最終更新日 2025-09-16

上杉謙信死去(1578)

天正6年、軍神上杉謙信が急逝。後継者未指名により御館の乱が勃発し、上杉家は衰退。武田勝頼の外交的失策を誘発し、織田信長の天下統一を加速させた、戦国史の転換点。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天正六年、龍の死 ― 上杉謙信の急逝が変えた戦国史

序章:天下揺るがす、越後の龍 ― 天正五年(1577年)の情勢

天正6年(1578年)3月、越後国春日山城にてもたらされた一つの死は、単なる一個人の終焉に留まらず、戦国時代の勢力図を根底から覆す巨大な転換点となった。「軍神」と畏怖された上杉謙信の急逝である。この事変の歴史的意義を理解するためには、まずその直前、謙信が生涯における権勢の頂点を極めていた天正5年(1577年)の政治・軍事状況を把握する必要がある。

手取川の勝利と謙信の威勢

天正5年(1577年)、上杉謙信の武威は天下に轟いていた。長年にわたる越中・能登への軍事行動は結実し、能登の拠点である七尾城を攻略 1 。これに対し、織田信長は能登の畠山氏からの救援要請に応じ、柴田勝家を総大将とする数万の大軍を北陸へ派遣した 1 。同年9月、両軍は加賀国手取川で激突する。この手取川の戦いにおいて、謙信は織田軍に圧勝した 2 。この勝利は、織田軍の北陸方面への進出を完全に頓挫させ、破竹の勢いであった信長の勢力拡大に初めて明確な「否」を突きつけたものであった。戦後、謙信が家臣に対し「“魔王”などというから、如何ほどのものかと思ったら。存外たいしたことはなかった」と述べたと伝えられる逸話は、信長に対する謙信の強い自信と、当時の軍事的な優位性を象徴している 4

第二次信長包囲網の中核として

この軍事的成功は、政治的にも大きな意味を持っていた。当時、織田信長は天正3年(1575年)の長篠の戦いで武田勝頼に大勝し、天正4年(1576年)には天王寺の戦いで石山本願寺勢を破るなど、敵対勢力を着実に排除しつつあった。このような状況下で、信長に追放され、西国で毛利輝元の庇護下にあった将軍・足利義昭は、信長打倒の夢を諦めていなかった。義昭は再三にわたり謙信に上洛を要請し、幕府再興の望みを託していた 1

謙信もこの動きに呼応する。天正4年(1576年)5月、長年敵対してきた石山本願寺の顕如と講和を成立させた 1 。これにより、西の毛利、畿内の本願寺、そして東の上杉という、信長にとって致命的となりうる広域包囲網が形成されたのである。この反信長連合において、手取川で織田の大軍を撃破した謙信の存在は、単なる一勢力ではなく、連合全体の軍事的な支柱であり、信長に対抗しうる「最後の切り札」と見なされていた。謙信の死がもたらした衝撃の大きさは、彼が軍事的に絶頂期にあったという事実だけでなく、この信長包囲網という政治的構造そのものを崩壊させるものであった点に起因する。

北陸平定と次なる大遠征計画

越中を完全に平定し、能登も手中に収めた謙信は、天正5年(1577年)12月18日に春日山城へ凱旋すると、間髪入れずに次なる行動を開始した。同年12月23日、翌春の大規模遠征に向けた動員令を発したのである 1 。出陣予定日は天正6年3月15日と定められた。この遠征の目標が、関東へ再度侵攻し北条氏を討つことであったか、あるいは義昭の要請に応えて上洛し、信長と天下の雌雄を決することであったかについては、史料が乏しく断定はできない。しかし、いずれにせよ、それは戦国史の行方を左右する一大事業であったことは疑いようがない。

この大規模な軍事行動を支えたのが、安定した国内統治であった。謙信は単なる軍略家ではなく、優れた統治者でもあった。検地を実施して徴税制度を整備し、恣意的な徴税を防ぐことで民生の安定を図り、凶作の際には年貢を減免するなど、公正な統治を心掛けていた 5 。これにより、大規模な遠征を可能とする国力が維持されていたのである。軍事、政治、内政の全てにおいて、この時点の謙信はまさにその生涯における権勢の頂点に立っていた。

第一章:巨星墜つ ― 天正六年三月、春日山城の五日間

天下統一の行方を左右する大遠征を目前に控えた天正6年(1578年)3月、春日山城を突如として悲劇が襲う。越後の龍、上杉謙信のあまりにも突然の死であった。その発病から死去に至るまでのわずか五日間は、謎と混乱に満ちており、その後の上杉家の運命を決定づけることとなる。

三月九日:運命の日

遠征準備に追われる春日山城内は、緊張と高揚に包まれていたはずである。しかし、天正6年3月9日の昼、事態は一変する。謙信が城内で突如倒れたのである 2 。上杉家の公式記録である『謙信公御年譜』には、「三月九日ノ午刻、管領(謙信)卒中風(脳卒中)煩セ玉イ、忽チ困倒シテ人事ヲ顧ミ玉ハス」と記されており、謙信が意識不明の重体に陥ったことがわかる 6 。遠征開始予定日のわずか6日前の出来事であった 1

発作の現場と死因を巡る論争

謙信が倒れた場所と直接の死因については、後世、様々な説が唱えられ、歴史学上の論点となっている。

通説(厠・脳溢血説):

最も広く知られているのは、城内の厠(かわや、トイレ)で倒れ、死因は脳溢血であったとする説である 3。この説の主な根拠とされるのが、江戸時代に成立した軍記物『甲陽軍鑑』にある「寅の三月九日に謙信閑所にて煩出し、五日煩い」という記述である 8。この「閑所」を「厠」と解釈し、謙信が大酒飲みであったという逸話と結びつけ、まだ寒さの残る3月の気温差が血圧の急上昇を招き、脳卒中を引き起こしたというシナリオである 8。これは現代医学の見地からも十分に考えられる状況であり、長らく通説として受け入れられてきた。

新説(書斎・腹痛説):

しかし近年、この通説に対して有力な異論が提出されている。歴史家の乃至政彦氏らは、『甲陽軍鑑』の史料的価値や「閑所」という言葉の解釈に疑問を呈し、一次史料を精査した結果、謙信の病状は「腹痛」であり、倒れた場所も厠ではなく書斎であった可能性を指摘している 6。当時の史料には、謙信が「虫気(ちゅうき)」で倒れたとするものがある。「虫気」とは、腹部の激痛を伴う病の総称であったり、当時は原因が不明であった脳内の病を指したりすることもあった 10。この説は、厠で倒れたという劇的な逸話よりも、史料に基づいたより現実的な解釈を提示している。

三月九日~十二日:昏睡と権力の空白

いずれの説が正しいにせよ、確かなことは謙信が倒れた後、意識が回復することなく昏睡状態が続いたという事実である 1 。当主の危篤という異常事態に、春日山城内は騒然となったであろう。後継者と目されていた二人の養子、上杉景勝と上杉景虎、そして彼らを支持する家臣団は、謙信の回復を祈りつつも、万一の事態に備え、水面下で情報収集と支持固めに動いていたと推察される。この数日間は、上杉家にとって極度の緊張をはらんだ権力の空白期間であった。

三月十三日:龍の昇天

家臣たちの必死の看病も及ばず、倒れてから四日後の3月13日、未の刻(午後2時頃)、上杉謙信は息を引き取った。享年四十九 1 。あまりにも早すぎる死であった。

四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒 2

この辞世の句は、戦いに明け暮れたその生涯を自ら総括したものとして、後世に伝えられている。

遺言の有無を巡る謎

謙信の死がもたらした最大の混乱は、後継者を明確に指名した公式な遺言が存在しなかったことに起因する 11 。生涯独身であった謙信には実子がおらず、養子である甥の上杉景勝と、北条家から迎えた上杉景虎の二人が後継者候補であった。どちらを後継者とするか明確に定めないまま当主が急逝したことが、後の「御館の乱」と呼ばれる骨肉の争いの直接的な原因となった。

ただし、遺言が全くなかったわけではないとする見方もある。一部の史料には、謙信が倒れた後、意識が混濁する中で景勝に対し「御実城(みじょう、春日山城の本丸)へ入るよう要請し」、家臣たちに形見分けを指示したという記録が存在する 13 。これが事実であれば、謙信には景勝を後継者とする意図があった可能性が考えられる。しかし、この指示が家臣団全体に共有された公式なものではなく、景勝とその周辺のみに伝えられたものであったため、景虎方にとっては到底受け入れられるものではなかった。

結局のところ、死因が脳卒中であれ腹痛であれ、重要なのは「謙信が誰もが納得する形で後継者を指名する時間的・身体的余裕なく死んだ」という事実そのものである。この情報の「曖昧さ」こそが、単なる史実の欠落ではなく、後継者争いの当事者たちが自らの正当性を主張するために利用した「政治的空間」となった。景勝派は「謙信の遺志」を掲げ、景虎派は「そのような遺言はない」と主張する。この解釈の余地が、両派に「自分たちこそが正統な後継者である」と主張させ、最終的に武力衝突を不可避にしたのである。


【表1:謙信死去から御館の乱終結までの詳細年表】

年月日

上杉家(景勝方・景虎方)の動向

織田家の動向

武田家の動向

北条家の動向

天正5年 (1577)

9月

謙信、手取川の戦いで織田軍に大勝。

柴田勝家率いる北陸方面軍が上杉軍に大敗、越前へ撤退 14

12月23日

謙信、春日山城にて翌春の大規模遠征の動員令を発す 1

天正6年 (1578)

3月9日

謙信、春日山城内で倒れ、意識不明となる 15

3月13日

謙信、死去(享年49) 15

3月15日

謙信の葬儀が執り行われる 1

3月24日

景勝、「謙信の遺言」を名目に春日山城本丸、金蔵、兵器蔵を掌握 12

謙信の死を好機と捉え、斎藤利治らを越中へ侵攻させる 16

5月5日

景勝方と景虎方が大場(上越市)で初の武力衝突 15

5月13日

景虎、春日山城を退去し、御館(上杉憲政邸)へ移る 15

5月

氏政、弟・景虎支援のため北条氏照・氏邦らを越後国境へ派遣するも、関東での佐竹氏との対陣で大規模な派兵はできず 19

6月初旬

景勝、武田勝頼に使者を送り、黄金と領土割譲を条件に同盟を申し入れる 15

景勝からの同盟申し入れを受け、景虎支援(北条との同盟維持)か景勝支援(実利獲得)かの選択を迫られる 20

6月

景勝、武田勝頼と和睦(甲越同盟)を成立させる 15

勝頼、景勝との同盟を締結。甲相同盟は事実上破綻。

6月下旬

勝頼、景勝・景虎間の和睦調停を名目に越後へ出兵。景勝方を実質的に支援 15

8月下旬

一時的な和睦が成立するも、まもなく破綻 15

氏政、上野へ出陣し、武田領を牽制 15

天正7年 (1579)

2月1日

景勝、御館への総攻撃を命令 18

3月17日

御館が陥落。

3月24日

景虎、逃亡先の鮫ヶ尾城にて裏切りにあい、妻子と共に自害 22


第二章:龍の不在 ― 後継者たちの激突「御館の乱」

謙信という絶対的な権威とカリスマを失った上杉家は、統制を失い、内乱の渦へと飲み込まれていく。謙信の死からわずか11日後には、後継者候補の一人である上杉景勝が実力行使に打って出て、骨肉の争い「御館の乱」の火蓋が切られた。

三月十三日~二十四日:景勝の電光石火

謙信の死後、上杉景勝の行動は驚くほど迅速かつ的確であった。3月13日に謙信が死去し、3月15日に葬儀が執り行われると 1 、景勝はすぐさま行動を開始する。3月24日、景勝は「謙信公の遺言である」と称し、春日山城の中枢である本丸(実城)を占拠した 12 。さらに、上杉家の財政基盤である金蔵と、軍事力の源泉である兵器蔵をも完全に掌握したのである 12 。これは、単なる城内の一区画の確保ではない。上杉家の正統な後継者としての地位、財政的裏付け、そして軍事指揮権の三つを同時に掌握する、極めて戦略的な行動であった。これにより、景勝は後継者争いにおいて圧倒的な先手を取ることに成功し、自らが謙信の後継者であるという既成事実を内外に示した。

四月~五月:対立の顕在化

謙信の死の直後、景勝と景虎は共に春日山城内に居住していたとされる 15 。しかし、景勝による城内中枢の電撃的な掌握を受け、景虎の立場は急速に悪化する。身の危険を感じたか、あるいは景勝への対抗姿勢を明確にするためか、景虎は5月13日、城下にある前関東管領・上杉憲政の屋敷、通称「御館(おたて)」へと移った 15 。この「御館」が、後に内乱の名称の由来となる。

景虎の御館への移転は、両者の対立がもはや交渉の余地のない、武力衝突を前提としたものであることを意味した。これを機に、越後の国人領主たちは景勝派と景虎派への旗幟を鮮明にすることを迫られ、家中は完全に二分された。そして、5月5日には両派の軍勢が春日山城近郊の大場(現在の上越市)で衝突し、内乱の最初の戦端が開かれた 15

両陣営の支持基盤

御館の乱は、単なる「血縁の景勝」対「閨閥の景虎」という単純な後継者争いではなかった。それは、謙信がそのカリスマで抑え込んできた、上杉家臣団内部に潜在していた「派閥抗争」が一気に噴出したものであった。

上杉景勝方:

景勝は謙信の実姉・仙桃院の子であり、長尾上杉家にとって最も近い血縁者であった。この血統的な正当性は、彼の最大の強みであった。彼の支持基盤の中核を成したのは、直江兼続らに代表される、謙信の旗揚げ以来の譜代の家臣団である上田衆や、謙信政権の中枢を担ってきた側近グループであった。彼らにとって、外部から来た景虎が当主となることは、自らの影響力の低下に直結するものであり、景勝を担ぐことは派閥全体の利害を守るための必然的な選択であった。

上杉景虎方:

一方の景虎は、関東の覇者・北条氏康の実子であり、かつて上杉と北条が結んだ「越相同盟」の証として上杉家の養子となった人物である 1。謙信は景虎を大いに気に入り、自らの初名である「景虎」を与えて厚遇したと伝えられる 1。彼の強みは、この謙信の寵愛と、背後に控える北条家という強力な軍事・外交的後ろ盾であった。越後国内では、北条氏と地理的に近い上野国境周辺の武将や、謙信政権下で必ずしも主流ではなかった勢力、そして景勝を担ぐ譜代家臣団の台頭を快く思わない勢力が彼を支持した 24。

このように、御館の乱の対立軸は、単なる個人の資質や血縁関係に留まらず、上杉家臣団内部の力学、すなわち「譜代・中央派閥」対「新興・国境地帯派閥」という構造的な対立を内包していた。謙信の死は、この潜在的な亀裂を顕在化させ、修復不可能な内乱へと発展させる引き金となったのである。


【表2:御館の乱における上杉景勝・景虎 両陣営の比較】

項目

上杉 景勝

上杉 景虎

出自

長尾政景の子(謙信の甥)

北条氏康の七男(異説あり)

年齢(乱当時)

24歳

25歳

血縁的背景

謙信の実姉の子であり、長尾上杉家の血を引く。血統的正当性が高い。

越相同盟の証として上杉家の養子となる。北条家の血を引く。

主な支持勢力

上田衆: 直江兼続、斎藤朝信など謙信譜代の家臣団が中核。 揚北衆: 新発田重家、五十公野信宗など(当初)。 その他: 謙信政権の中枢を担った側近グループ。

譜代衆の一部: 柿崎晴家、本庄秀綱など。 国境地帯の国人: 北条高広、上条政繁など上野・信濃国境の武将。 その他: 景勝派の台頭を警戒する勢力。

外交的背景

当初は孤立していたが、武田勝頼と「甲越同盟」を締結し、強力な後ろ盾を得る。

実家である相模北条家が最大の支援勢力。武田勝頼も当初は景虎支援を検討。


第三章:越後の悲劇、周辺大名の暗躍

越後国内で始まった後継者争いは、瞬く間に周辺の大大名を巻き込む国際紛争へと発展した。上杉家の内乱は、北条、武田、そして織田という各勢力にとって、自らの勢力圏を拡大、あるいは防衛するための絶好の機会、もしくは最大の危機として捉えられた。彼らの思惑と暗躍が、御館の乱の行方を大きく左右することになる。

北条氏政の苦境

弟である上杉景虎が後継者争いに臨む以上、北条氏政が彼を支援するのは当然のことであった。景虎が勝利すれば、越後は事実上北条家の影響下に置かれ、関東における北条家の覇権は盤石なものとなる。しかし、氏政は深刻なジレンマに陥っていた。当時、北条家は常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏といった反北条連合と関東で激しく対陣中であり、大規模な援軍を越後へ即座に派遣する余裕がなかったのである 19 。氏政は弟の救援と、関東の戦線維持という困難な二正面作戦を強いられた。5月には弟の氏照・氏邦らを越後国境へ派遣するものの、それは限定的な支援に留まり、戦局を覆すには至らなかった 19

武田勝頼の天秤 ― 戦国史の決定的な選択

北条氏政が有効な手を打てずにいる中、事態の鍵を握る存在として浮上したのが、甲斐の武田勝頼であった。北条家と同盟関係(甲相同盟)にあった勝頼に対し、氏政は景虎への支援を要請した 20 。勝頼にとっても、景虎が勝利すれば、かつての甲・相・駿三国同盟に代わる、武田・北条・上杉の新たな三国同盟が成立し、西から迫る織田信長に対抗する上で極めて有利な戦略的環境が生まれるはずであった。

しかし、まさにその時、窮地に立たされた上杉景勝方から、勝頼に対して破格の条件での同盟が密かに持ちかけられた。その条件とは、以下の二点であった。

  1. 黄金の進上: 一説には一万両ともいわれる莫大な黄金を武田家に譲渡する 21
  2. 領土の割譲: 武田家が信玄の代から悲願としてきた、上野国沼田領と信濃国北部の飯山領を割譲する 21

この提案は、長篠の戦い以降、財政的に苦しんでいた勝頼にとって、抗いがたい魅力を持つものであった。同盟者である北条家との信義を守り、将来の戦略的利益を取るか。それとも、目先の莫大な実利を選び、長年の宿敵と手を結ぶか。勝頼は、戦国史の行方を左右する重大な選択を迫られた。

甲越同盟の成立と甲相同盟の崩壊

天正6年(1578年)6月、武田勝頼は決断を下した。彼は目先の巨利を選び、上杉景勝との和睦、すなわち「甲越同盟」を締結したのである 15 。これは、長年の宿敵であった上杉家と手を結び、同盟者であった北条家を裏切るという、外交上の大転換であった。勝頼は、表向きは景勝・景虎間の和睦を調停するという名目で越後へ軍を進めたが、その実態は景勝方を支援し、景虎方を軍事的に圧迫するものであった 21

この勝頼の選択は、戦国時代後期における最も致命的な戦略的判断ミスであったと言わざるを得ない。この決定は、北条氏との同盟関係を完全に破綻させた 27 。結果として、武田家は西の織田・徳川、東の北条という二大勢力に挟撃される、絶望的な地政学的状況に自らを追い込むことになった。天正10年(1582年)の甲州征伐の際、もし甲相同盟が維持されていれば、北条家は武田の防波堤となったか、少なくとも織田方に積極的に加担することはなかったであろう。しかし、御館の乱での裏切りにより、北条家は武田家を見捨て、織田・徳川連合軍の一翼を担うことになる。多くの武田旧臣が、武田滅亡の真の原因を長篠の戦いではなく「北条氏との手切れ」にあると認識していた 27 のは、この外交的孤立がもたらした帰結の重大さを物語っている。謙信の死が引き起こした越後の内乱が、巡り巡って武田家の命運を決定づけたのである。

織田信長の動向

一方、天下布武を進める織田信長にとって、謙信の死とそれに続く上杉家の内乱は、まさに天佑であった。最大の脅威であった謙信が戦うことなく消え、その後継者たちが内戦で共倒れを演じている。この好機を信長が見逃すはずはなかった。謙信の死の報を受けるや否や、信長は斎藤利治らを越中へ侵攻させ、上杉家が混乱している隙を突いて、手取川の敗戦で失った北陸での勢力回復を着々と進めていった 14

第四章:乱の終結と上杉家の凋落

外部勢力の介入により、御館の乱の趨勢は決した。武田勝頼という強力な後ろ盾を得た上杉景勝方が圧倒的優位に立ち、上杉景虎方は滅亡への道を突き進むこととなる。しかし、その勝利の代償はあまりにも大きく、上杉家は謙信時代に築き上げた栄光を失い、長い凋落の時代へと入っていく。

景虎方の劣勢と御館の陥落

甲越同盟の成立は、景虎方にとって致命的な打撃となった。頼みの綱であった実家・北条家からの大規模な援軍は、関東の情勢と武田の牽制によって最後まで到着せず 23 、景虎方は完全に孤立した。武田の軍事圧力を背景に勢いづいた景勝方は攻勢を強め、景虎方の城は次々と陥落。景虎は御館に追い詰められていった。

天正7年(1579年)2月、雪解けを待った景勝方は、御館への総攻撃を開始した 18 。景虎方は奮戦するも、大勢を覆すことはできず、3月17日に御館は陥落。景虎は、前関東管領・上杉憲政や嫡男・道満丸らを人質として景勝方に送り、和議を図ろうとした。しかし、景勝方はこの申し出を拒絶し、憲政と道満丸を殺害するという非情な手段に打って出た 23

景虎の最期

万策尽きた景虎は、再起を期して実家の小田原を目指し、御館を脱出する。しかし、その道中で立ち寄った鮫ヶ尾城(現在の新潟県妙高市)で、城主・堀江宗親の裏切りにあってしまう 22 。完全に逃げ場を失った景虎は、同年3月24日、妻(景勝の姉)や近臣らと共に自害して果てた。享年二十六 22 。謙信の死から、ちょうど一年後の悲劇であった。

内乱の甚大な代償

約1年間にわたる内乱を制し、上杉景勝は上杉家の当主となった。しかし、その勝利はあまりにも多くのものを犠牲にした、いわば「焦土の上での勝利」であった。

  • 国力の消耗: 越後国全土を巻き込んだ内戦は、田畑を荒廃させ、生産力を著しく低下させた。謙信が築き上げた豊かな国力は、この内乱によって大きく損なわれた。
  • 人材の喪失: 景虎方に味方した北条高広、柿崎晴家といった多くの有能な武将たちが戦死、あるいは粛清された。これは上杉家の軍事力を根幹から揺るがす深刻な損失であった。
  • 領土の喪失: 内乱の過程で、上杉家の領土は大きく削り取られた。武田勝頼との同盟の代償として、長年の係争地であった上野沼田領や信濃飯山領などを割譲 21 。さらに、内乱の混乱に乗じて織田信長の勢力が北陸へ深く侵食し、謙信が平定した越中・能登・加賀の大部分を失った 30

景勝は上杉家の統一には成功したが、その代償はあまりにも大きかった。謙信時代に北信越に広大な版図を誇った大大名の面影はなく、越後一国を維持するのも困難な状況に陥ったのである 21 。御館の乱は、上杉家にとってまさに「失われた1年」であった。この1年で、ライバルである織田信長は畿内と西国の平定を着実に進め、両者の国力差はもはや挽回不可能なほどに開いてしまった。景勝がようやく越後を統一した頃には、信長は手の届かない存在となっていた。天正10年(1582年)の魚津城の戦いで見られるように、上杉家は織田軍の圧倒的な物量の前に、ただ防戦一方となるしか道は残されていなかった 30 。謙信の死と御館の乱は、上杉家を天下人の競争から完全に脱落させたのである。

終章:歴史の転換点 ― 謙信の死が変えた戦国の勢力図

天正6年(1578年)3月13日の上杉謙信の死は、一個人の生物学的な死という偶然の出来事でありながら、戦国時代のパワーバランスを根底から覆し、歴史の流れを不可逆的に変える必然的な結果をもたらした。それは、上杉家の没落、武田家の滅亡、そして織田信長による天下統一の加速という、ドミノ倒しのような連鎖反応の起点となったのである。

織田信長の漁夫の利

謙信の死とそれに続く上杉家の自滅的な内乱は、天下統一を進める織田信長にとって最大の幸運であった。手取川の敗戦により頓挫していた北陸方面への進出は、上杉家が内乱で身動きが取れない間に容易に達成された。そして何よりも、信長包囲網の軍事的支柱であった謙信という最大の脅威が、戦うことなく消滅したことの意義は計り知れない。これにより、信長は後顧の憂いなく、西国の毛利氏や畿内の石山本願寺との戦いに戦力を集中させることが可能となり、天下統一事業を大幅に加速させることができた。

武田家滅亡への道筋

謙信の死が引き起こした御館の乱は、武田勝頼に致命的な外交的選択ミスを犯させた。目先の黄金と領土に目が眩み、同盟者である北条家を裏切って景勝と手を結んだ「甲越同盟」は、結果的に武田家を外交的に完全に孤立させた 32 。この決定が、武田家を滅亡へと導く直接的な引き金となったことは、多くの歴史家が指摘するところである 27 。謙信の死は、意図せずして長年の宿敵であった武田家の命運をも断ち切る結果となった。

北条家の戦略転換

弟・景虎を失い、武田家との同盟が破綻した北条氏政は、その対外戦略の根本的な見直しを迫られた。結果として、北条氏は武田家と敵対し、織田・徳川と結ぶことで自家の安泰を図る道を選択する 28 。これにより、東国における反信長勢力は完全に瓦解し、信長による東国平定への道筋がつけられることになった。

総括

上杉謙信の死という事変は、単に越後国の一大名の代替わりという地域的な出来事に留まらない。それは、戦国時代後期の政治・軍事バランスを規定していた「重し」が取り除かれたことを意味した。その結果、抑えられていた各勢力の力学が一気に噴出し、新たな勢力図が形成されていった。上杉家の凋落、武田家の滅亡、そして織田信長の躍進という、その後の歴史の大きな潮流は、すべてこの天正6年3月の春日山城での出来事に端を発している。

もし、謙信があと数年生きていたらどうなっていただろうか。あるいは、後継者問題が円満に解決されていたらどうなっていただろうか。歴史に「もし」は禁物であるが、日本の歴史が全く異なる様相を呈していたであろうことは想像に難くない。その意味において、天正6年3月13日は、まさしく戦国史における一大転換点であったと結論づけることができる。

引用文献

  1. 上杉謙信 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1
  2. 上杉謙信(うえすぎけんしん) - 米沢観光ナビ https://travelyonezawa.com/spot/uesugi-kenshin/
  3. 上杉謙信の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/33844/
  4. “無敵の上杉謙信が、天下を獲れなかった理由”歴史に学ぶ「勝つための戦略」 https://diamond.jp/articles/-/86015
  5. 上杉謙信(うえすぎ けんしん) 拙者の履歴書 Vol.5 ~義の如く生き、龍の如く戦いたり - note https://note.com/digitaljokers/n/n588e68d2cbb6
  6. 「戦国最強武将トイレで死んだ」説、明らかになった真相 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64052
  7. 【これを読めばだいたい分かる】上杉謙信の歴史 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nf245ce588cdb
  8. 「酒好きが祟ってトイレで脳卒中」はウソ?上杉謙信の本当の死因はなんだったのか - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/171510
  9. 上杉謙信の死に関係するサイレントキラー、高血圧 | コラム - 兼松ウェルネス株式会社 https://kwn.kanematsu.co.jp/column/detail.php?id=48
  10. 上杉謙信の死因は本当に酒だったのか?最期の様子を史料から検証 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/314
  11. 上杉謙信の遺言 - 行政書士えのもと事務所 https://gyousei-enoken.com/columns/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%A8%80%E3%81%AB%E8%B6%B3%E3%82%8A%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%AE/
  12. 上杉景虎と御館の乱 - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/uesugi/serious02.html
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  14. 第一章 佐々成政の越中支配 https://wwwb1.musetheque.jp/toyama_pref_archives/rest/media?cls=med1&pkey=0000000921
  15. 御館の乱年表 - 城址巡り - ドーン太とおでかけLOG - FC2 https://orion121sophia115.blog.fc2.com/blog-entry-4812.html
  16. 信長公記 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E5%85%AC%E8%A8%98
  17. 越中の戦国時代と城館 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/58/58614/139009_2_%E9%A3%9B%E8%B6%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%9F%8E.pdf
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  24. 「御館の乱(1578~79年)」謙信の後継者争いにして、越後を二分した大規模内乱! https://sengoku-his.com/312
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  28. 甲相同盟とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%94%B2%E7%9B%B8%E5%90%8C%E7%9B%9F
  29. 上杉景虎(うえすぎ かげとら) 拙者の履歴書 Vol.392~小田原から越後へ 悲運の将 - note https://note.com/digitaljokers/n/nb7e2c92701f2
  30. 弾薬も城兵も尽きた絶望の80日間。魚津城12将がみせた最期のパフォーマンス - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/85451/
  31. 上杉景勝の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38295/
  32. 御館の乱で勝頼が景虎を支援していたら… - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/yorons/243
  33. 上杉の命運は御館の乱で決まっていた? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=VJHRGefM4rQ
  34. 甲相駿三国同盟破棄後の攻防と武田氏滅亡 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22924