最終更新日 2025-09-15

堺自治停止(1585)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

『天正十三年、堺の落日 ― 自治都市の終焉と天下統一事業』

序章:東洋のヴェネツィア ― 自治都市・堺の光と影

戦国乱世の日本において、いずれの大名にも属さず、武士による支配を拒み、富裕な商人たちの合議によって統治された都市があった。和泉国、堺。その繁栄は、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスによって遠くヨーロッパにまで伝えられ、「東洋のヴェネツィア」と称賛された 1 。この比類なき自治都市が、いかにしてその独立を失い、天下人の前に屈したのか。天正13年(1585年)に下された豊臣秀吉による直轄領化、すなわち「堺自治停止」の事変は、単なる一都市の運命を変えただけではない。それは、中世的な多元的権力構造が、近世的な一元的支配体制へと移行する、時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。

堺の独自性は、その成り立ちと機能に根差している。鎌倉時代に漁港として発展したこの地は、室町時代に入ると遣明船の発着港となり、日明貿易や琉球貿易、さらにはポルトガルやスペインとの南蛮貿易の中心地として、国際的な交易ネットワークの結節点となった 2 。海外から流入する生糸、陶磁器、薬種といった奢侈品や、国内から集積される刀剣、硫黄などの輸出品の取引差益は、堺の商人に莫大な富をもたらした 3 。特に、南蛮貿易によってもたらされた硝石や鉛は、火薬や弾丸の原料として戦国大名にとって不可欠な軍需物資であり、堺の経済力は天下の趨勢を左右するほどの戦略的重要性を帯びていた 5

この経済力を背景に、堺は独自の統治システムを確立した。市政を担ったのは「会合衆(えごうしゅう)」と呼ばれる有力豪商たちであった 2 。彼らは納屋衆(倉庫業者)を兼ねる貿易商や金融業者が多く、当初は10人、戦国期には36人で構成されたとされる 7 。会合衆は合議によって都市の運営方針を決定し、公事訴訟の決裁権をも掌握するなど、事実上の統治機関として君臨した 8 。これは、特定の領主に従属するのではなく、町衆自身が都市を運営するという、中世日本の都市自治のひとつの到達点であった 9

そして、この自治と独立を物理的かつ象徴的に支えたのが、市街の三方を囲む広大な環濠であった 1 。西を海に面した堺は、北・東・南に深い濠を巡らせ、傭兵を雇い、櫓を建てることで、戦乱の世にあって一種の要塞都市を築き上げた 8 。この環濠は、単なる防御施設ではなかった。それは、戦国大名や荘園領主の権力が及ばない「無縁」の空間、すなわち「公界(くがい)」を画定する境界線でもあった 12 。濠の内側は、武家の論理ではなく、商人の論理が支配する聖域であり、環濠そのものが堺の自治の精神的支柱だったのである 13

しかし、この類いまれなる富と独立性は、天下統一を目指す者にとって、魅力的な財源であると同時に、自らの絶対的権力を脅かす潜在的な脅威でもあった。織田信長、そして豊臣秀吉という二人の天下人は、この「東洋のヴェネツィア」を、それぞれの国家構想の中にいかにして組み込み、あるいは解体していったのか。その過程を追うことは、戦国という時代の終焉を都市の視点から解き明かすことに他ならない。

第一章:天下布武の波紋 ― 織田信長と堺の攻防

長らく続いた堺の黄金の日々と完全な自治は、織田信長の登場によって初めて大きな揺らぎを見せる。永禄11年(1568年)、足利義昭を奉じて上洛を果たした信長は、その圧倒的な軍事力を背景に、畿内における支配体制の確立を急いだ。その過程で、独立した経済圏を形成する堺の存在は、信長にとって看過できないものであった 14

永禄11年(1568年)の対峙

信長は堺に対し、軍資金として矢銭二万貫という破格の要求を突きつけた 1 。これは現在の価値で約2億円ともいわれる巨額であり、単なる資金調達以上の、堺の経済力と独立性に対する明確な挑戦であった。会合衆は、この要求を一度は拒否する。彼らは三好三人衆と連携し、牢人を雇い入れ、環濠をさらに深くするなど、徹底抗戦の構えを見せた 11 。長年にわたり、いかなる権力者の介入も許さなかった自治都市の誇りが、信長の要求を正面から退けさせたのである。

会合衆の分裂と苦渋の決断

しかし、信長の武力は、堺がこれまで対峙してきた畿内の勢力とは次元が異なっていた。信長が堺を攻め滅ぼす意志を固めると、会合衆の内部では激しい議論が巻き起こり、その結束は揺らぎ始める。この内部対立において、二人の有力商人の動向が堺の運命を大きく左右した。

一人は、恭順派の筆頭であった今井宗久である。大和出身の豪商である宗久は、茶人としても高名であり、信長が上洛する以前から接触を図っていた 5 。彼は名物茶器である「松島の茶壺」や「紹鷗茄子」を信長に献上するなど、巧みな政治手腕で新たな権力者との関係を構築していた 5 。宗久は、信長の圧倒的な力を冷静に分析し、抵抗が無益であると判断。会合衆を説得し、恭順の道を模索した。これは、商人としての現実的な損得勘定と、新たな支配者との結びつきによって更なる商機を得ようとする戦略的な判断であった 11

もう一人は、天王寺屋の津田宗及である。宗及もまた当代随一の茶人であったが、彼の立場はより複雑であった。天王寺屋は代々、石山本願寺の御用商人を務め、また三好氏とも深い関係があったため、信長への従属には慎重な姿勢を見せた 11 。宗及の態度は、会合衆が抱える既存の利害関係の複雑さを象徴していた。

最終的に、三好三人衆が信長軍に敗北すると、堺は軍事的な後ろ盾を失う 11 。今井宗久らの説得もあり、会合衆はついに信長の武力の前に屈服。矢銭二万貫を支払い、信長の支配下に入ることを受け入れた 1

支配と協力の二重構造

この屈服により、堺の完全な自治は終焉を迎えた。信長は堺に政所(奉行)を置き、統治を強めた 18 。しかし、信長は堺を完全に破壊したわけではなかった。彼は堺の持つ経済力と文化的影響力を自身の天下統一事業に利用する道を選んだのである。その功績を認められた今井宗久は、信長から堺五箇庄の代官に任命され、信長と堺のパイプ役として絶大な権勢を振るうことになった 5

この時期、信長が推し進めた「御茶湯御政道」は、堺と信長の関係を象徴するものであった 19 。信長は茶の湯を政治の道具として巧みに利用し、千利休、今井宗久、津田宗及といった堺の茶人たちを茶頭として重用した 17 。茶会は、武将への恩賞や外交交渉の場として機能し、堺の豪商たちは文化的権威を背景に、天下人の政策に影響を与えるという新たな生き残りの道を見出した。こうして、織田政権下の堺は、信長の支配を受け入れながらも、その経済力と文化力を通じて天下統一事業に協力するという、アンビバレントな関係性を築いていったのである。この関係は、堺に一時的な安定をもたらしたが、同時にその運命を天下人の意向に深く結びつける、両刃の剣でもあった。

第二章:天下人の登場と新秩序の胎動 ― 本能寺後の情勢と秀吉の台頭

天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死すると、日本の政治情勢は再び流動化する。この突然の権力の空白は、信長の支配下にあった堺にも大きな影響を及ぼした。

本能寺の変(天正10年)と堺

変が勃発した際、徳川家康は堺に滞在していた。津田宗及が自邸で開いた茶会に招かれていたのである 17 。信長の死の報に接した家康が、有名な「神君伊賀越え」によって命からがら三河へ帰還した逸話は、当時の堺が依然として全国の重要人物が集う情報と文化の中心地であったことを示している 18

信長の死は、堺にとって直接的な支配者が消滅したことを意味した。一時的にではあるが、堺は再び自治を取り戻したかのような状況を呈する。信長の死後、再建された環濠の記録もあり、天下の情勢が定まらぬ中、堺が自衛のために再び武装を強化しようとした様子が窺える 20

秀吉の権力掌握と堺への視線

しかし、この権力の空白期間は長くは続かなかった。山崎の戦いで明智光秀を討ち、信長の後継者としての地位を確立した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が、新たな天下人として急速に台頭する。

秀吉の対堺政策は、当初、信長の方針をおおむね継承するものであった。彼は信長と同様に堺の経済力を重視し、千利休や津田宗及らを自身の茶頭として引き続き重用した 17 。茶の湯を通じて堺の豪商たちとの協力関係を維持し、彼らの持つ財力や情報網を自身の権力基盤強化に活用したのである 21

大坂城築城という布石

だが、秀吉の構想は、信長のそれをはるかに超える規模で進められていた。天正11年(1583年)、秀吉は石山本願寺の跡地に、天下人の居城にふさわしい壮大な大坂城の築城を開始する 22 。これは単なる軍事拠点の建設ではなかった。秀吉は、大坂を政治・軍事の中心であると同時に、日本の新たな経済・物流の中心地とする壮大な都市計画を思い描いていたのである 23

この大坂を基軸とする新経済圏構想こそが、堺の運命を決定づける極めて重要な布石であった。秀吉は、平野郷など近隣の商人たちを大坂城下へ集め、新たな商業都市の育成に着手した 23 。この構想が具体化するにつれて、既存の経済中心地であり、独立したネットワークを持つ堺の存在は、秀吉にとって協力者であると同時に、潜在的な競合相手として映るようになる 24 。自身の絶対的な支配体制を構築しようとする秀吉にとって、会合衆という独自の統治機構を持つ堺は、いずれそのシステムに組み込むべき、あるいは解体すべき対象となっていった。大坂城の天守閣が高くなるにつれて、堺の自治都市としての未来には、暗い影が差し始めていたのである。

第三章:自治の終焉 ― 天正十三年(1585年)のリアルタイム・ドキュメント

天正13年(1585年)は、堺の運命が決定的に変わった年である。この年を境に、堺は自治都市としての長い歴史に幕を下ろし、豊臣政権の一地方都市へと組み込まれていく。その過程は、秀吉の周到な戦略と圧倒的な権力の前で、堺が抵抗する術を失っていく様を克明に示している。

【1585年 春】紀州征伐と堺への圧力

年が明けると、秀吉は天下統一事業の総仕上げとして、紀州の根来衆・雑賀衆の討伐に乗り出した 25 。これは、信長の時代から畿内にあって中央権力に抵抗を続けてきた最後の大規模な独立勢力の一掃を目的としていた。天正13年3月、10万を超える秀吉の大軍は和泉国に進駐し、瞬く間に抵抗勢力を制圧していく。

この軍事行動は、紀州勢力のみならず、和泉国に隣接する堺に対しても、強烈な軍事的示威行動となった。大軍が目と鼻の先で戦闘を繰り広げる中、堺の町には緊迫した空気が流れたであろう。かつて信長に抵抗した際のように、三好氏のような後ろ盾となる軍事勢力はもはや存在しない。会合衆や町衆は、秀吉の圧倒的な武力の前に、もはや抵抗は不可能であり、その意向に従う以外に選択肢はないことを痛感させられた。

【1585年 7月】関白就任と支配の正当化

紀州征伐を成功させ、四国平定にも着手した秀吉は、同年7月11日、ついに朝廷から関白の位を授かる 26 。これは、秀吉が日本の最高権力者として名実ともに認められたことを意味する。彼の命令は、もはや一武将のものではなく、天皇の権威に裏打ちされた国家の最高意思決定としての絶対的な正統性を帯びることになった 28

この政治的地位の確立は、堺のような伝統と格式を持つ自治都市を、単なる武力ではなく「法と権威」によって支配下に置くための決定的な布石であった。秀吉は、全国の大名に領地争いの停止を命じた「惣無事令」の精神に基づき、国内のあらゆる独立勢力を自身の統制下に置くという国家方針を明確にした 28 。この文脈において、堺の自治はもはや許されるものではなく、統一国家の秩序の中に組み込まれるべき対象とされたのである。

【1585年 後半】直轄領化の断行

関白となった秀吉は、満を持して堺の支配体制の変革に乗り出す。彼は堺を豊臣家の直轄領(蔵入地)とすることを正式に決定し、通達した 29 。これにより、堺は特定の領主を持たない自治都市から、豊臣家が直接統治する領地へとその地位を根本的に変えられた。

この決定は、会合衆が持っていた都市の統治権を完全に剥奪するものであった。市政、裁判、警察権といった自治の根幹をなす権限は、すべて領主である秀吉、および彼が派遣する代官の手に渡った。信長の時代に一度屈服した経験と、秀吉の揺るぎない権力を前に、会合衆による組織的な抵抗が行われたという記録は見られない。彼らは統治者としての地位を静かに明け渡し、政権に奉仕する御用商人として、新たな時代での生き残りを図る道を選んだ 24 。ここに、中世以来の自治都市・堺は、法的にその歴史を閉じたのである。

【1586年】自治の物理的解体

法的・政治的な支配の確立に続き、秀吉は堺の自治を物理的・象徴的に解体する措置を講じる。

天正14年(1586年)、秀吉は腹心である石田三成を堺奉行(堺政所とも呼ばれた)に任命した 18 。これは、堺の統治を実務レベルで完全に掌握し、秀吉の意向を迅速かつ直接的に反映させるための人事であった。三成は優れた行政手腕を発揮し、翌年に控えた九州平定のための兵站基地として堺を整備するなど、堺を豊臣政権の巨大な統治システムの一部として効率的に機能させていった 32

そして同年10月、秀吉は堺の自治の象徴そのものであった環濠の埋め立てを命じる 34 。この命令は、堺の町衆に計り知れない衝撃を与えた。環濠は、単なる防衛施設ではない。それは100年以上にわたる自治の歴史と、何者にも支配されないという堺の誇りの象徴であった 37 。その環濠を自らの手で埋めるという行為は、堺がもはや特別な都市ではなく、天下人の支配下にある一地方都市に過ぎないという事実を、内外に知らしめる極めて象徴的なものであった 20 。この命令により、堺の自治は、その精神的な支柱までもが完全に破壊されることになったのである。


【表1】織田信長時代と豊臣秀吉時代における堺の地位比較

比較項目

織田信長時代(1568-1582)

豊臣秀吉による直轄化後(1585-)

統治形態

間接統治(政所設置)

直轄統治(堺奉行設置)

会合衆の権限

市政運営権は維持するも、信長の承認が必要

統治権剥奪、諮問的役割に限定

軍事・防衛権

限定的な自衛権を保持

自衛権の完全剥奪

環濠の存在

存在・抵抗時に強化

埋め立て命令(1586年)

経済的地位

畿内の経済中心地としての地位を維持

大坂への中心地シフトが加速

天下人との関係

支配・協力の二重関係

完全な従属関係


第四章:変容する都市 ― 豊臣政権下の堺

自治を失った堺は、豊臣政権という巨大な国家システムの中に組み込まれ、その性格を大きく変えていった。かつての「東洋のヴェネツィア」は、新たな中心地・大坂の衛星都市として、その役割を再定義されることになる。

経済中心地の大坂へのシフト

堺の自治解体と並行して、秀吉は自身の拠点である大坂の城下町建設を強力に推進した。その最も効果的な手法の一つが、堺が長年培ってきた人的・経済的資源を大坂へ強制的に移転させることであった 24 。秀吉は堺の有力商人たちに対し、大坂の船場などへ移住するよう命じた 34 。これにより、堺が独占してきた貿易や金融のノウハウ、そして全国に広がる商業ネットワークが、そっくりそのまま大坂へ移植されることになった。結果として、堺の経済的地位は相対的に大きく低下し、やがて大坂が「天下の台所」として日本の経済を牽引する時代が到来する 23 。堺の解体は、大坂の繁栄と表裏一体だったのである。

会合衆の変質と凋落

都市の統治権という政治的権力を完全に失った会合衆は、もはや自治の担い手ではありえなかった。彼らは豊臣政権の経済政策を支える「御用商人」として生き残る道を模索するが、かつてのような政治的影響力を行使することはもはや不可能であった 24

個々の豪商の運命もまた、秀吉の意向に大きく左右された。信長時代に絶大な権勢を誇った今井宗久は、秀吉の時代になるとその影響力を次第に失っていった 39 。津田宗及も、秀吉の茶頭は務めたものの、天正15年(1587年)の北野大茶会を最後にその地位を解かれ、表舞台から遠ざかった。彼の死後、嫡男に跡継ぎがなく、豪商・天王寺屋の本家は断絶している 40 。彼らの凋落は、会合衆という組織そのものの終焉を象徴していた。

文化的影響力の終焉 ― 千利休の切腹

堺の変質を決定づけたのが、天正19年(1591年)の千利休切腹事件である。堺の魚屋に生まれた利休は、茶の湯を大成させ、信長、秀吉の茶頭として仕えることで、一介の町人でありながら天下の政治にさえ影響を及ぼすほどの絶大な文化的権威を築き上げた 19

しかし、その影響力が頂点に達したとき、秀吉は利休を脅威と見なすようになる。利休が茶の湯を通じて形成した大名たちのサロンは、秀吉の絶対的な権力構造にとって、統制の及ばない潜在的な対抗勢力と映った 24 。大徳寺山門に自身の木像を設置した一件などを口実に、秀吉は利休に切腹を命じた 42 。この事件は、秀吉がもはや堺商人が文化を背景に中央政治へ介入することを一切許さないという、断固たる意志表示であった。茶聖・利休の死とともに、堺が育んだ文化的影響力もまた、その輝きを失っていったのである。

近世都市への移行と大坂夏の陣

自治を失い、環濠を埋められ、経済的・文化的中心地としての地位も大坂に奪われた堺は、もはや中世的な自治都市ではなく、近世的な中央集権体制下の一都市へと完全に移行した。そして、その中世以来の歴史に最後のとどめを刺したのが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣であった。豊臣方の残党による焼き討ちによって、堺の市街地の大半は焦土と化した 14

この壊滅的な被害からの復興は、豊臣家を滅ぼし天下を掌握した徳川幕府の手によって行われた。幕府は堺を直轄領とし、「元和の町割り」と呼ばれる新たな都市計画のもとで、碁盤の目状の整然とした町並みを再建した 4 。ここに、かつての環濠都市の面影は完全に消え去り、近世都市としての新たな堺が誕生したのである。

結論:戦国時代の終焉と都市の運命

天正13年(1585年)の「堺自治停止」は、単なる一都市の服従劇ではない。それは、戦国乱世を通じて各地に生まれた「公界」に象徴されるような、多元的で自律的な権力空間が、豊臣秀吉による統一的・一元的な国家体制へと収斂していく過程における、画期的な出来事であった。

織田信長による自治への介入に始まり、秀吉による直轄領化、そして環濠の埋め立てに至る約20年間のプロセスは、中世的な自治都市が近世的な支配体制下へと組み込まれていく典型的な姿を示している。堺の事例は、日明貿易や南蛮貿易、鉄砲生産を通じて蓄積された強大な経済力や、茶の湯に代表される高度な文化力が、それを凌駕する組織化された巨大な軍事力と政治権力の前には、最終的に従属せざるを得ないという、戦国時代の終焉を冷徹に物語っている。

秀吉の視点に立てば、堺の解体と大坂への機能移転は、自身の権力基盤を盤石にし、新たな国家経済の基軸を築くための必然的な戦略であった。独立した情報網と経済力、そして文化的権威を持つ堺は、天下統一後の新たな秩序においては、もはや許容されざる存在だったのである。

しかし、堺の歴史はここで完全に断絶したわけではない。自治は失われたものの、江戸時代を通じて堺は幕府の直轄領として、酒造や刃物、線香といった新たな産業を育み、独自の町人文化を花開かせていく 46 。また、大坂へ移住した商人たちが培った進取の気風や経済運営のノウハウは、天下の台所・大坂の発展、ひいては日本の近世商業社会の形成に多大な貢献をした。

その意味で、堺の落日は、一つの時代の終わりであると同時に、新たな時代の始まりでもあった。自治都市・堺の物語は、戦国という激動の時代が終焉を迎え、統一国家が誕生する過程で、都市がいかにその姿を変え、そしてその精神を次代へと受け継いでいったのかを、我々に雄弁に語りかけている。


【表2】堺の自治停止に至る主要年表(天正10年~天正14年)

西暦(和暦)

秀吉・豊臣政権の動向

堺および関連人物の動向

歴史的意義

1582(天正10)

本能寺の変後、山崎の戦いで光秀を討伐。清洲会議で実権を掌握。

信長の死により権力の空白状態。徳川家康が堺に滞在中、変を知る。

堺が一時的に直接支配から解放される。

1583(天正11)

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破る。大坂城の築城を開始。

秀吉との関係を模索。千利休らが茶頭として重用され続ける。

新たな経済中心地・大坂の建設が始まり、堺の相対的地位低下が始まる。

1584(天正12)

小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄と対峙。

-

秀吉の天下統一事業における最大の軍事的障害との対峙。

1585(天正13)

紀州征伐を断行。7月に関白に就任。四国を平定。

紀州征伐の軍事的圧力に晒される。後半、正式に豊臣家の直轄領となる。

秀吉が支配の正当性を確立し、堺の自治権が法的に完全に剥奪される。

1586(天正14)

九州平定の準備を進める。

石田三成が堺奉行に就任。10月、環濠の埋め立てが命令される。

自治の象徴であった環濠が破壊され、物理的にも自治都市は終焉を迎える。


引用文献

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  2. 2:「自由・自治都市」として発展 ~ 堺 | このまちアーカイブス - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/sakai/p02.html
  3. 東洋のベニス・堺 - 日本建設業連合会 https://www.nikkenren.com/about/shibiru/c_10/10_7_10.pdf
  4. 環濠都市・堺。500年の歴史&ロマンをめぐって - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/feature/detail/81
  5. 第3話 〜今井宗久 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/003.html
  6. 豊臣秀吉の経済力 http://s-yoshida7.my.coocan.jp/sub18.htm
  7. 会合衆(えごうしゅう) - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/word_j_e/entry/029544/
  8. 会合衆(エゴウシュウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BC%9A%E5%90%88%E8%A1%86-36342
  9. 信長や秀吉を支えた「会合衆」とは?|町組や年行事など、商人の自治組織の概要【戦国ことば解説】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1139026
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  11. 信長の堺支配 「金と力のある街、力づくで潰しては元も子もない ... https://sengoku-his.com/2752
  12. 戦国時代、三重の各地に「公界」 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail61.html
  13. 堺の環濠、いざCan Go! | 大阪で約半世紀の実績と信頼を誇る総合広告会社です。 - 宣成社 https://senseisha.co.jp/useful/kiji.php?n=18
  14. 堺と四人の天下人 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/shisei/koho/koho/koho_sakai/kobo_sakai_pdf/koho_sakai_2022/202203.files/220308.pdf
  15. 『堺環濠都市遺跡』 : 戦国を歩こう - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/44332525.html
  16. その他の先人達 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/sakai/keisho/senjintachi/sonota.html
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  34. 第1章 歴史的風致形成の背景 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/rekimachi/rekimachi2_nintei.files/rekimachi2_2.pdf
  35. 9 3.歴史的特性 (1)歴史的背景 ①古代 堺の地に人が生活した痕跡は - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/rekimachi/gijiroku_haifu/rekimachi_shiryo_23.files/rekishi_fuchi_shiryo_27_02.pdf
  36. 堺環濠都市遺跡 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/isekishokai/kangotoshi.html
  37. 石田三成の実像378 「三成と堺」5 堺の環濠を復活させた「黄金 ... https://ishi1600hisa.seesaa.net/article/200910article_28.html
  38. 堺市歴史的風致維持向上計画 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/rekishi/bunkazai/bunkazai/oshirase/rekimachi_pubcome_kekka.files/rekimachi1-2.pdf
  39. 信長を支え続けた政商・今井宗久が辿った生涯|信長・秀吉の茶頭 ... https://serai.jp/hobby/1138839
  40. 第 51話 〜津田宗及 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/051.html
  41. 堺茶の湯まちづくり事業 - 堺市 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/bunka/art_kanrenjigyo/tyanoyu_machidukuri/index.html
  42. 千利休と秀吉の確執~侘び茶から始まる抹茶文化の変遷 | 知覧一番山農園ブログ https://blog.chirancha.net/725/
  43. 堺から日本へ!世界へ!泉州・堺の石工、すずめ踊り https://jsmaeda.stars.ne.jp/sakainoisikua.htm
  44. 堺環濠都市(さかいかんごうとし)遺跡 - 大阪府 https://www.pref.osaka.lg.jp/o180150/sakaikangotoshiiseki.html
  45. 【第69回】南蛮貿易都市「堺」(Sakai)《其ノ二》―自由自治都市・堺の環濠と四人の天下人《後篇》[出世人]豊臣秀吉公と[苦労人]徳川家康公― | 株式会社有田アセットマネジメント https://aam.properties/column/history/9928.html
  46. 職人のまち|特集 - 堺観光ガイド https://www.sakai-tcb.or.jp/feature/detail/3
  47. はじまりのまち堺 - 昭和被服 https://showa129.jp/about/