最終更新日 2025-09-18

加賀一向一揆政権確立(1540頃)

加賀一向一揆政権は、大小一揆を経て本願寺中央の直轄統治体制を確立。法主を頂点とする宗教国家として、武力と信仰で戦国大名と渡り合うも、信長に滅ぼされた。
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加賀一向一揆政権の確立(1540年頃)—本願寺中央集権体制への道—

序章:加賀一向一揆政権—「1540年体制」への視座

日本の戦国時代において、加賀国(現在の石川県南部)に約100年間にわたり存在した一向一揆による統治体制は、武家権力とは一線を画す特異な政治形態として知られている。利用者が提示する「加賀一向一揆政権確立(1540頃)」という事象は、この約100年の歴史の中でも、極めて重要な質的転換点を示すものである。一般的に「加賀一向一揆」は、長享2年(1488年)に守護大名・富樫政親を打倒してから、天正8年(1580年)に織田信長勢力によって滅ぼされるまでの一貫した「門徒による自治」と捉えられがちである。しかし、その内実は大きく二つのフェーズに分断されている。

第一のフェーズは、長享2年(1488年)から享禄4年(1531年)までの、在地領主や門徒による連合自治政権期である。蓮如の子・実悟が「百姓の持ちたる国のようになり行き候」と評した時代であり 1 、加賀の在地性が色濃く反映された半独立的な統治が行われていた。

第二のフェーズは、享禄4年(1531年)から天正8年(1580年)までの、本願寺中央による直接統治政権期である。本報告書が主題とする「1540年頃の政権確立」とは、まさにこの第二フェーズの体制が安定し、確立した時期を指す。

この二つのフェーズを分かつ画期こそが、享禄4年(1531年)に加賀国内で勃発した「大小一揆(享禄・天文の乱)」と呼ばれる大規模な内戦であった 2 。これは単なる内部抗争ではなく、加賀の統治権を巡る、在地化した本願寺一門と、中央集権化を目指す本願寺法主・執行部との間の全面戦争であった。したがって、「1540年頃の政権確立」を理解するためには、1488年の守護打倒という「始まり」だけでなく、1531年の内戦による旧体制の「終焉」と、それに続く新体制の「誕生」という、体制変革の力学を詳細に解明する必要がある。「加賀一向一揆」という単一の呼称が覆い隠してしまいがちな、この深刻な断絶と体制変革のプロセスこそが、本報告書の分析の中心となる。

【表1】加賀一向一揆関連 年表(1471年~1580年)

西暦

和暦

主要な出来事

1471年

文明3年

本願寺第8代法主・蓮如、越前吉崎に下向し北陸での布教を本格化。

1488年

長享2年

長享の一揆(加賀の一向一揆) 。門徒らが守護・富樫政親を攻め自害させる。以後、約100年にわたる門徒支配が始まる 4

1506年

永正3年

越前で朝倉宗滴が一向一揆を破る(九頭竜川の戦い)。加賀と越前の対立が激化。

1525年

大永5年

本願寺第9代法主・実如が死去。10代法主として証如が11歳で就任。外祖父の蓮淳が後見人として実権を掌握 3

1531年

享禄4年

**大小一揆(享禄・天文の乱)**勃発。本願寺中央(大一揆)と加賀在地勢力(小一揆)が内戦状態に。津幡の戦いで大一揆側が勝利し、賀州三ヶ寺ら旧指導部は粛清される 2

1532年

天文元年

山科本願寺が六角定頼・法華宗徒らに焼き討ちされる。本願寺は拠点を大坂石山に移す 6

1540年

天文9年

本願寺と能登畠山氏との間に和議が成立 2

1541年

天文10年

本願寺と越前朝倉氏との間に和議が成立。大小一揆の戦後処理が完了し、加賀における本願寺の支配が安定する 2

1546年

天文15年

本願寺、加賀支配の拠点として 金沢(尾山)御坊 を建立 2

1570年

元亀元年

石山合戦が勃発。織田信長と本願寺が全面戦争に突入。

1577年

天正5年

上杉謙信が加賀に侵攻し、織田軍を破る(手取川の戦い)。

1580年

天正8年

石山合戦が終結。織田軍の柴田勝家・佐久間盛政らが金沢御坊を攻略し、加賀一向一揆による統治が終焉する 8

第一章:前夜—「百姓の持ちたる国」の成立と構造(1471年~1530年)

大小一揆によって打倒されることになる第一フェーズの統治体制、すなわち「百姓の持ちたる国」は、いかにして成立し、どのような権力構造を有していたのか。その成立過程と実態を分析することは、後の体制変革の遠因を理解する上で不可欠である。

蓮如の北陸布教と門徒組織の形成

加賀における一向宗門徒の強大な勢力は、本願寺第8代法主・蓮如の布教活動にその源流を持つ。応仁の乱の戦火を逃れた蓮如は、文明3年(1471年)に越前吉崎(現在の福井県あわら市)に坊舎を構え、精力的な布教活動を展開した。蓮如は「御文(御文章)」と呼ばれる平易な仮名書きの法語を用いて教えを説き、その教えは武士や農民といった階層を問わず、北陸地方に急速に浸透していった 4

この布教活動を通じて、各地に「講」と呼ばれる門徒の信仰共同体が形成された。これらの「講」は、単なる宗教組織に留まらず、地域の自治や自衛の機能をも担う強固な地縁的・血縁的ネットワークへと発展し、後の一向一揆における驚異的な動員力の基盤となった。

長享の一揆(1488年)—守護権力の打倒

当時の加賀国は、守護・富樫氏の内部で家督争いが続いており、国内は不安定な情勢にあった。富樫政親は、この内乱を制するために、急速に勢力を拡大していた一向宗門徒の力を利用し、敵対する一族の富樫幸千代を打倒することに成功した 5

しかし、一度は協力関係にあった両者だが、一向宗門徒の組織力と影響力が自らの守護権力を脅かす存在であると認識した政親は、危機感を募らせ、弾圧へと方針を転換する 4 。これに対し、門徒たちは猛烈に反発。長享2年(1488年)、遂に大規模な一揆が蜂起した。20万とも言われる一揆勢は、政親の居城である高尾城(現在の金沢市)を包囲した 5 。周辺国の能登畠山氏や越前朝倉氏は幕府の命令を受けて政親の救援に向かったが、一揆勢の勢いを止めることはできなかった 12 。追い詰められた政親は自害し、ここに室町幕府が任命した守護大名による加賀統治は事実上終焉を迎えた。

一揆勢は、政親の叔父にあたる富樫泰高を名目上の守護として擁立したが、泰高は実権を持たない傀儡であり、加賀国の実質的な支配権は一向一揆勢力が完全に掌握することとなった 11

「百姓の持ちたる国」の実態分析

この守護打倒後の加賀の統治体制は、しばしば「百姓の持ちたる国」と称される。この言葉は、蓮如の十男であり、加賀に拠点を置いていた実悟が残した『実悟記拾遺』の一節、「近年ハ百姓ノ持タル國ノヤウニナリ行キ候コトニテ候」に由来する 1 。しかし、この原文のニュアンスは「百姓が所有する国になった」という断定ではなく、「まるで百姓が所有する国であるかのように推移している」という比喩的な表現であった 14

この言葉から、近代的な意味での「農民による民主的な共和制」を想像するのは正確ではない。実際の支配構造はより複雑であった。その中核を担っていたのは、一向宗門徒となった国人(在地武士)や有力農民、そして彼らを束ねる僧侶たちの連合体であった。そして、その頂点に君臨し、事実上の最高指導部として機能したのが、蓮如が加賀に配した息子たち、すなわち三男・蓮綱(松岡寺)、四男・蓮誓(光教寺)、七男・蓮悟(本泉寺)らが住持を務める「賀州三ヶ寺(加賀三山)」であった 3

彼らは本願寺法主の代行者として加賀に入ったが、世代を重ねるうちに現地の国人層と深く結びつき、在地化していった。その権力は絶大で、室町幕府が発給する命令書が、名目上の守護である富樫氏ではなく、賀州三ヶ寺の蓮綱・蓮悟宛に直接送付されるほどであった 3 。これは、彼らが対外的にも加賀の支配者として公認されていたことを示している。この体制は、本願寺中央の統制が完全には及ばない、加賀の在地性が極めて強い「半独立国家」とも言うべき様相を呈していた。この在地勢力としての「国主化」こそが、後に本願寺中央との深刻な対立を生む最大の要因となるのである。

第二章:亀裂—本願寺中央集権化と加賀門徒の相克(1520年代~1531年初頭)

大小一揆の勃発は、加賀一国だけの問題ではなかった。それは、本願寺という巨大宗教組織が、戦国乱世を生き抜くために中央集権的な統制国家へと脱皮を図る過程で、必然的に生じた内部の軋轢であった。加賀の半独立体制は、この本願寺全体の変革の波に飲み込まれていく。

本願寺中央の権力構造の変化

本願寺第9代法主・実如の時代から、教団改革の動きは始まっていた。実如は、後継者である息子の円如と、円如の舅であり自らの弟でもある蓮淳(蓮如の六男)に教団運営を委ね、法主の権威を絶対化し、教団組織を中央集権化する改革を推進した 3 。特に、法主の一族を「連枝」「一門」「一家」として序列化し、法主を頂点とするヒエラルキーを確立した「一門一家制」は、各地に分散する一門寺院を中央の統制下に置くための重要な布石であった 3

大永5年(1525年)、実如と円如が相次いで死去すると、円如の子である証如がわずか11歳で第10代法主の座を継いだ。これにより、証如の外祖父であり後見人となった蓮淳が、教団の全権を掌握することになる 3 。蓮如の息子たちの中で、兄たちが北陸に派遣され事実上の国主としての地位を得たのに対し、畿内に留め置かれていた蓮淳は、強い野心と権力志向を持っていた 3 。後見人という立場を得た蓮淳は、幼い法主・証如の権威を最大限に利用し、自らの権力基盤を固めるとともに、教団の中央集権化をさらに強力に推し進めていった。

対立の直接的火種

蓮淳の中央集権化政策の矛先が、ついに加賀に向けられる。当時、中央政界では細川晴元と細川高国が抗争を繰り広げていた。蓮淳は晴元と連携し、加賀国内にあった高国派の荘園を没収するという政治工作に乗り出した 3

問題は、その実行者にあった。蓮淳は、この荘園没収という極めて政治的な実務を、自らの婿である超勝寺の実顕に命じたのである。超勝寺は、賀州三ヶ寺と同様に加賀に拠点を置く有力寺院であったが、三ヶ寺の支配下で圧迫されており、不満を募らせていた 3 。蓮淳は、この超勝寺を利用して加賀の統治に楔を打ち込もうとした。

実顕は、舅である蓮淳の意向と、法主・証如の名で発給された命令書を盾に、加賀の最高指導部である賀州三ヶ寺に一切の相談なく、荘園の代官を次々と自派の門徒に交代させていった 3 。これは、賀州三ヶ寺が半世紀近くかけて築き上げてきた加賀国内における統治権と既得権益に対する、本願寺中央からの公然たる侵害行為であり、両者の対立を決定的なものとした。

「大一揆」と「小一揆」への分裂

この中央からの露骨な介入に対し、賀州三ヶ寺の蓮悟、蓮綱(蓮慶)父子らは激しく反発。享禄4年(1531年)閏5月、超勝寺実顕の行為を「一門一家制」に違反する越権行為であるとして、その討伐命令を下した 3 。これが、加賀の在地勢力を代表する「小一揆」の蜂起である。

一方、この報告を受けた蓮淳は、これを好機と捉えた。彼は、超勝寺の行動はあくまで法主の命令に従った正当なものであり、それに逆らう賀州三ヶ寺こそが法主に弓を引く「仏敵」であると断じた。そして、法主・証如の名において、逆に賀州三ヶ寺を討伐せよとの命令を、超勝寺や本覚寺、さらには全国の門徒に向けて発したのである 2 。これが、本願寺中央の権威を代行する「大一揆」である。

この対立構造は、単なる権力闘争の域を超えていた。蓮淳は「法主の命令は絶対である」という、信仰の根幹に関わる論理を持ち出すことで、自らの政治行動を巧みに正当化した。そして、これまで加賀の門徒を指導してきた賀州三ヶ寺を、信仰上の反逆者に仕立て上げることに成功したのである。加賀の門徒たちは、長年敬ってきた地域の指導者に従うか、それとも本山の法主に従うかという、究極の選択を迫られることになった。この宗教的権威を武器とした巧みなイデオロギー攻撃は、後の内戦の行方を決定づける上で絶大な効果を発揮することになる。

第三章:動乱—大小一揆の内戦詳解(1531年)

享禄4年(1531年)、加賀の支配権と本願寺教団の主導権を巡る対立は、遂に加賀全土を戦火に包む大規模な内戦へと発展した。この大小一揆の経過は、宗教的権威と世俗的権力が複雑に絡み合いながら、加賀の旧秩序が崩壊していく様をリアルタイムで示している。

開戦と初期の戦況(1531年6月~9月)

本願寺中央(大一揆)の動きは迅速であった。蓮淳の号令一下、6月には畿内や東海地方の門徒が山科に結集。実如の子である実円と、蓮淳の側近である下間頼盛に率いられた本願寺軍は、門徒であった飛騨の内ヶ島氏の協力を得て、飛騨の山中を越えて加賀へと侵攻した 2

一方、賀州三ヶ寺(小一揆)側は、開戦と同時に深刻な苦境に立たされた。「仏敵」という烙印を押されたことによる衝撃は大きく、加賀国内の門徒たちの間に動揺が広がった。「仏敵になることを恐れた寝返りが相次いだ」と記録されるように 3 、小一揆側からは離反者が続出し、その組織力は急速に弱体化していった。その結果、賀州三ヶ寺の主要拠点であった松岡寺や本泉寺は、超勝寺と本願寺からの援軍を主力とする大一揆軍の手に次々と奪われていった。

外部勢力の介入と戦局の拡大

自派の門徒だけでは大一揆に対抗できないと悟った小一揆側は、外部の武家勢力に活路を求めた。彼らが支援を要請したのは、長年にわたり一向一揆と敵対関係にあった越前の朝倉孝景(宗滴)と、能登の守護・畠山義総であった 2

朝倉氏や畠山氏にとって、この内紛は本願寺の勢力拡大を阻止し、加賀への影響力を回復する絶好の機会であった。両氏は小一揆支援を名目に加賀へ出兵。さらに、傀儡となっていた名目上の守護・富樫稙泰も小一揆側に与した 2 。これにより、大小一揆は本願寺内部の抗争という枠を超え、越前・加賀・能登の三国を巻き込む国際戦争の様相を呈することになった。

手取川の戦いと津幡の戦い(1531年9月~11月)

外部勢力の介入により、戦局は一時的に小一揆側に傾く。9月26日、手取川において、朝倉宗滴が率いる小一揆・朝倉連合軍が、大一揆軍を打ち破る勝利を収めた 2

しかし、この勝利は長くは続かなかった。大一揆側は体勢を立て直し、反撃に転じる。11月、津幡(現在の石川県津幡町)で両軍は再び激突した。この決戦において、大一揆側は小一揆・連合軍に壊滅的な打撃を与えることに成功した。この戦いで畠山一族の畠山家俊らが討死し、連合軍は総崩れとなった 2

この勝敗を分けた決定的な要因は、単なる軍事力の優劣以上に、両陣営の組織的な結束力の差にあったと考えられる。「法主のため」という単一かつ強力な信仰的動機で結束した大一揆軍に対し、小一揆・連合軍は、賀州三ヶ寺の門徒、朝倉軍、畠山軍、富樫氏という、利害も指揮系統も異なる勢力の寄せ集めに過ぎなかった。このような脆弱な連合は、一度の敗北で容易に瓦解する運命にあった。

戦後処理と旧勢力の粛清

津幡の戦いでの決定的敗北により、小一揆の運命は決した。最後の拠点であった光教寺も陥落し、加賀の旧支配者層は徹底的に粛清された。賀州三ヶ寺の指導者たちの末路は悲惨を極め、蓮慶(蓮綱の子)は処刑され、蓮綱は幽閉の末に死去。蓮悟、顕誓、実悟らは加賀からの脱出を余儀なくされ、彼らには全国の末寺・門徒に対して追討命令が出され続けた 2

また、小一揆に与した富樫稙泰も守護の地位を追われ、ここに富樫氏による名目上の守護体制も完全に終焉した 2 。加賀から旧来の権威が一掃されたことで、本願寺中央による新たな支配体制を構築するための土台が整えられたのである。

【表2】大小一揆における主要対立構造

陣営

大一揆(本願寺中央派)

小一揆(加賀在地派)

指導者

証如(法主)、蓮淳(後見人)

蓮綱、蓮誓、蓮悟、顕誓、実悟(賀州三ヶ寺・一門)

中核寺院

超勝寺、本覚寺

松岡寺、光教寺、本泉寺

大義名分

法主への絶対的帰依、仏敵の討伐

加賀門徒の自治と既得権益の防衛

支援勢力

畿内・東海の門徒、飛騨・内ヶ島氏

越前・朝倉氏、能登・畠山氏、富樫氏

第四章:新秩序—本願寺直轄統治体制の確立と実態(1532年~1550年代)

大小一揆という凄惨な内戦を経て、加賀の権力構造は根底から覆された。賀州三ヶ寺と富樫守護家という二つの権力が消滅した権力の空白地帯に、本願寺中央は新たな統治システムを構築していく。これこそが、本報告書の主題である「1540年頃に確立」した新政権の実態である。

本願寺による直接統治の開始

内戦に勝利した本願寺中央は、加賀を事実上の直轄領として組み込むべく、具体的な統治に着手した。その統治を担うために大坂の石山本願寺から派遣されたのが、「坊官」と呼ばれる行政官であった 16 。特に、本願寺の寺務を司る家臣であった下間氏などがこの任に当たり、現地の統治を直接指導した 16 。これにより、加賀は蓮如以来の在地化した一門による間接統治から、本願寺中央が派遣する官僚による直接統治へと大きく転換した。

この新体制の権威を確立するため、本願寺は大小一揆の戦後処理を主導した。小一揆に加担した周辺勢力との交渉は、全て大坂の本願寺によって行われた。天文9年(1540年)には能登畠山氏と、翌10年(1541年)には越前朝倉氏との間に和議が成立したが、これらの交渉過程において加賀現地の門徒に発言権はなく、ただ本願寺中央の決定に従うのみであった 2 。この事実は、加賀の対外的な主権が完全に本願寺中央に移ったことを明確に示している。

二元的な統治構造

本願寺が構築した新たな統治体制は、完全な中央集権ではなかった。それは、中央の統制と現地の自治を組み合わせた、巧みなハイブリッド型の統治システムであった。

まず、国家の主権に関わる重要事項、すなわち 外交権と軍事権は、大坂の石山本願寺が完全に掌握した 2 。周辺大名との交渉や、他国への軍事行動の決定権は、全て法主と中央執行部が握っていた。これにより、加賀が再び中央の意に反して独自行動を取ることを防ぎ、本願寺全体の戦略の中に組み込むことが可能となった。

一方で、加賀国内の 内政、すなわち門徒の日常生活に直接関わる自治に関しては、旧来の「郡」や「組」といった現地の門徒組織が引き続きその役割を担うことが認められた 2 。広大な加賀国の隅々までを少数の派遣坊官だけで統治するのは非効率であり、また現地門徒の反発を招く危険性も高かった。そこで、年貢の徴収や村落の運営といった内政を現地の自治に委ねることで、門徒たちの忠誠心を維持しつつ、統治の安定を図ったのである。

この統治形態は、中央が国家主権を、地方が自治権を分担する一種の「連邦制」にも似た構造を持っていた。この中央集権と地方分権の柔軟な組み合わせこそが、その後半世紀近くにわたる本願寺の長期支配を可能にした重要な要因であったと考えられる。それはもはや「百姓の持ちたる国」ではなく、実質的には「坊官の持ちたる国」へと変質していたが、巧みな統治システムによってその変革は円滑に進められた。

支配の象徴、金沢御坊の建立

本願寺による加賀の新たな支配体制を、内外に知らしめる象徴的な事業が、天文15年(1546年)に行われた金沢(当時は尾山)御坊の建立である 2

この金沢御坊は、単なる寺院ではなかった。それは、強固な堀と土塁に囲まれた城塞寺院であり、加賀支配の政治・軍事・経済の中心地として機能する拠点であった。かつての支配の中心であった賀州三ヶ寺の寺院に代わり、この金沢御坊が新たな支配の核となった。この巨大な建造物は、大小一揆を経て確立された本願寺中央による加賀の恒久的支配を誇示するモニュメントであり、ここに「1540年体制」は名実ともに完成したと言える。

【表3】加賀統治体制の比較(大小一揆以前/以後)

項目

大小一揆以前(~1531年)

大小一揆以後(1531年~)

統治主体

賀州三ヶ寺を中心とする在地門徒連合

大坂本願寺(法主・中央執行部)

最高指導者

賀州三ヶ寺の住持(蓮綱、蓮悟ら)

本願寺法主(証如、顕如)

現地責任者

(上記と同じ)

本願寺派遣の代官(坊官)

軍事指揮権

賀州三ヶ寺および門徒連合

大坂本願寺

外交交渉権

賀州三ヶ寺(幕府とも直接交渉)

大坂本願寺

内政

郡・組による自治(三ヶ寺の監督下)

郡・組による自治(坊官の監督下)

象徴的拠点

松岡寺、光教寺、本泉寺

金沢(尾山)御坊

終章:戦国史における加賀一向一揆政権の意義

大小一揆を経て確立された本願寺の加賀統治体制は、日本の戦国時代において他に類を見ない、極めて特異な政治形態であった。その歴史的意義を考察することで、本報告書を締めくくる。

「神の国」の成立

加賀に誕生した新体制は、特定の武家や公家ではなく、本願寺法主という宗教的権威を絶対的な頂点に戴く「宗教国家」であった。その統治の正統性は、武力や血統ではなく、阿弥陀如来の教えを体現する法主への絶対的な信仰に由来していた。これは、守護大名や戦国大名が領国支配の正当性を幕府や朝廷の権威に求めたのとは根本的に異なる。加賀は、信仰という強力なイデオロギーによって統合された、いわば「神の国」であった。

この統治体制は、戦国大名の領国経営としばしば比較される。本願寺が坊官を派遣して直接統治を行い、金沢御坊を拠点として軍事・経済を掌握した手法は、戦国大名が家臣を城代として派遣し、城下町を整備して領国を支配した手法と多くの類似点を持つ。しかし、その動員力の源泉が、封建的な主従関係ではなく、国境を越えて広がる門徒の信仰ネットワークにあった点で、大名領国とは決定的に異なっていた。

体制の限界と終焉

この強固な宗教的結束は、本願寺に強大な力を与えた一方で、その体制の限界をも規定した。彼らの結束の根幹は、法主への絶対的帰依であり、その教えに反する者とは決して妥協しないという非寛容性をも内包していた。この体質は、宗教的権威を意に介さず、武力による天下統一を目指す織田信長のような新たな統一権力者とは、根本的に相容れないものであった。

信長にとって、自らの「天下布武」に従わないもう一つの「天下」、すなわち本願寺の宗教的権威は、打倒すべき最大の障害であった。元亀元年(1570年)に石山合戦が勃発すると、加賀の門徒たちは本願寺の主力部隊として、信長軍と10年にわたる死闘を繰り広げた。しかし、天正8年(1580年)、石山本願寺が信長に降伏し、時を同じくして柴田勝家らの軍勢によって金沢御坊が陥落すると、約100年続いた「門徒の国」はその歴史に幕を下ろした 9

加賀一向一揆の歴史は、戦国時代が単なる武士同士の領土争奪戦ではなく、武家権力、寺社勢力、在地領主など、多様な価値観と権力主体がせめぎ合う、より複雑でダイナミックな社会変革期であったことを象徴している。本願寺は、武力と経済力に加え、「信仰」という強力な武器を手に、一時は戦国大名と対等以上に渡り合った。その成功と最終的な失敗の軌跡は、中世的な宗教権威が、近世的な統一権力へと向かう時代の大きな潮流の中で、いかにしてその役割を終えていったかを示す、壮大な歴史的実例として位置づけられるのである。

引用文献

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