黒田官兵衛
~秀吉の怒り鎮め馬上から扇を投げ~
黒田官兵衛が馬上から扇を投げ秀吉の怒りを鎮めた逸話は、史実の「剃髪と如水の弁明」を象徴するメタファー。その深層にある知略と胆力を解説。
黒田官兵衛「馬上投扇諫言」の逸話の深層分析:虚構の先に視る史実の機知
序章:語り継がれる「扇」の逸話
戦国乱世の記憶が遠い過去のものとなった江戸時代、講談や軍記物語の世界で、一人の天才軍師の姿が鮮やかに描き出された。その名は黒田官兵衛孝高、のちの如水。豊臣秀吉の天下取りを支えた稀代の謀将として、彼の名は数多の逸話と共に語り継がれている。中でも、主君である秀吉の激しい怒りを、馬上から扇一つを投げるという奇想天外な機転で鎮めたという物語は、官兵衛の人物像を象徴する奇計譚として、ひときわ強い輝きを放っている。この逸話は、絶体絶命の危機を瞬時の才覚で乗り越えるという劇的なカタルシスを人々に与え、官兵衛の非凡さを強く印象づけてきた。
しかしながら、この「馬上投扇諫言」の逸話は、黒田家の公式記録である『黒田家譜』をはじめ、信頼性の高い同時代の史料には、その具体的な記述を見出すことができない 1 。物語としては極めて魅力的である一方、歴史的事実としてこれを証明することは困難であると言わざるを得ない。
だが、本報告書の目的は、この逸話を単に後世の創作として退けることにあるのではない。むしろ、なぜこのような物語が生まれ、人々の心を捉え、語り継がれるに至ったのか、その根源に横たわる「史実の核」を徹底的に掘り下げることにある。物語は、時に複雑な歴史の真実を、より分かりやすく、より記憶に残りやすい形に凝縮して後世に伝える機能を持つ。この逸話を構成する「秀吉の理不尽なまでの激怒」「官兵衛の絶体絶命の窮地」、そしてそれを打開する「常人には思いもよらぬ諫言(に相当する行動)」という要素は、形こそ違えど、官兵衛の生涯において実際に起こった歴史的大事件の中に、明確な輪郭をもって存在している。
その事件こそ、文禄二年(1593年)、朝鮮出兵の最中に発生した「官兵衛の無断帰国と剃髪事件」である。この一連の出来事こそが、巷間に伝わる「馬上投扇」の逸話の原型であり、官兵衛の知略と胆力の真髄を示す、もう一つの、そして真実の物語なのである。本報告書では、まず逸話の象徴的な小道具である「扇」が戦国時代に持った多義的な意味を解き明かし、次いで、史実の舞台となった朝鮮の陣中での対立から秀吉の激怒、そして官兵衛による起死回生の知略に至るまでを、史料に基づき時系列で克明に再現する。そして最後に、虚構の物語がいかにして史実の精神を映し出す鏡となり得たのかを考察し、黒田官兵衛という人物の実像に迫ることを目指す。
第一章:戦国の舞台装置としての「扇」— なぜ小道具に選ばれたのか
「馬上投扇」の逸話において、官兵衛が手にした「扇」は、単なる小道具以上の重要な役割を担っている。この行為がなぜ奇計として成立し得たのかを理解するためには、まず、戦国時代の武士にとって扇がいかに多層的かつ象徴的な意味を持つ道具であったかを知る必要がある。
第一に、扇は軍事指揮における重要な象徴であった。武将が戦場で軍勢を指揮する際に用いた軍扇や軍配団扇は、単に合図を送るための道具ではなく、指揮官の権威そのものを表すものであった 3 。これを手にすることは一軍を率いる者の証であり、その動きは全軍の士気と行動を左右した。従って、指揮官が扇を投げるという行為は、指揮権の一時的な放棄、あるいは戦況の絶望的な状況を示唆しかねない、極めて重大な意味を持つパフォーマンスとなり得た。
第二に、扇は神聖な意味合いを帯びた祭具でもあった。古来、扇は神霊が宿る「依代」と見なされ、神を招き寄せる(あふぎよせる)ことから「おうぎ」という名がついたとも言われる 4 。戦場において扇を翻すことは、神威によって我が身が守られ、勝利がもたらされると信じられていた 5 。また、その形状が末広がりに通じることから、将来の発展や繁栄を象徴する吉祥の品、すなわち縁起物としても珍重された 6 。このような神聖な道具を軽々しく扱うこと、ましてや地面に投げるという行為は、神仏への不敬とも受け取られかねない、常軌を逸した行動であった。
第三に、扇は武士の日常生活における儀礼や身分を示す道具であった。例えば茶席において、扇は自他の間に結界を設け、相手への敬意を示すために用いられた 7 。また、武士が他家を訪問する際や公式の場では、扇を持つことが一種の礼儀作法であり、その人物の威儀を示す重要なアクセサリーでもあった。さらに、有事の際には護身用の武器ともなる鉄扇が存在し、刀を持てない場所での備えとして携帯された 7 。官兵衛自身、かつて織田信長に人質として預けた息子・長政(松寿丸)の生存を、松の絵が描かれた扇子を送ることで、主君の目を欺きつつ味方に暗に知らせようとしたという逸話も残っており 8 、扇が高度なコミュニケーションツールとしても機能していたことがわかる。
これらの背景を総合すると、「扇を投げる」という一つの行為が、いかに多様で深い意味を内包していたかが明らかになる。それは、軍事的権威の放棄、神威への挑戦、儀礼の破壊といった、複数のタブーを同時に犯す行為であり、見る者に強烈な衝撃と違和感を与える。後世の物語の創作者たちが、官兵衛の常識を超えた大胆な諫言を表現するにあたり、これほど視覚的に分かりやすく、かつ象徴性に富んだ小道具は他になかったであろう。この「扇」というアイテムの選択そのものが、物語の劇的効果を最大限に高めるための、計算された演出だったのである。
第二章:史実における最大の危機 — 文禄の役と秀吉の激怒
逸話の背景にある「秀吉の激怒」は、架空の産物ではない。それは文禄二年(1593年)、朝鮮出兵(文禄の役)の最中に、現実の出来事として官兵衛を襲った。この章では、その発端からクライマックスに至るまでを、史料に基づき時系列に沿って再現する。
2-1. 発端:朝鮮の陣中における対立の構造
豊臣秀吉が断行した朝鮮出兵は、当初の破竹の勢いも次第に陰りを見せ、戦況は膠着状態に陥っていた。異国の地での長期にわたる戦いは、豊臣家臣団の内部に潜んでいた亀裂を徐々に押し広げていく。
当時の豊臣政権は、大きく二つの派閥に分かれていた。一つは、秀吉がまだ身分の低かった頃から付き従い、槍働きで戦功を重ねてきた福島正則や加藤清正に代表される尾張出身の武将たち、いわゆる「武断派」である 9 。彼らは戦場での武功こそが武士の誉れであるという価値観を強く持っていた。もう一つは、秀吉が長浜城主となって以降に登用され、卓越した算術や実務能力で兵站、検地、外交などを担った石田三成や増田長盛ら近江出身の官僚たち、いわゆる「吏僚派(文治派)」である 9 。彼らは、武力だけでなく、安定した統治システムこそが政権の礎であると考えていた。
黒田官兵衛は、秀吉の中国攻めの際に加わった播磨出身の武将であり、厳密にはどちらの派閥にも属していなかった 9 。しかし、彼の経歴や、戦場での知略をもって道を切り開いてきた価値観は、明らかに武断派のそれに近かった。戦場での現実を知る武断派と、後方から全体を管理しようとする吏僚派。両者の間には、価値観の相違からくる根深い対立の土壌が、すでに形成されていたのである。
2-2. 引き金:「囲碁一件」のリアルタイム再現
文禄二年、戦線の司令部が置かれた朝鮮の漢城(現在のソウル)。明軍の参戦により戦況は一進一退を続け、諸将の間には焦燥と不満が渦巻いていた。そんなある日のこと、事件は起きる。
この時、官兵衛は年来の盟友である浅野長政と共に、陣中の一室で囲碁に興じていた。『黒田家譜』によれば、二人の老練な武将は盤面に全神経を集中させていた 10 。そこへ、戦の評定(軍議)のため、石田三成、大谷吉継、増田長盛の三奉行が官兵衛の陣所を訪れた。彼らは肥前名護屋城にいる秀吉の意向を伝える、いわば中央からの監察官であり、絶大な権限を持っていた。
しかし、来訪の報を受けた官兵衛は、すぐには囲碁を中断しなかった。彼は使者に、三奉行を別室で待たせるよう指示したのである 10 。官兵衛にどのような意図があったかは定かではない。長年、戦場の第一線で指揮を執ってきた彼にとって、後方から来た若輩の吏僚たちへの多少の軽んじる気持ちがあったのかもしれない。あるいは、単に勝負の佳境であり、それを中断できなかっただけかもしれない。
だが、この対応は三成のプライドを激しく傷つけた。天下人・豊臣秀吉の名代として、多忙な中をわざわざ訪れた自分たちを、一介の遊戯である囲碁のために待たせるなど、前代未聞の無礼であり、吏僚派そのものへの侮辱である。三成の怒りは頂点に達した。彼は評定の席に着くことなく、対面すらせずに踵を返し、憤然としてその場を立ち去ってしまったのである 10 。
この「囲碁一件」は、単なる個人的な感情のもつれではなかった。それは、豊臣政権内部に深く根を張っていた「武断派」と「吏僚派」の構造的対立が、朝鮮出兵という極限状況下でついに火を噴いた、象徴的な事件であった。
2-3. 激震:秀吉への讒言と官兵衛の無断帰国
漢城を後にした三成は、まっすぐに肥前名護屋城へと向かい、秀吉に事の次第を報告した。その報告は、単に「囲碁のために待たされた」という事実の伝達に留まらなかったであろうことは想像に難くない。『黒田家譜』には三奉行が秀吉に讒言したと記されており 12 、三成は官兵衛の行為を、個人的な無礼としてではなく、「軍律を軽んじ、秀吉公の権威を蔑ろにする傲慢な態度」として、秀吉の猜疑心を巧みに煽る形で訴え出たと考えられる 13 。
この報告は、秀吉の心の奥底に眠っていた官兵衛への警戒心と恐怖心に、致命的な火をつけた。秀吉は、官兵衛の類まれなる才能を誰よりも高く評価していたが、同時にその底知れぬ力量を常に恐れていた。「官兵衛に100万石を与えれば、たちまち天下を奪うだろう」と側近に漏らしたという逸話は、秀吉の偽らざる本音であった 14 。三成の報告は、その恐怖を現実のものとして秀吉に突きつけた。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』によれば、報告を受けた秀吉は激昂し、「官兵衛を引見しようとせず、その封禄と屋敷を没収した」という 16 。これは事実上の改易に等しい、極めて厳しい処分であった。
朝鮮の陣中にいた官兵衛のもとにこの報が届いた時の衝撃は、察するに余りある。弁明の機会すら与えられず、一方的な讒言によって全ての功績と地位を剥奪されようとしている。この絶体絶命の窮地に立たされた官兵衛は、常人ならば絶望し、諦めるしかない状況で、最後の賭けに出ることを決断する。それは、許可なく陣を離れ、海を渡り、怒り狂う主君の元へ直接弁明に向かうという、さらなる軍律違反を犯す危険極まりない行動であった 10 。もしこれが失敗すれば、待っているのは一族郎党の破滅のみであった。
第三章:知略の極致 — 剃髪と「如水」誕生の瞬間
無断帰国という乾坤一擲の賭けに打って出た官兵衛。彼が名護屋城で対峙したのは、猜疑と憤怒に燃える天下人・豊臣秀吉であった。この場面こそ、巷説における「扇を投げる」という物理的な奇計が、より高度な知的・政治的戦略へと昇華された、史実のクライマックスである。
3-1. 絶体絶命の対峙:秀吉との謁見
名護屋城の一室。秀吉の前に引き出された官兵衛の姿に、居並ぶ諸将は息を飲んだ。彼の頭は、武士の象徴である月代(さかやき)がなく、青々と剃り上げられていた。秀吉が詰問の言葉を発するよりも先に、官兵衛は「剃髪」という、最も雄弁な形で自らの意思を表明したのである。
3-2. 行為の持つ意味:剃髪という究極の意思表示
当時の武家社会において、剃髪して仏門に入る「出家」は、俗世における地位や権力、そして野心から完全に決別することを意味した 17 。それは、単に頭を丸めて反省の意を示すといった現代的な感覚とは全く異なり、「自分はもはや政治や軍事の舞台に立つ人間ではない」「天下や領地への執着は一切捨て去った」という、取り消すことのできない最終的な意思表示であった 18 。
この官兵衛の行動は、秀吉の怒りの本質を驚くほど正確に射抜いていた。秀吉が「囲碁一件」に激怒したのは、その裏に官兵衛の増長と、ひいては「いつか自分に取って代わるのではないか」という根源的な恐怖を感じ取ったからに他ならない 15 。官兵衛は、目先の軍律違反や三成への無礼について弁明するのではなく、秀吉の心の奥底に巣食う不安そのものを解消する手を選んだ。剃髪という視覚的で決定的なパフォーマンスは、「私に野心はありません」という何万言の言葉よりも雄弁に、秀吉の恐怖心を鎮める効果を持っていたのである。
3-3. 言の葉の刃:「如水」に込められた二重の論理
剃髪した姿で秀吉の前に進み出た官兵衛は、静かに口を開き、この日より自ら「如水円清(じょすいえんせい)」と号することを告げた 19 。そして、その「如水」という号に込めた深遠な意味を、理路整然と説き始めたのである。この時の対話は、官兵衛の知略の頂点を示すものとして、後世に伝えられている 13 。
「殿下。本日より、拙者は『如水』と名乗りまする」
まず官兵衛は、一つ目の意味を説いた。
「『如水』の義、一つには**『人の毀誉褒貶(きよほうへん)、心は水の如くにてあるべし』**。いかなる讒言を受け、いかなる評価を下されようとも、我が心は澄み切った水のように静かで、一点の曇りもございませぬ。殿下への忠誠に、これまでも、そしてこれからも、偽りは断じてありませぬ」
これは、三成の讒言に対する事実上の反論であり、自らの潔白と不変の忠誠心を、哲学的な比喩を用いて堂々と主張するものであった。
続いて、官兵衛は二つ目の意味を説き、秀吉の心を完全に掌握する。
「そして二つには**『水は方円の器に従う』**と申します。水は、四角い器に入れられれば四角く、丸い器に入れられれば丸くなるもの。この黒田如水、今後は殿下という器の形に、自在に従う水となりましょう。我が身の処遇、生きるも死ぬも、すべては殿下のお心のままにござりまする」
この言葉は、絶対的な服従の誓いであった。それは、剃髪という行為で示した野心の放棄を、言葉によって裏付けるものであり、天下人・秀吉のプライドを最大限に満たすものであった。自分の意のままになる存在であると宣言することで、秀吉の支配欲を満足させ、これ以上罰する必要はないという論理的な着地点を提供したのである。
この弁明は、①自身の潔白と尊厳の主張(心は澄んだ水)と、②主君への絶対的な服従の誓い(器に従う水)という、一見矛盾する二つのメッセージを、「如水」という一つの言葉の中に完璧に両立させていた。それは、秀吉の激しい怒りを鎮め、そのプライドを満足させ、同時に官兵衛自身の命と黒田家の安泰を確保するという、まさに絶妙にして究極の「言葉の奇計」であった。秀吉は官兵衛の処罰を撤回し、隠居と出家を認めた。官兵衛は最大の危機を、武力でもなく、弁解でもなく、深遠な知慮によって乗り越えたのである。
結論:逸話の再解釈 — なぜ「扇を投げる物語」が生まれたか
文禄の役の最中に起きた、黒田官兵衛の「剃髪と如水の弁明」という歴史的事実。それは、豊臣政権内部の派閥対立、君主の猜疑心、そして一人の武将の類いまれなる知略が複雑に絡み合った、高度な政治劇であった。この史実の真髄を理解するには、当時の武家社会の価値観や、登場人物たちの繊細な心理を読む解く、一定の歴史的教養が求められる。
一方で、後世に語り継がれた「馬上から扇を投げて主君の怒りを鎮めた」という逸話。こちらは、視覚的に鮮やかで、物語の構造が極めてシンプルである。誰の目にも、官兵衛の奇抜な発想と大胆不敵な行動が天才軍師たる所以であると、直感的に理解できる。
この二つの物語を比較検討すると、伝説が成立した過程が見えてくる。複雑で難解な史実が、時を経て人々の間で語り継がれるうちに、その核心部分(エッセンス)だけを抽出し、よりシンプルで記憶に残りやすい「寓話」へと姿を変えていったのである。
- 史実における朝鮮の陣中や名護屋城という具体的な場所は、武将が最も輝く象徴的な舞台である**「馬上」**へと置き換えられた。
- 史実における「剃髪」という究極の恭順の表明と、「如水」という深遠な弁明は、官兵衛の非凡な知略と奇計を象徴する小道具である**「扇」**に集約された。
- 史実における無断帰国という軍律違反を犯してまで主君に対峙した決死の覚悟は、常人には思いもよらない大胆不敵な行動を象徴する**「投げる」**というアクションに変換された。
このように考察するとき、我々は一つの結論に達する。「馬上から扇を投げる」という逸話は、歴史的事実そのものではない。しかし、それは史実からかけ離れた全くの虚構でもない。この逸話は、**史実の精神(エッセンス)を見事に捉え、後世に伝えるために生み出された、優れた「メタファー(暗喩)」**なのである。
それは、豊臣政権内の深刻な対立という政治的危機に際し、黒田官兵衛がその類いまれなる知略と大胆な行動力によって主君の根源的な恐怖心を鎮め、自らの絶体絶命の窮地を脱したという歴史の真実を、一つの鮮烈なイメージとして結晶化させた「物語装置」に他ならない。この伝説を通じて、人々は複雑な歴史の機微を、手に取るように理解し、天才軍師・黒田官兵衛の姿を記憶に刻み、語り継いできたのである。虚構の物語の向こう側には、常に動かしがたい史実の重みと、人間の知恵の輝きが存在している。
引用文献
- 企画展示 | No.587 描かれた黒田如水・長政展 - 福岡市博物館 https://museum.city.fukuoka.jp/sp/exhibition/587/
- 黒田官兵衛 - 埼玉県立図書館 https://www.lib.pref.saitama.jp/reference/docs/libletter35.pdf
- 団扇・扇子の歴史 https://zenkyo.net/japanese-fan/
- www.harimaya.com http://www.harimaya.com/kamon/column/ougi.html#:~:text=%E6%B8%85%E5%92%8C%E6%BA%90%E6%B0%8F%E4%BD%90%E7%AB%B9%E6%B0%8F%E3%81%AE%E7%B4%8B%E3%81%8C%E6%9C%89%E5%90%8D%E3%80%82&text=%E6%89%87%E3%81%AF%E7%A5%9E%E3%81%AE%E4%BE%9D%E4%BB%A3%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%80%81%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E3%81%A7%E3%81%AF,%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%8F%E3%81%91%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E3%80%82
- 名字と家紋_column(扇) - harimaya.com http://www.harimaya.com/kamon/column/ougi.html
- 扇紋(おうぎ)/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/family-crest-dictionary/ogi/
- 扇子の種類や使用方法に関する雑学&豆知識をご紹介します! - キラメック https://www.xn--ncke3d3fqb.com/sensu/original/kinds/
- 軍師官兵衛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%8D%E5%B8%AB%E5%AE%98%E5%85%B5%E8%A1%9B
- 関ケ原で東軍に与した男たちは「勝ち馬」に乗ったのか? | WEB ... https://rekishikaido.php.co.jp/detail/2548
- 黒田官兵衛の名言・逸話46選 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/398
- 石田三成の名言・逸話35選 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/409
- 【黒田孝高・長政、家康方へ】 - ADEAC https://adeac.jp/miyako-hf-mus/text-list/d200040/ht050350
- 黒田如水 - ことのは出版 https://www.kotonoha.co.jp/special/kuroda-jyosui/
- 第36回 『軍師官兵衛』に学ぶ生涯勝ち続ける法~信長・秀吉・家康が最も頼り最も恐れた男 https://plus.jmca.jp/tu/tu36.html
- 黒田孝高 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E7%94%B0%E5%AD%9D%E9%AB%98
- 1592年 – 96年 文禄の役 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1592/
- 頭を丸めるの由来/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/25600/
- 黒田騒動 転 | 早良風土記| 歴史 郷土史 地域史 https://sawarafudoki.com/2022/08/08/%E9%BB%92%E7%94%B0%E9%A8%92%E5%8B%95-%E8%BB%A2/
- 黒田官兵衛(くろだ かんべえ) - 志士伝 https://shishiden.com/?p=94