最終更新日 2025-09-13

大坂城下町整備(1583)

天正十一年、豊臣秀吉は賤ヶ岳の戦い後、大坂城築城と並行し城下町を整備。地政学的優位性を活かし、計画的な都市開発と商業振興で全国から商人誘致。大坂は「天下の台所」の基礎を築いた。
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天正十一年 大坂城下町整備の胎動:天下人・秀吉による新時代の都市創造、そのリアルタイム・クロニクル

序章:天下統一の礎、大坂の黎明

本報告書は、天正11年(1583年)という日本の歴史における画期的な年に行われた「大坂城下町整備」について、その事象を多角的な視点から詳細に解明することを目的とする。単に城が築かれ、町が形成されたという事実の追認に留まらず、その背景にある政治的力学、秀吉の都市計画思想、経済的意図、そして動員された人々の動態を、可能な限り時系列に沿って再構成し、あたかもその時代をリアルタイムで追体験するかのような形で提示する。

天正11年は、羽柴秀吉が賤ヶ岳の戦いで織田家中の最有力ライバルであった柴田勝家を破り、亡き主君・織田信長の後継者としての地位を事実上確立した年である 1 。この軍事的勝利の直後、間髪を入れずに開始された大坂城及び城下町の建設事業は、単なる新たな居城の構築を意味するものではなかった。それは、旧来の権力構造を刷新し、新たな全国政権の首都を創造するという、秀吉の壮大な天下統一事業の物理的な発露であった。本報告書は、この歴史的事業の全貌を、その胎動の瞬間から克明に描き出すものである。

第一章:大坂、天命の地 ― なぜ秀吉はこの地を選んだのか

秀吉が大坂を新たな本拠地として選定した理由は、複合的かつ戦略的な思考に基づいている。それは、地政学的な優位性、先人の構想の継承、そして軍事的な要害性という三つの要素に大別できる。

地政学的重要性 ― 水運の結節点

大坂の地が持つ最大の利点は、その比類なき水運の便にあった。上町台地の北端に位置するこの地は、京都から流れる淀川水系と、西国へと繋がる瀬戸内海水運が交わる結節点であった 3 。当時の日本の二大都市であった政治の中心・京都と、国際貿易港として栄える商業の中心・堺の中間に位置し、双方に近接しているという地理的条件も絶妙であった 3 。この立地は、全国からの物資が集散する中継地としての絶大な潜在能力を秘めており、後の時代に「天下の台所」として日本の経済を支えることになる大坂の繁栄は、この地理的優位性の上に築かれたと言っても過言ではない 4 。秀吉は、武力による天下統一と並行して、全国的な物流ネットワークを掌握することの重要性を深く認識しており、大坂こそがその中核を担うにふさわしい地であると見抜いていたのである。

織田信長の構想の継承

秀吉の大坂選定は、独創的な着想であると同時に、亡き主君・織田信長の構想を正統に継承する行為でもあった。信長は、一向一揆の拠点であった石山本願寺と11年にも及ぶ熾烈な抗争(石山合戦)の末、ついにこの地を支配下に収めた 6 。信長自身、この地の戦略的重要性を高く評価し、将来的に安土城から本拠地を移す構想を抱いていたとされる 6

秀吉がこの事実を知悉していたことは想像に難くない。彼が大坂に信長の安土城を遥かに凌駕する壮大な城を築くことを決意した背景には 6 、二つの深謀があったと考えられる。一つは、信長の遺志を継ぐ正統な後継者であることを天下に示すという政治的メッセージである 7 。もう一つは、その主君の構想を規模においても壮麗さにおいても超越することで、自らが信長をも超える新たな時代の支配者であることを宣言する野心である。大坂城の建設は、信長への敬意と自己顕示が同居した、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。

要害としての地形 ― 石山本願寺の遺構活用

大坂の地は、上町台地の北端に位置し、東、北、西の三方を淀川の分流や湿地帯に囲まれた天然の要害であった 3 。この防御に適した地形は、信長を11年もの長きにわたり手こずらせた石山本願寺が、難攻不落の要塞寺院として機能したことからも証明されている。

秀吉はこの地の軍事的価値を最大限に活用した。石山本願寺は単なる寺院ではなく、幾重にも巡らされた堀や土塁を持つ、実質的な城郭であった 6 。秀吉は、これらの既存の防御施設を破却するのではなく、むしろ積極的に再利用し、造成の基礎とすることで、築城にかかる時間と労力を大幅に短縮することに成功した 6 。この選択は、秀吉の合理主義的な精神を反映している。さらに、かつて信長に最後まで抵抗した勢力の象徴的な拠点を物理的に覆い隠し、その上に自らの巨大な権威の象徴を打ち立てることは、過去の抵抗の記憶を完全に払拭し、豊臣の世の絶対性を知らしめるという、強烈な象徴的操作でもあった。大坂選定は、地政学的・軍事的な合理性と、過去を否定し未来を創造するという象徴的行為が、分かちがたく結びついた戦略的な決定だったのである。

第二章:賤ヶ岳の激闘 ― 覇権掌握と新拠点構想の胎動(天正11年4月~8月)

天正11年の大坂城下町整備は、その年の春に起こった賤ヶ岳の戦いにおける羽柴秀吉の決定的勝利なくしては語れない。この戦いは、秀吉に信長の後継者としての地位を不動のものとさせ、新たな国家構想を具現化させるための政治的・軍事的基盤を与えた。

賤ヶ岳の戦いと政治的地位の確立(4月)

本能寺の変後の織田家の後継者問題を話し合った清洲会議において、秀吉は柴田勝家との対立を深めていた 2 。天正11年4月、両者の対立はついに近江国賤ヶ岳での軍事衝突に至る。戦局が膠着する中、秀吉は美濃大垣城で対陣していた織田信孝の動きに対応するため、一時的に主力を移動させた。この隙を突いて勝家方の佐久間盛政が攻勢に出るが、この報を受けた秀吉は驚くべき機動力を見せる。大垣から賤ヶ岳までの約52キロメートルの道のりを、わずか5時間で走破して戦場に急行したのである 2 。この「美濃大返し」と呼ばれる神速の行軍により、虚を突かれた柴田軍は総崩れとなり、秀吉は圧勝を収めた。

この勝利の意義は計り知れない。敗走した勝家は本拠地の越前・北ノ庄城で妻のお市の方とともに自害し 2 、秀吉に対抗しうる織田家中の最大勢力は消滅した。これにより、秀吉は織田信長の実質的な後継者、すなわち天下人への道を切り拓いたのである 1

戦後処理と大坂への道(5月~8月)

賤ヶ岳での勝利後、秀吉は迅速に戦後処理を進め、自らの支配体制を固めていった。そして、勝利からわずか1ヶ月後の5月末から6月初め頃には、早くも大坂に入っていることが『多聞院日記』などの史料から確認できる 13 。この行動の速さは、秀吉が軍事的勝利に安住することなく、すぐさま次の政治的段階、すなわち恒久的な統治拠点の建設へと意識を移行させていたことを示している。

この動きは、秀吉の卓越した戦略的思考を物語っている。軍事的勝利という一過性の「事実」を、永続的な権威の「象徴」である巨大城郭と、政権の経済的基盤となる商業都市へと、間髪入れずに転換しようとしたのである。戦場で発揮された「美濃大返し」の驚異的な機動力と組織動員能力は、そのまま大規模な都市建設プロジェクトにも応用された。その証拠に、『河路佐満太氏所蔵文書』によれば、8月7日には早くも大坂での普請のために近江から諸職人を召集しており 13 、戦争と都市建設が、秀吉の中では同じ組織論理に基づいた連続的な事業として捉えられていたことが窺える。賤ヶ岳の勝利は、大坂という新たな舞台で、秀吉がその構想力と実行力を最大限に発揮するための序曲であった。

第三章:天正十一年の胎動 ― 大坂城築城と城下町整備のリアルタイム・クロニクル(天正11年8月~12月)

賤ヶ岳の戦勝を経て、天下人への道をひた走る秀吉は、天正11年の後半、そのエネルギーの全てを新拠点・大坂の建設に注ぎ込んだ。その動きは驚くほど迅速かつ計画的であり、城郭の建設と城下町の整備が同時並行で進められた。当時の史料から、そのリアルタイムな進行を追うことができる。


表1:大坂城下町初期整備 主要事象年表(天正11年 / 1583年)

年月日

事象

内容

典拠史料・文献

4月21日

賤ヶ岳の戦い

秀吉が柴田勝家を破り、織田家中の主導権を確立。

13

5月末~6月初

大坂入城

秀吉、戦後処理を終え、新本拠地となる大坂に入る。

13

8月7日

職人召集

大坂普請のため、近江より諸職人を集めるよう命じる。

13

8月19日

兵站準備

築城用の石材を運ぶための「石曳きの道」の整備を命じる。

13

8月28日

規則制定

「築城掟書」を発布し、普請における詳細なルールを定める。

13

8月30日

武家地造成

細川忠興らの武家屋敷の敷地普請が完了(建物は仮屋状態)。

13

9月1日

築城開始

大坂城の本格的な築城工事(手伝普請)に着手。

13

9月1日

町人地形成

平野郷などから移住した町人により、四天王寺方面に町屋が形成され始める。

13

(時期不明)

町人地形成

高麗橋通り方面にも、奥行き20間の規格化された町人地が建設される。

13


築城準備と掟書の発布(8月)

大坂に入った秀吉は、まず築城という巨大プロジェクトの基盤固めから着手した。8月19日には、普請の生命線である資材運搬路、すなわち「石曳きの道」の整備が命じられた 13 。これは、兵站を最優先する秀吉の合理的な思考の表れである。続いて8月28日には「築城掟書」が発布され、工事の規律や手順が厳格に定められた 13 。これにより、全国から動員されるであろう膨大な数の人夫や職人を、混乱なく統制するための制度的枠組みが整えられた。

普請の開始と「手伝普請」(9月1日~)

全ての準備が整った9月1日、大坂城の本格的な築城工事が開始された 13 。この普請は、秀吉の支配下にある、あるいは服従を誓った諸大名に対し、その石高に応じて人足や資材の提供を義務付ける「手伝普請」(天下普請)という形式がとられた 6

この手伝普請は、単に労働力を確保するための手段ではなかった。それは、諸大名に多大な財政的負担を強いることでその力を削ぎ、豊臣政権への経済的・軍事的な従属を促すという、極めて高度な政治的意図を含んでいた 15 。全国の大名が、秀吉の命令一下、大坂という一つの場所に動員され、新時代の首都建設に奉仕させられること自体が、秀吉の権威を天下に可視化する壮大な儀式でもあったのである 16

城郭のグランドデザイン ― 黒田孝高の縄張り

この壮大な城郭の設計、すなわち「縄張り」を担当したのは、後に三大築城名人の一人と称されることになる軍師・黒田孝高(官兵衛)であった 7 。孝高は、石山本願寺の跡地が持つ地形的利点を最大限に活かし、台地を造成して堅固な石垣を築き、本丸を内堀と外堀で同心円状に囲むという、鉄壁の防御思想に基づいた縄張りを描いた 7 。その設計には、市街地から天守がよく見えるように配置を工夫するなど、権威を見せつける「見せる城」としての側面も考慮されていたと伝えられている 7

城下町の同時並行設計 ― 町割の実践

天正11年の大坂における最も注目すべき点は、城郭の建設と城下町の整備が、完全に一体の計画として、しかも同時並行で進められたことである。これは、当時の都市計画としては極めて先進的なものであった。

その証拠に、築城が開始される前日の8月30日には、すでに細川忠興をはじめとする主要な大名の屋敷地(武家地)の敷地造成が完了していた 13 。これは、城の防御と不可分である武家屋敷群の配置が、築城計画の初期段階から組み込まれていたことを示している。

さらに驚くべきは、町人地の形成スピードである。『兼見卿記』によれば、築城開始と同日の9月1日には、大坂から四天王寺方面にかけて、早くも町屋が建ち並び始めていた 13 。これらの住民は、主に平野郷などから計画的に移住させられた町人たちであった。秀吉は、武力による強制移住だけでなく、堺や京都で活動していた先進的な商人たちを積極的に「誘致」する政策もとった 7 。経済的な自由や特権という「アメ」と、権力による「ムチ」を巧みに使い分けることで、短期間での人口集積と都市の活性化を図ったのである。

こうして形成された初期の町人地は、城に向かう南北の道(現在の上町筋と谷町筋の間)と、港へと繋がる東西の道(現在の高麗橋通り方面)に沿って、奥行き20間(約36メートル)という規格化された短冊状の敷地が整然と並ぶ形をとっていた 13 。この合理的な碁盤目状の区画整理(町割)は、後の船場地区の開発にも引き継がれ、現在の大阪都心部の都市構造の原型となったのである 22 。城と武家地と町人地を一つの統合された都市システムとして捉え、同時並行で建設を進めるという秀吉の手法は、彼の卓越した総合的プロジェクトマネジメント能力を如実に物語っている。

第四章:「天下の台所」の原型 ― 商業都市・大坂の設計思想

秀吉による大坂城下町の整備は、単なる自身の居城と家臣団の居住区の建設に留まらなかった。その根底には、来るべき統一国家の経済を牽引する、全く新しい商業都市を創造するという明確な設計思想が存在した。天正11年の時点では、まだ四国や九州の平定は完了していなかったが 23 、秀吉の都市計画は、すでに全国の富が大坂に集まる未来の経済システムを前提としていた。

経済特区としての都市設計

秀吉は、大坂に「経済特区」とも言うべき特別な恩恵を与え、楽市楽座の理念を発展させた自由な商業活動を奨励した 7 。これにより、旧来のしがらみから解放された新しいビジネスチャンスを求め、全国から野心的な商人や職人たちが大坂に殺到した。特に、当時最も先進的な商業都市であった堺や京都の豪商たちを大坂に住まわせたことは、決定的に重要であった 20 。これは単なる人口増加策ではなく、彼らが持つ莫大な資本、高度な商業ノウハウ、そして全国に張り巡らされた流通ネットワークを、そっくりそのまま大坂という新しい都市に移植する戦略であった。城の着工からわずか数十日で七千もの家屋が建ち並んだという逸話は 21 、安全な場所で自由に商売がしたいという人々の経済的欲求を、秀吉が都市開発の強力なエンジンとして利用したことの成功を物語っている。

計画的な産業配置

大坂の都市計画は、商業だけでなく、生産拠点としての機能も重視していた。近年の考古学調査により、豊臣期の大坂において、様々な手工業が特定の区画に集積していたことが明らかになっている 24 。例えば、刀鍛冶は大坂城南西部の武家地に近接するエリアに、船の建造に不可欠な船釘や碇を製造する鍛冶は、港に近く物流に便利な阿波座(あわざ)に集められていた 24 。また、銅の精錬や鋳物といった火を多用する産業も、計画的に配置されていたことが分かっている 24 。これは、単なる自然発生的な職人町の形成ではなく、製品の性質や需要、物流効率を考慮した、戦略的な産業ゾーニングが行われていたことを示唆している。

物流インフラの整備 ― 堀川の開削

秀吉の都市計画の独創性は、陸路だけでなく水路の整備にも及んだ。城下町の造成にあたり、東横堀川をはじめとする複数の運河が計画的に開削された 4 。この工事で掘り出された大量の土砂は、周囲の低湿地を埋め立てて宅地を造成するために利用され、一石二鳥の効果をもたらした 4 。これらの堀川は、都市の排水機能を担うと同時に、より重要な役割を果たした。それは、瀬戸内海から淀川を通って大坂に集まった物資を、船に乗せたまま市中の奥深くまで直接運び込むための大動脈としての機能である。これにより、大坂は水運の利を最大限に活かした「水の都」としての性格を帯び、物流コストを劇的に下げることで、商業都市としての競争力を飛躍的に高めることに成功した 4

蔵屋敷の萌芽

全国の富を大坂に集めるという構想を支える上で、決定的な役割を果たしたのが「蔵屋敷」の存在である。蔵屋敷とは、諸大名が自領で収穫した年貢米や特産物を大坂に運び込み、保管・販売して現金収入を得るための拠点施設である。その起源は豊臣政権期に遡り、この頃から有力な大名たちが大坂に蔵屋敷を設置し始めた 5 。天正11年の時点ではまだ散発的であったかもしれないが、秀吉の都市計画は、こうした蔵屋敷が集積する未来を明確に見据えていた。事実、江戸時代に入ると、中之島を中心に120を超える藩の蔵屋敷が建ち並び 5 、隣接する堂島では全国の米相場の基準となる米市場が開かれた 4 。大坂が名実ともに「天下の台所」となるための制度的・物理的基盤は、まさしく天正11年のグランドデザインの中にその萌芽を見出すことができるのである。

第五章:普請を支えた人々 ― 大名、奉行、職人、そして町人

天正11年の大坂城下町整備という空前の大事業は、秀吉一人の力で成し遂げられたものではない。そこには、彼の構想を実現するために動員された、様々な階層の人々の姿があった。この巨大プロジェクトは、戦国の流動的な社会から、近世のより固定化された身分社会へと移行する時代の姿を、都市という形で映し出す鏡でもあった。

手伝普請を担った大名たち

普請の主たる労働力と資材を提供したのは、秀吉に服従した全国の諸大名であった。彼らにとって「手伝普請」は、多大な経済的負担を強いられる過酷な義務であった 15 。しかし同時に、それは新たな支配者である秀吉への忠誠を示す絶好の機会でもあった。大名たちは、自らが担当した石垣に、責任の所在と後世への功績を示すため、固有の家紋などを刻んだ(刻印石) 28 。この大規模な共同作業は、期せずして藩という組織の一体感を醸成し、他藩の進んだ土木技術に触れる技術交流の場ともなった 15 。秀吉の権威の下、全国の大名が一つの目的のために動員されるという経験は、結果として近世の幕藩体制へと繋がる秩序形成の礎の一つとなったのである。

実務を支えた奉行たち

巨大で複雑なプロジェクトを円滑に運営するためには、優れた実務官僚(テクノクラート)の存在が不可欠であった。秀吉の下には、後に「五奉行」として豊臣政権の中枢を担うことになる、極めて有能な吏僚たちが集っていた。特に、石田三成や増田長盛といった人物は、この時期からすでにその頭角を現していた 29 。伝承によれば、増田長盛は土木、長束正家は財政といったように、それぞれが得意分野を持っており、築城や都市開発に関わる膨大な事務処理、資材調達、財政管理といったロジスティクスを的確に処理した 32 。彼らの卓越した行政手腕なくして、この迅速かつ大規模な事業の実現は不可能であっただろう。

全国から集った技術者集団

大坂城の建設には、当時の日本が誇る最高水準の技術が注ぎ込まれた 6 。それを担ったのが、全国から集められた専門技術者集団である。普請開始に先立って近江から召集された職人たちを皮切りに 13 、石垣を組む石工(近江の穴太衆などが有名)、巨大な建築物を建てる大工、そして武具や道具を作る鍛冶師など、多種多様な技術を持つ人々が動員された 15 。彼らは、それぞれの専門知識と経験を結集させ、秀吉が求める壮大で堅牢な城郭と機能的な都市を現実のものとした。この巨大プロジェクトは、日本の伝統的な土木・建築技術が集積し、さらなる発展を遂げるための画期的な機会ともなったのである 33

新都市の住民となった町人たち

そして、この新しい都市の真の主役となるのが、全国から移り住んできた町人たちであった。平野郷などから移住を命じられた人々や、新たな商機を求めて自らやってきた商人たちは、当初は仮住まいであったかもしれないが、やがて碁盤目状に美しく区画された新しい町で、それぞれの商売を始めた 13 。彼らは、単に都市の経済活動を担うだけでなく、そのコミュニティの運営主体でもあった。江戸時代の大坂で確立される「町年寄」を中心とした高度な町人自治の仕組みも、その原型はこの豊臣期に形成され始めたと考えられる 34 。武士の人口比率が極端に低い大坂の都市構造は、初期段階から町人による自治の気風を育む土壌となった。彼らの活力こそが、大坂を未来の「天下の台所」へと押し上げる原動力となったのである。

終章:豊臣の夢、徳川の世、そして現代へ ― 大坂城下町が遺したもの

天正11年に産声を上げた豊臣大坂城とその城下町は、その後、秀吉の天下統一事業の拠点として栄華を極めた。しかし、その栄光は長くは続かなかった。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣家は滅亡し、三国無双と謳われた壮麗な城も、活気に満ちた市街地も、ことごとく灰燼に帰したのである 3

豊臣期から徳川期への連続性と非連続性

豊臣氏に代わって天下の支配者となった徳川幕府は、大坂を直轄地とし、新たな城の再建に着手した。この徳川大坂城の築城は、豊臣の記憶を意図的に抹消するかのように進められた。豊臣期の石垣や堀は破壊され、その上から大規模な盛土を行い、全く新しい縄張りの上に、旧城を規模で圧倒する巨大な城郭が築かれたのである 8 。これは、豊臣の権威を徳川の権威が完全に上書きしたことを天下に示す、政治的・軍事的な権威の「非連続性」を象徴する行為であった。

しかし、城下町においては、異なる物語が展開された。市街地の建物は焼き払われたものの、秀吉が築いた都市の骨格、すなわち碁盤目状の道路網や物流の大動脈であった堀川といった都市基盤は、奇跡的に生き残った 22 。徳川幕府による大坂の復興事業は、この豊臣期の遺産を基礎として進められた。ここに、都市構造と経済機能における明確な「連続性」を見出すことができる。

この事実は、都市の歴史における「政治の論理」と「経済の論理」の相克と共存を示唆している。秀吉個人の権威と分かちがたく結びついた豊臣大坂城という「政治の象徴」は、政権の崩壊とともに破壊されなければならなかった。一方で、合理性と経済的利便性に基づいて設計された城下町という「経済の基盤」は、支配者が誰であろうとその価値を失わなかった。徳川幕府は、豊臣の政治的威光は徹底的に否定しつつも、その経済的遺産は巧みに継承し、自らの支配体制に組み込んだのである。

秀吉の都市計画の歴史的意義

天正11年の大坂城下町整備は、大坂が単なる一地方都市から、日本の経済を牽引する巨大商業都市へと飛躍する、まさにその原点であった 7 。秀吉が描いた都市のグランドデザインが持つ生命力は、豊臣政権という一代の政治体制の崩壊を乗り越え、徳川の世で「天下の台所」として見事に結実した。

秀吉の最大の遺産は、破壊され地下に眠る城ではなく、生き続けて発展した町の方であったと言えるかもしれない。そしてその遺産は、現代にまで受け継がれている。現在の大阪市中心部、特に船場や島之内といった地域の整然とした街路や区画には、400年以上前に羽柴秀吉と彼のブレーンたちが描いた、合理的で先進的な都市計画の痕跡が、今なお色濃く刻み込まれているのである 22 。天正11年の胎動は、現代日本の大都市のDNAとして、今も生き続けている。

引用文献

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  30. 政務に精通した「五奉行」増田長盛の生涯|「関ケ原の戦い」では西軍に与し、大坂城の留守居を務めた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1151327
  31. 「五大老」と「五奉行」の違いとは? それぞれのメンバーと人物像まとめ【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/479426
  32. 五奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C
  33. 2武士が切り開いた民衆のための土木事業 https://www.jcca.or.jp/kaishi/283/283_toku2.pdf
  34. 大坂の暮らし(武士・町人)/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/osaka-life/
  35. 大阪城の歴史|特別史跡 大阪城公園 https://www.osakacastlepark.jp/articles/detail.html?id=180&lang=ja
  36. 大坂城跡|日本歴史地名大系 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=84
  37. 豊臣石垣発見の経緯|豊臣期大坂城|太閤なにわの夢募金 https://www.toyotomi-ishigaki.com/hideyoshi/index.html
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