最終更新日 2025-09-23

丸岡城築城(1576)

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天正四年 丸岡城築城:織田信長の北陸平定と柴田勝家の経営戦略

序章:天正の越前、焦土からの再出発

越前国の戦略的重要性

戦国時代の日本列島において、越前国(現在の福井県北東部)は、地政学的にも経済的にも極めて重要な位置を占めていた。北陸道の中核に位置し、京畿と東国、そして日本海交通を結ぶ大動脈として機能していたのである。豊かな坂井平野は一大穀倉地帯であり、その経済力は天下統一を目指す為政者にとって垂涎の的であった。この地を掌握することは、北陸全域への影響力を確保し、ひいては天下の趨勢を左右する上で不可欠な一手であった。織田信長がその天下布武の過程で、この越前国に並々ならぬ執着を見せたのは、まさにこの戦略的価値を深く理解していたからに他ならない。

織田信長による越前一向一揆の殲滅(天正3年・1575年)

信長が越前に本格的に介入する以前、この地は約一世紀にわたり、浄土真宗本願寺教団の門徒たちが支配する「百姓の持ちたる国」として、独自の自治共同体を形成していた 1 。この一向一揆勢力は、信長の支配に真っ向から対立し、頑強な抵抗を続けていた。天正3年(1575年)、信長はこの長年の抵抗勢力を根絶やしにするため、自ら3万ともいわれる大軍を率いて越前に侵攻した 1

この鎮圧作戦は、単なる合戦の域を超えた、凄惨な殲滅戦であった。信長は抵抗する門徒たちに対し、「撫で斬り」と呼ばれる徹底的な皆殺しを命じ、女子供を含む数万人が犠牲になったと記録されている 1 。この苛烈な処置により、越前の村々は焼き払われ、田畑は荒廃し、文字通り焦土と化した。信長の目的は、軍事的な勝利に留まらなかった。それは、一向一揆が築き上げた旧来の宗教的・社会的秩序を物理的に、そして精神的に完全に破壊し尽くすことにあった。この徹底的な破壊行為こそが、後に続く新たな支配体制、すなわち織田政権による秩序を構築するための、恐るべき地ならしであったのである。

丸岡城の築城という事象は、決して無の状態から始まったわけではない。それは、この徹底的な「破壊」の直後に行われた「創造」のプロセスであったと理解する必要がある。旧秩序の象徴であった一向一揆の痕跡を物理的に消し去り、織田政権という新たな支配体制を、城という目に見える形でこの地に刻み込むための、極めて政治的な意味合いを帯びた事業だったのである。平野に恒久的な石垣の城を築くという行為そのものが、旧支配者とは比較にならない絶対的な権力と、永続的な支配の意思を越前の民に示す、強烈なメッセージであった。

「鬼柴田」柴田勝家の越前国拝領と統治構想

焦土と化した越前の統治を、信長は織田家臣団の中でも随一の猛将であり、筆頭家老として最も信頼を寄せる宿老の一人、柴田勝家に委ねた 4 。勝家はかつて信長の弟・信行に与して謀反を起こした過去を持つが、許されて以降は信長への絶対的な忠誠を貫き、数々の戦で武功を挙げ、「鬼柴田」の異名で敵味方から恐れられる存在となっていた 5

信長は勝家に対し、越前八郡、実に49万石という破格の領地を与えた 2 。これは、勝家を単なる方面軍司令官としてではなく、織田政権を支える大大名として処遇するものであり、北陸方面の全権を委任するという信長の固い意志の表れであった。勝家に課せられた任務は、一揆の残党狩りといった軍事行動に留まらず、荒廃した領国を復興させ、民心を安定させ、そして信長の目指す新たな支配体制を北陸の地に深く根付かせるという、極めて重いものであった。丸岡城の築城は、この壮大な統治構想を実現するための、具体的な第一歩として位置づけられるのである。

第一部:北ノ庄体制の確立と信長の深謀

第一章:越前国の分割統治体制

柴田勝家を頂点とする軍団編成

天正3年(1575年)9月、信長は越前の新たな支配体制、いわゆる「国割り」を定めた 2 。その体制は、柴田勝家を頂点に据えつつも、巧みな権力分散が図られたものであった。勝家には坂井、足羽、丹生、今立の四郡を分割した八郡が与えられ、北ノ庄(現在の福井市)に本城を築くことが命じられた 2 。一方で、府中(現在の越前市)周辺の二郡は、前田利家、佐々成政、不破光治の三名に与えられた 2 。彼らは「府中三人衆」と称され、勝家の支配領域の中央部に楔を打ち込むかのように配置された。

この三人衆の立場は、勝家の直臣(家臣)ではなく、信長直属の「与力」という特殊なものであった 2 。これは、軍事行動においては勝家の指揮下に入るものの、領地経営においては一定の独立性を保つという、複雑な主従関係を意味する。この配置により、信長は勝家に北陸方面軍司令官としての絶大な軍事権を与えつつも、その権力が一極集中し、独立勢力化することを巧みに抑制したのである。府中三人衆は、いわば信長が勝家の許に置いた目付役であり、越前国内の情報を直接信長に伝える役割も担っていたと考えられる。

信長から勝家へ下された「九ヵ条の掟書」

信長による勝家への統制は、人事配置だけに留まらなかった。彼は勝家に越前支配を命じるにあたり、統治の基本方針を具体的に定めた「九ヵ条の掟書(掟条々)」を与えている 4 。この掟書の内容は、為政者として守るべき徳目を極めて具体的に、かつ細かく指示するものであった。

その条々には、「民に不法な税を課してはならない」「地侍を丁寧に扱い、その所領を安堵せよ」「裁判は公正に行え」「新たな関所を設けてはならない」「城の備蓄を怠るな」といった項目が含まれていた 10 。これらは一見すると当然のことばかりであるが、信長は「善く治めよ」という一言で済ませず、あえて事細かに規定した。これは、勝家の統治能力を信用していなかったというよりも、戦国の悪弊を断ち切り、天下統一後の新たな統治モデルを具体的に示し、自身の政治思想を家臣に徹底させようとする信長の強い意志の表れであった。彼の「マイクロマネジメント」ともいえる統治スタイルが、この掟書にはっきりと見て取れる 4

猛将としてのイメージが強い勝家だが、実際にはこの掟書に忠実に従い、荒廃した農村の復興や新田開発に力を注ぐなど、善政を敷いたと伝えられている 3 。その治世は、後に越前を訪れた宣教師ルイス・フロイスが「(勝家の権限や活躍ぶりは)信長のようだ」と称賛するほどであった 7 。信長の巧みな権力分散と直接統制のハイブリッドモデルは、こうして越前の地に新たな秩序をもたらし始めたのである。

第二章:柴田勝豊の配置とその役割

初代城主・柴田勝豊

丸岡城の初代城主として歴史に名を刻んだのは、柴田勝家の甥であり、実子のいなかった勝家の養子となっていた柴田勝豊であった 12 。勝豊は勝家の姉の子として生まれ、若くして勝家の軍団に加わり、北陸戦線で数々の武功を挙げていた 13 。その働きは信長にも認められており、次代を担う若き武将として期待されていた。越前平定後、勝家が自身の広大な領地を効果的に支配するために、信頼できる一族を要衝に配置するのは当然の戦略であり、その白羽の矢が立ったのが勝豊だったのである。

初期拠点・豊原寺

越前平定直後の天正3年(1575年)9月11日、勝豊はまず坂井郡の豊原寺に城を構えるよう命じられた 2 。豊原寺は、古代の僧・泰澄が開いたと伝えられる古刹であり、中世を通じてこの地域の宗教的中心地として大きな影響力を持っていた 15 。そして、一向一揆の時代には、その有力な拠点の一つとして機能していた場所でもある 15

信長と勝家が、平定したばかりのこの地に、あえて旧敵の拠点であった豊原寺を選んで勝豊を配置したことには、明確な戦略的意図があった。それは、一揆の残存勢力や、いまだ影響力を保持する在地宗教勢力を直接的に監視し、鎮圧するための拠点とするためである。いわば、旧秩序の心臓部に楔を打ち込み、その活動を封じ込める役割が、勝豊の最初の任務であった。

山間部統治の限界

豊原は山間に位置しており、軍事的な防衛拠点としては有効であったかもしれない。しかし、時代の潮流は、防衛一辺倒の山城から、政治・経済の中心地となる平城・平山城へと大きく移行しつつあった 17 。山中の拠点からでは、広大な坂井平野の農村地帯を効率的に統治し、年貢を徴収し、商業を振興させることは困難である。また、家臣団の屋敷を配置し、商人を呼び寄せ、新たな城下町を形成する上でも、山間部は著しく不向きであった 17

勝豊の拠点が、わずか1年足らずで豊原から丸岡へと移された事実は、単なる立地の変更以上の意味を持っている。それは、織田政権による越前統治のフェーズが、一揆の残党を掃討する「鎮圧」の段階から、領国を安定させ、経済を発展させる「経営」の段階へと移行したことを象徴する画期的な出来事であった。山中の旧勢力拠点を無力化するという初期の目的は達成され、次なる目標は、平野部の経済と交通を掌握し、新たな秩序を恒久的なものとするための拠点構築へと移ったのである。この戦略思想の進化こそが、丸岡城誕生の直接的な引き金となった。

第二部:丸岡城築城(天正4年・1576年)-北陸の要、誕生の刻-

第一章:築城地の選定-豊原から丸岡へ

平山城という選択

天正4年(1576年)、柴田勝豊は本拠地を豊原から移し、坂井平野に孤立してそびえる小高い丘陵地に新たな城の築城を開始した 12 。これが丸岡城の始まりである。この地は標高約17mほどの独立丘陵であり 18 、典型的な「平山城」の形態をとる。平山城は、平野部にありながら小山を利用することで、平城の利便性と山城の防御性を兼ね備えた、当時の最新の城郭形態であった。

この丘の上からは、広大な坂井平野を一望することができた 19 。これにより、領内の農村の様子を監視し、統治を円滑に進めることが可能になる。同時に、軍事的には、敵の侵攻を早期に察知し、迎撃態勢を整える上で圧倒的に有利であった。豊原の山中からこの平野の中央へと拠点を移したことは、勝豊の支配が、受動的な防衛から、領国全体を掌握する積極的な統治へと転換したことを明確に示している。

地政学的優位性

丸岡城の築城地選定には、より広域的な戦略、すなわち織田軍の北陸方面戦略が色濃く反映されていた。丸岡城は、柴田勝家の本城である北ノ庄城の北方を固める重要な支城としての役割を担っていた 20

当時の織田軍にとって、北陸方面における最大の脅威は二つあった。一つは、加賀(現在の石川県)に依然として強大な勢力を保持していた一向一揆の残党勢力。もう一つは、越後(現在の新潟県)に君臨し、「軍神」とまで称された上杉謙信の存在である 21 。丸岡城は、加賀方面から南下してくるこれらの敵勢力に対する、北ノ庄城の最前線に位置する防波堤であった。

事実、翌年の天正5年(1577年)には、柴田勝家率いる織田軍が上杉謙信に大敗を喫する「手取川の戦い」が勃発する 1 。この戦いの結果を見ても、丸岡城が築かれた天正4年という時期に、対上杉への備えが織田軍にとって喫緊の課題であったことは明らかである。丸岡城築城は、信長と勝家が描く壮大な北陸平定戦略の、まさに要となる一手だったのである。

第二章:築城のリアルタイム再現

縄張りと普請

天正4年、丸岡の丘陵地で始まった築城工事は、当時の技術の粋を集めたものであった。まず、城全体の設計図である「縄張り」が行われ、本丸、二の丸、そしてそれらを取り囲む堀の配置が決定された。独立丘陵の頂部を削平して本丸とし、その周囲に段々状に曲輪を配置する梯郭式の構造が採用されたと考えられる 16

城の土台となる石垣には、「野面積み」という、当時の最先端かつ実用的な工法が用いられた 19 。これは、自然石をほとんど加工せずに、巧みに組み合わせて積み上げていく技術である。一見すると隙間が多く粗雑に見えるが、その隙間が排水口の役割を果たし、降雨量の多い北陸の気候でも水圧で崩れにくいという利点があった 19 。また、加工の手間が少ないため、迅速に堅固な石垣を築くことができた。この石垣には、周辺の寺社から集められた墓石や供養塔の一部が転用された「転用石」も確認されており 19 、戦国時代ならではの、なりふり構わぬ資材調達の様子がうかがえる。

難航する工事と「人柱お静」伝説

しかし、築城工事は順風満帆ではなかったと伝えられている。特に天守台の石垣は、何度積んでも崩れてしまい、工事は著しく難航したという 21 。当時の人々は、このような難工事を神仏の祟りや土地の霊の仕業と考え、それを鎮めるための究極の手段として「人柱」を立てることがあった。

丸岡城にも、この人柱にまつわる悲しい伝説が残されている。城下に住んでいた「お静」という名の、片目の見えない貧しい未亡人が、二人の子供を抱えて暮らしていた 24 。彼女は、息子の一人を武士として取り立ててもらうことを条件に、自ら人柱になることを申し出たとされる 21 。願いは受け入れられ、お静は天守台の土中に生き埋めにされた。その後、石垣は嘘のように順調に完成したという 24

ところが、城が完成してほどなく、城主の柴田勝豊は本能寺の変後の政変により、近江長浜城へ移封となってしまう 24 。これにより、お静の息子を武士にするという約束は、果たされることなく反故にされた 24 。これを深く怨んだお静の霊は、毎年4月の堀の藻を刈る時期になると、その悲しみを涙の雨として降らせるようになった。人々はこの長雨を「お静の涙雨」と呼び、彼女の霊を慰めるために城内に慰霊碑を建てて供養したと伝えられている 24

この伝説は、後年の調査で人骨などが発見されなかったことから、史実とは考えられていない 28 。しかし、この物語の核心は、単なる悲劇や怪談ではない。それは、領主(柴田勝豊)と領民(お静)の間で交わされた「社会契約」(子の将来という対価)と、その一方的な「破棄」を記憶するための物語である。戦国時代の目まぐるしい領主交代に翻弄される民衆の無力さと、為政者の約束の不確かさに対する根源的な不信感が、この伝説には色濃く刻み込まれている。大規模な築城工事が、地域住民に多大な労役と犠牲を強いたであろうことの、何よりの証左といえるだろう。

第三章:初代城主・柴田勝豊の統治

城下町の形成

丸岡城の築城は、単に軍事施設を建設するだけに留まらなかった。勝豊は築城と並行して、かつての拠点であった豊原にあった寺社なども丸岡の麓に移転させ、計画的な城下町の形成に着手した 17 。國神神社もこの時に現在地へ遷座したと伝えられる 15 。これにより、丸岡は単なる軍事拠点としてだけでなく、坂井平野北部における政治、経済、そして文化の中心地としての新たな役割を担うことになった。城は領主の館であると同時に、家臣団や商人、職人が集住する都市の核となり、地域の発展を牽引するエンジンとして構想されていたのである。

北陸の守りとしての機能

天正4年(1576年)に完成した丸岡城は、柴田勝家が北ノ庄に築いた壮大な本城を中心とする、広域防衛ネットワークの重要な一角を占めることとなった。勝家の北ノ庄城は、信長の安土城をもしのぐ九層の天守を誇ったと記録される巨大な城郭であった 3 。この北ノ庄城を司令塔とし、北の丸岡城(柴田勝豊)、南の府中城(府中三人衆)、そして東の大野城(金森長近)などが有機的に連携することで、織田軍の越前支配は盤石なものとなった。これらの城郭群は、加賀の一向一揆や越後の上杉謙信といった外部の脅威に対する多重の防衛ラインを形成し、信長の天下統一事業における北陸方面の安定化に大きく貢献したのである。柴田勝豊と彼が築いた丸岡城は、まさにその最前線に立ち、北陸の守りという重責を担っていた。

第三部:丸岡城天守の謎と、その後の運命

第一章:天正年間の天守像の考察

同時代の城郭との比較

柴田勝豊が天正4年に築城した際、その本丸にはどのような天守が建てられていたのだろうか。残念ながら、当時の姿を直接示す絵図や詳細な記録は現存していない。しかし、同時代の他の城郭との比較から、その姿をある程度推測することは可能である。

主君である柴田勝家の北ノ庄城天守が、権威を誇示するための壮大な九層構造であったのに対し、その支城である丸岡城の天守は、より実戦的で規模の小さなものであったと考えられる。例えば、丸岡城築城のわずか4年後、天正8年(1580年)に同じ越前の金森長近が築いた大野城の天守は、望楼付きの2層3階建てであったとされている 31 。このことから、丸岡城の初期天守も、これに類する比較的小規模な望楼型の天守であった可能性が高い。

望楼型天守と実戦的構造

「望楼型」とは、入母屋造の大きな建物の屋根の上に、物見櫓(望楼)を載せたような形式の天守を指す 22 。これは安土城登場以前の、初期天守に多く見られる古風な様式である。勝豊が建てた初代天守は、華美な装飾よりも、実用性を重視した質実剛健な建物であったと推測される。

壁には矢や鉄砲を放つための「狭間(さま)」が設けられ、石垣を登ってくる敵兵に石や熱湯を落とすための「石落とし」といった防御設備が備えられていたであろう 19 。そして何よりも、天守最上階からの眺望が重視され、坂井平野を一望し、敵の動きをいち早く察知する物見としての機能が最優先されたはずである。天正年間の丸岡城天守は、まさに戦国乱世の緊張感を体現した、実戦本位の砦であったと想像される。

第二章:学術調査が解き明かした真実

「現存最古」説の変遷

丸岡城天守は、その古風な望楼型の様式や、野面積みの石垣といった特徴から、長年にわたり「柴田勝豊が築城した天正4年(1576年)の建造」と信じられ、「現存最古の天守」として広く知られてきた 16 。この説は、城の歴史的価値を象徴するものとして、地域の人々にも深く親しまれていた。

寛永年間建造説の登場

しかし、この長年の定説は、近年の科学的な調査によって劇的な転換点を迎えた。平成27年(2015年)から坂井市教育委員会が主導して実施した総合学術調査により、天守の建築年代に関する新たな事実が次々と明らかになったのである 14

調査では、天守に使われている柱や梁といった主要な構造部材から試料を採取し、年輪年代測定法や酸素同位体比測定法といった最新の科学技術を駆使した分析が行われた。その結果、驚くべきことに、使用されている木材の多くが1620年代後半以降に伐採されたものであることが判明したのである 33 。これは、柴田勝豊の時代から約半世紀も後のことである。

この科学的根拠に基づき、現在我々が見る丸岡城天守は、築城当初のものではなく、江戸時代初期の寛永年間(1624年~1644年)、初代丸岡藩主となった本多成重の時代に建て替えられたものであることが確実となった 14 。これにより、「現存最古」の称号は返上されることとなったが、同時に新たな歴史の扉が開かれたのである。

なぜ柴田勝豊時代の天守は失われたのか?

では、柴田勝豊が建てたはずの初代天守はどこへ消えたのだろうか。残念ながら、その理由を記した史料は見つかっておらず、今となっては謎である。戦国末期から江戸初期にかけての戦乱で焼失した可能性、あるいは経年劣化による老朽化や、新たな城主による改築計画によって解体・建て替えられた可能性などが考えられる。興味深いことに、天守が立つ天守台の石垣は、その工法から天正期まで遡る可能性が指摘されており 34 、本多成重は、勝豊が築いた古い石垣の上に、新たな天守を再建したと推測されている。

この事実は、新たな考察を生む。寛永年間という、すでに徳川の世が安定しつつあった時代に、なぜ本多成重は、当時最新の層塔型ではなく、あえて古風な戦国期の様式である望楼型で天守を再建したのだろうか。それは、単に古い天守台の形状に合わせたという技術的な理由だけでは説明がつかないかもしれない。

一つの可能性として、そこには高度な政治的意図があったのではないかと考えられる。1624年に福井藩から独立し、新たに丸岡藩の初代藩主となった本多成重にとって、自らの支配の正統性を確立することは重要な課題であった。そのために、あえて城の創設者である戦国の英雄・柴田氏の時代を彷彿とさせる古風なデザインの天守を建てることで、自らの支配を、城が持つ伝説的な歴史に接続させようとしたのではないだろうか。それは、いわば「建築による権威の演出」であり、意図された「アナクロニズム(時代錯誤)」であったのかもしれない。この天守には、単なる建築物以上の、深い歴史の謎が秘められているのである。

比較項目

天正年間説(旧説)

寛永年間説(現在の学説)

推定建築年代

天正4年(1576年)

寛永年間(1624年~1644年)

推定建築者

柴田 勝豊

本多 成重(初代丸岡藩主)

主な根拠

・望楼型という古風な建築様式 ・野面積みの石垣との調和 ・築城年に関する歴史的伝承

・柱材の年輪年代測定 ・部材の酸素同位体比測定 ・科学的分析による木材伐採年代の特定

歴史的文脈

戦国時代の軍事拠点(対一向一揆・上杉謙信)

江戸初期の藩政の象徴(丸岡藩成立に伴う整備)

第三章:戦国から江戸、そして現代へ

目まぐるしい城主の交代

丸岡城の歴史は、その城主の目まぐるしい交代の歴史でもあった。初代城主・柴田勝豊は、天正10年(1582年)の本能寺の変後に行われた清洲会議の結果、近江長浜城へ移封となり、わずか6年で丸岡を去った 14 。その後は勝家家臣の安井家清が城代となるが、翌年の賤ヶ岳の戦いで柴田氏が羽柴秀吉に滅ぼされると、城は丹羽長秀の支配下に入り、その家臣である青山宗勝が城主となった 14

その後も、関ヶ原の戦いで西軍についた青山氏が改易されると、徳川家康の次男・結城秀康(後の松平忠直)が越前に入府し、その家臣である今村盛次が城主となる 20 。そして慶長18年(1613年)、福井藩の附家老として本多成重が入城し、後に独立して初代丸岡藩主となる 16 。本多氏の支配は4代続いたが、御家騒動により改易。元禄8年(1695年)に有馬氏が入封し、以後、明治維新まで8代にわたって丸岡を治めた 13 。この激しい城主の変遷は、丸岡城が常に時代の政治的動乱の中心近くにあり続けたことの証である。

城主名

在位期間

主要事績・備考

1

柴田 勝豊

1576年~1582年

丸岡城を築城。本能寺の変後、長浜城へ移封。

2

安井 家清

1582年~1583年

柴田勝家家臣。賤ヶ岳の戦いで柴田氏滅亡。

3

青山 宗勝

1583年~1587年

丹羽長秀家臣。後に豊臣秀吉に仕える。

4

青山 忠元

1587年~1600年

宗勝の子。関ヶ原の戦いで西軍に属し改易。

5

今村 盛次

1600年~1612年

結城秀康(福井藩)家臣。

6

本多 成重

1613年~1645年

福井藩附家老。1624年に独立し初代丸岡藩主となる。現在の天守を建築か。

7

本多 重能

1645年~1651年

成重の子。

8

本多 重昭

1651年~1676年

重能の弟。

9

本多 重益

1676年~1695年

重昭の子。御家騒動により改易。

10

有馬 清純

1695年~1702年

糸魚川より入封。以後、有馬氏が8代続く。

...

有馬氏8代

1695年~1869年

幕末まで丸岡藩を統治。

廃城令、福井地震と奇跡の復興

明治維新を迎えると、丸岡城は存亡の危機に立たされる。明治6年(1873年)に発布された廃城令により、全国の城郭は次々と取り壊された 37 。丸岡城も例外ではなく、天守以外の建物はすべて破却され、天守自体も民間に払い下げられた 14 。しかし、天守の歴史的価値を惜しんだ地元の有志たちが私財を投じて天守を買い戻し、解体の危機から救ったのである 37 。この出来事は、城の存在意義が、領主の権威の象徴から、地域住民のアイデンティティの核へと変容し始めた瞬間であった。

最大の悲劇は、昭和23年(1948年)6月28日に発生した福井地震である 37 。マグニチュード7.1の激震は丸岡の町を壊滅させ、町のシンボルであった天守は、その美しい姿を保つことができず、石垣もろとも完全に倒壊してしまった 15 。戦後の混乱期にあって、誰もが天守の再建は不可能だと考えた。

しかし、町民の熱意はそれを許さなかった。「お天守」の復活は、震災からの復興を目指す人々の心の拠り所となった 37 。幸いにも、地震のわずか6年前、昭和15年から17年にかけて実施された解体修理の際に作成された詳細な図面と記録が残っていた 37 。これを元に、全国から寄せられた寄付金にも支えられ、奇跡的な復興事業が開始された。倒壊した天守の部材は丁寧に拾い集められ、柱や梁など主要構造材の7割以上が再利用された 34 。そして昭和30年(1955年)、丸岡城天守は倒壊前と寸分違わぬ姿で、再び故郷の大地にそびえ立ったのである 14 。この復興劇は、城がもはや封建領主のものではなく、地域コミュニティによって守り育てられる文化遺産へと完全に昇華したことを、何よりも雄弁に物語っている。

結論:重層する歴史の証人として

天正4年(1576年)の丸岡城築城は、織田信長による北陸平定という、戦国時代のダイナミズムを象徴する出来事であった。それは、一向一揆という旧秩序を徹底的に破壊した焦土の上に、新たな支配体制を視覚的に刻み込むための、力強い創造の行為であった。柴田勝豊によって築かれたこの城は、北陸の要衝として、信長の天下統一事業の一翼を担うはずであった。

しかし、現在我々が目にする天守は、その創設の記憶を留めつつも、実際には江戸時代初期、初代丸岡藩主・本多成重によって建てられたものであることが、近年の科学調査によって明らかになった。この事実は、丸岡城が持つ歴史の重層性を浮き彫りにする。すなわち、この城には、戦国期「創設の記憶」と、江戸期「現存の姿」という、二つの異なる時代の精神が共存しているのである。柴田勝豊による築城という戦国の荒々しさと、本多成重による再建という江戸初期の秩序形成、そして近代以降の市民による保存と震災からの復興という、それぞれの時代の精神が幾重にも折り重なった、稀有な城郭と言えよう。

北陸の要衝として生まれ、時代の変遷とともにその役割を変え、城主の交代、廃城令、そして天災という幾多の危機を乗り越えてきた丸岡城。その姿は、単一の時代の遺産ではなく、戦国、江戸、近代、現代という連続した時間の中で、人々の営みとともに生き続けてきた歴史そのものである。柴田勝豊が礎を築いてから450年近くの歳月を経た今も、丸岡城は日本の城郭史、そして地域の歴史を物語る、かけがえのない証人として静かに佇んでいる。

引用文献

  1. 織田信長や徳川家康を苦しめた一枚岩の集団~一向一揆 – Guidoor Media | ガイドアメディア https://www.guidoor.jp/media/nobunaga-versus-ikkoikki/
  2. 一向一揆を壊滅させた信長は、天正三年(一五七五)九月付で軍勢 ... https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-01.htm
  3. 北ノ庄城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/hokuriku/kitanosyo.j/kitanosyo.j.html
  4. まるで姑!? 織田信長が柴田勝家にした細かすぎる注文とは - GOETHE[ゲーテ] https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20230321-nobunaga-16
  5. 柴田勝家 ― 北庄に掛けた夢とプライド - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/tenran/katsuie.html
  6. 観光案内:柴田勝家 - 福井市 https://www.fcci.or.jp/fsig/katuie.htm
  7. 柴田勝家の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7470/
  8. 令和7年特別展「越前北庄の城と城下」 - 福井市立郷土歴史博物館 https://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/tenran/202505kitanosho.html
  9. 【解説:信長の戦い】越前一向一揆(1575、福井県越前市ほか) 一揆衆に支配された越前 信長による衝撃の殲滅劇とは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/386
  10. 勝家の国中掟書 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-0a1a2-02-02-01-03.htm
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  12. 福井県坂井市/丸岡城 http://www.city.fukui-sakai.lg.jp/bunka/kanko-bunka/kanko/rekishi/maruokajo.html
  13. 丸岡城の歴史と見どころを紹介/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/chubu-castle/chubu-maruoka-castle/
  14. 福井県坂井市/丸岡城基本情報 https://www.city.fukui-sakai.lg.jp/kokuhou/maruokajyou/kihonjohhoh.html
  15. 第3章 丸岡城の概要 - 坂井市 https://www.city.fukui-sakai.lg.jp/bunka/documents/3_siroyamakihonkousou.pdf
  16. 丸岡城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/hokuriku/maruoka/maruoka.html
  17. 丸岡城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/hokuriku/maruoka.j/maruoka.j.html
  18. 丸岡城 | 福井県坂井市公式観光ガイド さかい旅ナビ https://kanko-sakai.com/feature/maruokajo/
  19. 見どころ | 丸岡城 (公式) 北陸唯一の現存天守・奇跡の修復城 https://maruoka-castle.jp/highlights/
  20. 北陸唯一の現存天守が残る【丸岡城の歴史】を総ざらい - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/maruokacastle/
  21. 重要文化財7城 丸岡城/ホームメイト - 名古屋刀剣博物館 https://www.meihaku.jp/japanese-castle/maruoka-castle/
  22. 現存天守12城のひとつ「最古」と言われる丸岡城が、実は古くない理由 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/73818
  23. 【ホームメイト】丸岡城(重要文化財7城) - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/shiro-sanpo/205/
  24. 重文七城「丸岡城」の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16941_tour_022/
  25. 丸岡城の「人柱 お静」伝説とは|ゆうさい - note https://note.com/shiro_asobi/n/na33902d55d7d
  26. 福井の桜の名所・丸岡城の伝説を知っていますか?大蛇とお静さんの話 - フクブロ https://fukublo.jp/etc/2022/04/12/36455/
  27. 福井、丸岡城の幽霊伝説 - Japan Travel https://ja.japantravel.com/%E7%A6%8F%E4%BA%95/%E7%A6%8F%E4%BA%95-%E4%B8%B8%E5%B2%A1%E5%9F%8E%E3%81%AE%E5%B9%BD%E9%9C%8A%E4%BC%9D%E8%AA%AC/14676
  28. 丸岡城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B8%E5%B2%A1%E5%9F%8E
  29. お静慰霊碑 | 丸岡城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/6/memo/526.html
  30. 北の庄城址・柴田公園のご案内 - 福井市 https://www.city.fukui.lg.jp/kankou/kankou/sisetu/kitanosyou.html
  31. 越前大野城の概要 https://www.onocastle.net/about/outline/
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  33. 丸岡城の天守は現存最古ではなかったことが判明 - 攻城団 https://kojodan.jp/news/entry/2019/03/27/161203
  34. [第28回【丸岡城】総合的な調査で明らかになった丸岡城天守の価値 ... https://shirobito.jp/article/811
  35. 歴史 | 丸岡城 (公式) 北陸唯一の現存天守・奇跡の修復城 https://maruoka-castle.jp/history/
  36. 丸岡城百科 http://www5.fctv.ne.jp/~momatsu/product_3.html
  37. 福井県坂井市/消滅危機からよみがえった「丸岡城天守」の奇跡 https://www.city.fukui-sakai.lg.jp/kokuhou/maruokajyou/yomigaettamoj.html
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  39. 丸岡城 (公式) 北陸唯一の現存天守・奇跡の修復城 https://maruoka-castle.jp/
  40. 福井震災後における丸岡城の再建と「町民意識」 - 歴史地震研究会 http://www.histeq.jp/kaishi_29/HE29_249_249_Takano.pdf
  41. 写真が動く! 丸岡城パンフレットをデジタル化 | 坂井市役所のプレスリリース - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000158.000081038.html