最終更新日 2025-11-06

天草四郎
 ~戦場で我らは神の軍と叫ぶ信仰~

天草四郎の「神の軍」信仰譚を戦国時代の視点から解体。旗や浪人衆の戦術、キリシタンの殉教論理が複合したイデオロギーを分析し、その歴史的本質を考察する。

『戦場で「我らは神の軍」と叫んだという信仰譚』の解体と再構築 — 戦国時代の視座から見た天草四郎の「聖戦」のイデオロギー —

序論:「信仰譚」への問い — 叫びか、あるいはスローガンか

天草四郎(益田四郎時貞)の名は、寛永14年(1637年)に勃発した島原・天草の乱における精神的指導者として、日本の近世史に深く刻まれている。彼に関して流布する数々の伝説の中でも、特に象徴的なのが『戦場で「我らは神の軍」と叫んだ』という信仰譚である。この逸話は、若きカリスマが神の代理人として信徒たちを鼓舞し、幕府の大軍に立ち向かったという、ロマンティシズムに満ちた情景を想起させる。

しかし、歴史分析の領域において、このような「信仰譚(hagiography)」 1 、すなわち聖人伝的な物語は、慎重な取り扱いを要する。特に「叫び」という一瞬の音声的出来事は、客観的な一次史料として記録され難い。本報告書の目的は、天草四郎個人の「発声」の真偽を証明することではない。むしろ、「我らは神の軍」という逸話(イデオロギー)が、どのような「リアルタイムな状態」— すなわち、具体的な物証、軍事行動、そして宗教儀礼 — として戦場で現出していたかを、時系列に沿って解体し、再構築することにある。

本分析において鍵となるのが、ユーザーの要求する「戦国時代の視点」である。島原・天草の乱は、徳川幕府による支配体制が確立した江戸時代初期の出来事である。しかし、その内実は「戦国時代」の遺産そのものであった。この視点を定義する要素は三つある。第一に、反乱軍の戦闘行動が、旧大名家に仕えた浪人衆による「玄人レベル」の戦術に支えられていた点 2 。第二に、乱の背景には、豊臣秀吉による「伴天連追放令」(1587年)以来、約50年にわたって蓄積されたキリシタンへの積年の抑圧が存在した点 3 。第三に、反乱軍の母体となった「組」と呼ばれる宗教結社が、戦国時代の「一向一揆」と同様のメカニズムで軍事化した点である 4

したがって、この乱は「徳川幕府(江戸) 対 キリシタン(島原)」という単純な宗教戦争の構図ではなく、「戦国時代の敗者(浪人衆)と信仰者(キリシタン)の連合軍 対 確立された近世秩序(幕府)」という、まさしく戦国時代の「最後の残響」であった。本報告書は、この視座から「我らは神の軍」という「信仰譚」の歴史的実像に迫るものである。

第一部:逸話の物証 —「叫び」の代わりに戦場に翻った「旗」

逸話が伝える聴覚的な「叫び」の実態を解明する鍵は、皮肉にも、戦場で視覚的に提示された「イデオロギー」にある。天草四郎の「信仰譚」を「リアルタイム」で検証する上で、現存する「天草四郎陣中旗」(通称、現在は天草市立キリシタン館蔵)ほど雄弁な物証は存在しない。この旗こそ、「神の軍」のイデオロギーを体現した第一級の史料である。

陣中旗のテキストと神学的解釈

この麻布製の旗の上部には、ポルトガル語で次のように記されている。

$Louvado \ seja \ O \ Sanctissimo \ sacramento!$

これは日本語で「いとも聖なる秘跡は讃美されんことを」と翻訳される 4 。神学的な文脈において、ここでいう「秘跡(sacramento)」とは、カトリック教会における7つの秘跡のうち、最も重要視される「聖体の秘跡」(イエス・キリストの肉と血とされるパンとワイン)を指している 4

このテキストが示す事実は決定的である。彼らの「叫び」が「我らは神の軍」であったとすれば、その「神」とは、抽象的なデウス(Deus)であると同時に、より具体的には「聖体(サクラメント)」であった。彼らは自らを、迫害の中で守り続けてきた「聖体」のための軍隊、すなわち「聖体の軍」と規定していたのである。

「戦国時代の視点」から見た「組」の軍事化

この旗の図像とテキストは、反乱軍の出自とも深く関連する。この旗は元来、豊臣秀吉による「伴天連追放令」(1587年)以降、長崎あるいは有馬(島原半島南部)において潜伏しながら組織された、「聖体の組」と呼ばれるキリシタンの信心会(コンフラテルニダーデ)に由来する可能性が指摘されている 4

ここに「戦国時代の視点」が明確に表出する。「聖体の組」という平時(あるいは潜伏期)の宗教結社が、領主の圧政と宗教弾圧という危機に直面し、一斉蜂起する「一揆」へと変貌したのである。このプロセスは、戦国時代に畿内や北陸を席巻した「一向一揆」(浄土真宗の門徒組織「講」が軍事集団へと変貌したもの)と、その組織論的構造において酷似している。

この視点に立つならば、「我らは神の軍」という「叫び」(逸話)は、天草四郎個人の発声としてではなく、この「聖体の組」が「一揆」(軍事集団)へと変貌する過程で採用された、組織結集のための「スローガン」であった可能性が極めて高い。それは、日本語の「叫び」として発せられる以前に、まずポルトガル語の「祈り」として、彼らのアイデンティティと共に旗に縫い込まれていたのである。

現代においても、画家・山本タカトの作品など、天草四郎がこの「聖体」の旗を掲げる姿が、乱の象徴として描かれ続けている 5 。この事実は、乱の当時から現代に至るまで、「天草四郎」と「聖体の旗」の結びつきが、この反乱のアイデンティティそのものであったことを示している。我々が知る「我らは神の軍」という逸話(「叫び」)は、この戦場に翻った強力な視覚的シンボル 4 を、後世の人間が理解しやすい聴覚的な「物語」として再翻訳した結果であると考えられる。

第二部:戦局の時系列と「神の軍」の変容

「我らは神の軍」というイデオロギーは、固定されたものではなかった。それは戦局の推移という「リアルタイムな状態」に応じて、その機能と意味を劇的に変容させていった。本章では、ユーザーの要求する「時系列」に基づき、この「神の軍」のイデオロギーが、蜂起から終焉までの各局面でどのように機能したかを分析する。

2-1. 蜂起と熱狂:島原城攻撃(1637年)

リアルタイムな状態(蜂起初期): 寛永14年(1637年)10月、島原半島と天草諸島でほぼ同時に始まった反乱の初期衝動は、領主の苛烈な重税と、豊臣政権以来のキリスト教禁令(1587年) 3 に象徴される約50年(二世代)にわたる積年の抑圧に対する義憤であった。

反乱軍は当初、松倉氏の本拠地である島原城を攻撃したが、近世城郭の堅牢な守りを前に失敗に終わる 2 。この蜂起初期の熱狂を伝える同時代のイエズス会史料には、興味深い記述が残されている。それは反乱指導者(の一人)の姿を、「手綱を軽蔑する跳ね馬」「制御不能な怒りにしばしば消費され」「群衆を扇動した」と、必ずしも「聖」とは言えない生々しい筆致で描いている 1

この記述は、「信仰譚」が持つ神聖なイメージとは裏腹に、蜂起の現場には「制御不能な怒り」という極めて「俗」なエネルギーが渦巻いていたことを示唆している。この分析から導き出されるのは、蜂起初期における「我らは神の軍」という「叫び」(あるいはスローガン)の機能である。それは、純粋な信仰の表明であると同時に、この 1 の言う「怒り」を「聖戦」の論理へと昇華・正当化し、「群衆を扇動」するための、極めて強力なイデオロギー装置として機能した。 3 が示す1587年以来の歴史的積怨が、このスローガンの下で爆発した瞬間であった。

2-2. 籠城と組織化:原城の「神の軍」(1637年冬 - 1638年)

リアルタイムな状態(籠城期): 島原城攻撃に失敗した反乱軍は、戦略を変更する。彼らは有馬氏の旧居城であり、海に面した堅城「原城」を占拠し、自ら修理して立てこもった 2 。この原城籠城こそが、「神の軍」の逸話を解明する上で最も重要な局面である。

原城に集結した「神の軍」の実態は、2の分析によって明確に二重構造であったことが判明している。

第一に、反乱軍は「天草四郎の下に統率されて」いた。これは、若き天草四郎が持つカリスマ性と奇跡の物語が、宗教的・精神的な求心力として機能していたことを示す。

第二に、しかし「実際には有馬氏や他の大名に以前仕えていた浪人衆によって指導されていた」2。これが軍事的な実態である。幕府軍(総勢12万人)が、この3万人弱(戦闘員・非戦闘員含む)の立てこもる城を容易に落とせなかった理由は、2が指摘する通り「その反撃の方法が玄人レベルにあったため」であった。

ここに、「神の軍」の決定的な二重構造が浮かび上がる。すなわち、(1) 天草四郎というカリスマ的・宗教的象徴、(2) 旧有馬氏家臣団など「戦国時代」のプロフェッショナルな軍事技術を持つ「浪人衆」である。この両者は、本来ならば水と油である。宗教的情熱に燃える農民と、戦国の論理(実力主義、旧主への忠義)で動く戦闘のプロフェッショナルは、異なる動機を持っていた。

「我らは神の軍」という「叫び」(あるいは第一部で論じた「聖体の旗」 4 )は、この異質な二重構造を「原城」という密閉空間で繋ぎ止める、唯一の「イデオロギー装置」であった。戦国上がりの「玄人」(浪人衆) 2 たちは、自らの戦歴と高度な軍事技術を、封建的な主君のためではなく「聖戦」のために捧げるという論理で結束した。宗教的熱狂にある農民たちは、その「玄人」の指揮下で組織化され、一揆軍から籠城軍へと変貌した。「神の軍」とは、この「戦国浪人」と「キリシタン農民」の異種連合軍の「総称」だったのである。

2-3. 待望と内面化:原城における「祈り」と「受難」(1638年冬)

リアルタイムな状態(籠城末期): 原城に立てこもった反乱軍の戦略は、 2 によれば、日本の他のキリシタンや、ポルトガルのようなカトリック国からの「援軍」を待つことにあった。しかし、真冬の3ヶ月にわたる籠城戦で、その援軍はついに現れなかった。幕府軍は兵糧攻めへと戦術を転換し、城内の兵糧は尽きていく 2

この絶望的な状況下における「リアルタイムな状態」は、戦闘行為そのものよりも、彼らの「内面」にあった。 6 は、この状況下で籠城者たちが「コンチリサン(悔悛)のオラショ」を欠かさなかったと指摘する。「コンチリサン」とは「悔い改め」を意味する。彼らの「リアルタイムな状態」は、戦闘の興奮ではなく、神への敬虔な「悔い改め」の祈りに満ちていたのである。

この事実は、彼らの「神の軍」という自己認識が、単なる傲慢な「選民思想」ではなく、 6 が示す「悔悛」と不可分のものであったことを示している。

そして、 6 は本報告書における最も重要な時系列の分析を提供する。彼らが「寒天の雪霜を凌ぎ」ながら原城に籠もった3ヶ月間は、キリスト教の典礼暦において、キリストの十字架死を記念する「四旬節・聖週間」の時期と完全に一致していた 6

1638年の「悲しみ節の上がり」、すなわち復活節(イースター)は、4月11日(和暦2月27日)であった。そして、幕府軍による原城への総攻撃が開始され、城が陥落したのは、その翌日4月12日(和暦2月28日)である 6

この時間的な一致は偶然ではない。籠城末期において、「我らは神の軍」という「叫び」の意味は、決定的な変容を遂げた。彼らは、現世での勝利( 2 の援軍)を目指す「戦闘集団」から、キリストの受難( 6 の四旬節)に自らの苦難を重ね合わせ、復活祭(イースター) 6 に殉教(=死による復活)を捧げる「殉教の軍」へと、自らのアイデンティティを神学的に再定義したのである。

「我らは神の軍」というスローガンは、蜂起初期の「熱狂」から、籠城期の「組織化」を経て、最終的には集団殉教へと向かう「覚悟」の表明へと、その意味を変容させたのであった。

第三部:「信仰譚」の成立 —「叫び」はいつ、どのようにして生まれたか

これまでの分析で明らかなように、天草四郎が、逸話の通りに「我らは神の軍」と日本語で「叫んだ」とする直接的・同時代的な一次史料(例えば従軍記録や幕府方の尋問調書など)は、現在のところ確認されていない。この「叫び」は、特定の瞬間の「発声」の記録ではなく、乱の終結後、その悲劇性と宗教性を強調する過程( 1 の言う「聖人伝(hagiography)」の形成過程)で生成された「信仰譚」であると結論付けられる。

この「信仰譚」は、歴史的な「実態」が、後世の物語として「圧縮」されたものである。その「圧縮」のプロセスには、本報告書で解明した以下の四つの要素が不可欠であった。

  1. 物証(視覚): 「聖体の旗」が戦場に翻ったという圧倒的な視覚的事実 4
  2. 実態(軍事): 戦国浪人衆による「玄人レベル」の戦闘力と組織力 2
  3. 実態(宗教): 籠城中の敬虔な「コンチリサン」の祈りと、キリストの受難に合わせた集団殉教という神学的な結末 6
  4. 文脈(心理): 迫害に対する「制御不能な怒り」という、蜂起の原動力となった生々しい感情 1

「我らは神の軍」という逸話は、これら複雑な要素(ポルトガル語の旗、浪人の戦術、悔悛の祈り、積年の怒り)を、後世の日本人が最も理解しやすく、最も感情に訴えかける「天草四郎の日本語の叫び」という、単一の象徴的行動に集約させた結果生まれた、優れた「物語」なのである。

「戦国時代の視点」から見れば、この逸話の成立自体が、戦国的な言説戦略の延長線上にある。この逸話は、この反乱を単なる「百姓一揆」や、食い詰めた「戦国浪人の最後の反乱」といった世俗的な出来事から、「聖戦」へと昇華させる機能を果たした。 2 が指摘する「玄人レベル」の浪人衆にとって、「神の軍」という大義は、彼らが失った封建的な主従関係に代わる、新たな忠誠の対象であり、自らの死を意味づける最後の砦であった。それは、戦国武将が自らの戦を正当化するために「八幡大菩薩」や「愛宕権現」の加護を語るのと、全く同じ構造を持っていたのである。

第四部:【分析表】「信仰譚」と「リアルタイムな状態」の比較

本報告書の分析結果を、ユーザーの要求(「逸話のリアルタイムな会話内容」や「その時の状態」)に応える形で、一覧可能な比較表として以下に提示する。この表は、一般的に知られる「信仰譚」の概要と、本調査によって 1 から 6 までの史料・研究に基づき再構築された「歴史的実態」とを、明確に並置・対比させるものである。

分析項目

ユーザーの知る「信仰譚」の概要(逸話)

本調査による「リアルタイムな状態」の再構築(史実)

スローガン

天草四郎の「我らは神の軍」という「叫び」。

1. 【物証】 ポルトガル語の「聖体」の旗 ($Louvado \ seja \ O \ Sanctissimo \ sacramento!$) 4

2. 【音声】 城内での「コンチリサン(悔悛)のオラショ」 6

軍の指導実態

天草四郎というカリスマ的指導者。

戦国時代の「玄人レベル」の戦術を持つ「浪人衆」による実際の軍事指導 2 。天草四郎はその精神的・宗教的象徴。

軍の性質

神に選ばれた、聖なる義勇軍。

1. 【組織】 「聖体の組」という宗教結社の軍事化(一向一揆との類似) 4

2. 【感情】 「制御不能な怒り」に満ちた群衆 1

3. 【構成】 「戦国浪人」と「キリシタン農民」の異種連合軍 2

「叫び」の文脈

勝利と正義を確信する、戦場での高揚。

1. 【蜂起時】 積年の怒りの扇動と正当化 [1, 3]。

2. 【籠城時】 外国(ポルトガル)の援軍への切実な待望 2

3. 【末期】 「四旬節」「復活節」に合わせた、集団殉教への「覚悟」と「悔悛」 6

「戦国視点」

(逸話からは読み取りにくい)

戦国浪人の戦術 2 、一向一揆的な組織論 4 、豊臣政権以来の積怨 3 の、全てが凝縮された「最後の戦国」。

結論:「戦国時代」の終焉に響く「叫び」

「我らは神の軍」という逸話は、天草四郎個人の一回性の「叫び」というよりも、島原・天草の乱という「最後の聖戦」における、反乱軍の集団的自己規定そのものであった。それは、戦国時代の軍事論理(浪人衆の戦術) 2 と、戦国時代から続くキリシタンの殉教論理 6 が、徳川幕藩体制という新たな支配秩序 3 と正面から衝突した瞬間に発せられた、複合的なイデオロギーの表明であった。

この「信仰譚」は、史実(ポルトガル語の旗 4 、浪人の軍事力 2 、敬虔な祈りと殉教 6 )が、敗者の行動を神聖化する装置(聖人伝) 1 として機能し、現代に至る天草四郎の象徴的イメージ 5 を形成する上で、決定的な役割を果たした。

最終的に、この「叫び」は、厳密には「戦国時代」の出来事ではない。しかしそれは、「戦国時代」の論理でしか生きられなかった人々(浪人衆)と、「戦国時代」から続く信仰を守ろうとした人々(キリシタン)が、彼らにとっての「新しい時代」(江戸の秩序)に対して、その存在のすべてを賭けて「否」を突きつけた、最後の「声」の集積体であった。その複雑で悲劇的な響きこそが、この「信仰譚」の歴史的本質である。

引用文献

  1. Deities, Demons or Decoration? Asian Religions in Two Jesuit Latin Martyr Epics - Monash University https://research.monash.edu/files/670641880/654877390-oa.pdf
  2. キリスト教 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99/
  3. The Dream of Christian Nagasaki - National Academic Digital Library of Ethiopia http://ndl.ethernet.edu.et/bitstream/123456789/47766/1/115.pdf
  4. 陣中旗の神学 : 真理と十字架 https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/34771/files/AST%2036-91.pdf
  5. Introduction - Oxford Academic https://academic.oup.com/book/43124/chapter/361968852/chapter-pdf/44109927/oso-9780195335439-miscmatter-9.pdf
  6. 2016 - 花久留守―宮本次人キリシタン史研究ブログ http://twoton1638.blogspot.com/2016/