前田利家死去(1599)
1599年、秀吉死後、前田利家が死去。豊臣政権の重石だったが、その死で家康が台頭。三成襲撃、前田家屈服を経て、関ヶ原の戦いへの道が開かれた。
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巨星墜つ ― 慶長四年、前田利家の死が拓いた天下への道
序章:均衡の上の楼閣
慶長三年(1598年)八月十八日、天下人・豊臣秀吉の死は、一つの時代の終焉を告げると同時に、日本全土を覆う巨大な権力の真空を生み出した。秀吉が遺した統治システムは、一見すると巧妙に設計された集団指導体制であった。五大老と五奉行制度。それは、幼き後継者・豊臣秀頼を補佐し、政務を合議によって決定するという、有力大名間の権力均衡を前提としたものであった 1 。しかし、この制度は秀吉という絶対的な権威者の存在を前提としており、その不在は、この楼閣がいかに脆弱な基盤の上に築かれていたかを露呈させるに他ならなかった 2 。
この危うい均衡の中心で、巨大な「重石」としての役割を担っていたのが、五大老の一人、大納言・前田利家であった。利家は、単に加賀百万石の大名というだけではない。織田信長時代からの秀吉の盟友であり、秀吉臨終の際には、嫡子・秀頼の傅役(後見人)という極めて重い責務を託された人物であった 3 。五大老筆頭の石高(二百五十万石)と関東に広大な地盤を持つ徳川家康が、その野心を隠さぬ中、利家は豊臣家への揺るぎない忠誠心と、「律儀者」として知られたその人望という「大義名分」をもって、家康を正面から牽制し得る唯一の存在であった 4 。彼の存在そのものが、豊臣政権という名の楼閣が崩壊するのを、かろうじて食い止めていたのである。
しかし、この合議制は、本質的に戦国の世の現実とは相容れない理想論であった。その構造的欠陥の核心は、構成員たちの豊臣政権に対する「忠誠心のグラデーション」にあった。家康、毛利輝元、上杉景勝といった大老たちは、秀吉に臣従したとはいえ、元々は自らの実力で領国を勝ち取ってきた独立大名である 2 。彼らにとって最優先事項は、豊臣家の安泰よりも自家の存続と勢力拡大にあった。一方で、秀吉子飼いの大名である利家や宇喜多秀家は、豊臣家への忠誠を自らの存在基盤としていた。この根本的なスタンスの違いが、政権内部に絶えざる不協和音を生み出していた。慶長四年(1599年)閏三月三日、この多様な思惑を束ねる最後の箍(たが)であった前田利家の死は、この不協和音が崩壊への序曲へと変わる瞬間を意味したのである。
表1:豊臣政権 主要人物一覧(慶長四年時点)
役職分類 |
氏名 |
役職 |
推定石高 |
秀吉との関係性 |
本件における立場 |
五大老 |
徳川 家康 |
内大臣・五大老筆頭 |
255万石 |
外様(最大勢力) |
豊臣政権簒奪を画策 |
|
前田 利家 |
大納言・五大老 |
83万石 |
譜代(盟友)・秀頼傅役 |
豊臣政権の維持・家康牽制 |
|
毛利 輝元 |
権中納言・五大老 |
120万石 |
外様(西国最大) |
中立・自家安泰優先 |
|
上杉 景勝 |
中納言・五大老 |
120万石 |
外様 |
反家康的・自家安泰優先 |
|
宇喜多 秀家 |
権中納言・五大老 |
57万石 |
譜代(猶子) |
豊臣家忠誠派 |
五奉行 |
石田 三成 |
治部少輔・五奉行 |
19万石 |
譜代(子飼い) |
反家康派筆頭・文治派 |
|
浅野 長政 |
弾正少弼・五奉行 |
20万石 |
譜代(姻戚) |
当初反家康、後に接近 |
|
増田 長盛 |
右衛門少尉・五奉行 |
20万石 |
譜代 |
文治派・後に家康に通じる |
|
長束 正家 |
大蔵大輔・五奉行 |
5万石 |
譜代 |
文治派・三成派 |
|
前田 玄以 |
民部卿・五奉行 |
5万石 |
譜代 |
文治派・中立的 |
武断派 |
加藤 清正 |
主計頭 |
25万石 |
譜代(子飼い) |
反三成・親家康 |
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福島 正則 |
左衛門大夫 |
20万石 |
譜代(子飼い・姻戚) |
反三成・親家康 |
|
黒田 長政 |
甲斐守 |
18万石 |
譜代 |
反三成・親家康 |
|
細川 忠興 |
越中守 |
18万石 |
外様 |
反三成・親家康 |
第一章:嵐の前の静けさ ― 慶長三年の権力闘争
秀吉の死は、それまで絶対的な権威によって辛うじて抑え込まれていた政権内部の亀裂を、一気に表面化させた。その最も深刻な亀裂が、いわゆる「武断派」と「文治派」の対立であった。この対立の根源は、秀吉晩年の最大事業であった朝鮮出兵(文禄・慶長の役)に遡る 7 。
加藤清正や福島正則に代表される武断派は、秀吉子飼いの猛将たちであり、その武功によって立身出世を遂げた現場主義者であった 8 。彼らは、朝鮮の戦場で命を賭して戦ったにもかかわらず、その功績が正当に評価されていないという強い不満を抱いていた。特に、軍監として朝鮮に渡り、戦場の実情を秀吉に報告する立場にあった石田三成ら文治派に対し、彼らは深い憎悪を募らせていた 10 。三成らの報告が、自らの軍功を貶め、時には讒言となって秀吉の叱責を招いたと信じていたからである 12 。有名な「粥でもてなす」の逸話は、戦場で苦労を重ねた武断派の、三成ら中央官僚に対する生理的な嫌悪感を象徴している 14 。
一方、石田三成、小西行長らに代表される文治派は、卓越した行政手腕をもって豊臣政権の屋台骨を支えるテクノクラート集団であった 15 。彼らにとって、戦場での猪突猛進な行動は、秀吉が描く大きな戦略を危うくする危険なものであり、規律と統制こそが重要であった。この価値観の根本的な相違は、単なる感情的な対立に留まらず、豊臣政権内における権力構造、すなわち「武功」と「吏才」のどちらを重視すべきかという、政権の根幹に関わる問題に発展していた。
秀吉在世中、この両派の対立が全面的な衝突に至らなかったのは、ひとえに前田利家の存在があったからである。利家は、武断派の勇猛さと文治派の能吏としての価値を共に理解し、その絶大な人望と権威をもって両者の間に立ち、調停役を果たしていた 8 。利家という防波堤があったからこそ、政権は分裂の危機を免れていたのである。
しかし、秀吉が没すると、この危ういバランスは急速に崩れ始める。その崩壊を加速させたのが、徳川家康の公然たる野心であった。家康は秀吉の死後間もなく、秀吉の遺言で固く禁じられていた大名間の私的な婚姻を画策し始めた 18 。伊達政宗の娘と自らの六男・松平忠輝、福島正則や蜂須賀家政の子と自らの養女を縁組させるなど、露骨な派閥形成に着手したのである。これは、豊臣家の法度を意図的に踏みにじり、自らが秀頼に代わる事実上の最高権力者であることを天下に示す、計算され尽くした政治行動であった。
この家康の動きは、武断派と文治派の対立を、自らの覇権確立のための絶好の機会として利用するものであった。家康は、三成に憎悪を抱く武断派の武将たちにとって、格好の「受け皿」となった。三成ら文治派が政権の中枢を握る現状に不満を持つ彼らは、豊臣家臣団の中で最大の実力者である家康に接近し、その庇護を求めるようになる 15 。家康は、この流れを静かに歓迎し、彼らの不満を巧みに利用することで、反家康勢力の中核である石田三成を孤立させる戦略を推し進めた。利家が健在であるうちは、この動きも水面下で抑制されていたが、彼の病状が悪化するにつれ、権力闘争の嵐は、もはや誰にも止められない勢いで日本全土を覆い尽くそうとしていた。
第二章:激震 ― 家康の私婚問題と利家の対峙(慶長四年正月~二月)
慶長四年(1599年)の年が明けると、水面下で進んでいた権力闘争は、ついに火を噴いた。その導火線となったのが、家康による私婚問題であった。これは、前田利家が死の床に就く直前、老練な政治家としての最後の輝きを見せた、日本史上屈指の緊迫した政治劇の幕開けであった。
【時系列】慶長四年正月の政局
- 正月十九日: 事態は動いた。家康が伊達政宗、福島正則、蜂須賀家政らとの間で無断の婚姻政策を進めていることに対し、前田利家、上杉景勝、毛利輝元、宇喜多秀家の四大老と五奉行が、ついに共同歩調をとった。彼らは連名で、家康の「掟違反」を公式に糾弾するための問罪使を、家康が滞在する伏見城に派遣したのである 18 。これは、豊臣政権の合議制が、家康の専横に対して初めて明確な「否」を突きつけた瞬間であった。
- 正月下旬: しかし、家康は老獪であった。問罪使に対し、彼は自らの非を認めるどころか、「自分を排除しようとする動きこそ、秀頼公のためを思う秀吉公の遺命に背くものである」と開き直り、五大老の職を辞して嫡男の秀忠に譲るという強硬な態度に出た 21 。この返答は、反家康派の結束を揺さぶるに十分であった。事態は一気に悪化し、伏見城下には諸大名が武装して自らの屋敷に立てこもり、家康邸と利家邸の間には堀が掘られ、まさに戦乱前夜の様相を呈した。
【時系列】病身を押しての仲裁
- 二月二日: この国家分裂の危機的状況を収拾すべく、一人の老人が動いた。前田利家である。この時、彼の病状はすでに深刻であったが、豊臣家への最後の奉公として、轎(かご)に乗り、厳重な警護の中、大坂の自邸から緊迫する伏見の家康邸へと向かった。そして、天下の趨勢を左右する二人の巨頭による直接対談が実現した 20 。会談の具体的な内容は伝わっていないが、利家が豊臣家の法度と秀吉の遺命という「大義」を盾に、家康の行動を厳しく問い詰めたことは想像に難くない。
- 二月五日: 利家の命を賭した交渉は、実を結んだ。家康はついに折れ、他の大老・奉行に対して、今後は遺命を遵守する旨を記した起請文(誓約書)を提出する形で、和解が成立した 20 。利家は、その政治生命の最後の力を振り絞り、豊臣政権の崩壊という破局を寸前で回避させたのである。
- 二月二十九日、三月十一日: 和解の証として、まず利家が伏見の家康邸を、次いで家康が大坂の利家邸を、それぞれ返礼として訪問した 21 。しかし、この相互訪問の時点で、利家の衰弱は誰の目にも明らかであった。家康は、衰えきった利家の姿を目の当たりにし、確信したに違いない。自分を縛る最後の枷が、間もなく外れるであろうことを。
この一連の騒動は、二つの重要な事実を浮き彫りにした。一つは、病身とはいえ、前田利家という個人の権威と人望が、いまだ豊臣政権内で絶大な影響力を保持していたという事実である。彼が「豊臣家への反逆」という大義名分を掲げて正面から対峙した時、家康ですら一時的に矛を収めざるを得なかった。この時点では、まだ全面対決の時期ではないと判断した家康の、戦術的後退であった。
しかし、もう一つは、より決定的な事実であった。この騒動を通じて、家康は「利家の死こそが、天下取りへの最終的な号砲である」と明確に認識したのである。表面的な和解の裏で、両者は互いの限界と次の一手を冷静に測っていた。利家は「自分が生きている限りは、決して好きにはさせない」という最後の意思表示を行い、家康は「あなたの死後は、もはや誰も私を止めることはできない」という冷徹な確信を得た。それは、まさに死期を悟った巨星と、その終焉を静かに待つ惑星との間で行われた、最後の重力の応酬であった。
第三章:最後の瞬間 ― 闘病と死(慶長四年二月~閏三月三日)
家康との対峙という最後の政治的激務を終えた利家の生命の灯火は、急速にその輝きを失っていった。彼の病は、長年にわたって苦しめられてきた胆石に加え、現代の医学的見地からは消化器系の癌、特に胆嚢癌であった可能性が指摘されている 23 。慶長四年に入ってからの病状の悪化は著しく、二月の和解劇は、まさに彼の命を削る最後の奉公であった。
この時期の利家の心境を物語る、二つの象徴的な逸話が残されている。一つは、家康が見舞いに訪れた際のエピソードである。病床に伏す利家は、家康と対面するにあたり、布団の下に抜き身の太刀を忍ばせていたという 24 。これは、家康に対する根深い不信感の表れであると同時に、万一の際には刺し違えるという、老武将の最後の気骨を示すものであった。
さらにこの逸話には、より深く、彼の政治家としての絶望と父親としての苦悩を伝える続きがある。『古心堂叢書利家公夜話首書』によれば、利家は家康が訪れる前に、嫡子・利長に「家康が来たら、心得ているか」と尋ねた。利長が「馳走(接待)の儀は申し付けておきました」と、賓客として穏便にもてなす旨を答えると、利家はそれを聞き、家康を丁重に遇した。しかし家康が帰った後、利家は布団の下から抜き身の刀を取り出して利長に見せ、こう語ったという。「お前に心得ているかと聞いたのは、もしお前が天下を背負って立つ覚悟のある返答をしたならば、この手で家康を刺し殺すつもりであった。だが、人の入れ知恵で大義が成就するものではない。諦めて、家康にお前の事を頼んでおいた」と 26 。
この逸話は、単なる武勇伝ではない。それは、利家の最後の政治的遺言であり、深い絶望の表明であった。彼は、自らの死後、もはや家康の野心を止められる者はいないと完全に悟っていた。そして、最後の望みを託そうとした息子・利長の器量を見極め、彼にはその重責は担えないと判断したのである。その結果、利家が下した決断は、豊臣家の忠臣としてはあり得ない、しかし前田家の安泰を願う父親としては最も現実的な選択であった。すなわち、最大の脅威である家康に、自らの息子の将来を託すという、苦渋に満ちた決断である。これは、豊臣家を守るという「公」の使命と、前田家を存続させるという「私」の責務との間で引き裂かれた、彼の最後の葛藤を克明に示している。豊臣家の最大の守護者が、その最大の脅威に息子の後見を頼むというこの究極のパラドックスは、利家がもはや豊臣家の未来ではなく、前田家の存続を最優先せざるを得なかったことを物語っている。
そして、運命の時が訪れる。慶長四年閏三月三日、前田利家は、激動の生涯を閉じた大坂の自邸にて、静かに息を引き取った。享年六十二であった 3 。
その最期にも、彼の武人としての生き様を象徴する逸話が残されている。死に際し、妻のまつ(芳春院)が、浄土への旅立ちの衣装である経帷子(きょうかたびら)を差し出した。しかし利家は、「わしは戦場で多くの人間を殺めてきた。地獄に落ちることは必定。ならば、地獄で閻魔や鬼どもを相手に、もう一戦してくれるわ」と言って、それを受け取らなかったという 27 。生涯を槍働きで駆け抜けた「槍の又左」らしい、壮絶な最期であった。
第四章:権力の真空 ― 利家死直後の政局(慶長四年閏三月三日夜~)
前田利家の死は、豊臣政権崩壊の最初のドミノを倒した。彼が死の淵をさまよっている間、政権の緊張はかろうじて保たれていた。しかし、その死の報は、堰を切ったように、抑えつけられていた憎悪と野心を解き放った。利家の死からわずか一週間、政局は凄まじい速度で動き、権力の構図は不可逆的に塗り替えられていく。
【時系列分析】石田三成襲撃事件
- 閏三月三日夜: 利家死去の報は、瞬く間に大坂城下を駆け巡った。その夜、利家邸で弔問を終えた諸将のうち、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、池田輝政、蜂須賀家政ら、かねてより三成に深い遺恨を抱く「武断派七将」は、即座に行動を開始した 11 。彼らは、利家という最後の庇護者を失った石田三成を討つべく、兵を率いて三成が辞去するのを待ち構えていた。しかし、この動きは豊臣秀頼に仕える桑島治右衛門を通じて三成の耳に入る。三成は機先を制し、密かに利家邸を脱出、宇喜多秀家邸などに身を隠した 29 。
- 閏三月四日: 夜が明けると、七将は武装した兵を率いて大坂にある三成の屋敷を包囲した。しかし、そこは既にもぬけの殻であった。彼らは三成の身柄引き渡しを強硬に要求し、大坂城下は騒然となり、市街戦勃発の危機に瀕した。一方、三成は大坂を脱出し、伏見城下の自邸に逃げ込んだ。だが、そこもまた安全な場所ではなかった。
- 閏三月四日夜~五日: 伏見にも七将の追手が迫る中、絶体絶命の窮地に立たされた三成は、常人には考えも及ばない驚くべき行動に出る。政敵中の政敵であり、七将の後ろ盾とも目される徳川家康の伏見屋敷に、単身で逃げ込み、保護を求めたのである 11 。この行動の背景には、複雑な計算があった。他の大老である毛利や上杉は遠国にあり、即座の対応は期待できない。宇喜多秀家は若年で七将を抑える力はない。この状況下で、武装蜂起した猛将たちを制止できる唯一の実力者は家康しかいなかった。また、家康は表向き「豊臣家の法度」を重んじる姿勢を見せており、公的な手続きなしに自分を殺害することはないだろうという、一縷の望みに賭けたのである 18 。
- 閏三月九日: 三成の身柄を保護した家康は、この騒動の「仲裁者」として振る舞った。彼は七将の代表者と三成の双方から事情を聴取し、最終的な裁定を下す。その内容は、三成の非を認め、五奉行の職を罷免し、居城である近江佐和山城での蟄居(謹慎)を命じるというものであった 29 。
- 閏三月十日: 裁定の翌日、家康は自らの次男である結城秀康に命じ、三成を佐和山城まで丁重に護送させた 29 。これは、三成の命を保証すると同時に、家康の裁定が絶対的なものであることを天下に示すための、巧みな演出であった。
近年の研究では、この一連の出来事は、単なる私怨による物理的な「襲撃事件」ではなく、より政治的な色彩の濃い「訴訟事件」であったとする見方が有力となっている 11 。すなわち、七将は家康を豊臣政権の最高権威代行者とみなし、三成の非を正式に訴え出た。そして家康は、その訴えを受理し、豊臣家の「裁判官」として裁定を下した、というのである。この見方に立つならば、家康の行動は単なる騒動の仲裁に留まらず、秀頼に代わって政務を執るという、秀吉の遺言を実質的に乗っ取る行為であり、権力簒奪の決定的な第一歩であったと言える。
家康の政治戦略は、この事件においてその真価を遺憾なく発揮した。彼は自らの手を汚すことなく、武断派の不満を巧みに利用して、最大の政敵である石田三成を中央政界から合法的に追放することに成功した。三成を助けるという形をとることで、彼は騒動を収拾できない無力な大老という評価を免れ、逆に自らが豊臣政権の唯一無二の意思決定者であることを内外に誇示したのである。三成を殺さずに生かして佐和山に送ったことにも、深い計算があった可能性が指摘される。将来、反家康勢力が決起する際、三成をその旗頭、すなわち格好の「おとり」として利用する。家康の深謀遠慮は、すでに関ヶ原の戦いを見据えていたのかもしれない。
利家の死という原因が、武断派の蜂起という第一の効果を生み、それが三成の失脚という第二の効果につながり、最終的に家康による政権の実質的掌握という第三の効果をもたらす。このドミノ倒しのような政変の連鎖が、利家の死後わずか一週間で完了したという驚くべき速度こそ、彼の存在がいかに巨大なものであったかを何よりも雄弁に物語っている。
第五章:次なる標的 ― 前田家の屈服(慶長四年四月~九月)
石田三成という最大の「政敵」を中央政界から排除した徳川家康の次なる一手は、豊臣家臣団における最大の「潜在的脅威」の無力化であった。その標的こそ、偉大な指導者・利家を失い、動揺する加賀百万石、前田家であった。
三成失脚後、家康はもはや誰に憚ることもなく、大坂城西の丸に入り、幼主・豊臣秀頼を事実上その庇護下に置いた 34 。これは、豊臣政権の中枢を物理的に支配したことを意味し、彼が天下の差配者としての地位を確立したことを天下に示す象徴的な行動であった。そして、その権威を盤石なものにするため、家康は前田家に対して周到な罠を仕掛ける。
- 「家康暗殺計画」の嫌疑: 慶長四年九月、突如として衝撃的な報が流れる。利家の跡を継いだ前田利長が、五奉行の一人である浅野長政、そして豊臣家臣の大野治長らと共謀し、家康の暗殺を企てているというのである 35 。この嫌疑は、利長が父の死後、居城の金沢城の修築や武具の収集を行っていたことを口実としたものであったが、物的証拠は何一つなく、状況から見て家康による政治的謀略、すなわち意図的な言いがかりであった可能性が極めて高い。
- 加賀征伐の動きと前田家の苦悩: 家康はこの嫌疑を大義名分として、諸大名に対して「加賀征伐」の号令を発した。徳川の大軍が北陸に進軍するという報は、前田家に激震をもたらした。家中では、徳川と一戦を交えるべしとする徹底抗戦派と、恭順して家の存続を図るべきとする穏健派との間で激しい議論が戦わされた 35 。父・利家であれば毅然として家康と対峙したかもしれないが、若き当主・利長は、この巨大な政治的・軍事的圧力の前に、苦悩の淵に立たされた。
- 芳春院(まつ)の決断: この前田家存亡の危機に際し、一人の女性が立ち上がった。利長の母であり、利家の妻であった芳春院(まつ)である。「侍は家を立てることが第一。意地で家を潰すことがあってはなりませぬ」と利長を諭した彼女は、自らが人質となって家康の本拠地である江戸へ下ることを決断した 37 。この決断により、前田家は家康への謀反の意思がないことを示し、完全な臣従を誓うことになったのである 35 。この決断が芳春院自身の発意であったか、あるいは家康側からの要求であったかについては史料によって見解が分かれるが 40 、いずれにせよ、その結果は前田家の徳川家への屈服を決定づけるものであった。
前田家の屈服は、単に一大名の動向に留まらない、天下の趨勢を決定づけた極めて重要な出来事であった。徳川家に次ぐ石高と強大な軍事力を有する最大の外様大名・前田家が、戦わずして徳川の軍門に降ったという事実は、他の諸大名に「もはや家康に抗うことは不可能である」という認識を植え付けるのに十分であった。芳春院が多くの家臣に見送られ、江戸へと旅立ったその行列は、単なる一人の女性の人質移動ではなかった。それは、夫・前田利家が命がけで守ろうとした「豊臣家の天下」という時代が終わりを告げ、徳川による新たな秩序が始まることを告げる、象徴的な葬列であった。
この決断はまた、「家の存続」という戦国大名の至上命題が、「主家への忠義」という旧来の価値観を完全に上回った瞬間でもあった。芳春院の選択は、前田家百万石を滅亡から救った賢明な判断であったが、それは同時に、戦国という時代の終焉を意味していたのである。
終章:関ヶ原への道程
慶長四年(1599年)という一年は、日本の歴史が大きく舵を切った、決定的な年であった。その全ての始まりは、閏三月三日の前田利家の死であった。彼の死は、豊臣政権内に辛うじて保たれていた脆弱な権力均衡を、根底から破壊した。
利家という「重石」を失った政権は、もはや自壊を止める術を持たなかった。政権の頭脳であり、反家康派の中核であった石田三成は、利家の死後わずか一週間で中央政界から追放された。そして、徳川家に次ぐ最大の軍事力を有し、家康にとって最大の潜在的脅威であった前田家は、その年の秋には完全に屈服させられた。これにより、家康に対抗しうる有力な勢力は、中央から一掃されたのである 34 。西国に逼塞する毛利輝元や、会津に国替えとなった上杉景勝らが残るのみであったが、彼らが単独で家康に挑むことはもはや不可能であった。
利家の死から、天下分け目の関ヶ原の戦いまで、わずか一年半。しかし、その趨勢は、慶長四年の時点で、すでに決定づけられていたと言っても過言ではない。家康は、この一年間で、武断派と文治派の対立という豊臣政権の内部矛盾を巧みに利用し、政権を内部から完全に無力化した。そして、自らが秀頼の後見人として、豊臣家の法を執行する唯一の存在であることを既成事実化し、天下の実権を完全に掌握したのである。
結論として、前田利家の死は、単なる一人の偉大な大名の死ではない。それは、豊臣秀吉が築き上げた一つの時代そのものの「死」を意味した。そして、徳川家康が二百六十年にわたる泰平の世を築くための、重い「扉」を開いた、日本史上最も重要な転換点の一つであった。もし、利家がもう一年、あるいは二年長らえていたならば、豊臣秀頼が成長する時間を稼ぐことができ、日本の歴史は全く異なる様相を呈していた可能性は否定できない。彼の死の瞬間に、翌年の関ヶ原の戦いの号砲は、すでにして鳴り響いていたのである。
表2:慶長四年(1599年)主要事変年表
年月日(慶長四年) |
主要な出来事 |
影響と意義 |
正月19日 |
四大老・五奉行、家康の私婚問題で問罪使を派遣 18 。 |
反家康派が結束し、家康の専横を公式に糾弾。政局が緊迫化する。 |
2月2日 |
前田利家、病身を押して伏見の家康邸を訪問し直接会談 20 。 |
利家の権威により、全面衝突は回避されるが、これが彼の最後の政治活動となる。 |
2月5日 |
家康が起請文を提出し、私婚問題が形式的に和解 20 。 |
表面的な和解の裏で、家康は利家の余命が尽きるのを待つ戦略に転換。 |
閏3月3日 |
前田利家、大坂の自邸にて死去(享年62) 3 。 |
豊臣政権の「重石」が失われ、権力バランスが完全に崩壊する。 |
閏3月3日夜 |
武断派七将、石田三成の襲撃(訴追)を計画 11 。 |
利家の死を合図に、抑圧されていた武断派の三成への憎悪が爆発する。 |
閏3月4日~5日 |
三成、絶体絶命の状況下で伏見の家康邸に保護を求める 11 。 |
家康が騒動の「仲裁者」となる機会を得る。 |
閏3月9日 |
家康の裁定により、三成は五奉行を罷免され佐和山城へ蟄居 29 。 |
家康は政敵三成を排除し、豊臣家中の裁定権を完全に掌握する。 |
9月 |
家康、前田利長に「家康暗殺計画」の嫌疑をかける 35 。 |
家康が最大の潜在的脅威である前田家の無力化に着手する。 |
9月下旬 |
家康が「加賀征伐」を布告。前田家は存亡の危機に陥る 35 。 |
軍事的圧力により、前田家を政治的に追い詰める。 |
10月 |
芳春院(まつ)が人質として江戸へ下ることを決断 35 。 |
前田家は徳川家への完全な臣従を誓う。関ヶ原の趨勢が事実上決まる。 |
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引用文献
- 前田利家(まえだ としいえ) 拙者の履歴書 Vol.26 ~槍一筋、乱世を駆ける - note https://note.com/digitaljokers/n/ne5e026cebc7b
- 徳川家康、「信長、秀吉からの学びと経済的手腕」 - NTTドコモビジネス https://www.ntt.com/bizon/d/00559.html
- 前田利家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
- 【槍の又左】前田利家とは?豊臣政権を支えた武勇と律儀の五大老 - 戦国 BANASHI https://sengokubanashi.net/person/maedatoshiie/
- 利長の窮地 - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_1.html
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- 暗雲立ち込める豊臣政権!朝鮮出兵の失敗と家臣団の分裂の経緯を追う:2ページ目 - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/187356/2
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