最終更新日 2025-10-09

三戸から盛岡へ遷府(1599)

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北奥の再編:南部氏、三戸から盛岡への遷府(1599年) - 戦国末期における戦略的首都移転の全貌

序章:遷府前夜 – 北奥の覇者、南部氏が抱える構造的課題

慶長四年(1599年)、南部氏がその本拠を長年の拠点であった三戸から不来方(後の盛岡)へと移すことを決定し、実行に移した「盛岡遷府」。この出来事は、単なる居城の移転に留まらず、戦国大名としての南部氏が近世大名へと脱皮し、北奥羽における新たな統治体制を構築するための、一大画期であった。この巨大事業に至る背景には、南部氏が長年抱えてきた内部の権力構造の問題と、豊臣政権による天下統一という外部からの強大な圧力が複雑に絡み合っていた。遷府は、これらの課題に対する南部信直による戦略的な解答であり、一族の存亡をかけた構造改革の狼煙だったのである。

南部一族の権力構造と内部対立

戦国期の南部氏は、三戸城に拠点を置く惣領家を盟主としながらも、その実態は強力な中央集権体制とは程遠い、一族諸家の連合体という性格を色濃く残していた 1 。甲斐源氏の流れを汲む南部氏は、鎌倉時代に糠部郡(現在の青森県東部から岩手県北部)に入部して以来、各地に一族が分立し、それぞれが半独立的な領主として勢力を扶植していた。

その中でも、九戸城(現在の岩手県二戸市)を本拠とする九戸氏は、惣領家である三戸氏に匹敵するほどの強大な勢力を誇っていた 2 。九戸氏は南部氏初代・光行の子孫とされながらも、室町幕府の記録においては三戸南部氏と並び立つ独立した大名として認識されていた形跡もあり、その権勢は侮りがたいものであった 3 。この「三戸」と「九戸」という二つの権力中枢の並立は、南部一族内の不安定要因であり続け、惣領家の家督相続などを巡ってしばしば対立の火種となっていた 4

惣領家の本拠であった三戸城もまた、課題を抱えていた。この城は、天文八年(1539年)にそれまでの居城であった聖寿寺館(現在の青森県南部町)が家臣の謀反によって焼失したため、急遽移転した拠点であった 5 。馬淵川と熊原川に挟まれた天然の要害ではあったが、河岸段丘上に位置するため城下町を大規模に展開する余地が乏しく、拡大する南部氏の勢力圏全体を統治する政治・経済の中心地としては、その規模と機能に限界が見え始めていた 8

豊臣政権という「外圧」と地政学的変化

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐とそれに続く奥羽仕置は、東北地方の伝統的な権力秩序を根底から揺るがす地殻変動であった 2 。惣領の座にあった第26代当主・南部信直は、この中央からの「外圧」を、自らの権力基盤を強化するための好機と捉えた。彼は前田利家らを通じて巧みに豊臣政権とのパイプを築き、秀吉から直接所領を安堵されることで、一族内における惣領としての絶対的な権威を確立しようと画策する 1

しかし、この中央集権化の波は、南部氏の統制力を揺るがす事態も引き起こした。かねてより独立の気運が高まっていた大浦為信(後の津軽為信)は、信直に先んじて秀吉に謁見し、津軽地方の領有を公的に認められてしまう 1 。これにより南部氏は、長年の係争地であった津軽を失うという痛手を被った。このことは、信直にとって、旧来の緩やかな連合体という統治形態の限界を痛感させるとともに、より強固な領国支配体制の構築が急務であることを示す出来事であった。

これらの状況を俯瞰すると、九戸政実の乱の根源的な原因が浮かび上がってくる。この乱は、単なる惣領家への個人的な反乱ではなく、「南部一族連合体」という中世的な水平関係の権力構造が、豊臣政権という近世的な中央集権体制と接触した際に生じた、必然的な軋轢であった。信直が中央の権威を借りて、他の有力一族の上に立つ絶対的な支配者(近世大名)へと自己を変革しようとしたのに対し、九戸政実は伝統的な一族内の序列と独立性を守ろうとした。この両者のビジョンの衝突が、武力衝突という悲劇的な結末を迎えたのである。そして、この内乱の先にこそ、盛岡遷府という新たな構想が現実味を帯びてくる。領内の統制を強化し、中央政権に恭順の意を示すためには、旧来のしがらみが根強く残る三戸を離れ、全く新しい政治の中心地を創造する必要性を、信直は痛感していたに違いない。九戸政実の乱とその後の領土拡大は、その構想を実行に移すための、またとない口実と機会を提供することになるのである。


表1:三戸から盛岡への遷府に関連する主要年表(1590年~1633年)

西暦

和暦

中央政局の主要な出来事

南部氏の動向

関連人物

1590年

天正18年

小田原征伐、奥羽仕置

南部信直、小田原に参陣。秀吉から本領7郡を安堵される。大浦為信の津軽領有が確定。

豊臣秀吉、南部信直、大浦為信

1591年

天正19年

九戸政実の乱が勃発。信直、豊臣政権に救援を要請。豊臣軍の支援で乱を鎮圧。戦後、和賀・稗貫・閉伊郡を加増される。

九戸政実、蒲生氏郷、浅野長政

1592年

文禄元年

文禄の役(朝鮮出兵)開始

信直、肥前名護屋城に参陣。蒲生氏郷らの助言を受け、不来方(盛岡)への遷府を構想、整地を開始。

徳川家康、前田利家

1598年

慶長3年

豊臣秀吉、死去

信直、秀吉から築城許可を得る。嫡男・利直に命じ、盛岡城の築城を本格的に開始。

南部利直、北信愛

1599年

慶長4年

10月5日、南部信直が福岡城にて病没。利直が家督を継承し、第27代当主となる。

1600年

慶長5年

関ヶ原の戦い

利直、東軍に属し最上義光を支援。その隙に和賀忠親が岩崎一揆を起こす。

和賀忠親、伊達政宗

1601年

慶長6年

利直、岩崎一揆を鎮圧。新領地の支配を固める。

1603年

慶長8年

徳川家康、征夷大将軍に就任(江戸幕府開府)

盛岡城の普請を再開。

1615年

元和元年

大坂夏の陣、豊臣氏滅亡

盛岡城がほぼ完成。

1633年

寛永10年

第3代藩主・南部重直の代に盛岡城が全城竣工。正式に盛岡藩の居城となる。

南部重直


第一章:九戸政実の乱と奥州再仕置 – 領国再編の直接的契機

南部氏の領国構造を根底から変え、盛岡への遷府を決定的なものとした直接的契機は、天正十九年(1591年)に勃発した「九戸政実の乱」であった。この内乱は、南部一族の内部抗争であると同時に、豊臣政権による全国統一事業の最終段階に位置づけられる戦いでもあった。その帰結は、南部氏の領土を南方に大きく拡大させ、統治の重心を移動させることを不可避ならしめたのである。

天正十九年(1591年):九戸城の攻防

豊臣秀吉による奥羽仕置は、多くの東北の旧勢力にとって、所領の削減や改易という厳しい現実を突きつけるものであった。南部氏内部においても、惣領家である信直が中央政権と結びつくことで権力を強化していく様は、独立性の高い九戸政実にとって容認しがたいものであった 2 。秀吉政権の仕置に対する不満、そして信直への反発が結びつき、政実は周辺の反信直勢力を糾合して、ついに五千の兵で挙兵するに至る 2

この報に接した信直の対応は、極めて冷静かつ戦略的であった。彼は、この内乱を南部家内部の私闘として独力で鎮圧しようとはしなかった。それは、九戸氏の軍事力が強大であったことに加え、万が一鎮圧に手間取れば、自身の指導力に疑問符がつき、領内の他の不満分子が同調する危険性があったからである。信直は早々に自軍での対応を断念し、嫡男の利直らを秀吉のもとへ派遣して、豊臣政権に公式な救援を要請した 1 。この一手は、九戸政実の挙兵を「惣領家への反逆」から「豊臣政権の天下統一事業に対する反乱」へと問題を昇華させ、中央軍の介入を正当化する、極めて巧みな政治的判断であった。

信直の要請を受け、豊臣政権は迅速に反応した。関白・豊臣秀次を総大将に、徳川家康、蒲生氏郷、浅野長政といった歴戦の武将たちを中核とする、数万ともいわれる大軍が奥州に派遣された 1 。圧倒的な兵力差の前に、政実方は九戸城での籠城戦を余儀なくされる。奮戦したものの、多勢に無勢は明らかであり、最終的に政実は助命を条件とする開城勧告を受け入れ降伏するが、約束は反故にされ、一族郎党もろとも処刑された 10 。この九戸政実の乱の鎮圧をもって、豊臣秀吉の天下統一事業は名実ともに完成したのである。

戦後処理と新たな領国体制

九戸政実の乱における信直の「忠勤」は、豊臣政権から高く評価された。論功行賞として、信直は、先の奥羽仕置の際に改易された旧葛西・大崎氏の残党が引き起こした一揆に揺れていた和賀郡・稗貫郡、そして閉伊郡の支配を、秀吉から朱印状をもって正式に認められた 12 。これにより、南部氏の領国は南へ大きく拡大し、その石高は10万石に達した。

しかし、この輝かしい領土拡大は、同時に新たな統治上の課題を南部氏に突きつけることになる。本拠地である三戸城は、広大になった新領国の北西端に大きく偏ってしまったのである 12 。南の国境線は、奥州の独眼竜・伊達政宗の領地と直接境を接することになり、軍事的な緊張は一気に高まった 14 。この広大な領国を効率的に統治し、かつ最大の脅威である伊達氏に備えるためには、三戸城の位置はあまりにも不都合であった。

この状況を的確に把握していたのが、鎮圧軍の主将であった蒲生氏郷と浅野長政であった。彼らは戦後処理の一環として、九戸城を近世的な城郭に改修した後、信直に引き渡した 11 。信直はこれを受け、一時的に九戸城を「福岡城」と改名して本拠を移す 11 。さらに氏郷らは、信直に対し、領国の重心が南下した以上、本拠地そのものをより南方に移すべきであると強く助言した 11 。これは、豊臣政権が南部氏を、伊達政宗を北から牽制するための重要な駒と位置づけていたことの表れでもあった。

このように、盛岡遷府の直接的な原因は、九戸政実の乱後の領土拡大にある。しかし、その因果関係を深く探れば、信直自身の巧みな政治戦略が見えてくる。彼は「九戸政実の乱」という内乱を、豊臣政権を巧みに引き込むことで「公的な戦い」へと転化させた。その結果、論功行賞として南方の領地を獲得し、その統治のために遷府が「必要」になるという、いわば自ら作り出した状況であった。蒲生氏郷らによる九戸城の改修と、そこへの一時的な入城経験は、信直に旧来の山城とは異なる、石垣を多用した近世城郭の姿を具体的に示すものであり、来るべき新都・盛岡の城郭構想に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

第二章:新都の選定 – なぜ「不来方」の地であったのか

九戸政実の乱を経て、領国を南へ大きく拡大させた南部信直にとって、新たな本拠地の選定は喫緊の課題となった。数ある候補地の中から、最終的に「不来方(こずかた)」の地が選ばれたのは、単なる地理的な中心という理由だけではなかった。そこには、対伊達政宗という軍事的要請、北上川水運という経済的将来性、そして豊臣政権の意向という政治的配慮が重なり合った、極めて高度な戦略的判断が存在した。

中央政権からの助言と信直の決断

九戸政実の乱の鎮圧後、蒲生氏郷や浅野長政といった豊臣政権の重臣たちが、信直に本拠地の南遷を勧めたことは、新都選定の大きな後押しとなった 11 。彼らの助言は、単なる親切心から出たものではなく、豊臣政権の奥州支配戦略の一環であった。当時、奥州で最も警戒されていたのは、その野心と実力を隠さない伊達政宗であった。豊臣政権は、南部氏を伊達氏の北の抑えとして強化する必要性を認識しており、そのための拠点として、より伊達領に近い南方の地が望ましいと考えていたのである 14

信直は、この中央政権の意向を的確に読み取り、自らの構想と合致させた。彼は、新たに獲得した和賀・稗貫郡と、旧来からの本拠地である糠部郡の結節点に位置し、かつ伊達領への備えともなる不来方の地を、新時代の南部氏を象徴する拠点とすることを決断した。この決定は、文禄元年(1592年)には秀吉の内諾を得て、整地作業が開始されたと伝えられている 19

不来方の地勢的優位性

不来方が選ばれた理由は、政治的・戦略的なものだけではない。この地が持つ地理的・地勢的な優位性もまた、決定的な要因であった。

第一に、 天然の要害 としての防御能力の高さである。不来方は、雄大な北上川とその支流である中津川の合流点に形成された花崗岩の丘陵地であり、二つの川が天然の外堀として機能する、防御に極めて優れた地形であった 19 。この堅固な地勢は、大規模な城郭を築く上で理想的な条件を備えていた。

第二に、 交通の要衝 としての経済的なポテンシャルである。特に北上川の水運は、年貢米や物資を効率的に集積・輸送する上で計り知れない価値を持っていた 19 。これは、内陸の山城であった三戸城にはない大きな利点であり、新拠点を領国経済の中心地として発展させようとする信直のビジョンと合致していた。

第三に、 豊富な資源 の存在である。近世城郭の象徴ともいえる壮大な石垣を築くためには、大量の石材が必要となる。不来方の地は、良質な花崗岩が豊富に産出される場所であり、築城資材の調達が現地で可能であった 13 。このことも、この地が選定される上で重要な要素となった。

「不来方」から「盛岡」へ:新都市に込められたビジョン

新たな都として選ばれた不来方であったが、その地名には複雑な含意があった。「不来方」という名は、三ツ石神社に伝わる伝説で、悪さをした鬼が二度とこの地に来ないことを誓ったことに由来するとされる 22 。しかし、その文字面は「人が寄ってこない」とも解釈でき、新たな城下町を建設し、人々を集めて繁栄を目指す上で縁起が悪いと見なされた 15

そこで、築城にあたり地名の改称が行われた。当初は、周辺の地形から「森ヶ岡」と呼ばれ、それが「森岡」へと変化した 23 。そして最終的に、信直の子である利直の代に、「盛り上がり、栄える岡」という未来への願いを込めて「盛岡」という名が定められたと伝えられている 22

この地名変更は、単なる縁起担ぎに留まるものではない。それは、この地に残る古い豪族の記憶や伝説を一度リセットし、これより始まる南部氏による新たな支配と繁栄の時代を、領内外に力強く宣言する、象徴的な政治行為であった。新しい城、そして新しい名前。この二つをもって、領民の意識を刷新し、南部惣領家への求心力を高めようとする明確な意図がそこにはあったのである。三戸が内陸の守りを固める旧来の拠点であるとすれば、盛岡は経済と軍事を両立させ、領国の内外に開かれた新時代の拠点として、その誕生の瞬間から明確に位置づけられていたのだ。

第三章:慶長四年(1599年)の動乱 – 信直の死と利直の継承

慶長三年(1598年)、南部信直は豊臣秀吉から正式な築城許可を得て、新都建設という壮大なプロジェクトを本格的に始動させた 26 。京都にいた信直は、本国にいる嫡男・利直に築城を命じ、不来方の地では普請奉行・内堀伊豆の指揮のもと、整地や縄張りが開始された 16 。しかし、この「百年の計」ともいうべき事業が緒に就いた矢先、南部家は最大の危機に見舞われる。慶長四年(1599年)、プロジェクトの最高指導者であり、南部家「中興の祖」と称された信直が、志半ばでこの世を去ったのである。この年は、指導者の死と若き後継者による継承が交錯する、南部家の歴史における激動の一年となった。

慶長三年(1598年):築城事業の開始

築城が始まった当時、信直の健康状態は決して万全ではなかった。晩年の彼は中風を患っており、秀吉への拝謁や朝鮮出兵への従軍のために上洛・西下する際にも、その身体は大きな負担を強いられていた 26 。自らの死期をある程度予感していた信直が、後継者である利直の代に事業を託すべく、その開始を急がせた可能性は高い。彼は、自らが描いた新時代の南部領国の青写真を、完成を見ずとも、せめて軌道に乗せることだけは果たしておきたいと願っていたのかもしれない。

慶長四年(1599年):激動の一年

明けて慶長四年、盛岡の地では槌音が高まり、新たな城と町の輪郭が徐々に姿を現し始めていた。その一方で、信直は九戸政実の乱後に本拠としていた福岡城(旧九戸城)で、病の床に就いていた。

年の初めから秋にかけて、信直の病状は一進一退を繰り返したとみられる。彼は死の直前まで政務への関心を失わず、長女に宛てた手紙の中では「大事ない」と気丈に振る舞い、「海藻が食べたくなったので、ワカメや昆布を確保して欲しい」と具体的な要求をするなど、回復への意欲さえ見せていた 26 。しかし、病魔は着実に彼の体を蝕んでいった。

そして、 十月五日、南部信直は福岡城にて、波乱に満ちたその生涯を閉じた 10 。享年54。彼が心血を注いだ盛岡城の完成を見ることなく、その目は永遠に閉じられたのである 29 。絶対的な指導者の死という報は、建設途上の盛岡、そして領内全域に大きな衝撃と動揺をもたらした。

父の死を受け、当時24歳(満年齢23歳)の南部利直が、第27代当主として家督を継承した 29 。しかし、若き新当主が直面した現実は、あまりにも過酷であった。

第一に、父・信直という絶対的な権威の喪失による家臣団の動揺である。信直は、巧みな政治手腕で分裂しがちだった南部一族をまとめ上げ、豊臣政権との関係を構築したカリスマであった。その重石が失われた今、家臣団の結束をいかに維持するかは、利直にとって最大の課題であった。

第二に、始まったばかりの盛岡城築城事業の継続という重責である。これは莫大な費用と労力を要する巨大プロジェクトであり、その実現性を疑問視する声や、負担に反発する声が家臣団や領民の中から上がる可能性も否定できなかった。

第三に、風雲急を告げる中央政局への対応である。前年に豊臣秀吉が死去して以来、天下の実権は急速に徳川家康へと傾斜しつつあった 14 。父・信直も晩年には家康への接近を図っていたが、この流れを的確に見極め、南部家の生き残りを賭けた外交判断を下す必要があった。

内憂外患が山積する中、利直は断固たる決意を示す。父の遺志を継ぎ、盛岡城の築城と城下町の整備を断行することを内外に宣言し、家臣団の結束を図ったのである 29

1599年の危機は、単なる指導者の交代劇ではなかった。それは、南部家が「戦国大名」から「近世大名」へと移行する、最も脆弱な過渡期に発生した断絶の危機であった。信直という「旧体制の集大成」が、新体制の象徴である盛岡城が形を成す前に世を去り、利直という「新体制の創始者」が、父の描いた壮大な青写真だけを手に、巨大な負債と不確定な未来を一身に背負うことになったのである。この時、利直の成功は彼一人の力量にのみかかっていたわけではない。信直の側近として、城下町の「五ノ字」割りを献策したとされる重臣・北信愛のような存在が、若き主君を支え、政策の継続性を担保した 32 。信直が遺したビジョンと、それを実現するための人材。この二つの遺産こそが、利直がこの未曾有の危機を乗り越えるための礎となったのである。

第四章:盛岡城と城下町の建設 – 百年の計の始動

南部信直の死という大きな試練を乗り越え、家督を継承した南部利直は、父の遺志である新都・盛岡の建設を強力に推進した。慶長四年以降、利直の指導の下で進められた盛岡城と城下町の建設は、単なる土木事業ではなく、近世大名・南部氏の権威を確立し、新たな領国支配体制を構築するための壮大な国家プロジェクトであった。その縄張りや石垣技術、そして計画的な都市設計には、新時代の統治にかける南部氏の明確な思想が込められていた。

盛岡城の縄張りと石垣技術

盛岡城の築城は、慶長三年(1598年)の着手から、三代藩主・南部重直の代の寛永十年(1633年)に全城が竣工するまで、約35年もの歳月を要する一大事業となった 16

その縄張りは、丘陵の南端に本丸を置き、北に向かって二の丸、三の丸を直線的に配置する「連郭式」を基本としていた 35 。城全体が花崗岩の石垣で囲まれた「総石垣造り」であり、その壮麗な姿は、東北地方では会津若松城、白河小峰城と並び称されるほどであった 34

特筆すべきは、その石垣技術の多様性である。築かれた時期によって工法が異なり、築城初期に積まれたとみられる自然石をそのまま用いた「野面積み」から、石の接合面を加工して隙間を減らした、より高度な「打込み接ぎ」まで、様々な技法を見ることができる 21 。これは、九戸政実の乱の際に蒲生氏郷ら西国の大名から学んだ先進技術を、南部氏が時間をかけて消化し、独自の技術へと発展させていった過程を物語っている 18 。特に二の丸北西部に築かれた高さ約14メートルに及ぶ高石垣は圧巻であり、水害に備えるという実用的な目的とともに、南部氏の権威を誇示する役割も担っていた 35

築城に際しては、興味深い逸話も残されている。城内の地を掘り下げた際に、どうしても掘り起こすことのできない巨大な岩(烏帽子岩)が出現した。人々はこれを神の宿る「宝大石」として崇め、城の守り神としたという 17 。この伝説は、巨大な自然と対峙しながら進められた築城工事の困難さと、それに対する人々の畏敬の念を今に伝えている。

「五ノ字」の都市計画:城下町の形成

盛岡城の建設と並行して、城下町の整備も計画的に進められた。その都市計画の根幹をなしたのが、重臣・北信愛の献策によるものと伝えられる「五ノ字」型の町割りである 19 。これは、漢字の「五」の字のように、見通しの利かないT字路を意図的に多用する設計であった。敵が城下に侵入した際に方向感覚を失わせ、進軍を妨害するという、極めて軍事的な意図に基づいた都市計画であった。

町割りは、厳格な身分制度を反映していた。城を中心とした同心円状に居住区が配置され、最も内側の第一圏には禄高五百石以上の上級武士、その外側の第二圏には商人や職人、さらに外側の第三圏には五百石未満の一般武士や足軽が住まわされた 19 。これは、家臣団を城下に集住させ、藩主の直接的な管理下に置くことで、強力な中央集権体制を確立しようとするものであった。それまで各地の城館に拠って半独立的な力を持っていた家臣たちのあり方を根本から変え、南部領全体の社会構造を再編するプロセスでもあった。

新都市の経済を活性化させるため、商人や職人の誘致も積極的に行われた。旧本拠地の三戸や、秋田の仙北地方などから商人たちが移住させられ、彼らの出身地名がそのまま「三戸町」や「仙北町」といった町名となった 19 。これにより、盛岡は早い段階から商業の中心地としての機能を備えていった 19

巨大事業を支えた経済基盤

この壮大な城と城下町の建設を財政的に支えたのは、領内で産出される豊富な資源であった。特に、初代藩主となった利直は領内の金山開発に極めて積極的であり、鹿角の白根金山をはじめとする鉱山からの収入が、初期の藩財政を大いに潤した 41

また、古くからの馬産地としての伝統も重要な財源となった。南部馬は名馬として知られており、その交易は藩の経済を支える大きな柱の一つであった 41

盛岡城の壮大な石垣と、計画的に整備された城下町は、単なる居住・防御施設ではなかった。それは、南部氏が獲得した新たな権威と、それを裏付ける経済力を、領内外に誇示するための「見せるための装置」であった。特に、それまで東北では珍しかった総石垣の巨大城郭を北奥の地に築き上げたこと自体が、南部氏がもはや地方の豪族連合の盟主ではなく、天下の公儀と通じる近世大名であることを、誰の目にも明らかな形で宣言する行為だったのである。

第五章:試練の継承 – 関ヶ原の戦いと岩崎一揆

慶長四年(1599年)の南部信直の死と、それに伴う盛岡遷府事業の開始という内憂は、南部家にとって大きな試練であった。しかし、その動揺が収まらぬうちに、今度は天下の情勢が激変し、巨大な外患が南部領を襲う。慶長五年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いと、それに呼応して起きた岩崎一揆である。家督を継いだばかりの若き当主・南部利直は、この内外の危機に同時に直面することになった。しかし、この試練を乗り越えたことこそが、利直の指導力と新体制の正統性を確立する上で、決定的な意味を持つことになるのである。

慶長五年(1600年):天下分け目の選択

豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成の対立が先鋭化し、ついに天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、全国の諸大名は東軍につくか、西軍につくかの選択を迫られた。この重大な局面において、南部利直は、父・信直が晩年に家康へ接近していた路線を継承し、迷わず東軍に与することを表明した 16

利直は家康の命令を受け、会津の上杉景勝を牽制するため、隣国の最上義光を支援すべく、主力を率いて出羽国(現在の山形県)へと出陣した 29 。これは、新当主として徳川方への忠誠を明確に示すための、重要な軍事行動であった。

岩崎一揆の勃発:新領地の反乱

しかし、利直が軍勢を率いて領内を留守にした、まさにその隙を突いて、南部領内で大規模な反乱が勃発する。先の奥州仕置によって所領を没収された旧和賀氏の当主・和賀忠親が、伊達政宗の陰の支援を受け、旧領である和賀郡で一揆の旗を揚げたのである 47

和賀氏は、この地の旧領主であり、南部氏による新たな支配に対して強い反感を抱く者たちが数多く存在した。忠親はこれらの旧家臣や不満分子を糾合し、南部氏の拠点である花巻城(旧鳥谷ヶ崎城)を攻撃するなど、瞬く間に勢力を拡大した 47 。この「岩崎一揆」は、南部氏の支配がまだ盤石でなかった新領地の脆弱性を露呈させるとともに、盛岡への遷府と新体制の構築に対する、旧勢力からの根強い抵抗の表れであった。

一揆鎮圧と伊達政宗との暗闘

関ヶ原の本戦がわずか一日で東軍の圧勝に終わると、利直はすぐさま軍を返し、領内の反乱鎮圧に取りかかった。翌慶長六年(1601年)春、雪解けを待った利直は、自ら四千五百の兵を率いて福岡城を出陣。一揆勢が籠る拠点・岩崎城(現在の岩手県北上市)を包囲し、これを攻略して一揆を完全に鎮圧した 46

この一揆の背後で、和賀忠親を扇動し、武器や兵糧を援助していたのが伊達政宗であったことは、戦後、徳川家康の知るところとなった。政宗は、この「南部領内での一揆扇動」が咎められ、関ヶ原の戦功によって約束されていた「百万石のお墨付き」を反故にされることになる。結果として、南部氏は最大のライバルである伊達氏のさらなる勢力拡大を、間接的にではあるが阻止することに成功した。

利直にとって、家督相続直後に発生した関ヶ原の戦いと岩崎一揆の連鎖は、まさに南部家の存亡を揺るがす危機であった。しかし、彼はこの二つの危機を巧みに乗り切ることで、結果的に自らの立場を飛躍的に強化することに成功した。第一に、東軍の勝利側に立つという正しい政治判断によって、新たに始まる徳川幕藩体制下での南部家の地位を安堵させた 16 。第二に、自らの指揮で大規模な反乱を鎮圧することで、家臣団に対して武威と指導力を示し、若き当主としての求心力を確立した。そして第三に、伊達政宗の野心を挫く一助となり、徳川政権にとっての「北の守り手」としての存在価値を認めさせたのである。

この一連の出来事を通じて、利直は単なる「信直の子」から、名実ともに「盛岡藩初代藩主」へと成長を遂げた。そして皮肉なことに、岩崎一揆の発生は、和賀・稗貫という広大で不安定な新領地を直接統治する必要性を改めて浮き彫りにした。北の三戸からでは、これほど迅速な軍事行動は困難であっただろう。この事件は、領国南部に強力な政治・軍事拠点を置くという、盛岡遷府の戦略的な正しさを、図らずも証明する結果となったのである。

終章:盛岡遷府の歴史的意義 – 近世盛岡藩の礎

慶長四年(1599年)に始まり、数々の試練を乗り越えながら数十年の歳月をかけて完遂された「三戸から盛岡への遷府」は、南部氏の歴史、ひいては北奥羽の歴史における決定的な転換点であった。この事業は、単に拠点を移したという物理的な変化に留まらず、南部氏の政治体制、領国の社会経済構造、そして地域の文化的景観を根本から作り変える、深遠な意義を持っていた。

近世大名・南部氏の確立

盛岡遷府がもたらした最大の成果は、南部氏が中世的な豪族連合体から、藩主を頂点とする中央集権的な支配機構を持つ「近世大名」へと完全に脱皮したことである。壮大な盛岡城の築城と、家臣団を集住させた計画的な城下町の建設は、藩主の権威を絶対的なものとして可視化する装置として機能した。各地に割拠していた一族や家臣は、城下での序列の中に組み込まれ、藩主への奉公を義務づけられる官僚的な存在へと変質していった。この強固な支配体制の確立こそが、南部氏が盛岡藩として約270年間にわたる泰平の世を存続させ得た最大の要因であった。盛岡城と城下町は、幕末に至るまで、南部氏による支配の揺るぎない象徴であり続けたのである 15

北奥羽における新たな中心地の誕生

盛岡遷府は、北東北の地域構造にも大きな変化をもたらした。それまで糠部郡の三戸や八戸が中心であった南部領内に、新たに盛岡という強力な政治・経済・文化の中心地が誕生した。北上川水運の結節点に位置する盛岡は、領内各地から物資と人が集まる一大拠点として発展し、その都市構造の骨格は、明治維新を経て県庁所在地となった後も、現代の盛岡市にまで色濃く受け継がれている 50 。この遷府は、南部領内の人や物の流れを大きく変え、結果として、三戸・八戸を中心とする北部の文化圏と、盛岡を中心とする中南部の文化圏という、二つの核を持つ重層的な地域構造を生み出すきっかけとなった。

現代への継承

かつて南部氏の権威の象徴であった盛岡城は、明治維新後に建物が取り壊されたものの、その壮大な石垣は今なお往時の姿を留めている。現在、城跡は「盛岡城跡公園」として市民に親しまれ、四季折々の美しい景観を見せている 16 。この石垣の一つ一つが、戦国の世の終わりから近世の夜明けへと向かう激動の時代に、一族の未来を賭して新都建設に挑んだ南部信直・利直父子の決断と、それに従った名もなき人々の労苦の記憶を、雄弁に物語っている。

石川啄木が「不来方のお城の草に寝ころびて 空に吸われし 十五の心」と詠んだように、盛岡城跡は時代を超えて人々の心に寄り添い、地域のアイデンティティを形成する上で重要な役割を果たし続けてきた 17 。三戸から盛岡への遷府という歴史的事業は、単なる過去の出来事ではなく、現代に生きる我々が自らの暮らす都市の成り立ちや、地域の歴史的個性を考える上で、今なお豊かな示唆を与え続けているのである。

引用文献

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