天文の大飢饉(1540)
天文の大飢饉(1540年)は小氷期と戦乱が重なり発生。異常気象で飢餓と疫病が蔓延し社会崩壊。武田信虎追放など大名の統治能力が問われ、後の天下統一に影響を与えた。戦国乱世を解き明かす鍵。
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天文九年の黙示録:戦国社会を揺るがした大飢饉のリアルタイム・クロニクル
序章:天翔る凶兆 – 天文の大飢饉、その前夜
天文九年(1540年)に日本列島を襲った「天文の大飢饉」は、単発の天災として語られるべきではない。それは、戦国という時代が内包していた構造的な脆弱性が、異常気象という引き金によって露呈した、必然の帰結であった。この未曾有の災害を理解するためには、まず、その前夜、すなわち当時の日本社会が置かれていた極めて不安定な状況から紐解く必要がある。
戦国期日本の構造的脆弱性
第一に、気候的背景として、当時の地球が「小氷期」と呼ばれる寒冷な期間にあったことが挙げられる 1 。現代に比べて平均気温が低く、冷害が発生しやすいこの環境は、日本の農業、特に稲作にとって恒常的なリスクであった 2 。農業技術も発展途上にあり、多くは天水に依存した脆弱な生産基盤しか持たなかったため、わずかな天候不順が凶作に直結する危険性を常に孕んでいた 3 。
第二に、社会的な背景として、1世紀近くに及ぶ戦乱の常態化が挙げられる。全国各地で大名たちが繰り広げる絶え間ない抗争は、農村から労働力(兵役)と生産物(兵糧)を容赦なく収奪した 4 。農民は安定した耕作に従事することが困難となり、土地は荒廃し、農業生産力は著しく低下していた 3 。飢饉の最中である天文十年(1541年)ですら、甲斐の武田信虎が信濃へ出兵したように、領国の疲弊を顧みない軍事行動が優先される現実が、来るべき災害の被害を深刻化させる土壌を形成していた 6 。
第三に、インフラの未整備である。後の武田信玄による治水事業「信玄堤」のような大規模な防災インフラは、この時点ではほとんど存在しなかった。また、江戸時代に飢饉対策として普及するサツマイモのような備荒作物もなく、社会全体として災害への耐性が極めて低い状態にあった 7 。
天文八年(1539年) – 忍び寄る災厄の影
天文の大飢饉の直接的な引き金は、前年である天文八年(1539年)に発生した全国規模の異常気象であった。この年、日本列島は複合的な自然災害に見舞われる。記録によれば、長期間にわたる大雨とそれに伴う洪水が各地で発生し、田畑を押し流した 9 。さらに追い打ちをかけるように、蝗害、すなわちイナゴの大発生が農作物を食い荒らし、秋の収穫は壊滅的な打撃を受けた 3 。
この災害は畿内に限定されたものではなかった。相模国(現在の神奈川県)や鎌倉でも洪水や旱魃が記録されており、東国に至るまで広範囲の農業基盤が深刻なダメージを受けていたことがわかる 10 。この天文八年の全国的な凶作によって、各々の村落や大名が保有していた備蓄は底を突き、社会は食糧供給の余力を完全に失った。こうして、翌年に訪れる破局への舞台は整えられたのである。天文の大飢饉は、天災であると同時に、戦乱という社会的要因が被害を増幅させた「人災」の側面を色濃く持つ、複合災害であったと言える。
第一章:災厄の連鎖 – 天文九年(1540年)の惨状を時系列で辿る
天文九年(1540年)の一年間は、まさに災厄が災厄を呼ぶ負の連鎖であった。前年の凶作によって食糧が枯渇した春、追い打ちをかける夏の天災、そして収穫の望みが完全に絶たれた秋。当時の人々が残した断片的な記録を繋ぎ合わせることで、刻一刻と悪化していく状況を追体験することができる。
表1:天文の大飢饉 関連年表(天文8年~11年)
年月 |
地域 |
事象(気象・社会・政治) |
典拠史料 |
天文8年 (1539) |
諸国 |
大雨、洪水、蝗害が発生し、全国的な凶作となる。 |
『国史大辞典』 9 |
天文9年 正月 |
京都 |
東寺の弘法大師像が発汗。凶事の前触れと噂される。 |
『厳助往年記』 9 |
天文9年 春 |
京都 |
飢饉と疫病が本格化。上京・下京で毎日60人程の死者が出る。 |
『厳助往年記』 9 |
天文9年 5月25日 |
畿内 |
梅雨前線の影響で大雨、洪水が発生。 |
『日本災変通志』 10 |
天文9年 6月26日 |
京都 |
管領・細川晴元が幕府の権威で北野社に施餓鬼会を命じる。 |
『国史大辞典』 9 |
天文9年 8月11日 |
畿内〜東国 |
「近年になき大風」(台風)が襲来。五穀に壊滅的被害。 |
『諏訪神御使頭之日記』 12 |
天文9年 8月13日 |
京都 |
北野社の林の木が20~30本倒れるほどの暴風雨が記録される。 |
『北野社目代日記』 12 |
天文10年 春 |
甲斐 |
飢饉が最も深刻化。「千死一生」と記録されるほどの惨状。 |
『妙法寺記』 10 |
天文10年 6月14日 |
甲斐 |
武田信虎が嫡男・晴信(信玄)により駿河へ追放される。 |
『勝山記』 13 |
天文11年 |
但馬 |
生野銀山が発見される。後の経済復興の一助となる。 |
兵庫県立歴史博物館資料 14 |
春 – 京に満ちる死の匂い
年が明けた天文九年正月、都では不吉な噂が囁かれていた。東寺に安置されていた弘法大師像が汗をかいたというのである 9 。これは凶事の前兆とされ、人々の不安を掻き立てた。その不安は、春が深まるにつれて凄惨な現実となる。
醍醐寺の僧侶・厳助が残した日記『厳助往年記』は、当時の京都の様子を生々しく伝えている。それによれば、飢饉とそれに伴う疫病によって、「上京下京合わせて毎日六十人ほどの遺体が遺棄されていた」という 9 。路上に打ち捨てられた死体はもはや日常の光景となり、都市機能は麻痺状態に陥っていた。誓願寺では貧窮者への炊き出しである「非人施行」が行われたが、わずかな食糧を求めて人々が殺到し、混乱を極めた 9 。
厳助はこの惨状を「七百年来の飢饉」「都鄙(とひ)で数千万人の死者」と記している 9 。「数千万」という数字は明らかに誇張であるが、平安遷都以来の未曾有の事態であると、当時の知識人が認識していたことを示す貴重な証言である。春の時点で、社会はすでに崩壊の瀬戸際に立たされていた。
夏 – 天災の追い打ちと絶望
飢えと病に苦しむ人々に、天はさらなる試練を与えた。天文九年五月(旧暦四月)、梅雨前線の活発化により近畿地方は大雨に見舞われ、各所で洪水が発生した 10 。この洪水は、わずかに残されていた田畑や、再起をかけて植えられた夏作物を根こそぎ奪い去り、人々の最後の希望を打ち砕いた。
そして、この年を決定的に破局へと導いたのが、八月十一日(旧暦)に畿内から東国を縦断した大型台風であった。信濃国の『諏訪神御使頭之日記』はこれを「近年になき大風」と記し、京都の『北野社目代日記』も「風雨事外(ことのほか)ふき候て林の木二、三十本ふきをり候」とその猛威を伝えている 12 。遠く会津地方の記録には「五穀、地の底まで風に遭い申し候」とあり、実りの秋を目前にした稲穂が根こそぎなぎ倒され、収穫が完全に絶望的となったことを示している 10 。春の飢饉で体力を削られ、夏の洪水で希望を失った人々にとって、この秋の台風はまさに「とどめの一撃」であった。
秋から冬へ – 全国に広がる飢餓
収穫期である秋を迎えても、収穫すべきものは何もなかった。この事実は、飢饉を畿内中心の局地的な災害から、全国規模の大飢饉へと発展させた。史料からは、紀伊(和歌山県)のみならず、九州の日向(宮崎県)、豊後(大分県)、大隅(鹿児島県)といった西国諸国でも飢饉が発生していたことが確認できる 15 。もはや、他地域からの食糧援助を期待することは不可能であった。冬の到来とともに、日本列島は食糧が完全に枯渇するという、暗く長い絶望の季節へと突入していったのである。
この一連の出来事は、災害が連鎖し、増幅していく典型的なプロセスを示している。前年の凶作という「初期災害」によって社会の抵抗力が失われたところに、洪水という「第二次災害」、そして台風という「第三次災害」が連続して襲いかかった。それぞれの災害が時間差を置いて発生したことで、被害は単なる足し算ではなく、指数関数的に増大し、社会の回復力を完全に奪い去ったのである。
第二章:巷に満つる呻き – 飢饉下の社会百態
天文の大飢饉がもたらしたものは、単なる食糧不足ではなかった。それは、社会の秩序、共同体の絆、そして人間の尊厳そのものを根底から破壊する、静かなる戦争であった。マクロな災害の記録から視点を移し、飢えに苦しむ人々のミクロな現実に焦点を当てることで、その悲劇の深層が見えてくる。
疫病の蔓延 – 飢餓という名の同盟者
飢餓と疫病は、歴史上常に分かちがたい関係にある。『厳助往年記』が「天下又大疫(てんかまただいえき)」と記したように、飢饉の発生は必然的に疫病の大流行を引き起こした 10 。長期にわたる栄養失調は人々の免疫力を著しく低下させ、通常であれば軽度で済むはずの感染症が、容易に命を奪う凶器と化した。
この時に流行した疫病が具体的に何であったかを特定する直接的な史料は残されていない。しかし、後の江戸時代の飢饉や、他の時代の災害記録から類推するに、赤痢や腸チフスのような経口感染症、あるいは天然痘や麻疹(はしか)といったウイルス性疾患が猛威を振るった可能性が高い 16 。当時の為政者には公衆衛生という概念は存在せず、幕府や朝廷が行える対策は祈祷や施餓鬼といった宗教儀礼に限られていた 9 。医療も未発達であり、人々はなすすべもなく病魔の前に倒れていった。飢えで死ぬか、病で死ぬか。それは、当時の人々にとって究極の選択ですらなかったのかもしれない。
村落共同体の崩壊と流民の発生
戦国時代の社会を支える基礎単位は、血縁と地縁に基づいた「惣村(そうそん)」と呼ばれる村落共同体であった。しかし、この共同体の相互扶助機能も、未曾有の飢饉の前には限界を露呈する。信濃国の記録には、洪水とそれに続く荒廃によって「中島郷」や「徳長郷」といった村そのものが歴史から姿を消した、という衝撃的な事実が記されている 12 。
これは、共同体による支え合いのシステムが完全に崩壊し、人々が生きるために土地を捨て、離散した(「逃散(ちょうさん)」)ことを意味する。土地を捨てた農民たちは「流民」となり、わずかな食糧を求めて都市部や他領へと彷徨い出た 20 。しかし、彼らを温かく迎え入れる場所などどこにもなく、その多くは行き倒れ、あるいは新たな疫病の感染源となった。この現象は、中世社会の根幹を成していた「土地との結びつき」と「共同体の相互扶"助」という二つの安全網が、同時に断ち切られたことを示している。人々は拠り所を失い、社会の最小単位である村が崩壊したことで、社会秩序そのものが溶解していったのである。
人間の商品化 – 人身売買の現実
食糧が尽き、共同体も崩壊した時、人々が生き延びるために選んだ最後の手段、それは「人間」を商品とすることであった。戦国時代は、戦乱による捕虜の売買に加え、飢饉を背景とした人身売買が横行していたことが記録からわかっている 21 。
飢えを凌ぐために親が子を売り、あるいは自らの身を奴隷として売る。そうした悲劇が、公式な記録に残らない水面下で、数え切れないほど繰り返されたと想像に難くない。これは、社会の倫理観や道徳が完全に崩壊し、人間の生命や尊厳が、一握りの米や麦と交換されるまでに価値を失ったことを物語っている。天文の大飢饉は、食糧危機という側面だけでなく、人間性の根幹が揺らぐほどの深刻な社会的・倫理的危機であった。
第三章:揺らぐ統治 – 戦国大名たちの応対と政変
未曾有の国難は、為政者たちの統治能力を白日の下に晒した。権威が形骸化した中央権力は無力さを露呈し、一方で地方の戦国大名たちは、この危機を自らの権力基盤を揺るがす脅威として、あるいは政敵を打倒する好機として捉えた。飢饉は単なる社会問題に留まらず、戦国の政治地図を塗り替える政変の直接的な引き金となったのである。
中央権力の形骸化 – 祈りにすがる幕府と朝廷
当時の畿内を支配していたのは、室町幕府の管領・細川晴元と将軍・足利義晴であった 22 。しかし、彼らが率いる幕府には、全国規模の飢饉に対して有効な救済策を講じるだけの政治力も財力も、もはや残されていなかった。
彼らが行うことができたのは、朝廷を通じて諸国の寺社に命じて写経を行わせたり、京都の北野社や東寺で施餓鬼会(せがきえ)といった仏事を執り行わせることだけであった 9 。これは、民衆を飢餓から救うという、統治の根幹たる責務を完全に放棄し、超自然的な力にすがるしかないほど、中央権力が無力化していたことの証左である。後の江戸幕府が、程度の差こそあれ、備蓄米の放出、他領からの廻米、被災者収容施設の設置といった具体的な救済策を実施したのとは対照的であり、戦国期における中央統治の崩壊を際立たせている 7 。
甲斐武田氏の激震 – 飢饉が引き起こした国主追放劇
天文の大飢饉が戦国史を動かした最も劇的な事例が、甲斐国(山梨県)で起こった武田信虎の追放事件である。これは、飢饉への対応の失敗が、一国の当主の運命を決定づけた象徴的な出来事であった。
甲斐国は天文九年から十年にかけて、飢饉の直撃を受けた。現地の年代記である『妙法寺記』には、「此年春到餓死候而人馬共死る事無限。百年の内にも無御座候(この年、春に餓死に至り、人馬ともに死ぬこと無限。百年の中でも無かったことだ)」、そして人々の状況を「千死一生(千人に一人が生き残るかどうか)」と、その惨状が克明に記録されている 10 。
このような領国の危機的状況にもかかわらず、国主であった武田信虎は、領民救済を省みることなく、信濃への軍事遠征を強行するなど、領国の疲弊を深刻化させる政策を続けた 5 。これにより、領民はもちろん、譜代の家臣団の間にも信虎への不満と絶望が急速に広がっていった。
この状況に強い危機感を抱いたのが、嫡男の晴信(後の信玄)とその側近たちであった。彼らの決起は、単なる父子間の権力闘争という側面だけでなく、飢饉によって領国そのものが崩壊することを防ぐための、やむにやまれぬクーデターという性格を帯びていた 9 。天文十年六月十四日、晴信は今川家への訪問から帰国する途上の信虎を国境で待ち伏せ、そのまま駿河へと追放した。
この突然の国主交代を、領民は歓迎したと『勝山記』は伝えている 13 。これは、晴信が父の悪政を断ち切り、新たな為政者として「代替わり徳政」(債務の免除や減税)を実施してくれることへの強い期待の表れであった。天文の大飢饉は、統治者に求められる資質が、単なる軍事的な強さから、民衆の生活を安定させる「領国経営能力」へと移行しつつあることを示す、分水嶺的な事件となったのである。
他国への波及 – 権力闘争の触媒として
武田氏の事例ほど直接的ではないものの、飢饉は他の地域の政治情勢にも多大な影響を与えたと考えられる。
東北地方では、伊達氏が稙宗・晴宗父子による大規模な内乱「天文の乱」の渦中にあった 24 。全国的な食糧不足は、両陣営の兵糧確保を著しく困難にし、戦線の膠着と領国のさらなる疲弊を招いたであろう。この内乱が長期化し、結果として伊達氏の勢力が一時的に減退した背景には、この大飢饉が無視できない要因として存在した可能性がある 25 。
西国に目を転じれば、当時中国地方一帯に覇を唱えていた大内義隆の領国も、飢饉の影響を免れることはできなかった 15 。領国経済の混乱は、義隆の下で対立を深めていた文治派と武断派の緊張をさらに高め、約十年後の大寧寺の変(陶晴賢の謀反)へと繋がる遠因の一つとなった可能性も否定できない 26 。
このように、天文の大飢饉は戦国大名たちの統治能力を測る一種のリトマス試験紙として機能した。危機に対応できず、旧来の権威や軍事力にのみ固執した支配者はその求心力を失い、一方で民衆の支持を背景に領国の安定を図ろうとする新しいタイプの指導者が台頭する契機を、この大災害は作り出したのである。
終章:飢饉が刻んだもの – 戦国社会への長期的影響
天文の大飢饉という激甚災害は、その後の戦国時代、ひいては近世社会の形成に至るまで、深く静かな影響を及ぼし続けた。それは人々の記憶に強烈な教訓を刻み込み、為政者たちの統治思想に変革を促す、一つの転換点となった。
戦国大名の領国経営思想への影響
この飢饉の悲劇的な経験は、生き残った戦国大名たちに、軍事力だけでは領国を維持できないという厳然たる事実を突きつけた。その教訓は、彼らの統治政策に具体的に反映されていく。
武田信玄が甲府盆地で精力的に進めた「信玄堤」に代表される大規模な治水事業は、単に新田を開発して生産力を向上させるだけでなく、洪水を防ぎ、民の生活を天災から守るという、強い意志の表れであった 8 。飢饉の原体験が、彼を優れた領国経営者へと脱皮させたのである。
また、兵糧の確保という軍事的な観点からも、平時からの食糧備蓄の重要性が再認識された。大名が直轄する蔵を整備し、村落単位での備蓄を奨励することは、安定した領国経営に不可欠な要素となった 28 。さらに、六角定頼が先鞭をつけ、後に織田信長が発展させた楽市・楽座政策のように、商業を振興して税収源を多様化させる動きも、農業生産のみに依存する経済の脆弱性を補うという側面を持っていた 29 。飢饉は、皮肉にも、より強靭な社会経済システムの構築を促す触媒となったのである。
歴史的忘却の彼方へ – なぜ「三大飢饉」に数えられないのか
これほどの大災害でありながら、天文の大飢饉は、江戸時代の享保・天明・天保の「三大飢饉」に比して、その知名度は著しく低い 30 。その背景にはいくつかの理由が考えられる。
第一に、記録の散逸である。戦乱の時代であったため、幕府による統一的な被害調査や各藩の詳細な行政文書といったものがほとんど残されておらず、被害の全体像を正確に把握することが困難である。第二に、悲劇の日常化である。合戦による死が日常茶飯事であった戦国時代において、飢饉による大量死が、平和な時代に比べて相対的に「特異な大災害」として認識されにくかった可能性がある。そして第三に、物語性の欠如である。江戸時代の飢饉が、田沼意次の失脚や寛政の改革といった、幕政の動向と結びつく明確な政治的物語として語られるのに対し、天文の飢饉は、武田氏の政変を除いて、より広範な戦国の動乱の中に埋没してしまったのである。
結論 – 戦国乱世における災害の意味
天文の大飢饉は、小氷期という気候変動と、果てしない内乱によって、戦国時代の日本社会がいかに脆弱な基盤の上に成り立っていたかを白日の下に晒した大災害であった。それは人々に未曾有の苦難をもたらした一方で、旧来の権力構造を揺るがし、より実効的な統治能力を持つ新しい支配者の台頭を促すという、「創造的破壊」の側面も持っていた。
そして、この飢饉が示す最も重要な歴史的意義は、中世的な分権社会が、広域的な大規模災害に対して無力であることを証明した点にある。豊作地帯から凶作地帯へ食糧を輸送するといった、国家規模での資源の再配分は、分裂した状態では不可能であった。この事実は、織田信長や豊臣秀吉が推し進めた「天下統一」という事業が、単なる軍事的な野心だけでなく、災害や飢饉から民を守るための、統一的で強力な行政システムと社会インフラを構築するという、社会経済的な必然性をも帯びていたことを示唆している。
天文の大飢饉は、戦国時代の華々しい合戦の裏面史ではない。それは、人々がどのような日常を生き、為政者たちが何を課題として統治に取り組んでいたのかを理解するための、そして、なぜ日本が戦国乱世の終焉と、統一国家の形成へと向かわなければならなかったのかを解き明かすための、不可欠な鍵なのである。
引用文献
- 乱世が始まったのは寒さが原因? 気温に左右された戦国時代の戦について https://san-tatsu.jp/articles/348146/
- 22. ユーラシア大陸東岸の島国日本は冷夏による災害を地球上で最もうけやすい-1993年平成大凶作,1980年冷害,1783~88年天明大飢饉など - 防災科学技術研究所 https://dil.bosai.go.jp/workshop/02kouza_jirei/22reika.html
- 飢饉(キキン)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%A3%A2%E9%A5%89-50152
- 戦いを支えた携行食 | お弁当コラム | 弁当ライブラリー | Plenus 米食文化研究所 https://www.plenus.co.jp/kome-academy/bento_library/column/index.html
- なぜ信虎の国外追放を武田家の家臣と領民は支持したのか? - 歴史人 https://www.rekishijin.com/20305
- 「武田信虎」信玄の父は悪行によって国外追放されたワケではなかった!? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/542
- 江戸の三大飢饉 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/edo-sandaikikin/
- 室町・戦国・安土桃山・江戸時代 | 稲作から見た日本の成り立ち - クボタ https://www.kubota.co.jp/kubotatanbo/history/formation/generation_03.html
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- ゼロから学んでおきたい「戦国時代」《中》 - 國學院大學 https://www.kokugakuin.ac.jp/article/171751
- お米の歴史〈平安時代〜現代〉日本人の暮らしを支えてきたお米に迫る!【後編】 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/137516
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