最終更新日 2025-10-09

ヴァリニャーノ巡察再来日(1581)

ヴァリニャーノは1581年の再来日で信長と関係を築き、適応主義を徹底。日本人聖職者育成、教育機関整備、天正遣欧少年使節構想、活版印刷導入を推進、日本布教基盤確立。
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天正九年の巡察師: アレッサンドロ・ヴァリニャーノの改革と戦国日本の邂逅

序章:天正九年(1581年)— 戦国日本とイエズス会の転換点

天正九年(1581年)は、日本のキリスト教布教史において、決定的な転換点として刻まれている。この年に行われたイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノによる日本巡察は、単なる一介の宗教家による視察ではなかった。それは、ザビエルの来日以来、約30年にわたって続けられてきた布教活動が抱える内部的・外部的な課題を根本から見直し、新たな時代への扉を開いた一連の戦略的行動であった 1

ヴァリニャーノの行動は、戦国日本の地政学的力学を深く理解した上で展開された、高度に計算されたものであった。本報告書では、彼の行動を単に「宗教家」として捉えるのではなく、激動の時代を生き抜くための「戦略家」そして「外交官」としての側面から多角的に分析する。第一章では、ヴァリニャーノが巡察に臨んだ当時の日本の政治・社会情勢を、中央と九州という二つの視点から概観する。第二章では、彼の具体的な行動を時系列に沿って詳細に追跡し、その軌跡をリアルタイムで再構築する。第三章では、その行動を通じて確立された布教の新方針が持つ戦略的帰結を分析し、結論において、この巡察が日本史に与えた深遠なインパクトを総括する。

第一章:巡察師来日以前の情勢 — 二つの「戦国」

ヴァリニャーノが1581年に畿内へと向かう決断を下した背景には、日本全体を覆う「マクロな情勢」と、イエズス会内部が抱える「ミクロな課題」が複雑に絡み合っていた。

1.1. 天下布武の最終段階:織田信長の権勢と中央政局

天正九年(1581年)当時、織田信長の権力はまさに絶頂期にあった。前年(1580年)に10年以上にわたる石山合戦を終結させ、主要な敵対勢力をほぼ一掃した信長は、疑いようもなく日本の最高権力者として君臨していた 2 。その権威を天下に知らしめたのが、同年2月28日に京都で挙行された大規模な軍事パレード「御馬揃え」である 3 。これは、朝廷、公家、そして諸大名に対し、自身の権威が絶対的なものであることを見せつける一大デモンストレーションであった。

この中央の絶対権力者がキリスト教に対し、一貫して好意的な姿勢を示していたことは、宣教師たちにとって最大の追い風であった 4 。信長のこの態度は、単なる宗教的寛容さから来るものではない。それは、旧来の仏教勢力、特に石山本願寺や比叡山延暦寺といった武装集団への対抗意識、南蛮貿易がもたらす莫大な経済的利益、そして天文学、地理学、軍事技術といったヨーロッパの進んだ知識や文物に対する強い知的好奇心が複合的に絡み合った、極めて政治的かつ実利的な判断に基づくものであった。ヴァリニャーノは、この信長の「需要」を正確に見抜いていた。彼にとって、信長との関係を構築することは、九州の不安定な情勢に左右されない、恒久的な布教の足がかりを得るための最重要課題であった。今回の巡察は、単なる挨拶ではなく、イエズス会が信長にとって「有用な存在」であることを直接アピールする絶好の機会と捉えられていたのである 5

1.2. 三国鼎立の九州:大友・龍造寺・島津の抗争とキリシタン大名の苦境

一方、ヴァリニャーノが1579年に初来日して以来、拠点としていた九州の情勢は、中央の安定とは対照的に、混迷の度を深めていた。天正6年(1578年)の耳川の戦いにおけるキリシタン大名・大友宗麟の歴史的大敗は、九州の勢力図を根底から覆した 6 。これにより、長らく九州北部に覇を唱えてきた大友氏の権威は失墜し、その力の空白を埋めるかのように、肥前の龍造寺隆信と薩摩の島津義久が急速に勢力を拡大した 6

特に「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信の台頭は、肥前・島原半島に割拠するキリシタン大名、大村純忠と有馬晴信にとって深刻な脅威となった。両氏は龍造寺氏の強大な軍事力の前に屈し、人質を差し出して従属を余儀なくされる状況に追い込まれていた 8 。この軍事的脅威から、南蛮貿易の拠点港であり、多くの教会が建てられていた長崎を守るため、大村純忠は苦渋の決断を下す。天正8年(1580年)4月27日、彼は長崎と茂木の地をイエズス会に寄進したのである 9 。これは、教会の治外法権的な立場を利用して龍造寺氏の侵攻を防ごうとする窮余の策であり、イエズス会が日本の領主として、現地の紛争に直接関与せざるを得なくなった象徴的な出来事であった 8

ヴァリニャーノが目の当たりにしたのは、布教の最大の庇護者であった大友氏が衰退し、教会の存立基盤そのものが揺らいでいるという危機的状況だった。九州の教会は、現地の戦国大名の勢力争いの渦中で、常に存亡の危機に晒されていた。九州におけるこの深刻な軍事的・政治的危機こそが、ヴァリニャーノに畿内の織田信長との関係強化を急がせた最大の動機であった。九州の個々のキリシタン大名だけに依存する布教体制の脆弱性を痛感した彼は、それを超越する中央の権威からの「お墨付き」を得ることで、九州の局地的な紛争から教会を保護する防波堤を築こうとしたのである。

1.3. 日本布教区の内部対立:ヴァリニャーノとカブラルの路線対立

外部の政治的危機に加え、ヴァリニャーノは日本布教区が抱える深刻な内部問題にも直面していた。彼の着任以前、日本地区の責任者を務めていたフランシスコ・カブラルは、当時のポルトガル人冒険家の典型ともいえる人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的な見解を持っていた 11 。彼は「私は日本人ほど傲慢、貪欲、不安定で、偽装的な国民は見たことがない」と公言し、日本人を「黒人」とみなすなど、その言動は侮蔑に満ちていた 5

この日本人観に基づき、カブラルは日本人聖職者の育成に強く反対し、日本の習慣や作法を野蛮なものとして退け、ヨーロッパの様式を一方的に押し付ける「同化政策」を推し進めた 11 。この方針は、日本人信徒や修道士との間に深刻な軋轢を生み、布教活動の停滞を招いていた 12

これに対し、イタリア貴族出身で法学博士でもあったヴァリニャーノは、日本の高度な文化と日本人の優れた資質を高く評価していた 12 。彼は、ヨーロッパの文化を押し付けるのではなく、キリスト教の教えを日本の文化や習慣に「適応」させるべきだとする「適応主義」を提唱した 13 。彼は「我等の方があらゆる点で彼らに順応せねばならぬ。もし我等が順応しなければ、信用を失い、なんらの成果も収めることができない」と述べ、日本人修道士をヨーロッパ人と同等に待遇し、日本人自身による教会運営の実現、すなわち日本人聖職者の育成こそが急務であると主張した 12

したがって、ヴァリニャーノの1581年の巡察は、単なる現状視察ではなく、カブラルの方針によって生じた日本布教区の混乱と停滞を収拾し、全く新しい布教パラダイムを確立するための「内部改革」という重大な使命を帯びていたのである。

項目

フランシスコ・カブラルの方針

アレッサンドロ・ヴァリニャーノの方針

対日・日本人観

否定的、差別的。文化や習慣を「野蛮」と蔑視 11

肯定的。資質を高く評価し、文化や習慣を尊重 12

布教方針

同化主義 :日本の習慣を否定し、ヨーロッパの様式を強制 12

適応主義 :日本の文化・習慣に宣教師が順応することを重視 14

日本人聖職者育成

否定的。日本人には指導者としての資質がないとし、育成に反対 11

肯定的。日本教会の自立に不可欠な最重要課題と位置づけ 14

宣教師の生活様式

清貧を名目に絹の着物を禁じるなど、日本の社会的慣習を無視 11

身分に応じた服装や作法への配慮を指示し、社会的信用を重視 15

結果

日本人信徒・修道士との深刻な軋轢。布教活動の停滞 12

日本人との協調関係を構築。布教の組織的・持続的発展の基礎を確立。

第二章:天正九年の軌跡 — ヴァリニャーノの巡察活動(時系列分析)

外部の動乱と内部の対立という二重の課題を抱え、ヴァリニャーノは天正九年、日本の未来を左右する巡察の旅に出た。その足跡を、当時の出来事と並行させながら追跡する。

時期(西暦/和暦)

ヴァリニャーノの動向・行動

中央(畿内)の主な出来事

九州の主な出来事

1月〜2月

豊後にて畿内巡察の準備。

2月28日、織田信長が京都で「御馬揃え」を挙行 3

島津氏が肥後へ侵攻。相良氏を圧迫 6

3月

豊後を出帆。瀬戸内海を航行し堺に到着。3月29日、京都本能寺で信長と初会見 17

3月10日、信長が安土へ帰還。上杉景勝が越中へ出兵 3

龍造寺隆信が筑前・筑後での影響力を拡大 6

4月

4月14日・15日、安土城を訪問し、信長から城内を案内される 17

信長、安土城にてヴァリニャーノを厚遇。

大友氏の衰退が続き、国人衆の離反が加速 6

5月〜7月

安土に滞在。教会とセミナリヨの建設準備を進める 17

信長、畿内および周辺地域の支配を固める。

-

8月

8月14日、信長主催の安土城ライトアップに招かれる。信長から「安土城図屏風」を贈呈され、畿内を出発 17

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9月〜12月

九州への帰途につく。各地の教会を視察し、新方針の徹底を図る。

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12月2日、響野原の戦いで相良義陽が戦死。島津氏の肥後南部支配が確定 6

2.1. 豊後から京へ:大友宗麟の庇護と瀬戸内航路(1月〜3月)

1581年初頭、ヴァリニャーノは通訳として信頼するルイス・フロイスを伴い、畿内巡察の途についた 20 。この重要な旅のために、大友宗麟は自ら大船を手配した 18 。畿内のキリシタンたちも迎えの船団を用意していたが、宗麟が提供した船が格段に立派であったため、そちらが使われたという記録は、耳川の戦いで衰えたとはいえ、宗麟が依然としてイエズス会にとって重要な庇護者であったことを示している 18

しかし、この航海は、ヴァリニャーノに日本の権力構造の劇的な変化を肌で感じさせるものであった。フロイスの書簡によれば、彼らの船は瀬戸内海を航行中、信長が毛利水軍に備えて配備していた鉄甲船と思しき大船に遭遇し、追い回されるという一幕があった 18 。この経験は、瀬戸内海がもはや毛利氏のものではなく、信長の絶対的な制海権下にあるという事実を突きつけるものであった。ヴァリニャーノの豊後から堺への航海は、単なる物理的な移動ではなかった。それは、大友氏の「過去の権威」に送られ、信長の「現在の権力」を目の当たりにしながら、日本の新たな権力中枢へと向かう象徴的な旅路であった。この経験は、彼が信長との会見に臨む上で、九州の大名とは全く異なる次元で交渉する必要性を確信させたに違いない。

2.2. 信長との邂逅:本能寺と安土での対面(3月〜4月)

堺に上陸した一行は京都へ向かい、天正9年3月29日、信長の当時の京宿所であった本能寺において、歴史的な初会見を果たした 17 。信長は、ヴァリニャーノの長身や威厳ある態度に感銘を受けると同時に、彼が伴っていたアフリカ人従者ヤスケの黒い肌に強烈な好奇心を示した。その肌の色が天然のものであることを信じられず、着物を脱がせて体を洗わせたという逸話は、信長の未知のものに対する飽くなき探求心と、宣教師たちがもたらした「世界」のインパクトを物語っている 22

さらに4月14日と15日には、信長の本拠地である安土を訪問。ここでヴァリニャーノは破格の待遇を受けることになる。信長は自ら一行を案内し、七層の壮麗な天主をはじめ、完成したばかりの安土城のすべてを誇らしげに見せて回った 17 。この個人的で親密な交流を通じて二人は意気投合し、ヴァリニャーノの戦略は完全に成功した 5 。信長は彼らを単なる宣教師としてではなく、未知の世界からの知識と文化をもたらす重要な賓客として認識し、深い信頼関係が築かれたのである。

2.3. 安土城下のセミナリヨ構想と信長の歓待(4月〜8月)

この信頼関係は、具体的な成果となって結実する。ヴァリニャーノは信長に、安土の地に教会とセミナリヨ(初等神学校)を建設するための土地を願い出た。これに対し信長は、安土城に隣接する一等地を快く与えた 23 。これは、すでに肥前の有馬に設立されていたセミナリヨと並び、畿内におけるキリスト教教育の拠点となる計画であり、信長の公的な庇護を象徴するものであった 24

信長の歓待はこれに留まらなかった。同年8月、ヴァリニャーノ一行が帰途につこうとする中、信長は彼らの出発を遅らせてまで、盆の行事に招待した。8月14日の夜、信長は家臣たちの家で火を焚くことを禁じ、安土城の天主閣のみに色とりどりの豪華な提灯を無数に灯させた 19 。夜空に浮かび上がる光の城郭は、まさに壮麗な光のショーであり、信長が彼らとの別れを惜しみ、最大限の敬意と好意を示した証であった。

そして出立に際し、信長はヴァリニャーノに特別な贈り物をした。それは、一年がかりで当代随一の絵師(狩野永徳といわれる)に描かせた、精緻な「安土城図屏風」であった 17 。これは単なる土産物ではない。安土での一連の出来事は、信長とヴァリニャーノが互いの「価値」を認め合うプロセスであった。信長はヴァリニャーノを通じてヨーロッパ世界の壮大さを認識し、ヴァリニャーノは信長の圧倒的な権力と先進的な都市計画に感銘を受けた。この安土城図屏風の贈呈は、この相互承認の象徴であった。信長は「私の偉業を世界に伝えよ」とその権力の象徴を託し、ヴァリニャーノは「この偉大な統治者の庇護こそ、我々の布教の成果である」とそれを受け取った。これは、文化を媒介とした高度な政治的コミュニケーションに他ならなかった。

2.4. 畿内から九州へ:布教体制の点検と改革の具体化(8月〜年末)

8月以降、ヴァリニャーノは信長との関係構築という最大の目的を達成し、畿内から九州への帰途についた 17 。この過程で、彼は各地の教会を視察し、カブラル時代の方針を正式に転換させ、適応主義に基づく新たな教会運営の規則を徹底していった。九州に戻ったヴァリニャーノは、もはや単なる一巡察師ではなかった。彼は日本の最高権力者である信長の「知己」という、何物にも代えがたい権威を背景に、自身の改革案を強力に推進することが可能になったのである。この畿内巡察の成功が、後に詳述する天正遣欧少年使節の派遣という壮大な計画を具体化させる、確固たる自信と裏付けを与えたことは間違いない。

第三章:巡察が確立した新方針とその戦略的意図

1581年の巡察活動を通じてヴァリニャーノが確立・具体化させたのは、単なる場当たり的な改善策ではなかった。それは、日本の社会と文化に対する深い洞察に基づいた、包括的かつ長期的な布教戦略であった。

3.1. 適応主義の徹底と日本人聖職者の育成

ヴァリニャーノ改革の根幹をなすのが「適応主義」の制度化である。彼は、宣教師たちが日本の社会で信用を得るためには、その作法や慣習を深く理解し、実践することが不可欠であると考えた。その指示は極めて具体的であり、「客人を迎えた際の座る場所、話し方や言葉遣い、食事の作法、盃の受け渡し方、せっかちに歩いたり大声で笑ったりしないこと」など、日常生活の細部にまで及んだ 15 。さらに、教会の建築においても、ヨーロッパ様式を押し付けるのではなく、日本の伝統的な建築様式や技術を尊重することを推奨した 26

これらは、カブラルの同化主義を完全に否定し、適応主義を日本布教の揺るぎない基本方針として確立したことを示す。その根底には、キリスト教の教義は普遍的だが、その表現形式は各文化に根差し、その文化の中で豊かに表現されるべきだという、深い神学的・文化人類学的洞察があった。この柔軟な姿勢こそが、その後の日本におけるキリスト教の急速な拡大を支える原動力となったのである。

3.2. 教育機関(セミナリヨ・コレジヨ)の整備と拡充

適応主義の究極的な目標は、日本人自身による日本教会の運営であった。そのための具体的な手段として、ヴァリニャーノが最も力を注いだのが、聖職者育成のための教育機関の設立である。1580年に有馬で、そして1581年に信長の許可を得て安土で設立が進められたセミナリヨは、その中核をなすものであった 13

セミナリヨは、単なる神学校ではなかった。そこではラテン語、宗教学、音楽といった宗教科目だけでなく、地理学、天文学など、ルネサンス期のヨーロッパにおけるリベラルアーツ(一般教養)が組織的に教えられていた 13 。有馬のセミナリヨでは、生徒たちが流暢なラテン語で討論を行い、それを視察したイエズス会の準管区長が「自分はまるでコインブラ(ポルトガルの大学都市)にいるかのような気がした」と驚嘆するほど、その教育水準は高かった 13

セミナリヨの設立は、単に聖職者を養成する以上の意味を持っていた。それは、日本という土壌にヨーロッパの知的伝統の苗木を植え、将来的に日本人自身の手で教会を知的にも、管理的にも運営していく「人的な自給自足体制」を構築しようとする壮大な試みであった。ヴァリニャーノは、遠くヨーロッパからの宣教師の供給には限界があることを見抜き、日本教会がこの地に根差し、持続可能であるためには、日本人の中から優れた指導者層を育成することが不可欠だと考えていた。これは、日本の人材にヨーロッパの知を「投資」することで、日本に根差した永続的な教会を創り出すための、深謀遠慮な戦略であった。

3.3. 天正遣欧少年使節構想の具体化

1581年の巡察、特に信長との会見の成功は、ヴァリニャーノにさらに大胆な構想を実行に移す自信を与えた。それが、天正遣欧少年使節の派遣計画である。この計画には、二つの明確な戦略的意図があった。第一に、ローマ教皇やスペイン・ポルトガル国王といったヨーロッパの最高権威に日本の少年たちを謁見させ、日本布教の重要性を直接アピールすることで、継続的な経済的・人的援助を確保すること。第二に、日本の若者たちにキリスト教世界の栄光と偉大さをその目で直接見聞させ、帰国後、彼ら自身の口からその体験を語らせることで、布教活動に絶大な効果をもたらすことである 27

使節には、九州の主要キリシタン大名である大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代として、有馬のセミナリヨで学ぶ優秀な少年たちが選ばれた。主席正使の伊東マンショ、正使の千々石ミゲル、副使の中浦ジュリアンと原マルチノの4人である 28

この計画は、単なる外交使節の派遣に留まるものではない。それは、ヨーロッパと日本の双方に向けられた、極めて巧妙な双方向の「広報戦略」であった。ヨーロッパに対しては、「これほど知的で礼儀正しい少年たちを生み出す日本という国への布教は、投資価値のある崇高な事業である」とアピールする。一方、日本に対しては、「我々が信じるキリスト教の背後には、これほど壮麗で強力な文明が存在する」という事実を、疑いようのない形で証明する。ヴァリニャーノは、4人の少年を「生きた証拠」として活用し、情報が極端に限られていた大航海時代に、両世界の相互認識を劇的に変えようとしたのである。

3.4. 知のインフラ整備:活版印刷術導入計画

ヴァリニャーノの戦略は、人材育成と広報活動に留まらなかった。彼は、教えを広めるための「知のインフラ」の重要性も深く認識していた。そのための切り札が、ヨーロッパのグーテンベルク式活版印刷技術の導入計画である 29

当時の日本では、書物といえば手書きによる写本か、制作に時間と手間がかかる木版印刷が主流であった。活版印刷を導入すれば、教義書、聖人伝、語学書などを正確かつ大量に、そして安価に複製することが可能になる。これは、日本の知識伝達のあり方を根底から変える、まさに「知の革命」であった。この計画は、天正遣欧少年使節が1590年に帰国する際に、印刷機材一式を持ち帰ることで実現する 29 。セミナリヨでの教育と活版印刷による出版は、キリスト教の教えと西洋の知識を広めるための両輪であり、ヴァリニャーノの包括的な戦略を象徴するものであった。

結論:ヴァリニャーノの再来日が日本史に与えたインパクト

天正九年(1581年)のヴァリニャーノの巡察は、単なる一連の出来事の集合体ではない。それは、イエズス会内部の路線対立という「内的危機」と、戦国日本の動乱という「外的危機」に直面したヴァリニャーノが、織田信長という「機会」を最大限に活用し、日本におけるキリスト教布教の針路を恒久的に決定づけた、極めて戦略的な行動の総体であった。

彼の巡察によって、「適応主義」という基本理念、「教育による日本人指導者の育成」という長期的戦略、そして「使節派遣と印刷術導入」という具体的手段からなる、包括的で持続可能な布教体制が確立された。これにより、日本の教会はそれまでの場当たり的で宣教師個人の資質に依存した布教から脱却し、組織的かつ計画的な発展の礎を築くことに成功した。

歴史の皮肉というべきか、ヴァリニャーノが心血を注いで築いた信長との固い絆は、巡察の翌年、天正十年(1582年)6月の本能寺の変によって、あまりにも唐突に断ち切られる。最大の庇護者を失ったことは、日本布教にとって計り知れない打撃であった。しかし、彼が1581年に確立した強固な組織基盤と明確な戦略方針があったからこそ、日本のイエズス会は信長の死という最大の危機を乗り越え、その後の豊臣秀吉による伴天連追放令、そして徳川幕府による過酷な禁教と弾圧の時代へと、その命脈を保ち続けることができた。天正九年の巡察は、成功と挫折の両面を含みながらも、その後の日本のキリシタン史のすべてを規定する、まさしく「原点」となったのである。

引用文献

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  2. 日本史/安土桃山時代 - ホームメイト https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-azuchimomoyama/
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  8. 戦国時代、長崎はイエズス会の領地だった!? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4941
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  25. 有馬のセミナリヨ跡推定地 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_resource/arima-seminariyo
  26. 日本のキリスト教史 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%8F%B2
  27. 天正遣欧少年使節 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80
  28. 天正少年使節 - 筑波大学附属図書館 https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/tokubetuten/tenji/tensyou_syounen.html
  29. キリシタン版と日欧文化交流 https://www.eajrs.net/files/happyo/yasue_akio.pdf
  30. 戦国時代に伝来した活版印刷機が明治まで普及しなかった理由とは? - 新潟フレキソ https://n-flexo.co.jp/blog/history-kappan-300years-japan/