最終更新日 2025-09-22

大友氏衰退顕在化(1587)

1587年豊薩合戦で大友氏の衰退が顕在化。耳川の敗北、宗麟のキリスト教傾倒による家中亀裂、二頭政治の歪みが複合し、島津侵攻で内部崩壊した。
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豊薩合戦と大友氏の落日:1587年、衰退顕在化の時系列分析

序章:落日の予兆 – 崩壊への序曲

天正15年(1587年)、豊後国を舞台に繰り広げられた一連の事変は、九州に覇を唱えた名門・大友氏の衰退を決定的に天下に示す出来事であった。しかし、この崩壊は突如として訪れたわけではない。その根源は、約10年前に遡る天正6年(1578年)の「耳川の戦い」にあり、そこから続く軍事的権威の失墜、宗教をめぐる家中の深刻な亀裂、そして父子二頭政治がもたらした統治機構の機能不全という、三つの根深い問題に蝕まれた必然の帰結であった。本報告書は、1587年の危機が、いかにしてこの長期にわたる内部崩壊のプロセスを経て顕在化したのかを、時系列に沿って徹底的に分析するものである。

第一節:耳川の戦い(天正6年/1578年) – 栄光の終焉

かつて九州六ヶ国に影響力を及ぼした大友氏の栄光が、その頂点で脆くも崩れ去る転換点、それが日向国高城川原で起こった耳川の戦いであった 1 。この戦いは、薩摩・大隅・日向の三州統一を成し遂げ、破竹の勢いで北上する島津氏との宿命的な衝突であった 3

大友宗麟は、島津氏に敗れて豊後に亡命してきた日向の伊東義祐を庇護し、その旧領回復を名目に大軍を日向へ派遣した 2 。しかし、この遠征には宗麟自身のキリスト教への深い傾倒が影響しており、日向にキリスト教の理想郷を建設するという壮大な野望が背景にあったとされる 4 。宗麟の意向により、大友軍は進軍の過程で現地の神社仏閣を徹底的に破壊し、これは伝統的な価値観を持つ多くの家臣たちの士気を著しく低下させた 4

天正6年11月、高城を包囲する大友軍に対し、島津義久率いる援軍が到着。両軍は高城川を挟んで対峙した。島津軍は、偽りの退却で敵を誘い込む得意戦術「釣り野伏せ」の形をとり、大友軍を有利な戦場へと引きずり込んだ 2 。焦る大友軍の将兵は統制を失い、無秩序に渡河を開始。その瞬間、潜んでいた島津の伏兵が一斉に襲いかかり、大友軍は包囲殲滅されるに至った 2

この一戦で大友氏が受けた損害は、単なる兵力の損失にとどまらなかった。田北鎮周、佐伯惟教、角隈石宗、斎藤鎮実、吉弘鎮信といった、長年にわたり大友家を支えてきた譜代の重臣たちが軒並み討死したのである 2 。これは大友氏の軍事的中核と統治機構そのものの崩壊を意味した。この壊滅的な敗北の報は、九州全土に衝撃を与えた。これまで大友氏の強大な軍事力を背景に従属していた筑前や筑後の国人衆は、大友氏の弱体化を目の当たりにし、一斉に離反を開始する 9 。九州最強と謳われた大友氏の権威は地に堕ち、その広大な領国は、内側から急速に崩れ始めたのである。

第二節:宗麟の信仰と家中の亀裂 – キリスト教という名の楔

耳川の戦いを引き起こした遠因の一つである大友宗麟のキリスト教への傾倒は、大友家の内部に修復不可能な亀裂を生じさせていた。当初、宗麟が宣教師を保護したのは、鉄砲や火薬、そして南蛮貿易がもたらす莫大な利益が目的であった 2 。しかし、フランシスコ・ザビエルとの会見を機に、彼は次第にキリスト教の教義そのものに深く心を奪われていく 8

宗麟の信仰は、やがて政治や軍事の領域にまで深く浸透し始める。彼は自らの領国である豊後に、日本初の西洋式病院を設立するなど、南蛮文化を積極的に導入し、府内を国際都市として繁栄させた 12 。しかしその一方で、彼の過度なキリスト教への傾倒は、深刻な軋轢を生んだ。特に、正室であった奈多夫人との対立は決定的であった。奈多夫人は八幡奈多宮大宮司の娘であり、日本の伝統的な神仏を深く信仰していた。二人の宗教的対立は、最終的に離縁という形で決着し、宗麟は「妻かキリストか」という選択でキリストを選んだ 11

この一件は、大友家臣団をキリシタン派と反キリシタン派に二分する象徴的な出来事となった。家臣団の中には、主君の信仰に倣いキリシタンとなる者もいたが、多くは旧来の信仰を守り、宗麟の行動に強い反発と不信感を抱いた 5 。耳川の戦いにおける神社仏閣の破壊は、この対立をさらに激化させた。重臣たちの多くが遠征に反対したにもかかわらず、宗麟が腹心である田原紹忍一人の賛同を得て出兵を強行したことは、家中の意思統一が完全に失われていたことを示している 14 。このように、キリスト教という外来の価値観は、大友家の結束を内部から蝕む楔となり、来るべき国難において、家臣団が一致団結して敵に当たれない状況を作り出してしまったのである。

第三節:二頭政治の歪み – 父と子の断絶

大友家の混乱に拍車をかけたのが、宗麟とその嫡男・義統による「二頭政治」という歪な統治体制であった。天正4年(1576年)、宗麟は隠居して家督を義統に譲ったが、その後も政治・軍事における実権は手放さなかった 5 。この不完全な権力移譲は、指揮系統の混乱を招き、当主であるはずの義統の権威を著しく損なう結果となった。

大友義統は、父・宗麟を深く尊敬し、その行動を手本にしようと努めていたとされる 14 。しかし、彼は偉大な父と、その父と対立する母・奈多夫人との間で板挟みとなり、強力なリーダーシップを発揮することができなかった 5 。彼の性格は、後世の史料で「不明懦弱(ふめいだじゃく)」、すなわち物事の判断ができず気弱である、と評されている 16 。彼自身も、後に宣教師に対して自らを「意志薄弱で優柔不断な性分」と語っており、国家存亡の危機を乗り越えるべき当主としての器量に欠けていたことは否めない 5

耳川の戦いは、通説では宗麟主導とされてきたが、近年の研究では、当時の領国に関する文書から宗麟の名が見られないことから、形式上の当主であった義統が主導したとする説も有力である 5 。もしそうであれば、この大敗の責任は義統にあることになるが、いずれにせよ、この敗戦を機に父子の対立はさらに深刻化し、家中の分裂を加速させた 5 。危機的状況において、大友家は父と子の二人の指導者の下で意思統一ができず、有効な対策を何一つ打ち出せないまま、衰退の坂道を転がり落ちていったのである。この約10年にわたる内部崩壊のプロセスこそが、島津氏の侵攻という外圧によって、1587年の破局的な事態を招く土壌を形成した。それは、外圧が引き金となった内部崩壊の典型的な事例であった。

第一章:嵐の前の九州 – 三つの力の交錯

豊薩合戦の火蓋が切られる前夜、九州の勢力図は劇的な変化の渦中にあった。島津氏の台頭、龍造寺氏の没落、そして中央の覇者・豊臣秀吉の介入。これら三つの力が複雑に交錯し、大友・島津両家の全面衝突を不可避なものとしていった。

第一節:島津の躍進と龍造寺の没落

長年にわたる一族内の抗争を克服した島津氏は、15代当主・貴久、そして16代当主・義久の時代に薩摩・大隅・日向の「三州統一」という悲願を達成した 19 。強固な一族の結束と、義久、義弘、歳久、家久の「島津四兄弟」を中心とする優れた軍事組織を背景に、その矛先は九州全土の制覇へと向けられた 21

その頃、九州北部では肥前の龍造寺隆信が「五州二島の太守」と称されるほどの勢力を誇っていた。これにより、九州の覇権争いは、南の島津、北東の大友、北西の龍造寺という三国鼎立の時代を迎えていた 3 。しかし、この均衡は天正12年(1584年)の「沖田畷の戦い」で突如として崩れる。島津・有馬連合軍は、数で圧倒的に優位な龍造寺軍を巧みな戦術で破り、総大将である龍造寺隆信自身を討ち取るという大金星を挙げた 23

総大将を失った龍造寺氏は急速に衰退し、九州の覇権争いから脱落する 26 。この結果、九州の政治地図は、大友対島津という、より単純で先鋭的な対決の構図へと塗り替えられた。島津氏にとって、龍造寺氏という西の脅威が消滅したことは、後顧の憂いなく、全戦力を東の大友領攻略に集中できるという、計り知れない戦略的優位をもたらしたのである。

第二節:天下人・秀吉の介入と「惣無事令」

耳川の戦い以降、領内の国人衆の離反が相次ぎ、もはや自力で島津の圧迫に対抗できなくなった大友宗麟は、最後の望みを中央の新たな覇者、豊臣秀吉に託した 1 。天正14年(1586年)、宗麟は自ら大坂城に赴いて秀吉に謁見し、豊臣家の傘下に入ることを条件に、軍事的な支援を懇願した 23

この要請を受け、天正13年(1585年)10月、関白に就任したばかりの秀吉は、朝廷の権威を背景として九州の諸大名に対し、私的な戦闘を禁じる「惣無事令(九州停戦令)」を発布した 23 。これは、秀吉が天下統一事業の一環として、九州を自らの支配下に組み込もうとする明確な意思表示であった。大友氏にとって、この停戦命令はまさに干天の慈雨であり、即座にこれを受諾した。

しかし、九州統一を目前にしていた島津義久にとって、この命令は到底受け入れられるものではなかった。島津氏は、秀吉が武士ですらない低い出自であることを理由に、その関白としての権威を公然と認めず、停戦命令を事実上黙殺した 23 。秀吉が提示した九州の領土分割案も一蹴し、「秀吉の軍勢が九州に上陸する前に、力ずくで全土を制覇する」という強硬策を選択する 30

この島津氏の決断は、秀吉の惣無事令が意図とは全く逆の結果をもたらしたことを示している。平和をもたらすはずの停戦命令は、むしろ島津氏に「残された時間は少ない」という強い危機感を抱かせ、大友領への侵攻を加速させる「アクセル」として機能してしまった。島津氏の戦略目標は、秀吉の本格的な軍事介入という既成事実が作られる前に、九州平定を完了させることにあった。惣無事令は、その時間的猶予がないことを彼らに突きつけたのである。こうして、大友氏を救うはずだった中央権力の介入は、皮肉にも豊薩合戦という全面戦争の引き金を引く役割を果たし、両者の衝突はもはや避けられない運命となった。

第二章:豊後蹂躙 – 島津軍の侵攻(天正14年/1586年10月~12月)

天正14年(1586年)秋、秀吉の惣無事令を無視した島津軍は、ついに大友氏の本国・豊後への全面侵攻を開始した。圧倒的な兵力と周到な調略の前に、かつて九州に君臨した大友氏の防衛線は、驚くべき速さで瓦解していく。それは、家臣団の相次ぐ裏切りと、一部の忠臣による絶望的な抵抗が織りなす、悲劇的な光景であった。

第一節:二方面からの侵攻作戦

天正14年10月中旬、島津軍は豊後を挟撃すべく、二手に分かれて進撃を開始した。一方は、総大将・島津義弘が率いる3万の大軍で、肥後方面から豊後西部へと侵入。もう一方は、勇将として名高い末弟・島津家久が率いる1万の軍勢で、日向方面から豊後南部へと迫った 23 。この二方面からの同時侵攻は、限られた兵力で広大な領国を守らなければならない大友方の防衛力を分散させ、各個撃破を狙う極めて効果的な戦略であった。

この軍事作戦をさらに容易にしたのが、大友家内部からの内応者の存在であった。大友氏の重臣であった入田義実と志賀親度は、かねてより島津方と通じており、侵攻が始まるとその先導役を積極的に務めた 17 。彼らの裏切りは、単なる個人的な離反にとどまらなかった。彼らは、同じく大友家に対して不満を抱いていた南部の有力国人衆(南郡衆)に対し、寝返りを促す工作を行ったのである 32 。これにより、大友氏の組織的抵抗は、戦端が開かれる前から内部で崩壊し始めていた。大友政権の中枢が、すでに求心力を完全に失っていたことの何よりの証左であった。

第二節:崩れゆく城、寝返る将

島津軍の快進撃は、大友家の「組織」としての崩壊を浮き彫りにした。軍事侵攻は、すでに存在していた亀裂を決定的に破壊する、最後の衝撃に過ぎなかったのである。

肥後口から侵攻した義弘軍は、内応者の手引きもあって、豊後西部の諸城を次々と攻略していった。10月22日には、志賀親次の家臣・佐田常任が守る高城を、水源を断つことで陥落させたのを皮切りに、鳥岳城、津賀牟礼城、高尾城などが雪崩を打って降伏、あるいは陥落した 31 。特に、大友氏の重臣・入田氏の旧居城であった津賀牟礼城では、城主の戸次統貞が戦わずして城を開け渡しており、大友方の士気の低さと戦意の喪失を象徴している 31

一方、日向口から侵攻した家久軍も、豊後南部を席巻した。11月4日には堅田(現在の佐伯市)において、大友方の佐伯惟定の奮戦により一時的に敗北を喫するも(堅田合戦)、すぐに体勢を立て直し、大友方の重要拠点である鶴賀城へと迫った 23

このドミノ倒しのような崩壊の中で、大友家への忠誠と武士の意地を示した者もいた。直入郡の山野城を守る朽網鑑康は、85歳という高齢にもかかわらず、果敢に島津軍に立ち向かった 31 。しかし、支城が次々と陥落し、鑑康自身も陣中で病死すると、跡を継いだ息子の鎮則はついに降伏し、城を開け渡した 31 。世代が代わる中で、大友家への忠誠心が薄れ、現実的な選択を迫られる国人たちの苦悩がそこにはあった。

第三節:岡城の孤塁 – 志賀親次の抵抗

大友家臣団の裏切りと降伏が相次ぐ中、ただ一人、敢然と島津の大軍に立ち向かい、最後まで忠節を貫いた武将がいた。岡城城主、志賀親次(親善)である 32 。当時わずか18歳の若き城主は、自らの一族である志賀親度らが島津方に寝返ったにもかかわらず、徹底抗戦の道を選んだ 1

岡城は、大野川と稲葉川、玉来川に囲まれた天然の要害であり、難攻不落の堅城として知られていた 31 。親次は、この地形的利を最大限に活かし、さらには城から打って出てゲリラ戦を展開するなど、巧みな戦術で島津軍を大いに苦しめた 29 。島津軍は三度にわたって総攻撃を仕掛けたが、親次はこれをことごとく撃退し、ついに城を落とすことはできなかった 34 。その奮戦ぶりは、敵である島津方を驚嘆させ、「難攻不落の城・岡」の名を天下に轟かせるとともに、後に豊臣秀吉から直接感状を与えられるほどの称賛を受けた 34

志賀親次の戦いは、大友家臣団の忠義が完全に失われたわけではないことを示す、暗闇の中の一筋の光であった。しかし、それは同時に、他の城が戦わずして降伏していく中で、彼の抵抗がいかに孤立無援であったかを浮き彫りにするものでもあった。組織としての統制を失った大友家において、個人の武勇や忠誠心だけでは、巨大な敵の侵攻という濁流を押しとどめることはできなかったのである。

島津軍による豊後主要城郭の攻略状況(天正14年10月~12月)

年月日 (西暦換算)

城名

守将

攻略軍

結果

典拠

1586年10月22日

高城

佐田常任

義弘軍

陥落

31

1586年10月下旬

鳥岳城

堀相模守

義弘軍

陥落 (守将戦死)

31

1586年10月下旬

津賀牟礼城

戸次統貞

義弘軍

降伏

31

1586年11月4日

(堅田)

佐伯惟定

家久軍

大友方勝利

23

1586年12月

山野城

朽網鑑康・鎮則

義弘軍

降伏 (鑑康病死後)

31

1586年10月~

岡城

志賀親次

義弘軍

抵抗継続

31

第三章:戸次川の悲劇(天正14年12月12日/1587年1月20日)

豊後国内の防衛線が次々と破られ、大友氏が滅亡の淵に立たされた天正14年(1586年)末、ついに豊臣秀吉が派遣した先遣隊が豊後に到着した。しかし、この援軍は希望の光となるどころか、大友氏の自力再建の望みを完全に断ち切る、未曾有の悲劇の引き金となる。豊薩合戦の天王山となった「戸次川の戦い」である。

第一節:援軍到着と作戦会議の不協和音

大友氏の救援要請に応じ、秀吉は四国を平定したばかりの諸将を先遣隊として派遣した。軍監(総司令官)には、秀吉子飼いの家臣である仙石秀久が任じられ、その麾下に土佐の長宗我部元親・信親親子、讃岐の十河存保ら、総勢約6千の四国勢が加わった 1

彼らに与えられた秀吉からの命令は、極めて明確かつ厳格なものであった。「豊臣本軍が九州に上陸するまで、決して城から打って出てはならない。防備を固め、籠城に徹せよ」 1 。これは、敵地での無謀な戦いを避け、万全の態勢で島津軍を叩くという、秀吉の慎重な戦略であった。

しかし、この命令は現場の指揮官によって反故にされる。島津家久率いる軍勢が、大友方の鶴賀城に猛攻を加え、城は落城寸前の危機に陥っていた 1 。この状況を前に、軍監の仙石秀久は功を焦る。彼は、秀吉の古参家臣として、四国平定で新たに豊臣配下となった歴戦の将たちを率いる立場にあった。彼らの前で手柄を立て、自らの権威を示したいという強い功名心と焦りが、秀吉の厳命を忘れさせた 35 。秀久は、鶴賀城を救援し、一気に島津軍と決戦を行うべきだと強硬に主張した 36

これに対し、長宗我部元親ら百戦錬磨の四国の将たちは、敵の戦術と現地の地形を考慮し、この作戦の無謀さを見抜いていた。彼らは、敵の罠である可能性が高いとして、戸次川を渡っての決戦に強く反対した 36 。しかし、秀吉から全権を委任された軍監という「中央の権威」を持つ秀久の決定を、彼らは覆すことができなかった。この時点で、連合軍の指揮系統は完全に破綻しており、意思統一がなされないまま、破滅的な作戦が強行されることになった。この悲劇は、寄せ集め軍が内包する構造的な脆弱性が、無能かつ功名心に駆られた指揮官によって最悪の形で露呈した結果であった。

第二節:島津家久の罠 – 「釣り野伏せ」

連合軍を待ち構えていたのは、島津家のお家芸とも言うべき必殺の戦術「釣り野伏せ」であった 38 。これは、中央の部隊が意図的に敗走を装って(釣り)、敵をあらかじめ伏兵を配置した有利な地形へと誘い込み、追撃してきた敵軍の側面を両翼の伏兵(野伏)が強襲し、反転した中央部隊と共に三方から包囲殲滅するという、極めて高度な偽装退却戦術である 25

この戦術を成功させるには、兵士一人ひとりが作戦を完全に理解し、偽りの敗走を演じきる統率力と、一糸乱れぬ連携が不可欠であり、島津軍の兵の練度の高さを物語っている 41 。そして、この戦いで島津軍を率いた島津家久は、祖父・忠良から「軍法戦術に妙を得たり」と評されたほどの戦術家であり、この「釣り野伏せ」の達人であった 39 。彼は、連合軍が必ずや鶴賀城救援のために戸次川(現在の大野川)を渡ってくることを見越し、川岸に周到に伏兵を配置し、完璧な罠を仕掛けて待ち構えていたのである 29

第三節:渡河、そして壊滅

天正14年12月12日(西暦1587年1月20日)、仙石秀久の独断により、豊臣・大友連合軍は戸次川の渡河を開始した 1 。彼らの目に映ったのは、数に劣る島津軍が早々に退却していく姿であった。勝利を確信した秀久は、追撃を命じる。

しかし、それこそが家久の狙いであった。連合軍の主力が川を渡り終え、陣形が伸びきったその瞬間、退却していたはずの島津軍が突如として反転し、雄叫びと共に襲いかかった。同時に、川の両岸に潜んでいた伏兵が連合軍の側面を強襲。三方向から完全に包囲された連合軍は、一瞬にして大混乱に陥った 38

組織的な抵抗は不可能であった。特に、現地の川の流れや地形に不案内な四国勢の被害は甚大で、多くの兵士が武器を捨てて逃げ惑い、冬の冷たい川に落ちて溺死した 1 。この阿鼻叫喚の地獄絵図の中、長宗我部元親が将来を嘱望した嫡男・長宗我部信親と、勇将として知られた十河存保が奮戦の末に討死するという悲劇が起こった 1

この戦いで連合軍は1,000人を超える死者を出し、壊滅的な敗北を喫した 42 。そして、この作戦を強行した張本人である仙石秀久は、味方の壊滅を目の当たりにするや、真っ先に戦場から逃亡し、自領である讃岐まで落ち延びていった。大友氏にとって最後の希望であったはずの豊臣先遣隊は、こうして豊後の地で跡形もなく消え去ったのである。

第四章:二人の当主、二つの城 – 絶望の中の選択

戸次川での壊滅的な敗北の報は、大友家の首脳陣を絶望の淵へと突き落とした。最後の希望であった豊臣の援軍は消え、島津軍の豊後府内への道を開いてしまった。この国家存亡の危機に際し、大友家の二人の指導者、すなわち当主・大友義統と、隠居した父・大友宗麟は、全く対照的な行動をとる。その選択は、大友家の混乱と終焉を象徴するものであった。

第一節:当主・義統の逃走

戸次川での敗戦を知った当主・大友義統の行動は、迅速であったが、それは敵に向かうものではなかった。彼は、大友氏が代々本拠地としてきた豊後府内館を、戦うことなくあっさりと放棄し、北へと逃亡したのである 18 。一国の主が、首都を敵に明け渡して逃げるという前代未聞の行動は、残された家臣や領民の信頼を根底から覆すものであった。

この逃走劇には、彼の当主としての器量の欠如を物語る逸話が残されている。府内を脱出した後、義統は寵愛する妾を館に残してきたことを思い出し、家臣の一人にその救出を命じた。家臣は危険を冒して命令を遂行したが、義統が恩賞を与えようとすると、その家臣は「私は女一人を助けたに過ぎません。この戦で多くの同胞が命を落としたというのに、何の面目がありましょうか」と述べ、恩賞を固辞したという 18 。国家の危機よりも私情を優先するその姿は、彼に最後まで付き従った家臣たちをも失望させたに違いない。この行動は、彼に対する「不明懦弱」という評価を決定的なものとした 16

第二節:隠居・宗麟の最後の抵抗

当主である息子が本拠地を捨てて逃走する一方、隠居の身であった父・宗麟は、全く異なる道を選んだ。彼は自らの居城である臼杵城(丹生島城)に籠城し、迫り来る島津軍を迎え撃つ覚悟を決めたのである 1 。当時の臼杵城は、三方を海に囲まれ、干潮時にのみ陸続きとなる天然の要害であった 45

宗麟には、この城と共に最後の切り札があった。それは、かつて彼が南蛮貿易を通じてポルトガルから入手した、当時最新鋭の兵器であるフランキ砲(大砲)であった 45 。宗麟自らが「国崩し」と命名したこの大砲は、臼杵城の防衛の要として据えられていた 48 。島津軍が城に殺到すると、この「国崩し」が轟音と共に火を噴いた。日本において本格的な攻城戦で大砲が使用された最初の例とも言われるこの砲撃は、島津軍に絶大な効果を発揮した。その凄まじい破壊力と、兵士たちが経験したことのない轟音は、島津の屈強な兵士たちを恐怖に陥れ、多大な損害を与えて退却を余儀なくさせた 46

「国崩し」の圧倒的な火力と、城そのものの堅固さにより、宗麟は島津軍の猛攻を最後まで凌ぎきり、臼杵城を守り抜くことに成功した。この最後の抵抗は、かつて九州の覇者であった男の意地を示すものであった。

しかし、この一連の出来事は、極めて皮肉な構図を浮かび上がらせる。宗麟が家臣団の離反を招く一因となった「キリスト教保護」と「南蛮貿易」という政策が、結果として彼に「国崩し」という最新テクノロジーをもたらし、彼個人の命を救ったのである。最新兵器は宗麟一人を救うことはできたが、彼がその政策によって結束を失わせた大友家という「組織」全体を救うことはできなかった。優れた兵器や技術も、それを運用する強固な組織と人心掌握がなければ、国家の存続には繋がらない。当主・義統の逃走は、その「組織」の頂点がすでに崩壊していたことを、何よりも雄弁に物語っていた。

第五章:天下人の到来 – 九州平定(天正15年/1587年3月~5月)

大友氏が滅亡寸前に追い込まれ、豊後の地が島津の軍馬に蹂躙される中、ついに中央の巨人、豊臣秀吉が動いた。弟の秀長を総大将とする先発隊に続き、秀吉自らが率いる本隊が九州に上陸。その兵力は20万とも言われ、九州の戦局は一瞬にして、そして決定的に覆されることとなる。

第一節:豊臣本軍の進撃

天正15年(1587年)3月、豊臣軍は九州平定に向けた大規模な作戦を開始した。秀吉は、弟の豊臣秀長に10万の軍勢を預け、豊後から日向へと南下する東ルートを進軍させた。一方、秀吉自身は10万以上の本隊を率い、筑前から肥後、そして島津の本拠地である薩摩を目指す西ルートを進んだ 51 。この圧倒的な物量による二方面作戦は、島津軍の兵力を分散させ、抵抗の意志そのものを粉砕するものであった。

豊臣本軍の九州上陸の報は、島津方についていた九州各地の国人衆を震撼させた。彼らは勝ち馬に乗るべく、次々と島津氏を見限り、豊臣方に寝返った 29 。これにより、九州統一を目前にしていた島津軍は急速に孤立していく。豊後府内を占領していた島津義弘・家久の軍も、秀長軍の接近を知ると、3月15日に府内からの撤退を開始せざるを得なかった 52

第二節:根白坂の決戦と島津の降伏

豊臣軍の猛進に対し、島津軍は最後の組織的抵抗を試みる。秀長軍が日向の要衝・高城を包囲すると、島津義久・義弘らはこれを救援すべく、都於郡城から出陣した 52 。天正15年4月17日、島津軍は根白坂に布陣する豊臣軍の陣地に夜襲をかけた。これが、九州の覇権を決する最後の決戦「根白坂の戦い」である 29

しかし、宮部継潤らが守る豊臣方の陣地は堅固であり、島津軍の猛攻をよく防いだ。夜が明けると、豊臣秀長の本隊が到着し、形勢は逆転。島津軍は大敗を喫し、多くの将兵を失った 29

この敗戦により、島津氏は組織的な抵抗力を完全に喪失した。九州平定の夢が潰えたことを悟った島津義久は、降伏を決断する。彼は自ら剃髪して龍伯と号し、天正15年5月8日、薩摩川内の泰平寺に本陣を置いていた秀吉のもとへ出頭し、正式に降伏した 52 。ここに、天正14年から続いた豊薩合戦、そして秀吉による九州平定は終結したのである。

第三節:戦後処理 – 新たな秩序の構築

九州全土を平定した秀吉は、新たな支配秩序を構築するための「九州国分(領地再配分)」に着手した 52 。最後まで抵抗した島津氏に対しては、その武勇を評価しつつも、領地を薩摩・大隅、そして日向の一部である諸県郡に大幅に削減するという厳しい処分を下した 53

一方、この戦役の発端となった大友義統は、豊後一国を安堵された。形式上は旧領を回復した形となったが、その内実は大きく異なっていた。もはや彼は独立した戦国大名ではなく、豊臣政権という巨大な中央権力に組み込まれた一大名に過ぎなかった。

そのことを象徴するのが、大友家臣・立花宗茂への処遇である。岩屋城で壮絶な討死を遂げた高橋紹運の子であり、立花道雪の養子となった宗茂は、豊薩合戦において卓越した武勇を示した。秀吉はこれを高く評価し、宗茂を大友家から独立させ、筑後柳川13万石の大名として取り立てたのである 52

この処置は、大友氏にとって「救済」がもたらした実質的な「解体」であった。秀吉の九州平定は、大友氏を島津の脅威から救うことが主目的ではなく、九州全土を豊臣政権の支配下に組み込むことにあった。その過程で、最も有能な家臣であった立花宗茂を切り離すことは、大友氏の軍事力を意図的に削ぎ、当主の権威を相対的に低下させる、秀吉の巧みな政治戦略であった。1587年の事変は、大友氏にとって「島津による物理的な滅亡」を免れる代わりに、「豊臣による支配体制への組み込みと弱体化」という新たな運命を受け入れる、決定的な転換点となった。戦国大名としての魂は、事実上、この時に終わったと言えるだろう。

終章:救済と滅亡 – 大友家の最終的末路

豊臣秀吉による九州平定は、大友氏を滅亡の淵から救い出した。しかし、それは延命措置に過ぎなかった。1587年の事変で一度失われた権威と信頼、そして当主が露呈した器量の欠如は、もはや取り戻すことができず、衰退は決定的なものとなっていた。かろうじて保たれた命脈は、わずか数年後に、より無残な形で断ち切られることになる。

第一節:宗麟の死と時代の終わり

九州平定が成り、豊後の地に一応の平穏が戻った直後の天正15年(1587年)5月、大友宗麟は臼杵の地でその波乱に満ちた生涯を閉じた 1 。キリスト教を保護し、南蛮文化を積極的に取り入れ、一時は九州六ヶ国を支配下に置くほどの勢力を築き上げた稀代の戦国大名であった。彼の死は、良くも悪くも大友氏の一時代が完全に終わりを告げたことを象徴する出来事であった。

第二節:文禄の役と最後の失態

父・宗麟の死後、大友義統は豊臣政権下の一大名として生き残りを図る。天正20年(1592年)、秀吉が引き起こした文禄の役(朝鮮出兵)に、義統も6千の兵を率いて従軍した 5 。しかし、この異国の地で、彼は大友家にとどめを刺す致命的な失態を犯す。

朝鮮半島において、義統が率いる部隊の近くで、小西行長の軍が明の大軍に包囲され、危機に陥った。行長は義統に再三援軍を要請したが、義統はこれを黙殺。行長が戦死したという誤報を信じ、敵前逃亡したとされている 5 。結果的に行長は自力で脱出に成功したが、義統が友軍を見捨てて逃げたという事実は、秀吉の逆鱗に触れた。

文禄2年(1593年)、秀吉は義統に対し、豊後一国を没収し、大名としての家を取り潰す「改易」という最も厳しい処分を命じた 5 。鎌倉時代以来、400年以上にわたって豊後の地を治めてきた名門・大友氏は、ここに戦国大名としての歴史の幕を完全に閉じたのである。

第三節:滅亡の必然性

義統の改易は、表向きは朝鮮での失態が理由とされている。しかし、その背景には、豊後国を豊臣家の直轄地(太閤蔵入地)とし、朝鮮への重要な兵站拠点として確保したいという、秀吉の冷徹な政治的計算があったことも指摘されている 5

しかし、たとえこの失態がなかったとしても、大友家の滅亡は避けられなかったかもしれない。豊薩合戦において本拠地・府内を戦わずして放棄した一件をはじめ、義統が当主としての器量を決定的に欠いていたことは、誰の目にも明らかであった。彼はもはや、秀吉が構築する新たな天下において、有用な駒ではなかった。1587年の事変で露呈したリーダーシップの欠如が、数年後の改易という最終的な結末を招いたのは、ある意味で必然であった。

結論として、「大友氏衰退顕在化(1587)」という事変は、単なる一地方大名の興亡史にとどまるものではない。それは、戦国乱世が終わりを告げ、豊臣政権という新たな中央集権体制が、地方の旧来の権力を飲み込み、再編していく時代の大きな転換点を象徴する出来事であった。この事変を通じて、大友氏は自力で領国を維持する能力がないことを天下に示し、その結果、中央権力の介入によって存続を許されるという、戦国大名としての独立性を完全に喪失した。秀吉は、大友氏を救うという名目で九州に介入し、島津を屈服させ、最終的には大友氏そのものをも自らの支配体制下に組み込み、そして用済みとなれば容赦なく切り捨てた。大友氏の衰退は、島津氏というライバルの台頭だけでなく、戦国時代そのものの終焉という、より大きな歴史の潮流の中で捉えるべきであり、1587年は、その抗いがたい潮流が大友氏を飲み込んだ、決定的な年であったと言えるだろう。

引用文献

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