八戸港改修(1600)
慶長五年、南部利直は伊達政宗の脅威と領内不安の中、八戸(鮫浦)の北方交易拠点としての潜在的価値を再発見。物理的改修は不可能も、27年かけ根城南部氏を移封し、政治的改修を完了。八戸港発展の礎を築いた。
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慶長五年『八戸港改修』の歴史的実像:戦国終焉期における南部氏の海洋国家構想
序論:『八戸港改修(1600年)』という伝承の再検討
利用者様より提示された「八戸港改修(1600年)」という事変は、陸奥国八戸における北方交易の拠点整備として伝わっています。しかし、慶長五年(1600年)に具体的な港湾の「改修」工事、すなわち防波堤の築造や埠頭の整備といった土木事業が行われたことを直接的に示す同時代の史料は、現在のところ確認されていません。
歴史を紐解くと、当時この地にあった港は「八戸港」ではなく、「鮫浦(さめのうら)」と呼ばれていました 1 。この鮫浦が近代的な港湾として本格的な修築工事に着手されるのは、大正八年(1919年)以降のことであり 5 、その後、昭和四年の八戸市制施行を経て、翌昭和五年に鮫港と湊川口が統合され、正式に「八戸港」と改称されました 4 。したがって、1600年という時点で「八戸港」という呼称や、近代的な意味での「改修」が存在したとは考え難いのが実情です。
しかし、この事実をもって当該事変を単なる誤伝として退けるべきではありません。歴史上の伝承には、しばしば事実の背後にある本質的な意味や、時代の転換点を象徴する記憶が込められています。慶長五年(1600年)は、天下分け目の関ヶ原の戦いが行われた、日本の歴史における最大の画期の一つです。この激動の年に、なぜ八戸の港が結びつけられたのか。
本報告書は、この「1600年の改修」という事象を、文字通りの土木工事としてではなく、戦国時代の終焉と江戸時代という新たな統治体制への移行期において、南部氏が後の八戸港となる「鮫浦」の戦略的・経済的価値を再評価し、将来の領国経営の基盤とするための**構想を開始した『画期』**として捉え直します。本報告書は、単一の出来事を追うのではなく、1600年前後の政治・経済・社会情勢を多角的に分析し、なぜこの時期に鮫浦が重要視されるに至ったのか、その歴史的必然性を「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」で解き明かすことを目的とします。これは、地域のアイデンティティの根源を探る試みでもあります。
第一章:慶長五年(1600年)― 陸奥国北部における地政学的緊張と南部氏の存亡
慶長五年(1600年)、南部領が港湾開発のような平時の事業に着手できるほど平穏な状況ではなかったことを、まず理解する必要があります。この年は、南部氏にとってまさに存亡の機でした。
関ヶ原の戦いと南部利直の苦境
前年の慶長四年に父・信直の跡を継いだばかりの若き当主、南部利直は、関ヶ原の戦いに際して徳川家康率いる東軍に与することを決断します。しかし、利直が徳川方への合流のため軍勢を率いて南下した隙を突いて、領内で大規模な一揆が勃発します。旧和賀郡・稗貫郡の領主であった和賀忠親が、旧領回復を掲げて蜂起した「岩崎一揆」です。
この一揆の背後には、南部氏の宿敵である仙台藩主・伊達政宗の策謀があったとされています 10 。政宗は和賀忠親を煽動し、南部領を内側から切り崩すことで、自身の勢力圏を北へ拡大しようと目論んでいました。南部領は金の産地としても知られており、経済的な魅力も伊達氏の野心を刺激したと考えられます 10 。
結果として、南部利直は関ヶ原の本戦に参加することなく、領内へ引き返してこの一揆の鎮圧に全力を注がざるを得なくなりました。1600年という年は、利直にとって、領国の南の守りを固め、伊達氏の脅威に直接対峙することが最優先課題であり、港湾整備のような内政事業に目を向ける余裕は全くなかったのです。
領国統治の脆弱性
岩崎一揆の発生は、豊臣政権下で一度は確立されたかに見えた南部氏の領国支配が、未だ盤石ではなかったことを露呈しました。戦国時代の気風が色濃く残る領内において、一元的な支配体制を確立することは利直にとって急務でした。父・信直は、一族内の有力者であった九戸政実を滅ぼすなど、強権的な手法で領内の統一を進めましたが、その路線を継承し、安定した近世大名としての統治基盤を築くことは、若き利直の双肩に重くのしかかっていたのです 11 。
このように、1600年時点の南部領は、南からの軍事的圧力と、領内の統治不安という二重の危機に直面していました。この状況は、港湾改修という物理的な事業を不可能にした一方で、逆説的にも、新たな戦略の必要性を南部氏に痛感させる契機となりました。南方の陸路が伊達氏の脅威によって不安定であるならば、代替となる安定した経済基盤と兵站路を確保しなければならない。その視線が、伊達領から地理的に離れた北東の太平洋岸、すなわち鮫浦へと向けられる素地が、この軍事危機の中で育まれつつあったのです。
第二章:近世大名への脱皮 ― 南部利直の領国経営と海洋政策の萌芽
南部利直は、単に戦国の武将として領土を守るだけでなく、近世的な領国経営者として藩の経済基盤を確立しようとした、先見性のある大名でした。その経営戦略の中核には、常に「海」、すなわち港湾の活用がありました。「八戸港改修」の構想は、利直の領国全体に及ぶグランドデザインの一部として理解することができます。
領国各地における港湾政策の実績
利直の港湾への関心は、八戸周辺に限定されたものではありませんでした。彼の政策は、領内の海岸線全体に及んでいます。
- 宮古港の整備: 慶長十六年(1611年)の大津波で壊滅的な被害を受けた宮古に対し、利直は元和元年(1615年)に自ら現地を視察し、町割(都市計画)を行って復興を主導しました 12 。これは、災害復旧に留まらず、宮古を藩の重要な港湾都市として再定義する意図があったことを示しています。
- 野辺地湊の活用: 盛岡藩の重要な産物であった尾去沢鉱山の銅や、二戸以北で生産される大豆は、野辺地湊から大坂へ積み出されました 13 。利直は、これらの藩の専売品を効率的に輸送するため、野辺地湊の機能を重視し、藩の経済を支える物流拠点として活用しました。
これらの事例は、利直が港湾を領国経営の生命線と捉え、その開発と活用に極めて積極的であったことを物語っています。
盛岡城築城と海上輸送
慶長年間、利直は父の事業を継ぎ、本拠地を三戸から盛岡へと移し、壮大な盛岡城の築城を開始します 14 。この巨大プロジェクトには、膨大な量の石材、木材、そして食料といった資材が必要でした。これらの輸送には、北上川水系を利用した河川交通と並行して、海上交通路の確保が不可欠であったと考えられます。特に、領内各地から重量物を集積し、効率的に輸送する上で、港湾の役割は決定的に重要でした。
同時代の大名たちとの共時性
利直のこうした海洋重視の政策は、彼一人の独創ではありませんでした。戦国時代が終わり、安定した統治が求められるようになったこの時代、多くの先進的な大名たちが、従来の米(石高)に依存した経済からの脱却を目指し、交易と流通によって富を生み出そうとしていました。
- 伊達政宗: 宿敵である伊達政宗は、慶長遣欧使節を派遣するために自ら洋式帆船サン・ファン・バウティスタ号を建造させ、スペイン領メキシコとの直接交易を試みました 15 。これは、海外交易によって藩を豊かにしようとする壮大な試みでした。
- 黒田長政: 筑前に入府した黒田長政は、古代からの貿易港である博多に隣接する地に新たに福岡城を築城し、城と港を一体化した都市開発を行いました 18 。これにより、博多商人の経済力を領国経営に取り込み、藩の発展の礎としました。
- 加藤清正: 肥後熊本の加藤清正もまた、朱印船貿易に積極的に取り組み、東南アジアとの交易によって大きな利益を上げていました 20 。
これらの事例と比較すると、南部利直の港湾政策もまた、**「海を制する者が経済を制し、領国を安定させる」**という、近世初期の大名経営の新しいモデルを実践するものであったことがわかります。利直が八戸(鮫浦)を「新たな海の拠点」として構想した 22 のは、この大きな時代の潮流の中で、自らの領国を生き残らせ、発展させるための必然的な選択だったのです。「八戸港改修(1600年)」の構想は、南部氏が戦国の論理から脱却し、近世大名へと自己変革を遂げていく過程を象徴する出来事であったと言えるでしょう。
第三章:1600年、鮫浦のリアルタイムな情景 ― 潜在能力と政治的桎梏
慶長五年(1600年)当時、鮫浦はどのような場所だったのでしょうか。史料の断片からその姿を再構築すると、大きな潜在能力を秘めながらも、深刻な政治的制約を抱えていた実態が浮かび上がります。
港湾としての地理的優位性
鮫浦は、天然の良港としての条件に恵まれていました。港の入り口に浮かぶ蕪島(かぶしま)が自然の防波堤の役割を果たし、太平洋の荒波から船を守る構造になっていました 2 。このため、古くから漁港として、また三陸沿岸を航行する船の避難港として重要な役割を担っていました 3 。
藩政初期には既に廻船の寄港地として利用され、港町としての町並みも形成されつつありました 2 。万治年間(1658-1661年)には、盛岡藩領の湊に奉公に出る女性の存在や、それを斡旋する業者の存在も史料からうかがえ、全国から人々が集まる一定の賑わいがあったことが示唆されています 25 。つまり、鮫浦はゼロから開発されるべき未開の地ではなく、港湾として発展する素地を十分に備えていたのです。
地域の支配者・根城南部氏という桎梏
しかし、この有望な港は、盛岡の藩主である南部利直の直接的な管理下にはありませんでした。この地を長年にわたって実質的に支配していたのは、南部一族の中でも高い独立性を誇った「根城(ねじょう)南部氏(八戸氏)」でした。
根城南部氏は、南北朝時代の建武元年(1334年)に南部師行がこの地に根城を築いて以来、約300年間にわたって八戸地方の領主として君臨してきました 26 。彼らは南部本家(三戸南部氏、後の盛岡南部氏)とは別の系統として独自の勢力を保ち、独自の家臣団を抱える存在でした 28 。
天正十八年(1590年)の豊臣秀吉による奥羽仕置によって、根城南部氏は公式には三戸南部氏の配下という位置づけになりましたが、その後も地域の事実上の支配者として強い影響力を持ち続けていました 26 。
二重権力構造という課題
したがって、1600年時点の鮫浦は、盛岡藩の領国内にありながら、根城南部氏の強い影響下に置かれた、いわば「二重権力」の状態にありました。港から上がる経済的な利益や、港を拠点とする人々は、盛岡の利直ではなく、まず根城の領主に従属していたと考えられます。
利直が、自らの領国経営戦略の一環として鮫浦を藩の経済拠点とするためには、この根城南部氏の存在が大きな政治的障害となっていたことは明らかです。港の潜在能力を最大限に引き出し、藩の富として直接吸収するためには、物理的なインフラ整備に先立って、この複雑な権力構造を整理する必要がありました。
この観点から見れば、南部利直にとっての「鮫浦改修」の第一歩は、防波堤を築くことでも、埠頭を建設することでもなく、 根城南部氏という政治的障壁を取り除き、鮫浦を藩の完全な直轄下に置くこと でした。物理的な改修の前に、まず領国統治体制の「整地」が不可欠だったのであり、1600年はその課題を明確に認識した年であったと言えるでしょう。
第四章:『北方交易』という金脈 ― 鮫浦に託された経済的野心
南部利直が鮫浦に注目した最大の理由は、単に領内の物資を輸送するためだけではありませんでした。その視線の先には、藩の財政を劇的に好転させる可能性を秘めた「北方交易」、すなわち蝦夷地(現在の北海道)との交易がありました。
松前藩による交易独占の構造
江戸幕府成立後、蝦夷地との交易は、松前藩が幕府から公的に独占権を認められていました 29 。松前藩は米がほとんど生産できない「無高の藩」であったため、アイヌとの交易で得られる産品を本州で販売することが、藩の唯一にして最大の財政基盤でした 29 。
アイヌからもたらされる昆布や鮭、ニシンといった海産物、あるいは熊などの毛皮、鷲の羽といった産品は、本州の市場、特に上方の経済圏で高く取引されました 32 。松前藩は、和人商人がアイヌと直接交易することを禁じ、すべての交易を藩の管理下に置くことで、この利益を独占していたのです 30 。
鮫浦の地政学的経済価値
このような公的な独占体制が存在する一方で、地理的に蝦夷地と隣接する南部領の港には、常に非公式な交易の可能性がありました。松前藩の監視を逃れた和人商人や、あるいはアイヌ自身が、より有利な条件で取引するために南下してくることも考えられます。
太平洋側に位置し、蝦夷地への航路も開けていた鮫浦は、こうした非公式な交易、いわば「密貿易」の拠点として、まさに理想的な立地でした。鮫浦の価値は、港単体の機能によって決まるのではなく、 「松前藩が独占する北方の生産地」と「巨大な本州の消費市場」とを結ぶ、代替ルート上の結節点 という、広域的なネットワークにおける位置づけによって規定されていたのです。
南部氏の経済戦略
米の生産が不安定で、しばしば冷害に悩まされる南部領にとって、この北方交易から得られる利益は極めて魅力的でした。もし鮫浦を完全に掌握し、北方からの物資が集まる拠点として機能させることができれば、それは藩にとって新たな「金脈」となり得ます。公式に松前藩と交渉して交易への参入を試みるにせよ、非公式な交易を黙認してそこから利益を吸い上げるにせよ、まずはその玄関口となる港を直轄下に置くことが絶対条件でした。
慶安年間(1648-52年)の記録には、盛岡藩が八戸で廻船の建造を積極的に進めていたことが記されています 22 。これは、利直の時代から続く政策の延長線上にあると考えられ、単なる漁船ではなく、外洋を航行し交易を担う大型船の建造を目指していたことを示唆します。
結論として、南部利直の鮫浦への関心は、国内物流の改善という内向きの目的だけに留まるものではありませんでした。それは、松前藩が独占する北方交易の巨大な利益の一部を自領に環流させ、藩財政を抜本的に強化しようとする、 藩の枠を超えた野心的な経済戦略 に根差していたのです。「八戸港改修」構想の真の目的は、この壮大なビジョンを実現するための第一歩を踏み出すことにありました。
第五章:時系列による再構築 ― 構想から実現への道(1590年~1627年)
これまでの分析を統合し、「1600年の改修」という事象を、関ヶ原の戦いを挟む約40年間の歴史的文脈の中に位置づけ、その構想から実現に至るまでのプロセスを時系列で再構築します。
【第一幕:前史】天正十八年(1590年)頃 ― 政治的従属の始まり
豊臣秀吉による奥羽仕置は、東北地方の勢力図を塗り替えました。この時、八戸地方を支配していた根城南部氏は、南部本家である三戸南部氏(当主・南部信直)の配下として組み込まれることになります 26 。これにより、形式上は南部本家の統制下に置かれましたが、根城南部氏は依然として高い独立性を保持し、鮫浦を含む八戸地方は彼らの経済基盤として機能し続けていました。この時点では、鮫浦はあくまで根城南部氏の港であり、南部本家が直接関与する余地は限定的でした。
【第二幕:画期】慶長五年(1600年) ― 戦略的価値の再発見
関ヶ原の戦いが勃発し、当主となったばかりの南部利直は東軍に与します。しかし、その隙を突いた岩崎一揆への対応に忙殺され、領国は存亡の危機に瀕します 10 。この年、物理的な港湾改修は全く不可能な状況でした。
しかし、この危機的状況こそが、利直に新たな戦略的思考を促しました。南に伊達氏という恒常的な脅威を抱える以上、北方に安定した経済的生命線を確保することの重要性を痛感したのです。鮫浦は、その地理的条件と北方交易への潜在的な窓口として、領国経営の将来を左右する戦略的拠点として、この年に**「再発見」**されたと言えます。これが「1600年の改修」という伝承の核となる、構想の瞬間でした。
【第三幕:布石】慶長六年(1601年)~元和年間(1615年~) ― 周辺からの環境整備
関ヶ原後の混乱を乗り越えた利直は、近世大名としての領国経営を本格化させます。盛岡城の築城に着手し 14 、藩内の一元的な支配体制の強化を進めました。
この時期、利直の海洋政策は具体的な形で現れます。宮古港の復興と町割 12 、野辺地湊の藩有物資積出港としての活用 13 など、領内各地で港湾の整備・活用が進められました。そして八戸(鮫浦)においても、直接的な支配はまだ及ばないものの、廻船の建造を奨励する 22 といった間接的なアプローチが見られます。これは、将来の拠点化を見据えた産業基盤の育成であると同時に、地域の経済を藩の管理下へと徐々に引き寄せ、根城南部氏の力を相対的に削いでいくための、長期的な布石であったと考えられます。
【第四幕:実現】寛永四年(1627年) ― 政治的改修の完了
慶長五年(1600年)に抱かれた構想は、27年の歳月を経て、ついに決定的な局面を迎えます。南部利直は、対伊達藩の国境警備を名目として、根城南部氏に対し、本拠地を八戸から遠野(現在の岩手県遠野市)へ移すよう命じます(国替え) 26 。
これは、長年の懸案であった政治的障害を最終的に取り除くための、決定的な一手でした。この移封により、鮫浦を含む八戸地方は、名実ともに盛岡藩主の完全な直轄地となります。ここに、1600年に構想された**「政治的な改修」が完了**したのです。
これ以降、鮫浦は盛岡藩の太平洋側における海の玄関口として、その重要性を飛躍的に高めていきます。そして、この利直による直轄地化があったからこそ、後の寛文四年(1664年)に盛岡藩から分立して八戸藩が誕生した際、鮫浦はその新たな藩の経済的中心地となることができたのです 1 。
以下の表は、この約40年間の動向をまとめたものです。
表1:1600年前後における南部領と日本の主要動向
西暦(和暦) |
八戸・南部領の動向 |
日本全体の主要な出来事 |
関連資料 |
1590年(天正18年) |
豊臣秀吉による奥羽仕置。根城南部氏が三戸南部氏の配下となる。 |
小田原征伐、天下統一 |
26 |
1599年(慶長4年) |
南部信直が死去、利直が家督を継承。 |
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14 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。南部利直は東軍に与し、領内で和賀忠親の一揆に対応。 |
関ヶ原の戦い |
10 |
1601年(慶長6年) |
盛岡城の築城が本格的に開始される。 |
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14 |
1615年(元和元年) |
南部利直、宮古を視察し町割を行う。 |
大坂夏の陣、武家諸法度 |
12 |
1627年(寛永4年) |
根城南部氏が遠野へ移封。八戸周辺が盛岡藩の直轄となる。 |
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26 |
1664年(寛文4年) |
盛岡藩から分立し、八戸藩が成立。鮫浦港がその拠点となる。 |
|
1 |
この年表は、八戸という地域史の動向が、関ヶ原の戦いや江戸幕府の成立といった日本史全体の大きなうねりと、いかに密接に連動していたかを示しています。
結論:『八戸港改修(1600年)』の歴史的意味 ― 構想としての港湾開発
本報告書で詳述してきた通り、「八戸港改修(1600年)」は、具体的な土木工事の史実を指すものではありません。それは、戦国という旧時代の終焉と、江戸という新時代の幕開けという激動の転換点を生き抜いた南部利直が、近世大名として自らの領国を経営していく上で、 八戸(鮫浦)の持つ地政学的・経済的価値を新たに見出し、将来の北方交易をも見据えた藩の経済拠点とするための壮大な構想を抱いた「画期」を象徴する言葉 であると結論づけられます。
慶長五年(1600年)は、南部氏が存亡の危機に直面した年であり、物理的な建設事業は不可能でした。しかし、まさにその危機の中から、未来へのビジョンが生まれたのです。その構想の実現には、まず根城南部氏の移封という、27年の歳月を要した周到な「政治的改修」が必要でした。物理的な港の発展は、この政治的基盤が確立されて初めて可能となったのです。
利用者様が提示された「北方交易の港を改修し流通促進」という情報は、歴史の細部とは異なるものの、近世八戸の発展の「原点」が、戦国時代の終焉期における為政者の先見的なビジョンにあったという、歴史の本質を鋭く突いたものと言えます。この伝承は、八戸という都市の成り立ちが、単なる自然発生的な発展の結果ではなく、一人の指導者が描いた明確な国家構想に深く根差していることを、今日にまで力強く物語っているのです。
引用文献
- 【八戸港】沿革 - 国土交通省 東北地方整備局 港湾空港部 https://www.pa.thr.mlit.go.jp/hachinohe/hachinohekou/01enkaku.html
- 鮫村(さめむら)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%AE%AB%E6%9D%91-3021299
- 八戸港の歴史 https://hachinohe-port.org/hachinohe-port/history/
- 八戸港について http://www.hachinoheport-shinkokyo.com/about
- 沿革|八戸港湾・空港整備事務所 https://www.pa.thr.mlit.go.jp/hachinohe/050/010/20200101170000.html
- 小さな漁港だったんだよ|八戸港湾・空港整備事務所 https://www.pa.thr.mlit.go.jp/hachinohe/030/040/010/20200101192000.html
- 昭和4年に八戸港となる https://www.pa.thr.mlit.go.jp/hachinohe/030/040/020/20200101191000.html
- 2024八戸港 https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kenmin/ha-kokan/youran2024.pdf
- 八戸港と八戸工業地帯の歴史~セメント工場の設立をきっかけに漁村から工業地帯に変貌 https://articles.mapple.net/bk/20762/
- 伊達政宗が支援した「岩崎一揆」は失策か? 和賀忠親が見せた名家としての意地 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10835
- 南部信直 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E4%BF%A1%E7%9B%B4
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- 連載エッセイ276:富田眞三「慶長遣欧使節の謎」その3 - ラテンアメリカ協会 https://latin-america.jp/archives/59624
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- 【福岡県】福岡城の歴史 黒田如水ゆかりの巨大城郭 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2197
- 黒田官兵衛ゆかりの地、福岡県 - クロスロードふくおか https://www.crossroadfukuoka.jp/feature/fukuokakanbe
- 海外交易の時代 - 玉名市 https://www.city.tamana.lg.jp/q/aview/457/1000.html
- 加藤清正【第二章】シリーズ熊本偉人伝Vol.4 https://kumamoto.tabimook.com/greate/detail/4
- 八戸根城の南部直義は盛岡 の藩主南部利直の命により https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenzinkai192.pdf
- 八戸港 - 青森県庁 https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kendo/kowan/kowan_hachinohekou.html
- 水産業の概要 - 八戸市 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/suisanjimusho/1_1/3832.html
- 金の総称)は江戸時代、全 国から海運によって人や物 資がさかんに出入りする八 戸藩の海の玄関口であった。 - 〈青森県史〉の窓 3 「八戸湊」 https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenshi-mado34.pdf
- 考古(室町・安土桃山時代) | 八戸市博物館・史跡 根城の広場 https://hachinohe-city-museum.jp/kouko_kamakura/
- 八戸に根城を築いた根城南部氏 - 青森歴史街道探訪|津軽と南部の歴史 http://aomori-kaido.com/rekishi-kaido/contents_na/08.html
- 八戸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%88%B8%E6%B0%8F
- 松前藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E5%89%8D%E8%97%A9
- ② 松前藩の交易支配と 「場所」 https://www.hkd.mlit.go.jp/ob/tisui/kds/pamphlet/tabi/ctll1r00000045zc-att/ctll1r000000cz1r.pdf
- 中近世の蝦夷地 - 北海道デジタルミュージアム https://hokkaido-digital-museum.jp/hokkaido/kaitaku/
- 蝦夷地の近江商人 - 三方よし研究所 https://sanpo-yoshi.net/pdf02/046.pdf
- 【第一回】 八戸藩の誕生 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/somuka/hachinoheshinoshokai/1/1/2348.html