最終更新日 2025-09-30

伏見舟運統制(1605)

慶長10年、徳川家康は将軍職を秀忠に譲り、伏見舟運を統制。過書座を設置し、角倉了以に保津川開削を命じ、淀川水系を掌握。豊臣家の経済基盤を弱体化させ、大坂の陣への布石とした。
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慶長十年「伏見舟運統制」の構造分析:徳川覇権確立に向けた水運掌握のリアルタイム・クロニクル

序章:伏見舟運統制とは何か ― 「事件」から「戦略」への視座転換

慶長10年(1605年)、山城国伏見において、徳川の公儀が淀川水系の舟運を直轄管理下に置いたとされる一連の事象、通称「伏見舟運統制」。この出来事は、しばしば江戸幕府による経済政策の一環として簡潔に語られる。しかし、その歴史的実像は、単一の法令や事件に集約されるものではない。戦国乱世の終焉と徳川による新たな治世の黎明期という、時代の大きな転換点に位置づけられるこの「統制」は、より複合的かつ長期的な戦略的イニシアティブとして捉え直す必要がある。

慶長10年という年は、徳川家康が将軍職をその子秀忠に譲り、徳川家による権力の世襲を天下に宣言した画期的な年であった 1 。これは、大坂城に依然として君臨する豊臣秀頼とその支持勢力に対し、もはや豊臣家が政権を継承する可能性がないことを明確に突きつけた政治的デモンストレーションに他ならない。この緊迫した政治情勢こそ、「伏見舟運統制」の真の意図を解き明かす鍵である。

本レポートでは、「伏見舟運統制」を、慶長8年(1603年)の「過書座」設置に始まる直接的・制度的な支配と、慶長10年(1605年)に本格化する豪商・角倉了以の河川開発事業に代表される間接的・経済的な支配という、二つの異なるアプローチが連動した複合戦略として分析する。これは、徳川家康が、豊臣氏の経済的基盤であり、畿内における物流の大動脈であった淀川水系をいかにして掌握し、来るべき最終対決(大坂の陣)への布石を打っていったのか、その過程を解明する試みである。

本稿の核心的な問いは、以下の点にある。徳川家康は、なぜこの時期に、そして具体的にどのような手法を用いて、豊臣氏の膝元である淀川水系の舟運を掌握しようとしたのか。その多層的な目的と、徳川覇権の確立に至るまでの歴史的帰結を、時系列に沿って徹底的に解明する。

第一章:前史 ― 豊臣政権下の淀川水運と伏見の戦略的価値(~慶長5年/1600年)

徳川家康による伏見舟運統制を理解するためには、まずその舞台となった伏見と淀川水運が、豊臣政権下でいかに戦略的に重要な意味を持っていたかを確認する必要がある。家康の政策は全くの無から生まれたものではなく、豊臣秀吉が築き上げた壮大なインフラと利権構造を巧みに乗っ取り、再編する形で行われたからである。

豊臣秀吉による伏見のグランドデザイン

天下人となった豊臣秀吉は、伏見を単なる居城としてではなく、日本の政治・経済・交通を支配するための戦略的ハブとして構想し、大規模な都市開発を行った 2 。その位置は、天皇と公家が座す京と、豊臣家の本拠地であり経済の中心地である大坂を結ぶ結節点にあり、水陸交通の要衝であった 4

秀吉の都市計画は、自然の地形を大胆に改変するものであった。伏見の南に広がっていた巨大な遊水池・巨椋池の中に大堤防を築き、宇治川の流れを北へ迂回させ、伏見城の南麓を流れるように付け替えた 6 。これにより、城下に大規模な港湾機能(伏見港)が生まれ、淀川水運の発着点として、伏見は天下にその名を知らしめることとなる 2

さらに秀吉は、治水と交通路確保という二つの目的を同時に達成するため、淀川左岸に枚方から長柄に至る約27kmの長大な堤防、通称「太閤堤(文禄堤)」を築いた 7 。これにより、氾濫を繰り返していた河内平野が洪水から守られると同時に、堤防の上は京街道として整備され、京と大坂を結ぶ最短かつ安定した陸路となった 7 。この陸路と水路の整備は、淀川舟運の重要性を飛躍的に高め、伏見港は全国から人、物、情報が集まる一大ターミナルへと変貌を遂げたのである。

豊臣政権下の舟運統制 ― 「過書船」制度の原型

淀川水運の経済的・軍事的価値を熟知していた秀吉は、その管理にも着手していた。彼は、淀川を航行する二十石船や三十石船といった舟運業者に対し、「朱印状」を与え、淀川における営業の特権を認める見返りに、自らの統制下に置いた 9

この朱印状を持つ船は「過書船」と呼ばれた。「過書」とは、元来、中世に淀川筋に乱立していた関所の通行料免除を認める手形を意味し、これを持つ船は特権的な地位にあった 10 。秀吉は、淀津(現在の京都市伏見区淀)を拠点とする「淀船」などの有力な舟運業者グループに対し、役負担と引き換えに淀川での営業独占権を公認したのである 10

ただし、この時点での統制は、後の徳川幕府によるような体系的な徴税システムや厳格な運航管理を伴うものではなく、あくまで豊臣家の絶大な権威を背景とした特権付与という性格が強かった。この秀吉が作り上げたインフラと利権構造こそ、徳川家康が着目し、自らの支配体制を構築するために再編・強化していく対象となったのである。家康の戦略は、既存のシステムを破壊するのではなく、その支配権を豊臣家から自らの「公儀」へと移管し、より近世的で収奪的な統制システムへと作り変えることにあった。

第二章:徳川による支配の浸透と水運掌握の布石(慶長5年/1600年~慶長9年/1604年)

関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康に天下掌握の主導権をもたらしたが、その支配は決して盤石ではなかった。大坂には豊臣秀頼が依然として存在し、その権威は根強く残っていた。この時期、家康は慎重かつ計画的に、豊臣氏の影響力を削ぎ、徳川の支配を畿内に浸透させるための布石を打っていく。その核心にあったのが、伏見の掌握と淀川水運の支配権奪取であった。

時系列分析①:慶長5年~7年(1600-1602)― 政治・軍事拠点の掌握

関ヶ原の戦いに勝利した後、家康はすぐには本拠地である江戸に帰還しなかった。彼は、豊臣秀吉が政務を執り、その最期を迎えた伏見城に留まり、そこを事実上の政庁として戦後処理や諸大名への知行宛行(所領の配分)を行った 13 。これは、豊臣政権の政治的中心地であった伏見を徳川が完全に接収したことを天下に示す、極めて象徴的な行為であった。

具体的な支配機構の構築も迅速に進められた。慶長5年(1600年)、伏見奉行所が創設され、家康の四男である松平忠吉がその管轄にあたった 14 。慶長7年(1602年)12月からは、伏見城の在番制が定められ、柴山小兵衛定好と長田喜兵衛義正の二人が奉行として実務を担当し、伏見市中の直接的な行政支配に着手した 15

さらに家康は、軍事・政治面に加え、経済面でも伏見の拠点化を進める。慶長6年(1601年)、大坂や堺から有力商人である大黒常是らを召し出し、伏見に「銀座」を開設した 17 。これにより、全国で初めて品位が統一された慶長丁銀などが鋳造され、伏見は徳川政権下での金融・経済の中心地としての地位も確立した。これは、豊臣家の経済的基盤である大坂の商業的影響力に対抗する上で、重要な意味を持つ一手であった。

時系列分析②:慶長8年(1603年)― 制度的統制の確立

慶長8年(1603年)2月、家康は朝廷から征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開いた。しかし、依然として大坂城には豊臣秀頼が存在し、その権威は無視できなかった。この時期の政治体制は、大坂の秀頼を頂点とする「関白型公儀」と、江戸の将軍を中心とする「将軍型公儀」が並立する、いわゆる「二重公儀体制」と呼ばれる不安定な状況にあった 13 。この体制下で、豊臣家の影響力を実質的に無力化するための、より踏み込んだ政策が不可欠となった。

まさにこの年、家康は淀川水運の支配権を制度的に掌握するための決定的な一手を打つ。それが**「過書座」の設置**である。

家康は、淀川舟運の管理統制機関として「過書座」を新たに設け、淀納所の役人であった河村与三右衛門(後の角倉与一)と木村宗右衛門を過書奉行に任命した 18 。これにより、伏見と大坂の間を航行する全ての船舶は、過書座の支配下に置かれることになった 18

この過書座の機能は、豊臣期の単なる特権付与とは本質的に異なっていた。その権限は、①舟運業の営業許可権の完全な掌握、②運上金(営業税)の体系的な徴収、③運賃の公定化、という三点に集約される、近世的な支配システムであった 11 。運上金は徳川幕府の新たな財源となり、同時に、豊臣家の生命線である淀川の物流・人流を完全に監視下に置くことが可能となった。家康が将軍に就任し、徳川の「公儀」を公式に立ち上げたこのタイミングで、大坂の経済的動脈を制度的に掌握したことは、「天下の支配者は豊臣ではなく徳川である」という強烈なメッセージを内外に発するものであった。それは単なる経済政策に留まらず、有事の際には兵糧や武器の輸送を遮断できる兵站のコントロール権を握るという、極めて高度な政治的・軍事的戦略であった。

時系列分析③:慶長9年(1604年)― 統治機構の強化

過書座による舟運統制を実効あらしめるためには、畿内全体の安定した統治基盤が不可欠であった。その役割を担ったのが、京都所司代の板倉勝重である。慶長6年(1601年)に京都所司代に就任した勝重は、その卓越した行政手腕で京都の治安を確立し、朝廷や公家の監察にあたっていた 22

彼の権限は京都のみならず、伏見奉行をもその管理下に置いており、畿内全体の統治を統括する立場にあった 22 。例えば、慶長9年(1604年)に豊臣秀吉の正室・ねね(高台院)が高台寺の造営を始めた際には、家康の意向を受け、勝重が普請奉行としてこれを監督した 23 。これは、豊臣家への懐柔策をとりつつも、その動向を厳しく監視するという、徳川方の二重戦略を象徴する出来事である。このような板倉勝重による安定した統治基盤が、翌年の慶長10年における、さらなる経済支配の拡大を可能にしたのである。

第三章:慶長十年(1605年)のリアルタイム・クロニクル ― 統制の深化と拡大

慶長10年(1605年)は、徳川による天下支配が新たな段階へと移行した年である。この年、家康は政治と経済の両面から豊臣家への圧力を一層強め、「伏見舟運統制」はその戦略の中核をなすものとして、深化と拡大を遂げる。

(春)将軍職譲渡と徳川体制の盤石化

慶長10年4月16日、徳川家康は将軍職を三男の秀忠に譲った。そして家康自身は「大御所」として駿府に隠居する形をとりながらも、実権は握り続けた。二代将軍秀忠や三代将軍家光も、この伏見城で将軍宣下を受けており、伏見が徳川将軍家にとって重要な儀礼の場であったことがわかる 1

この将軍職の世襲は、関白職を世襲する摂関家とは別に、武家の棟梁たる将軍職は徳川家が代々受け継いでいくことを天下に宣言するものであった。これにより、豊臣秀頼が将来的に関白あるいは将軍として政権を継承するという、世上に広く残っていた期待は完全に打ち砕かれた。この政治的デモンストレーションは、豊臣方への無言の圧力となり、これ以降、徳川幕府が展開する経済的締め付けが、単なる一時的な政策ではなく、新体制による恒久的な支配構造の構築の一環であることを明確に意味づけたのである。

(同年)角倉了以の登場と保津川(大堰川)開削事業の開始

この年、徳川による舟運統制は、既存航路の支配から、新たな航路の創出によるネットワーク全体の再編へと、その戦略を拡大させる。その主役となったのが、京都の豪商・角倉了以であった。

了以は、幕府に対して丹波国と京を結ぶ保津川(大堰川)の開削願書を提出し、慶長10年、正式にその許可を得た 24 。これは、急流と巨岩に阻まれて舟の航行が不可能であった約30数kmの区間を切り開き、丹波地方から嵯峨(京)までを舟運で結ぶという、前代未聞の壮大な土木事業であった。

この事業の画期的な点は、幕府が直接財政を投じて行うのではなく、角倉了以という民間事業家の莫大な私財と、彼が持つ高度な土木技術を活用する形で行われたことであった 25 。了以は、朱印船貿易で得た巨万の富をこの事業に投じ、自らも石割斧を振るったと伝えられる 24 。その見返りとして、彼は開削後の水運から得られる収益を独占する権利を与えられた 24

幕府は許認可権という「権威」を行使することで、財政負担を一切負うことなく、戦略的に重要な経済インフラの整備を達成した。一方、了以は幕府の強力な後ろ盾を得て、独占的な利益を確保する。この関係は、現代でいう「官民連携(Public-Private Partnership)」の先駆的な事例であり、戦国時代の直接的な領地支配から、経済システムを通じた間接支配へと移行しつつあった徳川政権の、新たな国土経営の手法を象徴している。

この保津川舟運の開通は、丹波地方の豊富な木材や米、雑穀といった物産を、陸路よりもはるかに効率的に京へと運び込むことを可能にした。そして、その物資は嵯峨から高瀬川や淀川水系を通じて、伏見、さらには大坂へと流通する。これは、徳川が管理する舟運ネットワークを上流へと大きく拡大し、畿内全体の経済圏を徳川主導で再編する、極めて戦略的な一手であった。

(通年)伏見奉行所と過書座による日常的統制の実態

角倉了以による大規模な開発事業が進む一方で、現場レベルでは、伏見奉行所と過書座による日常的かつ地道な統制が着実に実行されていた。伏見奉行の柴山定好と長田義正 16 の指揮下、過書座は淀川を航行する全ての過書船、すなわち旅客を運ぶ三十石船から、大小様々な貨物船(二十石から二百石積まで)の運航を厳格に管理した 18

彼らの日常業務は多岐にわたった。

  1. 運上金の徴収: 航行する船一艘ごとに営業税である運上金を徴収し、幕府の財源とした。
  2. 積荷の検査: 豊臣方への武器・弾薬や兵糧の流入を阻止するため、積荷の検査を厳しく行った。
  3. 人員の監視: 大坂に出入りする不穏な浪人や諸大名の家臣団の動向を監視し、情報収集にあたった。
  4. 紛争の仲裁: 舟運業者間の縄張り争いや運賃を巡るトラブルを裁定し、幕府の権威を末端まで浸透させた。

このようなミクロなレベルでの絶え間ない統制は、大坂の豊臣家を経済的に締め付け、情報的に孤立させる効果を持った。それは、来るべき軍事対決である大坂の陣に向けた、静かなる、しかし極めて効果的な布石であった。


【表1】慶長年間(1600-1605)における伏見・淀川水運関連年表

西暦/和暦

政治・軍事

経済・舟運政策

主要人物

典拠資料ID

1600/慶長5年

関ヶ原の戦い。家康、伏見城で戦後処理を行う。

伏見奉行所を創設。

徳川家康、松平忠吉

14

1601/慶長6年

-

伏見銀座を開設し、貨幣鋳造を開始。

徳川家康

17

1602/慶長7年

伏見城在番制を定め、奉行2名を置く。

-

柴山小兵衛定好、長田喜兵衛義正

15

1603/慶長8年

家康、征夷大将軍に就任。江戸幕府を開く(二重公儀体制の開始)。

過書座を設置 し、淀川舟運を幕府の直轄管理下に置く。

徳川家康、河村与三右衛門、木村宗右衛門

18

1604/慶長9年

京都所司代・板倉勝重が畿内統治を強化。

-

板倉勝重

22

1605/慶長10年

家康、将軍職を秀忠に譲り、徳川家の世襲を宣言。

角倉了以が保津川(大堰川)の開削に着手

徳川家康、徳川秀忠、角倉了以

24


第四章:統制のメカニズム ― 二つの柱:「過書座」と「角倉了以」

慶長10年を象徴とする「伏見舟運統制」は、性質の異なる二つの強力なメカニズムによって推進された。一つは、幕府の権力を背景とした公的な統制機関である「過書座」。もう一つは、民間資本と先進技術を駆使した事業家である「角倉了以」。この二つの柱が車の両輪として機能することで、淀川水系全体の物流ネットワークは、急速に徳川の管理下へと組み込まれていった。

公的統制機関「過書座」の解剖

慶長8年(1603年)に設置された過書座は、徳川幕府による直接的な舟運支配の要であった。

  • 組織と権限: 過書奉行に任命された河村与三右衛門と木村宗右衛門を頂点とし、淀川の舟運に関する一切の許認可権を独占した 18 。彼らは幕府の代官として、舟運業者から運上金や冥加金といった営業税を徴収し、それを幕府の財政に組み入れる役割を担った 20 。これは、年貢米に依存する伝統的な封建領主の財政から、商工業経済を把握し、そこから収益を上げる近世的な国家財政への移行を示す重要な一歩であった。
  • 対象と規則: 統制の対象は、旅客輸送を専門とする「三十石船」から、米や材木などを運ぶ大小様々な貨物船に至るまで、淀川を航行する全ての船に及んだ 2 。航行区域は、当初こそ伏見から大坂、尼崎、伝法までと広範囲に設定されたが、後には伏見から大坂天満の八軒家までの淀川筋に限定された 18 。これは、他の業者を排除して過書船の独占性を強化し、管理をより容易にするための措置であったと考えられる。

民間事業家「角倉了以」の戦略的位置づけ

過書座が既存航路の「支配」を担ったのに対し、角倉了以は新規航路の「創出」という役割を担い、幕府の舟運戦略に新たな次元をもたらした。

  • 人物像: 角倉了以(1554-1614)は、単なる商人ではなかった。彼は安南国(現在のベトナム)などとの朱印船貿易で巨万の富を築いた国際的な交易商人であり 17 、同時に、河川の急流に立ち塞がる巨岩を砕き、瀑布を平準化する高度な土木技術と、数千人の労働者を動員する卓越したプロジェクトマネジメント能力を兼ね備えた稀有な事業家であった 25 。その家系は元々、室町幕府の侍医を務め、土倉(金融業)や酒屋を営んで財を成した京都の名家であった 24
  • 幕府との関係: 了以の河川開削事業は、幕府の許可と強力な後ろ盾なしには到底不可能であった。彼は幕府が構想する国家的なインフラ整備計画を、民間資本を用いて代行する「政商」であった 24 。その見返りとして、完成後の通航料徴収権という莫大な利権を独占的に得たのである 24 。大堰川の難工事をわずか半年で完成させたその手腕を、家康は高く評価し、直ちに駿河国の富士川の開削を命じるなど、了以を国家プロジェクトに不可欠なパートナーとして重用した 25

過書座による「既存航路の支配」と、角倉了以による「新規航路の創出」は、見事な相乗効果を生み出した。両者によって、淀川水系全体の物流ネットワークが、上流から下流まで一貫して徳川の管理下に置かれることになり、その経済的価値は飛躍的に増大した。これは、武力のみに頼らない、経済とインフラを通じた新たな天下統一の姿であった。


【表2】伏見舟運統制に関わる主要人物とその役割(慶長10年前後)

人物名

役職・立場

統制における具体的役割

典拠資料ID

徳川家康

大御所(前将軍)

舟運統制全体のグランドデザイナー。過書座の設置、角倉了以の登用を裁可し、豊臣家包囲網を構築した。

13

板倉勝重

京都所司代

伏見奉行を監督し、畿内全体の治安維持と豊臣家の監視を担当。統制を支える政治的安定を確保した。

22

柴山定好・長田義正

伏見奉行

伏見市中の行政と、過書座の日常業務を現場レベルで監督する実務責任者。

15

河村与三右衛門・木村宗右衛門

過書奉行(過書座)

淀川舟運の許認可権を掌握し、運上金を徴収する実務責任者。幕府の直接支配を体現した。

18

角倉了以

豪商・土木事業家

幕府の認可のもと、私財を投じて保津川を開削。幕府の舟運ネットワークを上流へと拡大させた。

24


第五章:歴史的意義とその後 ― 大坂の陣への道

慶長10年(1605年)を頂点とする一連の伏見舟運統制は、徳川幕府の支配体制を盤石にする上で、決定的な歴史的意義を持った。その影響は単に経済領域に留まらず、豊臣家との最後の対決である大坂の陣へと直結していく。

「二重公儀体制」の形骸化

伏見舟運統制、特に過書座による淀川水運の完全な掌握は、大坂の経済的自立性を根底から揺るがした。全国から大坂に集まる物資の多くは淀川を経由しており、その流れを徳川方が管理し、運上金を徴収することは、豊臣家の財政基盤を著しく悪化させることを意味した 5 。これにより、大坂の豊臣秀頼を頂点とする「関白型公儀」と江戸の将軍を中心とする「将軍型公儀」が並立するという「二重公儀体制」は、実質的に形骸化していった。豊臣家は、もはや天下の公儀たる実体を失い、畿内における一大名という勢力へと転落させられていったのである。

経済的兵糧攻めとしての機能

舟運の掌握は、豊臣家が全国の親豊臣大名から支援物資を受け取ったり、関ヶ原の戦い後にあふれた浪人たちを兵力として集めたりする際の、経済的・物理的な障壁となった。全ての船が幕府の監視下に置かれることで、武器や兵糧の密輸送は極めて困難になり、人の移動も筒抜けとなった。これは、慶長19年(1614年)に始まる大坂の陣に至るまでの約10年間にわたる、長期的な「経済的兵糧攻め」であったと評価できる。豊臣家は、経済的に孤立させられ、その力を徐々に削がれていった。

大坂の陣における兵站線としての完成

そして、ついに大坂冬の陣・夏の陣という軍事衝突が始まると、徳川方が整備・管理してきた淀川水運は、その真価を全く異なる形で発揮した。伏見は徳川軍の大本営となり 15 、管理下に置かれた淀川水運は、数十万に及ぶ大軍勢と膨大な量の兵糧・武器・弾薬を、京都や東国から大坂の包囲網へと輸送するための、極めて効率的な兵站線として機能した。伏見舟運統制は、平時における経済支配であると同時に、有事における勝利を確実にするための軍事インフラの整備でもあったのである。

徳川治世下での繁栄の礎

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡し、元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれる平和な時代が訪れると、この統制下で確立された舟運システムは、畿内経済の繁栄の礎となった。大坂は全国の物産が集まる「天下の台所」として栄え、伏見は良質な伏流水と米の集積地という利点を活かし、日本有数の酒造業の町として発展した 5

江戸時代を通じて、淀川には乗客を乗せた三十石船や、京の都へ物資を運ぶ高瀬舟が昼夜を問わず往来し、その賑わいは多くの文学や絵画に描かれた 2 。この平和な時代の物流ネットワークは、まさしく戦国の終焉期、徳川家康による深謀遠慮の戦略的布石の上に築かれたものであった。

結論:天下普請としての一大事業

慶長10年(1605年)を象徴とする「伏見舟運統制」は、単なる一地域の交通政策や経済政策の枠を遥かに超える、壮大なスケールを持った「天下普請」であった。それは、徳川家康が描いた天下統一事業の総仕上げであり、戦国乱世の終焉と、二百数十年続く泰平の世「パクス・トクガワーナ」の幕開けを告げる、時代の転換点を象徴する出来事であった。

この戦略の白眉は、その手法の巧みさにある。一方では、過書座という幕府直轄の官僚機構を創設し、法と制度による直接的な支配を徹底した。他方では、角倉了以という民間事業家の持つ莫大な資本と先進的な技術力を最大限に活用し、官民連携によるインフラ開発を推進した。この硬軟織り交ぜたアプローチは、武力による制圧から、法制度、経済、インフラを駆使した恒久的な支配体制へと移行する、近世国家・徳川幕府の高度な統治能力を如実に示している。

最終的に、この舟運統制は豊臣家を経済的に追い詰め、大坂の陣における徳川方の勝利を兵站面から決定づけた。そして戦乱の終結後は、畿内経済、ひいては日本経済全体の発展を支える大動脈として機能し続けた。交通インフラの掌握が、国家の形成と安定にいかに重要であるか。「伏見舟運統制」は、その普遍的な真理を現代に伝える、日本史上屈指の歴史的ケーススタディであると結論づけることができる。

引用文献

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  2. 淀川三十石船今昔 https://www.kyoto-wel.com/yomoyama/yomoyama10/059/059.htm
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  4. 京都伏見の歴史 - NPO法人 伏見観光協会 https://kyoto-fushimi.or.jp/rekishi02/
  5. 淀川が流域にもたらした恵み - 近畿地方整備局 https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/megumi.html
  6. 港町伏見と三栖閘門 伏見城外濠と宇治川との水位差を調整する運河 - 月桂冠 https://www.gekkeikan.co.jp/enjoy/kyotofushimi/water/water05.html
  7. 淀川の成り立ちと人とのかかわり - 近畿地方整備局 https://www.kkr.mlit.go.jp/yodogawa/know/history/now_and_then/kakawari.html
  8. 治水のあゆみ - 大阪府 https://www.pref.osaka.lg.jp/o130350/nishiosaka/history/index.html
  9. 1. 淀川(よどがわ)の舟運(しゅううん)の歴史 - 日本財団図書館(電子図書館) ジュニアリバースクール「船と川の環境教室」教材 https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00385/contents/017.htm
  10. 過書船(かしょせん) - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/word_j_ka/entry/030974/
  11. 過書船(カショブネ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%81%8E%E6%9B%B8%E8%88%B9-44442
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  14. HU038 伏見奉行所跡 - 京都市 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hu038.html
  15. 伏見奉行 https://www.piersnpeers.com/?page_id=1596
  16. 伏見奉行所 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/Sightseeing/HistorySpotFushimiBugyousyo.html
  17. 京都伏見の史跡(伏見奉行跡・伏見銀座跡・両替商跡・常盤御前就捕跡・角倉了以碑・市電発祥の地) http://www.akira3132.info/Fushimi_Hist2.html
  18. もとは過書(関所の通行証)を持つ船の意でしたが、江戸 ... - 摂津市 https://www.city.settsu.osaka.jp/material/files/group/43/inisie49.pdf
  19. 伏見の船大工 - 京都府教育委員会 https://www.kyoto-be.ne.jp/yamasiro-m/kanpou/9/kanpou9-2.pdf
  20. 2 運上と冥加|税務大学校 - 国税庁 https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/shiryou/library/02.htm
  21. 1.運上・冥加の時代 - 国税庁 https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/tokubetsu/h17shiryoukan/01.htm
  22. 板倉勝重とは 京都所司代の「神」対応 - 戦国未満 https://sengokumiman.com/itakurakatushige.html
  23. 板倉勝重 京都通百科事典 https://www.kyototuu.jp/History/HumanItakuraKatsushige.html
  24. 角倉了以 京都通百科事典 - 京都通百科事典(R) https://www.kyototuu.jp/History/HumanSuminokuraRyoui.html
  25. 水運の父 -角倉了以の足跡をたどる - Yagiken Web Site https://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2020/11/post-13ecbb.html
  26. 角倉了以 http://inoues.net/club/suminokura_ryoui.html
  27. 42.独力で運河を開削した角倉了以・素庵父子(2020.7.6) - Watt & Edison http://www.wattandedison.com/sugasugashiki42.pdf
  28. 保津川・富士川・高瀬川 - 角倉了以と通船事業 https://www.ejcs.co.jp/ejcsv1/wp-content/uploads/2022/01/72_kouen.pdf
  29. 伏見港の歴史 江戸時代(1603–1868)の伏見の成功に不可欠なのは、京都と大阪を結ぶ水運システム https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554321.pdf
  30. 三都 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%BD