最終更新日 2025-10-09

六角氏式目制定(1558頃)

六角氏は観音寺騒動後、家臣団主導で「六角氏式目」を制定。大名権力制限と家臣団権益保護を目的とした異例の分国法で、六角氏の権力構造を象徴。
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六角氏式目制定の真実:観音寺騒動から紐解く、ある戦国大名の落日

序章:黄昏の名門・六角氏と近江の情勢

戦国時代の近江国南部、琵琶湖の東岸に聳える観音寺城を本拠とした佐々木六角氏。鎌倉時代以来の名門守護の家柄であり、室町時代を通じて近江一国にその権勢を誇った 1 。しかし、本報告書の主題である「六角氏式目」が制定される永禄年間(1558年-1570年)に至る頃には、その栄光は翳りを見せ、一族は存亡の危機に瀕していた。この式目制定という一事象を深く理解するためには、まずその背景にある六角氏の権力構造の特質と、彼らが直面していた内外の危機的状況を把握する必要がある。

近江守護・佐々木六角氏の権勢

六角氏の権力が頂点に達したのは、六角定頼の時代であった。定頼は室町幕府において管領代の地位に就き中央政界に大きな影響力を行使する一方、領国経営においても卓越した手腕を発揮した 2 。当時、北近江で台頭しつつあった浅井氏を事実上の支配下に置き、近江一国に安定した統治体制を築き上げたのである 2 。しかし、その支配体制は、織田信長のような強力な中央集権を目指す戦国大名とは趣を異にしていた。六角氏の権力基盤は、独立性の高い国人領主たちの連合体という、守護大名時代から色濃く受け継いだ性格を有していた 2 。つまり、六角氏の当主は絶対的な君主というよりも、国人領主たちの盟主、あるいは調整役としての側面が強かったのである。この構造は、定頼という傑出した当主の個人的な力量と求心力によって辛うじて維持されていたに過ぎなかった。

定頼死後の権力構造の変化

天文21年(1552年)に定頼が世を去ると、この脆弱な権力構造が抱える問題が一挙に露呈する。跡を継いだ六角義賢は、父ほどの求心力を発揮することができなかった。畿内における三好長慶との抗争に敗れ、中央政界での影響力を減退させたことは、六角氏の権威に影を落とす最初の兆候であった 2

そして、この権威の揺らぎを最も敏感に察知したのが、長年従属的地位に甘んじてきた北近江の浅井氏であった。当主・浅井久政の時代、浅井氏は六角氏への従属を余儀なくされていた。久政の嫡男・賢政(後の長政)は、元服に際して六角義賢から「賢」の一字を与えられ、さらに六角氏の重臣である平井定武の娘を正室に迎えさせられるなど、完全な臣従の証を立てさせられていた 4 。しかし、この屈辱的な状況に対し、賢政自身や浅井家の家臣団は強い不満を抱いており、定頼の死と義賢の権威低下は、彼らにとって独立への千載一遇の好機と映ったのである 5 。六角氏の足元で、後の観音寺騒動、そして式目制定へと繋がる地殻変動が、静かに始まっていた。


【表1】六角氏式目制定に至る主要事変年表(1552年〜1568年)

西暦(和暦)

六角氏・南近江の動向

浅井氏・北近江の動向

中央(幕府・畿内・織田氏)の動向

1552年(天文21)

六角定頼が死去。義賢が家督を継ぐ。

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1559年(永禄2)

義賢、家督を子の義治に譲るも実権は保持。

浅井賢政(長政)が元服。六角氏重臣の娘と離縁し、独立の意思を明確化。

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1560年(永禄3)

野良田の戦い で浅井長政に大敗。義賢の権威が失墜。義賢は出家し承禎と号す。

浅井長政、野良田の戦いで六角義賢を破り、北近江における支配権を確立。

桶狭間の戦いで織田信長が今川義元を討つ。

1563年(永禄6)

観音寺騒動 勃発。六角義治が重臣・後藤賢豊を謀殺。家臣団の反発を買い、義賢・義治父子は観音寺城から逃亡。

反乱を起こした六角家臣団から支援を要請される。

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1565年(永禄8)

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永禄の変 。将軍・足利義輝が三好三人衆らに殺害される。弟の覚慶(足利義昭)が近江へ脱出。

1567年(永禄10)

六角氏式目制定 。家臣団が起草し、義賢・義治父子が承認。大名権力を制限する内容であった。

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織田信長が美濃を平定。足利義昭を庇護下に置く。

1568年(永禄11)

織田信長の上洛要求を拒絶。 観音寺城の戦い で信長軍に敗北。観音寺城を捨て甲賀へ逃亡。戦国大名として事実上滅亡。

織田信長と同盟を結び、その上洛に協力。

織田信長、足利義昭を奉じて上洛を開始。


第一章:権威の失墜—野良田の戦いと家中不和の顕在化(1560年〜)

六角氏の権威失墜を決定づけ、後の内紛の直接的な引き金となったのが、永禄3年(1560年)の野良田の戦いにおける惨敗である。この一戦は、単なる軍事的な敗北に留まらず、六角氏の当主が領国内の国人領主たちに対して有していた盟主としての権威を根底から覆す、象徴的な事件となった。

浅井長政の離反と六角氏の対応

永禄2年(1559年)、15歳で元服した浅井賢政は、六角氏への従属の証であった平井氏の娘と離縁し、名を「長政」と改めた可能性も指摘されており、六角氏との手切れを明確に示した 5 。これに対し、六角義賢は当初、浅井方に寝返った愛知郡の高野瀬氏の居城・肥田城を水攻めにするが、大洪水により失敗に終わる 5 。この失敗は、義賢の軍事指導者としての威信に最初の傷をつけた。

そして永禄3年(1560年)8月、義賢は満を持して蒲生賢秀を先陣とする2万5千ともいわれる大軍を率い、浅井氏の本拠地・小谷城へと侵攻した 2 。兵力において圧倒的に優位に立つ六角軍の誰もが、この戦での勝利を疑わなかった。しかし、浅井長政はわずか1万1千の兵を率いて野良田(現在の滋賀県彦根市)でこれを迎え撃ち、寡兵ながら六角軍の先鋒を打ち破り、混乱に陥った本隊を撃退するという劇的な勝利を収めたのである 2

敗戦の衝撃と六角家中の動揺

野良田での敗北は、六角家中に深刻な衝撃を与えた。長年にわたり臣従させていたはずの、しかも若年の浅井長政に大敗を喫したという事実は、六角義賢の軍事的権威を完全に地に堕としめた 2 。この敗戦は、六角氏の軍事的中核をなす国人領主たちに、「もはや義賢殿の指揮では、この領国を維持することはできない」という強烈な危機感を植え付けた。これが、3年後の観音寺騒動において、家臣たちが当主の暴挙に対し、躊躇なく反旗を翻すことになる心理的な土壌を形成したのである。

この敗戦の責任を取る形で、義賢は出家して「承禎」と号した 2 。家督は前年に息子の義治に譲ってはいたが、実権は依然として義賢が握っていた。しかし、この権力移譲は事態を好転させるどころか、むしろ悪化させる結果を招いた。求心力を失った父・義賢(承禎)と、名ばかりの当主であることに不満を抱く若き当主・義治との間で、敗戦の責任や今後の領国経営の方針を巡り、深刻な対立が生じたのである 2 。権力の二重構造は家中に派閥争いを生み、不和を顕在化させた。野良田の戦いは、六角氏という大樹の内部に、修復不可能な亀裂を入れた分水嶺であった。

第二章:観音寺騒動—主君、城を追われる(1563年)

野良田の戦いから3年後、六角家中の内部対立はついに臨界点に達し、当主父子が自身の居城から追放されるという前代未聞の事態、「観音寺騒動」へと発展する。この事件は、六角氏における当主の権力が、いかに家臣団の支持の上に成り立つ脆弱なものであったかを白日の下に晒した。

事件前夜の観音寺城:若き当主の焦燥

当時の六角氏当主は六角義治であったが、実権は依然として隠居した父・義賢(承禎)が掌握していた。この状況に、若き義治は強い焦りと不満を抱いていた。特に彼の憎悪の対象となったのが、重臣の後藤賢豊であった 2

後藤賢豊は、先代・定頼の時代からの宿老であり、進藤貞治と共に「六角氏の両藤」と称されるほどの重鎮であった 2 。その人望は厚く、隠居した義賢からの信任も絶大で、時には当主代理として政務を執行できるほどの権限を有していた 2 。義治の目には、この賢豊が父・義賢の権威を笠に着て家中を牛耳り、自身の当主としての権力を阻害する最大の障害と映った。名実ともに当主となるためには、この後藤賢豊を排除する以外に道はない。そう考えた義治は、ついに実力行使という凶行に及ぶ。

永禄6年(1563年)10月1日:凶行

永禄6年(1563年)10月1日、六角義治は観音寺城に登城した後藤賢豊とその嫡男・壱岐守を、配下の者に命じて謀殺させた 2 。表向きの名目は「無礼討ち」とされたが、その実態は、義治が自身の権力を確立するために仕掛けた、あまりにも短絡的なクーデターであった 8

10月1日〜7日:家臣団の蜂起と当主の逃亡

しかし、このクーデターは義治が期待した結果とは正反対の事態を引き起こした。人望の厚い宿老の理不尽な謀殺は、六角家臣団に衝撃を与え、義治に対する決定的な不信と怒りを爆発させた 8

事件の直後、後藤氏と縁戚関係にあった永田景弘や三上恒安といった重臣たちは、観音寺城下の自邸を焼き払って抗議の意思を示すと、それぞれの領地へと引き上げていった 7 。さらに彼らは、池田秀雄、平井定武、進藤賢盛らと連携し、六角氏の宿敵である北近江の浅井長政に支援を要請、公然と義治に反旗を翻したのである 7 。彼らの行動は、六角家を滅ぼすための「裏切り」というよりは、暴走する当主を排除し、領国の秩序を「正常化」するための最後の手段であった。

反乱軍の勢いは凄まじく、義治はわずかな手勢では観音寺城を支えきれず、10月7日には居城を追われ、蒲生郡日野城主・蒲生賢秀を頼って逃亡した 7 。箕作城にいた父・義賢もまた、甲賀郡の三雲氏のもとへと落ち延びるしかなかった 7 。当主父子が、家臣によって本拠地から追放されるという、戦国史上でも稀に見る事態であった。

屈辱的な和睦と権威の完全失墜

この混乱を収拾すべく調停に乗り出したのが、義治を保護した蒲生定秀・賢秀親子であった 7 。日野城を拠点とする蒲生氏は、六角領国の重鎮であり、彼らの動向は事態の帰趨を左右する力を持っていた。蒲生氏の選択は、主家を見捨てることでも、反乱に加担することでもなく、六角氏という「体制」そのものの崩壊を防ぎ、国人領主たちの共同利益体である「六角領国」の秩序を維持することであった。

蒲生氏の仲介により、10月20日、反乱を起こした家臣団と六角父子の間で和睦が成立した 7 。しかし、その条件は六角氏にとって屈辱的なものであった。義治は隠居させられ、家督はその弟・義定に譲ること、そして殺害された後藤賢豊の次男・高治の家督相続と所領を安堵することなどが認められた 2 。義賢・義治父子は観音寺城への帰還こそ許されたものの、当主としての権威は完全に失墜した。この観音寺騒動は、六角氏の権力構造が逆転し、家臣団が当主をコントロールする時代の幕開けを告げる事件となったのである。

第三章:六角氏式目の制定—大名を縛る異例の分国法(1567年)

観音寺騒動は、六角氏の権力構造を根底から揺るがした。当主は家臣団の信頼を完全に失い、領国は崩壊の危機に瀕していた。この未曾有の危機を乗り越え、秩序を再建するために生み出されたのが、戦国時代の分国法の中でも極めて異例の性格を持つ「六角氏式目」である。

制定の背景—権力の再定義

観音寺騒動から4年後の永禄10年(1567年)4月、この式目は制定された 10 。一部で「1558年頃」とする説も見られるが、騒動との因果関係から、永禄10年制定が通説である。この4年間、六角家中の混乱は続いており、当主の権威が地に落ちたままでは、領国統治はままならなかった 11 。そこで、家臣団の結束を回復し、領国の崩壊を防ぐための「新たな統治のルール」が、当主と家臣団の双方から求められたのである 12

しかし、その制定プロセスは通常の分国法とは全く異なっていた。武田氏の「甲州法度之次第」や今川氏の「今川仮名目録」などが、大名がその権威をもって一方的に発布するものであったのに対し、六角氏式目は、蒲生定秀・賢秀親子をはじめとする重臣たちが草案を作成し、それを六角義治と父・義賢が承認し、共に遵守を誓うという「誓約」の形式をとっていた 10 。これは、もはや大名が家臣団の上に立つ絶対的な支配者ではなく、家臣団との「契約」によってその地位を保証される存在へと変質したことを明確に示している。

条文の徹底分析—大名権力への枷

全67条からなる式目の内容は、その制定経緯を色濃く反映しており、大名権力を強化するどころか、むしろ制限するための規定が随所に見られる 10

  • 恣意的権力行使の禁止 : 式目の条文には、「審理を行わずに一方的に御判や奉書を発給なさってはならない」(37条)、「荘園の段銭は今後も先例どおりにお命じになられよ」(39条)といったように、大名が裁判や徴税、所領の安堵などを独断で行うことを禁じる規定が数多く含まれている 10 。これらは、観音寺騒動の原因となった義治の独善的な振る舞いを戒め、権力の暴走に歯止めをかけることを直接的な目的としていた。
  • 家臣団の権益保護 : 内容の中心は、債務や民事訴訟に関する規定であり、家臣である国人領主たちの所領や権益を保護することに重きが置かれている 11 。原則として在地に根付いた慣習法を尊重する姿勢を示し、大名権力が国人たちの自治権に過度に介入することを牽制している。
  • 異例の敬語表現 : 最も特徴的なのは、条文の文末が「〜なさるように」「〜あるべからず候」といった、家臣が主君に対して用いる敬語表現で統一されている点である 16 。これは、この式目が家臣団から当主への「要求」であり「願い」であったことを物語っている。主君の権威を形式上は尊重しつつも、その実質的な権力は厳しく制限するという、六角家臣団の高度な政治的バランス感覚が窺える。

この式目は、日本の法制史上でも特異な「中世的立憲主義」の萌芽と評価することができる 18 。それは、絶対的な権力者(大名)を法の下に置き、その権力を制限しようとする試みであった。しかし、それは六角氏が先進的であったからではなく、観音寺騒動によって当主の権威が失墜し、家臣団が力を持ったという、特殊なパワーバランスが生み出した苦肉の策であった。


【表2】六角氏式目と主要戦国分国法の比較

分国法名

六角氏式目 (六角氏)

甲州法度之次第 (武田氏)

今川仮名目録 (今川氏)

塵芥集 (伊達氏)

制定主体

家臣団が起草し、大名が承認

大名(武田信玄)

大名(今川氏親・義元)

大名(伊達稙宗)

主たる目的

大名権力の制限、家中秩序の再建

大名権力による領国の一元的支配

訴訟の公正化と領国支配の安定

家中統制と領国支配

大名権力との関係

制限的・制約的

強化・集中的

安定化・客観化

強化・集中的

形式・文体の特徴

誓約形式、敬語表現

命令形式

条目形式

条目形式


第四章:束の間の結束と忍び寄る影(1567年〜1568年)

六角氏式目の制定により、観音寺騒動以来の混乱は一応の収束を見せ、六角領国の秩序は一時的に安定を取り戻したかのように見えた。家臣団の離反は食い止められ、大名と家臣団が共に遵守すべき「国法」として、統治の枠組みが再確認されたのである 13 。しかし、それはあくまで対症療法に過ぎなかった。一度失われた当主の求心力と、家臣団の根深い不信感が根本的に解消されたわけではなく、六角氏が内向きの改革に追われている間に、外部の情勢は彼らの想像を絶する速度で激変していた。

中央情勢の激変と織田信長の台頭

永禄8年(1565年)、室町幕府13代将軍・足利義輝が、三好三人衆と松永久秀らによって二条御所で殺害されるという衝撃的な事件(永禄の変)が起こる 19 。義輝の弟で、奈良・興福寺で僧となっていた覚慶(後の足利義昭)は、細川藤孝らの手引きで脱出し、次期将軍の座を目指して諸国の大名を頼る流浪の旅に出た 19

義昭は当初、近江の六角氏や越前の朝倉義景を頼ったが、彼らから十分な支援を得ることはできなかった 19 。そうした中、永禄10年(1567年)に美濃を完全に平定した尾張の織田信長が、義昭を庇護下に置くことを表明する 21 。信長は「天下布武」の印を掲げ、足利義昭を奉じて京都へ上洛するという大義名分を手に入れた 19 。六角氏が式目を制定し、内部の結束をようやく取り繕っていたまさにその時、中央では戦国の勢力図を塗り替える巨大なうねりが生まれつつあったのである。

迫りくる脅威

信長が岐阜から京へ上る最短ルートは、南近江、すなわち六角氏の領国を通過する道であった 20 。永禄11年(1568年)8月、信長は義昭を奉じ、数万の大軍を率いて岐阜を出発、瞬く間に近江の佐和山城まで兵を進めた 20

信長は六角義治に対し、和田惟政を使者として送り、足利義昭の上洛を助けるよう丁重に要請した 20 。しかし、六角義賢・義治父子はこの申し出を、熟慮の末に拒絶した 20 。これは単なる名門守護としての意地や、信長という新興勢力への侮りではなかった。当時、六角氏は信長と敵対する三好三人衆と連携しており、彼らにとっては信長こそが幕府の秩序を乱す存在であった 20 。伝統的な幕府政治の枠組みの中で自らの地位を保とうとする旧守的な思考が、時代の大きな変化を見誤らせる致命的な判断ミスを招いたのである。六角氏による内向きの改革の試みは、信長という外部からの圧倒的な圧力の前に、その真価を問われる間もなく、存亡の危機に直面することとなった。

終章:観音寺城の戦いと六角氏の没落

織田信長の上洛要求を拒絶したことで、六角氏の運命は決した。六角氏式目によって再建を目指した領国の結束は、信長が率いる圧倒的な軍事力の前に、その脆さを露呈することになる。

永禄11年(1568年)9月:観音寺城の陥落

信長の近江侵攻は、電光石火の早さで進められた。9月12日、織田軍は六角氏の防衛ラインの要である支城・箕作城と和田山城に猛攻をかけた 20 。特に堅城として知られた箕作城では、六角方も激しく抵抗したが、木下秀吉(後の豊臣秀吉)らが決行した夜襲によって、わずか一日で陥落してしまった 20

支城のあまりにも呆気ない落城の報は、本城である観音寺城の六角軍の戦意を完全に打ち砕いた。六角義賢・義治父子は、決戦を前にして観音寺城を放棄し、夜陰に紛れて甲賀郡の石部城へと逃亡した 2 。こうして、難攻不落を誇った巨大山城・観音寺城は、一度も本格的な戦闘が行われることなく、無血で開城された。

この敗北は、単に軍事力の差だけが原因ではなかった。観音寺騒動で露呈した当主と家臣団の信頼関係の崩壊こそが、本質的な敗因であった。いざという時に国人たちが一致団結して敵に当たることができず、蒲生賢秀のように、主家の敗北を察知するや否や、早々に信長に降伏し、嫡男の氏郷を人質として差し出す者も現れた 2 。式目という「法」で結束を誓っても、一度失われた「信頼」は、外部からの強大な敵の前ではあまりにも無力であった。

戦国大名・六角氏の終焉と式目の歴史的意義

観音寺城を失ったことで、戦国大名としての六角氏は事実上滅亡した 2 。信長はその後、畿内を平定し、足利義昭を15代将軍の座に就けた 20 。一方、甲賀へ逃れた六角義賢(承禎)は、その後もゲリラ戦を展開し、反信長包囲網の一角として信長を長く苦しめ続けたが、二度と近江の地を取り戻すことはできなかった 8

結論として、「六角氏式目」は、戦国時代の分国法の中でも極めて特異な歴史的意義を持つ文書であると言える。それは、大名権力の強化を目指す時代潮流の中で、逆に家臣団が大名の権力を法によって制限しようとした、画期的な試みであった。この式目は、守護大名から戦国大名への体制転換に失敗し、独立性の高い国人領主たちを最後まで抑えきれなかった六角氏の権力構造の特質を、何よりも雄弁に物語る象徴的な存在である。

しかし、歴史の皮肉というべきか、この画期的な式目は、六角領国の崩壊を防ぐための最後の試みでありながら、その制定からわずか1年半後には、領国そのものが消滅するという結末を迎えた。観音寺騒動から式目制定に至る一連の内紛は、六角氏の国力を決定的に削ぎ、結果として信長によるあまりにも呆気ない滅亡を招く遠因となった。六角氏式目は、滅びゆく名門が時代の激流の中で見せた、束の間の輝きであり、そして悲痛な最後の抵抗の証として、歴史にその名を刻んでいる。

引用文献

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  5. 「浅井長政」織田信長の義弟になりながらも、反旗を翻したワケとは? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/83
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  7. 観音寺騒動 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/key/kannonjisoudou.html
  8. 六角承禎―負けても勝った、名門大名 | 天野純希 「戦国サバイバー」 | よみタイ https://yomitai.jp/series/sengokusurvivor/03-rokkakuyoshikata/3/
  9. 『信長の野望革新』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/kakushin/kakushindata.cgi?up1=0&keys2=%E8%92%B2%E7%94%9F&IDv001=&IDn001=AND&sort=&print=20
  10. 六角氏式目(ロッカクシシキモク)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE-153001
  11. 六角氏式目 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E8%A7%92%E6%B0%8F%E5%BC%8F%E7%9B%AE
  12. 六角氏式目が制定された経緯を知りたい。また、活字化されたものを収録している資料はあるのでしょうか。。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000092721&page=ref_view
  13. 「六角義賢(承禎)」信長に最後まで抵抗し続けた男! 宇多源氏の当主 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/308
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  15. 蒲生定秀とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E8%92%B2%E7%94%9F%E5%AE%9A%E7%A7%80
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