最終更新日 2025-09-13

伴天連追放令(1587)

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天正十五年、筑前箱崎の決断:伴天連追放令の時系列的再構成と歴史的意義

序章:天下人の視線 ― 九州平定とキリスト教

天正15年(1587年)、九州を平定し、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、筑前国箱崎(現在の福岡市)の陣中にて突如として「伴天連追放令」を発した 1 。これは、織田信長以来のキリスト教に対する融和的政策からの劇的な転換点であり、その後の日本の対外関係と宗教史を大きく規定する分水嶺となった。本報告書は、この歴史的決断について、単なる法令解説に留まらず、発令に至るまでの緊迫した数週間の出来事を時系列で再構成し、その多層的な要因と歴史的意義を徹底的に解明することを目的とする。

信長の政策継承と秀吉の初期姿勢

織田信長は、南蛮貿易がもたらす経済的利益と、強大な力を持つ仏教勢力を牽制する目的から、キリスト教の布教を事実上保護した。その政策を継承した秀吉も、当初はキリスト教に対し融和的な姿勢を示していた 2 。天正14年(1586年)、秀吉は大坂城にイエズス会の日本準管区長であったガスパール・コエリョを招き、城内を案内するなど、異例の歓待をもって遇している 2 。この時点では、秀吉とキリスト教勢力との関係は極めて良好であり、秀吉自身もキリスト教を、南蛮貿易に付随する先進技術や富をもたらす、利用価値のある存在として認識していたと考えられる。

九州平定という転換点

しかし、天正15年、島津氏を討伐するために自ら大軍を率いて行った九州出兵は、秀吉にとってキリスト教の「実態」を目の当たりにする決定的な機会となった 5 。畿内や大坂で接していた宣教師たちの姿とは全く異なる、九州におけるキリスト教の強大な影響力、そしてそれが内包する政治的・社会的な歪みが、秀吉の政策を180度転換させる直接的な触媒となる。九州というキリスト教の先進地域に天下人として初めて足を踏み入れたことで、それまで報告として聞いていた問題が、統治の根幹を揺るがしかねない現実的な脅威として立ち現れたのである。この九州平定という軍事行動こそが、伴天連追放令という政治決断の不可欠な前提であった。

第一部:決断前夜 ― 秀吉の警戒心を醸成した複数の火種

伴天連追放令は、秀吉の一時的な感情によるものではない。九州平定の過程で顕在化した、相互に関連し合う複数の深刻な問題が、彼の警戒心を臨界点まで高めた結果であった。本章では、その要因を四つの側面に分けて詳細に分析する。

【主権侵害①】領土と統治権への挑戦 ― 長崎のイエズス会への寄進

天正8年(1580年)、肥前のキリシタン大名であった大村純忠は、南蛮貿易の拠点港として発展していた自らの領地、長崎と茂木をイエズス会に寄進した 7 。これは単なる土地の譲渡ではなかった。事実上、統治権ごと譲渡された長崎は教会領となり、イエズス会の管理下で要塞化が進められていたのである 9

この事実は、日本の歴史上「前代未聞」の事態であった 11 。秀吉の天下統一事業は、単なる軍事征服ではなく、日本という領域国家の主権を確立するプロセスであった。その中で、全国の大名の領地は、究極的には天下人たる秀吉から「一時的に給与されている」もの 11 という一元的な支配体制が構築されつつあった。しかし、イエズス会領長崎は、その支配が及ばない一種の「治外法権」区域に他ならなかった。九州平定の過程でこの事実を最終的に確認した秀吉にとって、これは自らが統一しようとしている国家の主権を根底から揺るがす、断じて容認できない行為であった。

したがって、追放令とほぼ同時に行われた長崎、茂木、浦上の没収と直轄領(天領)化 10 は、単なる宗教弾圧という側面以上に、

国家主権の回復と版図の確定 という、極めて高度な政治的・領土的意図を持つ行為であった。日本の領土の一部が、日本の統治秩序の外にある外国組織によって支配されるという異常事態を是正し、天下人としての排他的な統治権を確立することこそ、秀吉の狙いの核心にあったのである。

【主権侵害②】人身に対する支配権 ― 日本人奴隷売買問題

秀吉が九州で直面したもう一つの衝撃的な現実は、ポルトガル商人による大規模な日本人奴隷売買であった。戦乱で疲弊し、困窮した多くの日本人、特に女性や子供が買い集められ、奴隷としてマカオやマニラ、さらにはインドやヨーロッパ、南米にまで売られていたのである 14 。その数は数万人にのぼったとも推計されている 17

秀吉は九州滞在中にこの惨状を直接見聞し、激しい怒りを覚えた。イエズス会宣教師ルイス・フロイスが記した『日本史』には、秀吉が「ポルトガル人、シャム人、カンボジア人らが多数の日本人を購入し、彼らから祖国や親兄弟を剝奪し、奴隷として諸国へ連行していることを予は知っている」と語ったことが記録されている 18 。自国の民が家畜同然に扱われ、商品として国外に流出することは、天下人としての秀吉の国家的尊厳を著しく傷つけるものであった。

この問題の深刻さは、秀吉の対応の迅速さからも窺える。追放令が発布される前日の天正15年6月18日、秀吉は11か条からなる「覚」を発しているが、その中には「大唐、南蛮、高麗へ日本人を売り遣わし候事、曲事(違法行為である)。付けたり、日本においては人の売り買い停止の事」と明確に記されている 9 。これは、人身売買の禁止が、追放令と一体不可分の重要政策であったことを示す動かぬ証拠である。

秀吉の怒りは、単なる人道的な義憤に留まらない。それは、 統一国家の最高権力者として、自国民(=臣民)の身体と国家の威信に対する排他的な支配権を内外に宣言する という、強い意志の表れであった。この非道な取引に宣教師たちが関与、あるいは黙認していると秀吉が認識したこと 5 が、彼らを「邪法」を説く者として断罪し、追放する強力な大義名分となったのである。

【国内秩序の攪乱】宗教的排他性と社会不安 ― 神社仏閣の破壊

九州のキリシタン大名領内では、キリスト教の唯一神信仰に基づく排他的な行動が、深刻な社会的・文化的摩擦を引き起こしていた。高山右近の旧領であった高槻や明石、また大村純忠や有馬晴信の領内では、既存の神社や仏閣が組織的に破壊され、僧侶が迫害される事例が多発していた 4 。有馬領内だけでも40以上の寺社が破壊されたという記録も存在する 21

秀吉はこの問題を極めて重く見ており、宣教師コエリョに対し、「汝らはなぜ、神仏の寺社を破壊するのか。僧たちと融和しないのか」と直接詰問している 4 。追放令の条文にも、この寺社破壊が「前代未聞の暴挙」であると、強い言葉で断じられている 11 。多神教的な宗教観が社会の基盤となっている日本において、このような行為は単なる宗教対立に留まらず、地域の共同体を破壊し、社会秩序を根底から覆しかねない危険性をはらんでいた。

この背景には、秀吉自身の経験からくる、宗教勢力への深い警戒心があった。織田信長を長年にわたり苦しめた石山本願寺との戦いを間近で見てきた秀吉にとって、宗教を基盤とした強固な結束力が持つ軍事的・政治的脅威は、骨身に沁みていた。九州におけるキリシタン大名と信徒たちの強い連帯は、秀吉の目には第二の一向一揆となりかねない潜在的脅威と映ったのである 5 。したがって、秀吉の行動は、特定の宗教を弾圧するというよりも、

宗教対立による国内の分裂と混乱を未然に防ぎ、天下人として社会の安定と秩序を維持する という、為政者としての現実的な判断に基づいていた。

【直接的触発】軍事的脅威の顕在化 ― ガスパール・コエリョの傲慢と野心

それまで水面下で醸成されてきた秀吉の不信感を一気に爆発させ、追放令という強硬策へと踏み切らせる「最後の引き金」となったのが、イエズス会日本準管区長ガスパール・コエリョの存在であった。

コエリョは、秀吉との会見に際し、博多湾に大砲を搭載したフスタ船(小型ガレー船)を浮かべ、その軍事力を誇示した 4 。これは秀吉を歓待するどころか、威嚇するに等しい行為であり、天下人としての秀吉のプライドを著しく損なった 4 。さらに、秀吉の明国征服計画に言及し、ポルトガルの大型軍艦の斡旋を申し出るなど 9 、一介の宗教家を越え、対等な政治勢力の代表であるかのように振る舞った。

極めつけは、追放令の内示を受けた後の彼の行動であった。コエリョはそれに従うどころか、キリシタン大名に反秀吉の蜂起を促し、あろうことかスペイン領フィリピンのマニラ総督府に軍事援助を要請することまで画策したのである 6 。この動きは、秀吉が抱いていた「宣教師の背後にいる海外勢力」への危惧を、否定しようのない現実として突きつけた 24

コエリョの一連の言動から、秀吉は、キリスト教の布教が単なる宗教活動ではなく、 スペインやポルトガルによる海外領土拡大(植民地化)の尖兵として機能しているのではないか という本質的な疑念を確信へと変えた。コエリョが誇示したのは貿易船ではなく「軍船」であり 8 、彼が求めようとしたのは「援軍」であった 23 。これらの事実は、宣教師が軍事力と不可分であることを示唆していた。後にサン・フェリペ号事件(1596年)でスペイン人船員が語ったとされる「スペインは宣教師を先に送り込み、後に軍隊が来て征服する」という言葉 24 は、この時の秀吉の危惧が的を射ていたことを示している。コエリョの個人的な資質と政治的野心が、秀吉に「国家安全保障」の観点から、もはや猶予はないと判断させ、宣教師の即時排除という外科手術的な決断を下させたのである。

第二部:運命の数週間 ― 1587年7月の時系列ドキュメント

本章では、追放令が発令される天正15年6月(西暦7月)の出来事を、可能な限り日付を特定し、リアルタイムで再構成する。秀吉、コエリョ、そして高山右近。三者の動きが緊迫の中で交錯し、事態が急転していく様を詳述する。

表1:伴天連追放令に至る時系列表(天正15年6月 / 西暦1587年7月)

日付(旧暦/西暦)

豊臣秀吉の動向

イエズス会(コエリョ)の動向

高山右近らキリシタン大名の動向

出来事の意義

6月上旬 / 7月上旬

九州平定完了。筑前箱崎に滞陣し、戦後処理に着手。

コエリョ、フスタ船で秀吉を訪問。軍事力を誇示し、秀吉の不興を買う 4

右近、秀吉に同行。コエリョの楽観論に不安を感じる 24

秀吉とコエリョの直接接触。両者の間に決定的な亀裂が生じる。

6月14日頃 / 7月19日頃

高山右近を召喚し、棄教を迫る。「信仰を捨てるか、領地を捨てるか」という究極の選択を突きつける 4

(不明)

右近、秀吉の命令に衝撃を受け、苦悩の末、熟慮の時間を求める。

秀吉がキリシタンへの圧力を具体化。影響力の大きい右近を試金石とする。

6月18日 / 7月23日

博多の陣中にて、人身売買禁止などを含む11か条の「覚」を発布 20

コエリョ、秀吉の使者から詰問を受ける。右近から事態の急変を知らされ、危機を確信する 20

右近、熟慮の末、棄教を拒否し、播磨明石6万石の領地返上を決断 4

追放令の前提となる法令が発布。右近の決断が秀吉を激怒させ、事態を不可逆的にする。

6月19日 / 7月24日

右近の決断を受け、正式に「定」5か条、すなわち「伴天連追放令」を発布。長崎・茂木・浦上を没収し直轄領とする 13

追放令の通達を受ける。20日以内の退去は不可能と弁明し、猶予を求める 24

右近、改易される 24 。小西行長らに庇護される 28

秀吉の対キリスト教政策が公式に確定。日本の宗教史の転換点。

6月20日以降 / 7月25日以降

コエリョの弁明を受け入れ、平戸での一時滞在を許可 24 。畿内の教会等の破壊を命じる 13

コエリョ、平戸へ退去。しかし裏ではマニラへの援軍要請を画策し、日本潜伏を決定 23

キリシタン大名たちに動揺が走る。信仰と忠誠の間で対応が分かれる。

追放令の具体的な執行開始と、イエズス会側の水面下での抵抗の始まり。

高山右近への棄教命令と、その決断

事態を動かした最初の大きな一歩は、秀吉による高山右近への棄教命令であった。右近は熱心なキリシタンであると同時に、有能な武将として秀吉の信頼も厚かった。秀吉の狙いは、キリシタン大名の筆頭格である右近を屈服させれば、他の大名や信徒もそれに追随するだろうという、高度な政治的計算に基づくものであった 6

しかし、右近の信仰は秀吉の想像を遥かに超えていた。使者を通じて、あるいは直接、棄教を迫る秀吉に対し、右近は「私が殿を侮辱した覚えはまったくない。…キリシタンをやめることに関しては、たとえ全世界を与えられようとも致さぬし、自分の霊魂の救済と引き替えることはしない。よって私の身柄、封禄、領地については、殿が気に召すように取り計らわれたい」と述べ、毅然として棄教を拒否した 4 。そして、播磨明石6万石という大名の地位を自ら返上したのである。

この右近の態度は、秀吉に二重の衝撃を与えた。一つは、自らの命令が絶対であるはずの家臣が、それを拒否したことへの怒り。もう一つは、キリスト教徒の忠誠心が、封建的主君である自分ではなく、別の絶対的な存在(神)に向けられているという事実を目の当たりにしたことへの恐怖であった 4 。右近の決断は、秀吉にキリスト教の「危険性」を確信させ、もはや宣教師の存在を容認できないという最終判断を下させる決定的な要因となった。

法令の二段階発布とその意図

右近の改易を決定した秀吉の動きは迅速であった。彼は、まず6月18日に人身売買の禁止や大名の無許可入信の禁止などを盛り込んだ包括的な「覚」(11か条)を出し 20 、翌19日に宣教師の追放に特化した「定」(5か条)を発布した 10 。この二段階の手順は、秀吉の周到さを示している。まず、誰もが非と認める人身売買などの社会問題を前面に押し出して追放の大義名分を固め、その上で核心である宣教師の国外退去という宗教的規制に踏み込んだのである。

6月19日に公布された「伴天連追放令」の条文は、秀吉の意図を明確に示している。

  1. 第一条(神国論と邪法): 「日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、太以て然るべからず候事。」 11 – 日本の国家的アイデンティティを「神国」と定義し、キリスト教をその秩序を乱す「邪法」と断定。追放令の根本理念を宣言した。
  2. 第二条(領民の強制改宗と寺社破壊の禁止): 「其国郡の者をば、門徒になし、神社仏閣を打破らせ候儀、前代未聞に候。」 11 – キリスト教勢力による強引な布教と文化破壊を具体的に非難した。
  3. 第三条(宣教師の20日以内退去): 「伴天連其知恵の法を以て、…則、日本之仏法を破るに付ては、伴天連儀、日本の地ニハおかせられ間敷候間、今日より廿日の間に用意仕、可帰国候。」 4 – 宣教師(伴天連)を仏法、すなわち日本の伝統的秩序の破壊者とみなし、20日以内の国外退去を厳命した。
  4. 第四条(貿易船の許容): 「黒舟の儀は商売の事に候間、各別に候之条、年月を経、来往すべく候。」 6 – 南蛮貿易の経済的利益を確保するため、布教を伴わない商船(黒舟)の来航は従来通り許可するという、現実的な判断を示した。
  5. 第五条(商人の往来自由): 「是より以後、仏法の妨げを不成輩は、商人にても何者にても、きりしたん国より往還くるしからず候事。」 27 – 日本の秩序を妨げない限り、商人の往来は自由であることを再確認し、貿易継続の意思を明確にした。

この法令により、秀吉は宣教師という「組織」を排除対象とする一方で、個人の信仰や経済活動には一定の余地を残すという、硬軟両様の姿勢を示したのである。

第三部:追放令の波紋 ― 各勢力の対応と法令の実効性

伴天連追放令は、九州の地に激しい動揺をもたらした。天下人の突然の命令に対し、宣教師、キリシタン大名、そして信徒たちは、それぞれ苦渋の選択を迫られることになった。

表2:伴天連追放令に対する主要キリシタン大名の対応一覧

大名名

領地

追放令への対応

その後の動向

高山右近

播磨明石6万石

棄教を拒否し、領地を返上。改易される 28

小西行長、前田利家らに庇護され、客将として生きる。後に徳川家康によりマニラへ追放され、同地で没した 31

小西行長

肥後宇土14万石

秀吉側近として苦しい立場に。右近を庇護し、追放令の穏便な執行に努める 20

追放令下で信仰を維持しつつ、政治家として活動。秀吉死後、布教を奨励するも関ヶ原の戦いで敗れ、処刑された 33

有馬晴信

肥前日野江4万石

表向きは従う姿勢を見せつつ、領内に宣教師を匿い、保護した 3

信仰を継続。後に岡本大八事件に連座し、徳川家康の命により処刑された 35

大村喜前

肥前大村2万石

父・純忠の死後、家督を継承。追放令を受け、領内の宣教師を保護するも、後に棄教。

キリシタンを弾圧する側に回り、領内の教会を破壊した。

大友義統

豊後府内37万石

父・宗麟の死後、家督を継承。追放令を受け、早々に棄教し、領内の宣教師を追放した 36

文禄の役での失態により改易された。

信仰を貫いた者、政治と信仰の間で揺れた者たち

追放令への対応は、各人の信仰の深さと政治的立場によって大きく分かれた。

追放令の象徴的存在となった 高山右近 は、大名の地位を失っても信仰を貫き通した。その姿は国内外のキリスト教徒に大きな感銘を与え 4 、彼の存在は、秀吉にとってはキリスト教の「危険性」を、信徒にとっては「殉教」の理想を体現するものとなった。

一方、自身も熱心なキリシタンでありながら、秀吉の側近として九州統治の重責を担う 小西行長 は、最も困難な立場に立たされた 33 。彼は追放された右近を匿い 29 、秀吉に法令の過酷さを諫言しつつも 20 、表向きは天下人の命令に従い、政治家としての生命線を保とうとした。彼の苦悩は、追放令下のキリシタン大名が直面したジレンマを象徴している。

有馬晴信 大村喜前 (当初)は、領内に宣教師を積極的に匿い、潜伏を支援した 3 。彼らの領地は、宣教師たちにとっての避難所となった。対照的に、九州の名門であった

大友義統 は、父・宗麟の死後、追放令を受けて早々に棄教し、領内の宣教師を追放した 36 。このように、キリシタン大名の対応は一枚岩ではなく、信仰と権力の間で揺れ動く武士たちの葛藤が浮き彫りとなった。

「禁教すれども貿易は許す」という二枚舌政策

追放令の最も重要な特徴は、宣教師の追放を厳命する一方で、ポルトガル商船の来航は明確に許可した点にある 1 。これは、キリスト教の組織的拡大という政治的リスクは排除しつつも、南蛮貿易がもたらす莫大な経済的利益(生糸、火薬原料の硝石、鉄砲など)は手放したくないという、秀吉の極めて現実的な国家経営思想の表れであった 12

しかし、この「禁教奨商」の方針は、構造的な矛盾を抱えていた。当時の南蛮貿易は、宣教師が通訳や商談の仲介役を担うなど、布教と貿易が不可分な構造にあったからである 5 。貿易を許可する限り、宣教師が商人に紛れて日本に潜入したり、密かな布教活動を行ったりすることを完全に防ぐことは不可能であった 1

結果として、追放令の執行は「不徹底」なものとならざるを得なかった。コエリョは「船の準備ができない」との理由で退去の猶予を得ると 24 、多くの宣教師と共に九州のキリシタン大名領に潜伏し、水面下で活動を続ける道を選んだ 24 。秀吉も、貿易への影響を考慮し、これを黙認せざるを得ない状況が続いた。

この秀吉の政策は、現代で言うところの「政経分離」に近い。彼は、キリスト教というイデオロギー(政治・文化的リスク)と、南蛮貿易という経済的利益を切り離そうと試みた。これは、グローバル化の波に直面した日本の為政者による、 外国との関係を「管理」しようとする最初の本格的な国家戦略 であったと言える。追放令の「不徹底さ」は、秀吉の政策の欠陥というよりは、むしろ彼の高度な現実主義と、当時の歴史的構造の限界を示すものとして評価すべきであろう。

終章:追放令が遺したもの ― 禁教政策の序章として

伴天連追放令は、その後の日本の歴史に長く、そして深い影を落とすことになる。

サン・フェリペ号事件への伏線

追放令は、秀吉のキリスト教およびその背後にあるヨーロッパ勢力への不信感を決定的なものにした。この不信感は、9年後の慶長元年(1596年)、土佐沖に漂着したスペイン船サン・フェリペ号の乗組員の発言をきっかけに再燃する 24 。このサン・フェリペ号事件が引き金となり、秀吉は京都や大坂にいたフランシスコ会の宣教師や信徒らを捕らえ、長崎の西坂で処刑するという、より過酷な弾圧へと踏み切った(日本二十六聖人殉教) 2 。伴天連追放令によって確立された「キリスト教は日本の秩序を乱す危険な存在である」という認識が、この悲劇の直接的な伏線となったのである。

徳川幕府への継承

秀吉が打ち出した「禁教すれども貿易は許す」という基本方針は、徳川家康にも引き継がれた 1 。しかし、幕藩体制の安定を最優先する徳川幕府は、岡本大八事件などを経て禁教政策をさらに強化し、最終的には島原の乱(1637年)を決定的な契機として、貿易すらもオランダと中国に限定する厳格な「鎖国」体制へと舵を切っていく 2 。秀吉の追放令は、この約250年に及ぶ日本の禁教と、いわゆる鎖国政策の出発点として、歴史的に極めて重要な位置を占めている。

「潜伏キリシタン」の時代の始まり

この追放令により、日本のキリスト教は公の活動の場を失った。教会は破壊され、宣教師は追放または潜伏を余儀なくされた 13 。残された信徒たちは、幕府の厳しい監視と弾圧を逃れ、自らの信仰を隠し、共同体を維持しながら密かに受け継いでいく「潜伏キリシタン」の時代へと入っていく 39 。これは、日本独自のキリスト教信仰文化が形成される契機ともなった。

総括

伴天連追放令は、秀吉個人の一時的な感情や宗教的偏見によるものではない。それは、九州平定という実地検分を経て、 ①国家主権の確立(領土・人民)、②国内の社会・宗教的秩序の維持、③外国勢力による軍事的・政治的侵略への安全保障 という、統一政権の根幹に関わる複数の課題に対応するために下された、複合的かつ高度な政治的決断であった。そして、その「不徹底さ」にこそ、国家的リスクを管理しつつ経済的利益を追求しようとした、天下人・豊臣秀吉の現実主義的な国家経営の思想が凝縮されているのである。この決断は、その後の日本の進路を大きく規定し、近世日本の国際的・宗教的性格を形作る、最初の、そして決定的な一歩となった。

引用文献

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  34. キリシタン大名有馬氏の本拠地 - おらしょ-こころ旅 https://oratio.jp/p_column/arimashinohonkyochi
  35. 岡本大八事件と有馬晴信 | 株式会社カルチャー・プロ https://www.culture-pro.co.jp/2022/06/17/%E5%B2%A1%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%85%AB%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E3%81%A8%E6%9C%89%E9%A6%AC%E6%99%B4%E4%BF%A1/
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  37. 志を立てる – 天正遣欧使節に思う – | 臨済宗大本山 円覚寺 https://www.engakuji.or.jp/blog/39386/
  38. なぜ日本はキリスト教を厳しく禁じたんですか? - 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 https://kirishitan.jp/guides/689
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  40. (Ⅰ)宣教師不在とキリシタン「潜伏」のきっかけ https://kirishitan.jp/histories/his001
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