武田信玄
~風林火山旗靡かず死を悟る凶兆譚~
武田信玄の西上作戦中、病に倒れ「風林火山」の旗が靡かず死を悟った凶兆譚の深層を探る。史実と伝説が織りなす、戦国最強武将の最期と歴史への影響を考察。
武田信玄と靡かぬ旗 ― 終焉の凶兆譚、その深層
序章:静寂なる陣営 ― 凶兆の序曲
元亀四年(1573年)の年が明けて間もない頃、三河国・野田城を包囲する武田の大軍は、その威容を天下に轟かせていた。前年末の三方ヶ原における徳川家康との激戦は、織田信長の援軍をもろとも粉砕する圧倒的な勝利に終わり、武田騎馬軍団の不敗神話は揺るぎないものとなっていた 1 。破竹の勢いで京を目指す西上作戦は、最終段階を迎えつつあるかに見えた。紺地に金泥で「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」と記された「孫子の旗」は、三河の乾いた冬の風を孕み、武田軍の強大さを象徴するかのように、高らかにはためいていた。
しかし、その輝かしい軍容とは裏腹に、総大将・武田信玄の本陣には、勝利の高揚感とは異質の、重くよどんだ空気が漂い始めていた。天下統一という大願を目前にしながら、信玄の肉体は、長年の持病であった「労咳(肺結核)」、あるいは一説に「胃癌」ともされる病魔によって、内側から静かに、しかし確実に蝕まれていたのである 3 。軍学書『甲陽軍鑑』は、その病を「膈(かく)の病」と記し 4 、信玄の侍医であった御宿監物(みしゅく かんもつ)が残したとされる書状には、「肺肝の病患たちまち腹心に萌し」とその深刻な病状が伝えられている 3 。
表向きは野田城の攻略に専心する信玄であったが、その胸中には、天下への焦燥と、抗いがたい死の影との壮絶な相克が渦巻いていたであろう。武田軍の進軍が停滞し始めた直接的な原因は、信玄個人の健康問題であった。だがそれは同時に、信玄という一個人の絶大なカリスマと比類なき軍事的才能に極度に依存してきた武田家という組織の構造的脆弱性が、初めて露呈した瞬間でもあった。本陣に漂う不穏な空気は、単に主君の病を案ずる不安だけではない。絶対的指導者を失うことへの、組織全体の潜在的な恐怖の表れであったのかもしれない。この時点ではまだ生命力に満ちていた「風林火山」の旗も、やがて来るべき主家の運命を予感していたかのように、その輝きにどこか悲壮な色合いを帯び始めていた。
第一章:運命の撤退行 ― 駒場の宿営にて
元亀四年二月、野田城はついに開城し、武田軍はまた一つ勝利を収めた。しかし、この勝利が西上作戦における最後の戦果となった。信玄の病状はもはや隠しきれるものではなく、これ以上の進軍は不可能であるという冷徹な現実が、重臣たちの間に重くのしかかる。馬場信春、山県昌景、内藤昌豊ら宿将たちは苦渋の協議の末、甲斐への帰還を決断した。天下統一の夢は、京を目前にして断たれたのである。
軍は、三河から信濃へと抜ける伊那街道(三州街道)を、来た時とは全く異なる悲壮な雰囲気に包まれて北上を開始した 1 。勝利の凱旋ではなく、それは静かな敗走であった。信玄の容態は刻一刻と悪化し、輿の中で意識を失うことも稀ではなかった。そしてついに、信濃国伊那郡駒場、現在の長野県下伊那郡阿智村から根羽村にかけての一帯で、軍は進軍を停止せざるを得なくなった 1 。『甲陽軍鑑』が信玄終焉の地として記す「三河・美濃・信濃三ヶ国の間、ねばねの上村」とは、まさにこの地である 3 。ここが、戦国最強と謳われた武将の最後の舞台となった。
死を悟った信玄は、枕元に後継者である四男・勝頼をはじめ、譜代の重臣たちを呼び寄せ、最後の遺言を託した。その言葉は、死してなお武田家の安泰を願う、深謀遠慮に満ちたものであった。
第一に、「我が死を三年の間、秘匿せよ」 1 。信玄存命という事実こそが、織田、徳川、上杉といった周辺勢力に対する最大の抑止力である。自身の死が公になれば、たちまち敵の侵攻を招き、勝頼への権力移譲もままならなくなる。この遺言は、冷徹な戦略家としての信玄の最後の策であった。
第二に、勝頼に対し、宿敵であった越後の上杉謙信を頼るよう諭したことである。「謙信は義の武将である。頼れば必ず汝を助けるであろう。我は大人げなく、最後まで頼むと言い出せなかったが、汝は必ず謙信を頼りとせよ」 10 。生涯をかけて覇を競った好敵手の人間性を誰よりも深く理解し、その器量を認めていた信玄の、武将としての度量の大きさと、若き後継者を案じる親心が滲み出る言葉であった。
そして第三に、「我が遺骸は鎧を着せたまま、三年後に諏訪湖の底に沈めよ」と命じたとされる 1 。これは敵に墓を暴かれることを防ぐためと伝えられるが、後世の創作である可能性が高い。信玄の墓は、菩提寺である甲斐の恵林寺に現存している 12 。
三方ヶ原での圧勝から、わずか四ヶ月足らず。武田信玄の運命は、栄光の頂点から死の淵へと、あまりにも急激に転がり落ちた。その劇的な変化は、以下の時系列表からも明らかである。
武田信玄 西上作戦最終局面の時系列表
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年月日(元亀/天正) |
場所 |
主要な出来事 |
信玄の状況・関連史料 |
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元亀3年12月22日 |
遠江国・三方ヶ原 |
三方ヶ原の戦い。織田・徳川連合軍に圧勝。 |
まだ自ら軍の指揮を執れる状態。 |
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元亀4年1月 |
三河国・野田城 |
野田城包囲戦を開始。 |
この頃から持病が顕著に悪化か。『甲陽軍鑑』は狙撃説を否定している [13]。 |
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元亀4年2月10日 |
三河国・野田城 |
野田城が開城。 |
病状は深刻化し、自ら指揮を執るのは困難な状態であったと推測される。 |
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元亀4年2月以降 |
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武田軍、甲斐への撤退を開始。 |
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天正元年4月12日 |
信濃国・駒場(根羽村) |
武田信玄、死去。『甲陽軍鑑』 3 や『熊谷家伝記』 3 に記述あり。 |
享年53歳。 |
この表が示すように、歴史的現実は極めて緊迫しており、信玄の死にまつわる逸話は、こうした極限状況の中で生まれたものであった。
第二章:幻影の瀬田橋 ― 逸話の核心とその会話
天正元年(1573年)四月十二日、信濃駒場の陣中。信玄の命の灯火は、今まさに消えようとしていた。重臣たちが固唾を飲んで見守る中、薄れゆく意識の狭間で、信玄の唇がかすかに動いた。そこから漏れ出たのは、現実の悲壮な撤退行とは全く異なる、夢と現(うつつ)の境を彷徨う、幻の進軍命令であった。
信玄は、傍らに控える武田四天王随一の猛将・山県昌景に、かろうじて視線を向けた。
信玄: (途切れ途切れのかすれた声で)「……昌景……明日は……明日は、瀬田に我が旗を立てよ……」 7
「瀬田」― それは近江国、琵琶湖から流れ出る瀬田川に架かる瀬田の唐橋を指す。古来より「瀬田橋を制する者は天下を制す」と言われ、京へ入るための最後の、そして最大の戦略的要衝であった 15 。この一言は、信玄が生涯を賭して追い求めた上洛、すなわち天下統一という壮大な夢そのものであった。死の淵にありながら、彼の魂はなおも京を目指し、天下に覇を唱えようとしていたのである。
このあまりにも現実離れした最後の命令を聞いた山県昌景の胸中には、万感の思いが去来したであろう。昌景は、かつて信玄の嫡男・義信が謀反を企てた際、その傅役(もりやく)であった実兄・飯富虎昌の関与を知りながらも、主君への忠義を貫き、陰謀を信玄に密告したほどの人物である 16 。その忠誠心は、武田家臣団の中でも比類なきものであった。
昌景は一瞬、主君の言葉に息を呑んだ。しかし、すぐに悟った。信玄は、死の床で最後の夢を見ているのだと。もはやその夢が叶うことは永遠にない。こみ上げる慟哭を必死にこらえ、主君の偉大なる生涯の終焉を、最も敬虔な形で示すための、一つの儀式を執り行うことを決意した。それは、主君の夢の終わりを静かに受け入れ、最大限の哀悼の意を表す行為であった。
昌景は静かに涙を流しながら、傍らの旗持ちの兵に、厳かに、しかしはっきりとした声で命じた。
昌景: 「……御旗を。……御旗を、横に」
その声に応じ、武田軍の魂であり、信玄その人の象徴であった「孫子の旗」が、天を突くその切っ先を降ろし、大地と平行になるよう、静かに横たえられた。この「旗を横に伏せる」という行為こそが、この逸話の核心である 6 。それは降伏でも敗北でもない。偉大なる主君の永遠の眠りと、その壮大な夢の終焉に対する、忠臣たちの沈痛な祈りであり、無言の弔辞であった。
ユーザーが知る「旗が風に靡かず、死を悟られた」という凶兆譚は、この極めて人間的なドラマが、後世に語り継がれる過程で、より詩的、象徴的に洗練された形である可能性が高い。具体的な「旗を横にする」という行為は、結果として「風に靡かない」状態を生み出す。人の手による哀悼の儀式が、やがて超自然的な凶兆として語られるようになったのだ。この逸話の真の感動は、不可思議な現象ではなく、死にゆく主君と、その最期を看取る忠臣との間に交わされた、声なき対話という人間ドラマそのものにあると言えよう。
第三章:大地に刻まれた記憶 ― 地名「横旗」の誕生
物語は、語り継がれるだけでは風化する。しかし、それが土地の名となり、人々の生活空間に刻み込まれるとき、物語は半永久的な生命を得る。武田信玄終焉の逸話は、まさにその好例である。
信玄が最後の息を引き取り、その偉大な生涯を悼んで「孫子の旗」が横にされたと伝えられる場所、すなわち現在の長野県下伊那郡根羽村の一地区は、その故事にちなんで「横旗(よこはた)」という地名で呼ばれるようになった 3 。この地名は、一つの歴史的逸話が、単なる伝承の域を超えて、その土地のアイデンティティの一部として深く根付いたことを示す、何より雄弁な証拠である。人々は「なぜ、この地が横旗と呼ばれるのか」という問いに対し、「かつてここで、信玄公の御旗が横にされたからだ」と答える。この問いと答えの循環こそが、伝説をあたかも史実であるかのように強固に定着させてきたのである。
この地域には、「横旗」の地名以外にも、信玄終焉の物語を物理的に裏付ける史跡や伝承が数多く残されている。
その代表格が、国道153号線を見下ろす高台に静かに佇む「信玄塚」である 5 。中央に立つ宝篋印塔は、信玄の百回忌にあたる寛文十二年(1672年)に、武田家ゆかりの人々によって建立された供養塔であると伝えられている 7 。昭和五十九年(1984年)に行われた発掘調査では、遺骨や遺物は発見されなかったものの 3 、この地が古くから信玄終焉の地として認識され、人々の信仰の対象となってきたことを物語っている。
さらに、信玄塚の近くを流れる「堂之入(どうのいり)川」という川の名も、信玄の「胴」、すなわち亡骸をこの地に運び入れたことに由来するという説がある 18 。地名や川の名は、物語を風化させないための最も強力な記憶装置として機能してきた。
こうした伝承は、中央で編纂された公式な歴史書には見られない、地域ならではのディテールを伴って語り継がれている。例えば、天龍村の郷士・熊谷家に伝わる『熊谷家伝記』には「明る十二日に根羽にて御息止る」と具体的な日付が記され、江戸末期の記録『根羽七宮廻り』には「大暑なれば死骸こらへず、ここに埋めて旗印を立て」と、遺体をこの地に埋葬せざるを得なかった生々しい状況が記されている 3 。
これらの郷土史料や地名、史跡は、文字記録中心の中央史観とは異なる、地域における歴史の継承のあり方を示している。信玄終焉の物語は、『甲陽軍鑑』というテキストの中だけでなく、信濃の山深い大地そのものに根差し、そこに暮らす人々の記憶と共に生き続けてきたのである。
第四章:軍団の魂 ― 「風林火山」の旗が持つ象徴的意味
なぜ、「旗が靡かない」あるいは「横にされる」という事象が、これほどまでに重大な意味を持つのか。その答えを探るには、戦国時代における軍旗の役割、そして武田軍にとっての「風林火山」の旗が持つ特別な象徴性を理解する必要がある。
まず、「風林火山」の旗、正しくは「孫子の旗」は、単なる軍団の標識ではなかった。それは、古代中国の偉大な兵法書『孫子』の軍争篇に記された一節、「其疾如風、其徐如林、侵掠如火、不動如山」(その疾(はや)きこと風の如く、その徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、動かざること山の如し)から引用された、武田軍の戦術思想そのものであった 21 。一説には、信玄の軍師であった山本勘助がこの句を選び出し、菩提寺である恵林寺の住職・快川紹喜(かいせんじょうき)が揮毫したと伝えられ、軍事的合理性だけでなく、ある種の宗教的な権威さえも帯びていた 22 。敵にとってこの旗は、戦国最強と謳われた武田軍団の来襲を告げる、恐怖の象徴に他ならなかった 23 。
戦国時代の合戦において、軍旗は敵味方を識別し、部隊の進退を指示するという実用的な機能を担っていた 25 。しかし、その役割はそれだけに留まらない。特に、総大将の居場所を示す「馬印(うまじるし)」や本陣に掲げられる大旗は、大将その人の存在と威光、そして生命力を示す極めて重要な象徴であった 27 。旗が掲げられている限り、大将は健在であり、軍の士気は保たれる。逆に、もしその旗が倒れれば、それは大将の討死を意味し、軍全体の崩壊に直結しかねない、致命的な事態であった 29 。
この文脈で、「靡かぬ旗」の象徴性を解読すると、その意味は一層明らかになる。「風林火山」の理念の第一句は、「疾きこと風の如し」である。武田軍団の生命線であり、その強さの根源であった圧倒的な機動力を象徴する「風」。その「風」をその身に受けて力強くはためくことこそ、この旗が本来あるべき姿であった。
その旗が「風に靡かない」、あるいは意図的に「横たえられる」ということは、武田軍団から「風」、すなわち生命力と機動力が永久に失われたことを意味する。そして、武田軍の生命力そのものであった信玄の死を、これ以上なく明確に、そして詩的に示す象徴的な出来事であったと結論付けられる。信玄の死は、単に一人の武将の死ではない。それは、「風林火山」という完璧な軍事思想を体現していた唯一無二の存在の消滅であり、その思想体系そのものの崩壊の始まりであった。靡かぬ旗は、単に信玄個人の死の凶兆であるに留まらず、信玄によって支えられていた武田軍の「秩序」と「理念」そのものが失墜したことの象徴であり、後の武田家滅亡という、より大きな悲劇の序章を予感させるものであったのだ。
第五章:史実と物語の狭間で ― 『甲陽軍鑑』の史料批判
この悲劇的で象徴的な逸話の源流は、主に江戸時代初期に成立した軍学書『甲陽軍鑑』に求められる 8 。武田信玄・勝頼の二代にわたる事績を中心に、甲州流軍学の神髄を説いたこの書物は、信玄の人物像を形成する上で絶大な影響を後世に与えてきた。しかし、その史料としての価値については、長年にわたり論争の的となってきた。
かつて、『甲陽軍鑑』は事実誤認や創作が多く含まれることから、信憑性の低い俗書と見なされる傾向が強かった。しかし、近年の研究ではその評価は見直されつつある。例えば、収録されている古文書の中には、原本や良質な写しが確認できるものが多く存在することや、その言葉遣いに戦国時代末期の特徴が色濃く残っていることなどが指摘され、史料批判を慎重に行えば、当時の武士の価値観や武田家の内情を知る上での貴重な情報源となりうることが認められている 9 。
それでもなお、『甲陽軍鑑』が単なる客観的な記録ではなく、武士の生き方や主君への忠義といった道徳を説く「教訓書」としての性格を色濃く持つことは否定できない 33 。そのため、信玄の最期のような物語のクライマックスにあたる場面では、教訓的、あるいは劇的な効果を高めるための文学的脚色が加えられている可能性は極めて高い 34 。
「明日は瀬田に我が旗を立てよ」という信玄の最後の言葉。これが史実として、信玄の口から発せられた言葉であると証明することは、もはや不可能に近い。しかし、この言葉が信玄の生涯を貫く天下への執念と、それを目前にして斃れた無念さを、これ以上なく見事に表現した文学的創作であったとしても、その価値が損なわれるわけではない。
重要なのは、「事実(Fact)」の真偽を問うこと以上に、この逸話が何を伝えようとしているかという「真実(Narrative)」を読み解くことである。この物語は、信玄の死という歴史的出来事が、彼を深く敬愛した家臣たちや、その武勇に憧れた後世の人々にとって、いかに衝撃的で、悲劇的で、そして象徴的な出来事として受け止められたか、という歴史的な「真実」を雄弁に物語っている。歴史とは、単に起こった出来事の記録ではない。それが人々にどう記憶され、解釈され、物語として再構築されていくかというプロセスそのものもまた、歴史の一部なのである。この逸話は、そのプロセスを示す格好の事例と言えよう。
終章:靡かぬ旗が語るもの ― 逸話の歴史的意義
武田信玄の「風林火山の旗が風に靡かず、死を悟られた」という逸話は、その原形である「瀬田への夢と横にされた旗」の物語も含め、単なる一つの凶兆譚として片付けるにはあまりにも豊穣な意味を内包している。
本報告で分析してきたように、この逸話は、天下統一を目前にした英雄の夢の終焉、主君の最期を看取る忠臣の深い哀悼、自然現象と人間の運命とを結びつける日本人の死生観、そして歴史的記憶を大地に刻み込むという文化のあり方、さらには史実が人々の心の中で物語へと昇華していくプロセスといった、幾重ものテーマを凝縮した、非常に優れたテクストである。
この悲劇的で詩情豊かな最期の物語は、「戦国最強」という豪胆な武人としての信玄像に、人間的な深みと悲哀という、もう一つの側面を付け加えた。もし信玄が天下統一を成し遂げていたならば、この逸話は生まれなかったであろう。天下を目前にしながら、病によって夢潰えた不世出の英雄。その悲劇的なイメージを後世の人々の心に決定的に刻み付けたのが、この「靡かぬ旗」の物語なのである。
結論として、この逸話は、一個人の死が、一つの時代の終わり、そして一つの偉大な夢の終わりとして、いかに象徴的に記憶されたかを示す、日本戦国史における最も優れた悲劇の一つと言える。信濃の山中に静かに横たえられた「孫子の旗」。その姿は、武田信玄という巨星が音もなく堕ちた瞬間の、永遠の静寂を、今なお我々に伝え続けているのである。
引用文献
- 【武田信玄の石棺】 諏訪の民話や伝説 https://suwaarea-examine.com/Stone_coffin_of_Takeda_Shingen.html
- 名補佐役を川中島の戦いで亡くした武田信玄の悲劇 https://topics.bs11.jp/ijin-haiboku-kyoukun_34/
- 武田信玄公終焉の地 - 戦国女士blog https://rekijoshi.hatenablog.com/entry/2020/08/01/075900
- 去年の今頃はシリーズ(8-1) 講演:恵林寺講座 平山優先生に聞く武田信玄公 品第一 http://arcadia.cocolog-nifty.com/nikko81_fsi/2017/03/post-5784.html
- 武田信玄の本当の終焉地はどこか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4942
- 横旗の信玄塚 根羽村 | 信州たびブログ https://shinshu-travel.com/%E6%A8%AA%E6%97%97%E3%81%AE%E4%BF%A1%E7%8E%84%E5%A1%9A%E3%80%80%E6%A0%B9%E7%BE%BD%E6%9D%91/
- 伝:武田信玄の終焉の地 - 長野県:歴史・観光・見所 https://www.nagareki.com/bodaiji/singenduka.html
- 武田信玄が臨終の時に自分の死を3年間伏せるように言ったという逸話の出典を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/reference/show?ldtl=1&dtltbs=1&mcmd=25&st=update&asc=desc&pg=3&fi=2_2%203_%E4%BA%8B%E5%AE%9F%E8%AA%BF%E6%9F%BB&state=2200000020&page=ref_view&id=1000073055
- 武田信玄が臨終の時に自分の死を3年間伏せるように言ったという逸話の出典を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000073055
- 【武田信玄と上杉謙信の関係】第一次~第五次合戦まで「川中島の戦い」を徹底解説 - 歴史プラス https://rekishiplus.com/?mode=f6
- 武田信玄の辞世 戦国百人一首61|明石 白(歴史ライター) - note https://note.com/akashihaku/n/n46f8f3c7803b
- 武田信玄 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84
- 「瀬田に我が旗を立てよ」:回想、6年前の今日 - 捄国異能塾 https://fusanokuniinoujuku.vitaly.jp/daily_blog/20160522/
- 戦国武将の知られざる「本音」とは?武田信玄・前田利常・島津義久の心の声を紹介 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/68775/
- 山県(飯富)昌景 どうする家康/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/89780/
- 武田軍の最高指揮官・山県昌景が辿った生涯|家康が恐れた、最強騎馬軍団「赤備え」の長【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1122624
- 【長野】武田信玄の終焉の地伝説(1) 根羽「信玄塚」 - おでかけ ももよろず https://www.momoyorozu.net/entry/2022/05/08/164612
- 信玄ロマン紀行 - 根羽村役場 | 長野県下伊那郡 https://www.nebamura.jp/nebainfo/shingen/
- “甲斐の虎”と恐れられた武田信玄終焉地の謎に迫る(8/27)催行報告 - 南信州観光公社 https://www.mstb.jp/report/limited/8498/
- 武田信玄―風林火山の旗を掲げた戦国最強の名将 - note https://note.com/long_skink6294/n/na3793e52a686
- 孫子の旗 https://www.rakuten.ne.jp/gold/yamak/letter/flag-setumei.htm
- 甲府市/「風林火山」には続きがある!? https://www.city.kofu.yamanashi.jp/senior/kamejii/035.html
- 孫子の旗 - 山梨市の文化財 https://www.city.yamanashi.yamanashi.jp/site/cultural-assets/1658.html
- 戦国時代の旗!武将を彩った多彩な旗印の世界 https://www.xn--qckubzc3d2d5271b.com/blog/flag_sengoku_period/
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- 武田信玄の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7482/
- 信玄塚 - 武田信玄終焉の地に建つ宝篋印塔 - 日本伝承大鑑 https://japanmystery.com/nagano/singenduka.html
- 甲陽軍鑑 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E9%99%BD%E8%BB%8D%E9%91%91
- 後世の武士の規範となった文武分別の道、武士としての職分を求め続けた『甲陽軍鑑』の思想 https://rensei-kan.com/blog/%E5%BE%8C%E4%B8%96%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB%E3%81%AE%E8%A6%8F%E7%AF%84%E3%81%A8%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%96%87%E6%AD%A6%E5%88%86%E5%88%A5%E3%81%AE%E9%81%93/
- ;「上田原合戦」「戸石崩れ」に見る『甲陽軍鑑』のリアリティ https://yogokun.my.coocan.jp/kouyougunkan.htm