最終更新日 2025-09-13

刀狩令(1588)

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天正十六年 刀狩令の深層分析:戦国から近世への扉を開いた社会大変革の全貌

序章:刀狩令とは何か ― 通説の再検討

天正十六年(1588年)、豊臣秀吉によって発布された「刀狩令」は、日本の歴史における画期的な法令として知られている。一般的には「農民から武器を没収し、兵農分離を推し進めた政策」として理解されている 1 。この理解は決して誤りではないが、刀狩令の持つ多層的な意義と、それがもたらした社会構造の根本的な変革を捉えるには、あまりにも表層的と言わざるを得ない。この法令は、単なる武器の回収に留まらず、中世以来の社会秩序の根幹を揺るがし、近世という新たな時代の扉を開いた、壮大な国家改造計画の中核をなすものであった。

本報告書は、戦国時代という視点から、天正十六年の刀狩令を徹底的に分析するものである。法令が発布されるに至った時代的要請、すなわち武装する村々と天下人の統治課題を明らかにし、巧妙に練られた条文の背後に隠された秀吉の多角的な意図を読み解く。さらに、法令が全国でどのように実行され、在地社会に何をもたらしたのか、そのリアルな実態に迫る。そして、太閤検地や海賊停止令といった同時代の政策群との連動性を解明し、刀狩令が単独の政策ではなく、社会全体を再編するための巨大なシステムの一部であったことを論証する。本報告を通じて、刀狩令が中世的原理であった「自力救済」を終焉させ、国家が暴力を独占する近世的統治秩序をいかにして創出したか、その歴史的意義を深く掘り下げていく。

第一章:天正十六年「刀狩令」発令の時代的背景 ― 武装する村と天下人の課題

刀狩令は、豊臣秀吉という一個人の着想から生まれたものではない。それは、百年に及ぶ戦乱が生み出した社会構造の歪みと、それを克服しようとする新しい権力の必然的な要請から生まれた政策であった。その背景には、「兵」と「農」が未分化であった社会の実態と、「自力救済」を原理とする武装した村落の存在があった。

1-1. 「兵」と「農」の未分化な社会

室町時代後期から戦国時代にかけての日本社会は、武士と百姓の身分的な境界が極めて曖昧であった 2 。地方の武士の多くは、平時には自ら土地を耕し、農村に根差して生活する「地侍」と呼ばれる存在だった。彼らは武装した農民であり、農民が戦となれば兵士として戦場に赴くことはごく当たり前の光景であった 3

この「兵農未分離」の状態は、戦国大名にとって深刻な軍事的課題をもたらした。兵力の大部分を農民に依存していたため、田植えや稲刈りといった農繁期には大規模な軍事行動を起こすことが困難だったのである 2 。この構造的欠陥にいち早く着目し、改革に着手したのが織田信長であった。信長は、家臣である武士を農村から切り離して城下町に集住させ、農業から解放された戦闘の専門家集団として育成した 2 。これにより、季節に左右されない常備軍の編成が可能となり、織田軍団の圧倒的な強さの源泉の一つとなった。豊臣秀吉の政策は、この信長が切り開いた兵農分離の路線を継承し、天下統一という事業の中で、より体系的かつ全国規模で断行するものであった。

1-2. 「自力救済」の原理と武装する村落(惣村)

中世の日本社会を貫く行動原理は「自力救済」であった 6 。これは、紛争や権利侵害が発生した際に、領主や幕府といった公権力の裁定を待つのではなく、当事者自身が実力、すなわち武力をもって解決を図るという慣習である。この原理の下、村々は自衛のために武装し、共同体を守っていた 8

村落(惣村)は、単なる農民の居住地ではなく、強固な自治組織であり、武装共同体としての性格を色濃く持っていた 9 。水利権や山林の利用権(入会権)を巡る村同士の争いは、時に数千人規模の兵力を動員する「合戦」にまで発展することもあった 10 。村の周囲に堀や土塁を巡らせた「環濠集落」が各地に見られるように、村々は外部からの侵略に備え、独自の防衛力を保持していたのである 7

こうした村々の武装と自律性は、全国規模での統一的な支配を目指す秀吉にとって、看過できない統治上の障害であった。領主の権威が及ばないところで私的な戦闘が繰り返される状況は、天下の安定を根本から揺るがすものだったのである 11

1-3. 秀吉政権の経験と先行事例

秀吉自身、百姓の出身であり、農民が団結した際の一揆の恐ろしさを誰よりも深く理解していた 13 。天下統一を進める過程で、彼は紀伊国(現在の和歌山県)の雑賀衆・根来衆や高野山の僧兵といった、強力な武装勢力との戦いを経験した。特に天正十三年(1585年)の紀州征伐後、抵抗した勢力に対し、助命の条件として武器を提出させ、武装解除を断行したことは、全国的な刀狩令の重要な布石となった 16

また、武器没収という政策自体は、秀吉の独創ではない。先行事例として、織田信長の重臣であった柴田勝家が、天正四年(1576年)に越前一向一揆を鎮圧した後、領内の武器を没収する「刀さらへ」を実施した記録が残っている 18 。さらに歴史を遡れば、鎌倉時代の北条泰時が高野山の僧侶の武装を禁じた例もある 20 。秀吉の功績は、これらの先行事例を、天下統一という壮大なビジョンの中で、全国一律の恒久的な制度として体系化した点にある。刀狩令は、軍事的な効率化と社会秩序の安定化という、戦国時代を通じての課題に対する、秀吉政権による包括的な解答だったのである。

第二章:刀狩令の布告 ― 条文の分析と秀吉の多角的意図

天正十六年七月八日(西暦1588年8月29日)、秀吉は朱印状をもって刀狩令を全国に布告した。その条文はわずか三ヶ条からなる簡潔なものであったが、そこには天下人としての秀吉の巧妙かつ多層的な政治的意図が凝縮されていた。

2-1. 法令三ヶ条の精読

現存する『小早川家文書』などから、刀狩令の全文を知ることができる 22 。その内容は以下の通りである。

  • 第一条 「諸国百姓、刀、脇指、弓、やり、てっはう其外武具のたぐい、所持候事、堅く御停止候。其子細者、不入道具をあひたくはへ、年貢所当を難渋せしめ、自然一揆を企て、給人に対し非儀の動をなすやから、勿論御成敗有るべし。」 22
    この条文は、百姓が刀、脇差、弓、槍、鉄砲などのあらゆる武具を所持することを厳禁している。その理由として、不要な武器を持つことが年貢の納入を滞らせ、一揆を企て、領主に対して非合法な行動をとる原因になるからだと明記している。これは、一揆の防止と安定した統治という、支配者側の直接的な目的を明確に示したものである 12
  • 第二条 「右取をかるべき刀、脇指、ついえにさせらるべき儀にあらず候の間、今度大仏建立の釘かすがいひに仰せ付けらるべし。然者、今生の儀者申すに及ばず、来世までも百姓たすかる儀に候事。」 22
    没収した武器、特に刀と脇差は無駄にするのではなく、当時造営中であった京都の方広寺大仏殿の釘や鎹(かすがい)として利用すると定めている。そして、この行為によって百姓は現世だけでなく、来世までも救済されるという宗教的な功徳を説いている。これは、武器の没収という強圧的な行為を、信仰心に訴えかけることで正当化し、円滑に進めるための巧みな方便であった 20
  • 第三条 「百姓は農具さへもち、耕作専に仕る候へば、子々孫々まで長久に候。百姓御あはれみをもって、此の如く仰せ出され候。誠に国土安全万民快楽の基也。」 22
    百姓は農具だけを持って耕作に専念すれば、子孫代々まで安泰であると説き、この法令は秀吉が百姓を憐れむ心から出すものであると強調している。これにより、身分を固定し農業に専念させることを、支配者からの「恩恵」として位置づけ、百姓のあるべき姿を規定した 12

2-2. 表の顔:方広寺大仏建立という「大義名分」

刀狩令の正当性を担保するために秀吉が用いた「方広寺大仏建立」という口実は、極めて計算された大義名分であった。奈良時代、聖武天皇が東大寺に大仏を造立することで国家の統一と安寧を図ったように、巨大な仏像の建立は、為政者の権威と徳を天下に示すための伝統的な手段であった 25 。秀吉はこの先例に倣い、自らが戦乱を終わらせ、平和な世を築く王権の正統な継承者であることをアピールしたのである。

さらに、武器という殺傷の道具を、仏を造るための神聖な資材に転用するという物語は、人々の心理に巧みに働きかけた。これにより、強制的な「没収」は、自発的な「寄進」へと意味合いが転換され、武器を手放すことへの抵抗感を和らげる効果があった 17 。百姓にとっては、武器を差し出すことが来世での救済につながる「功徳」となると説かれたのである。

2-3. 裏の顔:複合的な政治目的

この巧みな大義名分の裏には、秀吉の冷徹な政治的計算が隠されていた。その目的は複合的であり、相互に関連しあっていた。

  1. 一揆の根絶 : 最も直接的な目的は、百姓一揆の物理的な力を削ぐことであった。武装した農民は、戦国大名にとって常に脅威であり、秀吉自身もその力を目の当たりにしてきた。武器を取り上げることで、武力による抵抗を不可能にし、支配体制を盤石にしようとした 2
  2. 兵農分離の断行 : 武器を持つことを許された「兵(武士)」と、農具のみを持ち耕作に専念する「農(百姓)」とを明確に区別し、両者の身分を固定化することを目指した 1 。これにより、戦闘に特化した武士階級による効率的な軍事力の維持と、土地に縛り付けられた農民からの安定した年貢収入の確保という、近世的な支配体制の二本柱を確立しようとしたのである。
  3. 武士の特権化 : 刀狩令によって、大小二本を差す「帯刀」は武士のみに許された特権となった 28 。刀は単なる武器ではなく、武士の身分と名誉を象徴するものであったため、これを独占させることで、武士階級を他の身分から隔絶された特別な支配階級として視覚的に定義づける効果があった 12

このように、刀狩令は宗教的プロパガンダを巧みに利用しつつ、治安維持、経済基盤の安定、そして新たな身分秩序の構築という、複数の政治目的を同時に達成しようとする、極めて高度な統治政策だったのである。

目的の次元

法令条文に示された「公儀の声明」

歴史的分析による「真の目的」

宗教的側面

方広寺大仏建立のための釘・鎹として寄進させ、百姓を来世まで救済する。 20

宗教的権威を利用し、武器提出への心理的抵抗を緩和するプロパガンダ。 25

経済的側面

百姓を農耕に専念させ、子々孫々まで安楽に暮らせるようにする。 22

兵農分離により農業生産者を土地に固定し、安定した年貢徴収体制を確立する。 5

治安・軍事側面

不要な武具による年貢の難渋や一揆を防ぎ、国土を安全にする。 22

百姓の武装解除により一揆を根絶し、武士階級による支配を盤石にする。 2

身分制度的側面

(明示的にはなし)

帯刀権を武士の特権とし、武士と百姓の身分を明確に区別・固定化する。 12

第三章:刀狩の実行プロセスと実態 ― 全国への展開と村々の現実

天正十六年七月に発布された刀狩令は、秀吉の絶大な権威を背景に、全国で一斉に実行に移された。しかし、その実態は、法令の文面が示すような画一的で徹底した武装解除とは異なり、地域の事情や現実的な必要性を考慮した、柔軟かつ複雑な様相を呈していた。

3-1. 執行メカニズム:大名から村役人へ

刀狩令の執行は、秀吉政権が直接村々を査察する形ではなく、トップダウンの命令系統を通じて行われた。まず、秀吉が全国の諸大名に対して命令を発し、各大名は自領内での武器回収の責任を負った 17 。そして、大名は配下の代官や給人(家臣)を通じて、さらに末端の村落へと指示を伝達した。

実際の武器の取りまとめ作業は、村の代表者である庄屋や名主、有力百姓(大人百姓)といった村役人に委ねられることが多かった 28 。これは、村の内部事情に精通した彼らを利用することで、無用な混乱や抵抗を避け、効率的に政策を浸透させようとする秀吉政権の現実的な判断であった。この執行メカニズムは、刀狩が中央権力による一方的な強制という側面だけでなく、在地社会の既存の自治構造を介して行われたことを示している。

3-2. 「刀」狩りの実態:没収された武器、されなかった武器

法令の第一条では「刀、脇指、弓、やり、てっはう其外武具のたぐい」と、あらゆる武器が対象とされていたが、実際の没収記録を検証すると、その中心が刀と脇差であったことが明らかになっている 29 。例えば、北陸地方の記録では、回収された約4,000点の武器のほとんどが刀と脇差であり、弓矢や鉄砲は皆無であったという 29

この事実は、刀狩令の主眼が、百姓の戦闘能力を完全に奪うことよりも、武士の身分的象徴である「帯刀」の権利を独占することにあった可能性を強く示唆している。戦国時代の合戦において、刀は補助的な武器であり、弓矢や槍、そして鉄砲といった飛び道具の方がはるかに実戦的な意味を持っていた。その実戦的な武器が多く残された一方で、身分標識としての意味合いが強い刀剣類が重点的に回収されたことから、この政策が文字通り「刀」を狩ることに重きを置いた「身分政策」であったと評価できる 12

3-3. 抜け道と例外措置

刀狩令は厳格な法令であったが、現実の農村の営みを維持するため、多くの抜け道や例外措置が設けられていた。その最も代表的なものが、害獣駆除を目的とした武器の所持許可である 28 。猪や鹿、狼などによる農作物への被害は深刻であり、それらを追い払うための鉄砲や槍は、百姓にとって生活に不可欠な「農具」であった 19 。そのため、多くの藩では免許制や許可制を導入し、害獣駆除という名目での武器所持を公認していた 28

また、村の鎮守の祭りや神事で使用される刀や槍なども、神聖な道具として没収を免れるケースがあった 28 。これらの例外措置の結果、刀狩令の後も、農村から武器が完全に消え去ったわけではなかった。特に鉄砲は、江戸時代を通じてかなりの数が村々に存在し続けたことが近年の研究で明らかになっている 33 。刀狩令は、武器の「所有」を根絶するものではなく、その「使用目的」を厳しく制限し、管理下に置く政策であったと言える。

3-4. なぜ大規模な抵抗が起きなかったのか?

天下の百姓から武器を取り上げるという、一見すれば極めて反発を招きかねない政策が、なぜ大規模な抵抗運動を引き起こすことなく遂行できたのか。その理由は複数考えられる。

第一に、前述の通り、生活に必要な武器の所持が例外的に認められたため、百姓の生活基盤が根底から脅かされることはなかった点である 34 。第二に、方広寺大仏建立という宗教的な大義名分が、一定の説得力を持ったこと。第三に、村役人を通じて執行されたことで、外部からの強圧的な介入という印象が和らげられたこと。そして第四に、刀狩令に先立つ天正十五年(1587年)に発布された「喧嘩停止令(惣無事令)」の存在が大きい 12 。この法令は、大名間の私闘だけでなく、村同士の争いなど、あらゆる私的な武力紛争を禁じるものであった。これにより、百姓が武器を公然と使用する正当な理由(自力救済)が既に失われており、武器を保持し続ける意味が薄れていた。

これらの要因に加え、小田原征伐を目前に控え、天下統一が最終段階にあった秀吉政権の圧倒的な権威の前では、個々の村が組織的な抵抗を行うことは事実上不可能であった。刀狩令は、まさに天下人の権力が確立したタイミングで、巧みな戦略のもとに実行されたのである。

第四章:天下統一事業における刀狩令の位置づけ ― 関連政策との連動

天正十六年の刀狩令は、豊臣秀吉が推し進めた壮大な天下統一事業という文脈の中に置いて初めて、その真の歴史的意義を理解することができる。この法令は単独で存在したのではなく、同時期に発令された他の重要な政策と有機的に連携し、社会の隅々にまで影響を及ぼす巨大な改革の歯車として機能した。

年代 (西暦/和暦)

主要政策・事件

政策の目的と相互関係

1582年 (天正10)

(本能寺の変、山崎の戦い) 太閤検地を開始

荘園制を解体し、全国の土地と人民を直接把握する基盤作り。

1585年 (天正13)

紀州征伐・高野山への武装解除命令

刀狩令のモデルケースとなる局地的な武装解除を試行。

1587年 (天正15)

バテレン追放令、九州平定、喧嘩停止令

宗教・地域勢力の統制。自力救済の原理を法的に否定。

1588年 (天正16)

刀狩令、海賊停止令

陸海における民衆の武装を規制し、国家による暴力の独占を図る。

1590年 (天正18)

小田原征伐、天下統一の完成

全国の軍事的な平定を完了。

1591年 (天正19)

人掃令(身分統制令)

検地と刀狩で作り出した社会構造を、法によって恒久的に固定化する。

1592年 (文禄元)

朝鮮出兵(文禄の役)

国内平定の完了を受け、対外的な軍事行動へ移行。

4-1. 陸の「刀狩」と海の「海賊停止令」

刀狩令が発布された天正十六年、秀吉はほぼ同時に「海賊停止令」を全国に布告した 20 。戦国時代の「海賊衆」とは、単なる略奪者ではなく、沿海地域の有力な豪族であり、独自の海上支配権(縄張り)を持つ独立勢力であった 40 。彼らは漁民であると同時に、時には大名に味方して水軍として働き、また時には海上交通を妨げる存在でもあった。

海賊停止令は、こうした海賊衆に対し、海賊行為を禁じ、豊臣政権に服属して大名となるか、あるいは他の大名の家臣団に組み込まれるかの選択を迫るものであった 40 。これは、刀狩令が陸上の百姓の武装を規制したのと同様に、海上の民の武装と独立性を解体し、豊臣政権の統制下に置くことを目的としていた。刀狩令と海賊停止令は、陸と海の両面から、武士以外の階層が持つ私的な武力を国家の管理下に置こうとする、表裏一体の政策だったのである 11

4-2. 「太閤検地」との連携:土地と人を縛る

刀狩令と並行して、秀吉政権が最重要政策として強力に推進したのが「太閤検地」である 5 。太閤検地は、全国の田畑や屋敷地の面積を統一された基準(枡や竿)で測量し、その土地の生産力を米の量(石高)で表示する画期的な土地調査であった 2

この検地の核心は、単なる測量に留まらなかった点にある。それは、それぞれの土地を実際に耕作している百姓を「作人」として検地帳に登録し、その土地の年貢納入義務者として確定させる「一地一作人の原則」を確立したことであった 5 。これにより、複雑であった荘園制下の重層的な土地所有関係は整理され、百姓は土地に固く縛り付けられることになった 2

刀狩令と太閤検地は、車の両輪のように機能した。太閤検地が百姓を土地に緊縛する制度的枷であるならば、刀狩令はその枷から武力で逃れることを不可能にする物理的な枷であった。武器を取り上げられ、土地から離れることも許されない百姓は、もはや武士となって立身出世する道を閉ざされ、ひたすら耕作に従事し年貢を納める存在として、社会の基盤に固定化されたのである 14

4-3. 総仕上げとしての「人掃令(身分統制令)」

天下統一が完成した翌年の天正十九年(1591年)、秀吉は一連の社会改革の総仕上げとして「人掃令(身分統制令)」を発令した 2 。この法令は三ヶ条からなり、武家の奉公人(武士)が町人や百姓になること、百姓が耕作を放棄して商工業に従事すること、そして武士が主君を変える(渡り奉公)ことを厳しく禁じるものであった 2

これは、刀狩令と太閤検地によって事実上進められてきた身分の分離を、法的に最終確定させるものであった。職業の選択や身分間の移動の自由を原則として認めないこの法令により、武士は支配者として城下町に住み、百姓は生産者として農村に、町人(商人・職人)は都市に住むという、近世的な身分社会の枠組みが完成した 5 。秀吉自身が百姓から天下人へと駆け上がった下剋上の時代は、彼自身の手によって完全に終焉を迎えたのである。

第五章:歴史的意義と後世への影響 ― 近世社会の礎を築く

天正十六年の刀狩令は、それに関連する一連の政策とともに、日本の社会構造を中世的なものから近世的なものへと不可逆的に転換させる決定的な役割を果たした。その影響は豊臣政権一代に留まらず、続く江戸幕府の統治体制、ひいては近代に至るまでの日本の社会のあり方を規定することになる。

5-1. 中世的「自力救済」社会の終焉

刀狩令の最も根源的な意義は、中世以来の社会原理であった「自力救済」の慣行に終止符を打った点にある 6 。戦国時代まで、村落間の水争いや個人間の揉め事は、当事者間の武力行使によって解決されるのが常であった。しかし、刀狩令と喧嘩停止令によって、百姓が紛争解決の手段として武器を用いることは公的に禁止された 12

これは、暴力を行使する権利(検断権)を、個人や共同体から国家(この場合は武士階級を代理人とする天下人)へと集中させることを意味した。紛争はもはや当事者間の私闘ではなく、領主の法と裁判によって解決されるべきものとなったのである。この「暴力の独占」こそが、近代国家の成立に不可欠な要素であり、刀狩令は日本におけるその第一歩を記した政策であった。

5-2. 士農工商の身分制度の確立

刀狩令は、兵農分離を決定的にした 46 。武器を持つ者(武士)と持たざる者(百姓)という明確な線引きは、やがて「士農工商」として知られる江戸時代の厳格な身分制度の基礎となった 11 。特に「帯刀」は、武士の身分を視覚的に証明する最も重要な特権となった 28

刀狩令以降、百姓や町人が公の場で大小二本差しをすることは原則として禁じられた。もちろん、旅の護身用として脇差一本を差すこと(道中差し)や、村役人などが功績によって特別に苗字帯刀を許されるといった例外は存在した 48 。しかし、武士の魂ともいえる刀を佩用する権利が武士階級に独占されたことは、彼らを特権的な支配階級として社会的に位置づける上で絶大な効果を発揮した。

5-3. 江戸幕府への継承と「天下泰平」の基盤

徳川家康が創始した江戸幕府は、その統治システムの多くを豊臣政権から継承した 32 。刀狩令によって確立された兵農分離と身分制度は、幕藩体制の根幹をなすものであった。城下町に集住し、藩の行政と軍事を担う武士階級と、土地に縛り付けられ年貢を生産する百姓階級という社会構造は、江戸時代を通じて維持された。

武装した農民による大規模な一揆の脅威が減少し、武士階級による安定した支配が確立されたことは、260年以上にわたる「天下泰平」と呼ばれる長期の平和な時代を現出させるための、不可欠な前提条件であった。戦国乱世の終焉は、刀狩令によって社会の基層レベルで制度化されたと言える。

5-4. 幻想としての「完全武装解除」

ただし、刀狩令の影響を過大評価し、「百姓が丸腰にされ、無抵抗になった」と考えるのは正確ではない。近年の研究では、刀狩後も農村には害獣駆除や自衛の名目で、相当数の鉄砲や槍が保有され続けていたことが明らかになっている 28 。江戸時代の村々は、決して非武装地帯ではなかったのである 36

重要なのは、武器の「有無」ではなく、その「使用」に関する社会規範の変化である。刀狩令以降、百姓が武器を手にすることは、領主への反逆や村同士の私闘のためではなく、あくまで生産活動(害獣駆除)や自衛のためという、公的に認められた範囲内に限定された。武器の所有は許容されても、それを政治的・社会的な紛争解決の手段として用いることは固く禁じられた。ここにこそ、刀狩令がもたらした本質的な変化がある。民衆は武器を完全に手放したわけではないが、自らの意思でその使用を「封印」し、国家による法の支配を受け入れたのである 30

結論:刀狩令の再評価

天正十六年(1588年)の刀狩令は、単に農民から武器を取り上げるという一面的な政策ではなかった。それは、戦国乱世という「万人の万人に対する闘争」の時代を終わらせ、近世という新たな統治秩序を創造するための、豊臣秀吉による壮大な社会工学の一環であった。

本報告で詳述したように、刀狩令は発令に至るまでに、兵農未分離という軍事的非効率性と、自力救済を原理とする社会的不安定性という、戦国時代が抱える構造的課題を解決する必要性に迫られていた。秀吉は、方広寺大仏建立という巧みな宗教的プロパガンダを駆使して民衆の抵抗を和らげつつ、その裏で一揆の防止、兵農分離の断行、そして武士階級の特権化という複数の政治目的を追求した。

その実行過程は、法令の文面ほど厳格ではなく、害獣駆除などの名目で武器の所持を認めるなど、現実的な柔軟性を持っていた。これにより、農村の生産活動を阻害することなく、武士の象徴である「帯刀」の権利を独占するという、身分政策としての核心的な目的を達成することに成功した。

さらに、この政策は、海上の武装勢力を統制する「海賊停止令」、農民を土地に縛り付ける「太閤検地」、そして身分間の移動を禁じる「人掃令」といった一連の改革と緊密に連携していた。これらの政策群が一体となって機能することで、個人の武力が社会を動かした中世は終わりを告げ、身分と職分に基づいて人々が固定化された、中央集権的な近世封建社会の礎が築かれたのである。

したがって、天正十六年の刀狩令は、日本の歴史における暴力のあり方を根本的に変え、国家がその行使を独占する時代の幕開けを告げた、画期的な法令として再評価されるべきである。それは、下剋上の時代を終わらせ、二百数十年続く泰平の世の制度的基盤を準備した、戦国から近世への扉を開いた鍵であったと言えよう。

引用文献

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  17. 「刀狩り」の歴史は秀吉が初めてじゃない。単純な武装解除とは ... https://sengoku-his.com/120
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  25. 方広寺の概要と歴史 方広寺は日本で建てられた建築物の中でも最も壮観な建物のひとつがあっ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001554749.pdf
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  28. 3度の刀狩り/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/55417/
  29. 刀狩と非武装化 - BIGLOBE http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history022.htm
  30. 刀狩り:武器は持っても発動しない民衆|高田公理 - note https://note.com/koritakada/n/n5e7df746860c
  31. 太閤検地をわかりやすく知りたい!豊臣秀吉の政策の目的とは - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/taiko-kenchi
  32. 豊臣秀吉が行った政策とは?太閤検地や刀狩を理解しよう! | 学びの日本史 https://kamitu.jp/2023/08/31/hideyoshi-toyotomi/
  33. 刀狩で百姓は武装解除されていない!? https://tsuka-atelier.sakura.ne.jp/theme/katanagari.html
  34. 「刀狩り」でも実は武器は奪わず?豊臣秀吉が目指していた本当の支配のカタチとは - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/253943
  35. 【平成29年2月号】村と鉄砲~江戸時代の鉄砲事情~/飯能市-Hanno City- https://www.city.hanno.lg.jp/soshikikarasagasu/kyoikubu/hakubutsukan/Thats_kittosu_hannonorekishi_minzokunikansurutopikkuyajoho/1065.html
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  42. 秀吉株式会社の研究(4)「海賊停止令」で基盤強化|Biz Clip(ビズクリップ) https://business.ntt-west.co.jp/bizclip/articles/bcl00007-055.html
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  46. 兵農分離(ヘイノウブンリ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%85%B5%E8%BE%B2%E5%88%86%E9%9B%A2-129004
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  48. 江戸時代、富山藩において、苗字・帯刀を許された町人・百姓の実態について知りたい。 https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&type=reference&id=1000057908&lsmp=1&rnk=1&mcmd=25&st=ref_cnt_all&asc=desc
  49. 武士階級以外の帯刀 : 国際水月塾武術協会 International Suigetsujuku ... https://japanbujut.exblog.jp/30458421/
  50. 【身分格式】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012280