天正遣欧使節出発(1582)
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
天正十年、世界への船出―天正遣欧使節、長崎出港のリアルタイム・ドキュメント
序章:戦国日本、未曾有の航海へ
天正十年(1582年)、日本の歴史、ひいては世界史の文脈においても画期的な一つの事象が発生した。肥前国長崎の港から、四名の少年を正使・副使とする使節団が、遥かなるヨーロッパ、ローマを目指して旅立ったのである。後に「天正遣欧少年使節」として知られるこの派遣は、日本史上初めてヨーロッパへ公式に送られた使節団であり、戦国時代の日本が世界と直接的に対峙しようとした、壮大かつ野心的な外交プロジェクトであった 1 。
この使節団の旅路は、単にキリスト教の聖地を目指す巡礼の旅ではなかった。それは、激動の戦国時代を生きるキリシタン大名たちの存亡を賭けた政治的戦略、そして日本におけるキリスト教布教の未来を切り拓こうとするイエズス会の遠大な構想が交錯する、極めて多層的な意味を内包していた。
特筆すべきは、彼らが船出した天正十年という年が、日本の歴史における類稀なる「特異点」であったという事実である。この年、織田信長による天下統一事業は最終段階を迎え、日本は新たな秩序の下に統合されようとしていた。しかし、使節団が異国の海を航行している僅か数ヶ月の間に、その前提は「本能寺の変」によって根底から覆されることになる 3 。希望に満ちた船出は、彼ら自身も知らぬ間に、日本の歴史が最も劇的に転換する瞬間に立ち会っていたのである。本報告書は、「天正遣欧使節出発」という事象を、1582年という時代のリアルタイムな文脈の中に置き、その背景、計画、そして出発の瞬間から最初の寄港地マカオに至るまでの軌跡を、時系列に沿って徹底的に詳述・分析するものである。
第一部:出発前夜―天正十年(1582年)の日本
天正遣欧使節の派遣という歴史的決断を理解するためには、1582年初頭の日本が置かれていた政治的状況を、中央と地方(九州)という二つの異なる視座から複眼的に捉える必要がある。一見すると無関係に見えるこれら二つの情勢は、水面下で深く結びつき、少年たちをヨーロッパへと送り出す必然性を生み出していた。
第一章:天下布武の最終局面:織田信長と中央政権の動向
使節団が出港の準備を進めていた天正十年初頭、日本の中心部では、織田信長による天下統一事業がその最終局面を迎えていた。この中央政権の動向は、使節派遣計画の隠れた前提条件となっていた。
甲州征伐の完遂と織田政権の絶頂期
1582年2月、使節団が長崎を出港したのとほぼ時を同じくして、信長とその嫡男・信忠は甲州征伐を本格化させた 5 。木曽義昌の離反をきっかけに始まったこの戦役は、織田軍の圧倒的な軍事力の前に武田方が総崩れとなり、3月11日には天目山の麓で武田勝頼が自刃、ここに名門甲斐武田氏は滅亡した 4 。この電撃的な勝利により、信長の権威は絶頂に達し、残る敵対勢力は中国地方の毛利氏、四国の長宗我部氏、越後の上杉氏など数えるほどとなり、日本の統一は目前に迫っているかに見えた。
信長の対外政策とキリスト教への姿勢
信長は、既存の仏教勢力を弾圧する一方で、イエズス会宣教師に対しては一貫して好意的な態度を示していた。これは、彼らがもたらす南蛮の珍しい文物や情報、そして彼らが持つ南蛮貿易への影響力に価値を見出していたためである。使節派遣の発案者であるイエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノも、前年の1581年に安土城で信長に謁見し、その際に献上した黒人従者が、信長に気に入られ「弥助」の名を与えられて側近となった逸話は、両者の良好な関係を象徴している 6 。
ヴァリニャーノと信長の謁見:使節派遣計画は認識されていたか
ヴァリニャーノが、九州のキリシタン大名の名代として少年使節をヨーロッパに派遣するという壮大な計画を企てたのは、この信長との謁見を終え、長崎から離日する直前のことであった 9 。現存する史料からは、信長がこの計画を直接許可したという明確な証拠は見出すことはできない 6 。しかし、当時の日本の状況を鑑みれば、信長の許可、あるいは少なくとも黙認なくして、これほど大規模な対外プロジェクトを遂行することは極めて困難であったと考えられる。信長にとって、日本の大名の使節がローマ教皇に謁見するという前代未聞の出来事は、自らが統治する日本の国威を海外に示し、南蛮貿易をさらに活性化させる絶好の機会と映った可能性は高い 10 。織田政権による安定した中央集権体制の存在が、この計画を安心して進めることができる大きな後ろ盾となっていたことは間違いない。
第二章:群雄割拠の九州:キリシタン大名の存亡と島津氏の脅威
中央の織田政権が盤石に見えた一方で、使節派遣の舞台となった九州では、依然として戦国乱世の様相が色濃く残っていた。キリシタン大名たちは、強大な敵に囲まれ、常に存亡の危機に瀕しており、この切迫した状況こそが、彼らを遠いヨーロッパへと目を向けさせる直接的な動機となった。
キリシタン大名の苦境
使節派遣に名を連ねた三人のキリシタン大名、すなわち豊後の大友宗麟、肥前の大村純忠、そして有馬晴信は、いずれも深刻な軍事的脅威に晒されていた。特に大友宗麟は、天正六年(1578年)の耳川の戦いで薩摩の島津義久に歴史的な大敗を喫して以降、急速に勢力を失い、島津氏の侵攻に怯える日々を送っていた 11 。伊東マンショの父・伊東祐青もまた、島津氏に日向国を追われ、宗麟を頼って豊後に落ち延びていた 13 。一方、肥前の有馬晴信と大村純忠は、南からは島津氏、北からは龍造寺隆信という二大勢力に挟撃される極めて脆弱な立場にあり、領地の維持すら困難な状況であった 14 。
布教と一体化した南蛮貿易
このような絶望的な状況下で、彼らが生き残るための唯一の希望の光が、ポルトガル船がもたらす南蛮貿易であった。ポルトガル商人は、布教を許可しない大名の領地には寄港しなかったため、キリスト教の受容は、鉄砲や火薬の原料となる硝石といった最新の軍需物資を独占的に入手し、軍事力を維持するための死活問題と直結していた 12 。イエズス会は、この南蛮貿易における絶対的な仲介役として、大名たちの政策決定に絶大な影響力を行使していたのである 15 。
ポルトガルへの軍事支援への期待
ヴァリニャーノが提唱した使節派遣計画は、これらキリシタン大名たちの窮状に巧みに食い込むものであった。彼らにとって、この計画への参加は、単なる宗教的貢献に留まらなかった。それは、イエズス会との関係をより強固なものとし、その背後にいるポルトガル本国やローマ教皇庁という、ヨーロッパの強大な権威との繋がりを確立するための、高度な外交戦略であった。彼らの胸中には、使節派遣を成功させることで、貿易上のさらなる便宜を得ることはもちろん、宿敵である島津氏や龍造寺氏に対抗するための大砲などの兵器供与や、将来的には軍事的な支援を得られるのではないかという、極めて現実的な期待があった 14 。
このように、天正遣欧使節の派遣は、ヴァリニャーノの宗教的理想と、キリシタン大名の政治的現実という、二つの異なる動機が奇跡的に合致したことで実現した「政教合作」の産物であった。それは、信仰の証であると同時に、熾烈な生存競争を勝ち抜くための、壮大な政治的・軍事的賭けでもあったのである。
表1:天正遣欧使節 出発前後の主要関連年表(1582年1月~6月)
年月日 (西暦) |
使節団の動向 |
日本中央(織田信長)の動向 |
九州の動向 |
1月 |
長崎にて出港準備 |
1月26日、伊勢神宮の造営費用を供出 4 。 |
キリシタン大名、島津・龍造寺の脅威に直面。 |
2月1日 |
|
木曽義昌が武田氏から離反、織田方に従属 4 。 |
|
2月12日 |
|
織田信忠軍、甲州征伐のため岐阜城を出陣 5 。 |
|
2月20日 |
長崎港を出帆 17 。 |
徳川軍が駿河田中城を攻撃 5 。 |
|
3月9日 |
中国沿岸で嵐に遭遇後、 マカオに到着 18 。 |
3月1日、織田信忠軍が高遠城を攻略 4 。 |
|
3月11日 |
マカオに滞在。勉学に励む。 |
武田勝頼が自刃し、武田氏滅亡 4 。 |
大友宗麟、島津氏の圧迫を受け続ける 11 。 |
3月29日 |
|
信長、旧武田領の知行割を行う 4 。 |
|
4月 |
マカオに滞在。 |
4月25日、京都で信長への「三職推任」が提案される 4 。 |
|
5月7日 |
|
羽柴秀吉、備中高松城を包囲 4 。 |
|
6月2日 |
|
本能寺の変。織田信長・信忠自刃 3 。 |
|
6月13日 |
|
山崎の戦い。羽柴秀吉が明智光秀を破る 3 。 |
|
6月27日 |
|
清洲会議開催。織田家の後継者問題が協議される 3 。 |
|
第二部:壮挙の立案―使節団結成の光と影
前代未聞のヨーロッパへの使節派遣は、一人の傑出したイエズス会士の構想と、その未来を託された四名の少年たちの存在なくしてはあり得なかった。ここでは、使節団がどのように組織され、どのような人々によって構成されていたのか、その内実に迫る。
第一章:発案者ヴァリニャーノの遠大なる構想
この壮大な計画の発案者は、イタリア出身のイエズス会士、アレッサンドロ・ヴァリニャーノであった。彼は東インド管区巡察師として日本の布教状況を視察する中で、日本の教会が表面的な発展の裏で、深刻な財政難をはじめとする多くの課題に直面していることを見抜いていた 19 。使節派遣は、この膠着した状況を打開するための起死回生の一手であった。
ヴァリニャーノ自身が記した書簡によれば、その目的は大きく二つに分けられる 2 。
第一は、 実利的な目的 である。日本のキリシタン大名の名代として公式に使節を派遣し、カトリック教会の最高権威であるローマ教皇、そして当時カトリック世界の最大の庇護者であったスペイン・ポルトガル両国王に謁見させる。これにより、日本という国がヨーロッパにとって有望な布教地であることを直接アピールし、今後の布教活動に必要な経済的、人的、そして政治的な援助を引き出すことを狙った。
第二は、 教育的かつ宣伝的な目的 である。感受性の強い少年たちに、ヨーロッパのキリスト教世界の壮麗さ、文化の爛熟、そしてその権威の偉大さを直接その目で見せ、肌で感じさせる。そして8年後、10年後に彼らが帰国した暁には、彼ら自身の言葉で、その栄光と偉大さを日本の同胞たちに語らせる。外国人の宣教師が語るよりも、同じ日本人である彼らの証言は、何倍もの説得力を持つであろう。これは、将来の日本における布教活動を飛躍的に促進させることを狙った、極めて高度なプロパガンダ戦略であった。
この計画において「少年」が選ばれたことは、ヴァリニャーノの深慮遠謀を示すものであった。既に価値観の確立した壮年の武士ではなく、13歳から14歳という多感な時期にある少年であればこそ、先入観なくヨーロッパ文明の輝きを吸収し、深い感銘を受けると期待された 22 。また、彼らが貴族階級の出身であることは、ヨーロッパの宮廷社会において「日本人が高度な文明を持つ礼儀正しい民族である」ことを示す上で、この上なく効果的な演出となるはずであった。このように、少年たちの選択は、計画の成功を期すためにあらゆる側面から計算され尽くした、卓越した人選戦略だったのである。
第二章:選ばれし少年たち
ヴァリニャーノの構想を実現するため、白羽の矢が立てられたのは、有馬に設立されたイエズス会の神学校(セミナリヨ)で学ぶ、四名の優秀な少年たちであった 23 。
使節の構成と出自
使節団は、二名の正使と二名の副使によって構成された。
- 伊東マンショ(正使) : 大友宗麟の名代。日向の名門・伊東氏の出身で、宗麟の縁者であった 13 。生年は定かではないが、1569年頃と推定されている 26 。
- 千々石ミゲル(正使) : 大村純忠および有馬晴信の名代。有馬氏の一族であり、晴信とは従兄弟の関係にあった 25 。当時13歳であった 11 。
- 原マルチノ(副使) : 当時13歳 11 。波佐見の出身とされる 28 。
- 中浦ジュリアン(副使) : 当時14歳 11 。西海市中浦の出身 28 。
彼らは、九州を代表するキリシタン大名と直接的、間接的に繋がりのある良家の出身者であり、単なる学生ではなく、それぞれの藩の威信を背負う「大使」としての役割を担っていた。
有馬セミナリヨでの英才教育
四名が学んでいた有馬のセミナリヨは、単なる神学校ではなかった。そこでは、キリスト教の教理や深い信仰心を育む宗教教育はもちろんのこと、コミュニケーションの基礎となるラテン語、礼拝に不可欠な西洋音楽(聖歌の合唱、フルートやオルガンなどの楽器演奏)といった、ヨーロッパの教養が徹底的に教え込まれていた 2 。
セミナリヨの一日は厳格なスケジュールで管理され、早朝の祈りに始まり、午前中はラテン語の暗記と学習、午後は日本語の作文や習字、そして音楽の練習に充てられていた 31 。さらに、上級課程であるコレジオでは、文法学、修辞学、弁証論、算術、天文学、幾何学、音楽学といった「自由七科」が教えられており、その学問水準は当時のヨーロッパの大学に匹敵するものであったとされている 31 。
彼らが受けたのは、西洋と日本の古典を網羅する、当時としては世界最高水準のグローバルなエリート教育であった。この高度な教育が、少年たちがヨーロッパの王侯貴族と対等に渡り合い、その知性と品格で彼らを感嘆させるための礎となったのである 2 。
表2:天正遣欧使節 主要人物一覧
立場 |
氏名(洗礼名) |
当時の年齢(推定) |
出自・背景 |
使節団における役割 |
正使 |
伊東 マンショ |
13歳 |
日向伊東氏の一族。大友宗麟の縁者 13 。 |
大友宗麟の名代。使節団の筆頭。 |
正使 |
千々石 ミゲル |
13歳 |
肥前有馬氏の一族。有馬晴信の従兄弟 25 。 |
大村純忠・有馬晴信の名代。 |
副使 |
原 マルチノ |
13歳 |
肥前波佐見の出身 28 。 |
正使の補佐。語学に堪能であったとされる。 |
副使 |
中浦 ジュリアン |
14歳 |
肥前西海市中浦の出身 28 。 |
正使の補佐。篤い信仰心で知られた。 |
発案者/随行 |
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ |
43歳 |
イタリア出身。イエズス会東インド巡察師。 |
使節派遣計画の最高責任者。ゴアまで随行 21 。 |
派遣大名 |
大友 宗麟(義鎮) |
52歳 |
豊後国の大名。九州六ヶ国の探題。 |
伊東マンショを名代として派遣 21 。 |
派遣大名 |
大村 純忠 |
49歳 |
肥前国大村の領主。日本初のキリシタン大名。 |
千々石ミゲルを名代として派遣 21 。 |
派遣大名 |
有馬 晴信 |
15歳 |
肥前国日野江の領主。 |
千々石ミゲルを名代として派遣 21 。 |
通訳/教育係 |
ディオゴ・デ・メスキータ |
不明 |
ポルトガル出身。イエズス会神父。日本語に堪能 15 。 |
少年たちの指導役兼通訳。実質的な外交交渉を担当 32 。 |
第三部:リアルタイム・ドキュメント―長崎出港
幾多の準備と折衝を経て、歴史的な航海の日は訪れた。この部では、1582年2月20日の長崎港の情景を中心に、使節団が日本を離れ、最初の寄港地マカオに到着するまでの軌跡を、リアルタイムに近い形で再現する。
第一章:天正十年二月二十日(西暦1582年2月20日)長崎港
国際貿易港・長崎の情景
天正十年二月二十日(旧暦正月二十八日)、長崎の港は特別な緊張と興奮に包まれていた。1571年にポルトガル船の停泊地として開港して以来、わずか10年余りで長崎は急速な発展を遂げ、日本における唯一のヨーロッパへの窓口となっていた 33 。港には巨大な倉庫が立ち並び、丘の上には教会が聳え、日本人商人、ポルトガル人船乗り、宣教師、そして様々な国から来た人々が行き交い、活気に満ち溢れていた。
その日、港に停泊していたのは、一行が乗り込むポルトガル船であった。南蛮屏風に描かれるような、船尾楼が高くそびえ立つキャラック船、あるいはナウ船と呼ばれる大型の帆船であり、その威容は、当時の日本人の目に巨大な城のように映ったことであろう 2 。この船が、少年たちを未知の世界へと運ぶ方舟であった。
出港の儀式(推定)
当日の出港式典に関する詳細な記録は残されていない 2 。しかし、この壮挙の門出が、厳粛かつ盛大に執り行われたことは想像に難くない。港の教会では、大村純忠や有馬晴信らキリシタン大名、そして多くの信徒が参列し、使節団の旅の安全と使命の成功を祈るミサが捧げられたであろう。少年たちは、神の祝福を受け、大名たちから託された親書を胸に、覚悟を新たにしたはずである。
波止場には、彼らの家族やセミナリヨの学友たちも見送りに来ていたに違いない。わずか13、4歳の少年たちが、生きて帰れる保証もない、8年以上に及ぶであろう長旅に出るのである。親と引き離され、故郷を後にする彼らの胸中には、大使としての大いなる使命感と共に、計り知れない不安と寂しさが渦巻いていたことであろう 22 。
使節団の全構成
船に乗り込んだのは、四名の少年使節だけではなかった。このプロジェクトの最高責任者であるヴァリニャーノ神父、そして少年たちの教育係兼通訳として、この旅を通じて極めて重要な役割を果たすことになるディオゴ・デ・メスキータ神父が同行した 15 。メスキータ神父は安土のセミナリヨで教鞭をとった経験があり、日本語に極めて堪能で、少年たちの精神的な支えであると同時に、ヨーロッパ各地での外交交渉における実質的なスポークスマンとなる人物であった 15 。
さらに、随行員として数名の日本人信徒、そしてヨーロッパの進んだ印刷技術を学ぶために選ばれた少年コンスタンチノ・ドラードとアグスチーノも加わっていた。彼ら使節団一行と、数百名に及ぶポルトガル人の船員を乗せ、巨大な帆船はゆっくりと長崎の港を離れていった。
第二章:希望と不安の船出:マカオへの道
ポルトガル船(ナウ船)での生活
長崎を出港した一行を待ち受けていたのは、過酷な船上での生活であった。当時の大型帆船は、数百人の船員や兵士、商人が乗り組んでおり、決して快適な空間ではなかった 18 。衛生状態も悪く、常に病気のリスクと隣り合わせであった。ただし、使節団の一行は、大名の名代という特別な身分であったため、船長の部屋があてがわれるなど、相応の待遇を受けていたと記録されている 18 。それでも、故郷の記憶が遠ざかる中で、果てしなく続く海原を前に、少年たちの心細さはいかばかりであっただろうか。
東シナ海での試練
希望と不安を乗せた船は、東シナ海を南下し、ポルトガルのアジアにおける拠点、マカオを目指した。航海は、常に危険と隣り合わせであった。長崎を出てから20日ほどが経過した1582年3月9日、一行は中国沿岸の海域で激しい嵐に遭遇する 18 。浅瀬が多く、航海の難所として知られるこの海域で、船は木の葉のように揺れ、一行は遭難の危機に瀕した。初めて体験する外洋の猛威は、少年たちに大自然の恐ろしさと、神への祈りの意味を深く刻み付けたに違いない。
1582年3月9日:マカオ到着
九死に一生を得て嵐を乗り越えた一行は、同日、ついに最初の目的地であるマカオに到着した 18 。長崎の港を出てから、約17日間の航海であった。丘の上に教会や要塞が立ち並ぶ、ヨーロッパ風の港町の姿が視界に広がった時、少年たちの胸には安堵と共に、これから始まる未知の体験への期待が込み上げてきたことであろう。このマカオが、彼らにとってヨーロッパへの扉を開く、最初の舞台となるのである。
第四部:旅の序章―マカオでの滞在と学び
マカオは、単なる航海の中継地ではなかった。ゴアへ向かう季節風を待つため、一行はこの地に約10ヶ月もの長期にわたって滞在することになる 19 。この期間は、少年たちがヨーロッパでの大役に備えるための、極めて重要な準備期間となった。
第一章:「東洋の小ローマ」マカオでの異文化体験
イエズス会コレジオでの生活
マカオに到着した一行は、イエズス会が運営するコレジオ(大学)に宿舎を与えられた 34 。そこは、アジアにおけるイエズス会の布教と学問の中心地であり、世界中から集まった宣教師や神学生たちが、厳格な規律の下で共同生活を送っていた 19 。少年たちは、この国際的な環境の中で、多様な人々と交流し、見聞を広めていった。
ポルトガル植民都市の日常
当時のマカオは、ポルトガルが明朝から居住権を得て築いた貿易拠点で、「東洋の小ローマ」とも呼ばれるほど、キリスト教文化が色濃く根付いていた 35 。石畳の道、漆喰で塗られた教会や商館、行き交うヨーロッパの人々の服装や言語。その全てが、日本の風景とは全く異なるものであった。少年たちは、この街で生活する中で、自然と西洋の文化や習慣に触れていった。このマカオでの体験は、彼らがこれから向かうヨーロッパ本土を前にした、貴重な予行演習となったのである。
第二章:ヨーロッパへの準備
10ヶ月間の集中学習
ヴァリニャーノは、この長い待機期間を無駄にはしなかった。彼は少年たちのために綿密な学習計画を立て、ヨーロッパの宮廷社会で大使として恥ずかしからぬ振る舞いができるよう、徹底的な教育を施した 19 。ラテン語やポルトガル語の語学能力の向上はもちろんのこと、西洋音楽のさらなる訓練、そしてヨーロッパの歴史や地理、作法といった幅広い教養を身につけさせた 19 。このマカオでの10ヶ月にわたる集中学習が、彼らを単なる日本の少年から、洗練された国際人へと脱皮させた。この期間は、文化的な背景が全く異なる日本からルネサンス期のヨーロッパへと少年たちを適応させるための、不可欠な「涵養期間」であり、使節団の成功を左右する極めて重要な文化的緩衝地帯としての役割を果たしたのである。
歴史との断絶
1582年3月から12月末まで、一行はマカオで勉学に励みながら、次の船出を待った。しかし、彼らが異国の地でヨーロッパへの夢を膨らませている間、彼らの故国日本では、歴史を根底から揺るがす大事件が立て続けに起こっていた。
6月2日、彼らの計画の最大の理解者であり、後ろ盾であったはずの織田信長が、本能寺で明智光秀に討たれる 3 。
6月13日、羽柴秀吉が山崎の戦いで光秀を破り、新たな天下人への道を歩み始める 3。
6月27日、清洲会議が開かれ、織田家の後継体制が定められる 3。
そして夏から秋にかけては、信長の死によって生じた権力の空白地帯(旧武田領)を巡り、徳川、北条、上杉が争う「天正壬午の乱」が勃発する 3。
当時の通信手段では、これらの情報が即座にマカオに届くはずもなかった。一行は、自分たちの派遣の前提であった政治体制が崩壊し、日本が全く新しい権力構造へと再編されつつあることを全く知らぬまま、1582年の暮れ、ゴア行きの船に乗り込むことになる。彼らの旅は、出発の瞬間から、既にその土台を失っていたのである。
結論:歴史の航跡―未来へ向かう船
天正十年(1582年)二月二十日の天正遣欧使節の長崎出港は、戦国時代の日本が生んだ、一つの奇跡的な事象であった。それは、イエズス会巡察師ヴァリニャーノの、日本のキリスト教布教の未来を賭けた遠大な構想と、島津氏や龍造寺氏といった強大な敵対勢力に囲まれ、存亡の危機にあった九州キリシタン大名たちの、政治的・軍事的活路を見出そうとする現実的な思惑とが、絶妙な均衡点で見事に合致した結果であった。
この壮挙は、織田信長による天下統一事業が最終段階に入り、日本に一応の安定がもたらされるという、極めて限定的な時間的窓の中で初めて可能となった。少年たちが乗り込んだ船は、単にヨーロッパを目指すだけでなく、信長の権威と、ポルトガルとの南蛮貿易によってもたらされる富と軍事力という、二つの大きな期待を帆に受けていたのである。
しかし、歴史の現実は皮肉であった。彼らが希望を胸に長崎の港を離れたその瞬間から、その成功の前提であった織田信長体制は、崩壊への秒読みを始めていた。一行がマカオでヨーロッパの学問に勤しんでいる間に、日本では本能寺の変という激震が走り、彼らがよって立つ基盤そのものが消滅してしまった。
彼らの旅は、ヨーロッパ各地で熱狂的な歓迎を受け、ローマ教皇に謁見するという目的を見事に達成し、西洋世界に日本の存在を鮮烈に印象付けた。しかし、8年後に彼らが持ち帰った輝かしい成果と先進的な知識(活版印刷術など)を受け入れるべき日本は、既に出発の時とは全く異なる国へと変貌していた。豊臣秀吉による天下統一と、それに続く伴天連追放令の発令は、彼らの運命を大きく狂わせ、日本のキリスト教は厳しい弾圧の時代へと突入していく 16 。
したがって、天正遣欧使節の長崎出港は、日欧交流史における輝かしい一頁であると同時に、日本のキリシタン史における悲劇的な時代の幕開けを告げる、序章でもあった。希望に満ちて大海原へと漕ぎ出したあの日の船は、知らず知らずのうちに、歴史の巨大なうねりの中へとその航跡を刻み込んでいったのである。
引用文献
- 《第8回》千々石ミゲルは本当に「信仰」を捨てたのか―天正遣欧少年使節の謎に迫る【前編】 https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c12908/
- 「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第3話ローマヘ旅立った少年たち https://christian-nagasaki.jp/stories/3.html
- 九州平定/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/11100/
- 織田政権 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E6%94%BF%E6%A8%A9
- 1582年(前半) 武田家の滅亡 | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1582-1/
- バナナも金平糖もワインも、織田信長が初めて?/ホームメイト https://www.touken-world.jp/tips/18286/
- 「大航海時代の日本」11 イエズス会士アレッサンドロ・ヴァリニャーノ②ガスパール・コエリュ https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/18097560/
- 信長に仕えた黒人「弥助」とは何者だったのか。史料に見る実像とその後を探る - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/28746/
- 天正遣欧使節(テンショウケンオウシセツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80-102444
- 天正遣欧使節団 -西洋を初めて訪れた日本人使節 - イタリア同好会・高知 https://www.italia-kochi.org/tayoriOLD.html
- スタッフからの現地便り(2009年08月10日)|ロイヤルシティ別府湾杵築リゾート https://www.daiwahouse.co.jp/shinrin/blog/blog_detail.asp?bukken_id=kitsuki&Mct=2009&blog_id=40
- 天下統一を夢見た織田信長 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06905/
- 伊東マンショ(祐益) http://www.ito-ke.server-shared.com/sub15.html
- 「いま甦る、キリシタン史の光と影。」 第5話キリシタン大名としての ... https://christian-nagasaki.jp/stories/5.html
- ‑ポルトガルでの天正遣欧少年使節 ‑ - 大分大学学術情報リポジトリ https://our.repo.nii.ac.jp/record/2012324/files/kokusui_kiyo_01_08.pdf
- バテレン追放令 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%86%E3%83%AC%E3%83%B3%E8%BF%BD%E6%94%BE%E4%BB%A4
- 天正遣欧少年使節出版プロジェクト - PR TIMES https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000120257.html
- 慶長遣欧使節、ペトロ岐部 - 海上交易の世界と歴史 - FC2 http://koekisi.web.fc2.com/column2/page050.html
- 日本初の遣欧使節から見たマカオ https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/record/12504/files/KU-0400-20160331-28.pdf
- 歴史コラム | 舞台「マルガリータ」 http://mottorekishi.com/margarita/history/02.html
- 天正遣欧少年使節 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E9%81%A3%E6%AC%A7%E5%B0%91%E5%B9%B4%E4%BD%BF%E7%AF%80
- 1582年2月20日、天正遣欧使節が長崎から出港: 今日の海の日 https://blog.canpan.info/funenokagakukan/archive/235
- 天正少年使節 - 筑波大学附属図書館 https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/tokubetuten/tenji/tensyou_syounen.html
- 天正遣欧少年使節の4人、それぞれの最期 | 「おらしょ-こころ旅 ... https://oratio.jp/p_column/tenshokenoshisetsu-saigo
- 名門大学入試問題で知る「反」日本史 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/social0_6.pdf
- そして少年は海を渡った https://www.lib.pref.miyazaki.lg.jp/ct/other000000800/itozen.pdf
- 4人の少年が届けたローマからの贈り物 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_column/roma-okurimono
- 天正遣欧少年使節ゆかりの地交流 - 大村市 https://www.city.omura.nagasaki.jp/kouryuu/kyoiku/koryu/koryu/sonota/kokunaikoryu.html
- 中浦ジュリアン記念公園(資料館) | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_resource/nakaura-jurian-park
- 天めざせ流浪の学校セミナリヨ|CafeCoco*キリシタンの足跡 - note https://note.com/cocosan1793/n/nc44a0a74f8f2
- 戦国時代の日本代表は4人の少年たち!「天正遣欧少年使節」の天国と地獄 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/131092/
- 「天正少年使節」 https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2020/10/364-368-TAKIZAWA.pdf
- 長い岬の物語をたどって | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_burari/nagaimisakinomonogatariwotadotte
- 恋風旅路>天正遣欧使節>使節あれこれ>(その4)マカオのコレジオ http://coicaie-tabiji.mond.jp/mission/arekore/makau_colegio.html
- 天正遣欧少年使節の足跡をたどって No.2|お告げのフランシスコ姉妹会 - note https://note.com/fsa_0325/n/n4074409f7bc0