最終更新日 2025-09-15

堺南蛮寺建立(1576)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天正四年の京都南蛮寺建立:戦国史の転換点における異文化の記念碑

序章:堺から京へ ― 南蛮寺建立の舞台裏

「堺」と「京都」の関係性の解明

天正四年(1576年)に京都で建立されたキリスト教の教会堂、通称「南蛮寺」について語る際、しばしば「堺」の名が想起される。物理的な建立地は京都であるにもかかわらず、この事変の背景には堺という都市が不可分の存在としてあった。この関係性を理解することは、南蛮寺建立の歴史的意義を把握する上で極めて重要である。

フランシスコ・ザビエルが日本の布教許可を「日本の最高君主」から得るべく上陸した地が堺であったように 1 、この港湾都市は宣教師たちにとって畿内布教の戦略的拠点、すなわち兵站基地としての役割を担っていた。ザビエル自身が「日本中の金と銀が集まるまち」と評した堺は 2 、当代随一の経済・商業の中心地であった。宣教師たちの活動は、堺の有力商人、例えば日比屋了珪などの経済的、人的な支援なくしては成り立たなかったのである 2 。京都での政治工作や教会建設といった大事業は、堺の持つ富と人脈という基盤の上に成り立っていた。

したがって、本報告書で詳述する「都の南蛮寺」、正式名称「被昇天の聖母教会」 3 は、物理的には京都に建立されたものの、その計画と実行を支えた生命線は堺にあったと言える。この歴史的力学は、「堺なくして京の南蛮寺なし」という言葉に集約される。利用者様の当初の認識にあった「堺南蛮寺」という呼称は、地名の混同という単純な誤りではなく、戦国時代のキリスト教布教における「堺(経済・兵站拠点)」と「京都(政治・文化の中心)」の分かちがたい関係性という歴史的実態を、的確に反映したものであったと解釈できる。

信長以前の京都布教:苦難の時代

織田信長の庇護のもとで南蛮寺が華々しく建立される以前、京都におけるキリスト教布教の道のりは茨の道であった。その歴史は、永禄二年(1559年)、イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラが入京したことに始まる 5

しかし、ヴィレラと日本人修道士ロレンソ了斎らを待ち受けていたのは、過酷な現実であった。当時の京都は戦乱の巷であり、彼らは住居の確保すらままならず、物置小屋の屋根裏で過ごすこともあった 6 。さらに深刻だったのは、既成の仏教勢力、特に法華宗徒からの激しい敵意と迫害であった 9 。宣教師たちは「悪魔」「人肉を喰う者」といった誹謗中傷に晒され 10 、永禄六年(1563年)には松永久秀による追放計画が企てられるなど、その活動は常に危険と隣り合わせだったのである 9 。この時代の苦闘は、後に登場する織田信長による庇護がいかに画期的なものであったかを際立たせる重要な前史となっている。

第一部:天正四年以前 ― 信長の台頭と畿内キリスト教の黎明

織田信長とキリスト教の邂逅:政治的リアリズムと知的好奇心

永禄十二年(1569年)、織田信長はルイス・フロイスと会見し、京都におけるキリスト教の布教を公式に許可した 11 。この決定は、信長の複雑な世界観と冷徹な政治的計算が絡み合った結果であった。

フロイスの記録によれば、信長は既存の神仏や迷信を軽蔑し、霊魂の不滅や来世の賞罰といった概念を否定する、極めて合理主義的な思考の持ち主であった 12 。この精神性は、当時、武装し巨大な政治権力と化していた既存の仏教勢力、特に石山本願寺や比叡山延暦寺といった存在とは相容れないものであった。信長にとって、特定の土地や伝統に根ざさず、合理的で体系的な教義を持つキリスト教は、知的好奇心を刺激する対象であると同時に、仏教勢力に対抗するための有効な政治的・文化的カウンターウェイト(対抗勢力)として映ったのである。信長の庇護は、単なる異文化への寛容さというよりも、天下統一事業を推進するための高度な戦略の一環であった。

南蛮寺建立を支えた人々:宣教師、大名、そして官僚

南蛮寺の建立は、信長の絶対的な権威のもと、それぞれ異なる動機を持つ多様な人々が結集した複合的な事業であった。それは、信長政権の統治能力の高さを示す象徴的なプロジェクトでもあった。

  • オルガンティノ・ニッキ : 彼は京都における布教活動の中心人物であり、南蛮寺建立計画の企画者兼推進者であった 13 。精力的な活動を通じて信長の信頼を勝ち取り、この前例のない大事業を主導した 15 。彼の動機は、純粋な宗教的情熱にあった。
  • 高山右近 : 摂津高槻城主であり、熱心なキリシタン大名であった彼は、この計画における最大の後援者の一人であった 15 。用材の調達や多数の人夫の提供など、建設に必要な物的・人的資源の供給において絶大な貢献を果たした 17 。彼の協力は、信仰心の発露であり、キリスト教が武士階級にまで深く浸透していたことを示している。
  • 村井貞勝 : 信長配下の京都所司代、すなわち京都の行政長官として、彼は信長の意向を実務レベルで実現する重要な役割を担った 19 。フロイスの書簡にも、貞勝が建設に際して様々な便宜を図ったことが記されている 19 。彼の職務は、建設に反対する勢力を抑え、行政手続きを円滑に進めることであった。これは主君への忠誠と行政官としての責務からくるものであった。

このように、南蛮寺建立は、信長が「許可と保護」を与え、オルガンティノが「企画と推進」を行い、高山右近が「資源提供」を担い、村井貞勝が「行政支援と障害排除」を遂行するという、見事な役割分担によって実現したのである。

建立計画の始動と初期の障壁

天正三年(1575年)夏、オルガンティノは信徒たちを招集し、京都の中心部に壮麗な新聖堂を建立する計画を始動させた 9 。建設資金の一部は、豊後にいたイエズス会日本布教長フランシスコ・カブラルからの600タエル(約132両)という多額の寄付によって賄われた 18

しかし、計画の船出は決して順風満帆ではなかった。異教の壮大な建築物が都の中心に建設されることに対し、京都の町衆や仏教僧侶たちは強い警戒感と反発を示した。彼らは団結し、京都所司代の村井貞勝のもとへ建設中止を求める訴えを起こす事態にまで発展したのである 9 。南蛮寺の建設は、その槌音が響き始める前から、文化的な摩擦という障壁に直面していた。

第二部:天正四年(1576年)の激動 ― 石山合戦の最中に灯された信仰の光(時系列解説)

天正四年(1576年)は、織田信長にとって天下統一事業の正念場であった。長きにわたる石山本願寺との死闘が激化の一途をたどる、まさにその渦中において、京都では南蛮寺の建設が着々と進められていた。この二つの事象を並行して見ることで、南蛮寺建立の持つ特異な歴史的意味が浮かび上がる。

【1576年 正月~春】信長の野望と教会の槌音

年が明けた天正四年正月、織田信長は琵琶湖畔で壮大な安土城の築城を開始した 17 。これは、彼の天下統一事業が新たな段階に入ったことを天下に示す象徴的な出来事であった。その一方で、畿内における最大の敵対勢力、石山本願寺との対立は依然として続いていた。この緊迫した情勢の中、京都では前年から続く南蛮寺の建設工事が進行していた。そして4月下旬、ついに棟上式が執り行われ、和洋の様式を融合した壮麗な建物の骨格が都大路にその姿を現した 17

【1576年 5月】死闘の天王寺と揺るがぬ礎

5月、事態は急変する。石山本願寺勢が蜂起し、織田軍は摂津天王寺砦をめぐる戦いで壊滅的な打撃を受けた。大将の塙直政が討死し、明智光秀らが砦に追い詰められるという大敗であった 20 。報を受けた信長は、わずかな手勢を率いて自ら救援に駆けつけ、敵の鉄砲玉を足に受けるほどの苦戦を強いられた 21 。これは信長の軍事的人生における最大の危機の一つであった。

常識的に考えれば、このような存亡の危機において、不要不急の建設事業は即刻中断されるはずである。しかし、信長の判断は真逆であった。彼はこの軍事的危機の真っ只中にありながら、京都の南蛮寺建設をより一層強力に庇護した。仏教勢力や町衆からの反対の声が高まると、信長は安土から直接介入してこれを退け、建設を保護した 9 。さらに、当時禁裏(皇居)の造営以外では他国からの材木購入が厳しく制限されていたにもかかわらず、南蛮寺の資材確保だけは例外的に許可するという破格の待遇を与えたのである 9

この一見不可解な行動は、単なる宗教保護を超えた、高度な政治的メッセージであった。石山本願寺という「仏」の権威と戦う信長が、その対抗軸として「デウス(神)」の権威を都の真ん中に打ち立てる行為に他ならなかった。自らが窮地にある時にこそ、敵が拠り所とする価値観(仏教)を否定し、全く新しい価値観(キリスト教)の象徴を建立してみせる。これは、「我にこの程度の危機はものともせず、日本の価値体系を根底から覆す力がある」と内外に宣言する、一種のプロパガンダ(政治宣伝)であった。南蛮寺の槌音は、石山本願寺の鐘の音に対抗する、信長の不屈の意志を表明する音だったのである。

【1576年 7月~年末】敗北の中の献堂、そして新名所の誕生

7月、信長の苦境は続く。第一次木津川口の戦いで、織田水軍は毛利水軍の前に大敗を喫し、石山本願寺への兵糧搬入を許してしまった 22 。信長包囲網の脅威が再び現実のものとなり、軍事的状況はさらに悪化した。

しかし、そのような絶望的な戦況とは裏腹に、京都の南蛮寺はついに完成の時を迎える。8月15日、カトリック教会における聖母被昇天の祝日に合わせ、まだ内装などは未完成ながらも、荘厳な初ミサが捧げられ、献堂式が執り行われた 8 。戦乱に明け暮れる都において、この出来事はキリスト教の存在感を人々の心に強く刻みつける象徴的な瞬間となった。その後、年末にかけて内外の整備が進み、大規模なミサが執り行われる頃には教会はほぼ完成 17 。翌年には鐘も鋳造され、その音は京の空に響き渡った 8

南蛮寺の動向 (京都)

石山合戦の動向 (摂津・大坂)

織田信長の状況

1月

建設進行中

(小康状態)

安土城築城開始

4月

棟上式挙行

5月

建設続行 (信長の特別保護)

天王寺の戦い (織田軍大敗)

自身も負傷、最大の危機

7月

第一次木津川口海戦 (織田水軍大敗)

包囲網の圧力増大

8月

献堂式・初ミサ (8月15日)

年末

教会完成

この対比年表が示すように、南蛮寺の建設は平和な状況下で行われたのではなく、信長政権の存亡をかけた激しい戦闘と並行して、まさにその対抗軸として進められたという、類まれな歴史のダイナミズムの中にあったのである。

第三部:「都の南蛮寺」の威容 ― 建築、文化、そして社会への影響

狩野派の絵師が描いた教会の姿

建立からわずか10年余りで地上から姿を消した南蛮寺。その威容を今に伝えるほぼ唯一の視覚資料が、狩野永徳の弟であり、信長や秀吉の御用絵師を務めた狩野宗秀筆と推定される「都の南蛮寺図」である 23

この扇面図によれば、南蛮寺は木造瓦葺きの三層楼閣風建築であったことがわかる 26 。屋根は最上層が入母屋造、一層と二層は寄棟造という日本の伝統的な様式を採用している 26 。特徴的なのは二層目に設けられた見晴らし用の廊下(バルコニー)で、手すりが巡らされており、異国的な開放感を演出していた 26 。また、跡地からの発掘調査では十字の紋様が入った瓦も出土しており 26 、和風建築の意匠の中にキリスト教のシンボルが巧みに取り入れられていたことが窺える。その姿は、日本の城郭建築(天守閣)や寺社建築の技術を応用しつつ、西洋の教会建築の要素を取り入れた、独創的な和洋折衷のデザインであった 9 。三重の瓦屋根を持つその建物は、当時の京都市街においてもひときわ目立つ存在だったであろう 28

京の新名所としての賑わいと社会事業

完成した南蛮寺は、その物珍しさから一躍京都の新名所となり、多くの見物人で賑わった 3 。しかし、その真価は単なる観光名所としての役割に留まらなかった。南蛮寺は、当時の日本社会が抱える問題に応える、重要な社会的拠点として機能したのである。

宣教師たちは教会を拠点として、貧民や病人、ハンセン病患者などを対象とした医療・救済活動を積極的に展開した 9 。ルイス・アルメイダらがもたらした西洋の外科的医術は特に評判を呼び、身分を問わず多くの人々が救いを求めて教会に集まったと記録されている 9 。これは、宗教施設という枠を超え、医療や福祉といった「ソフト・パワー」を通じて人々の心を掴み、キリスト教への社会的受容を促す戦略的な活動であった。このアプローチは大きな成功を収め、オルガンティノは1577年の手紙の中で「都の市民は最初われわれを嫌忌したが、今は敬意を表わし、悪言を放つ者もほとんどなくなった」と、その変化を誇らしげに報告している 9 。信長の武力による「ハード・パワー」の庇護を受けながら、宣教師たちは南蛮寺を拠点に「ソフト・パワー」を展開する。この両輪が、京都におけるキリスト教の急速な発展を可能にした主要因であった。

文化交流のサロン

南蛮寺はまた、日本と西洋が出会う文化交流のサロンでもあった。オルガンなどの西洋音楽、遠近法などの絵画技法、天文学、地理学といった最新の学問や文化が、ここを窓口として日本の知識人や大名たちに紹介された 29 。信長自身も、宣教師たちと地球儀を囲んで世界情勢について語り合うなど、この文化交流を大いに楽しんだ。

南蛮寺跡から出土した遺物は、その活発な文化融合の実態を物語っている。例えば、ミサの様子やキセルで喫煙する南蛮人の姿が線刻された硯の発見は 31 、教会内で日本の伝統的な文化(書道など)と、当時最新の南蛮の風俗がごく自然に共存していたことを示す貴重な物証である。南蛮寺は、単に西洋文化が一方的に紹介される場ではなく、双方の文化が相互に影響を与え合う、ダイナミックな創造の空間であった。

第四部:栄華から破却へ ― 秀吉の天下統一とキリスト教の受難

権力者の交代と変化の兆し

天正十年(1582年)、本能寺の変で織田信長が非業の死を遂げると、日本の政治情勢は大きく転換する。信長の後継者として天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉は、当初、キリスト教に対して融和的な姿勢を見せていた。信長の政策を継承する形で、高山右近らのキリシタン大名を重用し、大坂に壮麗な教会(南蛮寺)を建設することを許可するなど、その関係は良好に見えた 15

天正十五年(1587年)の衝撃:バテレン追放令

しかし、その蜜月関係は長くは続かなかった。天正十五年(1587年)6月、九州平定を成し遂げ、博多に滞在していた秀吉は、突如として「バテレン追放令」を発布し、キリスト教の禁止へと大きく舵を切った 23 。この劇的な政策転換の背景には、秀吉が九州で目の当たりにしたいくつかの現実が複雑に絡み合っていた。

  1. 日本人奴隷売買問題 : 九州において、ポルトガル商人が多数の日本人を奴隷として買い付け、海外へ売買しているという衝撃的な実態を秀吉は知る。国家の主権者としてこれを看過できず、追放令の前日には人身売買を厳しく禁じる覚書を発している 32
  2. キリシタンの団結力への脅威 : 九州のキリシタン大名や信徒たちが示す強い結束力と、彼らがローマ教皇という国外の権威に忠誠を誓う姿は、日本の統一支配を目指す秀吉にとって、自らの統治体制を揺るがしかねない潜在的な脅威と映った 32
  3. 神国思想 : 秀吉は「日本は神国なり」と宣言し、キリスト教の教えが日本の伝統的な価値観や神仏を敬う秩序を破壊するものであると断じた 11
  4. 寺社破壊 : 一部のキリシタン大名が領内の神社仏閣を破壊する行為も、日本の伝統的秩序の維持を重視する秀吉の怒りを買った 32

南蛮寺の建立と破壊は、織田信長と豊臣秀吉という二人の天下人の、海外文化や勢力に対する根本的な姿勢、すなわち「グローバリズム観」の違いを象徴している。信長は、キリスト教を既存の秩序を破壊し、新しい知識や富を取り入れるための革新的な「ツール」として積極的に利用しようとした。彼のグローバリズムは、変革を志向する「攻撃的」なものであった。対照的に秀吉は、自らが構築した統一国家の秩序を維持する上で、日本人奴隷問題や国を超えた忠誠心といった要素を、統治の安定を脅かす「リスク」と見なした。彼のグローバリズムは、秩序維持を志向する「管理的・防衛的」なものであった。

南蛮寺の最期

信長の「攻撃的グローバリズム」の時代に生まれ、その価値を体現する存在だった南蛮寺は、秀吉の「管理的グローバリズム」の時代において、排除すべきリスクの象徴となった。バテレン追放令の発布により、京都の南蛮寺は閉鎖され、天正十五年(1587年)から翌十六年(1588年)にかけて破却された 23

建立からわずか11年余り。戦国の都に輝いた異文化交流のシンボルは、天下人の政策転換によって、その短い歴史に幕を閉じた。その盛衰は、単なる宗教政策の変遷ではなく、戦国末期から統一政権確立期にかけての、日本の対外姿勢の根本的な転換点を物語る事件であった。

結論:戦国史に刻まれた異文化交流の記念碑

京都の南蛮寺は、天正四年(1576年)という戦国時代の激動の最中に建立され、わずか10年余りで地上から姿を消した、束の間の栄華を誇った教会堂であった。しかし、その短い歴史は、戦国時代という時代が持つ驚異的なまでの文化受容性と、それが政治権力と不可分に結びついていたという事実を、雄弁に物語っている。

南蛮寺は、織田信長の革新的な世界観と、石山本願寺に対抗するための冷徹な政治戦略の象徴であった。同時にそれは、オルガンティノの宗教的情熱、高山右近の篤い信仰心、そして名もなき多くの信徒たちの願いが結集した結晶でもあった。その存在は、同時代の最大の動乱である石山合戦と分かちがたく結びついており、単なる宗教史上の出来事としてではなく、戦国時代の政治・軍事史の文脈の中で理解されるべきである。

そして、その突然の終焉は、豊臣秀吉という新たな天下人の登場による、日本の対外政策の劇的な転換を告げるものであった。為政者の意向一つで、文化の受容と排斥がかくも劇的に反転する。南蛮寺の運命は、その後の鎖国へと向かう日本の近世の幕開けを象徴する事件であったと言えよう。

建物自体は失われたものの、狩野宗秀の絵画、ルイス・フロイスの記録、そして跡地から発掘された一片の瓦や硯を通じて、南蛮寺は今なお、戦国日本が経験したダイナミックな異文化交流の記憶を我々に語り継いでいる。それは、歴史の中に消えた単なる過去の遺物ではなく、日本の歴史が内包していた可能性と危うさの両面を映し出す、永遠の記念碑なのである。

引用文献

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  4. 『フロイス日本史』を読んでみた - 長崎市 https://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1703/index.html
  5. 第百七十回 京都とキリスト教|京都ツウのススメ - 京阪電車 https://www.keihan.co.jp/navi/kyoto_tsu/tsu202210.html
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