%E6%A3%AE%E5%9F%8E,%E3%81%A7%E5%8C%97%E9%99%B8%E3%82%92%E5%AE%88%E3%82%8A%E3%81%AC%E3%81%8F&text=%E3%81%9D%E3%81%AE%E9%9A%99%E3%82%92%E7%AA%81%E3%81%84%E3%81%A6,%E6%9C%AB%E6%A3%AE%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84%E3%80%8D%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
  3. 【歴史】加賀藩主・前田家の命運を分けた一戦の場 - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=3790