最終更新日 2025-11-04

筒井定次
 ~領地没収の夜鐘鳴らし徳を忘れぬ~

筒井定次、家臣の裏切りで領地を没収された悲劇の武将。伊賀上野城で鐘を鳴らし「徳を忘れぬ」と語った逸話の深層と、その歴史的評価を解説。

筒井定次「徳を忘れぬ鐘」の静譚:慶長十三年・伊賀上野城における逸話の源流と時系列的再構築

序論:『領地没収の夜』の逸話の定位

日本の戦国時代から江戸初期への移行期において、大名の改易(領地没収)は、個人の運命のみならず、領地・領民、そして家臣団の存亡を揺る D す一大事件であった。その中でも、筒井順慶の養嗣子として大和筒井家を継承し、後に伊賀上野20万石の領主となった筒井定次(つつい さだつぐ)の改易は、特有の悲劇性を帯びている。

本報告書が対象とするのは、この筒井定次の人生における決定的な転換点、すなわち領地没収を宣告された夜にまつわる一つの「静譚(せいたん)」である。その逸話とは、「筒井定次が領地没収の夜、鐘を鳴らし『徳を忘れぬ』と語った」という、静かな、しかし強烈な意志を感じさせる物語(ナラティブ)である。

この逸話の歴史的座標は明確である。それは、慶長13年(1608年)6月、徳川幕府(実質的には大御所・徳川家康)の命により、定次が伊賀上野藩主の地位を剥奪された、その夜の出来事とされる 1

本報告書の目的は、筒井定次自身の広範な伝記的解説を行うことではない。ご依頼の核心であるこの「静譚」という単一の逸話にのみ焦点を絞り、その「リアルタイムな会話内容」や「その時の状態」を、可能な限り時系列に沿って再構築し、徹底的に分析・解説することにある。

なお、この逸話は、その情緒的・教訓的な性格から、「静譚」―すなわち、後世の追憶や同情が色濃く反映された物語―として受容されるべき側面が強い。したがって、本報告書では、まず史料に基づき改易の夜の歴史的状況を厳密に再構築し、そのキャンバスの上に、この逸話が持つ情景と心理を専門的知見に基づき詳細に描写・分析する。

逸話の舞台:慶長十三年・伊賀上野城の状況

この「静譚」が持つ「リアルタイムな状態」を理解するためには、それが展開された歴史的背景を正確に把握する必要がある。

A. 運命の城・伊賀上野城

逸話の舞台は、定次自身が天正13年(1585年)に伊賀国に移封された際、領国支配の拠点として築城した伊賀上野城である 1 。彼はこの地で平楽寺・薬師寺のあった台地を近世城郭として整備し、三層の天守閣も備えていたとされる 1 。つまり、定次が改易された夜、彼が退去を命じられた城は、単なる居城ではなく、彼自身の手による築城の途上にあった、まさに自らの統治の象徴であった。この事実が、逸話の悲劇性を一層際立たせる。

B. 改易の理由:表層と深層

慶長13年(1608年)6月、筒井定次は改易を申し渡された 1 。その背景には、公式な理由と、水面下で渦巻く複数の政治的要因が存在した。

  1. 表層的理由(公式見解)
    幕府が公式に認めた改易の理由は、定次自身の「不行跡」であった。『国史大辞典』などの権威ある史料によれば、家臣の中坊秀祐(なかのぼう ひでまさ、あるいは しゅうゆう)によって「不行跡を訴えられ」たと記されている 4。具体的には、「酒色に溺れて素行がおさまらないため」といった領主としての資質を問うものであったと伝わる 5。
  2. 深層的理由(讒言と内部対立)
    しかし、この「不行跡」の訴えは、筒井家の内部対立(いわゆる「筒井騒動」6)が引き起こしたものであった。特に、家老格であった中坊秀祐が、主君である定次を幕府に直接訴え出る(出訴・讒言)という異常事態が発生していた 4。この家臣による裏切りが、定次改易の直接的な引き金となった 8。
  3. 最深層の理由(キリシタン説と幕府の意図)
    さらに、この改易には徳川家康の政治的意図が強く働いていたとする見方が有力である。定次はキリシタン大名であった、あるいはキリシタンを保護していたとされ 5、一説には中坊秀祐の訴えも「定次はキリシタンである」という内容を含んでいたという 4。
    当時、キリスト教の拡大を警戒していた家康にとって、この中坊の訴えは、豊臣恩顧の大名であり(定次は秀吉から羽柴の姓を与えられていた 5)、かつキリシタンの疑いがある定次を排除するための絶好の「好機」であった 9。つまり、定次の改易は、家臣の讒言という形式をとりながら、実態は徳川幕府による豊臣系・キリシタン大名の計画的排除の一環であった可能性が極めて高い。

C. 逸話の前提となる心理状況

以上の分析から、定次が「領地没収の夜」に抱いていたであろう心理状態は、単なる「領地喪失の悲嘆」ではなかったと推定される。それは、

  • 自らの「不行跡」(酒色等)への悔恨。
  • 最も信頼すべき家臣(中坊秀祐)に裏切られたことへの怨恨と絶望。
  • そして、もしキリシタン説が事実であれば、自らの信仰が(あるいは信仰の保護が)破滅の原因となったことへの殉教にも似た意識。
    これらが複雑に絡み合った、筆舌に尽くしがたい心境であったはずである。ご依頼の「静譚」は、この極限状況下で発せられた言葉として解釈されねばならない。

『領地没収の夜』の時系列的再構築(逸話の再現)

史実的背景(II章)と、ご依頼の「静譚」の内容に基づき、慶長13年6月、伊賀上野城における運命の一夜を時系列で再構築する。

A. 【日中~夕刻】 運命の通達

  • 場所 : 伊賀上野城 3 、本丸御殿。
  • 状況 : 慶長13年(1608年)6月某日。城内には、主君・定次と家臣・中坊秀祐の対立 7 が幕府の裁定待ちとなっていることによる、重苦しい空気が漂っていた。定次は、最悪の事態を予期しつつも、裁定を待つしかなかった。
  • リアルタイム描写:
    駿府(あるいは江戸)から派遣された幕府の上使(じょうし、使者)が伊賀上野城に到着する。定次は城主としての礼を尽くし、御殿にて上使を迎える。
    静寂の中、上使によって徳川家康(あるいは将軍秀忠)の命が読み上げられる。それは、筒井家の存続を許すものではなかった。
    「筒井伊賀守(定次)儀、不行跡の廉(かど)により、所領没収。伊賀上野20万石は召し上げる」
    公式の理由はあくまで「不行跡」 4 であった。この瞬間、筒井家は改易、御家取り潰しが決定した 11。城内は瞬時に混乱と絶望に包まれる。定次自身は、それが中坊秀祐の讒言によるものであること、そして、これがキリシタン信仰とも結びついた 9、幕府による政治的決定であり、もはや抗弁が許されないことを即座に悟ったであろう。

B. 【夜】 逸話の発生(「鐘」と「徳」の静譚)

  • 場所 : 伊賀上野城内、鐘楼(あるいは本丸の一室)。
  • 状況 : 城はもはや定次のものではなく、幕府の管理下に置かれた。城兵は武装解除され、城の明け渡し準備が、灯火の下で混乱と静寂が入り混じる中で行われている。定次は、もはや「伊賀20万石の城主」ではなく、配流 5 を待つ身である。
  • リアルタイム描写(逸話の挿入) :
  1. 沈黙の定次 : 定次は、自らが天正13年から心血を注いで築いてきた城 1 の櫓から、あるいは本丸の一室から、闇に沈む城下町を静かに見つめている。側には、最後まで彼に従うことを決めた数名の近習が残るのみである。
  2. 行為(鐘): 深夜、全ての音が消えたかのような静寂が訪れる。その時、定次は突如立ち上がるか、あるいは近習に命じ、城の時鐘(ときのかね)、あるいは非常を告げる陣鐘(じんがね)を鳴らすよう指示する。
    「ゴーン……」
    重く、澄んだ鐘の音が、静まり返った伊賀上野城と城下に響き渡る。それは、本来の城主の権限(時報や非常事態の伝達)の最後の行使であり、この城に対する定次の別れの挨拶であった。
  3. 会話(静譚): 鐘の音が闇に消えゆく中、一人の近習が、主君の真意を測りかね、あるいはその無念を思い、問いかける。
    近習:「殿…。このような時に、何故、鐘を…」
    あるいは、定次が鐘の音の余韻を聞きながら、誰にともなく、自らに言い聞かせるようにつぶやく。
    定次:「(領地も、城も、家臣も失った。だが)徳を忘れぬ」
    (原文:「徳を忘れぬ」)
    この言葉は、近習たちの耳に、そして後世の「静譚」として、深く刻まれることとなった。

C. 【深夜~翌朝】 城の明け渡しと配流

  • 状況 : 改易の決定と同時に、定次の身柄の処遇も決定していた。彼は徳川家康の重臣である鳥居忠政(当時、陸奥磐城平藩主)のもとへ預けられることになった 4
  • リアルタイム描写:
    夜が明ける頃、定次は最小限の供回りと荷物をまとめ、事実上の流人として、伊賀上野城を退去する。彼が築いた城の門を、彼は二度と城主としてくぐることはなかった。
    城の受け取りは、幕府の上使、あるいは直後に伊賀・伊勢への移封が決定していた藤堂高虎 1 の家臣団によって、厳格に執り行われた。定次は、陸奥磐城平 5 へと、長い護送の道へ発った。

逸話の深層分析:「鐘」と「徳」の象徴性

この「静譚」が持つ象徴的な意味を、史料的背景から深掘りする。この逸話が、なぜ「不行跡で改易された」という単純な史実とは異なる、高潔な印象を与えるのか、その構造を分析する。

A. 「鐘」は何の音か?

  1. 無常の象徴 : 仏教的世界観において、鐘の音は「無常」の象徴である(例:「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」)。自ら築いた城 1 を一夜にして失う定次が、その運命を静かに受け入れる「諦念」と「無常観」の表れと解釈できる。
  2. 信仰の告白(キリシタン説) : もし定次がキリシタンであった、あるいはキリシタン信仰を理由に(あるいは口実に)改易されたのであれば 4 、この「鐘」は、教会の鐘を想起させる「信仰の証」となり得る。領地(現世の富)を没収されても、信仰(来世の救い)は捨てないという、静かな宣言である。
  3. 最後の統治行為 : 城主が時を告げる鐘を鳴らすことは、統治の象徴である。それを最後の夜に行うことは、「この城と領民は、この瞬間まで確かに私のものであった」という、最後の主権の主張である。

B. 「徳を忘れぬ」は誰への言葉か?

この逸話の核心である「徳を忘れぬ」という言葉は、複数の解釈が可能であり、その全てがこの「静譚」の深みを形成している。

  1. 分析 (1) 対・中坊秀祐(讒言者):
    最も直接的かつ強力な解釈である。定次は家臣・中坊秀祐の讒言(裏切り)によって失脚した 4。中坊秀祐は、主君を幕府に売り渡すという「不徳」の行為を働いた。
    定次の「徳を忘れぬ」という言葉は、この中坊の「不徳」に対する痛烈な対比である。「私は、お前(中坊)のように、人として、武士としての『徳』を見失うことはしない」という、敗者でありながらも道義的な優位性を宣言する言葉である。
    この解釈は、史実における中坊秀祐の末路によって、強力に補強される。定次を陥れた中坊秀祐は、改易の翌年(慶長14年)、伏見でかつての同僚によって殺害された 13。『当代記』によれば、世人はこれを「主君を訴えた逆臣だけに是非もない、天罰を蒙ったのだ」と言い交したという 13。
    つまり、この「静譚」は、「不徳」の中坊が「天罰」で死に、「徳」を忘れなかった定次が(物語の上で)記憶される、という道徳的構造を持っている。
  2. 分析 (2) 対・徳川家康(権力者):
    これは、領地を取り上げた権力者・家康(幕府)に対する、静かな抵抗の言葉である。幕府は定次に「不行跡」 4 という「不徳」の烙印を押して改易した。
    これに対し、定次は「あなたがた(幕府)は私を『不徳の者』と断罪したが、私自身は(武士としての、あるいは統治者としての)『徳』を忘れたつもりはない。権力によって真実を覆い隠すあなた方こそ、徳を忘れているのではないか」と、静かに問いかける、敗者の最後の尊厳の表明である。
  3. 分析 (3) 対・キリシタン信仰(隠された洞察):
    もし、定次改易の真相がキリシタン弾圧であった場合 9、「徳」という言葉は、キリスト教における「$Virtus$(ラテン語:徳、勇気)」または「$Gratia$(神の恩寵)」を指す可能性がある。
    この場合、逸話の言葉は「(領地を失い、死に向かうとしても)神の恩寵(徳)を忘れぬ」という、殉教者的な信仰告白となる。この解釈は、この逸話を単なる武士の意地や愚痴ではなく、崇高な「静譚」たらしめている核心的な要因である可能性も否定できない。

表1:筒井定次の改易に関する「史実」と「静譚」の比較

この「静譚」が、史実とどのように乖離し、あるいは史実をどのように解釈し直しているかを以下の表に示す。

比較項目

史実に基づく記録(本報告書調査結果)

静譚(逸話)における描写

改易の理由

家臣・中坊秀祐の讒言 4 。幕府による認定理由は「不行跡」「酒色」 5 。「キリシタン説」も有力 4

(逸話では直接語られないが、不当な没収であることが前提)

没収の夜の行動

記録なし。城の明け渡しと配流の準備(鳥居忠政預かりとなる [5, 12])。

鐘を鳴らす。

没収の夜の発言

記録なし。

「徳を忘れぬ」と語る。

描かれる人物像

不行跡、あるいは家臣団を統率できない「曖昧」な 11 領主。

運命を受け入れ、内面的な高潔さ(徳)を保つ静かな人物。

物語の結末

中坊秀祐は「天罰」により暗殺される 13 。定次自身も後に内通疑惑で自刃 11

(静譚は、中坊の不徳と定次の有徳を対比させ、定次の名誉を回復させる)

結論:筒井定次における「鐘の逸話」の史的評価

本報告書は、筒井定次の『領地没収の夜、鐘を鳴らし「徳を忘れぬ」と語ったという静譚』について、その詳細な時系列的再構築と深層分析を行った。

結論として、この逸話は、慶長13年(1608年)の筒井定次改易 1 という史実の夜を舞台としながらも、同時代の一次史料には確認されない、後世に形成された「静譚」である可能性が極めて高い。

この「静譚」が果たした役割は、極めて重要である。史実としての筒井定次は、家臣に裏切られ 7 、「不行跡」の汚名を着せられて改易され 4 、最後は7年後の大坂の陣に際して豊臣方への「内通の疑い」という「曖昧」な理由 11 で嫡子と共に自刃を命じられる 11 という、武将としての名誉が汚されたままの、救いのない最期を迎えている。

『領地没収の夜の鐘』の逸話は、この救いのない「史実の最期」を補完し、彼に同情的な記憶を与え直すための物語装置として機能している。

それは、定次を陥れた家臣・中坊秀祐の「不徳」な末路 13 と鮮烈な対比をなすことで、定次の「不行跡」という公式記録を覆し、彼を「(讒言によって)非業の運命を辿ったが、内面的な高潔さ(徳)は失わなかった悲劇の武将」として、後世の人々の記憶の中に再定位させる役割を担っているのである。

ご依頼の「リアルタイムな再現」としては、伊賀上野城 3 における改易通達の絶望的な混乱の中、深夜、自らが築いた城に最後の別れを告げる鐘を鳴らし、自らの正当性と(あるいは信仰と)「徳」を胸に刻みながら、配流先 12 へと向かう、一人の武将の静かな決意の夜として、この「静譚」は再構築される。

引用文献

  1. 三つの天守閣 - 伊賀上野城 http://igaueno-castle.jp/?page_id=17
  2. 三つの天守閣 〜伊賀上野城の沿革〜 公益財団法人 伊賀文化産業協会 http://igaueno-castle.jp/pdfwp/riyou/pamphlet.pdf
  3. https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-igaueno-castle/#:~:text=%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%9B%BD%E4%B8%8A%E9%87%8E%EF%BC%88%E7%8F%BE%E5%9C%A8%E3%81%AE,%E4%B8%89%E9%87%8D%E7%9C%8C%E4%BC%8A%E8%B3%80%E5%B8%82%EF%BC%89%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82
  4. ※奈良郡山城主(?)筒井定次(つつい さだつぐ)が、鳥居忠政に罪人として預けられ平で亡くなっている。... | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000110608
  5. 筒井定次(つつい・さだつぐ) 1562~1615 - BIGLOBE http://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/TsutsuiSadatsugu.html
  6. 筒井定次 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%92%E4%BA%95%E5%AE%9A%E6%AC%A1
  7. 筒井定次改易の真相は? | ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/150
  8. 筒井定次 寵愛した家臣に裏切られ…名将・島左近を失い、改易されたのは自業自得? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=9HbWo5CTF7M
  9. 戦国武将覚書<つ> http://www.eonet.ne.jp/~busyo/sengoku/l_tu.htm
  10. 島左近関連逸話集1・筒井家時代 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sakon/sakon_ep01.html
  11. 家康に警戒された筒井定次の戦略的な「曖昧」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/39216/2
  12. 筒井定次(1/2)改易大名〜藤堂高虎の影に隠れた伊賀上野城の最初の城主 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/human/8/
  13. 武家家伝_中坊氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nakabo_k.html