サン・フェリペ号事件(1596)
慶長元年、土佐に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の積荷を秀吉が没収。水先案内人の発言が侵略計画と解釈され、キリスト教徒弾圧へ。日本二十六聖人殉教は、秀吉のキリスト教政策硬化と鎖国への遠因となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
サン・フェリペ号事件(1596年)の総合的考察:戦国日本と世界が衝突した瞬間
序章:天正二十年の日本と世界
慶長元年(1596年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天下人・豊臣秀吉による国内統一事業は1590年に完成し、国内は一応の安定を見ていたが、その治世の基盤には複数の亀裂が走り始めていた。文禄・慶長の役(朝鮮出兵)は国力を著しく疲弊させ、豊臣政権の財政を深刻なまでに圧迫していた 1 。さらにこの年の閏7月には、京一帯を慶長伏見地震が襲い、完成したばかりの壮麗な伏見城が倒壊するなど、甚大な被害をもたらした。その再建費用は、疲弊した国家財政に更なる追い打ちをかけるものであった 2 。
このような国内の不安と並行して、秀吉の対外政策、特にキリスト教に対する態度は、一つの大きな矛盾を抱えていた。1587年(天正15年)に発布された伴天連追放令は、宣教師の国外退去と布教の禁止を命じるものであったが、その施行は徹底されなかった 2 。ポルトガルとの南蛮貿易がもたらす莫大な利益を重視した秀吉は、宣教師たちの国内潜伏と限定的な活動を事実上「黙認」するという、極めて曖昧な政策を維持していたのである 4 。この黙認状態が、やがて来る悲劇の土壌を育むことになった。
一方、世界は大航海時代のうねりの中にあった。アジアの海では、二つのカトリック大国、ポルトガルとスペインが覇権を競っていた。先行したポルトガルは、既存の交易網と深く結びつき、イエズス会を通じて現地の文化や習慣に適応しながら布教を進めるという、比較的穏健なアプローチを採っていた 2 。対照的に、フィリピンのマニラを拠点とする後発のスペインは、新大陸と同様に、より直接的な征服と植民地化を伴う攻撃的な布教活動を展開していた 7 。この二国の競争は、日本国内における宣教活動にも影を落としていた。
日本におけるキリスト教布教は、長らくポルトガル庇護下のイエズス会が独占していた。彼らは伴天連追放令の意図を汲み、秀吉の感情を害さぬよう、表立った活動を控えて慎重に行動していた 2 。しかし、1593年(文禄2年)、フィリピン総督の使節として、スペイン系のフランシスコ会士ペドロ・バウティスタらが来日する 2 。彼らは秀吉の「黙認」を「許可」と拡大解釈したかのように、禁令下にもかかわらず京都や大坂で公然と教会や病院を建設し、貧民救済などを通じて急速に信者を増やしていった 2 。この活動は、潜伏を余儀なくされていたイエズス会との間に深刻な対立を生んだだけでなく、天下人秀吉の権威に対する公然たる挑戦とも映った 14 。両修道会の対立は、単なる教義や布教方針の違いに留まらず、その背後にあるポルトガルとスペインという二大国家の、日本における主導権を巡る権益闘争そのものであった 15 。
このように、サン・フェリペ号事件は、単なる一隻の外国船の漂着事故ではなかった。それは、秀吉政権が抱える財政と権威という内的脆弱性、ヨーロッパ列強のアジア進出という国際的競争、そして修道会間のイデオロギーと利権の対立という、三つの巨大な地殻構造プレートが一点で衝突し、エネルギーを放出した必然的な歴史的事件だったのである。
第一章:運命の航海
富を運ぶ船:マニラ・ガレオン船サン・フェリペ号
サン・フェリペ号は、16世紀末の「グローバリゼーション」を体現する存在であった。この船が従事していたマニラ・ガレオン貿易は、アジア(主に中国)の絹織物、陶磁器、香辛料などをフィリピンのマニラで積み込み、太平洋を横断してヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)のアカプルコへ運び、その対価として新大陸で産出される潤沢な銀を得るという、スペイン帝国の経済的生命線であった 18 。サン・フェリペ号は、この莫大な富を運ぶという重責を担う、典型的なガレオン船だったのである。
その仕様は、単なる商船の域を超えていた。積載量は250トン、武装として大砲12門と小砲4門を備えていたとされる 19 。これは、海賊や競合国の船舶からの襲撃を常に想定していたことを示しており、富を運ぶ船であると同時に、スペインの国威を示す移動要塞としての性格も併せ持っていた。その船倉には、当時の日本の国家財政を揺るがすほどの価値を持つ、生糸や香料、織物といった高価な交易品が満載されていた 2 。後に秀吉が下す判断の背景には、この積荷の持つ抗いがたい経済的魅力が存在したことは疑いない。
船には、船長マティアス・デ・ランデーチョに率いられた233名の乗組員のほか、7名のカトリック宣教師が同乗していた 19 。その内訳は、フランシスコ会士2名、アウグスティノ会士4名、ドミニコ会士1名であり、複数の修道会が乗り合わせていることからも、当時のスペインのアジアにおける布教活動の多様性がうかがえる 17 。この宣教師たちの中に、悲劇的な運命を辿ることになる一人の人物がいた。メキシコ生まれのフランシスコ会修道士、フェリペ・デ・ヘススである。彼はフィリピンでの3年間の布教活動を終え、故郷メキシコへ帰るために、偶然このサン・フェリペ号に乗り合わせていた 7 。
サン・フェリペ号一隻の存在は、当時の世界の縮図であった。その積荷は大陸間を結ぶ経済を、多様な乗員は人の国際的な移動を、宣教師は思想と信仰の伝播を、そしてその武装は国家間の暴力を、それぞれ象徴していた。この「世界の縮図」が、日本の辺境である土佐の浦戸に姿を現したことは、地方領主であった長宗我部元親が単独で対処できる問題を遥かに超えており、中央政権の介入を不可避とするものであった。
マニラ出港から太平洋の嵐まで
慶長元年7月(西暦1596年)、サン・フェリペ号はマニラ港の喧騒を後にして、アカプルコを目指す長い航海へと乗り出した 19 。貿易風を捉えるため、一度北上して黒潮に乗る航路をとるのが常であった。しかし、その行く手には過酷な自然の猛威が待ち受けていた。太平洋を横断する途上、船は複数回にわたって強烈な台風に遭遇する 19 。巨大な波と風は船体を激しく打ちつけ、頑丈なはずの3本のマストは無残にもへし折られ、サン・フェリペ号は航行能力を完全に喪失してしまった 7 。
予期せぬ漂着地、土佐国浦戸
制御不能となった船は、太平洋の波間をなすすべもなく漂流した。数週間にわたる絶望的な漂流の末、乗組員たちの目に、見知らぬ土地の影が映った。日本の四国であった。船長ランデーチョは、船体の修理と乗員の命を繋ぐため、最も近くに見えた土佐国浦戸の港への入港を決意する。しかし、損傷した船は操舵がままならず、港内に入ろうとした際に無情にも座礁してしまった 7 。
慶長元年9月28日(西暦1596年10月19日)、サン・フェリペ号は、土佐国浦戸の浜にその身を横たえた 19 。それは、一つの航海の終わりであると同時に、日本のキリスト教史、ひいては対外関係史を根底から揺るがす、大事件の始まりを告げる瞬間であった。
第二章:土佐沖の激震 ― 事件発生から中央介入まで(慶長元年9月~10月)
サン・フェリペ号の漂着は、土佐の静かな港に瞬く間に激震を走らせた。地方の一大名による初期対応から、中央政権の介入、そして運命を決定づける一つの発言へと、事態は刻一刻と緊張を増しながら展開していった。
表1:サン・フェリペ号事件 関連年表
日付(西暦/和暦) |
場所 |
出来事 |
主要人物/組織 |
1596年7月 / 慶長元年6月頃 |
マニラ港 |
サン・フェリペ号、アカプルコへ向け出港。 |
マティアス・デ・ランデーチョ船長 |
1596年7月-9月 |
太平洋上 |
複数回の台風に遭遇し、マストが折れるなど大破、漂流。 |
サン・フェリペ号乗組員 |
1596年10月19日 / 慶長元年9月28日 |
土佐国 浦戸 |
浦戸港への入港を試みるも座礁、漂着。 |
サン・フェリペ号、長宗我部元親 |
1596年10月下旬 |
土佐、大坂 |
長宗我部元親、秀吉に事件を報告。船長は交渉を開始。 |
長宗我部元親、豊臣秀吉 |
1596年11月上旬 |
土佐 浦戸 |
秀吉の命により、五奉行の一人、増田長盛が現地に到着。 |
増田長盛 |
1596年11月中旬 |
土佐 浦戸 |
交渉中、水先案内人がスペインの征服戦略について発言。 |
水先案内人、増田長盛 |
1596年11月下旬 |
大坂 |
増田長盛が発言内容を秀吉に報告。秀吉は激怒。 |
増田長盛、豊臣秀吉 |
1596年11月下旬 |
大坂 |
秀吉、サン・フェリペ号の全積荷・所持金の没収を命令。 |
豊臣秀吉 |
1596年12月30日 / 慶長元年12月8日 |
京都、大坂 |
秀吉、在京のフランシスコ会員らの捕縛を命令。 |
豊臣秀吉、石田三成 |
1597年1月21日 / 慶長元年12月3日 |
京都 |
捕縛された24名が耳を削がれ、市中引き回しにされる。 |
24名のキリシタン |
1597年1月31日 / 慶長元年12月13日 |
大坂 |
長崎での処刑が決定し、一行が大坂を出発。 |
24名のキリシタン |
1597年2月5日 / 慶長元年12月19日 |
長崎 西坂 |
26名のキリシタンが磔刑に処せられる(日本二十六聖人殉教)。 |
日本二十六聖人 |
1597年9月 |
大坂 |
スペイン使節ナバレテが来日し、積荷返還等を要求するも決裂。 |
ドン・ルイス・ナバレテ、豊臣秀吉 |
漂着直後:長宗我部元親の対応
巨大な異国船の突然の出現は、土佐の領主、長宗我部元親にとって、まさに青天の霹靂であった 20 。かつては四国全土をほぼ手中に収めた「土佐の出来人」も、豊臣秀吉との戦いに敗れて以降は土佐一国を安堵される身であり、中央政権の顔色を常に窺わなければならない立場にあった 20 。それゆえ、彼の初期対応は極めて慎重であった。元親は乗組員を保護しつつも、直ちに事の次第を大坂の秀吉へ報告した。この問題が、自身の裁量で扱える範囲を遥かに超えていることを、彼は即座に理解していたのである。
一方、船長のランデーチョは、船の修理と乗員の安全を確保すべく、当時京にいたフランシスコ会の宣教師を介して、豊臣政権との交渉を開始した 7 。彼らにとって、事態を穏便に収拾し、一刻も早く航海を再開することが最優先事項であった。
中央からの使者:増田長盛の派遣
元親からの報告を受けた秀吉の対応は迅速であった。彼はこの事件を単なる海難事故としてではなく、国家の管理下で処理すべき重要案件と判断し、腹心である五奉行の一人、増田長盛を現地へ派遣することを決定した 2 。これは、事件の全権を中央が掌握するという明確な意思表示であり、現場の空気は一気に緊迫した。
運命の一言:水先案内人の発言とその波紋
増田長盛が浦戸に到着し、積荷の検分や乗組員の聴取を進める中で、事態は致命的な方向へと転換する。交渉が難航し、積荷の扱いを巡って日本側への不満と不信を募らせたサン・フェリペ号の水先案内長(一説には舵手)が、長盛配下の役人に対し、威嚇する意図で不用意な発言をしてしまったのである 7 。
日本側の記録や宣教師の報告を総合すると、その発言の趣旨は次のようなものであった。役人から「スペイン国王は、いかにしてこれほど広大な領土を獲得したのか」と問われた水先案内人は、傲然と世界地図を広げてスペイン帝国の威容を誇示し、こう豪語したとされる。「我々スペインのやり方はこうだ。まず宣教師をその国へ送り込み、民衆をキリスト教に改宗させる。信者が十分に増えたところで、彼らを使って内乱を起こさせ、国が混乱したところに軍隊を送り込んで、やすやすと征服してしまうのだ」 7 。
この発言は、単なる一個人の失言ではなかった。それは、文化的な背景の断絶と、情報が伝達される過程でその意図が歪曲されていく危険性をはらんでいた。スペイン人乗組員にとって、自国の強大さを誇示することは、交渉を有利に進めるための「脅し」や「ハッタリ」という文脈があったのかもしれない 7 。しかし、天下統一を成し遂げ、自らの権威を絶対視する秀吉の政権にとって、これは許しがたい侮辱であり、現実的な「征服の予告」と受け取られた。発言は、通訳、現場の役人、そして増田長盛という複数のフィルターを経て秀吉の耳に届く過程で、その危険性を増幅させていったのである。
秀吉の激怒と積荷没収令
増田長盛は、この衝撃的な発言をありのまま秀吉に報告した 2 。報告を聞いた秀吉は、文字通り激怒したと伝えられる。彼の目には、かねてより警戒していたキリスト教の危険性が、スペイン人自身の口から証明されたように映ったであろう。直ちに、秀吉はサン・フェリペ号に積まれていた莫大な価値を持つ積荷、そして乗組員が所持する金品に至るまで、その全てを没収するよう厳命を下した 7 。乗組員たちは船の修理を終え次第、マニラへ送還されることとなった 7 。土佐沖の一隻の漂着船を巡る対立は、ここにきて国家間の対立へと発展し、取り返しのつかない破局へと向かい始めたのである。
第三章:疑惑と讒言 ― 発言は真実か、策略か
サン・フェリペ号事件の核心には、水先案内人の「発言」という、一つの謎が存在する。この発言は、スペインの野望をうっかり漏らした真実の告白だったのか。それとも、政敵を陥れるための巧妙な讒言だったのか。あるいは、天下人・豊臣秀吉が自らの行動を正当化するために利用した、格好の口実だったのか。事件の真相は、関係者の立場によってその姿を変える、歴史的な「羅生門」の様相を呈している。
スペインの征服戦略:発言内容の歴史的妥当性
まず、水先案内人の発言内容そのものを検証する必要がある。彼が述べたとされる「宣教師を尖兵とし、内乱を誘発させてから軍事征服する」という手法は、当時スペインが中南米やフィリピンで実際に行ってきた植民地化のプロセスを、ある程度的確に要約したものであった 8 。その意味で、この発言は方法論として歴史的な妥当性を持っていた。
しかし、当時のスペインが、マニラを拠点として強大な戦国大名が割拠する日本を本気で征服するだけの軍事力や兵站能力を有していたかは、極めて疑わしい 5 。秀吉自身、フィリピン侵略計画を立てていたほどであり 5 、両者の軍事力には大きな隔たりがあった。したがって、水先案内人の発言は、スペインの一般的な「征服の手法」としては事実であっても、それが具体的な「対日侵略計画」を意味していたと解釈するのは、飛躍があると言わざるを得ない。
ポルトガル・イエズス会による讒言説の検討
ここで浮上するのが、事件の背後で糸を引く存在がいたのではないか、という疑惑である。すなわち、長年日本での布教の主導権を握ってきたポルトガル系のイエズス会が、新参者であり、自分たちの慎重な布教方針を無視して事を荒立てるスペイン系のフランシスコ会を追い落とすため、意図的に秀吉に讒言した、あるいは水先案内人の発言を誇張して危険なものに仕立て上げたという「讒言説」である 15 。
この説を巡っては、当事者である両修道会の記録が真っ向から対立している。イエズス会側の記録は、フランシスコ会の無謀な行動とスペイン人乗組員の失言が悲劇を招いたと強調する。一方、フランシスコ会側の記録は、イエズス会の宣教師たちが秀吉の側近に「スペイン人は海賊であり、スペイン王は暴君である」と讒言したことが弾圧の直接の原因だと主張している 5 。
残念ながら、水先案内人の発言そのものを直接証明する、客観的な一次史料は現存しない 5 。我々が今日目にすることができる記録の多くは、事件後に自らの正当性を主張するために書かれた、各修道会のプロパガンダに色濃く染まっている 5 。歴史の真実は、当事者たちの利害が渦巻く証言の霧の中に隠されている。
秀吉の真意:複数の動機の複合的分析
重要なのは、「何が本当に言われたか」という確定不能な問い以上に、「なぜ秀吉は『スペインは侵略を企んでいる』という物語を信じ、あるいは利用することを選んだのか」という点である。彼の決断の背後には、単一の動機ではなく、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えるのが最も合理的であろう。
第一に、 侵略への恐怖 である。秀吉が発言を額面通りに受け取り、日本の独立を脅かす現実的な脅威と認識した可能性は否定できない 2 。
第二に、 財貨への欲望 である。前述の通り、当時の豊臣政権は朝鮮出兵と大地震によって深刻な財政難に陥っていた。目の前に現れたサン・フェリペ号の莫大な積荷は、この危機を乗り切るためのまたとない財源であった。侵略の脅威は、この積荷を没収するための大義名分として、極めて好都合であった 2 。
そして第三に、 権威への挑戦に対する懲罰 である。秀吉にとって、伴天連追放令を公然と無視し、京の都で派手な布教活動を繰り広げるフランシスコ会の存在は、天下人たる自身の権威に対する許しがたい挑戦であった 2 。サン・フェリペ号事件は、彼らを一掃し、自らの権威を改めて内外に示す絶好の機会を提供した。実際に、後の処罰の罪状が「侵略の尖兵」という国家反逆罪ではなく、禁令違反や不敬罪といった国内法の範疇に留められている点は、この動機の重要性を示唆している 5 。
結論として、秀吉の行動は、これら三つの動機が複合的に作用した、高度な政治的判断であったと考えられる。すなわち、侵略の脅威を大義名分として掲げることで、財政的実利を確保し、同時に国内の秩序を乱すフランシスコ会を断罪するという、一石三鳥を狙ったものであった可能性が極めて高い。サン・フェリペ号事件は、秀吉という老獪な政治家が、内外の危機的状況を巧みに利用して自らの目的を達成しようとした、冷徹なリアリズムの産物でもあったのである。
第四章:京都から長崎へ ― 日本二十六聖人殉教への道(慶長元年12月~慶長2年1月)
サン・フェリペ号の積荷没収に続き、豊臣秀吉の怒りの矛先は、京で活動するフランシスコ会士たちへと向けられた。ここから始まる一連の出来事は、単なる処刑ではなく、天下人の権威を見せつけるための、周到に演出された政治的パフォーマンスであった。京都から長崎へと続く約千キロの道程は、殉教者たちにとって信仰の証しを立てる苦難の道であると同時に、秀吉政権による恐怖支配を民衆の目に焼き付けるための「見せしめの劇場」と化したのである。
弾圧の始まり:京都・大坂での宣教師と信徒の捕縛
慶長元年12月8日(西暦1596年12月30日)、秀吉は京都所司代の前田玄以と奉行の石田三成に対し、京都および大坂にいるフランシスコ会員と、彼らに関わる主要な日本人信徒全員を捕縛せよとの厳命を下した 14 。この命令に基づき、フランシスコ会司祭ペドロ・バウティスタをはじめとする外国人宣教師6名、イエズス会関係者3名(パウロ三木ら)、そして日本人信徒15名の、合計24名が捕らえられた 7 。逮捕者の中には、サン・フェリペ号の漂着に巻き込まれただけのメキシコ人修道士フェリペ・デ・ヘススも含まれていた 7 。彼の悲劇は、日本での布教活動とは無関係に、ただその場に居合わせたという不運によってもたらされたものであった。
見せしめの刑:京での耳削ぎと市中引き回し
捕縛された24名は、罪人として扱われた。慶長元年12月3日(西暦1597年1月21日)、彼らは京都の一条戻橋に引き出され、見せしめとして左の耳たぶを切り落とされた 14 。秀吉の当初の命令は「耳と鼻を削ぐ」というさらに過酷なものであったが、これはいくらか減刑された形であった。血を流す痛々しい姿のまま、彼らは牛車に乗せられ、冬の京の町を市中引き回しにされた。これは、キリスト教を信じることがいかなる恥辱と苦痛を伴うかを、民衆の目に直接訴えかけるための残酷な儀式であった。
厳冬の行進:約千キロに及ぶ長崎への道
もし処刑そのものが目的ならば、捕らえた京都や大坂で即座に行うのが最も効率的であったはずだ。しかし秀吉は、あえて処刑の地を、当時キリシタンの一大拠点であった長崎に定めた 6 。そして慶長元年12月13日(西暦1597年1月31日)、一行は凍てつく厳冬の中、徒歩で長崎へ向かうことを命じられた 14 。この非効率な選択こそ、この行進が単なる移動ではなく、意図された「政治的パフォーマンス」であったことを物語っている。主要な街道を、耳を削がれた罪人たちを長期間にわたって歩かせることで、その惨めな姿を西日本の広範な人々に晒し、権力への恐怖を植え付けることが狙いであった。
道中の出来事と殉教者の列に加わった者たち
しかし、秀吉の意図した「恐怖の劇場」は、予期せぬ様相を呈し始める。殉教者たちの態度は、罪人のそれではなく、むしろ信仰のために喜んで苦難を受ける巡礼者のようであった 11 。彼らの毅然とした姿は、沿道の人々に恐怖よりも深い感銘や同情を与えた。
そして、この過酷な旅の途中で、二人の人物が自らの意志で殉教者の列に加わった。一行の世話をしていた伊勢の大工フランシスコ吉と、イエズス会関係者の世話役であったペトロ助四郎である。彼らは役人に対し、自らもキリスト教徒であることを告白し、捕縛された。これにより、殉教者の数は最終的に26名となった 14 。秀吉が演出した恐怖の行進は、結果として信仰の強さを証明する感動的な物語へと昇華され、キリスト教の殉教精神を人々の記憶に深く刻み込むことになったのである。
表2:日本二十六聖人殉教者一覧
氏名 |
身分/所属 |
所属修道会 |
出身地 |
年齢 |
備考 |
|
ペトロ・バウティスタ |
司祭 |
フランシスコ会 |
スペイン |
48 |
日本のフランシスコ会責任者 |
|
マルチノ・デ・ラ・アセンシオン |
司祭 |
フランシスコ会 |
スペイン |
30 |
|
|
フランシスコ・ブランコ |
司祭 |
フランシスコ会 |
スペイン |
28 |
|
|
フェリペ・デ・ヘスス |
修道士 |
フランシスコ会 |
メキシコ |
24 |
サン・フェリペ号乗船者、メキシコ初の聖人 |
|
ゴンザロ・ガルシア |
修道士 |
フランシスコ会 |
ポルトガル領インド |
40 |
|
|
フランシスコ・デ・サン・ミゲル |
修道士 |
フランシスコ会 |
スペイン |
53 |
|
|
パウロ三木 |
修道士 |
イエズス会 |
日本(摂津) |
33 |
著名な説教家 |
|
ディエゴ喜斎 |
修道士 |
イエズス会 |
日本(備前) |
64 |
|
|
五島のヨハネ草庵 |
修道士 |
イエズス会 |
日本(五島) |
19 |
|
|
コスメ竹屋 |
信徒 |
- |
日本(尾張) |
38 |
|
|
ペトロ助四郎 |
信徒 |
- |
日本 |
- |
道中で列に加わる |
|
ミカエル小崎 |
信徒 |
- |
日本(伊勢) |
46 |
トマス小崎の父 |
|
パウロ茨木 |
信徒 |
- |
日本(尾張) |
54 |
レオ烏丸の兄 |
|
レオ烏丸 |
信徒 |
- |
日本(尾張) |
48 |
パウロ茨木の弟 |
|
ルドビコ茨木 |
信徒 |
- |
日本(尾張) |
12 |
最年少殉教者 |
|
長崎のアントニオ |
信徒 |
- |
日本(長崎) |
13 |
父は中国人 |
|
マチアス |
信徒 |
- |
日本 |
- |
人違いで捕縛されるも殉教を選ぶ |
|
ボナベントゥラ |
信徒 |
- |
日本(京都) |
- |
|
|
トマス小崎 |
信徒 |
- |
日本(伊勢) |
14 |
ミカエル小崎の子 |
|
ヨアキム榊原 |
信徒 |
- |
日本(大坂) |
40 |
|
|
医者のフランシスコ |
信徒 |
- |
日本(京都) |
46 |
|
|
トマス談義者 |
信徒 |
- |
日本(伊勢) |
36 |
|
|
絹屋のヨハネ |
信徒 |
- |
日本(京都) |
28 |
|
|
ガブリエル |
信徒 |
- |
日本(伊勢) |
19 |
|
|
パウロ鈴木 |
信徒 |
- |
日本(尾張) |
49 |
|
|
フランシスコ吉 |
信徒 |
- |
日本(京都) |
- |
大工、道中で列に加わる |
|
(出典: 14 ) |
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第五章:西坂の丘 ― 殉教とその後(慶長2年2月5日 / 旧暦1月19日)
約一ヶ月に及ぶ過酷な旅路の果て、一行はついに処刑の地、長崎に到着した。ここで繰り広げられた出来事は、秀吉の権威を示すという国内向けの政治劇のクライマックスであると同時に、その影響が国境を越え、時代を超えて語り継がれる世界史的な事件の幕開けでもあった。
処刑当日の長崎
慶長2年2月5日、処刑の舞台として選ばれたのは、長崎の港を見下ろす西坂の丘であった 25 。この地がキリストが磔にされたエルサレムのゴルゴタの丘に似ていることから、殉教者たちが自ら望んだ場所であったとも伝えられている 25 。当局は市中に外出禁止令を出していたが、それを破って4000人を超える群衆が丘に詰めかけ、固唾を飲んで一行の到着を待っていた 14 。
一行が丘に引き立てられると、処刑の責任者であった寺沢広高の弟・半三郎は、一行の中にいる12歳の少年、ルドビコ茨木の姿を見て哀れに思い、棄教すれば命は助けると最後の温情を示した。しかし、ルドビコは「この世のつかの間の命と、天国の永遠の命を取り替えることはできません」と述べ、毅然としてその申し出を断ったという逸話が残されている 14 。
十字架上の最後の説教と殉教の瞬間
26人は、丘の上に立てられた十字架に一人ずつ縄で縛り付けられた。午前10時頃、執行人の合図と共に、26本の槍がそれぞれの両脇から心臓をめがけて突き入れられ、彼らは絶命した 14 。
その絶命の直前、イエズス会員の説教家であったパウロ三木は、十字架の上から眼下の群衆に向かって最後の力を振り絞り、自らが何の罪も犯していないこと、そしてキリストの教えの正しさを朗々と説いた 14 。彼の最後の説教は、処刑の場を荘厳な殉教の舞台へと変えた。
聖遺物の行方とヨーロッパへの衝撃
秀吉の目的は、処刑によってキリシタンへの見せしめを完結させることにあった。しかし、彼の計算を超えて、事件の影響を国際的かつ永続的なものへと昇華させたのが、カトリック教会特有の「聖遺物崇敬」の伝統であった 27 。
処刑後、信者たちは厳重な警備の目をかいくぐり、殉教者たちの血に染まった衣服の切れ端や、遺骸の一部を「聖遺物」として密かに収集した。これらの聖遺物は、マカオやマニラを経由してヨーロッパ各地へともたらされ、熱烈な崇敬の対象となった 14 。ルイス・フロイスをはじめとする宣教師たちの詳細な報告書によって、この日本の辺境で起きた悲劇はヨーロッパ中に知れ渡り、カトリック世界に大きな衝撃を与えた。日本は、かつての布教の有望な地から、信仰のために命を捧げる過酷な殉教の地へと、そのイメージを大きく転換させたのである。
この殉教の物語は、国境と時代を超えて語り継がれ、26人は1862年6月8日、ローマ教皇ピウス9世によってカトリック教会の公式な「聖人」の列に加えられた 14 。秀吉の国内向けの政治的パフォーマンスは、意図せずして、彼自身を世界史の舞台における「暴君」「迫害者」として記憶させる結果となった。
外交交渉の決裂:スペイン使節の来日と秀吉の拒絶
事件の報は、すぐにマニラのスペイン総督府にもたらされた。フィリピン総督は直ちに使節ドン・ルイス・ナバレテを日本へ派遣し、秀吉に対してサン・フェリペ号の積荷の返還と、殉教した宣教師たちの遺体の引き渡しを強く要求した 23 。
しかし、秀吉の態度は強硬であった。彼は積荷の返還要求を完全に拒絶した 15 。これは、積荷の没収が、財政難に苦しむ豊臣政権にとって重要な実利であったこと、そして一度下した決定を覆すことが自らの権威を損なうと考えたためであろう。宣教師の遺体の引き渡しには応じたものの、外交交渉は事実上決裂し、豊臣政権とスペインとの関係は決定的に悪化した 28 。ここに、日本とスペインとの最初の公式な関係は、最悪の形で幕を閉じたのである。
終章:事件が残したもの
サン・フェリペ号事件は、慶長の日本に一陣の嵐として吹き荒れ、そして過ぎ去っていった。しかし、その嵐が残した爪痕は、日本のその後の歴史の航路を大きく変えるほど、深く、決定的なものであった。
豊臣政権のキリスト教政策の決定的な硬化
この事件がもたらした最も直接的かつ重大な影響は、豊臣政権のキリスト教政策が、決定的に硬化したことである。1587年の伴天連追放令発布後も、南蛮貿易の利益のために維持されてきた「黙認」という名の曖昧な共存関係は、この事件をもって完全に終わりを告げた。日本の最高権力者の命令によって、外国人宣教師を含むキリスト教徒が公然と処刑された日本史上初の事例となり 5 、それは後の徳川幕府による、より大規模で組織的な弾圧の先例となった。秀吉の治世末期において、キリスト教はもはや容認されざる異質な思想であり、国家の安寧を脅かす潜在的な脅威であると、明確に位置づけられたのである。
徳川幕府の禁教・鎖国政策への遠い伏線
サン・フェリペ号事件を通じて、日本の為政者の間に深く刻み込まれた「キリスト教(特にカトリック)=ヨーロッパ諸国による侵略の尖兵」という認識は、豊臣政権の滅亡後も、新たに天下の支配者となった徳川幕府に色濃く引き継がれた。徳川家康は当初、貿易の利益を求めてスペインとの関係改善を模索する時期もあったが、幕府の支配体制が安定するにつれて、キリスト教が国内の秩序を乱し、幕藩体制の根幹を揺るがしかねないという警戒感を強めていく。
やがて島原の乱を経て、幕府がポルトガル船の来航を禁止し、オランダとの交易のみに限定するという、いわゆる「鎖国」体制を完成させるに至る過程において、サン・フェリペ号事件の記憶が思想的な土壌の一部を形成したことは間違いない 29 。この事件は、日本が世界に対して心を開くのではなく、管理と統制を強め、閉ざす方向へと舵を切る、大きな歴史的転換点の一つとなったのである。
歴史的転換点としてのサン・フェリペ号事件の再評価
結論として、サン・フェリペ号事件は、単なる宗教弾圧事件としてのみ捉えるべきではない。それは、戦国という長い内乱の時代を終え、統一国家として新たな秩序を模索していた日本が、大航海時代を経て急速に一体化しつつあった世界と、初めて本格的に向き合った際に生じた、深刻な文化的・政治的摩擦の象徴であった。
この事件は、経済的利益(南蛮貿易)と、安全保障上の脅威(宗教を介した侵略の可能性)という二つの価値が天秤にかけられた時、日本の為政者が最終的に後者を優先し、異質なものを排除し、厳しい管理統制の道を選択したことを示している。それは、日本の近世史の方向性を決定づけた重要な分岐点であり、その後の日本の国際社会における独自の立ち位置を考える上で、今なお多くの示唆を与え続けている。土佐の浜に打ち寄せた一隻のガレオン船は、日本が世界史の大きなうねりの中に否応なく投げ込まれたことを告げる、運命の漂着物だったのである。
引用文献
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- キリスト教の日本伝来 - 世界史の窓 https://www.y-history.net/appendix/wh0801-107.html
- 「日本人の奴隷化」を食い止めた豊臣秀吉の大英断 海外連行された被害者はざっと5万人にのぼる https://toyokeizai.net/articles/-/411584
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