堺会合衆解体(1585)
1585年、豊臣秀吉の紀州征伐後、堺会合衆は自治を解体。環濠を埋め立てられ、石田三成らが代官に就任し、堺は天下人の直接支配下に。中世の自由都市は終焉を迎え、近世都市へと変貌した。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
権力への屈服か、時代の必然か ― 天正十三年・堺会合衆解体の構造分析
序論:自治都市・堺の栄華とその終焉
戦国時代の日本において、堺は極めて特異な都市であった。海外の宣教師からは「東洋のベニス」と称され、その繁栄と自由な気風は、当時の封建的な社会構造の中で異彩を放っていた 1 。環濠に囲まれた城塞都市でありながら城主を持たず、会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる有力商人たちの合議によって自治が運営される。日明貿易や南蛮貿易を掌握し、莫大な富を蓄積する国際貿易港であり、同時に国内最大の鉄砲生産拠点として戦国大名の勢力図をも左右する力を持っていた 2 。堺は、まさに中世日本の「自由」と「自治」を象徴する存在であった。
しかし、その栄華は永続しなかった。本報告書が主題とする「堺会合衆解体」は、この比類なき自治都市がその独立性を失い、天下人の直接支配下に組み込まれていく過程を指す。利用者様が提示された天正13年(1585年)という年は、この歴史的転換点において決定的な意味を持つ。この年に行われた豊臣秀吉による紀州征伐は、単なる一地方の平定に留まらず、隣接する堺の運命に最終的な宣告を下す画期的な出来事であった。
本報告書は、「堺会合衆解体」を単一の事象としてではなく、織田信長による政治的従属の開始、豊臣秀吉の紀州征伐という直接的な軍事圧力、そして天下統一事業に伴う中央集権体制構築という時代の潮流、これら三つの要因が複合的に作用した必然的な帰結として捉える。時系列、特に天正13年前後の動向を詳細に分析することで、自治都市・堺がその輝きを失い、近世の幕藩体制下の一都市へと変貌を遂げる歴史の力学を多角的に解明することを目的とする。
第一章:環濠に守られた「自由」― 会合衆による自治の確立
地政学的優位性と国際貿易港としての発展
堺の発展は、その地理的条件に大きく依拠している。平安時代、この地が摂津・河内・和泉という三国の境に位置していたことから「さかい」と呼ばれるようになった 5 。この地理的特性は、堺を諸国の産物や人々が集まる結節点として機能させた。鎌倉時代には漁港として、南北朝時代には南朝方の外港として発展し、室町時代に入ると、そのポテンシャルは大きく開花する。文明元年(1469年)に遣明船が堺の港に初めて着岸したことを契機に、堺は日明貿易の拠点として急速に発展し、国際貿易港としての地位を確立した 2 。やがてポルトガルやスペインとの南蛮貿易も始まり、堺には海外の珍しい文物、情報、そして莫大な富が集積するようになった。
会合衆の組織と機能 ― 武家権力からの独立
経済的な繁栄は、堺に独自の政治体制をもたらした。貿易活動を通じて巨万の富を築いた納屋貸(なやかし)などの有力商人たちは、やがて「会合衆」と呼ばれる自治組織を形成し、都市の運営を担うようになる 2 。会合衆の存在が文献に初めて現れるのは文明16年(1484年)のことである 6 。彼らは開口神社(あぐちじんじゃ)などを集会所とし、都市の訴訟や行政を合議によって決定した 2 。これは、守護大名や幕府といった既存の武家権力から一定の独立を保った、商人による自治であり、戦国乱世にあって極めて稀有な統治形態であった。
環濠と鉄砲 ― 自治を支えた経済力と軍事力
堺の自治を物理的に保障したのが、都市の周囲に張り巡らされた環濠であった。西側を海に面する以外、北・東・南の三方を深い濠で囲むことで、堺は都市全体を要塞化し、武士の侵入や干渉から町を守った 1 。この環濠は、城壁を持たない堺にとって、まさに自治と独立の象徴であった。
さらに、堺の独立性を決定づけたのが、最先端の軍事技術の掌握である。天文12年(1543年)に種子島に鉄砲が伝来すると、堺の商人はその重要性にいち早く着目し、製造法を習得した 3 。堺には古くから優れた鍛冶技術が蓄積されており、この技術基盤が鉄砲の大量生産を可能にした 4 。瞬く間に堺は国内随一の鉄砲生産地となり、その製品は「堺筒」として高い評価を得た 7 。
この事実は、堺の自治の構造を理解する上で極めて重要である。堺の独立性は、単に商人の経済力に支えられていただけではなかった。それは、「環濠」という物理的防御力と、「鉄砲」という当時の最先端兵器の生産・供給能力に裏打ちされた、一種の「武装経済共同体」であった。この軍事的能力こそが、他の商業都市と堺を明確に一線を画す要因であった。天下統一を目指す戦国大名にとって、堺は単に便利な「財布」であるだけでなく、放置すれば敵対勢力を武装させる危険な「兵器庫」でもあった。この富と武力を兼ね備えた二重性こそが、後に織田信長や豊臣秀吉による厳しい介入を招く根本的な原因となったのである。
第二章:織田信長の上洛と自治の揺らぎ ― 矢銭二万貫の衝撃
堺が享受した「自由」と「自治」は、天下統一という新たな時代の潮流の前に、大きな転換点を迎える。その最初の衝撃が、織田信長の上洛であった。
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年月 |
出来事 |
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1568年(永禄11年) |
織田信長、堺に矢銭二万貫を要求。会合衆はこれを受諾。 |
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1570年(元亀元年) |
堺が信長の直轄領となる。 |
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1582年(天正10年) |
本能寺の変。信長が死去。 |
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1583年(天正11年) |
豊臣秀吉、大坂城の築城を開始。 |
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1584年(天正12年) |
小牧・長久手の戦い。紀州勢が秀吉の背後を脅かす。 |
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1585年(天正13年)3月 |
秀吉、紀州征伐を開始。 |
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1585年(天正13年)4月 |
根来寺・雑賀衆が壊滅。太田城の水攻め。 |
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1586年(天正14年) |
秀吉、堺の環濠埋め立てを命令。石田三成・小西隆佐が代官に就任。 |
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1591年(天正19年) |
千利休、秀吉の命により自刃。 |
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1615年(慶長20年) |
大坂夏の陣で堺が焼失。その後、徳川幕府の直轄地(天領)となる。 |
天下布武と堺の戦略的価値
永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を果たした織田信長は、畿内における支配権を確立する過程で、堺の存在を無視できなかった。堺の持つ莫大な経済力、全国に張り巡らされた情報網、そして鉄砲生産能力は、信長の天下布武事業にとって必要不可欠な経営資源であった 8 。しかし同時に、どの勢力にも与せず独立を保つ堺は、信長の支配体制にとって潜在的な脅威でもあった。信長は、この特異な都市を自身の支配下に置くため、断固たる措置をとる。
会合衆の抵抗と内部分裂、そして今井宗久の決断
信長は堺に対し、軍資金として矢銭二万貫という前代未聞の額を要求した 8 。これは現在の価値で数億円にも上るとされ、堺の会合衆にとって到底受け入れがたいものであった。これまでいかなる戦国大名も、堺にこのような一方的な要求を突きつけたことはなかった 10 。会合衆は当初、この要求を拒否し、籠城して抵抗する構えを見せた。記録によれば、この時に環濠をさらに深く掘り下げ、防御を固めたという 11 。
しかし、信長の軍事力は、堺がこれまで対峙してきたどの勢力とも比較にならないほど強大であった。徹底抗戦か、恭順か。会合衆内部で意見が割れる中、状況を打開したのは、会合衆の一員であり、茶人としても信長と交流のあった今井宗久であった 8 。宗久は、武力抵抗が堺の破滅を招くと判断し、単独で信長との謁見を求めた。名物茶器を献上し、信長の文化的素養と器の大きさに感服した宗久は、会合衆を説得することを約束する 8 。宗久は同じく有力商人であった津田宗及と共に説得を重ね、最終的に会合衆は矢銭の支払いを承諾。堺は戦火を免れた 8 。
「政権への自立性」喪失の瞬間
この矢銭二万貫要求事件は、堺の歴史における大きな転換点であった。武力抵抗を放棄し、天下人の権威と要求を受け入れたことで、堺は完全な「自由・自治都市」としての地位を失った 2 。これ以降、堺は信長の直轄領となり、その庇護下に入る 6 。ただし、この時点では「政権への自立性」は失われたものの、会合衆による都市運営や商工業者としての経済活動の自由はある程度維持されていた 13 。堺は、政治的には天下人に従属しつつ、経済的にはその特権を維持するという、新たな段階に入った。しかし、この信長との関係は、後の豊臣秀吉によるより直接的で完全な支配体制への移行の序章に過ぎなかったのである。
第三章:天正十三年(1585年)の激震 ― 紀州征伐と堺
豊臣秀吉の台頭と大坂城築城
天正10年(1582年)の本能寺の変で信長が斃れると、その政治的後継者として豊臣秀吉が急速に台頭する。秀吉は天正11年(1583年)、自身の本拠地として大坂に壮大な城の築城を開始した 14 。この巨大な政治・軍事拠点の建設は、畿内における権力構造を大きく塗り替えるものであった。大坂の目と鼻の南に位置し、依然として強大な経済力と潜在的な軍事力を持つ堺の独立性は、大坂を拠点とする秀吉にとって、地政学的に看過できない脅威となっていった。
脅威としての紀州勢力 ― 根来・雑賀衆と堺の密接な関係
秀吉の天下統一事業において、直接的な障害となっていたのが、紀伊国に拠点を置く根来衆・雑賀衆であった。彼らは強力な鉄砲で武装した僧兵・地侍集団であり、特定の主君を持たない独立勢力として畿内に大きな影響力を持っていた 15 。特に天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、徳川家康・織田信雄と結び、秀吉の本拠地である大坂の背後を脅かす軍事行動を展開した 16 。
この紀州勢力の強大な武力を支えていたのが、堺であった。紀州は地理的に堺と近く、根来衆や雑賀衆が使用する鉄砲の主要な供給源は、堺の商人たちであった 16 。両者の間には、鉄砲の取引を通じた切っても切れない経済的・軍事的な相互依存関係が成立していた。秀吉にとって、紀州勢力は単なる反抗勢力ではなく、堺という「兵器庫」と直結した、極めて危険な存在だったのである。
この関係性を踏まえるならば、秀吉が天正13年(1585年)に断行した紀州征伐は、単に紀州の反抗勢力を鎮圧する以上の戦略的意味を持っていたことがわかる。それは、紀州勢力の背後にいる最大の支援者であり、経済的パートナーである堺に対する、武力を背景とした最後通牒であった。秀吉は、堺の目と鼻の先である和泉国南部で、紀州勢力を徹底的に、そして見せしめのように殲滅した。この軍事行動は、堺から最大の「顧客」と軍事的な盾を同時に奪い去り、会合衆から物理的・心理的な抵抗の選択肢を完全に消し去るための、計算され尽くした戦略的布石だったのである。1585年の紀州征伐こそが、堺会合衆が自治を完全に手放すことを決意した、決定的な瞬間であったと言える。
【時系列分析】紀州征伐のリアルタイム展開(天正13年3月~4月)
天正13年(1585年)3月、秀吉は10万とも言われる大軍を動員し、紀州への侵攻を開始した。その展開は迅速かつ苛烈を極め、隣接する堺に大きな衝撃を与えた。
- 3月21日 : 秀吉は自ら大坂城を出陣し、和泉国の岸和田城に入る。甥の豊臣秀次を総大将とする先遣隊が、現地を知る中村一氏の案内で、和泉南部に紀州勢が築いた城砦群(千石堀城、積善寺城など)への攻撃を開始した 17 。
- 3月22日 : 泉南の城砦群を巡り、激しい攻防戦が繰り広げられた。特に千石堀城では、紀州勢の抵抗は凄まじく、秀次軍はわずか半時(約1時間)の間に1,000人以上もの死傷者を出す大損害を被った 17 。しかし、城内に射込まれた火矢が火薬庫(煙硝蔵)に引火して大爆発を起こし、城は炎上、これが致命傷となり落城した 17 。秀吉は、城内にいた者は非戦闘員はおろか、馬や犬猫に至るまで皆殺しにするよう厳命したとされ、徹底的な殲滅戦が展開された 17 。このあまりに凄惨な結末は、周辺の城砦の戦意を完全に打ち砕いた。
- 3月23日 : 和泉一帯を完全に制圧した秀吉軍は、根来寺へと進軍した。根来衆の主力部隊は泉南の戦線で既に壊滅しており、寺にはもはや抵抗できる兵力は残っていなかった 15 。残っていた僧侶たちは逃亡し、根来寺はほぼ無抵抗で制圧された。その夜、寺は出火して炎上し、国宝の大塔などを除く主要な伽藍の多くが灰燼に帰した 19 。
- 4月以降 : 秀吉軍は雑賀衆の本拠地である太田城を包囲。当初の兵糧攻めから、より迅速な水攻めに戦術を転換し、城の周囲に巨大な堤防を築いた 20 。この圧倒的な土木技術と物量の前に、太田城も降伏を余儀なくされ、ここに紀州は完全に秀吉の支配下に置かれた 17 。
この軍事行動が、隣接する堺に与えた政治的・心理的圧力
これら一連の出来事は、堺の商人たちにとって、対岸の火事ではなかった。自分たちの目と鼻の先で、長年の取引相手であり、ある種の軍事同盟者とも言える紀州勢力が、赤子の手をひねるように、そして情け容赦なく殲滅されていく様を、彼らはリアルタイムで目撃したのである。秀吉が動員した10万の大軍と、水攻めに見られるような圧倒的な物量の前では、堺が誇る環濠や鉄砲がいかに無力であるかを痛感させられたであろう。経済的パートナーであり、また秀吉の権力に対する軍事的な緩衝地帯でもあった紀州勢力の消滅は、堺が完全に孤立無援となったことを意味した。この軍事的・心理的圧力が、翌年の環濠埋め立て命令へと繋がる道筋を決定づけたのである。
第四章:豊臣秀吉による支配の完成 ― 環濠埋め立てという「死刑宣告」
紀州征伐という圧倒的な武力による示威行動を経て、秀吉は堺の自治を解体する最終段階へと移行する。それは、堺の独立の象徴そのものを物理的に破壊する、決定的な措置であった。
天正14年(1586年):環濠埋め立て命令の発令
紀州を平定した翌年の天正14年(1586年)、秀吉は堺に対し、町の周囲を囲む環濠を埋め立てるよう命令した 5 。これは、前年の紀州征伐によって抵抗の意思を完全に削がれた堺に対する、いわば「とどめの一撃」であった。堺の会合衆に、この命令を拒否する選択肢はもはや残されていなかった。環濠は徐々に埋められていき、自治都市・堺はその物理的な防御機能を失った 6 。
自治の象徴の物理的破壊とその意味
環濠の埋め立ては、単なる土木工事ではなかった。それは、堺の「城壁」を剥ぎ取り、その牙を抜くという、極めて象徴的な意味を持つ政治的行為であった 23 。環濠がある限り、堺は潜在的な武装抵抗能力を持つ独立した共同体であり続ける。秀吉は、その可能性の芽を完全に摘み取る必要があった。この措置により、会合衆が物理的な抵抗を行うことは不可能となり、長年にわたって堺の自由を支えてきた精神的な支柱もまた、濠の土砂と共に埋められたのである。堺がもはや特別な自治都市ではなく、天下人の支配下にある数多の都市の一つであることを、内外に明確に示すための「死刑宣告」であった。
石田三成・小西隆佐の代官就任と直接統治体制の確立
環濠埋め立て命令と時を同じくして、秀吉は統治体制の変革にも着手した。腹心である石田三成と、堺の豪商出身で事情に明るい小西隆佐(小西行長の父)を堺の代官(奉行)として任命し、直接統治下に置いたのである 6 。これは、会合衆による自治運営の公式な終焉を意味した。これ以降、堺の行政・財政は豊臣政権の代官によって直接管理されることとなる。三成や隆佐に与えられた任務は、堺の持つ莫大な富と貿易機能を完全に掌握し、来るべき九州平定や朝鮮出兵といった、秀吉の壮大な軍事行動を支える兵站基地として、堺を再編することにあった 26 。ここに、会合衆による自治は名実ともに解体され、堺は豊臣政権の一元的な支配システムに組み込まれたのである。
第五章:なぜ堺の自治は解体されたのか ― 秀吉の天下統一構想と都市政策
堺会合衆の解体は、秀吉個人の堺に対する感情や、一都市の支配権を巡る問題に留まらない。それは、秀吉が推し進めた天下統一事業と、その根底にある中央集権的な国家構想の中に位置づけられるべき、時代の必然であった。
中央集権化政策(太閤検地・刀狩)との整合性
秀吉は天下統一を確実なものとするため、全国規模で画期的な政策を次々と断行した。全国の土地を測量し、石高という統一基準で生産力を把握する「太閤検地」、そして農民から武器を取り上げ兵農分離を徹底する「刀狩令」などがその代表である 27 。これらの政策の目的は、それまで各地に分散していた武力や経済力を、秀吉を中心とする中央政権に一元化し、安定的で強固な支配体制を築くことにあった。
この文脈において、武装し、独自の統治機構を持ち、大名の支配を受けない堺のような自治都市の存在は、秀吉が目指す均質で一元的な支配体制とは全く相容れないものであった。会合衆という独自の権力機構、環濠という物理的防御、そして鉄砲生産能力という軍事力。これら全てが、秀吉の中央集権化構想にとって解体すべき対象であった。堺の自治解体は、秀吉の全国統一政策における、必然的なプロセスだったのである。
大坂城下町との機能分担と経済的中心地の移行
秀吉は自身の本拠地である大坂を、政治・軍事のみならず、経済においても日本の中心地として育成しようという壮大な都市計画を持っていた。堺の自治を解体し、その機能を豊臣政権の管理下に置くことは、大坂の経済的地位を相対的に高める効果も持っていた。独立したライバル都市としての堺を無力化し、大坂の衛星都市、あるいは補完的な港湾として再編することで、畿内における経済的覇権を確立しようとした狙いがあったと考えられる 6 。
比較分析:博多「太閤町割り」に見る秀吉の都市支配の論理
秀吉の都市政策の巧みさは、博多の事例と比較することでより鮮明になる。戦国時代の戦乱で焦土と化していた博多に対し、秀吉は九州平定後の天正15年(1587年)、現地の豪商である神屋宗湛や嶋井宗室らと協力し、「太閤町割り」と呼ばれる大規模な都市復興事業を行った 31 。ここでは、既存の権力構造を破壊するのではなく、むしろ商人たちの協力を得て、新たな都市を「再生」させるという手法がとられた。
この堺と博多でのアプローチの違いは、秀吉の都市支配の論理を雄弁に物語っている。彼の政策は画一的ではなく、対象となる都市が置かれた状況に応じて、最適な手法を使い分ける極めて合理的なものであった。博多は、島津軍によって焼き払われ、支配構造も経済基盤も失われた「無」の状態であった 32 。秀吉は、この更地に新たな都市計画を導入し、復興の恩恵を与えることで、自身に忠実な商都をゼロから創り上げた。これは「破壊と再生」のモデルである。
一方、堺は繁栄の絶頂にあり、強力な自治組織と武装を持つ、確立された「有」の存在であった 2 。秀吉に恭順の意は示していても、その潜在的な独立性は脅威であり続けた。堺を焼き払えば、その経済的価値も失われてしまう。したがって、秀吉は堺の既存の権力構造(会合衆)と防衛機能(環濠)を選択的に、かつ意図的に「解体」し、その経済機能だけを自身の政権に「吸収」するという、より外科手術的な手法を用いた。これは「解体と吸収」のモデルである。この比較から浮かび上がるのは、秀吉が単なる破壊者ではなく、商業都市の持つ力を、自身の天下統一事業という壮大なプロジェクトに最も効率的に組み込むことを目的とした、冷徹な都市戦略家であったという姿である。
結論:近世都市への転換と歴史的意義
自治都市から天領へ ― 堺の新たな位置づけ
会合衆の解体と環濠の埋め立てという一連の出来事を経て、堺は中世的な自治都市としての性格を完全に失った。豊臣政権下では、その経済機能は国家の兵站基地として利用され、かつての自由な気風は影を潜めた。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、豊臣方に与したと見なされ、徳川軍の焼き討ちに遭い、市街地の大半が焦土と化す 3 。
その後、天下を掌握した徳川幕府によって、堺は「元和の町割り」と呼ばれる都市計画のもとで復興される 3 。新たな環濠も掘られたが、それはもはや自治を守るための城壁ではなく、都市の境界を示す行政区画線に過ぎなかった。復興後の堺は、会合衆が治める自由都市ではなく、幕府が任命する奉行によって厳格に管理される直轄地(天領)として、近世の幕藩体制に組み込まれたのである 6 。
会合衆解体が戦国時代の終焉に果たした役割
堺会合衆の解体は、単に一個の都市の運命が変わったという以上の、大きな歴史的意義を持つ。それは、戦国乱世の大きな特徴であった「地域的・分権的権力」が、天下統一を目指す「中央集権的権力」に飲み込まれていく時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。武家権力とは一線を画し、富と武力によって独立を維持してきた堺の屈服は、もはやそのような存在が許されない新たな時代の到来を告げていた。
堺の自治の終焉は、戦国時代の終焉そのものであった。それは、多様な権力が並立した中世という時代の幕が下り、統一された権力のもとで秩序が再編される近世という新たな時代の幕開けを告げる、画期的な事象として歴史に刻まれている。
引用文献
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- 2:「自由・自治都市」として発展 ~ 堺 | このまちアーカイブス ... https://smtrc.jp/town-archives/city/sakai/p02.html
- 環濠都市・堺。500年の歴史&ロマンをめぐって - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/feature/detail/81
- はじまりのまち堺 - 昭和被服 https://showa129.jp/about/
- 堺の歴史|ようこそ堺へ!|堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/about-sakai/history/
- 堺環濠都市遺跡 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/kangotoshi.html
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- 【堺の会合衆】経営資源と茶の湯が生み出す政治力が、天下統一を支える - 戦国SWOT https://sengoku-swot.jp/swot-sakai/
- 12 織田おだ信長のぶながと自治じち都市とし堺 - 土肥俊夫の世界 https://doi-toshio.com/2020/05/14/013/
- 堺の環濠、いざCan Go! | 大阪で約半世紀の実績と信頼を誇る総合広告会社です。 - 宣成社 https://senseisha.co.jp/useful/kiji.php?n=18
- 信長の堺支配 「金と力のある街、力づくで潰しては元も子もない」 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2752
- 信長や秀吉を支えた「会合衆」とは?|町組や年行事など、商人の自治組織の概要【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1139026
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- 秀吉の紀州攻めは、どのような位置づけで、なぜ短期で決着がついたのかを生成AIで調べてみる。 https://note.com/ideal_raven2341/n/n6aa024e73848
- 「根来寺を解く」の本から見た「秀吉の紀州攻め」をAIに文句いいつつも納得。 - note https://note.com/ideal_raven2341/n/nff3be30fba2e
- 【現地説明会】中世の自治都市・堺環濠都市の発掘調査 - 蓋と城 https://jibusakon.jp/shiromeguri/kinki-shiro/osaka-shiro/sakaikangou
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- 豊臣秀吉の朝鮮出兵に関わる「博多と肥前名護屋城」 https://hakatanomiryoku.com/column/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E5%87%BA%E5%85%B5%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%82%8F%E3%82%8B%E3%80%8C%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E3%81%A8%E8%82%A5%E5%89%8D%E5%90%8D%E8%AD%B7%E5%B1%8B
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