最終更新日 2025-09-30

住吉大社社領安堵(1600)

慶長5年、関ヶ原の戦い直後、徳川家康は豊臣秀頼の領地である住吉大社の社領を安堵。豊臣家の権威を切り崩し、自らの支配を畿内に浸透させる政治戦略。伝統と秩序の継承者として、寺社勢力を懐柔・統制した。
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権威の交代劇:慶長五年「住吉大社社領安堵」の深層分析―徳川家康の天下布武と宗教戦略―

序章:慶長五年、天下分け目の年における住吉大社

慶長五年(1600年)、日本の歴史を二分する関ヶ原の戦いが勃発したこの激動の年に、摂津国一之宮である住吉大社において、一見地味ながらも極めて重要な事変が発生した。「住吉大社社領安堵」である。この出来事は、従来、徳川家康による戦後の寺社保護政策の一環として語られることが多かった。しかし、本報告書は、この事象を単なる宗教政策の枠内に留めず、家康の天下統一事業における、高度に計算された政治的・軍事的布石として再評価し、その多層的な意義を解き明かすことを目的とする。関ヶ原の戦いの前後という、日本史上最も緊迫した情勢下で、この「安堵」がいかなる政治的意図をもって、いかなるタイミングで断行されたのか。本報告書は、事変を「リアルタイムな時系列」と「多層的な政治力学」の交点から徹底的に分析し、その真相に迫るものである。

考察の前提として、まず「社領安堵」と「朱印地」という制度の理解が不可欠である。戦国時代から江戸時代初期にかけて、最高権力者が寺社の所領を公式に承認する「安堵」という行為は、単にその経済的基盤を保障するに留まらなかった。それは、対象となる寺社を自らの権威の庇護下に置き、その支配関係を内外に明示するという、極めて政治的な意味合いを帯びていた。特に、徳川将軍家が発行する朱印状によって安堵された土地は「朱印地」と呼ばれ、年貢や諸役を免除される特権を有した 1 。この朱印地は、将軍の代替わりごとに、前将軍の朱印状を提示して所領の再確認を受ける必要があった 1 。これは、寺社の権益の根源が常に将軍の権威にあることを確認させる儀式であり、権力者と寺社との直接的かつ従属的な結びつきを制度化したものであった 3 。この制度的背景を理解することこそ、慶長五年の住吉大社への安堵が持つ、単なる経済的保障を超えた戦略的重要性を把握する鍵となるのである。

第一章:関ヶ原前夜―豊臣政権下における住吉大社の地位と社領

慶長五年(1600年)の社領安堵が持つ画期的な意味を理解するためには、まず、それ以前の住吉大社がどのような存在であったかを明確にする必要がある。結論から言えば、関ヶ原の戦いの直前において、住吉大社は経済的にも、地理的にも、そして庇護関係においても、疑いようもなく「豊臣方の存在」であった。

第一節:摂津国一之宮としての歴史的権威と豊臣家との関係

住吉大社は、古代より航海の神、和歌の神として篤い信仰を集め、摂津国において最も格式の高い神社、すなわち「一之宮」としての地位を確立していた 4 。その権威は朝廷のみならず、時の武家政権からも深く尊崇されてきた。天下統一を成し遂げた豊臣秀吉もまた、この伝統的権威を無視することはなく、むしろ積極的に関係を深めている。天正十六年(1588年)には、母である大政所の病気平癒と延命を祈願し、一万石もの加増を申し出るなど、住吉大社を個人的な信仰の対象としても重視していたことが記録されている 5 。この申し出が実際にどの程度実行されたかは不明であるが、豊臣政権の最高権力者が大社に対して特別な配慮をしていた事実は動かない。

第二節:文禄検地と2,060石の朱印地確定

豊臣家と住吉大社の関係を決定づけたのが、豊臣秀吉による全国的な検地、すなわち太閤検地であった。文禄三年(1594年)、住吉大社にも検地が実施され、その結果、社領(朱印地)は「欠郡(かけのこおり)住吉内」において2,060石と正式に定められた 5 。この「2,060石」という石高は、豊臣政権による公的な認定であり、住吉大社の経済的基盤を保証するものであった。そして、この数値こそが、後に徳川家康が「安堵」を行う際の基準となり、江戸時代を通じて幕末まで維持されることになる、極めて重要な意味を持つ数字となるのである。

ここで注目すべきは、社領の所在地である「欠郡」という地名である。これは室町時代から存在する摂津国南部の歴史的な地域区分であり、主に住吉郡や東成郡周辺を指す呼称であった 7 。この地域は、豊臣家の本拠地である大坂城の南方に広がり、まさに豊臣政権の支配基盤の中核に位置していた 9 。つまり、住吉大社の社領は、豊臣政権の心臓部とも言える場所に存在し、その権益は秀吉の朱印状によって直接保証されていたのである。

第三節:豊臣秀頼の治世と大坂における権勢

秀吉の死後、幼い豊臣秀頼がその後を継ぐと、政権の実権は五大老・五奉行に移るが、豊臣家の権威そのものが失われたわけではなかった。秀頼は大坂城を本拠とし、関ヶ原の戦後処理で大幅に削減された後ですら、摂津・河内・和泉の三国、約65万石を領有する一大名として、依然として絶大な権勢を誇っていた 10

そして、この豊臣家の膝元に位置する住吉大社は、引き続き豊臣家の手厚い庇護を受けていた。秀頼とその母・淀殿は、慶長年間に住吉大社の象徴ともいえる反橋の石桁を寄進したほか、南門や東西の楽所などを造営している 5 。これらの大規模な寄進は、豊臣家が住吉大社の最大の庇護者(パトロン)であり続けていたことを具体的に示すものである。住吉大社にとって、自分たちの権威と経済を保証してくれる最高権力者は、疑いようもなく大坂城に座す豊臣秀頼であった。

このような状況下で、豊臣家とは別個の権力主体である徳川家康が、住吉大社に対して直接「社領安堵」を行うという行為は、単なる寺社保護という穏やかなものではない。それは、豊臣家の主権を公然と侵害し、自らの権威を豊臣家の本拠地に直接投射する、極めて挑戦的かつ政治的な行為だったのである。

第二章:慶長五年(1600年)の動乱と住吉大社―時系列で追う社領安堵の政治的背景

慶長五年の「住吉大社社領安堵」は、孤立した事象としてではなく、天下の情勢が刻一刻と変化する中で実行された、戦略的な一手であった。その政治的意味を深く理解するためには、この年の出来事を時系列で追い、その中で家康の行動がどのように位置づけられるかを確認する必要がある。

第一節:初頭~春―上方における家康の権力掌握と対立の先鋭化

慶長四年(1599年)閏三月に五大老の一人であった前田利家が死去すると、豊臣政権内の権力バランスは大きく崩れた。これを好機と見た徳川家康は、慶長五年正月、大坂城西の丸に入り、事実上の政務を執り始める。この家康の動きは、豊臣家恩顧の武将たちの反発を招き、特に行政実務を担う五奉行の石田三成との対立を決定的なものにした。

三月、加藤清正、福島正則ら七将が石田三成を襲撃するという事件が発生する。この混乱を収拾したのは家康であり、彼の調停によって三成は奉行職を解かれ、居城である佐和山への隠居を余儀なくされた 13 。この事件を通じて、家康は対立勢力の中心人物を中央政界から排除し、上方における政治的優位を確立した。この時期、畿内の空気は、もはや豊臣家の権威ではなく、徳川家康の圧倒的な存在感によって支配されつつあった。

第二節:五月―決戦前夜の布石:石清水八幡宮への大規模安堵

家康の次なる標的は、会津の上杉景勝であった。上杉家の謀反を口実に、家康は諸大名を率いての会津征伐を決定する。しかし、彼が東国へ向けて大坂を発つ直前の五月二十五日、家康は驚くべき行動に出る。武家の守護神、源氏の氏神として篤い信仰を集める石清水八幡宮に対し、実に361通もの朱印状を一度に発給し、その広大な社領を安堵したのである 15

これは、来るべき天下分け目の戦いを前に、畿内における最重要の宗教的権威を自らの保護下に置き、西軍に与させないための、極めて周到な根回しであった。豊臣秀頼が依然として大坂に存在する状況下で、家康が単独で朱印状を発行しているこの事実は、彼がもはや豊臣政権の一大老としてではなく、自らを天下の統治者として位置づけていたことの何よりの証左であった 19 。この石清水八幡宮への大規模安堵は、家康の宗教勢力に対する一貫した戦略、すなわち「保護」を前面に出すことによる懐柔と統制の第一歩であり、後の住吉大社への安堵を読み解く上で重要な前例となる。

第三節:夏~秋―東西両軍の激突と天下の帰趨

七月、家康が会津へ出兵し、畿内が手薄になった隙を突いて、石田三成は毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、反家康の兵を挙げた(西軍結成)。彼らは家康の非を鳴らす「内府ちかひの条々」を諸大名に送りつけ、家康討伐の正当性を訴えた 20 。住吉大社が鎮座する摂津国は、西軍の総大将である毛利輝元の本拠地・大坂に隣接しており、この時期、完全に西軍の勢力圏と化していた。

そして九月十五日、美濃国関ヶ原において、徳川家康率いる東軍と石田三成らの西軍が激突する。兵力では西軍が優位に立ち、布陣も東軍を包囲する鶴翼の陣形で有利であった 21 。しかし、家康による戦前の周到な調略が功を奏し、西軍からは寝返りが続出する 13 。中でも、勝敗の鍵を握っていた小早川秀秋の裏切りが決定打となり、戦いはわずか半日で東軍の圧勝に終わった 23 。この軍事的勝利は、日本の権力構造を一夜にして根底から覆すものであった。

第四節:戦後処理と「住吉大社社領安堵」の断行

関ヶ原での勝利後、家康はすぐさま大坂城に入り、戦後処理に着手する。西軍に与した大名は容赦なく処分され、領地の没収(改易)や削減(減封)が断行された。この過程で、豊臣家の財政基盤であった蔵入地(いわゆる太閤直轄地)も、東軍諸将への恩賞という名目で大幅に削減され、豊臣家の所領は摂津・河内・和泉の約65万石にまで削られてしまった 10

「住吉大社社領安堵」が実行されたのは、まさにこの、家康が畿内において絶対的な軍事力と政治力を背景に、新たな秩序を構築しつつあった、このタイミングであったと推定される。安堵状の正確な日付を記した史料は現存しないものの、一連の政治的文脈から判断して、関ヶ原の戦勝後、年内に行われたと考えるのが最も自然である。戦前の石清水八幡宮への安堵が、来るべき決戦に向けた「懐柔」と「連携」の布石であったのに対し、戦後の住吉大社への安堵は、勝利者が旧敵の本拠地で行う「支配」と「権威の誇示」という、より強力なメッセージ性を帯びていたのである。

時期

政治・軍事の動向

家康の寺社政策

住吉大社周辺の情勢

一月~三月

家康、大坂城西の丸で政務を執る。石田三成襲撃事件と家康による調停。

-

豊臣家の庇護下。家康が上方に滞在し、政治的影響力を増大させる。

五月

家康、会津征伐を決定し、東下を開始。

石清水八幡宮に361通の朱印状を発給し、社領を安堵 15

豊臣家の庇護下。家康による畿内宗教勢力への懐柔策が始まる。

七月~八月

石田三成ら西軍が挙兵。伏見城の戦い。

-

西軍の勢力圏内となり、大坂城が西軍の拠点となる。

九月十五日

関ヶ原の戦い。東軍が勝利。

-

戦いの帰趨により、支配権力が豊臣家から徳川家へ移ることが決定的となる。

九月下旬以降

家康、大坂城に入り戦後処理を開始。西軍大名の改易・減封。豊臣家の領地削減。

住吉大社社領安堵(推定)

東軍の勝利により、新たな権力構造が構築される。豊臣家の権威が失墜。

第三章:「住吉大社社領安堵」の多層的分析―徳川家康の深謀

慶長五年、関ヶ原の戦勝直後に行われたとみられる「住吉大社社領安堵」は、単なる恩恵的な措置ではなかった。その背後には、徳川家康の老練な政治家としての、幾重にも張り巡らされた深謀遠慮が存在した。この安堵という一つの行為に込められた、複数の戦略的意図を解き明かす。

第一節:意図① 豊臣家支配域への「権威の楔」

最も重要な意図は、豊臣家の権威をその本拠地において根底から切り崩すことにあった。家康による安堵は、豊臣秀頼の領国である摂津国内の神社に対し、領主である秀頼を完全に飛び越えて直接行われた。これは、豊臣家の領主としての主権を公然と無視し、「この地の、そして日本の真の最高統治者は豊臣秀頼ではなく、この私、徳川家康である」という事実を、これ以上ないほど明確に宣言する行為であった。

関ヶ原の戦後、家康は豊臣家を一大名として存続させる一方で、その力を着実に削いでいった 10 。大坂城に豊臣家が存在し続けるという、いわば二重権力構造ともいえる過渡期において、家康は武力だけでなく、こうした象徴的な行為を通じて自らの権威を浸透させ、豊臣家の権威を相対化させる「ソフトパワー」による支配を積極的に推し進めた 25 。豊臣家が代々手厚く庇護してきた摂津国一之宮である住吉大社に、自らの名で直接朱印状を与えることは、その象徴的な一手であり、豊臣家の支配域に打ち込まれた強烈な「権威の楔」だったのである。

第二節:意図② 伝統と秩序の継承者としてのアピール

家康は、織田信長のように既存の宗教権威と正面から衝突し、焼き討ちにするような強硬策を取らなかった。むしろ、三河一向一揆との死闘の末に和議を結んだ経験などから、宗教勢力を武力のみで屈服させることの困難さと非効率さを誰よりも深く理解していた 27 。彼の基本戦略は、既存の権威を破壊するのではなく、それを巧みに保護・利用することで、自らが戦乱の世を終わらせ、古来の伝統と秩序を再興する正統な支配者であることを天下にアピールすることにあった。

摂津国一之宮という由緒ある大社を、戦乱の影響からいち早く保護し、その社領を安堵することは、自らの支配が破壊ではなく「安定」と「継続」をもたらすものであることを示す、極めて効果的なプロパガンダであった。特に注目すべきは、安堵された石高が、豊臣秀吉が定めたものと全く同じ「2,060石」であった点である 5 。ここに家康の政治的狡知が凝縮されている。彼は社領を増やすことも、減らすこともできたはずである。もし増やしていれば、それは豊臣家を超える気前の良さを示すことになるが、同時に他の寺社からの同様の要求を招き、無用な財政負担と混乱を生む危険があった。逆に減らせば、住吉大社はもちろん、他の寺社勢力からも反感を買い、新政権への不満の種を蒔くことになっただろう。そこで家康は、石高という「経済的実態」は一切変えず、その保証者という「政治的主体」だけを豊臣から徳川に鮮やかにすり替えてみせた。これにより、家康は最小限のコスト(新たな土地の供出なし)で、権威の奪取と寺社の懐柔という、最大限の政治的効果を得ることに成功した。これは、物理的な戦闘ではなく、象徴と権威を巡る「もう一つの関ヶ原の戦い」であり、家康がこの戦いにおいても完勝したことを示している。

第三節:意図③ 畿内宗教勢力への協調と統制の二面性

家康の狙いは、住吉大社一社に留まるものではなかった。この安堵は、畿内に数多く存在する他の有力寺社に対する、明確なメッセージでもあった。すなわち、「徳川に従順であれば、既存の権益は保証される」という、懐柔の意思表示である。これは家康の巧みな宗教政策における「アメ」の部分であった。関ヶ原の戦後、未だ先の見えない状況にあった寺社勢力にとって、この家康の迅速な対応は、新時代の統治者として頼るに足るという印象を与えたに違いない。

しかし、家康の政策は単なる協調に終わらない。朱印状という形式で安堵を行うこと自体が、寺社の権益の根拠を徳川家が握ることを意味し、将来的な統制への布石となっていた。将軍の代替わりごとの朱印状更新の義務は、寺社を恒常的に幕府の権威に従属させる効果的なシステムであった。事実、家康は慶長六(1601)年の高野山を皮切りに、次々と主要寺院に対して寺院法度を発布し、寺院運営への介入を強めていく 26 。住吉大社への安堵は、一見すると寛大な措置でありながら、その実、徳川の寺社制度という巨大な枠組みへ組み込む第一歩であった。この「協調」と「統制」の二面性こそが、家康の宗教政策の真骨頂であり、260年以上にわたる江戸幕府の安定の礎を築く要因の一つとなったのである。

第四章:安堵後の住吉大社と徳川の世

慶長五年(1600年)の社領安堵は、住吉大社のその後の歴史を大きく規定する決定的な出来事となった。この安堵によって、大社は戦国の動乱期を乗り越え、近世という新たな時代における確固たる地位を築くことになる。

第一節:江戸時代を通じて維持された朱印地

徳川家康によって安堵された2,060石の朱印地は、その後、徳川幕府の治世を通じて一度も変更されることなく、幕末まで維持された 5 。これは、慶長五年の決定が、その場しのぎの政策ではなく、徳川の治世における住吉大社の地位を恒久的に定めるものであったことを示している。歴代将軍は代替わりごとに朱印状を再発行し、住吉大社の社領を保証し続けた。これにより、大社は安定した経済基盤の上で、その宗教的権威を維持することが可能となった。

第二節:大坂の陣までの徳川・豊臣両家からの崇敬

社領の法的な保証者が徳川家康となった一方で、地理的に近接する豊臣家との関係が即座に断絶したわけではなかった。豊臣秀頼は、慶長十九年(1614年)から二十年(1615年)の大坂の陣で滅亡するまでの間、住吉大社の造営を続けるなど、引き続き庇護者として振る舞っていた 5 。この時期、住吉大社は徳川家という新たな公的権力と、豊臣家という旧来の地域的権力という、二つの巨大な存在から崇敬を受ける特殊な立場にあった。

しかし、この微妙なバランスは、両者の最終決戦である大坂の陣によって終わりを告げる。慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣において、徳川家康は住吉社の神主宅を本陣として利用したという記録が残っている 29 。これは、住吉大社が最終的に徳川方に与した(あるいは与せざるを得なかった)ことを明確に示唆している。豊臣家の膝元にありながら、その敵対勢力の総大将に本陣を提供したという事実は、もはや大社が豊臣家ではなく、徳川家を自らの庇護者として認識していたことの証左に他ならない。慶長五年に家康が打った布石が、14年の歳月を経て、最も重要な局面で実を結んだ瞬間であった。

第三節:江戸幕府の寺社制度下における位置づけ

豊臣家が滅亡し、名実ともに関西が徳川の支配下に入ると、住吉大社は完全に江戸幕府の寺社制度の中に組み込まれていった。朱印地経営は、幕府の権威を背景に行われ、大社は領内の百姓から年貢を収納し、軽微な行政権や裁判権も行使する、安定した領主としての地位を享受した 1 。家康による慶長五年の安堵は、結果として、住吉大社が戦国の動乱を乗り越え、近世を通じてその権威と経済基盤を維持するための決定的な礎となったのである。

結論:単なる社領安堵を超えて―慶長五年の事変が持つ歴史的意義

慶長五年(1600年)の「住吉大社社領安堵」は、その字面が示すような単なる寺社領の承認という行為に留まるものではない。それは、徳川家康が天下分け目の戦いに勝利した直後という、極めて重要な政治的タイミングを捉え、旧敵である豊臣家の本拠地において、その権威を根底から切り崩すために放った、極めて洗練された政治戦略であった。

本報告書で詳述した通り、この事変は以下の三つの点で重要な歴史的意義を持つと結論づけられる。

第一に、徳川による天下統一が、関ヶ原の戦いのような圧倒的な軍事力のみによって達成されたのではなく、石清水八幡宮や住吉大社といった伝統的権威を巧みに再編し、自らの支配体制に組み込むことによっても成し遂げられたことを示す、象徴的な事例である。家康は、破壊者ではなく秩序の再建者として振る舞うことで、その支配の正統性を構築していった。

第二に、豊臣家から徳川家への権威の移譲が、大坂の陣による物理的な滅亡に先立って、象徴的・制度的なレベルで着々と進行していたことを明らかにする。住吉大社の社領保証者を豊臣秀頼から徳川家康へとすり替えるこの行為は、目に見えぬ「権威の城」を内部から攻略する、静かなる攻城戦であった。

第三に、家康の現実主義的かつ周到な宗教政策、すなわち「協調」というアメと「統制」というムチを使い分ける二面性が、いかにして江戸幕府260年の長期安定政権の礎を築いたかを物語る、初期の重要な一断面である。この一件は、後の幕府による全国の寺社支配体制の雛形とも言えるものであった。

したがって、慶長五年の「住吉大社社領安堵」は、単なる一神社の経済的安泰を保証した歴史上の一コマではない。それは、戦国の終焉と新たな時代の幕開けを告げる、静かな、しかし決定的な「権威の交代劇」であった。徳川家康という稀代の政治家の深謀遠慮が、軍記物には描かれない形で、しかし確かに歴史を動かしたことを示す、一級の史実なのである。

引用文献

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