仙台大崎八幡宮造営(1607)
伊達政宗は関ヶ原後、仙台大崎八幡宮を造営。天下普請外で桃山文化を奥州に移植し、財力と文化力を誇示。徳川体制下で独自の存在感を示す戦略だった。
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天下普請の埒外にて―伊達政宗の深謀、仙台大崎八幡宮造営の時系列分析
序章:1607年、奥州の地に聳え立つ桃山の威光
慶長12年(1607年)、天下分け目の関ヶ原の戦いからわずか7年。徳川による新たな治世が緒に就いたばかりの奥州・仙台の地に、壮麗を極める一つの社殿がその姿を現した。仙台城の乾(北西)の方角に建立された大崎八幡宮である。総黒漆塗りの社殿に映える金箔と極彩色の彫刻は、質実剛健を旨とする東国武士の伝統とは明らかに一線を画し、豊臣秀吉が築いた絢爛たる桃山文化の輝きを奥州の地に移植したかのようであった 1 。
この建築物は、単なる宗教施設として片付けることはできない。それは、戦国の世を生き抜き、天下への野望を胸に秘め続けた「独眼竜」伊達政宗の野心、戦略、そして比類なき美意識の全てが凝縮された、いわば彼の「最後の城」であった。本報告書は、この大崎八幡宮の造営が、なぜ徳川幕府による公的事業「天下普請」ではなく、政宗個人の莫大な私財を投じてこの時期に行われたのかという問いを、「戦国時代の終焉」と「新たな秩序の形成」という時代のダイナミズムの中に位置づけ、その多層的な意味を時系列に沿って解き明かすことを目的とする。
第一章:関ヶ原前夜―野望と天下の狭間で(慶長3年~慶長5年 / 1598-1600)
豊臣秀吉の死と政宗の再始動
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、奥州の独眼竜・伊達政宗にかけられていた重い枷を外す契機となった。秀吉の存命中、その強大な権力の下で押さえつけられていた政宗の天下への野望が、再び燃え上がったのである。彼は天下の情勢を見極め、即座に次代の覇者と目される徳川家康へと接近した。その手始めとして、娘の五郎八姫と家康の六男・松平忠輝との婚約を画策するなど、極めて迅速かつ巧みな外交戦略を展開する 4 。これは豊臣家恩顧の大名間の私的な婚姻を禁じた秀吉の遺命に明確に反する行為であり、政宗が新たな時代の秩序形成において、自らが主導的な役割を担おうとする野心家としての一面を如実に物語っている。
「百万石のお墨付き」という蜜月
政宗の家康への接近は、大きな果実をもたらすかに見えた。関ヶ原の戦いの前哨戦である会津の上杉景勝討伐において、政宗は奥州における東軍の主戦力として大きな期待を寄せられる。その見返りとして家康から与えられたのが、旧領の刈田郡を含む上杉領の攻略に成功すれば、その地を政宗に与えるという、いわゆる「百万石のお墨付き」であった 6 。これは政宗にとって、かつて秀吉の奥州仕置によって削り取られた領土を回復し、奥州に巨大な伊達王国を築き上げるという年来の夢を実現させる千載一遇の好機であった。
慶長出羽合戦と野心の露呈
しかし、政宗の行動原理は、単に家康へ忠誠を尽くすというものではなかった。彼は「北の関ヶ原」とも呼ばれる慶長出羽合戦において、最上義光を支援し東軍の勝利に貢献する 7 一方で、その裏では旧領回復を狙い、和賀氏の旧臣による一揆を扇動するなど、二股をかける戦略をとっていた 8 。これは、中央の争乱が長引き、天下の趨勢が未だ流動的であると判断した政宗が、その混乱に乗じて自らの勢力を最大限に拡大しようとする、戦国武将としての本能的な行動であった。家康への協力を示しつつも、自らの実力で領土を切り取るというこの両面作戦は、彼の野心の深さを示すと同時に、その危うさをも内包していた。この火遊びともいえる行為が、結果的に彼の運命を大きく左右することになるのである。
この時期の政宗の行動原理は、終始一貫して「戦国大名」のそれであった。豊臣政権下で抑圧されていた彼にとって、秀吉の死は「力の空白」であり、その機に乗じて最も有力な家康に接近したものの、それは心からの恭順ではなく、自らの勢力拡大のために家康を「利用」するという側面が強かった。彼にとって「百万石のお墨付き」は、家康からの「恩賞」ではなく、自らの実力で勝ち取るべき「戦利品」であり、一揆の扇動はそのための常套手段に他ならなかった。この武力による領土拡大という直接的な野望の追求が、結果的に家康の不信を買い、後の挫折へと繋がる。そして、この「失敗」の経験こそが、彼を武力以外の手段、すなわち財力、文化、宗教的権威といったソフトパワーによって自らの威信を示すという、より洗練された戦略へと向かわせる遠因となったのである。
第二章:百万石の夢と現実―仙台開府(慶長5年~慶長6年 / 1600-1601)
夢の終焉
政宗の描いたシナリオは、関ヶ原の戦いがわずか一日で徳川方の圧勝に終わったことで、脆くも崩れ去った。天下の趨勢は完全に徳川家康に帰し、もはや戦乱に乗じて勢力を拡大する余地はなくなった。さらに、和賀一揆扇動の嫌疑が家康の耳に入ると、両者の蜜月関係は終わりを告げ、政宗が夢見た「百万石のお墨付き」は事実上反故にされた 8 。最終的に政宗は、自力で奪還した刈田郡2万石の加増を認められるに留まり、奥州に巨大な伊達王国を築くという夢は完全に潰えたのである 6 。
新たな秩序への適応
この大きな挫折は、政宗に冷徹な現実を突きつけた。もはや武力によって天下を望む時代ではない。徳川による新たな幕藩体制の中で、62万石の一大名としていかにして伊達家の存在感と自律性を保ち、領国を安泰に導くか。彼の思考は、この新たな課題へと完全に切り替えられた。戦国武将としての野望を封印し、近世大名としての新たな生き残りを模索し始めたのである。
仙台への遷都決断
この新たな国家戦略の第一歩が、本拠地を山間の岩出山から広大な平野に面した仙台(当時の地名は千代)へ移すという大胆な決断であった 6 。岩出山は、旧大崎・葛西領を統治するための前線基地であり、戦国時代の名残が色濃い場所であった 1 。対して仙台は、北上川と広瀬川がもたらす水運の利に恵まれ、広大な仙台平野を経済的後背地として持つ、まさに平時の領国経営と将来の発展を見据えた拠点として最適の地であった 11 。これは、守りを重視した中世的な山城から、経済発展を主眼に置いた近世的な城下町への転換を意味し、政宗の思考が新たな時代へ適応したことを象徴する出来事であった。
仙台城築城開始(慶長6年/1601年)
家康の許しを得た政宗は、慶長6年(1601年)から仙台城の築城に本格的に着手する 6 。これは、伊達62万石の新たな時代の幕開けを領内外に高らかに宣言する一大事業であり、政宗のエネルギーが「外的拡大」から「内的充実」へと、そのベクトルを大きく転換させた瞬間でもあった。物理的な領土拡大が不可能となった今、彼の有り余るエネルギーと野心は、限られた領国をいかに豊かにし、文化的に高め、精神的に統一するかという内向きのベクトルに集中せざるを得なくなった。仙台への遷都は単なる地理的移動ではなく、過去の戦国大名としての伊達政宗から、徳川治世下の近世大名・仙台藩祖としての伊達政宗へと、自らのアイデンティティを更新する「リブランディング」の象徴的行為だったのである。
第三章:杜の都のグランドデザイン―仙台城と城下町の建設(慶長6年~慶長11年 / 1601-1606)
仙台城の政治的意匠
慶長6年(1601年)に始まった仙台城の建設は、政宗の新たな統治哲学を体現するものであった。広瀬川の断崖と竜ノ口峡谷に守られた青葉山の天然の要害に築かれたこの城は、「守るに易く、攻めるに難い」という戦国時代以来の築城術の粋を集めた堅城であった 11 。しかし、その最も注目すべき点は、城の象徴ともいえる天守閣をあえて設けなかったことである。これは、天下人となった徳川家康への恭順の意を明確に示し、伊達家に謀反の心がないことをアピールするための、計算され尽くした高度な政治的配慮であったと考えられている 12 。
大広間という権威装置
政宗は、軍事的な威圧の象徴である天守に代わるものとして、本丸に壮大な「大広間」を建造した 12 。この建設にあたっては、京都から大工棟梁の梅村彦左衛門・彦作親子や、「天下無双の匠人」と謳われた刑部左衛門国次といった当代一流の名工を招聘した。内部は狩野派の絵師・狩野左京による豪華絢爛な障壁画で飾られ、その壮麗さは訪れる者を圧倒したという 12 。これは、軍事力による威圧に代わり、文化的な権威と圧倒的な財力によって来訪者を魅了し、伊達家の格の高さを知らしめる新たな権威装置であった。天守を建てないことで「恭順」を示しつつ、大広間の壮麗さで「誇示」を行う。この二律背反のメッセージを同時に発信する巧みさこそ、徳川体制下を生きる大大名の生存戦略そのものであった。
城下町の精神的防衛線
仙台の新たな城下町の設計(町割り)においても、政宗の深謀遠慮が見て取れる。単なる機能性や経済合理性だけでなく、陰陽道や風水といった思想が深く関わっていた可能性が指摘されている。仙台城本丸を起点として、城下を取り巻くように配置された主要な寺社群を線で結ぶと、見事な六芒星(ヘキサグラム)が浮かび上がるとされ、これが都市全体を霊的に守護する一種の結界として機能するよう意図されていたという 15 。
鬼門と乾(いぬい)の方角
近世の都市計画において、鬼門(北東)や裏鬼門(南西)といった災いがもたらされるとされる方角を鎮護することは、極めて重要な意味を持っていた 17 。そして同時に、城主の守護や武運を司る方角とされる乾(北西)に、領国全体の総鎮守を建立する計画が、この城下町建設と並行して具体化していったと考えられる 21 。城という政治・軍事の中心、城下町という経済の中心が形作られていく中で、領民の心を統合し、都市に神聖な権威を与え、領国の永続的な安寧を祈願する精神的支柱、すなわち「総鎮守」の建立は、政宗のグランドデザインを完結させるための、計画の最終段階かつ最重要項目であった。大崎八幡宮の建立は、仙台という都市の「完成」に不可欠な最後のピースだったのである。
第四章:仙台大崎八幡宮造営―リアルタイム・クロニクル(慶長11年~慶長12年 / 1606-1607)
仙台城と城下町の建設が軌道に乗り、新たな領国の骨格が固まった慶長11年(1606年)頃から、政宗は計画の最終段階である総鎮守の造営に本格的に着手する。それは、単なる社殿の建設ではなく、伊達家の過去・現在・未来を紡ぐ壮大な物語を建築物として具現化する試みであった。
計画段階
遷座地の選定―乾(北西)の意味
造営地として選ばれたのは、仙台城の乾(北西)の方角であった 21 。陰陽道において乾は「天門」とも称され、武運や一家の主の守護を司る極めて重要な方角とされる。ここに領国全体の総鎮守を祀ることで、仙台城と城主である伊達家そのものを恒久的に守護させようという、政宗の強い意志が込められていた。
祭神の統合―支配の正統化
政宗は、この新たな総鎮守に、二つの系譜を持つ八幡神を合祀するという巧みな策を用いた。一つは、伊達家が米沢時代から代々篤く崇敬してきた守護神「成島八幡宮」。もう一つは、かつてこの地を支配した奥州探題大崎氏の守護神であり、領民の信仰を集めていた「大崎八幡宮」である 1 。これは、自家の守護神と被征服者の守護神を統合することで、旧大崎領の民衆の信仰心を円滑に吸収し、伊達氏による新たな支配の正統性を宗教的に権威づける、極めて高度な政治的判断であった。過去の闘争を神々の世界で和解させ、伊達家を頂点とする新たな秩序の物語を創り出したのである。
工匠の招聘―豊臣文化の継承者たち
造営にあたり、政宗は自領の工匠に頼ることをしなかった。彼は、当時豊臣家に仕えていた当代一流の名匠たちを、畿内からわざわざ招聘したのである 2 。国宝に附指定されている棟札には、大工として城州日向守家次、棟梁に梅村三十郎頼次、そして「天下無双の匠人」と称された刑部左衛門国次といった、当代最高峰の工匠たちの名が記されている 3 。徳川の世が始まったばかりの時期に、あえて旧豊臣恩顧の工匠を起用することは、明確な政治的・文化的メッセージであった。彼らの持つ技術が豊臣秀吉の権威の象徴(聚楽第や伏見城、豊国廟など)を創り出したものであることを熟知していた政宗は、彼らを招聘することで、自らを「奥州における豊臣文化の正統な継承者」として位置づけた。これは、江戸の徳川文化とは一線を画す、独自の文化圏を奥州に確立しようとする野心の現れに他ならなかった。
表1:大崎八幡宮造営 主要関係者一覧
役割 |
氏名 |
出自・背景 |
特記事項 |
発願主 |
伊達政宗 |
仙台藩初代藩主 |
仙台開府と城下町建設の一環として、領国鎮護のために造営を発願。 |
大工 |
城州日向守家次 |
不明。官位名から山城国(京都)出身で、豊臣家お抱えの大工頭の一人であった可能性が指摘される。 |
最高の技術を持つ大工として招聘された。 |
棟梁 |
梅村三十郎頼次 |
梅村彦左衛門の子か。父・彦左衛門は仙台城大広間造営のために京都から招かれた大工棟梁 12 。 |
親子二代にわたり、仙台の主要建築物の建設を担った。 |
名匠 |
刑部左衛門国次 |
不明。「天下無双の匠人」と称された彫物師または飾金具師と考えられている。 |
社殿の豪華絢爛な装飾を担当した中心人物。 |
造営段階
建築様式―権現造と豊国廟の影
社殿の建築様式には、本殿と拝殿を「石の間」と呼ばれる低い建物で連結する「権現造(ごんげんづくり)」が採用された 1 。この様式は、後に徳川家康を祀る日光東照宮にも採用されることになるが、その直接的な手本となったのは、豊臣秀吉の霊廟である京都の豊国廟であったと伝えられている 25 。政宗が、秀吉の神格化の様式をいち早く取り入れたことは注目に値する。
意匠と装飾―桃山文化の集大成
実際の造営工事は、当代随一の工匠たちの手によって進められた。社殿は全体が黒漆で塗られ、金箔や丹(赤)が効果的に配された。柱や長押、組物といった構造部材の随所に、精緻な彫刻や華麗な飾金具が施され、その豪華絢爛さは、まさに桃山文化の特色を遺憾なく発揮したものであった 1 。石の間の格天井には、多数の花や薬草が極彩色で描かれるなど、細部に至るまで贅が尽くされており 24 、伊達家の圧倒的な財力と、政宗の高い美意識を天下に示すに十分なものであった。
完成と遷宮
慶長12年(1607年)8月12日、社殿は無事造立された 3 。この日付は、現存する棟札によって確定しており、計画から完成までが極めて短期間で、かつ集中的に行われたことがわかる。完成後、盛大な遷宮の儀式が執り行われ、大崎八幡宮は名実ともに仙台62万石の総鎮守となった。この事業の完了は、慶長6年の仙台開府から約7年を経て、政宗が目指した新たな国づくりにおける一つの大きな到達点であった。
第五章:建築に込められた政宗の深謀
仙台大崎八幡宮の造営は、単に壮麗な社殿を建てたという事実以上に、伊達政宗の多岐にわたる深謀遠慮が込められた、極めて戦略的な事業であった。それは、徳川幕府、他の大名、そして自らの領民という、異なる対象に向けた複数のメッセージを同時に発信する、高度な政治的パフォーマンスでもあった。
徳川への二重のメッセージ
この一大事業が、幕府が主導する公的事業「天下普請」に頼ることなく、全て伊達家の自己資金で賄われたという点は、極めて重要である。表向きには、これは幕府に余計な財政的負担をかけないという、従順な外様大名としての「恭順」の姿勢を示す。しかし、その裏では、天下普請に匹敵する、あるいはそれ以上の壮大な事業を単独で成し遂げるほどの潤沢な財力と動員力を伊達家が有していることを見せつける、強烈な「デモンストレーション」でもあった。武力による対抗が許されない徳川の治世下において、財力と文化力こそが、大名の格を示す新たな指標であった。政宗は、その戦いの舞台を「戦場」から「建築現場」へと巧みに移し替え、徳川体制下で許された最も効果的な自己主張の方法で、その存在感を天下に示したのである。
「奥州の豊臣」という自己規定
社殿の様式が豊国廟を模倣し 25 、豊臣恩顧の工匠たちが起用されたことは、政宗が自らを文化的に豊臣秀吉の後継者と位置づける行為に他ならなかった。徳川家康が三河武士の質実剛健な気風を重んじ、江戸の文化にもその影響が色濃く反映されたのに対し、政宗は秀吉が愛した華麗で絢爛たる桃山文化を、あえて自らの本拠地である奥州の地で花開かせた。これは、江戸(徳川)を中心とする新たな文化秩序とは一線を画す、もう一つの中央(仙台・伊達)を創り出そうとする、政宗の文化的独立宣言とも解釈できる。
領国鎮護の装置としての完成
そして何よりも、大崎八幡宮は仙台城下町の精神的な結界を完成させ、領民の信仰心を伊達家への尊崇へと結びつけるための、恒久的な装置として設計された 22 。毎年正月に行われる「どんと祭(松焚祭)」には、今なお多くの市民が参拝に訪れるが 1 、これは政宗が設置したこの装置が、400年以上の時を超えて有効に機能し続けていることの証左である。政宗は、伊達氏による領国支配の正統性と永続性を、神の威光によって担保しようとしたのである。
第六章:天下人の神格化という潮流―東照宮、尾山神社との比較考察
伊達政宗による大崎八幡宮造営は、江戸時代初期における藩祖祭祀という大きな潮流の中で、その先進性と独自性を理解することで、より深い意味が浮かび上がってくる。
徳川家康と日光東照宮―国家事業としての神格化
政宗の大崎八幡宮造営から約30年後、3代将軍・徳川家光によって行われた日光東照宮の大造替(寛永の大造替)は、幕府の権威を総動員した国家事業であった 29 。全国の大名が普請への参加を命じられ 32 、莫大な費用と労力が投じられた。これにより、家康は「東照大権現」として神格化され、その神威は単なる徳川家の守護神に留まらず、「八州の鎮守」、すなわち日本全体の平和を守護する国家神へと高められた 33 。これは、徳川による支配を宗教的に絶対化するための装置であり、政宗の事業があくまで「自領の鎮守」という範疇に留まった点とは、その規模と目的において本質的な違いがある。
前田利家と尾山神社―外様雄藩の慎重な顕彰
加賀百万石という、外様大名筆頭の地位にあった前田家も、藩祖・前田利家を神として祀っている 35 。しかし、その過程は政宗とは対照的に、極めて慎重であった。利家の死後、嫡男の利長は幕府を憚り、既存の八幡宮に利家の神霊を「合祀」するという控えめな形で祭祀を始めた 36 。独立した神社として「尾山神社」が創建されるのは、幕藩体制が終焉を迎えた明治6年(1873年)のことである 37 。この前田家の慎重さと比較すると、徳川の治世が始まって間もない慶長12年という早い時期に、あれほど壮大かつ壮麗な社殿を全く新しく建立した政宗の行動が、いかに「異例」で「大胆」であったかが際立つ。
藩祖祭祀の時代へ
江戸時代が安定期に入るにつれ、有力大名が自らの藩祖を神として祀る動きは一つの潮流となる。これは、幕藩体制という枠組みの中で、各藩が自らのアイデンティティを確立し、領民の求心力を高めるための重要な手段であった。その意味で、政宗による大崎八幡宮の造営は、この潮流のまさに先駆けともいえる先進的な事例であった。
特筆すべきは、そのタイミングである。大崎八幡宮が完成した1607年は、家康が神(東照大権現)となる死後の1617年よりも10年も早い 30 。つまり政宗は、徳川家がその絶対的な宗教的権威を確立する「前」に、自領内における最高位の聖地を創り上げてしまったのである。これは、後に日光東照宮が日本全体の聖地となることを見越した上で、自らの領国を精神的に独立した「聖域」として位置づけようとする、先見性に満ちた戦略であった可能性すらある。彼は、徳川の神の権威が全国に及ぶ前に、まず自らの神の権威を領内に確立しようとしたのである。
結論:戦国の終焉と新たな秩序の創造
慶長12年(1607年)の仙台大崎八幡宮造営は、単なる一神社の建立という事象に留まらない、多層的な歴史的意義を持つ。それは、伊達政宗が「戦国武将」として抱き続けた武力による天下獲りの夢が、関ヶ原の戦いを経て完全に潰えた後、その満たされぬ野心を昇華させ、文化、財力、そして信仰という新たな武器を用いて挑んだ「もう一つの天下統一」の試みであった。それは、自らがゼロから築き上げた領都・仙台を、政治・経済の中心であるだけでなく、江戸にも劣らない文化と信仰の中心地として完成させるという壮大な事業だったのである。
この事業を通じて、政宗は徳川幕府に対して恭順の意を示しつつも、その財力と文化力を誇示し、旧豊臣系の文化を継承することで独自のアイデンティティを主張した。同時に、領民に対しては、過去の支配者であった大崎氏の神威と伊達家の神威を統合することで、支配の正統性を確立し、領国の永続的な安寧を祈願する精神的支柱を打ち立てた。
大崎八幡宮の造営は、戦国という時代が完全に終わりを告げ、徳川による新たな秩序が形成されていく中で、伊達政宗という稀代の野心家が、いかにして自らの存在を再定義し、後世にまで続く仙台藩62万石の礎を築いたかを示す、壮麗なる記念碑なのである。その黒漆の深い輝きは、戦国の夢の残照であり、同時に、近世という新たな時代の黎明を告げる光でもあった。
引用文献
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- 歴史的建造物誕生を探る! 「躍動と静寂」の総鎮守府[宮城県]| コベルコ建設機械ニュース(Vol.259) https://www.kobelco-kenki.co.jp/connect/knews/vol259/monuments.html
- 大崎八幡宮 - 仙台市の指定・登録文化財 https://www.sendai-c.ed.jp/~bunkazai/shiteidb/c00001.html
- すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
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- 関ヶ原の戦いにおける東軍・西軍の武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/41104/
- 政宗が家康に取り付けた百万石のお墨付きはどうなったのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22910
- 「遅れてきた戦国武将」伊達政宗。波乱万丈の人生を3分で解説! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/185670/
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