天草版印刷開始(1592)
1592年、天草で活版印刷開始。ヴァリニャーノの適応主義戦略に基づき、日本人技術者ドラードが育成され、学習書や教化書が刊行。しかし、禁教令で事業は終焉。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
文禄元年の槌音:戦国末期、天草における活版印刷事業の勃興と展開
序章:西からの衝撃と知の器
日本の歴史が天下統一へと大きく舵を切った16世紀末、九州の西端に浮かぶ天草諸島で、後の世に大きな影響を与える一つの文化事業が静かに産声を上げた。1592年(文禄元年)に開始された、グーテンベルク式活版印刷機による書籍の刊行、すなわち「天草版」の印刷事業である。この事業は、単なる技術の導入に留まらず、戦国末期の激しい政治的・宗教的対立の中で、壮大な構想と緻密な戦略に基づいて推進された知的営為であった。その根源には、一人の傑出したイエズス会士、巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの姿があった。
ヴァリニャーノの戦略的ビジョン
フランシスコ・ザビエルによる日本布教開始から30年後の1579年、ヴァリニャーノは日本の土を踏んだ 1 。彼は、それまでのヨーロッパ中心的な布教方針を根本から見直し、日本の高度な文化と社会構造に対する深い敬意に基づいた「適応主義」を提唱した。その戦略の核心は、日本人自身による布教体制の確立、すなわち優秀な日本人聖職者の育成にあった。このビジョンを実現するためには、宣教師たちが日本語と日本文化を深く学び、また日本人信徒が教義を正確に理解するための標準化された教材が不可欠であった。手書きの写本に依存する従来の方式では、効率、正確性、供給量のいずれにおいても限界があることは明らかだった。ここに、ヴァリニャーノはヨーロッパの最新技術、活版印刷術を日本に導入するという画期的な着想を得るに至る 2 。
天正遣欧少年使節という布石
ヴァリニャーノの構想は、1582年に長崎を出発した天正遣欧少年使節の派遣によって、具体的な布石が打たれる 3 。この使節の目的は、ヨーロッパ世界に日本の存在を知らしめ、ローマ教皇からの支持を取り付けるという外交的な側面に加え、もう一つの重要な使命を帯びていた。それは、来るべき日本での印刷事業のための技術者を育成することであった。使節団には、肥前国出身の少年コンスタンチノ・ドラードが随行していた 4 。彼は、使節一行がヨーロッパに滞在していた間、ポルトガルのリスボンで約4ヶ月にわたり、活版印刷の専門技術を体系的に習得したのである 5 。
1590年、8年もの歳月を経て帰国した使節団と共に、ヴァリニャーノは印刷機一式を日本へ持ち込んだ 6 。この印刷機は、単なる道具ではなかった。それは、ヴァリニャーノが描く壮大な布教戦略、すなわち日本国内に「知識生産のインフラ」を構築するという構想そのものを体現する、戦略的な資産だったのである。手書きの写本に頼る非効率な状況から脱却し、標準化された教材を安定的かつ大量に供給する体制を確立すること。これこそが、彼の真の狙いであった。
そして、この計画の成否を握る鍵が、日本人技術者コンスタンチノ・ドラードの存在であった。ヴァリニャーノがヨーロッパ人の専門技術者を帯同するのではなく、日本人の少年に技術を学ばせたという事実は、この事業を日本社会に深く根付かせようとする彼の強い意志を示している。ドラードは、ヨーロッパの最先端技術と日本の現場とをつなぐ、不可欠な「生きた架け橋」であった 9 。彼の存在は、天草版印刷事業が、西洋からの一方的な技術の移植ではなく、日本人の主体性を尊重した「協業プロジェクト」としての側面を持っていたことを物語っている。
第一章:バテレン追放令下の潜伏と再起
ヴァリニャーノ一行が壮大な計画と共に日本へ帰国した1590年、日本の政治状況はキリスト教にとって極めて厳しいものとなっていた。天下統一を目前にした豊臣秀吉が、1587年に発令した「バテレン追放令」により、イエズス会の活動は深刻な打撃を受け、宣教師たちは潜伏を余儀なくされていたのである。この逆境の中、印刷事業はいかにして開始され、なぜその拠点が天草に選ばれたのか。その背景には、弾圧を乗り越えようとする宣教師たちの執念と、戦国大名の政治的思惑が複雑に絡み合っていた。
最初の拠点、加津佐コレジヨ
1590年に帰国したヴァリニャーノと天正遣欧少年使節一行は、まず肥前国加津佐(現在の長崎県南島原市)にあったイエズス会の高等教育機関(コレジヨ)に印刷機を設置した 2 。そして翌1591年、ここで日本におけるグーテンベルク式活版印刷の歴史が幕を開ける。日本初の国字(日本語文字)活字本とされる『どちりいな・きりしたん』などが刊行され、困難な状況下で事業は静かに始動したのである 2 。
天草への戦略的移転
しかし、加津佐は依然として秀吉の権力が及ぶ危険な場所であった。より安全かつ安定した活動拠点を求め、イエズス会はコレジヨと印刷所を、さらに九州の奥深く、天草諸島へ移転させることを決断する 11 。1591年のことであった。
この戦略的な移転を可能にしたのが、当時の天草の領主であったキリシタン大名・小西行長の存在である。行長は、1589年の「天正の天草合戦」を経て天草一帯を所領としており、彼の治世下にある天草は、イエズス会にとって一種の「聖域(サンクチュアリ)」となっていた 14 。天草コレジヨは、行長の家臣となっていた元天草領主・天草久種が提供した家屋などを基に設立された 13 。この施設は単なる神学校ではなく、修練院も併設され、宣教師、修道士、従僕などを含めると総勢120名以上が生活する、西日本におけるイエズス会の一大拠点であった 13 。
天草への移転は、単なる弾圧からの逃避ではなかった。それは「守り」と「攻め」を両立させるための、極めて計算された最適解であった。史料には「さらに奥まったところに潜伏するために」移転したと記されており、これは権力の中枢から物理的に距離を置くことで活動の自由を確保するという「守り」の側面を明確に示している 13 。しかし同時に、天草コレジヨはラテン語や神学のみならず、日本の古典文学までも教える最高学府であり、知識生産の心臓部たる印刷所を備えていた 13 。これは、将来の布教拡大に向けた人材育成と教材開発を断固として継続するという「攻め」の姿勢の表れに他ならない。すなわち、天草への移転は、来るべき再布教の時代に備えて、組織の知的・人的資源を涵養するための、極めて戦略的な「積極的潜伏」だったのである。
第二章:文禄元年(1592年)-激動の時代における印刷開始
1592年(文禄元年)、天草のコレジヨで本格的な印刷事業が開始されたこの年は、日本の歴史、ひいては東アジアの国際関係が大きく揺れ動いた年であった。日本全体が戦争の熱狂と混乱に包まれる中、天草の地で静かに、しかし着実に進められた知的営為の様子を、当時のリアルタイムな状況と共に再現する。
【リアルタイム解説:1592年の世界と日本】
この年、天下統一を成し遂げた豊臣秀吉は、その有り余るエネルギーを海外へ向け、朝鮮半島への大規模な出兵、すなわち「文禄の役」を開始した。日本の国家的な関心と資源が、対馬海峡の向こう側へと一斉に集中したのである。
この国家的な大事業において、天草コレジヨの庇護者である小西行長は、加藤清正らと共に第一軍の司令官という中心的な役割を担っていた。彼は自らの軍勢を率いて朝鮮半島へ渡海し、釜山、漢城(ソウル)、平壌と、破竹の勢いで進撃を続けていた 16 。これは、天草コレジヨにとって極めて特異な状況を生み出した。すなわち、自らを庇護する領主が、領国から遠く離れた異国の戦地に赴き、不在であるという状況である。
領主不在という逆説的な好機
領主・行長の不在は、一見すると、その庇護が手薄になるというリスクを伴うものであった。しかし、見方を変えれば、それは逆説的な好機とも言えた。行長の関心が朝鮮半島での軍功に集中している間、彼の領国である天草におけるコレジヨの活動は、良くも悪くも中央の政治的干渉や領主自身の直接的な監督から、ある程度の自由を享受できた可能性が高い。朝鮮在陣が長引くにつれて行長の領国統治は厳しさを増したと伝えられるが 16 、戦争初期のこの段階では、領内の人的・物的資源が戦争に動員される喧騒の裏で、コレジヨは比較的静かな環境を保ち、知的生産活動に没頭できたのではないかと推察される。
印刷所の槌音
まさしくその時、天草コレジヨの印刷所では、コンスタンチノ・ドラードを中心とする技術者たちが、鉛の活字を一文字ずつ拾い、文選箱に並べ、インクを練り、巨大な木製の印刷機(プレス)を操作していた。その槌音は、朝鮮半島で轟く鉄砲の音とは対照的に、新たな知識と文化を創造する音であった。
そして1592年、この天草の地で、キリシタン版の中でも特に記念碑的な一冊が刊行される。日本の古典文学である『平家物語』をローマ字で綴った、『天草版平家物語』である 17 。
なぜ、この戦乱の年に、宗教書ではなく日本の軍記物語が印刷されたのか。その理由は、この書物の序文に明記されている。「日本のことばと Historia(歴史)を習ひ知らんと欲する人のために世話に和らげたる(やさしい言葉にした)」と 17 。これは、この書物が外国人宣教師のための日本語・日本史の教科書として編纂されたことを明確に示している。しかし、数ある古典の中からなぜ『平家物語』が選ばれたのか。それは、1592年という時代状況と深く関わっている。この年は、日本が再び大規模な戦争に突入した年である。武士が社会を支配するこの国の構造、栄枯盛衰の無常観、そして下剋上の論理といった、戦国時代を貫く精神性を理解する上で、『平家物語』は最高のテキストであった。編者である日本人修道士・不干(ふかん)ハビアンは 18 、外国人宣教師が当時の日本社会を、その表層だけでなく精神性の深奥から理解するために、単なる語学書としてではなく、日本人の魂に通じる「文化の教科書」としてこの書を編纂したのである。それは、まさに今、リアルタイムで進行している戦争(文禄の役)の文化的・歴史的背景を読み解くための、時宜を得た出版であったと言えるだろう。
第三章:天草版の精華-刊行物の内容と目的
1591年から1597年までの約7年間、天草のコレジヨでは、多様な目的を持つ書物が次々と生み出された 14 。それらは、イエズス会の布教戦略に基づき、大きく二つの系統に分類することができる。一つは日本人信徒向けの教化書であり、もう一つは外国人宣教師向けの学習書である。これらの刊行物は、その内容と工夫において、当時の文化交流の最先端をいくものであり、後世に計り知れない価値を残すこととなった。
刊行物の二つの柱
信徒向け教化書
この系統の代表格が、キリスト教の教義を解説した『どちりな・きりしたん』である 24。本書は、師と弟子の問答形式をとり、洗礼の授け方や日々の祈り(オラショ)といった実践的な内容を、平易な言葉で説いている 25。特筆すべきは、ヴァリニャーノの適応主義方針を具体化する試みが見られる点である。例えば、聖書を「経」、祈ることを「回向」と表現するなど、既存の仏教用語を借用することで、日本の人々がキリスト教の概念を理解しやすくなるよう、細やかな配慮がなされていた 25。これは、異文化への深い洞察に基づいた、巧みな翻訳作業であった。
宣教師向け学習書
もう一方の柱は、来日した宣教師たちが、布教の前提となる日本語と日本文化を習得するための教材であった。前章で述べた『天草版平家物語』はその代表例であり、武家社会の価値観を学ぶための歴史教科書としての役割を担っていた 17。同様に、1593年に刊行された『伊曽保物語(イソップ物語)』も重要な教材であった 26。これはヨーロッパで広く読まれていた寓話集の日本語訳であり、平易な口語体の文章は日本語学習に最適であった。同時に、その内容はキリスト教的な道徳観に合致するように慎重に編集・改変されており、単なる語学テキストに留まらず、道徳教育の書としての意図も明確に持っていた 21。このほかにも、聖句や格言を集めた『金句集』や、後の編纂となるが『羅葡日辞書』など、言語学習と信仰生活に直結する実用的な書物が計画、刊行された 11。
これらの出版活動全体を俯瞰すると、それは単にヨーロッパの知識を日本に伝える一方通行の行為ではなかったことがわかる。『どちりな』ではキリスト教の教義を日本の文化的文脈へと巧みに「翻訳」し、『平家物語』では日本の歴史的精神をヨーロッパ人の思考の枠組みへと「翻訳」した。さらに『イソップ物語』では、ヨーロッパの寓話を日本の道徳観に合わせて「再翻訳」している。天草の印刷所は、二つの異なる文化世界が出会い、互いを理解しようと試みた、知的格闘の記録を生み出す場であった。それはまさしく、異文化理解を促進するための「文化の相互翻訳センター」として機能していたのである。
言語学的価値:失われた「声」の記録
天草版が後世に与えた最も大きな恩恵の一つは、その言語学的な価値にある。『平家物語』や『伊曽保物語』など、天草版の多くは、当時の日本語の音をポルトガル語式のローマ字綴りで表記している 26 。これは、漢字仮名交じり文の書き言葉では記録され得なかった、室町時代末期の「話し言葉」の発音、すなわち「生きた声」を、極めて高い精度で記録したタイムカプセルとなった。
例えば、現代では区別されない「は・ひ・ふ・へ・ほ」のハ行音が、当時は異なる発音(唇音のF音に近い音など)を持っていたことが、その綴りから明らかになっている。また、現代では使われなくなった語彙や古語の読み方も記録されており、「佞人」を「ねいじん」ではなく「おもねにん」と読むなど、当時の音声を知る上で他に代えがたい第一級の史料となっている 26 。天草版は、宣教師たちの実用的な目的のために作られたものであったが、期せずして、失われた中世日本の音声を現代に伝える、貴重な遺産となったのである。
刊行年(西暦) |
書名(原題・和名) |
書式 |
内容・目的 |
1592 |
『平家物語』(FEIQE NO MONOGATARI) |
ローマ字 |
宣教師向けの日本語・日本史学習書。武家社会の精神性を理解するための教材。 |
1592 |
『金句集』(QINCVXV) |
ローマ字 |
ラテン語の聖句や格言を日本語訳したもの。信仰生活と語学学習を兼ねる。 |
1593 |
『伊曽保物語』(ESOPONO FABVLAS) |
ローマ字 |
ヨーロッパの寓話集。平易な口語体の日本語学習教材であり、キリスト教的道徳観に基づく教訓書。 |
1593頃 |
『ばうちずもの授けやう』(推定) |
国字 |
洗礼(ばうちずも)の儀式についての手引書。日本人信徒および司祭のための実用書。 |
(刊行年不明) |
『どちりな・きりしたん』(DOCTRINA CHRISTIAN) |
ローマ字 |
キリスト教の教義問答集。宣教師が布教の際に使用するための手引書。 |
(刊行年不明) |
『羅典文典』(推定) |
ローマ字 |
ラテン語の文法書。日本人聖職者候補の教育用。 |
(刊行年不明) |
『羅葡日辞書』(Dictionarium Latino-Lusitanicum ac Iaponicum) (長崎で刊行) |
ローマ字 |
ラテン語・ポルトガル語・日本語の対訳辞書。宣教師および日本人学習者のための言語学習の集大成。 |
注:上記一覧は天草で刊行されたと推定される主要なものを含む。一部は加津佐や長崎での刊行も含まれる。
第四章:時代の奔流と事業の終焉
天草の地で花開いた画期的な印刷事業は、しかし、その開始からわずか数年で大きな転機を迎える。日本の政治情勢の激変という時代の奔流は、この静かな知的営為の拠点をも容赦なく飲み込んでいった。
終わりの始まり:サン=フェリペ号事件
1596年、土佐沖にスペインのガレオン船サン=フェリペ号が漂着した。この事件の処理を巡る混乱の中で、乗組員が「スペインは、まず宣教師を送り込んで信者を増やし、その後、内外から呼応させてその国を征服する」と発言したという風説が秀吉の耳に入った。これが、秀吉のキリスト教に対する不信感を決定的なものにする。この事件を直接の契機として、秀吉は再び厳しい禁教令を発し、京都にいたフランシスコ会の宣教師と信徒らを捕らえた。翌1597年、彼らは長崎で処刑される(日本二十六聖人の殉教)。キリスト教への弾圧は、これまでにない激しさを伴って再燃した 13 。
天草からの撤退と長崎への移転
この新たな迫害の波は、小西行長の庇護下にあった天草にも及んだ。もはや天草も安全な場所ではなくなったと判断したイエズス会は、1597年10月頃、天草コレジヨを取り壊し、印刷機をはじめとする全ての資産と共に、国際貿易港であり多くのキリシタンが暮らす長崎へと拠点を移すことを余儀なくされた 13 。こうして、1591年から続いた天草における7年間の活動は、突然の幕切れを迎えたのである。
徳川幕府による禁教令と完全な終焉
その後、印刷事業は長崎で細々と続けられたが、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が覇権を握ると、キリスト教を取り巻く環境はさらに悪化していく。そして1614年、江戸幕府は全国的な禁教令を発布。これにより、日本国内におけるキリスト教の組織的な活動は完全に非合法化され、キリシタン版の出版も完全に停止された 12 。
日本での活動継続が不可能となった印刷機は、海を渡りマカオのイエズス会施設へ移送された 6 。日本に初めてグーテンベルクの技術をもたらした日本人技術者コンスタンチノ・ドラードもまた、国外追放の身となり、マカオへ退去。その地で司祭となり、1620年に波乱の生涯を閉じた 4 。日本に残された貴重なキリシタン版の多くも、幕府の厳しい探索によって発見され、その多くが焼却処分に付されたと伝えられる 6 。
このキリシタン版の終焉は、単なる一事業の停止以上の意味を持っていた。16世紀末、日本は奇しくもヨーロッパ(グーテンベルク式)と朝鮮(銅活字)という、二つの異なる系統の活版印刷技術をほぼ同時期に手にした 29 。しかし、キリシタン版に代表される西欧式の金属活字印刷技術は、その出自から宗教と不可分であったがゆえに、政治的な理由によって意図的に「根絶」されてしまった 12 。その結果、日本はこの先進的な技術から約250年間もの長きにわたって隔絶されることになる 1 。江戸時代の出版文化は、主に木版印刷によって支えられ、独自の発展を遂げたが、もしキリシタン版の技術が何らかの形で継承・発展していたならば、日本の知識普及の速度、学問の形態、ひいては社会の近代化の様相は大きく変わっていた可能性がある。キリシタン版の断絶は、日本の技術史における「早すぎた技術革命」の挫折であり、その後の長い「空白の時代」の始まりを告げる出来事だったのである。
結論:戦国史に刻まれた一瞬の光芒
1592年に天草で開始された活版印刷事業は、戦国時代の政治的動乱と宗教的対立という極限状況の中で、信仰の情熱と知性への渇望によって成し遂げられた、文化史上の奇跡であった。それは、豊臣秀吉による天下統一事業と文禄の役という国家的な激動の裏側で、九州の辺境において静かに、しかし確かに灯された知性の光であった。
この事業は、イエズス会巡察師ヴァリニャーノの壮大な構想の下、単なる一方的な布教活動に留まらず、日本の文化や社会を深く理解し、対話しようとする真摯な姿勢を体現するものであった。宣教師が日本語と日本史を学ぶために『平家物語』を刊行し、日本人がキリスト教を理解するために仏教用語を援用して『どちりな・きりしたん』を編む。その営為は、日本と西洋の文化交流史において、不滅の価値を持つ金字塔と言える。
政治の嵐によって、その技術は日本に根付くことなく断絶し、約250年後の幕末期に本木昌造らが再びゼロから挑戦するまで、日本の歴史から姿を消した 8 。しかし、その成果物である「天草版」をはじめとするキリシタン版は、世界の図書館で奇跡的に生き残り、現代の我々に多くのことを語りかけている。それらは、中世日本の「生きた言葉」を伝える貴重なタイムカプセルであり、異なる文化が出会った瞬間の知的興奮を今に伝える証人でもある。
天草版印刷の開始は、戦国史の片隅で起きたささやかな出来事かもしれない。しかしそれは、激動の時代にあってなお、知と対話の力を信じた人々の存在を証明する、一瞬でありながらも極めて鮮烈な光芒として、日本の歴史に深く刻まれている。
引用文献
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