最終更新日 2025-10-03

吉田宿整備(1601)

慶長6年、家康は関ヶ原後の全国支配のため東海道宿駅伝馬制度を整備。戦乱の要衝・吉田は池田輝政の整備を基盤に、宿場・城下・湊町を兼ねる複合都市へ変貌し、幕府交通網を支えた。助郷制度は農村に重い負担を強いた。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

戦国の終焉、泰平の礎:慶長六年「吉田宿整備」の時系列的・多角的分析

序章:慶長六年という「刻」の再定義

慶長6年(1601年)は、一般に江戸時代の幕開けを告げる年として認識されている。しかし、この年を単なる時代の起点として捉えることは、その歴史的意義を見誤る可能性がある。むしろ慶長6年は、100年以上にわたって続いた戦国という時代の論理が必然的に帰結した年であり、武力による天下統一事業が、制度による恒久的な全国支配体制へと移行する重大な転換点であった。このパラダイムシフトを象徴する事変こそ、徳川家康の命によって断行された東海道の「宿駅・伝馬制度」の確立であり、その重要な一翼を担ったのが「吉田宿整備」である 1

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける勝利は、家康に軍事的な覇権をもたらした。しかし、それは支配の完成を意味するものではなかった。西国には依然として豊臣恩顧の大名が多数存在し、彼らを統制し、新たな動乱の芽を摘むためには、武力による威圧だけでは不十分であった。家康が目指したのは、江戸を政治・経済の中心とする新たな国家秩序の構築であり、そのためには全国の大名を統制下に置き、人・モノ・情報を迅速かつ確実に江戸へ集約させるための神経網、すなわち交通インフラの整備が不可欠であった 2

関ヶ原の戦いからわずか数ヶ月後という驚くべき速さで着手されたこの街道整備は、単なる戦後復興事業ではなく、天下統一事業の最終段階そのものであった。それは、京都を中心とした旧来の交通体系からの脱却を意味し、江戸を中心とする新たな支配構造を物理的に国土へ刻み込む行為に他ならなかった 3 。本報告書では、この壮大な構想の中で、かつての戦乱の要衝であった三河国吉田が、いかにして泰平の世を支える宿場町へと変貌を遂げたのか、その過程を「戦国時代」という視座から時系列に沿って多角的に分析・解明するものである。

第一章:戦乱の要衝、吉田城の黎明 ― 宿駅整備前史

慶長6年(1601年)に宿場町として再編される以前の吉田は、東三河の支配権、ひいては東海道の掌握をめぐる戦略拠点として、絶え間ない戦乱に明け暮れた地であった。その歴史は、戦国大名たちがこの土地の地政学的な重要性をいかに認識していたかを物語っている。

吉田の歴史は、永正2年(1505年)、この地の国人領主であった牧野古白が豊川の河岸段丘上に「今橋城」を築いたことに始まる 4 。しかし、間もなく駿河の今川氏親の攻撃を受けて落城し、以後、東三河は今川氏の影響下に置かれることとなる 6 。天文15年(1546年)、今川義元は西三河への進出拠点としてこの城を完全に掌握し、「吉田城」と改名、城代を置いて支配の楔を打ち込んだ 5 。吉田城は、今川氏にとって尾張の織田氏や西三河の松平氏に対抗するための最前線基地となったのである。

この状況を一変させたのが、永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いである。義元の死を機に今川氏から独立した松平元康(後の徳川家康)は、三河統一の総仕上げとして、永禄8年(1565年)に吉田城を攻略した 4 。これにより今川勢力は三河から一掃され、家康は腹心の重臣である酒井忠次を城主として配置した 8 。以後、吉田城は徳川氏の東方、特に武田氏の脅威に対する防衛の要として、極めて重要な役割を担うことになる。事実、天正3年(1575年)の長篠の戦いに際しては、武田勝頼の大軍が吉田城に迫るなど、武田氏にとっても東海道を西進する上で攻略すべき最大の障害と見なされていた 6

このように、吉田は宿場町となる以前から、1世紀近くにわたり、支配者がめまぐるしく変わる軍事上の係争地であった。このことは、後の伝馬制度の確立を考える上で重要な示唆を与える。戦国大名にとって、前線基地である吉田城の維持には、後方からの兵糧や武具の輸送、伝令の迅速な往来といった兵站活動が不可欠であった。酒井忠次のような優れた武将は、城主として、周辺地域から人馬や物資を効率的に徴発するための非公式なシステムを構築していたと考えるのが自然である。家康は、自らが三河を治めていた時代の経験から、この地域の交通の重要性と、有事における動員能力を熟知していた。したがって、慶長6年の伝馬制度は全くの無から創出されたのではなく、戦国時代に培われた軍事ロジスティクスの経験とインフラを、幕府の公的な全国統治システムとして再編・制度化したものと捉えることができる。それは、戦国の遺産を泰平の世の統治ツールへと昇華させる、家康の現実的な統治手法の現れであった。


表1. 戦国期における吉田城関連年表

年代(西暦)

主要な出来事

城主または支配勢力

備考

永正2年(1505)

牧野古白が今橋城を築城 6

牧野氏

吉田城の創始

永正3年(1506)

今川氏親の攻撃により落城 6

今川氏

以後、今川氏の影響下に置かれる

天文15年(1546)

今川義元が完全に掌握し、「吉田城」と改名 6

今川氏(城代支配)

今川氏の西三河進出の拠点となる

永禄8年(1565)

徳川家康が攻略 6

徳川氏

今川勢力を三河から一掃

永禄8年(1565)以降

酒井忠次が城主となる 8

酒井忠次(徳川氏家臣)

徳川氏の東方防衛の要となる

天正3年(1575)

武田勝頼軍が吉田城に迫る(長篠の戦い関連) 6

酒井忠次(徳川氏家臣)

武田氏の侵攻を受ける

天正18年(1590)

徳川家康の関東移封に伴い、池田輝政が入城 6

池田輝政(豊臣氏大名)

豊臣政権による東海道支配の拠点へ


第二章:豊臣から徳川へ ― 池田輝政による近世城郭と城下町の胎動

天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐と、それに続く徳川家康の関東移封は、吉田の運命を再び大きく変えることになった。東海道の要衝から徳川氏の影響力を排除し、関東の新領主となった家康を牽制するため、秀吉は最も信頼の厚い武将の一人である池田輝政(当時は照政)を15万2千石という大禄で吉田城主に配置した 6 。これは、東海道という大動脈を豊臣政権が完全に掌握するための、極めて戦略的な人事であった。

輝政が入城した当時の吉田城は、長年の戦乱を経た中世的な城郭に過ぎなかった。輝政は、自らの居城にふさわしい威容を備え、かつ豊臣政権の西国と東国を結ぶ拠点として機能させるため、吉田城の大規模な改修と城下町の整備に着手する 10 。彼は、それまでの土塁と空堀を中心とした城に、高い石垣を築き、瓦葺きの櫓を配し、広大な堀を巡らせることで、吉田城を近世城郭へと変貌させた 4 。この時、輝政が築いた鉄櫓下の石垣は、自然石を巧みに組み合わせた野面積みで、当時の最新技術が用いられており、現在もその一部が残存している 14

城郭の改修と並行して、輝政は城下町の整備も進めた。これは、後の宿場町の物理的な原型を形成する上で決定的な意味を持った 11 。寺社を移転させ、新たな町割りを行うなど、計画的な都市開発が進められた 14 。この輝政によるインフラ整備は、吉田が軍事拠点から近世的な多機能都市へと脱皮する最初の契機となったのである。

しかし、歴史の展開は皮肉な結果をもたらす。輝政は家康の娘・督姫を妻に迎えており、豊臣・徳川の双方に縁戚関係を持つ複雑な立場にあった 11 。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに際し、天下の情勢を見極めた輝政は東軍に与して勝利に貢献した 11 。その功績により、戦後の慶長6年(1601年)、輝政は播磨姫路52万石へと大幅に加増され、吉田の地を去ることになる 6

この一連の出来事は、徳川家康の卓越した政治手腕を物語っている。輝政の転封は、第一にその功績に報いるものであった。しかし同時に、東海道の最重要拠点から旧豊臣系の有力大名を巧みに排除し、徳川の支配を盤石にするための周到な人事でもあった。そして何よりも重要なのは、輝政が豊臣政権の威信を示すために心血を注いで整備した近世城郭と城下町という最新のインフラが、結果的に、その直後に始まる徳川幕府による宿場町整備のための完璧な土台として、ほぼそのまま利用されたことである。輝政の事業は、意図せずして徳川の新たな支配体制のための地ならしとなった。家康は、敵対勢力が残した資産さえも巧みに自らの支配体制に組み込んでいくことで、迅速かつ効率的に国家の再編を進めていったのである。

第三章:天下統一の礎 ― 慶長六年の東海道伝馬制度と吉田宿の誕生

関ヶ原の戦いから一夜明け、徳川家康は軍事的勝利を政治的支配へと転化させるための行動を間髪入れずに開始した。その最優先課題が、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈、東海道の完全掌握であった。そして、その具体的な施策として、慶長6年(1601年)正月、幕府は東海道の主要な宿場に対し、宿駅伝馬制度の確立を命じたのである 1 。この時、吉田の地では、新たな時代の到来を告げる出来事がリアルタイムで、かつ同時並行的に進行していた。

慶長6年(1601年)初頭、吉田で起こったこと:

  1. 幕府命令の発令: 正月、江戸の幕府は、全国支配政策の一環として、東海道の宿場を指定し、それぞれに「伝馬朱印状」と「伝馬定書」を下付した 21 。吉田は、この時に東海道三十四番目の宿場として公式に指定された初期宿場の一つであった 25 。この「伝馬定書」には、各宿が公用のために常備すべき伝馬(中継用の馬)の数(当初は36疋などと規定)や、運搬する荷物の積載量などが明記されていた。そして、この重い義務を負う見返りとして、宿場内の家屋敷にかかる税金(地子)が免除されるという条件が示された 21 。これは、アメとムチを巧みに使い分けた、極めて実務的な命令であった。
  2. 支配者の交代: ほぼ時を同じくして、関ヶ原の戦功により姫路への転封が決まった池田輝政が吉田城を退去した 6 。輝政が去った後の吉田には、徳川氏譜代の家臣である竹谷松平家の松平家清が、武蔵国から3万石で入封した 20 。ここに、江戸時代の吉田藩が成立する。この人事は、吉田という土地の役割が、15万石の大大名が拠る広域軍事拠点から、幕府の重要インフラを管理する中規模藩の拠点へと戦略的に変更されたことを明確に示している。
  3. 宿場町の建設: 新たな藩主となった松平家清に課せられた最初の重要な任務は、幕府の最重要国策である伝馬業務を遂行する体制を、自らの領地である吉田に迅速に構築することであった。幸いにも、池田輝政が整備した城下町の町割りが、そのまま宿場町の基盤として活用できた 11 。東海道の道筋は、吉田城の防御ラインである惣構えの堀に沿う形で設定され、その沿道に町屋が形成された 28 。そして、町の中心部であり最も賑わう札木町に、大名や公家が宿泊する「本陣」が2軒、それを補佐する「脇本陣」が1軒、そして人馬継立業務の中核を担う「問屋場」が1カ所、計画的に設置されていった 29

この一連の出来事は、吉田において「藩の成立」と「宿場の設置」が不可分一体の事業として進められたことを示している。新藩主・松平家清は、単なる領地の支配者である以上に、幕府の全国交通網を支える地方出先機関の責任者としての役割を強く期待されていた。これは、戦国時代の「領地の切り取り」という論理から、幕藩体制下における「役割分担」という新たな統治の論理への移行を象徴する、画期的なプロセスであった。慶長6年の吉田は、まさに戦国の城下町が、泰平の世を支える宿場町へと生まれ変わる、その誕生の瞬間にあったのである。

第四章:宿駅の機構と実態 ― 吉田宿を支えた人々と制度

慶長6年の幕府命令によって誕生した吉田宿は、東海道を往来する人々の往来を支えるという公的機能を担うため、精緻な内部機構とそれを維持するための制度を備えていた。しかし、その円滑な運営の裏側では、宿場と周辺農村の人々による過酷な負担が存在した。

宿場運営の中核「問屋場」

宿場の心臓部ともいえる施設が「問屋場(といやば)」であった 31 。吉田宿では町の中心である札木町に設置されたこの施設には、宿場の代表者である問屋(といや)、その補佐役である年寄(としより)、帳簿を管理する帳付(ちょうづけ)といった宿役人が詰め、宿場に課せられた公務のすべてを取り仕切っていた 22

その業務は多岐にわたる。

  • 人馬継立(じんばつぎたて): 最も重要な業務であり、幕府の役人や参勤交代の大名といった公用旅行者が到着すると、次の宿場まで彼らの荷物を運ぶための人足と馬を遅滞なく提供する 32 。旅行者から差し出された証文を確認し、必要な人馬を割り当て、荷物を次の宿までリレー形式で送り出すのである 38
  • 通信業務: 幕府の公用書状などを運ぶ「継飛脚(つぎびきゃく)」の中継も問屋場の重要な役割であった 36
  • 管理業務: 運ばれる荷物の重量を改めたり、駄賃(運賃)を徴収したりするなど、交通・物流に関する管理業務全般を担った 22

「伝馬役」という重い負担

問屋場がこれらの業務を遂行するため、東海道の各宿場には「伝馬役(てんまやく)」と呼ばれる重い義務が課せられた。幕府の規定により、東海道の宿場は常備人馬として、常に 人足100人・馬100疋 を用意しておかなければならなかった 39 。これは、中山道が50人・50疋、その他の主要街道が25人・25疋であったことと比較すると突出して多く、いかに幕府が東海道を重視していたかを物語っている 39 。この膨大な数の人馬を維持する負担は、宿場内の家々の間口の広さに応じて割り当てられる(間口割)など、宿場の住民の肩に重くのしかかった 40

宿場を支えた犠牲「助郷制度」

大名行列のような大規模な通行が集中すると、宿場が常備する100人・100疋の人馬だけでは到底対応しきれなかった。この不足分を補うために導入されたのが「助郷制度(すけごうせいど)」である 22 。これは、宿場周辺の村々を「助郷村」に指定し、宿場からの要請に応じて人馬を提供する義務を課す制度であった 22

吉田宿でも、時代が下るにつれて交通量が増加し、助郷への依存度は増していった。享保8年(1723年)に約1万6千人であった継立人足数は、安政5年(1858年)には約7万5千人へと激増しており、その多くが助郷村からの動員によって賄われた 47 。この助郷役は、周辺農村に深刻な打撃を与えた。第一に、参勤交代の時期が春や秋の農繁期と重なることが多く、農作業の最も重要な時期に働き手を奪われた 48 。第二に、提供する人馬は壮健な者と定められており、村の中心的な労働力を差し出さねばならなかった 48 。さらに、これは無賃または極めて低い賃銭で行われる強制労働であり、村の財政を著しく圧迫した 50

この制度は、宿場町と助郷村の間に、明確な支配・被支配の関係を創出した。宿場は交通の要衝として経済的な恩恵を受ける一方で、その繁栄は助郷村からの労働力搾取という犠牲の上に成り立っていたのである。これは、戦国時代の武士による直接的な支配とは異なる、制度化された新たな社会階層構造であり、江戸時代の社会を特徴づける一側面であった。


表2. 吉田宿の概要と東海道主要宿場との比較

項目

吉田宿

品川宿(江戸日本橋から1番目)

箱根宿(10番目)

宮宿(41番目)

江戸からの距離

73里(約287km) 25

2里(約8km)

22里(約86km)

88里(約346km)

町並みの長さ

23町30間(約2.6km) 25

約1.5km

約1.5km

約3.9km

宿内人口(参考)

7,217人(1712年) 29

6,920人(1843年)

1,113人(1843年)

10,143人(1843年)

本陣数

2軒 29

2軒

1軒

2軒

脇本陣数

1軒 29

0軒

1軒

1軒

旅籠数

65軒 52

93軒

36軒

248軒

常備人馬数

100人・100疋 39

100人・100疋

100人・100疋

100人・100疋

備考

城下町・湊町を兼ねる大規模宿場

江戸の玄関口

難所越えの拠点

海路(七里の渡し)への接続点

注:人口、旅籠数などは時代によって変動するため、天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」などを参考に記載。吉田宿の人口は正徳2年(1712年)の記録による。


第五章:城下町から宿場町、そして湊町へ ― 吉田宿の多角的機能とその歴史的意義

慶長6年(1601年)の「吉田宿整備」は、単に東海道の一宿場を設けたという以上の、深遠な歴史的意義を持つ。この事業は、戦国時代を通じて軍事拠点としてのみ価値を見出されてきた吉田の地に、新たな役割と機能を与え、近世的な複合都市へと昇華させる決定的な転換点となったのである。江戸時代の吉田は、三つの重要な顔を併せ持つことで、他に類を見ない繁栄を築き上げた。

第一に、**「城下町」**としての顔である。吉田には吉田藩の藩庁である吉田城が置かれ、東三河における政治・行政の中心地であり続けた 28 。武家屋敷が立ち並び、藩政がここから発せられることで、地域の秩序と安定が保たれた。

第二に、**「宿場町」**としての顔である。東海道三十四番目の宿駅として、江戸と京・大坂を結ぶ人々の往来で絶えず賑わった 28 。本陣には大名や公家が休泊し、数多くの旅籠は一般の旅人で溢れ、問屋場では人馬が絶え間なく継ぎ立てられた。この機能は、幕府が推進する参勤交代や公用通信といった全国統治システムを支える、不可欠な歯車としての役割を果たした。

そして第三に、**「湊町」**としての顔である。吉田は豊川下流域に位置し、河口から約4km上流に位置しながらも、三河湾からの大型船が入港可能な「吉田湊」を有していた 28 。これにより、豊川上流からの物資を集積する河川舟運の終着点であると同時に、伊勢参りや江戸・大坂への物資輸送を担う海上交通の結節点ともなった 52 。陸路である東海道と水運が交差する吉田は、まさに物流の一大拠点であった。

この三つの機能は、互いに独立していたのではなく、有機的に結びつき、相乗効果を生むことで吉田の発展を促した。城下町としての政治的安定が宿場町と湊町の経済活動を保障し、宿場町と湊町がもたらす富と情報が藩の財政と地域の活力を支えたのである。

結論として、慶長6年の「吉田宿整備」は、吉田という土地の価値基準を根底から覆す、パラダイムシフトであったと言える。戦国時代、吉田城の価値は、敵の侵攻を「防ぎ、止める」ための軍事的な防御力・攻撃力にあった。しかし、徳川の泰平の世(パクス・トクガワーナ)において吉田宿に求められた価値は、人・モノ・情報を「受け入れ、流す」ための連結性と流動性であった。その役割は180度転換したのである。

この劇的な機能転換を可能にしたのが、池田輝政による近世城下町というハードウェアの整備と、徳川家康による宿駅伝馬制度というソフトウェアの導入であった。したがって、「吉田宿整備」とは、単なるインフラ事業ではない。それは、戦乱の記憶が生々しく残るかつての激戦地を、新たな時代の価値観と統治システムの下で、国家を支える経済・交通の結節点として再定義するという、極めて象徴的な行為であった。徳川家康は、この事業を通じて、戦国の終焉を宣言し、260年余にわたる長期安定政権の礎を、三河国吉田の地に確固として築き上げたのである 2

引用文献

  1. 東海道(二川宿) - FC2 http://oha320.web.fc2.com/00_020_aruku/021_kaidou/01_tokaido/tokaido_1/tokaido_1.html
  2. 「五街道」とは?地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148734
  3. 江戸時代に整備された「五街道」に思いを馳せる - 関東通信工業株式会社 https://kantuko.com/ncolumns/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AB%E6%95%B4%E5%82%99%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%8C%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AB%E6%80%9D%E3%81%84%E3%82%92%E9%A6%B3%E3%81%9B%E3%82%8B/
  4. 隅櫓が復興<吉田城> https://sirohoumon.secret.jp/yoshidajo.html
  5. 三河豊橋 東三河を歩く 今川・武田・徳川ら戦国武将により激しい争奪戦が繰り広げられた東三河の戦略拠点『吉田城』訪問 - フォートラベル https://4travel.jp/travelogue/11000324
  6. 【愛知県】三河吉田城の歴史 東三河統治のシンボルとして機能 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/1942
  7. 続・日本100名城に選ばれている 「吉田城」。 東海地方随一の高さを誇る石垣や - 豊橋市 https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/48243/5.pdf
  8. 吉田城址パンフレット.pdf - 豊橋市美術博物館 https://toyohashi-bihaku.jp/wp-content/uploads/2024/05/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E%E5%9D%80%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88.pdf
  9. 【理文先生のお城NEWS解説】第7回 吉田城(愛知県豊橋市)の発掘調査 1 https://shirobito.jp/article/817
  10. お城大好き雑記 第114回 愛知県 吉田城 https://sekimeitiko-osiro.hateblo.jp/entry/yoshidajo-aichikenn
  11. 豊橋市 - 池田輝政の入城 - ADEAC https://adeac.jp/toyohashi-city/texthtml/d100010/mp100010-100010/ht040010
  12. 吉田城址が豊橋市指定史跡になりました https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/93661/2-11-1.pdf
  13. 豊橋市指定史跡 吉田城址保存活用計画 - 豊橋市美術博物館 https://toyohashi-bihaku.jp/wp-content/uploads/2023/04/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%9F%8E%E5%9D%80%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%B4%BB%E7%94%A8%E8%A8%88%E7%94%BB%E3%80%9012MB%E3%80%91.pdf
  14. 【吉田城の改築】 - ADEAC https://adeac.jp/toyohashi-city/text-list/d100010/ht040020
  15. 豊橋市指定史跡 吉田城址保存活用計画 https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/106644/R5s22.pdf
  16. 第6回とよはし歴史座「岡山藩主池田家と豊橋」を開催します https://toyohashi-bihaku.jp/2022/10/14/%E7%AC%AC6%E5%9B%9E%E3%81%A8%E3%82%88%E3%81%AF%E3%81%97%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%BA%A7%E3%80%8C%E5%B2%A1%E5%B1%B1%E8%97%A9%E4%B8%BB%E6%B1%A0%E7%94%B0%E5%AE%B6%E3%81%A8%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E3%80%8D%E3%82%92/
  17. 吉田城(豊橋公園) | 【公式】愛知県の観光サイトAichi Now https://aichinow.pref.aichi.jp/spots/detail/216&language=2/
  18. 豊橋市吉田城(続100名城)に残る池田輝政期の石垣の場所と地図 https://sengokushiseki.com/?p=3452
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  55. 歩き旅のスケッチ[東海道]35・・・吉田宿へ https://soranokaori.hatenablog.com/entry/2021/04/23/164940
  56. 第1章 豊橋市の景観特性 https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/82243/%E5%88%A5%E5%86%8A%EF%BC%9A%E8%B1%8A%E6%A9%8B%E5%B8%82%E6%99%AF%E8%A6%B3%E8%A8%88%E7%94%BB%EF%BC%88%E7%B4%A0%E6%A1%88%EF%BC%89%E7%AC%AC%EF%BC%91%E7%AB%A0.pdf
  57. 第1章 豊橋市の景観特性 https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/8713/02keikankeikaku_1-2.pdf
  58. 龍拈寺、吉田神社、 湊町神明社 - 豊橋市 https://www.city.toyohashi.lg.jp/secure/9329/yoshida-shuku-omote.pdf
  59. 東海道五十三次宿場の概要 https://hspnext.sakura.ne.jp/leaflet/toukaidou/html/toukaidou02.html
  60. 日本史/江戸時代 - ホームメイト - 名古屋刀剣ワールド https://www.meihaku.jp/japanese-history-category/period-edo/