前田家加賀百万石確立(1599)
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慶長四年、前田家の存亡 ― 加賀百万石確立に至る激動の一年の軌跡 ―
序章:太閤秀吉の死と豊臣政権の亀裂
慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じた。彼の死は、日本全土に巨大な権力の空白を生み出し、後に「関ヶ原の戦い」として知られる全国規模の内乱へと至る、激動の時代の幕開けを告げるものであった。秀吉は死の床で、まだ幼い嫡男・秀頼の将来を深く案じ、その安泰を盤石にするための政治体制を遺言として残した。それが、有力大名による合議制を基本とする「五大老・五奉行」制度である 1 。
この制度は、天下の政務を五大老(徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家)が合議によって決定し、それを五奉行(石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以)が実務行政として執行するという、権力分担の理念に基づいていた 3 。秀吉は、特定の人物に権力が集中することを防ぎ、大名間の相互監視と協力によって豊臣家の天下を維持しようと目論んだのである。
しかし、この制度は発足の時点から、致命的な構造的欠陥を抱えていた。五大老筆頭の徳川家康が有する関東256万石という石高は、他の四大老の石高(前田利家83万石、上杉景勝・毛利輝元それぞれ120万石、宇喜多秀家57万石)を全て合わせたものに匹敵、あるいは凌駕する規模であった 3 。このような圧倒的な実力差が存在する以上、対等な合議制が機能するはずもなかった。秀吉がこのアンバランスな体制を構築したのは、家康を体制外に置くのではなく、あえて体制内に取り込むことでコントロールしようとしたからに他ならない。そして、その家康を抑えるための「重石」として、個人的な信頼関係が最も深かった盟友・前田利家を当てにしたのである。利家の存在は、制度の欠陥を個人の人望と秀吉との絆によって辛うじて糊塗する、最後の安全装置であった。
さらに、豊臣政権の内部には、秀吉の生前から根深い対立の火種が燻っていた。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を契機に、戦場で武功を立てることを本分とする加藤清正、福島正則らの「武断派」と、秀吉の側近として政権の官僚機構を支えた石田三成らの「文治派」との間の確執である 5 。武断派の諸将は、朝鮮での戦功を三成ら文治派の奉行たちに不当に評価され、あるいは讒言によって秀吉から処罰されたとして、強い恨みを抱いていた 6 。
秀吉の死という箍が外れるや否や、これらの矛盾は一気に噴出する。五大老筆頭の家康は、秀吉が固く禁じていた大名間の私的な婚姻を、伊達政宗や福島正則、加藤清正らと独断で進め、自らの派閥形成に乗り出した 1 。これは秀吉の遺言に対する公然たる挑戦であり、豊臣政権の根幹を揺るがす行為であった。石田三成ら奉行衆はこれに激しく反発し、家康を抑えることができる唯一の存在、前田利家に仲裁を依頼した。利家は病身を押して家康と対峙し、一触即発の事態を誓紙の交換という形で辛うじて収拾させた 8 。しかし、これは根本的な解決ではなく、豊臣政権の崩壊を食い止めるための、利家による最後の奉公に過ぎなかった。この時点で、政権を支えるべき大老と奉行の対立はもはや修復不可能な段階に達しており、その命運は、風前の灯火であった利家一人の健康状態に委ねられていたのである。
表1:主要登場人物一覧
役職・立場 |
氏名 |
慶長4年時点の動向・関係性 |
五大老(筆頭) |
徳川 家康 |
秀吉死後、遺言を破り勢力を拡大。豊臣政権の実権掌握を狙う。 |
五大老 |
前田 利家 |
秀吉の盟友。家康を抑える最後の重石。慶長4年閏3月に病没。 |
五大老 |
毛利 輝元 |
安芸広島120万石の大大名。後に関ヶ原で西軍総大将となる。 |
五大老 |
上杉 景勝 |
会津120万石の大大名。家康への反抗姿勢を強める。 |
五大老 |
宇喜多 秀家 |
備前岡山57万石。秀吉の猶子。 |
五奉行(筆頭格) |
石田 三成 |
文治派のリーダー。家康と対立し、利家を頼るが、その死後失脚。 |
五奉行 |
浅野 長政 |
家康暗殺計画の嫌疑をかけられ、失脚。利長とは姻戚関係。 |
五奉行 |
増田 長盛 |
家康に暗殺計画を密告。 |
前田家当主 |
前田 利長 |
利家の嫡男。父の死後、家督と五大老職を継ぐが、家康に翻弄される。 |
利家の正室 |
芳春院(まつ) |
利長の母。家の危機に際し、自ら人質となることを決断する。 |
利長の弟 |
前田 利政 |
関ヶ原の戦いで西軍に与したとされ、戦後改易される。 |
武断派大名 |
加藤 清正 |
三成と対立。いわゆる「七将」の一人。 |
武断派大名 |
福島 正則 |
三成と対立。いわゆる「七将」の一人。家康と姻戚関係を結ぶ。 |
第一章:巨星墜つ – 前田利家の死と権力均衡の崩壊(慶長4年閏3月)
慶長4年(1599年)に入ると、前田利家の病状は日に日に悪化していった。しかし彼は、衰弱する体に鞭打ち、秀吉の遺言を遵守するという最後の務めを果たそうとする。年明け、利家は秀吉の遺言通り、幼主・秀頼と共に伏見城から豊臣家の本拠地である大坂城へと移った 2 。これは、伏見城にあって絶大な影響力を行使し始めた家康から秀頼を物理的に引き離し、自らの目が届く範囲で後見するという、明確な政治的意志の表れであった。
利家が存命である限り、家康もまた、その公然たる政権簒奪行為をある程度は手控えていた。反家康派の諸将も、利家を精神的支柱として頼り、彼の屋敷には多くの大名が出入りしていた 8 。利家個人の人望と威光が、かろうじて豊臣政権の崩壊を食い止めていたのである。
しかし、その限界はあまりにも早く訪れた。慶長4年閏3月3日、利家は秀吉の後を追うように、大坂の自邸で息を引き取った。享年62 10 。彼の死は、単に一人の大老の死を意味するものではなかった。それは、徳川家康にとって最大の障害が取り除かれたことを意味し 8 、豊臣政権を支えていた最後の「重石」が失われた瞬間であった。権力の天秤は、もはや誰の目にも明らかな形で、一気に家康へと傾いていった。
父の死を受け、嫡男の前田利長が83万石の家督を相続し、同時に父が務めていた五大老の職も引き継いだ 12 。しかし、当時38歳の利長は、父・利家が長年かけて築き上げたような政治的影響力も、諸大名を束ねる人望も持ち合わせてはいなかった。若き新当主は、巨大な前田家という家臣団と、複雑怪奇な中央政局の舵取りという、あまりにも重い責務をいきなり双肩に担うことになったのである。
利家の死は、豊臣家臣団内部の感情的な支柱をも失わせるものであった。特に、彼がその存在によって抑え込んでいた「武断派」と「文治派」の対立は、共通の敬意の対象を失ったことで、もはや誰にも止められない憎悪の奔流となって噴出する。利家という「蓋」が吹き飛んだ瞬間、豊臣政権は内部から崩壊を始めた。そして、老獪な家康は、この対立を静観、あるいは巧みに煽動することで、自らの権力基盤を確立するための絶好の機会と捉えていた。利家の死は、家康にとって、次なる政敵である石田三成を孤立させ、排除するための好機到来を告げる号砲となったのである。
第二章:石田三成失脚と徳川家康の台頭(慶長4年閏3月)
前田利家がこの世を去ったその夜、彼の死を待ちかねていたかのように、豊臣政権内の対立はついに武力衝突寸前の事態へと発展する。いわゆる「石田三成襲撃事件」である。
閏3月3日の夜、利家の病床を見舞っていた諸将が退出する中、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興、浅野幸長、蜂須賀家政、藤堂高虎ら、武断派を代表する七人の武将が、大坂の前田屋敷から出ようとする石田三成の命を狙い、待ち伏せていたとされる 5 。彼らの動機は、文禄・慶長の役において三成の讒言により不当な処罰を受けたことへの、積年にわたる深い恨みであった 6 。利家は生前、三成を庇護しており、武断派の諸将は利家への配慮から手出しができなかった。その利家が死んだ今、彼らの怒りを抑えるものは何もなかった 5 。
通説によれば、三成は豊臣秀頼に仕える桑島治右衛門からの急報により危機を察知し、辛くも屋敷を脱出したとされている 5 。しかし、近年の研究では、この事件は物理的な「襲撃」ではなく、七将が家康に対して三成の非道を訴え、その裁定を求めた一種の「訴訟事件」であったという説が有力視されている 7 。もし後者が真相に近いとすれば、この事件は単なる私怨による襲撃ではなく、七将が家康を豊臣政権の最高権威者として公に認めた上での、高度な政治闘争であったと解釈できる。
いずれにせよ、七将の殺気に満ちた追及を受け、窮地に陥った三成は、驚くべき行動に出る。彼は伏見へと逃れ、敵対していたはずの徳川家康の屋敷に駆け込み、保護を求めたのである 7 。これは、もはや家康以外に七将の怒りを鎮められる実力者が政権内に存在しないことを、三成自身が認めざるを得なかったことを意味する。他の大老である毛利輝元や上杉景勝は在国中であり 6 、若き前田利長に七将を抑える力はなかった。皮肉にも、三成にとって唯一の頼みの綱は、最大の政敵である家康しかいなかったのである。
家康はこの千載一遇の好機を逃さなかった。彼は三成を屋敷に匿ってその身の安全を保証する一方、七将の訴えも丁重に聞き入れ、「仲裁役」として乗り出す。この一連の行動により、家康は豊臣家内部の紛争を裁定する最高権力者としての地位を、天下に知らしめることに成功した 14 。
閏3月9日、家康は「仲裁」の結果として裁定を下す。それは、三成を五奉行の職から罷免し、居城である近江佐和山城へ蟄居させるというものであった 5 。翌閏3月10日、家康は自らの次男・結城秀康に三成を護送させるという念の入れようであった 5 。これは、七将の怒りを「三成の失脚」という形で満たして彼らを自派に取り込み、同時に三成の命を救うことで豊臣家に対して「私怨ではない」という大義名分を立て、さらに三成を自身の監視下に置くという、一石三鳥の巧みな政治的策略であった。
この事件は、家康が仕組んだものではなく、豊臣家臣団の内部矛盾が自然発生的に噴出したものであった。しかし、家康の真の恐ろしさは、この偶発的な事件を瞬時に見抜き、自らの権力基盤を確立するための絶好の機会として完璧に利用しきった点にある。この一件によって、豊臣政権の「合議制」は名実ともに崩壊し、家康による「単独支配体制」が事実上確立した 4 。五大老・五奉行制度は、利家の死からわずか一週間で、完全に形骸化したのである。
第三章:加賀征伐の危機 – 家康暗殺計画嫌疑の勃発(慶長4年9月~10月)
最大の政敵であった石田三成を合法的に排除し、豊臣政権の主導権を完全に掌握した家康の次なる標的は、豊臣恩顧大名の筆頭格であり、潜在的な最大勢力である前田家であった。家康の狙いは、父・利家ほどの威光を持たない若き当主・利長を屈服させ、その巨大な軍事力と経済力を徳川の支配下に置くことにあった。
慶長4年(1599年)9月、家康のもとに衝撃的な情報がもたらされる。五奉行の一人、増田長盛が、「家康暗殺計画」の存在を密告したのである 17 。そして、その首謀者として名指しされたのは、あろうことか五大老の一人である前田利長であった。共謀者として、同じく五奉行の浅野長政、豊臣家重臣の大野治長、土方雄久らの名も挙げられていた 17 。計画の具体的な内容は、9月12日に家康が大坂城から伏見城へ移動する道中を狙って襲撃するというものであったとされる 18 。
しかし、この暗殺計画は、家康が前田家をはじめとする反主流派を一掃するために仕掛けた謀略であった可能性が極めて高い。浅野長政の子・幸長は利家の娘と婚約しており 18 、細川忠興の子・忠隆も利家の娘を娶っている 17 。家康はこうした婚姻関係を巧みに利用し、彼らを一つの巨大な陰謀グループとして強引に結びつけ、一大疑獄事件に仕立て上げたのである。
家康は、この密告を大義名分として、直ちに浅野長政らを処断し、謹慎を命じた 17 。そして、最大の標的である前田利長に対して、最も厳しい態度で臨む。利長が父の死後、居城である金沢城の修築を進め、武具を整えていたことを「謀反の動かぬ証拠」として糾弾したのである 17 。
そして慶長4年10月3日、家康はついに決定的な行動に出る。諸大名に対し、北陸への出兵準備を命じ、「加賀征伐」を公然と宣言したのである 17 。この時、家康は自らが秀頼の後見人であるという立場を最大限に利用した。「家康への反逆は、すなわち豊臣家への反逆である」という論理を構築し、自らの軍事行動を完全に正当化したのである 17 。これにより、前田家は豊臣政権の「公敵」として、突如として存亡の危機に立たされることになった。
家康の真の目的は、前田家を滅亡させることではなかった。100万石級の大大名との全面戦争は、家康にとっても大きな損害を覚悟せねばならず、他の豊臣恩顧大名の反発を招く危険性もあった。この「加賀征伐」の号令は、前田家に対する一種の「政治的ストレス・テスト」であった。この危機を通じて、家康は前田家中の結束力、他の大名がどちらにつくかという動向、そして最も重要な、大坂の豊臣家が前田家を助ける意志があるか否かを見極めようとしたのである。主君(秀頼)の後見人たる自分への暗殺計画という、武家社会における最大の罪を口実にすることで、家康は前田家を倫理的に孤立させ、他の大名が味方しにくい状況を巧みに作り出したのであった。
第四章:前田家の岐路 – 家中における主戦論と和平論の激突
徳川家康からの突然の「謀反」嫌疑と「加賀征伐」の号令は、北陸の雄・前田家の本拠地である金沢に激震を走らせた。身に覚えのない罪状で、弁明の機会すら与えられずに討伐軍が編成されるという異常事態に、当主の利長はただ驚愕するほかなかった 17 。前田家中は瞬く間に大混乱に陥り、徳川との全面戦争か、あるいは完全屈服かという、究極の選択を迫られることになった 13 。
家中は、二つの意見に真っ二つに割れた。一つは、徳川と一戦を交えるべしとする「主戦派(徹底抗戦派)」である。彼らは、「加賀百万石の誇りにかけて、不当な言いがかりに屈するべきではない。金沢城に籠城して戦えば、これを好機と捉える反家康の諸大名が蜂起する可能性もある」と主張した。若き当主・利長自身も、当初はこの主戦論に強く傾き、金沢城で徳川軍を迎え撃つ覚悟を決めていたとされる 12 。
もう一方は、弁明して恭順の意を示すべきだとする「和平派(抗戦回避派)」であった。彼らは、「天下の実権を握る家康に敵対しても勝ち目はない。主家である豊臣家からの支援も見込めない今 13 、戦は前田家の滅亡を招くだけである。今は耐え忍び、家の存続を第一に考えるべきだ」と、現実的な判断を訴えた。史料上、それぞれの派閥に属した家臣の具体的な名前は明確ではないが 13 、利家に仕えた歴戦の古参家臣と、利長側近の新世代の家臣との間で意見が対立した可能性が指摘されている 17 。
若き当主・利長は、苦悩の淵に立たされた。彼は、父・利家から受け継いだ巨大な家臣団をいまだ完全に掌握できておらず、家中を二分する激しい議論をまとめきれずにいた 17 。主戦論に傾きつつも、独断で開戦を決定することもできないという、指導者として最も苦しい立場に追い込まれたのである 17 。最後の望みをかけて主君である豊臣家に支援を要請するも、既に家康の強い影響下にある大坂城からは何の助けも得られなかった 13 。この時点で、利長は豊臣政権内で完全に孤立無援であることを痛感させられた。
この前田家中の議論は、単なる戦術論争ではなかった。それは、「豊臣恩顧の誇り」という戦国武将としての価値観と、「家の存続」という近世大名としての責務との間の、深刻な衝突であった。利長が当初主戦論に傾いたのは、父・利家ならばどうしたかという自問自答と、若き当主としての気概の表れであっただろう。しかし、豊臣家からの支援拒否という冷徹な現実は、彼に「誇りだけでは家も領民も守れない」という事実を突きつけた。この苦悩と挫折の経験こそが、彼を感情や名誉よりも家の安泰を優先する現実主義的な領主へと成長させる、重要な転機となったのである 23 。
第五章:母の決断 – 芳春院(まつ)江戸下向と前田家存続の道(慶長4年10月~慶長5年5月)
家中が主戦論と和平論で分裂し、当主・利長が決断を下せずにいる中、この絶体絶命の危機を収拾すべく立ち上がった人物がいた。利家の正室であり、利長の母である芳春院(まつ)である。彼女の常識を超えた決断が、前田家を滅亡の淵から救い出すことになる。
夫・利家の死後に出家し、静かに菩提を弔っていた芳春院は、家中の混乱と息子の迷いを見抜き、利長を厳しく諭したと伝えられている。「今のあなたに、家康と渡り合うだけの度量はありません。いたずらに戦を起こして家を滅ぼすのではなく、加賀一国をしっかりと守りなさい」 12 。彼女は感情的な主戦論を退け、冷徹な現実認識に基づく判断を息子に促した。
そして、芳春院は家康の疑いを晴らすための究極の策を自ら提案する。それは、彼女自身が人質となって江戸へ下るというものであった 12 。当時の武家社会において、当主の母(大方様)を人質として差し出すことは、謀反の意志がないことを示す最大の誠意の証であり、完全な服従を意味した。これは、戦か降伏かという二元論に陥っていた家臣たちには思いもよらない、第三の道であった。
芳春院の決意を受け、利長はついに和平へと大きく舵を切る。彼は重臣の横山長知を大坂の家康のもとへ使者として派遣し、謀反の疑いを晴らすための弁明を三度にわたって行わせた 17 。この粘り強い交渉の結果、前田家は以下の二つの条件を受け入れることで、家康との和議を成立させた。
- 利長の母・芳春院が人質として江戸に下向し、居住すること 10 。
- 利長の養嗣子であり、後の三代藩主となる利常と、家康の孫娘・珠姫(二代将軍・徳川秀忠の次女)を結婚させること 17 。
慶長5年(1600年)5月、芳春院は「家のために母を棄てよ」と周囲に気丈に振る舞いながらも、我が子と前田家の未来を守る一心で、住み慣れた金沢の地を後にした 27 。彼女の江戸下向には、譜代の重臣である村井長頼らも付き従った 27 。この芳春院の決断と行動は、家康による加賀征伐を完全に撤回させ、前田家の存続を確定的なものとした 28 。徳川家に唯一対抗しうると目されていた前田家が恭順の意を示したことで、家康の天下への道は事実上、盤石なものとなったのである 12 。
芳春院の江戸下向は、単なる母親の自己犠牲ではなかった。それは、賤ヶ岳の戦いの際に秀吉と直接交渉して夫・利家の危機を救ったこともある 25 、戦国乱世を生き抜いた女性政治家による、極めて高度な外交的・戦略的決断であった。彼女は「人質」というカードを切ることで、徳川への恭順を示しつつも、前田家の所領と尊厳を実質的に守り抜くという、唯一の正解を導き出したのである。そして、彼女の江戸居住は、後の江戸幕府が諸大名を統制するために制度化した、大名の妻子を江戸に住まわせる「証人制度」(参勤交代の根幹)の先駆けとなった 22 。前田家を救った一個人の決断が、結果的に徳川三百年の支配体制の礎の一つを築いたことは、歴史の必然と偶然が織りなす妙と言えるだろう。芳春院はその後、実に14年もの長きにわたり、江戸で人質としての生活を送ることになるのである 26 。
終章:関ヶ原へ、そして加賀百万石の確立へ
慶長4年(1599年)の一年間にわたる危機を、母・芳春院の決断によって乗り越えた前田家は、徳川家への恭順という立場を明確にした。この決断は、翌慶長5年(1600年)に勃発する天下分け目の「関ヶ原の戦い」における前田家の動向を決定づけることになる。
家康が会津の上杉景勝討伐のために大坂を離れると、その隙を突いて石田三成が挙兵し、全国の大名を巻き込む内乱が始まった。母・芳春院が人質として江戸にいる以上、利長に選択の余地はなかった。彼は迷うことなく家康方の東軍に与し、2万5000と号する大軍を率いて、北陸方面に割拠する西軍勢力の鎮圧へと向かった 30 。
利長はまず、西軍についた弟・山口宗永が守る加賀大聖寺城を攻略。しかし、その後の進軍は順調ではなかった。金沢への帰路、小松城主・丹羽長重の軍勢から奇襲を受け、浅井畷(現在の石川県小松市)で激戦を繰り広げることになった(浅井畷の戦い) 31 。隘路での戦いで大軍の利を活かせなかった前田軍は苦戦を強いられ、多くの犠牲を出しながらも、重臣の長連龍らの奮戦によって辛うじて丹羽軍を退け、金沢への撤退に成功した 33 。この戦いは、利長が東軍の一翼として紛れもなく戦ったという、後々の論功行賞において極めて重要な意味を持つ戦功となった。
一方で、利長には一つの大きな懸念があった。弟の前田利政の動向である。利政は、妻子を大坂で石田三成に人質に取られていたため、利長の出陣命令に従うことができず、結果的に西軍に与したと見なされてしまった 13 。関ヶ原の本戦がわずか一日で東軍の圧勝に終わると、利長は前田家本体の安泰を確実にするため、非情な決断を下す。弟・利政の責任を自ら家康に報告し、その処罰を求めたのである。結果、利政はその所領であった能登22万石を没収され、改易処分となった 13 。
家康は、関ヶ原の本戦には間に合わなかったものの、北陸方面で東軍として戦功を挙げた利長の働きを高く評価した。そして戦後、利長の所領である加賀・越中を安堵すると共に、改易された弟・利政の旧領であった能登一国と、西軍方から没収した加賀国内の所領などを加増した。これにより、前田家の所領は加賀・能登・越中の三国にまたがる、名実ともに120万石を超える日本最大の石高を誇る大名領となり、世に言う「加賀百万石」の体制が確立されたのである 24 。
結論として、利用者様が当初認識されていた「家中調整で大領の体制を固める」という事象は、慶長4年(1599年)に前田家が経験した存亡の危機の、ほんの一側面に過ぎない。真の「加賀百万石確立」とは、豊臣政権崩壊という時代の激動の中で、徳川家康による巧妙な政治的・軍事的圧力に晒され、一時は滅亡の危機に瀕しながらも、母・芳春院の自己犠牲的な決断と、当主・利長の苦渋に満ちた現実的な判断によってその危機を乗り越え、新たな支配者である徳川家との間に確固たる主従関係を築き上げた、一年間にわたる一連のプロセスそのものを指すのである。この1599年の苦難を乗り越えたからこそ、前田家は外様大名筆頭として江戸時代を通じてその繁栄を維持することができた 24 。慶長4年の出来事は、まさしく加賀百万石の真の礎を築いた、血と涙の戦いであったと言えるだろう。
表2:慶長四年(1599年)重要事象年表
年月日 |
出来事 |
関連人物 |
影響・結果 |
慶長4年 正月 |
家康、伊達・福島らと無断で婚姻 |
徳川家康、石田三成、前田利家 |
豊臣政権内に対立が顕在化。利家の仲裁で一時沈静化。 |
慶長4年 閏3月3日 |
前田利家、大坂にて病没 |
前田利家、前田利長 |
豊臣政権の重石が失われ、権力均衡が崩壊する。 |
慶長4年 閏3月3日夜 |
石田三成襲撃(訴訟)事件 |
石田三成、加藤清正ら七将 |
武断派の不満が爆発。家康が仲裁に乗り出す。 |
慶長4年 閏3月10日 |
石田三成、佐和山へ蟄居 |
石田三成、徳川家康 |
家康が政敵を排除し、豊臣政権の事実上の最高権力者となる。 |
慶長4年 9月 |
家康暗殺計画の嫌疑発覚 |
前田利長、浅野長政、徳川家康 |
家康が前田家・浅野家ら反主流派を一掃する口実を得る。 |
慶長4年 10月3日 |
家康、諸大名に「加賀征伐」を指令 |
徳川家康、前田利長 |
前田家、存亡の危機に直面。家中は主戦・和平で分裂。 |
慶長4年 10月 |
芳春院、江戸下向を決意 |
芳春院(まつ)、前田利長 |
前田家、徳川への完全恭順を決定。 |
慶長4年 12月 |
利長、権中納言を辞任 |
前田利長 |
徳川家への恭順の意をさらに明確に示す。 |
慶長5年 5月 |
芳春院、江戸へ下向 |
芳春院(まつ) |
加賀征伐が完全に回避される。前田家の存続が確定。 |
引用文献
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を考察する(上) | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
- 関ヶ原の戦い/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7045/
- 「五大老」と「五奉行」の違いとは? それぞれのメンバーと人物像まとめ【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/479426
- 七将襲撃事件 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B0%86%E8%A5%B2%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
- どうする家康40話 石田三成との決別/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/112297/
- 「石田三成襲撃事件」で襲撃は起きていない? 画策した7人の武将、そして家康はどうした? https://rekishikaido.php.co.jp/detail/10229
- 頼りの前田利家に死なれて… - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/496/
- 天下目前だった?前田利家の最期と遺言とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2127
- 律義者・前田利家、最期の逸話~地獄で閻魔とひと戦さ? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4856
- 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
- まつ(芳春院) 戦国の姫・女武将たち/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46532/
- 前田利長 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/maeda-toshinaga/
- 慶長4年(1599)3月4日は石田三成が加藤清正ら豊臣七将の襲撃計画により伏見城へ逃れた日。抑え役の前田利家が前日死去し起きた事件で家康が仲裁した。襲撃でなく七将が家康に三成の制裁を訴えた - note https://note.com/ryobeokada/n/n75e6634d1bfa
- 【家康の謎】家康はなぜ石田三成を匿った? 七将襲撃事件は事実なのか? - 攻城団 https://kojodan.jp/blog/entry/2023/10/22/093000
- 家康と三成は宿敵ではない…関ヶ原で負けボロボロの姿で捕まった三成を「医者に診せよ」と言った家康の真意 処刑される直前に三成が平常心で望んだこと - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/73856?page=1
- 関ヶ原合戦直前! 慶長4年の徳川家康暗殺計画の真相とは?【後編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/2063
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- 芳春院消息 - 金沢ミュージアムプラス https://kanazawa-mplus.jp/collection/page-maedatosa315.html
- 丹羽長重と北陸の関ケ原・浅井畷の戦い - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/5031
- 浅井畷 古戦場 - 小松市 https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/13/pref006asainawatekosennj.pdf
- 浅井畷の戦い ~丹羽長重の関ヶ原~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/asainawate.html
- 浅井畷の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E4%BA%95%E7%95%B7%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
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