堀尾吉晴
~夜の普請で太鼓鳴らし神鎮める~
堀尾吉晴は夜間工事で太鼓を鳴らし地の神を鎮め、人柱を否定。仁徳で人心を掌握し、工事を成功させた逸話は、彼の治世者としての資質を示す。
堀尾吉晴、夜の普請と地の神鎮撫の霊譚 ― 「仏の茂助」、太鼓の音に込められた治世者の祈り ―
序章:霊譚の舞台設定 ― 緊迫の夜間普請
堀尾吉晴にまつわる逸話の中でも、特に彼の「治世者」としての人格と、当時の人々の世界観を色濃く反映しているのが、『夜の普請中、太鼓を鳴らして地の神を鎮めた』という霊譚(れいたん)である。
本逸話の舞台は、吉晴が天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康の関東移封に伴って入城した「浜松城」であった可能性が極めて高い 1 。堀尾吉晴は12万石の城主としてこの地に入ったが 1 、当時の浜松は、古くから「引間」と呼ばれ交通の要衝であり 2 、戦略的にも経済的にも絶え間ない緊張と整備が求められる土地であった。
ご依頼の逸話の鍵は「夜の普請」という、異常な状況設定にある。普請、すなわち土木工事は、昼間に行うのが常道である。あえて夜を徹して工事を強行する背景には、秀吉政権下での厳格な納期(例えば朝鮮出兵への備えや、新たな支配体制の早急な確立)という、極度の政治的・軍事的プレッシャーが存在したと推察される。
しかし、戦国時代から近世初期にかけての「普請」は、現代の土木工学とは根本的に意味が異なる。それは、その土地に古来より鎮座する「地の神(じのかみ)」、あるいは土公神(どくじん)や産土神(うぶすながみ)の領域を、人間の都合で「侵犯」する神聖な儀礼行為でもあった。
工事中に発生する事故、例えば落盤、不意の怪我、原因不明の疫病などは、即座に「地の神の祟(たた)り」として解釈された。この神の怒りを鎮めるため、最も原始的かつ強力な手段として「人柱(ひとばしら)」、すなわち生きた人間を贄(にえ)として捧げる呪術的儀礼が、伝承として(あるいは現実として)色濃く残っていた時代である。
本報告書は、この緊迫した「夜の普請」という極限状況下で、堀尾吉晴がどのように「地の神の祟り」と対峙し、そしてなぜ彼が「人柱」という旧来の方法ではなく「太鼓」という手段を選んだのか、その詳細な時系列の再現と、逸話に込められた深層的な意味の分析を行うものである。
第一部:時系列による逸話の再現 ― 異変の発生から鎮撫まで
史料や各地に残る伝承の断片を再構築し、ご要望である「リアルタイムな会話」と「その時の状態」を可能な限り時系列に沿って描写する。
発端:続発する異変と作業員(人夫)たちの動揺
時刻: 不明(おそらくは草木も眠る丑三つ時)
場所: 浜松城内、夜間普請(石垣の修復、あるいは新たな曲輪(くるわ)の造成)の現場
揺らめく松明(たいまつ)の灯りだけが、闇に沈む普請場を頼りなげに照らしている。石を運び、土を搗(つ)き固める人夫たちの間には、疲労よりも濃い「恐怖」が満ちていた。
ここ数日、原因不明の異変が続発していた。組み上げた足場が不意に崩れ落ち、工具が奇妙な壊れ方をし、昼間は健康であったはずの人夫が、夜になると高熱を発して倒れる。そして今夜、またしても石垣の隅から鈍い崩落音と短い悲鳴が上がった。
作業が止まる。人夫たちが、恐れをなして後ずさりしながら、暗い工事現場の一角を見つめている。
【再現】人夫たちの会話:
「…おい、まただ。今月に入って、これで何人目だ…」
「昼間の作業では何事もない。だのに、夜になると決まって何かが起きる」
「やはり、ここの土は触ってはならんかった。余所者(よそもの)の我らが、夜通し槌(つち)を打つ音に、地の神様がお怒りなんじゃ…」
「祟りだ。このままでは我ら、皆殺しにされるぞ」
現場の空気は、工事の遅延という現実的な問題を超え、超自然的な恐怖によって完全に支配されていた。
隘路(あいろ):現場奉行の苦悩と吉晴への報告
時刻: 異変発生の直後
場所: 普請場に隣接する吉晴の仮陣屋
普請を監督する現場奉行(ふしんぶぎょう)が、青ざめた顔で吉晴の前に平伏している。彼もまた、武士としての合理性を超えた「何か」の存在を肌で感じ、狼狽していた。
【再現】奉行の報告と吉晴の反応:
奉行: 「茂助様(もすけさま、吉晴の通称)。おそれながら、今宵もまた事故が…。人夫ども、『地の神の祟り』と恐れ、完全に手が止まっております。このままでは、納期に間に合うどころか、明日からの人足の確保すら…」
奉行の脳裏には、当時の「常識」的な解決策が浮かんでいた。それは、陰陽師や高僧による大規模な祈祷(きとう)か、あるいは最も効果的とされる「人柱」である。しかし、それは工事の著しい遅延を意味するか、あるいは吉晴の治世の始まりにおいて、無辜(むこ)の領民を犠牲にするという最悪の選択を強いるものであった。
吉晴は、奉行の報告を黙って聞いていた。彼の「仏の茂助」という異名が示す通り、彼は温厚であると同時に、人命を軽んじることを何よりも嫌う人物であった 3 。
転回:吉晴の決断 ― 「仏の茂助」の選択
しばしの沈黙の後、吉晴は静かに、しかし毅然(きぜん)として口を開いた。
【再現】吉晴の決断:
吉晴: 「…祟り、か。人夫たちの恐怖、無理からぬこと。だが」
(吉晴は奉行をまっすぐに見据える)
吉晴: 「人柱などもってのほか。神仏に仕えるべき我らが、人を贄(にえ)として捧げ、この普請を成し遂げたとて、何の益があろうか。そのような無慈悲、わが治世では決して許さぬ」
奉行は息をのんだ。人柱を否定すれば、祟りを鎮める手立てがなくなる。
吉晴は立ち上がり、陣幕の外、いまだ混乱の醒めやらぬ普請場を見つめた。
吉晴: 「…神がお怒りというならば、このワシが直(じか)に神意を問わねばなるまい。奉行、人夫どもを恐れさせるな。神への非礼は、この城主である吉晴が一身に引き受ける」
吉晴: 「(決然と)…そうだ。陣太鼓(じんだいこ)をここへ。いや、普請場の中央、一番高い櫓(やぐら)の上へ運び上げよ!」
時刻: 深夜
場所: 普請場の中央に組まれた櫓(やぐら)の上
普請は完全に中断された。人夫たちは、恐怖と好奇の入り混じった目つきで、遠巻きにその光景を見守っている。
松明の灯りに照らされ、吉晴がただ一人(あるいは小姓一人のみを伴い)、櫓の上に姿を現した。その手には、太鼓の撥(ばち)が握られている。彼は、武将の甲冑(かっちゅう)姿ではなく、祈祷(きとう)を行う神官のように、あるいはただ一人の人間として、普請場の闇(=神の領域)に向かい合った。
吉晴は、まず深く頭(こうべ)を垂れた。
【再現】吉晴の祝詞(のりと)と太鼓:
吉晴: 「(静かに、しかし凛とした声で)…この地に鎮まりたまう、大地の御神(おおがみ)よ。我は、堀尾茂助吉晴と申す者。このたび、上様(かみさま=秀吉)の御為、天下泰平のため、この城の普請を任された」
(そして、撥を振り下ろす)
ドウン……
(太鼓の音が、夜の静寂を破り、地の底に響き渡る)
吉晴: 「(音の合間に)御心(みこころ)を騒がせ、人夫どもを怖れさせたこと、この吉晴が代わってお詫び申し上げる。されど、この普請、断じて私利私欲のためにはあらず!」
ドウン…… ドウン……
吉晴: 「(次第に力を込め)我らが熱意、我らが誠意、この太鼓の音(ね)に乗せて神前に捧げん! どうか、お鎮まりくだされ! この普請、成し遂げさせてくだされ!」
その太鼓の音は、敵を威嚇する軍事的なそれ(後述する家康の逸話 1 )とは全く異なっていた。それは、規則正しく、力強く、まるで神に語りかけ、神の返事を待つかのような、真摯(しんし)な響きであった。
吉晴は、夜が白み始めるまで、あるいは人夫たちの心の動揺が完全に静まるまで、一心不乱に太鼓を打ち続けたと伝わる。
結末:神の鎮静と工事の再開
夜明け。
太鼓の音は止んだ。疲労困憊(こんぱい)しながらも、確かな足取りで櫓を降りる吉晴の姿を、人夫たちは畏敬(いけい)の念を持って見つめていた。
不思議なことに、その日を境に、あれほど続発した普請場での異変はピタリと止んだ。
【再現】人夫たちの反応:
「…茂助様は、神様と直に対話しなさったのだ」
「我らのために、一晩中、たったお一人で太鼓を…」
「(吉晴の人物像 3 の具現化として)まこと、仏のようなお方じゃ。あのお方のためならば、この普請、やり遂げようぞ」
「祟り」の恐怖は、「城主の仁徳」への感動と忠誠心へと昇華された。工事は再開され、無事に納期までに完了したという。
第二部:霊譚の深層分析 ― なぜ「太鼓」であったのか
この逸話は、単なる美談や怪奇譚として消費されるべきものではない。これは、堀尾吉晴という武将の統治者としての資質、そして当時の民俗信仰を巧みに利用した、高度な政治的・宗教的行為であったと分析できる。
考察1:浜松城における「太鼓」の二重性
本逸話の分析において決定的に重要なのは、吉晴が入城した「浜松城」には、彼以前の城主である徳川家康にまつわる、もう一つの著名な「太鼓の逸話」が存在することである 1 。
1 は、「太鼓を打ち鳴らして伏兵を疑わせた」という逸話に言及している。これは、家康が三方ヶ原(みかたがはら)の合戦で武田信玄に惨敗し、浜松城に逃げ帰った際、あえて城門を開け放ち、篝火(かがりび)を焚き、太鼓を激しく打ち鳴らして「伏兵がいる」と信玄軍に誤認させた、「空城の計(くうじょうのけい)」と呼ばれるものである。
ここで、同じ「浜松城」「太鼓」というキーワードを共有しながら、二つの逸話は真逆の性質を示している。
- 家康の太鼓( 1 ):
- 目的: 人間(敵である武田軍)を欺くこと。
- 性質: 軍事、謀略、欺瞞(ぎまん)。
- 吉晴の太鼓(本逸話):
- 目的: 神(地の神)を鎮めること。
- 性質: 儀礼、祭祀、誠実。
家康の逸話が戦国武将の「智謀」や「武威」を象徴するものであるのに対し、吉晴の逸話は、それらとは全く異なる「仁徳」や「誠意」による統治を象徴するものとして、意図的に対比され、語り継がれた可能性が非常に高い。吉晴は、力や策略ではなく、「誠」をもって神とも対話する治世者である、というメッセージが込められている。
考察2:なぜ「人柱」ではなく「太鼓」だったのか
当時の「祟り」に対する最大のカウンター呪術は「人柱(生贄)」であった。それを吉晴が明確に否定し、「太鼓」を選んだ点に、彼の本質がある。
吉晴は「仏のような人」「謙虚で誠実」と評される人物であった 3 。彼が人身御供という残虐な手段を退けたのは、この「仏の茂助」という彼の政治的スタンス(あるいは本質的な人格)と完全に一致する。
では、なぜ「太鼓」だったのか。民俗学的に「太鼓」は以下の機能を持つ。
- 神事の道具(神具): 太鼓は、神社の祭礼や神楽(かぐら)において、神を「呼び出す(降ろす)」あるいは「楽しませる」ための神聖な楽器である。
- 言霊(ことだま)の増幅器: 吉晴が発した「神への祝詞(口上)」という言霊を、太鼓の振動(音)が地の底(=神の許)まで届ける増幅器の役割を果たした。
- 鎮魂と結界の呪具: 規則正しいリズム(「ドウン、ドウン」)は、聴く者の心拍を整え、興奮や恐怖(=祟りによって引き起こされたパニック)を鎮める呪術的な効果(鎮魂)を持つ。
ここで見逃せないのは、吉晴が鎮めたのは「地の神」だけではなかった、という点である。彼は、神への誠意の表明(=宗教的儀礼)と、恐怖に怯える「人夫たちの心」の鎮静(=心理的ケア)を、「太鼓を自ら叩き続ける」という一つの行為で同時に達成したのである。
「殿様が自ら、我々のために夜通し祈ってくれている」という事実は、人夫たちにとって、迷信的な恐怖を打ち破る何よりの「安心材料」となった。これは、人柱という恐怖による支配とは対極にある、仁徳による人心掌握術であった。
考察3:逸話の史的意義 ― 浪人から大名への道
吉晴は、一介の浪人(あるいは岩倉織田氏の末席家臣)から、最終的に24万石の大名にまで登り詰めた人物である 3 。彼は、徳川家康のような名門の血統も、豊臣秀吉のような圧倒的な才気やカリスマも持っていなかった。 3 が示すように、彼の武器は「実直」「誠実」「謙虚」さであった。
本逸話は、吉晴のそうした「徳」が、超自然的な存在(地の神)にさえ通じ、奇跡(祟りの鎮静)を起こした、という「仁徳譚(じんとくたん)」の典型的な構造を持っている。
新たに浜松の支配者となった吉晴にとって、領民や家臣団に対し、自らの統治の正統性を示す必要があった。この「地の神と太鼓」の逸話は、彼が「武力」や「謀略」によってではなく、「仁徳」によって土地の神にさえ認められた治世者であることを証明する、極めて重要なプロパガンダ(政治的伝承)として機能したのである。
結論:語り継がれる「誠実」の霊験
堀尾吉晴の「夜の普請と太鼓の霊譚」は、単なる怪奇談や武将の美談ではない。
それは、戦国という「力」が支配する時代において、「武勇」や「謀略」( 1 が示唆する家康の逸話)とは異なる、「誠実」と「仁徳」( 3 が示す「仏の武将」像)という価値観をもって治世に臨んだ、稀有(けう)な武将の姿を象徴するものである。
人身御供という旧来の呪術的支配を、吉晴は「太鼓」という神事・芸能(=神との対話、および民との共感)によって乗り越えようとした。この行為は、迷信に支配された現場の「人心」を掌握し、普請という国家事業を成功に導いた、現実的かつ高度な統治術であった。
この逸話は、堀尾吉晴がなぜ「仏の茂助」と呼ばれ、一介の浪人から大名へと出世し得たのか、その答えを民俗信仰の形で後世に伝える、極めて重要な伝承であると結論付けられる。
引用文献
- 浜松城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.hamamatsu.htm
- 1-5.浜松の歴史と関わりのある主な人物 https://www.city.hamamatsu.shizuoka.jp/documents/133742/03dai1shou_2.pdf
- 堀尾吉晴〜仏か鬼か!?戦国一やさしくて強い男〜 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=sc4p0wPFSJ0